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2019年6月30日 (日)

この頃詠みし歌

 

皇太后皇太弟といふ尊称では何故いけないのかと強く思ひゐる

 

上皇后陛下心臓を病みたまひぬ 八十余年の御苦難を偲びまつれり

 

いい年をして江戸城天守を再建せよと主張する人にあきれ果てたり

 

こんな人を説得するのも馬鹿馬鹿しい皇室の伝統を知らぬ人ゆゑ

 

何とまあ小さき物となりにけるかな昼定食の鰻の大きさ

 

偽憲法を立てて民主を言ふ事は國體否定そのものにあらずや

 

去り行きし友が幾人かありけるをさみしみをれば雷の音聞こゆ

 

藤田嗣治と中河与一に罪をかぶせてよしとせし戦争直後の画壇と文壇

 

藤田嗣治はパリに去り行き中河与一は日本に残り閉塞したり

 

独裁者が二人並び゛て閲兵する姿を見れば身の毛もよだつ(習近平・金正恩)

 

笑顔で並ぶ二人の男 幾人の人を投獄し殺したかわからぬ(同)

 

讀みたき書籍沢山あるに忙しなき日々の続けば詮方もなし

 

マンションの窓ごとに置かれゐるキムチの壷をめずらしみ見し

 

南山といふ山の上に行きしかば安重根の大きな像あり

 

反日国家韓国の首都に行きし時老人たちは親しげに我らを迎ふ

 

もう三十年の昔の事なりソウルへの旅懐かしく思ひ出しをり

 

パゴダ公園に憩へる老人がにこやかによく来てくれましたと話しかけて来し

 

古典の歌を讀めば心もやすらぎぬ嫌なこと多き今の世の中

 

国がらをただ守らんとと歌ひましゝ昭和聖帝の大御心畏し

 

今日もまた原稿を書きて日を過ごすこの事が人生の全てならんか

 

賑はへる浅草の街を歩みたり幾十年のえにしある人と(深谷隆司氏)

 

何時までも恨みを晴らさんとする國など相手にせずに日本は進み行け

 

ごく当たり前の感覚を我は歌に詠む他人に何と言はれやうとも

 

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千駄木庵日乗六月二十九日

朝は、諸事。

午前十一時より、青山霊園にて『無名烈士の墓』墓前法要。頭山興助呉竹会会長が挨拶。全員で拝礼・焼香。

午後一時より、新青山ビルにて、『呉竹会幹事評議員会』開催。

帰宅後は、明日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備。原稿執筆、脱稿、送付。

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2019年6月29日 (土)

明治維新と徳川氏

日光東照宮の陽明門をはじめ各所に、後水尾天皇の御宸筆とされる勅額が掲げられている。戊辰戦争の折、日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の一つとして、土佐藩の板垣退助がこの勅額が掲げられていることを挙げたという。

幕府は徳川家康を神格化するために、天皇及び朝廷の神聖権威を利用したのである。後水尾上皇は、度重なる徳川幕府とりわけ、徳川秀忠の圧迫と不敬行為に耐えられ、朝廷の権威を守られた。京都のある寺院で、後水尾上皇御宸筆の『忍』という色紙を拝したことがある。徳川幕府の横暴に対する御心を示されたと拝される。

幕末期、欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。やはり「尊皇攘夷の精神」でなればならなかった。

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、覇者たるのを喪失したのである。端的に言えば、徳川氏は「征夷大将軍」(夷狄を征伐する大将軍)の任に堪えられなくなったのである。

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきていた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したという。

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

越前は明治維新において、松平春嶽・由利公正・橋本左内等の功労者がいた。しかし、維新後、薩長土肥と比較して明治新政権で重きをなすことはなかった。越前ばかりでなく、水戸藩も、尾張藩も、明治維新に貢献したのだが、中枢からは外された。やはり徳川氏一門であったためであろう。

水戸藩は最も気の毒で、尊皇攘夷思想を鼓吹した水戸學は、維新断行の中心思想であったにもかかわらず、朝敵とされた最後の征夷大将軍・徳川慶喜が水戸出身であったこと、天狗党の乱など内紛が多かったことなどで、維新後、政府の主導権を握ることができなかった。

官軍が東北に進軍して行った際、薩摩軍が日光東照宮焼き討ちを主張したが、土佐の板垣退助が「東照宮には、後水尾天皇の勅額がある」と言って反対したと伝えられる。土佐藩祖・山内一豊が徳川家康から恩顧をこうむったことが影響しているのかも知れない。

江戸の町づくり、そして各藩の配置などを見ると、徳川家康・秀忠そして幕閣がいかに周到に計画したかが分かる。伊達が江戸に攻めてくることを防ぐために、仙台と江戸の間の水戸・会津・白河に御三家の一つと親藩大名を配置した。また加賀前田藩の動きを封じるために、越前に家康の長男・結城秀康を置き、彦根に井伊家を置いた。江戸においても前田藩邸のすぐ隣に、徳川四天王・徳川三傑の一人・榊原家の藩邸を置いた。また江戸城の周囲は御三家か親藩の大名屋敷で囲んだ。

福井松平藩のことで思い出すのは、もう三十年くらい前のことであるが、靖国神社のことで半蔵門の東条会館から日比谷公園までデモを行った時、私の隣を品の良い長身の老紳士が歩いていた。名刺交換をさせていただいたのだが、何と当時靖国神社宮司をされていた松平永芳先生(松平春嶽公の孫)であった。

江戸時代に、私のような庶民が、徳川親藩大名しかも御家門筆頭の殿さまと並んで江戸城の横を歩くなどということは絶対にあり得ないことだろうと感慨にふけった思い出がある。

福井は、戦災に遭ったうえに、戦争直後震災にも見舞われた。しかしそのためかどうかは分からないが、いわゆる飛島・鹿島・熊谷組という大手ゼネコンの発祥の地は福井県である。今日、北陸地方や山陰地方は、『裏日本』などと言われているが、支那や朝鮮との交流が盛んであった萬葉時代は今日で言うところの『表日本』だったというとになる。福井県は、現在でも、児童生徒の平均学力が全国第一位か二位であるという。

徳川家康のことを「東照大権現」と言う。東から日本の國を照らす神という意味であろう。皇室の祖先神・天照大御神を意識した神名である。臣下にこのような神号を付けるのは明らかに不敬である。

「権現」とは、仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れることで、神道の本地垂迹説においては、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れた神のことという。東照大権現即ち徳川家康の本地(本来の姿)は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師瑠璃光如来であるとした。徳川家の菩提寺・上野寛永寺の本尊は薬師瑠璃光如来である。

しかも「東照大権現」という神号は、後水尾天皇の勅許によってつけられた。つまり徳川幕府は、前述したように、天皇の権威によって徳川家康の神格化を行ったのである。しかもその神格化は、明らかに、天皇の権威に対抗するものであった。日光東照宮は、伊勢皇大神宮に対抗するものである。そして大名に東照宮を建立することを半ば強制し全国の五百社を超える東照宮が作られた。

しかし、幕末の国家的危機において、日本国民は、皇祖天照大神に国難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、国難を打開し、明治維新を断行した。東照大権現の権威はその時、日本国民の大きな精神的支柱とはなり得なかった。そもそも征夷大将軍たる徳川氏は、その職責である夷狄を征伐する力を喪失したのである。

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千駄木庵日乗六月二十八日

午前は、諸事。

午後一時半より、内幸町の日本プレスセンターにて、『新聞通信調査会定例講演会』開催。時事通信社内政部長・丸山実子さんが「人口減少時代の地方分権」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆など。

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2019年6月28日 (金)

日本天皇の改元と支那皇帝の改元との決定的相違は、「天命思想」との関はりにある

日本天皇の改元と支那皇帝の改元との決定的相違は、「天命思想」との関はりにある。瀧川政次郎氏は、その著『元號考證』において、「東洋諸國における元号のおこりは中國であって、元号の始まりは、周末の春秋戦國の時代に顕現し、元号に吉祥の文字を加えた年号は、前漢の時代から現れるに至ったが、その元号を生んだものは、漢民族に固有なる天命思想である。天命思想というのは、地上の帝王なるものは、至高唯一の神格を持つ天(彼の蒼々たる天に非ずして、北極の紫微星を宮居とすると信ぜられている昊天上帝、略して天帝)より蒸民(一般の人民)を化育せよとの委任命令を受けて、宇内(天下とも四海ともいう限られざる地域)に君臨するものであるという思想であって、古代社會に共通なる帝王神権説の一種である。…天命を受けた中國の帝王は、地上すなわち空間を支配すると同時に、時間(暦日と昼夜の時刻)をも支配するものであるとすることである」と論じてゐる。

支那の帝王は「天の命令」によって地上を支配するといふ思想と、上御一人日本天皇が「天照大神の御神勅」によって地上を統治あそばされるといふ思想は似て非なるものがある。そもそも支那の上帝と天照大神をはじめとする日本の天つ神とは異なる。同じやうに「天命思想」と名付けられてゐても、わが國のそれと支那のそれとは全く異なる。

山崎闇斎(江戸初期の朱子學者、神道家。朱子學の日本化に努め、門弟は数千人を数へた。また、神道を修め、垂加神道を創始し、後世の尊皇運動に大きな影響を与へた)門下の玉木清英(あるいは正英)は神話時代以来の天皇信仰に基づいて『藻盬草』といふ文章で次のやうに論じた。「異國(注・支那の事)には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり」。

村岡典嗣氏はこの文章について「(絶對尊皇道徳思想の)最も代表的なものを、山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子でなくて天そのものに當る。儒教の天がわが皇室である。儒教でいへば、大君の上に天命がある。勅令の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば假に君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉り、また怨み奉るべきでないことは、恰かも天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を恨むべきではないとされると同様である」と解釈し、「これまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対對尊皇思想である」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

祭祀は「神人合一」の行事であり、祭りを行ふ者は「私」を無くして神にまつろひたてまつる行事である。その最高の祭祀主が、天皇であらせられる。即ち、祭祀主日本天皇はわが國において最高の無私のご存在であり、清らけく明らけきご存在である。

天皇が無私・無我となって神を祭られる祭祀主であらせられるといふことは即ち、天皇が地上における神の御代理即ち現御神であらせられるといふことである。そしてそのことは天皇が日本の伝統精神の体現者であられせられるといふことである。だから、天皇の御意思を「大御心」と申し上げる。

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればその君主を廃する」といふ思想である。

これに対して、日本の絶対尊皇思想は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。

「あかき心」とは「無私の心」である。「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

和辻哲郎氏は「彼(注・山崎闇斎)によれば、國常立尊は大極で天之御中主神と同体異名であり、また外宮の神である。『國常立と云(まう) す時、帝王の始祖神也、帝王より出たる系図の人は、神拝に其心得あるべし。天御中主と云す時は、万姓の元祖神也、其心を持て万人拝すべし』(『神道族秘伝問答』)…無形の形たる宇宙の原理を『一神』即ち國常立尊とする根本の立場…」「(吉川惟足は『神道大意』で・註)『儒佛或はバテレンが道と雖、本此一元より起れり。其ほどこす所は各土地の風に依て教へり、理に於て異なる事なし。…理に天竺、漢土、日本の差なし、然ども事は大に隔別なり。』宋の形而上學を神道の基礎づけに用いている点においては、羅山と同じ立場に立つといってよい。闇斎の説は神道を儒教から理解するのではなく、神道自身から理解しようとする立場の先駆をなす…その先駆的な意義は、形なき普遍的な原理と、神話的特殊形態との、直接的統一を把捉したところにある…。」「闇斎は神代巻の巻頭に解釈を加えて、『此処に所謂神聖は、天人を合せて云へり、是大元の尊信神にして、則ち帝王の御大祖、御人体御血脈の本源と拝み奉る御事也。』『この神(國常立尊)は正しく造化の神にて在ますと、直に御人体の御神と拝み奉る御事に侍る。葦芽の最初より國土成定て後、いつまでの限り知られず、常磐固磐に國も君も常しなへに立せ給へる御事なれば…』…彼は、神代紀が『吾邦帝王の御實録』であり、『我大君の御血脈の本源』より始めて『天壌無窮の皇統』を明らかにしたものであることを、力説した。…この見解は皇統そのものの内に造化神の血脈を見るのであって、天皇の現神性を天人唯一の説によって基礎づけたことになる。天皇の意義もまたシナの天子とは異ならざるを得ない」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

竹内式部は、「代々の帝(みかど)より今の大君に至るまで、人間の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神様と拜し奉つり、御位(みくらゐ)に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふことにて、天津日繼(あまつひつぎ)といひ、又宮つかへし給ふ人を雲のうへ人といひ、都を天(あめ)といひて、四方の國、東國よりも西國よりも京へは登るといへり。譬へば今床の下に物の生ぜざるにて見れば、天日(あまつひ)の光り及ばぬ處には、一向草木さへ生ぜぬ。然(さ)れば凡そ萬物(よろづのもの)、天日の御蔭を蒙らざるものなければ、其御子孫の大君は君なり、父なり、天なり、地なれば、此の國に生(いき)とし生けるもの、人間は勿論、鳥獸草木に至るまで、皆此君をうやまひ尊び、各(おのおの)品物(ひんぶつ)の才能を盡して御用に立て、二心(ふたごころ)なく奉公し奉ることなり。故に此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則(すなはち)之を誅して君に歸すること、吾國の大義なり。況や官祿いたゞく人々は、世に云ふ三代相傳(注・所謂封建的主従関係。例へば将軍と旗本、大名と藩士の間柄を指す)の主人などといふ類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至まで大恩を蒙むる人なれば、其身は勿論、紙一枚絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。わけて御側(おそば)近く奉公し給ふ人々は、天照大神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預かり給ふ御身なれば、いよいよ敬まひかしつき奉る心しばらくも忘れ給ふべからず」「吾君(わがきみ)は眞に神といふこと返す返すも忘れ給ふべからず、然るを淺(あさ)はかに心得、君を怨みねたむ人は、其身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推(お)しては天下の亂にも及ぶ事、古今其例多し。愼むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起らば、天照大神の御名(みな)を唱ふべしとあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則(すなはち)其(その)御子孫の大君たとひ如何なるくせ事仰せ出さるるも、始めより一命さへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」「皇后に奉公し給ふも同じ事なり、皇后は大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし」と論じてゐる。

この竹内式部の尊皇思想について葦津珍彦氏は、「ここでは人間は無論のこと、鳥獣草木にいたるまでのものが、勤王でなくてはならず、天皇は宗教的神そのものであると断ぜられている。それはまったく人間関係を超絶せるものであって、三代相伝の主人(封建武士階級の君主)と臣下との人間対人間の忠誠関係などというものとは、まったく類を異にする、異質のものだというのである。…忠の対象たるべき天皇は、天そのものと同一視され、人間ではなくして、天そのものとなり、逆に人間関係としての封建的忠誠は、その類にあらず、として蔑視されてしまうことになる」(『萬世一系と革命説』・「天皇―日本のいのち」所収論文)と論じでゐる。

天皇と民との関係は、決して人間と人間との関係ではなく、天皇は現御神であり、この世に於ける神であらせられる。故に絶対的にまつろひ奉るのが民の道なのである。

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千駄木庵日乗六月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆、土曜と日曜に行う講演の準備など。

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2019年6月27日 (木)

