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2019年6月18日 (火)

井伊直弼は決して開国の功労者ではない

井伊直弼は國學とりわけ江戸中期の本居学を学んだ。井伊家は南朝への忠義に励んだ家柄であったとも言われ、直弼は「尊皇精神」の篤い人物であったとも言われている。直弼がペリー来航の翌年嘉永七年(安政元年)に伊勢皇大神宮に祈願した願文には攘夷の意志が込められている。

 

しかし、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌安政元年(一八五四年)の「日米和親条約」で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。

 

そし幕閣でも諸大名の間でも、開国派と攘夷派の対立抗争が惹起した。開国政策は特に譜代大名によって推進された。その譜代大名の筆頭が彦根藩主・井伊直弼だった。

 

攘夷を強く主張したのは、德川御三家の一つ徳川斉昭そして松平慶永【春嶽。越前藩主】、島津斉彬【薩摩藩主】らによって代表される家門大名、外様大名であった。かてて加えてこの対立は第十三代将軍徳川家定の継嗣問題と絡んで一層先鋭となり、家門・外様大名派(これを一橋派と言ふ)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜【よしのぶ。斉昭第七子】を擁立したのに対し、直弼ら譜代大名の派(これを南紀派と言ふ)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福【よしとみ。のち家茂(いえもち)】を推した。

 

 安政五年(1858)に井伊直弼が大老に就任して、将軍継嗣には慶福を決定し、さらに勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印した。そして尊皇攘夷運動に火がついた。これに対して直弼は徹底した弾圧策をとり、翌年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。

 

直弼のこの弾圧政策は、万延元年(一八六〇)三月三日の「桜田門外の変」といふ彼の横死を招いた。幕府の実質的独裁者であった大老が江戸城の真ん前で殺されたことは、德川幕府の権威失墜を招いた。

 

しかも南紀派だとか一橋派とか言っても所詮は幕府内部の内輪爭ひである。その結果、大老暗殺といふ前代未聞の不祥事を招いたのであるから、これ以上の権威失墜はない。

 

井伊直弼は「皇国の風儀」「國體」といふ言葉をよく使ってゐた。しかし彼の言ふ「皇国の風儀」「國體」とは、天皇朝廷を尊ぶ姿勢は保持してはいたが、幕藩体制の上に天皇朝廷を形だけ奉りながら、「政治的実権」は全く剥奪した体制をであった。

 

そして「禁中ならびに公家諸法度」に規制された朝廷の在り方を否定する者は、國體破壊・皇国の風儀を否定する者と断じてこれを弾圧したのである。井伊直弼主導下の幕閣は、「孝明天皇を遠島にし奉る」と朝廷を脅迫し奉ったとさえ言われているのである。それが「安政の大獄」の本質と言っていい。

 

井伊直弼は決して開国の功労者ではなく逆賊であると断じて何ら間違いではない。井伊の行ったことは、孝明天皇の勅命を無視した欧米列強との不平等条約の締結にすぎないのである。

 

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