日本伝統信仰の「神」とは


天之御中主神は〈一即多・多即一〉の神であり最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。

 〈神と人との合一〉〈罪の意識の浄化〉を最高形態としてゐる信仰は、日本傳統信仰・神ながらの道である。全人類を戰爭の慘禍から救ふ道は、日本傳統信仰への回歸である。日本傳統信仰を世界に恢弘することが私たち日本民族の使命である。四季の変化が規則正しく温和な日本の自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。神は到る処に充ち満ちてゐます。自然は神の命の顕現である。

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記傳』には次のやうに書かれてゐる。「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義してゐる。「可畏し」といふ言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であらうが、それらを総合したやうな感情において神を考へるといふことであらう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。そこが一神教の神観念とは大きく異なる。

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」といふ一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限相であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。さうした神々の根源神として「造化の三神」がましますのである。日本の神は「多即一・一即多」のお姿をあらはされる。

 『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)になりまして、身を隠したまひき」と示され、「天地の生成の本源神」たる天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されてゐる。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

「造化の三神」が「天地初發の時、高天原になりませる神」(天地宇宙の生成と共になりませる神)と仰がれてゐるのは、「造化の三神」が天地宇宙開闢以来天地宇宙と共に存在する神、天地宇宙の中心にまします根源神であるといふことである。ユダヤ神話の神のやうな被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在・被造物と対立する存在たる「天地創造神」ではないのである。

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独神(ひとりがみ)すなはぢ唯一神゛であり、宇宙の根源神である。この「造化の三神」は、宇宙根源神・絶対神の「中心歸一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現してをり一体の御存在である。

 また、「宇摩志阿斯与訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」「天常立神(あめのとこたちのかみ)」の二柱の神も「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。「國之常立神(くにのとこたちのかみ)」「豊雲野神(とよくもぬのかみ)」も「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

計七柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのである。だから、「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐるのである。七柱の「独神」がをられるのは、唯一神の多くの働き・性格を「神名」によって表現していると解釈できる。「多即一・一即多」である。

 影山正治氏は、「古代の日本人は萬ものを神に於て理解しようとした…神は無數であって八百萬の神である。しかし萬神一に歸すれば天之御中主神であって、決して云ふ所の低い庶物崇拝ではない…萬物を『いのち』に於て把握し『神』に於て理解する日本人の宇宙觀はまことに比類なきものと云はねばならない。日本に哲學なしなどゝ考へるのはとんでもない間違ひで、人類今後の思考の哲學はまさにこの日本神話の根源から發するものである」(『古事記要講』)と論じてをられる。

日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。これは、天之御中主神が、天地宇宙の根源神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられるからである。

天之御中主神は、天地生成の根源神であられるが、「唯一絶対神」として他の神々をと対立しその存在を許さない神ではない。八百万の神と申し上げる天地の神々を包容される神である。

天之御中主神は、〈一即多・多即一〉の神であり、最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。ゆへに、八百萬の神々を通して天之御中主神を祭祀したのである。天之御中主神は個別神として対象とはならなかったのである。

『古事記』冒頭の五柱の「別天神」および國之常立神・豊雲野神は、形体を隠した隠身の神と仰がれた。身を隠したまふとは、隠身(かくりみ)になられることである。「かみ」とは「かくりみ」から「くり」を除いた存在であり、「神」とは「隠身(かくりみ)」のことであるといふ説もある。

日本伝統信仰即ち日本神道は多神教であり、何でも神・精霊として拝む信仰であるとして、シャーマニズムであり未開であるとする説がある。しかしこれは一面的な見方である。

田中忠雄氏は次のごとくに論じてゐる。「日本の神々は、彼らのいう多神教の範疇に属しない。なぜなら、神々は唯一の正統を継ぎ伝え、またこの一つの正統を中心として一に帰するものだからである。この意味において、神々は一に帰し、この一は同時に八百万の神々となるからである。日本民族が古来、このような意味で神皇の正当に仕えまつって来たことを思うべきである」(『生命の論理と天皇』)と。

「日本神話」は、神々の世界が地上に連続するものであること=「神統譜」を語ってゐる。そして、日本の神々の根源神が造化の三神であり、最高尊貴の神が天照大神であり、その生みの御子が邇邇藝命であり、そのご子孫として地上に顕はれられた神が現御神日本天皇であらせられることを語ってゐる。つまり「神統譜」と「皇統譜」を一続きとして語ってゐる。まさに天皇を中心とする日本國體の淵源と系統を記したものが「日本神話」である。

 上山春平氏は「『古事記』の神統譜が、「一方にタカミムスビーイザナギーアマテラスーニニギという高天の原の系譜、他方に、カミムスビーイザナミースサノヲーオホクニヌシという根の國の系譜を設定し、この二つの系譜が、アメノミナカヌシを共通の始点とし、イハレヒコ(神武天皇)を共通の終点とする、という形でとらえられ…」(『神々の體系』)てゐると論じてゐる。

 『記紀』『風土記』に登場する日本の神々の多くは、日本各地の地域共同體で信仰されて来た神々であるが、「日本神話」全體として統一され系統化された。その始原・根源の神が「造化の三神」である。

 「日本神話」は神統神話・皇統神話であり、一貫した神統・靈統・皇統の継承が明確に示されてゐる。「万世一系の天皇」は「天地生成の神からの靈統・神統・皇統を継承する天皇」であらせられる。

 日本民族は、天之御中主神を天地宇宙の根源神・天地生成神と仰ぎ、天照大神を日本の神々の中で最高至貴の神と仰ぎ、天皇を現御神(地上に生きたまふ神)として仰いだのである。

 谷口雅春氏はこれを「心に幽齋する主神としては宇宙大生命(その幽の幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大神、現人神として天皇)を禮拜す」(『宗團法による宗教結社届』)と説かれてゐる。

そこが一神教の神観念とは大きく異なる。それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。さうした神々の根源神として、天之御中主神、高御產巢日神、神產巢日神即ち「造化の三神」がましますのである。日本の神は「多即一・一即多」のお姿をあらはされる。

以上色々論じて来たが、日本の神々そして日本伝統信仰は、色々と小難しい論理・理屈・知識によって定義されたり論議されるべきものではない。素直に有難く、神々を拝し、祈り、祀ればいいのである。日本人は、天地自然の美しさ・有難さと共に、その恐ろしさ・怖さを、そのまま素直に喜び、恐れ、拝跪し、神と信じたのである。死者の霊即ち祖霊に対しても同じである。

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千駄木庵日乗六月二十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、土曜・日曜に行う講演の準備など。

夕刻、谷中にて、地元の友人ご夫妻と懇談。帰宅後も仕事。

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2019年6月26日 (水)

お知らせ

萬葉古代史研究會
小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 
日時 七月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より
會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分
會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

第九十六回「日本の心を学ぶ会」
テーマ 神道と美しい日本の自然を考える
神道とは我が国の悠久の歴史の中で自然生成的に成立してきた日本固有の伝統信仰を言います。我々の祖先は日本の気候風土の中で自然の中に人知を超えた存在を感じ祭祀を行うことでそれらの存在と交流をしてきました。
現在も全国の神社や地域で行われているお祭りの多くもこうした祭祀に起源をもち長い歴史の中で伝承されてきたものです。各時代の政治体制の中で神社や神道の位置づけもさまざまに変わりましたが神道が日本の社会や人々の精神的支柱であったことは変わりません。
しかし日本を占領したGHQは大東亜戦争で奮戦した日本軍将兵の戦闘力の源泉が神道という信仰にあると分析し、神道指令という命令を発して国家と神道の関係の断絶を求めました。
これは国際法違反であるだけでなく、日本の歴史的実情を無視した暴挙であります。
そして現在も神道指令の影響は残っており、首相の靖国神社参拝はかなわず、神道が軍国主義の温床であるいう主張も繰り返されております。
そこで今回の勉強会では日本の気候風土が作り出した神道という信仰について考えてみたいと思います。
【日 時】令和元年六月三〇日 午後六時から
【場 所】文京区民センター 2-B会議室
文京区本郷4-15-14  03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩一五分/都バス(都〇二・都〇二乙・上六九・上六〇)春日駅徒歩二分
【演 題】自然の恵み・自然災害と日本の神々
【講 師】 四宮正貴四宮政治文化研究所代表
【司会者】林大悟
【参加費】資料代五〇〇円終了後、近隣で懇親会(二千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 〇九〇-八七七〇-七三九五

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 『大久保利通斬奸状』について

 『大久保利通斬奸状』には、「石川県氏族島田一良等叩頭昧死(こうとうまいし・頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して注)、仰ぎて天皇陛下に奏し、伏して三千余万の人衆に普告す。」という文句で始まり、「一良等方今皇國の時状を熟察するに、凡て政令・法度、上天皇陛下の聖旨に出づるに非ず、下衆庶人民の公義によるに非ず、独り要路官吏数人の憶断専決する所に在り、……」とある。

 これは『民撰議院設立建白書』の冒頭と同意義の文章であるが、要するに、上は天皇陛下の大御心、下は國民の意志を無視して、一部権力者の専断によって政治が行われている状況を批判しているのである。これは、大久保等によるいわゆる有司専制政治が明治維新の理念を宣明せられた『五箇条の御誓文』の「広く会議を興し万機公論に決すべし」との大御心に反する政治であるという主張である。

いわゆる『朝鮮遣使問題』に関わる明治六年の政変がその具体的事例であった。つまり適法且つ正当な手続きを経て行われた閣議決定が大久保・岩倉等によって一方的に覆され、しかもそれが既成事実となって罷り通ったことへの批判である。

「独り要路官吏数人の憶断専決」とは、大久保利通を中心とした当時の権力中枢にいる者の政治を指しているのであるが、西郷隆盛・木戸孝允亡き後は、大久保利通がず抜けた力を持った。日本人は、権力が一個人の集中してそれが絶対化することを好まない傾向がある。

 『斬奸状』にはさらに、次のように記されている。 
 まず大久保利通等政府権力者の罪については、「曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する、其の罪第一なり。曰く、法令漫施(一貫した方針がなく法律を定めること注)、請托公行(公務員が内々で特別の配慮をすることが公然と行われること注)恣に威福を張る(威力で押さえ付け人を思いのままに従わせること注)其の罪第二なり。不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する、其の罪三なり。曰く、慷慨忠節の士を疏斥(疎んじ退けること注)し、憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する、其の罪四なり。曰く、外國交際の道を誤り、國権を失墜する、其の罪五なり。」と五つの罪状を挙げている。

 「公議を杜絶し」とは多くの人々が参加する議論の場を閉ざしているということである。西郷隆盛等が下野した直後の明治六年十月には、「新聞紙条目」(讒謗律)を制定して、政府批判の言論を封殺せんとし、十一月には内務省を設置して「内政安定」を図ると共に警察権力を強化して反政府の動きを圧迫しようとした。また、板垣退助・江藤新平等が連名で提出した『民撰議院設立建白書』を、時期尚早であるとして否定した。大久保・岩倉は西洋を視察して、「言論の自由」の意義や「議会制度」の機能をよく知っていた。知っていたが故に、当時の日本においてこれを取り入れることは時期尚早であると断じ、先手を取って新聞発行などの言論の自由要求の動きを、権力と法律による規制を以て対したのである。

 「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」とは、政府権力者の権力を利用した腐敗堕落・犯罪のもみ消しなどを指している。井上馨や山県有朋の汚職疑惑そして黒田清隆による夫人殺害事件であろう。「不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する」というのはあるいは一方的な議論かもしれないが、近代化を急ぐ政府の様々な建設事業に対する反発が強かったのであろう。「憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する」とは、「佐賀の乱」(明治七年)「萩の乱」(明治九年)「西南戦争」(明治十年)などの第二維新の決起が政府当局の挑発によって起こったことを指していると思われる。「外國交際の道を誤り、國権を失墜する」とは、政府の対支那・対韓國外交姿勢を指していることは言うまでもない。

 さらに、「勅命を矯(た)め(形を変えること・転じて自分たちの都合の良いように勅命を利用する意か注)、國憲を私し、王師(天皇の軍注)を弄し(もてあそび注)、志士・憂國者を目するに反賊を以てし、甚だしきに至りては隠謀・蜜策を以て、忠良節義の士を害せんと欲す。」と書かれてある。これは大久保等の政治に対する痛烈なる批判である。

つまり、「勅命を矯め國憲を私し」とは、明治六年の政変における大久保岩倉等の隠謀を指していると思われる。「王師を弄し」とは大久保岩倉等が政権維持のために天皇の軍を利用したことを指す。
 
続いて、「内は以て天下を玩物視し、人民を奴隷視し、外は外國に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て皇統の推移、國家の衰頽、生民の塗炭を致すや、照々乎として掌を指すか如し。」「前途政治を改正し、國家の興起することは、即ち 天皇陛下の明と、闔國(こうこく・國全体の意注)人衆の公議とに在り。願はくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を起し、公議を取り、以て皇統の隆盛、國家の永久、人民の安寧を致すべし。一良等区々(とるにたらないという意。謙遜して言っている。注)の微衷以て貫徹するを得ば、死して而して瞑す。」と書かれている。 これは結論の部分の文章である。八年四月の詔旨とは、明治八年四月十四日渙発の『元老院・大審院を設置し、地方官招集の詔』のことである。この詔には「…朕今誓文の意を拡充し、元老院を設け、立法の源を広め、大審院を置き、以て審判の権を鞏(かた)くし、また地方官を召集し、以て民情に通じ、公益を図り、漸時に國家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に、其慶に頼らんと欲す。」と示されている。

島田は、特にこの詔書の「國家立憲の政体を立て」との聖旨を重く受けた止めた。島田らは、明治天皇の『五箇条の御誓文』の聖旨に基づき、『國会』を開設し民意を集めて政治を行うべきである、と論じているのである。つまり立憲君主体制の確立が彼らの最大の主張である。つまり、島田一郎の大久保利通暗殺は、後の自由民権運動の端緒となったのである。

島田らはこの『斬奸状』を各新聞社に送り、國民一般に彼らの意図を知らせようとした。大久保斬殺は、言論が封殺された状況下における止むに止まれぬ行動であったし、島田らは自分たちの命と引換に権力者を撃ち、世論を喚起し、第二維新実現を目指したのである。

 大久保の死によって、政府における薩摩の力は減退し、長州(即ち伊藤博文・山県有朋・井上馨等)が力を持つようになった。それ以上に、この事件がきっかけとなって自由民権運動・第二維新運動が益々活発化した。そして、明治二十二年の大日本帝國憲法発布、二十三年の國会開設へと時代は進むのである。
 
紀尾井町事件の精神はまた、その後の維新運動・愛國運動へと継承されたことは、明治十四年に頭山満等によって設立された『玄洋社』の「憲則」第三条に「人民の権利を固守すべし」とあることによって明らかである。 

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千駄木庵日乗六月二十五日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料整理、室内整理、今週末に行う講演の準備など。

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2019年6月25日 (火)

この頃詠みし歌

暗き空より降り来る雨に濡れ行けどわが雄心は強く保たむ

今朝見たる夢で怒声をはりあげし吾を憐れめ天地の神

死者たちの合唱の声の如きなり墓地に吹く風に鳴る木々の音

川渡り着きたる岸の草むらに小さき石佛ゐますうれしさ
 
憤怒の念激しかりせば端座して實相を思ふ朝(あした)なりけり

今日もまた命の限り生きにけり 大いなる御手に抱かれしまま

大江戸に攻め上り来し人の像其処此処にある東京の町
(上野に西郷像、九段坂に品川像、大山像、靖国神社に大村像、警察学校に川路像あるを思ひて詠める)

日の本の誇りとすべしマッカーサーの銅像がこの国に建たざりしこと

蒋介石像毛沢東像並びゐし台北・北京の町思ひ出す

埃まみれの毛沢東像を見上げたり文革終りし長江大橋で

次々と消えて行きたる『蒋公像』台湾独立の足音と共に

夜の空に雲流れゐて 降り来たる雨にうるほふわが心かな

なべて人はやがてこの世を去り行くにあくせく生くるは何のためぞも

虹といふ美しきものをしばらくは見ることもなし混濁の世に

ベランダに出づれば初夏の風が吹き命燃え立つ時は来にけり

後鳥羽帝の大御心をしのばむと参り来たれる城南の宮

歩み行く参道の森は美しく心清まる桃山御陵

大御歌思ひつゝ仰ぐ広き空 桃山御陵に参り来たりて

たまきはる命よみがへる思ひなり みささぎの上の大空を仰ぎ

耀ける日輪の下のみささぎに明治大帝ねむりまします

いにしへの大き帝(みかど)のみささぎの彼方に見ゆる伏見城かな(桓武天皇御陵)

みささぎへの道は静かに人も無し ただすめろぎの御稜威(みいつ)満ち満つ

冬の空青く広がる下に立つ城の姿は美しくもあるか

街中の大きみ寺に入り行けば聳え立ちゐる美しき塔

大いなるみ手に抱かれし心にてみ仏たちの前にたちをり

いにしへを恋ひ慕ひつゝ行く旅で神と仏に逢ふがうれしき

静かなる明石海峡を眺めつゝ萬葉人の歌口ずさむ

瀬戸内の海にそひつゝ行く列車友待つ町へ急ぎ走れり

君のため忠義尽せしもののふの像立ち並ぶ大石神社

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千駄木庵日乗六月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理など。

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2019年6月23日 (日)

沼山光洋氏の篤い思いが表白されている貴重なる文章

5月11日未明に九段の靖国神社近くの路上で割腹自決を遂げられた沼山光洋氏の原稿を掲載させていただきます。この原稿は小生が編集責任者にさせて頂いている季刊誌『伝統と革新』第二十九号(平成三十年五月発行)に掲載させていただきました。沼山氏の篤い思いが表白されている貴重なる原稿ですので、多くの人々に読んでいただきたいと思い、敢えてご紹介させていただきます。

           〇

天皇陛下靖國神社御親拝祈願

靖國會 靖國忠霊祭事務局長 沼山光洋 

 平成二十八年八月八日異例の天皇陛下の玉音を賜った。その冒頭に「現憲法下での象徴としての立場」とういう御言葉を拝し、即位以来日本国内のみならず海外への行幸啓、慰霊への並々ならぬ御意思を拝見していた小生は、これは天皇陛下が国民に対し、「象徴」「現憲法」に対しての疑問、畏れ多いことだが、残り時間内にどうしたら靖國神社へ行幸することが出来るのか、ということを投げかけられたように感じた。

 行動は言葉より雄弁である。平成十七年サイパンへの行幸啓、平成二十七年パラオ共和国への行幸啓は日本人を感動で包んだ。正に祈りによって民族を導く天皇陛下の御姿そのものである。そしてそれは万世一系のまごころ大御心を天皇陛下という存在が民族に示す行動実践である。

 先帝陛下昭和天皇の靖國神社御親拝は、所謂戦前、戦後あわせて二十八回の御親拝を賜っている。昭和二十二年の現憲法施行後も七回の御親拝を賜る。それが何故昭和五十年十一月二十一日を最後に途絶えてしまっているのか。

 天皇陛下の御存在は権力者ではない、天皇陛下は憲法と法律に縛られ、御自身の御意思を貫くことは非常に難しい。宮内庁をはじめ関係省庁に管理されてしまっている。それでも、昭和五十年までは正しく天皇陛下の御心を忖度できる正しい日本人の側近が多くいた。

 昭和二十七年日本が主権を回復し経済復興を最優先した時代、占領中公職追放によって復権した社会主義者たちが蠢き、国民の生活安定を優先する保守系政治の隙を突き反国家主義者、所謂「天皇制反対」主義者を育てた。反国家主義者の最終目的は「天皇制打倒」であり国家壊滅に他ならない。

 昭和四十年代には「靖國神社国家護持法案」を巡り国会では熾烈な攻防が繰り広げられ、「靖國神社国家護持法案」自体に重大な瑕疵があることなどから保守系からも反対意見が多数出たことから最終的に廃案に追い込まれた。同時期に経済成長を続ける日本とは裏腹に、世界ではベトナム戦争、支那文化大革命という有事も決して無関係ではない。

 昭和五十年代には、昭和五十年五月三日稲葉修法務大臣「自主憲法制定国民会議」出席での「私人」問題、八月十五日三木武夫首相の「私人」発言が公人の「公私」論議に発展し、畏れ多くも天皇陛下の「公私」に至った。それが昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会である。

 この十一月二十日とは、戦後三十年の節目に靖國神社御親拝を賜る十一月二十一日の前日である。この御親拝前日という宮内庁をはじめ警備当局関係機関全てが慌しい前日に宮内庁から参考人として出席したのが当時宮内庁次長の富田朝彦氏その人である。富田メモの富田朝彦氏である。富田朝彦氏とはいかなる人物であったか、大正九年生まれ東京帝国大学法学部、海軍主計大尉、戦後内務省、警察庁警備局長を経て昭和四十九年に宮内庁次長に就任した。人となりは分からずとも、経歴だけ見てもエリート中のエリートであることが分かる。そしてその宮内庁次長就任一年足らずの富田朝彦氏を内閣委員会で吊るし上げたのが

野田  哲 社会党参議院議員 岡山県出身福山市役所自治労
秦   豊 社会党参議院議員 愛媛県出身NHKニュースキャスター
矢田部 理 社会党参議院議員 茨城県出身弁護士
の三人である。この社会党の三人が入れ替わり立ち代り優秀なエリートの富田朝彦氏を半ば屁理屈のような言葉で攻め立てた。はっきりと「天皇皇室」を否定し批判する輩の言葉は活字では伝わらない侮辱と挑発に満ちていたはずである。

その悪意に満ちた言葉の攻撃で、翌日に控えた天皇陛下の御親拝を憲法第七条国事行為の確認を持ち出し、お馴染みの憲法第二十条政教分離で御親拝の中止を要求したのである。

 このことが宮内庁、富田朝彦氏のトラウマとなり昭和五十三年に宮内庁長官に昇進し昭和六十三年六月の退任から現在まで、宮内庁の暗黙の了解か明らかな申し送りかは分からないが、間違いなく踏襲され現在に至っている。

富田メモが書かれたとされる昭和六十三年四月二十八日、富田朝彦氏が退任を間近に、天長節を翌日に控え前年から御不例の先帝陛下から労いの御言葉があったと推察される。富田朝彦氏本人はこのメモを公開するつもりなど毛頭無かったはずである。飽くまでも推理であるが、天皇陛下から労いの御言葉を頂戴し、戦後四十年の節目に天皇陛下の御心を知りながら御親拝を実現させなかった罪悪感や贖罪意識が、自己の正当性を裏付けるための葛藤となり所謂「戦犯」合祀を自己弁護のために「天皇陛下が戦犯合祀を不快」という意味合いのメモを書かせたのではないかと思う。もしかしたら富田朝彦氏本人のメモ自体が存在しないものかも知れない。

昭和殉難者の合祀は昭和五十三年秋、その年の春、筑波藤麿宮司の逝去に伴い七月に宮司に就任した松平永芳宮司の英断によって秋季例大祭に合祀申し上げられた。まるで松平永芳宮司が独断で合祀申し上げたようにいわれているが、昭和殉難者の祭神名票は昭和四十一年に厚生省引揚援護局より靖國神社へ送付されていて、崇敬者総代会はすでに合祀を了承していた。つまり、筑波藤麿宮司も合祀は了承していたのである。しかしこの時期「靖國神社国家護持法案」を巡る攻防とベトナム戦争の影響からか合祀に慎重になっていて結局合祀申し上げる前に筑波藤麿宮司は逝去された。

所謂「富田メモ」なるものに出てくる松岡(松岡洋右元外務大臣)白鳥(白鳥敏夫元イタリア大使)は政治家、役人であり軍人ではない。その意味で昭和天皇が「何故?」と疑問を持たれた可能性派は充分あると思うが、祈りの存在であられる天皇陛下が、天皇陛下の御立場で故人を非難することは考えられない。ましてや「天皇陛下万歳」と散華された忠霊の鎮まる靖國神社、明治大帝の思し召しで御創立された靖國神社に鎮まる忠霊を、大和民族を導く天皇陛下が否定することなどありえる訳が無い。全ての原因が前述した昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会にあった。
 
現在では、首相や閣僚の参拝に支那中共と韓国の圧力云々が春秋の例大祭、八月十五日で報道されるが、これらは昭和六十年の中曽根康弘から出てきた話で、御親拝中断とは別の問題、新たに出てきたのか、作った問題である。それを天皇陛下の御親拝が途絶えた理由が国内の政治問題であることを公にしたくない勢力が、これ幸いにと利用しているのである。または、自分達の怠慢を誤魔化すために、反日報道機関を利用して支那中共などを動かしたのかも知れない。全て行ったのは、富田朝彦氏を攻め立てた社会党勢力ではない、所謂保守陣営である。

 この保守陣営が「東京裁判史観」に魂を売った昭和五十年代前後には、よど号事件、浅間山荘事件、ダッカ事件、北朝鮮による日本人拉致、教育現場では中学校での校内暴力が発生したのも昭和五十年代である。経済発展を至上の目的としエコノミックアニマルと世界から嘲笑されたのもこの前後である。

 小生は今まで間違っていた。首相の靖國神社参拝が天皇陛下の露払いとなり御親拝への道だと勘違いしていた。総理大臣とは所詮選挙で当選し、政党内での駆け引きで出来上がる俗物である。そんなものの参拝を忠霊の皆様は待ってはいない。忠霊が待ち望まれているのは、大元帥であられる天皇陛下ただ御一人である。忠霊の皆様は、大元帥であられる天皇陛下の御親拝を賜る靖國神社に祀られる、その栄誉と誇りが日清、日露戦争と我が国を護り、大東亜戦争では白人至上主義と戦い、負けはしても國體を護持せしめた。

小生自身が良く口にする台詞であるが「それでも春秋例大祭には勅使の参向をいただいている。勅使は天皇陛下そのものである」と、しかしこの台詞は負け惜しみである。参道で誰も勅使に対し「天皇陛下万歳」を唱えることは出来ない。そしてこの途絶えることの無い勅使の参向、皇族方の参拝こそが大御心なのである。春秋例大祭での勅使の参向、皇族方の参拝は慣例や儀礼ではない。大御心の下途切れることなく継続されている。

天皇陛下の靖國神社への想いは平成十六年南部利昭第九代宮司就任にも充分示された。学習院の後輩で霞会の一員である南部家四十五代当主南部利昭氏は所謂「賊軍」である。宮司就任要請には逡巡があったそうで、就任を辞退するつもりだったらしい。しかし、天皇陛下からの「靖國神社を頼みますよ」の一言で宮司就任を決意なさったそうである。南部利昭宮司就任後の活躍は、靖國神社に変わる「国立追悼施設案」所謂「A級戦犯分祀」に強く反発された。平成二十一年一月七日昭和天皇祭を奉仕奉った後、宮司室で心臓麻痺でお亡くなりにならなければ、南部利昭宮司は今上陛下の御親拝を奉仕奉ったのではないかと思うと非常に残念である。

余談ではあるが、南部利昭宮司は春秋例大祭で三笠宮寬仁親王殿下を到着殿で奉迎申し上げる際に到着殿前で「寬仁親王殿下万歳」と奉迎申し上げる人々の姿に寬仁親王殿下が非常にお喜びいただき、そのお姿に南部利昭宮司は涙を流して喜んでくださった。その「寬仁親王殿下万歳」を唱えていたのが私たち靖國會の有志である。この逸話は南部利昭宮司を偲ぶ会で披露された話である。また、平成二十四年寬仁親王殿下薨去の際には、霊柩車が病院から赤坂御用地へ戻る途中靖國神社中通正中にしばらく停止した。
 
御世代わりまで残り一年、万が一平成の御世に御親拝なき場合、東京裁判史観に毒された勢力は、所謂「A級戦犯」批判を「富田メモ」を後ろ盾に改めて始める。今現在でも、「富田メモ」にある白鳥、松岡と二名の苗字は言わず、「A級戦犯」合祀に天皇陛下が「不快感」を示し、御親拝が途絶えた。と敢えて「A級戦犯」を強調する。すると自然に所謂「A級戦犯」とは東條英機大将をはじめ軍人が思い浮かんでしまう。明確な印象操作とさりげない捏造である。こうして大東亜戦争は所謂「A級戦犯」と軍部の暴走が引き起こした世界に謝罪しなければならない大犯罪へと昇格する。一般庶民は、それほど事細かに検証はしない。日本では、報道機関への信頼度は異常に高い。新聞の見出しで繰り返し「A級戦犯」と活字が躍れば、今現在でも所謂「A級戦犯」は存在してしまう。事実関係は無視し、大気圧のように国民に贖罪意識、罪悪感を植え付ける。

そして同時に所謂「A級戦犯」に「不快感」を持った昭和天皇そしてその意思を踏襲あそばされた今上陛下を平和の象徴とし、靖國神社を根底から否定する。また、忠霊を崇敬する国民には「たった数人の「戦犯」の存在が不快であるから天皇陛下万歳と散華された二百四十六万六千余柱の忠霊を無視する」と天皇陛下を貶め、国民との間に溝を作る。
 
明治維新から百五十年靖國神社御創立百四十九年は正に近代日本が国際社会の中で歩んできた歴史である。人種、宗教、言語の違う民族が発展を目指し覇権を争い衝突を繰り返したのは必然である。そしてこの必然は決して絶えることの無い人類の歴史である。靖國神社を否定するような政治体制、国防に携わる高官が「日本は良い国だった」と、民間に論文を発表し罷免されるような政治体制で、誰が命を賭けて国を護るのか。たまたま七十二年間戦渦に巻き込まれずいただけである。望まぬ災いは必ずやってくる。
 
昨年、平成二十九年の流行語大賞は「忖度」であった。今正に私たち日本人が本当に忖度しなければならないのは、天皇陛下のまごころ、大御心である。繰り返しになるが、天皇陛下は権力者では決して無い。現憲法と法律に縛られている実に御不便な思いをなさっているに違いない。天皇陛下がいかに御望みになられていても御自身の御希望通りに自由に行幸することなど出来ないのである。
 
天皇陛下は靖國神社御親拝を御望みになられている。御親拝実現は、今を生かされている日本人の過去と未来の日本人に対しての責任と義務である。

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千駄木庵日乗六月二十三日

午前は、『政治文化情報』発送作業、発送完了。

午後は、親族来宅、懇談打ち合わせ。

この後、資料整理、原稿執筆など。

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維 新 と 和 歌

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。
 
現状に満足し変化を望まないといふ意味での平穏な暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。
 
維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。

 そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。明治維新も西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。つまり、萬葉の精神と楠公精神の謳歌である。

 江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 今日の日本もまた、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。

現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

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千駄木庵日乗六月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2019年6月22日 (土)

辻元清美の関西弁は大嫌いである

私は、関西弁は嫌いではありません。父は徳島育ちですので、小さい頃から関西弁を聞きました。また、長い間お世話になった懐かしい運動の先輩は、伏見出身でした。ですからむしろ関西弁に懐かしささえ覚えます。

しかし、辻元清美の関西弁は大嫌いです。記者会見などでわざとらしく使う辻元の関西弁はなんか嫌らしい。辻元清美本人が嫌いなのだから彼女が使う言葉も嫌いなのでしょう。

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2019年6月21日 (金)

剣魂歌心の人・影山正治先生

 「劍魂歌心」は、維新運動に挺身する者のみならず日本男児の基本的姿勢であらねばならないが、影山正治先生の御生涯はまさに「劍魂歌心」そのものであり、身を以てそれを實践され生涯を終へられた。
 
 小生が、影山正治先生に初めてお目にかかったのは、昭和四十四年十一月八日、明治神宮弘心亭で開催された『大東塾創立三十周年記念歌會』に於てであった。雨の日であった。會場に入る前に、杉田幸三氏にご挨拶したこともよく覚えている。暫くすると影山先生が来られた。凛々しく颯爽とした方といふのが第一印象であった。

 その歌會での影山先生の歌は、
「友を想ふ友らの歌のやさしさよわれも友想ふしくしくに想ふ」

 であった。
 それから不二歌道會の歌會に参加するやうになり、夏期講習會にも二度ほど参加した。毎年一月三日に開催されてゐた不二歌道會新年懇親會などで、影山先生や長谷川幸男先生の前で長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」など小生得意の歌を熱唱したのも楽しい思ひ出である。

 塾生ではなかった小生は、直接御指導を受ける機會はそれほど多くはなかったが、御著書によって實に多くのこと、といふよりも重大なこと、大切なことを學ばせて頂いた。

 小生が感銘を受けかつ今日に至るまで座右の書としてゐるのは、『維新者の信條』であり『みたみわれ』である。今でも、運動上のことで何か惱んだ時、真劍に考へなければならない時に繙くのがこの二つの書である。影山先生の思想と精神はこの二つの書に凝縮されてゐると思ふ。

 『維新者の信條』冒頭に収められた「維新の誓願」の、
「 天皇は神なり。生き給ふ神なり。萬世一系にして天壤無窮。大中至正にして無上絶對。萬物の大本。萬法の根源なり。天皇は今にます 天之御中主神、今にます 天照大神なり。天皇ましまして萬有あり。」
 といふ言葉に最も感銘した。

 そしてこの信仰は、小生が中學時代から信仰してゐた生長の家の谷口雅春先生の「天皇信仰」(『無門關の日本的解釋』所収)といふ文章の、
 「 天皇への歸一の道はすなはち忠なり。一切のもの 天皇より流れ出で 天皇に歸るなり。 天皇は 天照大御神と一體なり。天照大御神は 天之御中主神と一體なり。斯くして 天皇はすべての渾てにまします」
 と全く一致する。

 谷口・影山両先生のこの二つの御文章は古事記・萬葉以来のわが國民の天皇信仰・現御神信仰を端的に表現した言葉であると思ふ。
 『みたみわれ』では、

「十年を泣かざりされどわがこころ涙痕常にあらたなるかも」

 の一首が小生の魂に深く刻みつけられてゐる。

 『みたみわれ』は、昭和四十年代後半に、当時奉職してゐた二松學舎大學圖書館に所蔵されてゐたものを讀んだ。そして、昭和四十九年、讀後感想文を今は亡き原正壽氏が編集長をしてゐた『日本の動き』誌に掲載して頂いた。丁度復刻版が刊行される直前であったため、影山先生は非常に喜ばれ、『不二』誌への轉載を希望された。そして、

 「山も裂かんいきどほりあり捕らはれてひとり黙して國を思へば 
  巻頭の一首を録し 四宮正貴君に 正治」

 との御署名のある復刻版を頂戴した。これが一番嬉しい思ひ出である。

 影山先生は、維新者であり、歌人(うたびと)であり、そして何よりも「祷りの人」であられたと思ふ。その祷りは一死を以て貫かれた。

 であるがゆゑに、祖國日本の現状を見る時、影山先生の謦咳に接して御指導を頂き、かつ書籍や講演で多くのことを學ばせて頂いた小生が、先生の熱き祷りを受け繼いで、日本の真の再生、即ち「民族のもとついのちのふるさとへの回帰」のためにいかほどの努力をしたのかと自らに問へば、恥かしき思ひにうちひしがれるだけである。

 しかし、今日、祖國日本は累卵の危ふきにある。うちひしがれてゐてはならないのである。靈界におられる影山先生から「ほー、四宮君もまあまあやってゐるなあ」といふくらいのお言葉を頂けるやう祖國日本のためにできるだけの努力をさせて頂きたいと念願してゐる。

みはふりの庭に轟きし雷鳴は幾年経てもわが耳朶に鳴る

干されゐし血染めの衣目のうらに浮かびて今もわが胸を打つ

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千駄木庵日乗六月二十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆・脱稿・送付など。

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吉田松陰先生曰く「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや」

幕府打倒・天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

吉田松陰は「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張した。

 

吉田松陰は、安政五年(一八五八)正月十九日、月性(幕末の勤皇僧。周防妙円寺住職。攘夷海防を論じた)に宛てた書簡で、前年の安政四年に米駐日総領事ハリスが、江戸城に登城し、幕府に米公使江戸駐在を認めさせたことを憂えて、「ミニストル(公使のこと)を江都(江戸のこと)におき、萬國(ここでは國内各藩のこと)の通商、政府に拘らず勝手に出来候へば、神州も實に是きりに御座候。何とも一措置なくては相済み申すべきや。幾重に思ひかへ候ても、此時大和魂を発せねば最早時はこれ無き様覚へ申し候」と記し、大和魂を発揮して幕府の軟弱外交を糾弾すべきことを論じた。

 

井伊幕閣幕が勅許を得ずして「日米修好通商条約」を締結したことを知った吉田松陰は激怒した。同年七月十三日、松陰が長州藩主に提出した意見書『大義を議す』において「墨夷(注・アメリカ)の謀は、神州の患たること必せり。…ここを以て天子震怒し、勅を下して墨使を断ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(注・恐れ縮こまる)遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず。傲然自得、以て墨夷に諂事(注・へつらふこと)して天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず、是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮して可なり。少しも許すべからざるなり」「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張し討幕の姿勢を明らかにした。

 

まことに上御一人日本天皇の勅命を蔑ろにしてアメリカに諂った徳川幕閣を、天人共に許さざる存在であり、天下の賊なりと断定した激烈な文章である。

 

松陰は、日本國體を護り、國家の独立を守るために、徳川幕閣に天誅を加へねばならないと決意した。京都に上り、朝廷に圧力をかけ、朝議の操作を成さんとし、また、京都所司代・酒井忠義に命じて尊攘の公卿や志士たちを弾圧捕縛した老中・間部詮勝(まなべあきかつ・越前國鯖江藩第七代藩主)誅殺を企てた。かうしたことが、長州藩政府の咎めるところとなり、野山の獄に入れられた。

 

松陰は、囹圄の身になっても、倒幕の志を変えることはなく、ますます燃え盛った。松陰は、同年四月七日、野山の獄から北山安世に宛てた手紙に「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。…今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望外なし」と書いた。

 

幕府も諸藩も頼むに足らず、全國の在野の同志が決起して外國からの脅威を撃ち祓ふ以外に道はないと主張したのである。

 

吉田松陰は、「安政の大獄」で処刑される直前、同囚の堀江克之助に与へた手紙の中で「天照の神勅に、『日嗣の隆えまさむこと、天壌と窮りなかるべし』と之あり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。唯今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と書かれた。

 

処刑の直前といふ絶望的状況にあっても、なほ、日本國體に対する絶対的信を保持せられた松陰先生に対し無上の尊敬の念を抱く。

 

今日、日本はまさに危機に瀕してゐる。しかし、神は必ず日本國と日本皇室を守り給ふ。『天壌無窮の神勅』に示されてゐるやうに、天照大御神の「生みの御子」であらせられる日本天皇がしろしめすわが日本國は永遠に不滅である。されば、現御神日本天皇の大御心を体し、日本伝統精神に回帰することによって、いかなる危機もこれを乗り切り、神國日本の真姿が回復すると確信する。

 

松陰先生は次の辞世をのこされてゐる。

 

討たれたる われをあはれと 見む人は 君を崇めて 夷(えみし)攘へよ

 

この歌には、まさに『尊皇攘夷の精神』が表白されてゐるのである。そして松陰の辞世の精神を継承した人々によって、明治維新の大業が成就したのである。

 

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千駄木庵日乗六月二十日

午前は、諸事。


午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆など。

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2019年6月19日 (水)

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)曰く「皇室典範を以て國會の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」

先日も書いたが、六月十五日に、 立憲民主党・国民民主党が、「皇位継承」について「論点整理」とか「皇室典範改正概要」などを出したと報道された。

 

「皇位継承」といふ國體の根幹に関わる神聖なる事柄について、政争と離合集散に明け暮れ、きちんとした国家経綸を確立しているとはとても思えない今日の政党や政治家が、色々と発言したり意見を出したりすることに対して、私は大きな違和感を覚える。

 

皇室に関する事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる。これは國體破壊であると言っても言い過ぎではない。

 

「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄、即ち「皇位継承」「御譲位」などは、世俗の法律問題・政治問題ではない。「現行占領憲法」が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。故に、政治権力や成文法によって、規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。天皇陛下の御心によって全てが定められるべきである。

『皇室典範改正』『天皇御譲位』は、天皇國日本といふかけがへのない信仰共同體・祭祀國家の根幹に関はる重大問題である。皇位繼承とは、神代以来の道統を繼承する天皇の御位に関することである。他國の王位繼承・元首の選び方・権力者交代システムとは全くその本質を異にする。

皇位繼承・天皇御譲位・皇室典範改正など皇室に関はる重大事は、神代以来のわが國の傳統を遵守しなければならない。而して天皇は、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる。故に天皇の御心を第一にすべきである。

『大日本帝國憲法』第七四条には、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ経ルヲ要セス」(皇室典範の改正は、帝國議會の議を経る必要はない)と書かれてゐる。また明治天皇が明治二十二年二月十一日に勅定された『皇室典範』六十二条には、「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族會議及枢密顧問ニ諮詢シテ勅定スヘシ」と書かれてゐる。

伊藤博文著の『皇室典範』の逐条解説書『皇室典範義解』(明治二十二年六月一日公刊)の「前文」には、「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の条章を更定することあるも、また帝國議會の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け子孫に傳ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。また臣民の敢て干渉する所に非らざるなり」と書かれてゐる。

さらに、『皇室典範義解』の第六二條の「註」において「皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と書かれてゐる。

伊藤博文はその著『大日本帝國憲法義解』の「憲法第七四條」の「註」で、「皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相關かるの権義に非ざればなり」と論じてゐる。

また、明治二十一年五月二十五日から六月十五日にかけて、枢密院で『皇室典範』について審議が行はれ、出席者から次のやうな発言があった。

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)「皇室典範を以て國會の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」。

山田顕義(司法卿)「皇室典範は特別重大の法典にして尋常の法律命令と混同すべきに非ず。故に別段の勅令を以て之を発布し、普く人民をして之を恪遵(注・忠實に守る意)せしめざるべからず」。

河野敏鎌(枢密顧問官)「(注・『皇室典範』を)公布するとも、別に議院の干渉を容るゝの虞毫厘もあることなし。如何となれば、向来皇室典範を改更することあるも、皇族幷(ならび)に枢密院に諮詢する等の明条(注・『皇室典範』第六二条)あるを以て、更に議院の容喙を許さゞればなり」。 

 

メディアや國體護持の精神は希薄にして離合集散を繰り返す野党、そして視聴率競争、売上部数競争に明け暮れるメディアなどが、皇位継承に等の國體・皇室の重大問題に関して色々と干渉し論議する今日の状況は、まさに井上毅の言った通り「人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」ではないだらうか。

ともかく、『皇室典範』は本来「勅定」であり、國民やその代表者とされる議會などが干渉することはあってはならない。

 

戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇室典範改正・皇位繼承・天皇陛下の御譲位といふ皇室の重大事が権力機構である衆参両院で多数決によって決められてしまふようになったのは、重大なる傳統破壊・國體隠蔽であり、厳密・厳格に言へば「國體破壊」への道を切り開くものである。

 

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千駄木庵日乗六月十九日

午前は、諸事。

午後一時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、資料の整理、検索、原稿執筆の準備など。


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日本伝統信仰・祭祀・維新

わが國の伝統精神における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践なのである。祭祀が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている。   天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来ている。天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。稲作生活から生まれた神話の精神を、祭祀という現実に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきておられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。   その天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。その天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。   天皇の祭祀において、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行われているのである。 わが國の神々とは天地自然の尊い命であり先祖の御霊である。わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。   今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。我が國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。  それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ってると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。   さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。  我が國伝統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。 「政教分離」の原則を我が國にあてはめるのは大きな誤りである。日本伝統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の実際生活から生まれて来た信仰なのである。特定の預言者や絶対神の代理人と称する人が説き始めた教条・教義に基づく信仰ではない。ここが神道と仏教・キリスト教などの教団宗教との根本的相違である。  今日、靖國神社への内閣総理大臣の公式参拝や公的機関の玉串料支出が「政教分離」の原則に反するなどという議論が行われている。「政教分離」とはある特定の神や人物を絶対者と仰ぎ他の宗教を排斥する排他独善の教団宗教が政治権力を掌握してはならないという原則である。この政教分離の原則は西洋の宗教戦争や政治権力による宗教弾圧の経験から生まれたものである。ゆえに、我が國の伝統信仰とは全く異なる次元の原則なのである。  我が國の國家危急の際に命を捧げた人々を、敬神崇祖の我が國の伝統精神に基づいてお祀りする靖國神社への内閣総理大臣の公式参拝あるいは公的機関の玉串奉奠を、西洋の宗教戦争から生まれた「政教分離」の原則にあてはめて禁止するなどということは、全く誤っている。  我が國伝統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰である。それは我が國伝統信仰が、前述したように、國民生活の中から自然に生まれてきた信仰精神であるからである。 だからこそ、神道の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。我が國において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全國に國分寺・國分尼寺を建立された。我が國において仏教は、皇室を通して広まったと言っていいのである。そして日本伝統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合してきた。  今日「政教分離」の原則とやらをやかましく言い立てて、日本伝統信仰=神社神道を排斥する輩こそ、キリスト教徒や共産主義者というような排他独善の教義を信ずる者共なのである。 祭祀は「天地の初発(はじめ)の時」に回帰する行事である。神道の基本行事は、神を祭ること即ち祭祀である。「祭り」とは神に奉仕(仕え奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。  人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓い清め、祭りと直會(神と共に供え物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。  つまり人の本来の姿を回復することが祭りの原義である。『古事記』に示されている「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。  今日、「世紀末」などと言われて混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」即ち神がお生みになった日本國の最初の時の姿を回復することによって、この危機的状況を打開することができるというのが、我が國の伝統的な信仰である。  維新とは、実に罪穢を祓い清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。したがって、今日行うべきことは罪穢を祓い清めることである。  國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿とは、キリスト教や浄土思想の説くような遥か彼方にある天國とか極楽浄土ではない。今此処に、日本人の本来の生活と信仰とを戻すことである。  実際、日本民族は、全國各地で毎日のように禊と祭りを行っている。それは信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められている行事である。 神への祈り・神を祭る心を回復すべし  國家を愛することができなくなっているのは、國民の多くが國家に対して誤った見方をしているからである。精神的共同體としての國家と権力機構・経済體制としての國家とをはっきり区別して考えなければならない。権力機構・経済體制としての國家がいかに混乱し破滅的状況にあっとしても、精神的共同體としての國家は永遠に不滅である。 わが國の歴史を顧みても、これまで、壬申の乱、南北朝時代、応仁の乱そしてそれに続く戦國時代というような大混乱の時代も経験したが、天皇を中心とする精神共同體としての國家・日本は生き続け、國家的・民族的統一を全く喪失する事なく必ず太平の世を回復してきた。  我が國國民は祭りが好きである。ということは日本人が本来明るい精神を持っているということである。厭世的でもなければ逃避的でもないというのが我が國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓い清めることができると信じ続けてきているのである。  今日のこの混迷も必ずこれを打開して正しき日本の姿を回復するに違いない。しかしそのためには、歴史を回顧して明らかな如く、真に國家の伝統精神を継承する者たちの必死の努力精進が必要である。  維新変革は、この國を何とかしなければならないという情熱を持つ者によって行われるのである。そして深い神への祈り、神を祭る心、神の意思通りに生きんとする心を持つ者によって行われなければならない。   明治維新が徳川幕藩體制を打倒して天皇中心の國體を明らかにした如く、現代における禊祓いとは、今日の日本に巣食っている邪悪な者共を殲滅することである。そして現代における祭りとは、禊祓いの後に天皇國日本の真姿を回復することである。

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千駄木庵日乗六月十八日

午前は、諸事。

 

午後は、在宅して、資料の整理、明日のスピーチの準備など。

 

午後七時より、千駄木にて、同志三氏と懇談。

 

 

帰宅後も、資料の整理。

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2019年6月18日 (火)

井伊直弼は決して開国の功労者ではない

井伊直弼は國學とりわけ江戸中期の本居学を学んだ。井伊家は南朝への忠義に励んだ家柄であったとも言われ、直弼は「尊皇精神」の篤い人物であったとも言われている。直弼がペリー来航の翌年嘉永七年(安政元年)に伊勢皇大神宮に祈願した願文には攘夷の意志が込められている。

 

しかし、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌安政元年(一八五四年)の「日米和親条約」で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。

 

そし幕閣でも諸大名の間でも、開国派と攘夷派の対立抗争が惹起した。開国政策は特に譜代大名によって推進された。その譜代大名の筆頭が彦根藩主・井伊直弼だった。

 

攘夷を強く主張したのは、德川御三家の一つ徳川斉昭そして松平慶永【春嶽。越前藩主】、島津斉彬【薩摩藩主】らによって代表される家門大名、外様大名であった。かてて加えてこの対立は第十三代将軍徳川家定の継嗣問題と絡んで一層先鋭となり、家門・外様大名派(これを一橋派と言ふ)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜【よしのぶ。斉昭第七子】を擁立したのに対し、直弼ら譜代大名の派(これを南紀派と言ふ)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福【よしとみ。のち家茂(いえもち)】を推した。

 

 安政五年(1858)に井伊直弼が大老に就任して、将軍継嗣には慶福を決定し、さらに勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印した。そして尊皇攘夷運動に火がついた。これに対して直弼は徹底した弾圧策をとり、翌年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。

 

直弼のこの弾圧政策は、万延元年(一八六〇)三月三日の「桜田門外の変」といふ彼の横死を招いた。幕府の実質的独裁者であった大老が江戸城の真ん前で殺されたことは、德川幕府の権威失墜を招いた。

 

しかも南紀派だとか一橋派とか言っても所詮は幕府内部の内輪爭ひである。その結果、大老暗殺といふ前代未聞の不祥事を招いたのであるから、これ以上の権威失墜はない。

 

井伊直弼は「皇国の風儀」「國體」といふ言葉をよく使ってゐた。しかし彼の言ふ「皇国の風儀」「國體」とは、天皇朝廷を尊ぶ姿勢は保持してはいたが、幕藩体制の上に天皇朝廷を形だけ奉りながら、「政治的実権」は全く剥奪した体制をであった。

 

そして「禁中ならびに公家諸法度」に規制された朝廷の在り方を否定する者は、國體破壊・皇国の風儀を否定する者と断じてこれを弾圧したのである。井伊直弼主導下の幕閣は、「孝明天皇を遠島にし奉る」と朝廷を脅迫し奉ったとさえ言われているのである。それが「安政の大獄」の本質と言っていい。

 

井伊直弼は決して開国の功労者ではなく逆賊であると断じて何ら間違いではない。井伊の行ったことは、孝明天皇の勅命を無視した欧米列強との不平等条約の締結にすぎないのである。

 

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千駄木庵日乗六月十七日

午前は、諸事。

午後二時より、永田町の衆議院第二議員会館にて、稲田朋美衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、資料の整理、「政治文化情報』発送準備など。

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2019年6月17日 (月)

今日の満月を仰ぎ見て実感したこと

今日は満月が浮かんでいた。まことに美しかった。自然は美しい。特に「月」は、日本人が歌に俳句によく詠む自然景物である。そして日本国土の自然も実に美しい。山・川・海の景色は実にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の快適な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の快適な生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。さらに、凶悪なる事件葉が続発している。

これだけ文明が発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。そして精神的荒廃もますますひどくなっているように思える。

われわれは、自然・科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではあるまいか。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族はそういう使命を帯びていると思う。

科学技術が発達し、文明は進歩しても、人間の道義感覚がそれに伴って高くなっていない。進歩した文明、科学技術を用いて悪事を働く者が増えている。頻発するテロ、北朝鮮の暴虐などはその典型である。

わが國は伝統的に「明らかさ・清らかさ」が最高の美徳とされてゐた。平田篤胤は、「そもそもわが皇神のおもむきは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)」ふと論じてゐる(『玉襷』)。

日本人は、清いことは善いことであり、汚いことは悪いことであると考へて来た。日本人は人間の価値基準を「善悪」といふ道徳観念には置かず、「浄穢」といふ美的価値に置いたともいへるのである。日本人は、「きたない」といふことに罪を感じた。

故に、神道では「罪穢(つみけがれ)」と言って、道徳上・法律上の「罪」を「穢」と一緒に考へた。神道では、罪穢を祓ひ清めることが重要な行事なのである。禊祓ひをすることが神を祭る重要な前提である。身を清らかにしなければ神を迎へることはできないのである。人類の中でお風呂に入るのが好きな民族は日本民族が一番であらう。

実際、日本人にとって、「あいつはきたない奴だ」「やり方がきたない」と言はれることは、「あいつは悪人だ」と言はれるよりも大きな悲しみであり恥辱である。また、「あなたは善人だ」と言はれるよりも、「あなたの心は美しい」「身の処し方がきれいだ」と言はれる方に喜びを感じる。

 「清明心」は『記紀』の神代の巻特に天照大神と須佐之男命が会見されるところに多く出てくる。天照大神は須佐之男命にその心の正しく清らかなことを知りたいとおぼし召されて、「然(し)からば汝(みまし)の心の清明(あか)きことは何以(いか)にして知らまし」と仰せになられた。

 日本人の倫理・道徳の根本は、「清明心」「正直」「誠」にある。「私」を去り「我」を没することを大切にしている。清明心即ち「あかき心」「清き心」は仏教や儒教が輸入される以前からわが民族のあるべき心とされてきた。今日の日本人はこれを取りもどすべきであると考える。冴えかえる今日の満月を仰ぎ見てそう実感した。

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千駄木庵日乗六月十六日

午前は、諸事。室内整理整頓。

午後からは在宅して、『政治文化情報』発送準備、資料の整理など。

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2019年6月16日 (日)

<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復


神道は祭祀宗教であるといふ。祭祀は自己の罪穢れを祓ひ清め神と一體となる行事であるから、救済宗教の性格も持ってゐる。自然を神と拝ろがむ日本の傳統的信仰精神が自然を破壊し人の命を軽んずる現代を救済する原理となると考へる。

「祭祀」および「直會」は、神と人との一體感を自覚する行事であると共に、それに参加する人々同士の一體感も實感する行事である。〈神と人との合一〉〈罪の意識の浄化〉を最高形態としてゐる信仰は、日本伝統信仰・神ながらの道である。「祭りの精神」が世界に広まれば世界は平和になるのではないか。

「祭り」を基礎とした魂的信仰的一體感が、世界人類の交流と共存の基盤となるのではないか。「祭り」が世界で行はれるやうになれば世界は平和になるのではあるまいか。


日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から学んできた。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知ってゐた。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精霊たちを怖れるだけではなく、祭祀によって神や精霊たちを祓ひ清め鎮めたのである。

現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行ふようになった文明のことであるとされるが、それは、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐる。

現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本伝統文化へと回帰しなければならない。

日本伝統精神は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほその生命が伝へられてゐる。のみならず、現実に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食い止める大きな力となってゐる。

わが日本おいては、これだけ科学技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、古代信仰・民族信仰が脈々と生きてをり、伊勢の神宮をはじめとした全国各地で神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の中心者として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきてゐる国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

現代日本の汚れを祓ひ清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>といふのである。

日本国の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇陛下そして皇室のご存在があってこそ、日本国は安定と平和が保たれるのである。天地自然に神の命が生きてゐるといふ信仰が日本の傳統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。

日本伝統精神を世界に発展させて、混迷せる現代世界を救済する役目をわが日本は背負っている。日本伝統信仰の精神が世界の國と民を永遠の平和と幸福に導く道であると思ふ。 そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないと考へられる。

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千駄木庵日乗六月十五日

午前は、諸事。


午後からは在宅して、資料の整理、書状執筆など。

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2019年6月15日 (土)

皇室に関する神聖なる事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる

立憲民主党・国民民主党が、「皇位継承」について「論点整理」とか「皇室典範改正概要」などを出したと報道された。

「皇位継承」といふ國體の根幹に関わる神聖なる事柄について、政争と離合集散に明け暮れ、きちんとした国家経綸を確立しているとはとても思えない今日の政党や政治家が、色々と発言したり意見を出したりすることに対して、私は大きな違和感を覚える。

皇室に関する事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる。これは國體破壊であると言っても言い過ぎではない。

三潴信吾先生は、その著『日本憲法要論』において、皇室典範について、「(現行の・註)皇室典範は…宮務法としてではなく、憲法の下に従属する政務法の一つとして新『皇室典範』が『皇室経済法』の如き法律と共に制定された…皇位継承の事項が法律事項となり、例へば商法の会社法などとも同列に置かれたことは大問題である。皇位継承の事項を、…一般法律の改正手続、即ち、単純多数決(過半数)を以て改変できる事となってゐる。即ち、皇位に関する事項を単なる政治問題として国会の論議に委ねてしまったのである」と論じてをられる。

「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治権力問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

ゆゑに権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志を奉じて決められるべきである。

旧『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。

日本國體を根幹として成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣(の)べられた事が最高の「法」と考へられた。

わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。

そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。臣下が上御一人に対し奉り、建言し意見を申し上げることはあり得ても、いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。


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千駄木庵日乗六月十四日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、たまりにたまった資料の整理など。

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2019年6月14日 (金)

自然災害と祭祀

自然に宿る神々は、人間を護り恩恵を与えてくれると共に、時に荒ぶる神となり、大変な脅威を齎す。近年続発する自然災害の被災地の姿を見るとそのことを實感する。現代に生きる我々は、自然に対する畏敬の念を取り戻さなければならない。大地震・大津波・原発事故・大水害・火山の大噴火などは、自然に対する人間の姿勢が如何にあるべきかを示唆している。

「自然との共生」という言葉をよく聞くが、近年の自然災害の凄さは人間と自然との関係はそんな安易なものではないことを實感した。確かに人間は自然と共に生きて来たし、自然の恩恵をこうむっている。しかし、時に自然は人間に無慈悲に襲いかかって来る。これにどう向き合うのかが問題である。

『神社新報』平成二十四年七月四日号の「大震災から神道信仰を考える」と題する社説に次のように書かれていた。
「岡田荘司氏(国學院大学)から…『神々の恵みに対応するたたりや怒りについて、古代以来の神道信仰にはその両面があったが、近代以降には継承されていない』旨の発言もあった…現代の神社神道のあり方やその原点を考へる上での極めて重大な神道信仰・神道神学に係る問題提起といへよう」「『原子力の火』の成功に日本社会の未来を託した声は、その反対に原子力利用の『綱渡り的危険性』を指摘した声の紹介など、それらは、いづれも神々や祖先、自然からの恵みと恩に感謝するだけでなく、同時にそれは神々や自然の祟りと怒りに対する畏怖と謹みといふ神道の原点を戦後神社神道の歩みに位置づけようとする本紙なりの実践神道神学の歴史でもあった」。

自然神・祖靈神の崇拝が日本伝統信仰=神社神道の基本である。自然に宿る神霊、そして亡くなった方々の御霊は、我々生きている者たちに恵みを与え下さり、お護り下さる有り難き御存在である。しかし、神代・古代以来、自然に宿る神々も、そしてこの世を去った御霊も、時に怒りを現し、祟ることがある。

古来、日本人は、自然災害はまさに自然の神の怒りととらえて来た。御靈信仰も神社神道の大きな流れである。全国各地に鎮座する天満宮も、その原初は、無念の思いを抱いて亡くなられ、多くの祟りを現された菅原道真公の御霊をお鎮めするための神社であった。

日本民族は、常に自然の恩恵に感謝すると共に、災害をもたらす自然に対して畏敬の念を抱いてきた。また、日本民族は、亡くなった方々に対して感謝の念を捧げると共に、尋常でない亡くなり方をした方の御霊に対して御慰めしなければならないという信仰を持っていた。

日本の自然の神々は、今はやりの言葉で言えば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈だということである。無限の可能性を持つと言い換えてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災いを齎すと古代日本人は信じた。

無暗矢鱈に自然に恐怖心を抱いたり、亡くなった人の祟りを恐れたりするべきではないが、自然と祖霊に対する畏敬の念を持つことは大切である。つまり、今こそ、日本国民ひとしく自然と祖霊への祭祀の心を回復すべきなのである。

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2019年6月13日 (木)

千駄木庵日乗六月十三日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後四時より、茅場町にて、深谷隆司元衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆、脱稿、送付。

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全人格的な戀愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみである。

全人格的な戀愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみである。和歌において戀愛歌が占める位置は非常に大きい。歌の起源は戀愛であり、「やまと歌」の主流は戀歌である。古代日本文藝においては、戀が美の大きな要素・テーマになってゐる。和歌は戀愛の発想を離れることはできない。驚きとか新鮮な思ひは戀によって感じる場合が多かった。戀には喜びもあれば悲しみもあれば苦しみもある。現實生活を尊んだ古代日本人は、戀を歌ふことが多かった。戀は異性に対するものだけではない。上御一人日本天皇を恋ひ慕ふ心、これを「恋闕」と言ふ。

支那文學には愛欲をテーマにしたものはあっても、戀愛をテーマにしたものがあまり無いといふ。全人格的な戀とか愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみであると言っていい。この場合の戀とは、英語でいふloveとは趣きが異なる。

そもそも「國生み」の時、伊耶那岐命、伊耶那美命が、天の御柱を回って、「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」と唱和したのが歌の起源とされてゐる。つまり、愛の交歓の歌が「やまと歌」の起源なのである。
さらに、須佐之男命が高天原から出雲の國に降り立ちまして、八岐大蛇を退治して櫛名田姫を助けて結婚された時に歌った「八雲たつ 八雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」といふ御歌が、「五七五七七」の短歌の起源と言はれてゐる。

どちらの歌も愛する異性と結ばれた喜びの心の訴へである。戀愛とやまと歌はきはめて密接である。

萩原朔太郎は「大和民族の文明は、實に和歌と戀愛とに始まった。日本人は、和歌によってその愛欲生活を藝術化することに、最初の文化的情操を紀元させた。『和歌』と『戀愛』と『大和心』は、日本歴史に於て三位一体の関係にある。和歌を離れて大和心は解説されず、また戀愛を忘れて和歌のポエジイは成立しない」(原文のまま・『朔太郎遺稿・下』)と述べてゐる。

和辻哲郎は、「上代において最も著しく表現せられているものは戀愛である。新鮮な驚異の情に充ちた上代人の心にとって、蒼空の神秘や運命の不可思議よりも、人の世の戀の力が最も詠嘆すべきものであったことは、注目に値する。戀の苦悶、戀の歓喜は、彼らがその全生活を投入するに値する最高の生の瞬間であった。だから彼らは、超自然的な力に対する恐怖と歓喜とを歌わずして、ただ人間的な生の喜びのみを歌う。…いかなる現世的な障礙(しょうげ)もこの炎を消すことはできない。死にさえも愛は勝つ。かくのごとき愛の強さがまことに上代の戀愛の特徴である。戀愛を制度の奴隷としたシナ─戀愛が淫楽に過ぎなかったシナにおいては─かくのごとき全人格的な愛の強さは描かれていない。」(『日本古代文化』)と論じてゐる。

『古事記』神代の巻の歌十一首の実に九首までが戀歌である。また、『記紀歌謡』百数十首中その大部分が戀歌である。『萬葉集』も戀歌が圧倒的に多い。

『萬葉集』においては、戀愛歌のことを「相聞歌」と言ひ、「雑歌」「挽歌」と共に『萬葉集』の三大部立の一つになってゐる。「相聞歌」は、「雑歌」「挽歌」と比べて最も多く、約一七五〇首にのぼる。

「相聞」とは互ひに安否を問ふて消息を通じ合ふといふ意味であり、漢籍では、贈答・音信・安否の確認などの意味でしばしば使用されてゐる。従って、元来は手紙のやり取りほどの意味であったといふ。

『萬葉集』の「相聞歌」には、男女関係のみならず、親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答された歌が含まれる。相手を念頭において作った「相聞歌」は、対の関係における歌である。対の関係とは、主に男女関係だが、男同士でも、母と娘でも、兄弟でも、二人の親密な情愛の流れる関係である。

『萬葉集』「相聞歌」の男女間の戀愛歌は約一六七〇首あり、その他の関係の相聞歌は約八〇首。数の上で圧倒してゐる。従って、男女間の戀愛を歌った作品をまとめて「相聞歌」と呼称した。『古今和歌集』以後の勅撰和歌集における「戀歌」の部門に相当する。

今日、この「愛」といふ言葉がだいぶん汚れたものとなってゐる。萬葉歌では「私はあなたを愛する」とか「好き」といふ言葉は使はれない。さういふ観念的な言葉でしか戀心を表現できなくなった現代とは大きく異なる。

自然を詠んだ歌も、死者を弔ふ歌も、自然や死者への「愛の歌」と言って良い。『萬葉集』には、國土讃歌・自然讃美・神への信仰・祭り・天皇讃歌・戀愛・死者への哀惜などの歌が収められてゐる。基本的にはすべて「愛の歌」である。
岡潔氏は「この國の人たちは、自己本位の行為を善行だとは決して思わない。現にそのように生活している人たちも、内心それを肯定せず、その反対の行為を賛美することを惜しまない。だからこの國の善行は格調が非常に高い。たとえば、弟橘媛や莵道稚郎子の最期の行為がそれなのである。……この人たちのあの行為、この行為の上に、往昔の風鈴の妙音と同じ生命のメロディー(旋律)を聞く人は、私だけではないであろう」(『春風夏雨』)と述べてゐる。

祖國への愛も戀人への愛も家族への愛も、「愛するもののために自分を無にすること」が「愛」の窮極の姿である。これを「捨身無我」といふ。「捨身無我の「愛」とは「自他一体感」である。「愛」こそが、日本民族にとって「最高の美」であった。我が國土は前述した通り、伊邪那岐命・伊邪那美命の「むすび」によって生成された。『百人一首』も戀歌が圧倒的に多い。戀も和歌もまさに神代の昔からのものなのである。

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千駄木庵日乗六月十二日

午前は、諸事。室内清掃。

午後は、『政治文化情報』原稿執筆。

午後六時半より、豊島区立駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が「萬葉集」作者未詳歌を講義。質疑応答。

帰途、出席者と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2019年6月12日 (水)

第九十六回「日本の心を学ぶ会」

テーマ 神道と美しい日本の自然を考える。

神道とは我が国の悠久の歴史の中で自然生成的に成立してきた日本固有の伝統信仰を言います。我々の祖先は日本の気候風土の中で自然の中に人知を超えた存在を感じ祭祀を行うことでそれらの存在と交流をしてきました。

現在も全国の神社や地域で行われているお祭りの多くもこうした祭祀に起源をもち長い歴史の中で伝承されてきたものです。各時代の政治体制の中で神社や神道の位置づけもさまざまに変わりましたが神道が日本の社会や人々の精神的支柱であったことは変わりません。

しかし日本を占領したGHQは大東亜戦争で奮戦した日本軍将兵の戦闘力の源泉が神道という信仰にあると分析し、神道指令という命令を発して国家と神道の関係の断絶を求めました。

これは国際法違反であるだけでなく、日本の歴史的実情を無視した暴挙であります。

そして現在も神道指令の影響は残っており、首相の靖国神社参拝はかなわず、神道が軍国主義の温床であるいう主張も繰り返されております。

そこで今回の勉強会では日本の気候風土が作り出した神道という信仰について考えてみたいと思います。

【日 時】令和元年6月30日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-B会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】自然の恵み・自然災害と日本の神々

【講 師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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日本伝統信仰の自然観

和辻哲郎氏は、その著『風土』において次のように論じている。「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。…ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。……自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。

しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然と共に生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さをまって初めてあり得たことであろう。」

ヨーロッパの自然は、比較的温順にして秩序正しいので、神が創造した自然は、神の創造物の中で最も高い地位にある人間によって支配され改造され利用されてよいという思想が生まれたと思われる。これがヨーロッパの自然観である。こうした自然観が、自然を改造し利用して科学技術を発達させたが、自然破壊につながった。

日本をはじめとした東洋の自然は比較的厳しく秩序もないので、人間は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。

近年の自然災害の多発は、まさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させた。

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。ただし、自然に宿る神々には、和やかな神もおられれば、荒ぶる神をおられるのである。

日本国土も自然も實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の快適な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の快適な生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

文明は発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩しているが故になおさら惨禍がひどくなる。今回の大地震を見てそれは明らかである。

われわれは、自然および科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではあるまいか。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族は、そういう使命を帯びていると思う。

科学技術至上主義・物質至上主義・営利至上主義・快楽主義に汚染され続けてきた日本及び日本國民の頽廃を救うには、日本の傳統精神・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないのである。我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心、そして、「農」を大切にされる御心を、道義的倫理的規範として習い奉るということが大切である。そして、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。

荒ぶる神は祭祀によって鎮めることができる
「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)」(『古事記傳』)と定義してゐる。

日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。
近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

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千駄木庵日乗六月十一日

午前は、諸事。室内整理清掃。

午後からは、在宅して、明日行う「萬葉集」講義の準備、原稿執筆など。

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2019年6月11日 (火)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 六月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2019年6月10日 (月)

この頃詠みし歌

すめらみことに大いなる御稜威発現し外つ國大統領に向かひ立ちませり

 

日の御子に日の大神が天降り神々しくも御稜威発現す

 

清らけき靖國の宮に参り来て平和への祈りを捧げまつれり

 

思ひつめ祈りをこめて自裁せし友の笑顔は永久に消ゆるなし

 

静かにして清らなりけるみささぎを電飾せよと言ひし男が大阪市長とは

 

人の命のはかなさをあらためて実感す我より二歳年長の僧侶の訃報

 

笑顔絶やさぬ僧侶でありしが突然にこの世を去りしこの悲しさよ

 

人の恩人の厚意を忘れずに日々過ごすなり恵まれし身は

 

愚禿親鸞行者日蓮どちらとも乱世の民衆を救はんとせし

 

拷問し責め殺したる警察官が罰せられたりといふ事を聞かず

 

戦前の特高警察の暴虐が追及されることなきをいぶかる

 

出口日出麿小林多喜二は国賊ゆゑ虐殺されても廃人されても良しとは思はず

 

大本弾圧の指揮を執りたる警保局長が戦後法務大臣になりたる不思議さ

 

このやうな歌を作るはサヨクかと言はれても良し許し難ければ

 

わが部屋に我の他に生息するは油虫とは悲しかりけり

 

何事も柳に風と受け流し生きればよいものをさうはいかない

 

苦しみて長生きするよりあっといふ間にあの世に行くがよろしかりけり

 

安らかに眠りませと祈るなりこれの世を去りたまひたる父母の御霊

 

高き樹が真っ直ぐ青空に向かひ立つ父母の眠ります菩提寺の庭

 

父母と共に参り来し菩提寺で父母の眠れる御墓を拝す

 

新しき卒塔婆を供へ父母の御霊やすかれとたゞに祈れり

 

何十万もする腕時計を見てをれば店の奥より睨む店員

 

和光といふ店の名前とは裏腹に客を怪しみて睨む店員

 

嫌な感じといふ言の葉を思ひ出すこと多し未だ修行の足らざる我は

 

書き終へし原稿一本メールにて送りし後のやすらぐ心

 

み祭りを終へて出て来し神域は夕闇に包まれ静かなりけり

 

日本は美しき國とトランプは言ふその国を焼土とせしは一体どこの國

 

時計台といふラーメン屋がありたるを思ひ出しつつ銀座四丁目に立つ

 

實川延若が颯爽と銀座を歩みをりこの世を去りてもう幾歳ぞ

 

初夏の光に照らされにつつ無縁坂を下り来れは不忍池見ゆ

 

垂乳根の母の優しさ今にしもしみじみ思ふ一人生きる我

 

五十年来の同志(とも)の講演聞きにつつその元気さに驚きにけり(宮崎正弘氏)

 

様様の事がありたる人生生きて来て今宵はここに歌詠みてゐる

 

これからは幾年生きるか知らねども為すべきことはなさんとぞ思ふ

 

何か次第に世が根元から崩れゆくかと思ふことありむごき事件続き

 

國を憂へる心切々と語りゐる若き政治家はすがしかりけり

 

道をふさぎものを訴へる人々の群れの中を行くは厭はしきかな(議員会館前)

 

わが命華やぎてあれこれの世に生きん限りは生きゆかんとて

 

命華やぐ我にしあれば今宵また筆を握りて歌を詠むなり

 

岡本かの子ごときはなやぎはなけれども男として生きるはなやぎはあれ

 

古き物は壊され捨てられ新しき街となり行くをさみしみてをり

 

荷風の愛せし藪下通りがこぼたれると聞きて悲しきこの夕べかも

 

何処に行きても何をしてゐても時々に思ひ出すのは父母の事

 

もうこの世では逢へざる父母の懐かしく遺影仰げば胸迫るなり

 

訪ね来しキャンパスの新緑美しくここに學人々の幸せを思ふ

 

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千駄木庵日乗六月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。室内整理など。

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歴史の評価について

何年か前、福井市主催で行われた橋本左内の墓前祭に、井伊家十八代当主の井伊直岳・彦根城博物館長と獅山向洋彦根市長が参列したという報道があったことを記憶している。その新聞報道には福井市と彦根市との「和解が果たされた」と書かれていたと思う。

幕末の大老で旧彦根藩十三代藩主井伊直弼は、幕末維新史では、反動的人物、多くの志士を死に至らしめた人物と記されている。私もその評価は間違ってはいないと思う。しかし、井伊直弼には井伊直弼なりの幕府の権威と権力を守ろうという思いがあったとは思う。歴史上の人物の評価はなかなか難しい。幕府を守ろうとして実行した井伊直弼の弾圧が、幕府崩壊を早めてしまったことは事実である。吉田松陰・橋本左内という先見の明のあった立派に人物を殺してしまったという批判が井伊直弼に集中している。

会津と長州も仇敵のような関係になっていたが、やはり同じように、何年か前お互いの市長か誰かが訪問し合って「和解」が成立したと言われる。私は別に無理して今の自治体同士が幕末以来の対立の「和解」とやらを推進しなくてもいいとは思うが、歴史を学び、歴史を教訓にするという意味はあるのだろうか。

長州藩の幕府に対する反感は関ヶ原以来といわれる。また明治維新の歴史においても、第一次長州征伐が行われた時、幕府は今の世田谷にある長州藩の墓所(そこには松陰先生の墓もある)を破壊した。これも相当の恨みを買ったと思われる。

彦根藩は、戊辰戦争でいち早く新政府軍につく。そして上野戦争では、彰義隊攻撃の先鋒をつとめた。新政府軍の命令には逆らえなかったに違いない。ところが会津藩は、奥羽列藩同盟の中心的存在となって最後まで戦う。そして新政府軍に会津を攻められ、鶴ヶ城は落城し、明治維新後は様々な辛い目に遭った。そのことはついて、今日唯今も、会津の人々は特別の同情を持っている人が多い。

歴史の評価というのは本当に難しいし、悲劇が起こる。一方を絶対的正義とし、一方を絶対的悪として裁くことはできない。国内の歴史においても然りなのだから、大東亜戦争そして近代以後の日本の対外関係史を、日本が一方的に悪かった。日本は侵略国家であった、などと思い込み、謝罪を繰り返し、贖罪意識を抱き続けるなどということはあってはならない。今、桜田門外の変について書いているが、私にはどうも井伊直弼のことを許すことはできない。

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千駄木庵日乗六月九日

午前は、諸事。

午後一時より、柏市光が丘の麗澤大学キャンパス内モラロジー研究所広池千九朗記念館にて、『即位儀礼をより深く学ぶための特別講演会』開催。所功モラロジー研究所教授が「今秋の即位礼と大新嘗祭」と題して講演。

この後、広池千九郎記念講堂にて開催中の『天皇陛下御即位奉祝記念特別展』拝観。所功先生に直々のご説明を拝聴。『伝統と革新』編修実務担当者と共なり。本日の所先生の講演内容を『伝統と革新』次号に掲載させていただく予定。

初めて伺ったが新緑が美しい素晴らしいキャンパスであった。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2019年6月 9日 (日)

村上佛山の漢詩を読みて思ふ

村上佛山は(江戸後期-明治時代の漢詩人。文化七年生まれ。豊前(ぶぜん)京都(みやこ)郡稗田村。現在の福岡県行橋市の人)は次の詩を詠んだ。

「 落花紛紛  雪紛紛,
雪を踏み 花を蹴(け)りて  伏兵起る。
白晝斬り取る  大臣の頭(かうべ),
噫(ああ) 時事知る べきのみ。
落花紛紛  雪紛紛,
或ひは恐る天下の多事此(ここ)に兆(きざ)すを」

「桜田門外の変」はながく続いた徳川幕藩体制の致命傷となり、時勢は急転直下維新へと向って行った。

桜田門外の変=井伊直弼誅殺は、直接行動の有効性を天下に示した。そして、幕末期は、「天誅」といふ名の直接行動が多く起るやうになった。これは明治期に至るまで続いた。井伊直弼打倒とは即ち尊皇であり攘夷であった。

桜田門外の変参加者佐野竹之助は次の辞世を詠んだ。

「敷島のにしきの御旗もちささげ皇軍(すめにみいくさ)の魁(さきかげ)やせん」

国家変革は、一国の体制を打倒するか擁護するかのぎりぎりのところまで高まると、直接行動は不可欠となる。それは桜田門外の変であった。ただ直接行動の有効性などと言う政治的意義ではなく、桜田烈士そしてそれに続いた尊攘の志士達の篤い尊皇の思ひが根本にあったのである。


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今日思ったこと

奈良県の警察に勾留中に留置場で死亡した男性医師の遺体のむごたらしい傷は、小林多喜二が戦前の特高警察によって虐殺された時の傷のそっくりだ。

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千駄木庵日乗六月八日

午前は、室内整理整頓。


午後二時より、靖国神社境内靖国会館にて、『日本学講座』開催。永江太郎氏(元防衛研究所戦史部主任研究官)が「改めて問う大東亜戦争と快感と終戦の決断夢」と題して講演。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化所情報』の原稿執筆など。

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2019年6月 8日 (土)

桜田門外の変について


桜田門外の変の三月後の万延元年六月に、岩倉具視が、孝明天皇の諮問に応へて奉った「上書」には次のやうに論じられた。

「関東の覇権はもはや地に墜ち候て、昔日の強盛にはこれなく、井伊掃部頭は大老の重職に居り候て自己の首領さえ保護仕りがたく、路頭に於て、浪人の手に相い授け申し候。これ明確たる一証に御座候。かように覇権の地に墜ちたる関東に御依頼遊ばされ候て、内憂外患を防遏(ぼうあつ)仕り、皇威御更張と申す儀は、世俗の諺に申し候、長竿を以て天上の星をたたき落とすが如き者に御座候て、徒労多く実効を見る事能はざる義と存じ奉り候。因て関東え御委任の政柄を、隠然と朝廷え御収復遊ばされ候方略に拠り為されられ、輿議公論に基き、御国是を御確立遊ばされ候儀、天下の爲長計過ぎざるの儀と存じ奉り候」。

桜田門外の変=井伊直弼誅殺は、直接行動の有効性を天下に示した。そして、幕末期は、「天誅」といふ名の直接行動が多く起るやうになった。これは明治期に至るまで続いた。その基本的行動原理は即ち尊皇であり攘夷であった。

桜田門外の変参加した志士・佐野竹之助は次の辞世を詠んだ。

「敷島のにしきの御旗もちささげ皇軍(すめにみいくさ)の魁(さきかげ)やせん」

まさに、安政の大獄と桜田門外の変は、明治維新実現の魁であり第一歩であり発火点となったのである。

内憂外患の危機にある今日こそ、我々は日本民族の歴史とその精神を学び、それを現代に生かさねばならない。それは日本民族の歴史に久遠に通じてゐるところの「道」を学ぶことである。歴史に学ぶとは、先人の志と事績を学ぶことである。歴史は抽象的な理論ではなく事実に即して「日本の道」「日本の伝統精神」を明らかにする。

わが國には、対外的危機感が伝統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚してきた歴史がある。現代もさうした時期である。民族の歴史を我々一人一人の精神の中で甦らせて、自己の倫理観・道義感の基本に置くことによって民族意識が形成される。民族主義・愛國心・ナショナリズムと歴史意識とは不離一体である。

そして日本の民族精神の勃興は、天皇中心の國體の開顕と一体である。天皇中心の國體とは、「神話の世界以来の傳統信仰に基づく一系の道統と血統を保持し継承される現御神日本天皇を君主と仰ぐ國家の真姿」である。日本天皇は、肇國以来今日に至るまで、神話の世界からの道統である祭祀を行ってをられる。

天皇は日本伝統信仰の祭祀主であらせられ、生きた体現者であらせられる。天皇の國家統治は、「権力・武力による人民と領土支配」ではなく、祭祀主としての宗教的権威による国家と國民の統一・統合といふことである。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。

天皇を神聖君主と仰ぐ日本國體は、古代から今日に至るまで如何なる政体の変化があっても、わが國の歴史を貫いて来た。この國體の本来の姿・あるべき姿に回帰し開顕する運動は國家的危機において興起した。特に欧米列強の侵略の脅威が迫った幕末において、「尊皇攘夷」を思想的原理として危機の打開が目指された。

西洋列強の日本に対する圧迫といふ有史以来未曾有の危機に際会した時、「藩といふ地域」そして「士農工商といふ身分制度」を乗り越え打破して、天皇を中心とした統一國家・民族の一體感・運命共同意識を、醸成し回復することによって危機を撥ね退け国家民族の独立を守った。それが明治維新である。

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千駄木庵日乗六月七日

午前は、諸事。

 

午後は、郷土史家の方来宅。大給坂に下にある如意輪観音堂について、色々話す。我が家の母方の祖父が大正十二年頃に、家を建て替えた時、地中から発見された如意輪観世音菩薩像が安置されている。地元の人々の崇敬を受けている。しかし昔は何人かいた世話人も亡くなったり引っ越されたりして、現在では私一人が世話人のような役目を果たし、お堂の掃除、供花の交換を行っている。

 

この後、『政治文化情報』原稿執筆・『伝統と革新』編集の仕事など。

 

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2019年6月 7日 (金)

「一君萬民」の國體明徴化による國難の打開

ペリー来航より約五十年も前の文化元年(一八〇四)、長崎に来航したロシアのロザノフに対する幕府の対応に不満を抱いたロシアは、文化三年から翌年にかけて、わが國領の樺太を攻撃した。幕府は文化四年にこの事件の概要を朝廷に報告した。

今谷明氏はこの事を、「幕府自らの軍事力に自身を喪失した時、天皇の権威に依存するという体質があらわれた。…秀吉のいう『日本は神國』、家康のいう『日本は神國仏國』のごとく、外圧を意識したときの民族のアイデンティティーが神國思想としてもちだされる構造は、秀吉時代以来、一貫したものであった」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

さらに、阿片戦争で清國が敗れ、わが國にも外國船が頻繁に現はれるようになり、対外的危機が深刻化した弘化三年(一八四六)八月、この年の二月に御年十六歳で即位された孝明天皇は、海防の強化を命じた勅書を幕府に下されると共に、最近の対外情勢の報告を幕府に求められた。

藤田覚氏は、「朝廷は、幕府に対して対外情勢の報告を要求できる、幕府は朝廷に報告する義務があるという慣行は、文化四年を先例とし、弘化四年に確認され、この後頻繁に幕府は朝廷に報告するようになった」(『幕末の天皇』)と論じてゐる。

徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に委任されてゐる。朝廷は政治に口出しさせない」といふ原則を幕府自身が踏み躙らざるを得なくなったのである。これが幕府の権威の大きな失墜であり、幕府瓦解の始まりであった。

孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日に石清水臨時祭を挙行され、異國船撃退を祈願された。

嘉永六年(一八五三)にペリーが来航した。孝明天皇は、御年二十三歳であらせられた。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行った。わが國に開港を迫ったアメリカは、決してわが國に親愛の情を持ってゐたわけではなく、わが國を勢力下に置かうと企図してゐたのである。それはペリーが幕府に提出した『國書』を見れば明らかである。

鎖國といふ徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは、幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで幕府は、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを朝廷・各大名そして陪臣(註・大名の臣)にまで広く諮問した。

この事実もまた、國家の大事を徳川幕府のみで打開できないといふ幕府の弱體化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるといふ古代以来の國體を明らかする端緒となった。これが明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神の生まれた根本原因である。

ペリー来航直後の小浜藩(今日の福井県西部地方)の布告には、「上御一人様より、下末々迄心を合せ此御國(注・日本國の事)を守り、昔より之れ無き恥を取り申さざる様に骨折候事第一の心得に候。去(さる)に依り、他國(註・他の藩の事)の御領地のと申差別なく、日本國中一家内同様の心得にて、萬々異國船参り無作法を致し候時は、上下男女の差別なく命を捨て此御國を守り候心得第一の勢にて候」とあった。

群雄割拠の幕藩体制を超克して、天皇中心の統一國家の真姿に回帰することによって外國の侵略から祖國を守るべしを論じてゐる。つまり、幕末の祖國の危機に際して、日本民族は自然に、日本國家・民族としての一体感・運命共同意識中心に古代からの國家の統一者である天皇を仰いだのである。國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心には天皇がゐまさねばならなかったのである。明治維新後の近代日本における「一君萬民」の國體明徴化そして皇軍創設は、かかる精神に基づくのである。

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千駄木庵日乗六月六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆など。

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2019年6月 6日 (木)

水戸斬奸状について

萬延元年(一八六〇)三月三日、大老井伊直弼を桜田門外において誅殺した時、水戸浪士が懐中にしていた「水戸斬奸状」には次のやうに記されてゐる。この文章は、水戸藩士・金子孫二郎が執筆したと言はれてゐる。

「追々大老井伊掃部頭所業を致洞察候ニ將軍家御幼少之御砌に乘じ自己之權威を振はん爲公論正議を忌憚り候て天朝公邊之御爲筋を深く存込候御方々御親藩を始公卿衆大小名御旗本に不限讒誣致し或は退隱或は禁錮等被仰付候樣取計候儀夷狄跋扈不容易砌と申内憂外患追日指迫候時勢に付恐多くも不一方被惱宸襟御國内治平公武御合體彌長久之基を被爲立外夷之侮を不受樣被遊度との叡慮に被爲在公邊之御爲勅書御下げ被遊候歟に奉伺候處違背仕尚更諸大夫始有志之人を召捕無實を羅織し嚴重之處置被致甚敷に至候ては三公御落飾御愼粟田口親王をも奉幽閉勿體なくも天子御讓位之事迄奉釀候件々奸曲莫所不至矣豈天下之巨賊にあらずや右罪科之儀ハ委細別紙ニ相認候通ニ候斯る暴横之國賊其儘指置候はゝますます公邊之御政體を乱り夷狄之大害を成し候儀眼前にて實に天下之安危存亡ニ拘り候事故痛憤難默止京師へも及奏聞今般天誅ニ代り候心得にて令斬戮候申迄にハ無之公邊へ御敵對申上候儀にハ毛頭無之何卒此上聖明之勅意ニ御基き公邊之御政事正道ニ御復し尊王攘夷正誼明道天下萬民をして富嶽の安ニ處せしめ給ハん事を希ふのミ聊殉國報恩之微衷を表し伏して天地神明之照覧を奉仰候也」


(追々大老井伊掃部頭の所業を洞察いたしますと、将軍が御幼少の時に乗じ、自己の権威を振はんがために、公正にして正しい議論を忌み憚って、朝廷天皇の御爲に筋を深く存じてをられた御方々御親藩を始め公卿衆大小名御旗本に限らず事実ではないことで罪に陥れ或は退隠禁錮などを仰せ付けられるやう取り計らったことは、外敵が跋扈する容易ならざる時と言ふ内憂外患日を追って差し迫る時勢に付き、恐れ多くも宸襟を悩まされ、国内平らかに公武御合体愈々長く久しいなる基礎を立てられ、外国の侮りを受けないやうとの天皇のご意志であるので幕府のために勅書をお下げあそばされたと伺っていたところ、違背しさらに諸大夫(公卿・大名に仕へる家老等)をはじめ有志の人を召し捕り無実の人を罪に陥れ嚴重の處置にいたし、甚だしきに至っては三公を落飾(三公=鷹司政通前関白、近衛忠煕左大臣、三条実万前内大臣の辞官・落飾・謹慎)させ、粟田口親王(=久邇宮朝彦親王【青蓮院宮】)をも幽閉されただけでなく、勿体なくも、天皇が譲位を表明されるところまで追ひ込んだ無礼は、許しがたい行為であり、まさに、天下の大罪人としか言ひやうがありません。右に述べた井伊直弼の罪科の儀は委細別紙に書いた通りです。このやうな横暴な国賊をそのまま置いておくと、益々幕府政治のを乱し、外敵の大害を成したことは、眼前にて實に天下の安危存亡に拘ります事故、痛憤黙ってはゐられず京都の天皇へも申上げ、今般天誅に代る心得にて(井伊直弼申し上げることでは毛頭なく、何卒この上は、聖明なる孝明天皇の勅意に基き幕府の御政事を正道に復し、尊王攘夷、正誼明道、天下萬民をして富嶽の安きに置かしめたもう事を希ふのみ、いささか殉國報恩の微衷を表し伏して天地神明の照覧を仰ぎ奉ります)。

井伊直弼による違勅開国を神州を害する行為として批判している。また、上御一人に譲位の御心を表明させ奉るといふ大不敬行為をも厳しく糾弾してゐる。即ち尊皇攘夷である。つまりこの斬奸状は尊皇攘夷の精神を基軸にした大変革の書である。内憂外患を打開するには尊皇攘夷しかないと言っているのである。ともかく、井伊直弼誅殺は、天皇を唯一の君主と仰ぐ統一国家を建設する以外に道なしとする思想であり行動であった。しかし水戸藩士として徳川幕府全面否定はまだしてない。

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千駄木庵日乗六月五日

午前は、諸事。

 

午後二時より、永田町の参議院議員会館にて、和田政宗参議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。昭和四十九年生まれで、小生の息子の年代の若手政治家と言っていいかと思うが、これほどしっかりとして國體観、皇室尊崇の心を持ってゐる政治家はそれほど多くはない、というよりも非常に稀である。今日は良い話を聞くことができた。

 

帰宅後は、『政治文化情報』掲載のための原稿執筆など。

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2019年6月 5日 (水)

この頃詠みし歌

 

 

すめらみことに大いなる御稜威発現し外つ國大統領に向かひ立ちませり

 

日の御子に日の大神が天降り神々しくも御稜威発現す

 

            〇
清らけき靖國の宮に参り来て平和への祈りを捧げまつれり

 

思ひつめ祈りをこめて自裁せし友の笑顔を永久に消ゆるなし

 

静かにして清らなりけるみささぎを電飾せよと言ひし男が大阪市長とは

 

人の命のはかなさをあらためて実感す我より二歳年長の僧侶の訃報

 

笑顔絶やさぬ僧侶でありしが突然にこの世を去りしこの悲しさよ

 

人の恩人の厚意を忘れずに日々過ごすなり恵まれし身は

 

愚禿親鸞行者日蓮どちらとも乱世の民衆を救はんとせし

 

拷問し責め殺したる警察官が罰せられたりといふ事を聞かず

 

戦前の特高警察の暴虐が追及されることなきをいぶかる

 

出口日出麿小林多喜二は国賊ゆゑ虐殺されても廃人されても良しとは思はず

 

大本弾圧の指揮を執りたる警保局長が戦後法務大臣になりたる不思議さ

 

このやうな歌を作るはサヨクかと言はれても良し許し難ければ

 

わが部屋に我の他に生息するは油虫とは悲しかりけり

 

何事も柳に風と受け流し生きればよいものをさうはいかない

 

苦しみて長生きするよりあっといふ間にあの世に行くがよろしかりけり

 

安らかに眠りませと祈るなりこれの世を去りたまひたる父母の御霊

 

高き樹が真っ直ぐ青空に向かひ立つ父母の眠ります菩提寺の庭

 

父母と共に参り来し菩提寺で父母の眠れる御墓を拝す

 

新しき卒塔婆を供へ父母の御霊やすかれとたゞに祈れり

 

何十万もする腕時計を見てをれば店の奥より睨む店員

 

和光といふ店の名前とは裏腹に客を怪しみて睨む店員

 

嫌の感じといふ言の葉を思ひ出すこと多し未だ修行の足らざる我は

 

書き終へし原稿一本メールにて送りし後のやすらぐ心

 

み祭りを終へて出て来し神域は夕闇に包まれ静かなりけり

 

日本は美しき國とトランプは言ふその国を焼土とせしは一体どこの國

 

時計台といふラーメン屋がありたるを思ひ出しつつ銀座四丁目に立つ

 

實川延若が颯爽と銀座を歩みをりこの世を去りてもう幾歳ぞ

 

初夏の光に照らされにつつ無縁坂を下り来れは不忍池見ゆ

 

垂乳根の母の優しさ今にしもしみじみ思ふ一人生きる我

 

五十年来の同志(とも)の講演聞きにつつその元気さに驚きにけり(宮崎正弘氏)

 

様様の事がありたる人生生きて来て今宵はここに歌詠みてゐる

 

これからは幾年生きるか知らねども為すべきことはなさんとぞ思ふ

 

 

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千駄木庵日乗六月四日

午前は諸事。


午後からは、室内整理整頓。『伝統と革新』編集の仕事、明日のインタビューの準備、原稿執津、資料整理など。

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2019年6月 4日 (火)

桜田門外の変は徳川幕府瓦解、天皇を唯一の君主と仰ぐ國體明徴化即ち明治維新実現の発火点になった

第百二十一代・孝明天皇は、安政五年(一八五八)の『日米通商条約』締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米國条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなり」と深く幕府の専断を嘆かせたまひ、同年六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、実に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

孝明天皇は、

あぢきなや またあぢきなや 蘆原の たのむにかひなき武蔵野の原

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

「征夷」の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

市井三郎氏はその著『明治維新の哲学』において、「政治的対決は、一国の体制を倒すか守るかぎりぎりにまで高まると、暴力的なものの出現は多かれ少なかれ不可避になります。…(注・明治維新の)変革過程の直接の発端に戻りましょう。その幕を切って落としたのは、万延元年三月の水戸浪士と水戸学に影響された薩摩藩士の井伊大老暗殺でした。それは結果として、幕府に対する朝廷の権威を高め、政治の中心地を江戸から京都へ移してしまうほどの力をもっていました。それほど歴史的に意味のある行動を行い得たのが、水戸学に動かされた人々である」と論じてゐる。

政治的大変革に直接行動が大きな役割を果たしたことは、大化の改新など歴史を見れば明白である。明治維新の後も、明治第二維新運動において、紀尾井坂事件即ち大久保利通暗殺が大きな役割を果たし、その後、自由民権運動の活発化、議会開設・民選議院設立、帝国憲法発布が実現した。

明治維新前の桜田門外の変即ち井伊大老暗殺は、まさに徳川幕府瓦解、天皇を唯一の君主と仰ぐ國體明徴化即ち明治維新実現の発火点になったのである。

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千駄木庵日乗六月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『やまと新聞』連載の「歴代天皇御製に学ぶ」の原稿執筆・脱稿・送付。『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。病中多忙。気を付けねばなりません。机に向かった仕事なのでまだ助かります。

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2019年6月 2日 (日)

「入管法改正緊急反対集会」における登壇者の発言

昨年十一月二十七日に開催された「入管法改正緊急反対集会」における登壇者の発言は次の通り。

鈴木荘一氏「インターナショナリズムからナショナリズムに移行しようとしている。この動きは第二次世界大戦後のシステムが壊れ、新たな国際秩序を作るため模索している時代。マスコミはナショナリズムをポピリズムと言っているが見当違い。昭和四年に世界恐慌。その時、英米は反グローバリズムに移行した。濱口内閣は金解禁して一周遅れの国際化をした。嵐の時に窓を開いた。世界恐慌を一番強烈に受けたのが日本だった。それで戰爭に突入。これが昭和の失敗。今日の日本企業は三百兆円をため込んでいても勤労者に賃金という形で還元していない。賃金を上げないから景気が良くならない。人手が足りないから外国人を入れなければならないというのは嘘。四一万人が働けない。その人達に働いてもらえばいい。彼等に仕事についてもらえば外国人労働者を入れる必要なし」。

西村眞悟氏「一番危険なのは支那人。中共が国防動員法を制定し、日本にいる中国人は中国のために戦おうとしている。我々は彼らを監視すべし。平成の御代の最後にこんな法案が出来たのであるから、尊皇攘夷の戦いをして日本を取りもどしたい」。

三浦小太郎氏「五年前にヨーロッパに旅行した時、レストランで鞄は足の下に置きなさいと注意された。政治家はきれいごとが言えるが、実際に生活している皆さんは言えない。移民政策はとらないなどと偽善的なことを言うべきではない」。

赤尾由美さん「私は差別主義者ではない。ブータン人と結婚し、子供が二人いる。外国人と結婚し外国の暮らすのがいかに大変か体験した。経済界の要請でこの法案を出したと言われている。わたしの企業は従業員が二百人いる。努力と根性と残業で乗り切っている。同一賃金・同一労働・国柄を失うのが大問題。日本語を話し、皇室を尊敬する、八百万の神を信仰するという要件を満たせば、日本に住んでも良い」。

松原仁氏「こんなに早く採決に持ち込まれるとは思わなかった。シンガポールは移民に対して凄まじい監視をしている。メイドさんが妊娠したら祖国に戻ってもらう。建物の移民の占有率が決まっている。一定の人間が集まると先祖返りをする。一神教の人々が自己主張したら我々は対抗できるのか。未来の国民に責任を持つためにこの法案は潰すべし」。

稲村公望氏「金のために来る人はお断りすべし。人手不足というのも嘘。仕事が無い日本人がいる。地方が困っている。補助金が無くなった。バラマキが無くなった。沖縄に仕事が無くなければ東京へ行くと言う。食えないから日本へ行けばいいということになった」。

岡野俊昭氏「移民を簡単にすることは日本伝統文化を壊すこと。歴史を失った国民は滅びる。日本の伝統文化が汚染されないようにしなければならない」。

落合道夫氏「トロイの木馬になる危険。政府が敵に占領された。人手不足という一時的なことで国民的な事を決めるのはやめてもらいたい」。

西村幸祐氏「安倍内閣丸六年。外交安保についてはほぼ完璧。この期に及んで何故こんなことをするのか。日本はすでに移民国。第二次大戦後、朝鮮人がいる移民国家になった。そして日本人はひどい目にあった。何故また同じことをやろうとしているのか。北朝鮮から漂着船が物凄く来て、十一月には特に増えた。すでに上陸している人もいる。アメリカと中国は経済戦争をしている。中国が破綻したらどれだけ難民が押し寄せて来るか。この法案は潰すしかない。その方法が無くて私も途方に暮れている。安倍政権は中道左派政権。安保・外交は百パーセントまとも。アベノミックスもそれなりに成功。今度の入管法は駄目。メディアが本質を報道していない。官僚が馬鹿。政治家はレベルが低い。『日本国憲法』では詔を発してはいけないことになっているのに、東日本大震災とご譲位のご放送が行われた。今上天皇は憲法を超越しておられる。生前退位という言葉はあり得ない。譲位が正しい」。

坂東忠信氏「日本はすでに移民国家。九十日を越えて日本に滞在する人は二五六万人。四十八人に一人が移民。アメリカが中国に経済戦争。中国に暴動が起こり餓死者が出るまでやるということ。その時、七三万人が難民になって日本に来る。自民党議員の九割が反対。しかし、人手不足の企業が賛成なので支援を受けているので、しょうがなく賛成。働く喜びを子供たちに伝えるべし」。

藤木俊一氏「移民がある塊になると権利を主張し始める。日弁連が国連に来ている。人権について色々要求を出している。慰安婦問題などで日本人を痛めつける。移民を助けることが飯のタネになる。永田町は、朝日新聞とテレビに批判されないことばかり考えている。八千人の高度技術者がいなくなって逃げた。日本に土に合わない。取りあえず入れちゃおうというのは駄目」。

松木國俊氏「移民が増えて日本人が日本人の心を無くすのが一番怖い。日韓併合を見ても、日本人と韓国人が一つの國を形成するのは無理。文化と文化がぶつかり合う。日本人が生き残るためには日本人は優しい心を無くさねばならない。少子化の原因はお金。教育に金がかかりすぎる」。

山岡鉄秀氏「不法難民に直結する法案。法務省は入国だけ管理している。警察は手が回らない。日本に失踪外国人を見つけて帰国させる機能なし。オーストラリアは『静かなる侵略』と戦っている。全ての中国人が中国共産党の指令に従って動いていると見るほかはない。中国の侵略はすでに始まっている」。

藤岡信勝氏「昭和十二年七月二九日、通州事件が起こった。五百人の日本人居留民がいる所で中国兵が暴動を起こした。深夜十二時、城塞都市の城壁の入口を閉鎖し、電話を切断し、すべての日本人をなぶり殺しにし、凄まじい殺し方をした。同時進行で目撃していた日本人女性に出会った。日本人がどのようなことをやられたかの記録を讀んで切実さを実感した。二年前にパンフレットにした刊行した。同じことが将来必ず起こる。中国人は残虐。中国軍は通州事件を起こす数週刊前に日本人の家族構成を調べた。チョークで日本人の家の印をつけた。日本人に対して一人残らず本当に信じられないことをした。計画的。敗戦時も、大陸や朝鮮半島で日本人は大変な目に遭っている。安倍政権は『日本を取りもどそう』というスローガンで政権を取ったのに日本を滅ぼすことをやっている。チャイニーズやコリアンの性格を言わんとするとヘイトスピーチ法を作って弾圧して来る。まともに史実を見て、客観的に見なければならない。私は安倍政権支持を今日限り言わない。反対していた自民党議員に官邸から圧力がかかった。やってはいけない禁じ手の悪政が入管法改正」。

佐藤和夫氏(司会者)「安倍さんはこの一点で全てがパーになる」。

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千駄木庵日乗六月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆、資料の整理など。

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今日の講演会における興味深い発言

今日の講演で宮崎正弘氏から大変興味深い発言があったので報告します。

 

「習近平は評判が悪い、とくに軍人の評判が悪い。暗殺の危険あり。愚劣な指導者は追いつめられると愚劣な事をする。台湾への軍事攻撃の危険あり。しかし、軍は動かないだろう。中国四千年の歴史の中で中国軍は真面目な戰爭をしたことがない。台湾への上陸用舟艇の数も足りない。今年の『孔子平和賞』は鳩山由紀夫になるかもしれない。世界の嗤いもの」と語った。

 

なるほど、毛沢東は「敵が後退すれは我が方は前進し、敵が前進すれば我が方は後退し、敵が駐屯すればわが法は攪乱する」と言った。つまり真面目に戦争をしないということである。

 

鳩山由紀夫は本日北朝鮮からも称賛されたと報道された。鳩山は歴史上最低の総理大臣であった。そんな人が国の内外で国益を損なう動きをしているのは本当に困ったことである。

 

講演については、小生のメモと記憶による記述ですから責は小生にあります。

 

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千駄木庵日乗五六月一日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。評論家の宮崎正弘氏が「米中戰爭の行方」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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2019年6月 1日 (土)

和歌の勃興は祖国愛の勃興と一体である

 日本人として自然な心で天皇を仰慕し、國を思ひ、國土を讃美する歌は萬葉時代から現代まで数限り無くある。

 『萬葉集』は、日本の傳統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であり決して平穏無事な時代ではなかった。その國難を打開し、天皇中心の新國家體制の確立をはかったのが、大化改新である。

大化改新を断行した後、日本は天智天皇二年(六六三)に白村江の戦ひに敗れた。しかし、國家の統一を失はなかったのは、愛國心・ナショナリズムが燃え上がったからである。

かうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國體の素晴らしさを美事にうたひあげ、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されてゐる。だから『萬葉集』には柿本人麻呂などの天皇讃歌國土讃歌の歌や防人歌といふ國土防衛への決意の歌が収められてゐる。

平安時代になって、漢風文化が浸透して國風文化が軽視された時代が長くつづいた。『萬葉集』以後『新撰萬葉集』まで、約百三十年間(平安朝前期)、わが國の文學の主流は表面的には漢文學であった。漢詩の勅撰集は撰進されたが和歌の勅撰集の撰進はなかった。どうしてこのやうなことになったのか。

阿部正路氏は、「平安時代に入って、急に和歌が衰えた理由として、光仁天皇以後、近江朝系統が勢いを得て、帰化人の進出がいちじるしかったことや、和歌と縁の深かった大伴氏らの勢いが衰えたことなども挙げることができると同時に、新都による生活の変化や朝廷をめぐっての事が多く、内外共に尚武的實質的になったことなどをあげることができる。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

ただし、和歌と尚武の心は相矛盾するものでないことは、須佐之男命・日本武尊の御事績を拝して明らかである。むしろ「剣魂歌心」といはれるやうに武の心と歌心は一體である。

今日の混迷状況を打開し変革するためには、長い歴史を有する日本民族が育み継承してきた伝統精神への回帰とそれを基盤とした愛国心(日本民族としての帰属意識)の昂揚が必要である。

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や国難の打開は、必ず愛国心・尊皇心の興起と一体であった。

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言えば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。日本人として自然な心で天皇を仰慕し、国を思い、国土を讃美する歌は萬葉時代から現代まで数限り無くある。

『萬葉集』において国家意識を明確に歌った歌としては次のやうな歌がある。

「いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴の御津(みつ)の濱松待ち戀ひぬらむ」

 「さあ、人々よ。早く日本へ帰らう。あの難波の大伴の郷の御津の濱松ではないが、残してきた家族が待ち焦がれているだらう」といふ意。

山上憶良が遣唐使として唐にゐた時、祖国を偲んで歌った歌。日本回帰の心が見事に美しく歌はれてゐる。憶良は唐との文化の対比において日本を自覚し祖国愛に目覚めたのである。

仁和三年(八八七)、宇多天皇が即位されると、天皇親政の復活と摂関藤原氏の抑制に力を尽くされると共に、遣唐使を廃止し、平安初期百年の間支那模倣の科挙の制度のための漢詩文全盛の陰になってゐた伝統的な和歌を復興するなど、支那崇拝を排して国民的自覚を明確にし、國體意識興起の復古維新を断行された。そして、延喜五年(九0五)醍醐天皇の命により紀貫之などによって、日本の伝統美・風雅を見事に結晶させた『古今和歌集』が撰進された。

平安時代の人々の心の中核には天皇仰慕の心と神代への回帰の心とがあった。

在原業平は

「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ」
「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」

と詠んでゐる。

さらに国歌『君が代』の典拠である

「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」

も『古今和歌集』の「賀歌」である。
 
武士の勃興によって王朝文化が滅びゆかんとする乱世変革の時代に、後鳥羽上皇の命により元久二年(一二〇五)に撰進されたのが『新古今和歌集』である。

「もろこしも天の下にぞありときく照る日の本を忘れざらなむ」

 成尋法師という人が延久四年(一〇七二)支那に渡った時に、その母が詠んだ歌。「唐土も同じ天の下にあると聞いてゐます。天に照る日の本である日本を忘れないで下さい」といふ意。息子が仏道修行に行く支那も日の本の国たるわが天日の光が照らしてゐるのだから、日本人としての誇りを忘れるなとよびかけてゐるのである。聖徳太子の御精神に相通ずる誇らかな愛国精神の歌である。

このやうにわが国の愛国精神は、いかなる時代にあっても、脈々と和歌といふ文藝によって継承されて来たのである。

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千駄木庵日乗五月三十一日

午前は、諸事。

 

午後からは在宅して、資料の整理、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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