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2019年5月 5日 (日)

上皇陛下、今上陛下の御製を拝し奉りて

今上陛下のご即位を謹しみて寿ぎ奉る。

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された上皇陛下の「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。今日の日本の混迷を救う基礎は、敬神崇祖・尊皇愛国の精神の回復である。

 

日本国の祭り主であらせられる天皇は、「私」をお持ちにならない。ひたすら民やすかれ、国安かれと祈られる。天皇陛下は、新嘗祭において衣冠束帯で二時間正座されると承る。

 

「天皇の國家統治」とは、天皇が精神的・文化的に國家と國民を統合される事を言ふのであり、天皇が日本國の君主であり統治者であるとは、天皇が日本國の傳統・文化そして歴史的永続性を体現され日本國民の統合を体現される御存在であるといふ事である。

 

天皇が日本國及び日本國民を統合され統治される御存在であることは建國以来の道統である。

 

「統治」といふ言葉は漢語である。〈やまとことば〉で言へば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまひ民もまた天皇の御心を知る」といふことが「統治」なのである。

 

祭祀國家・信仰共同体たる日本において、祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の「しろしめす」=國家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本國が成立する。それはまさに「やまと歌」によって成立するのである。

 

天皇の即位は、聖なる『日の御子』御生誕であり天降りであり、新たなる大御代の始まりである。肇國(はつくに)・稚國(わかくに)への回帰である。

 

天皇即位の時、天津日嗣の高御座に登られ百官の前にお姿を現される御装束は、日の御子のお姿である。「天津日嗣の高御座」とは、天上の日の神とおられるところと同じ高いところといふ意味であるといふ。また、大嘗祭は、若々しい新生の「現御神御誕生」の祭祀である。

 

今上天皇におかせられては、皇太子であられた平成二十五年十一月二十三日の「新嘗祭」の際、次の御製を詠ませられた。

 

御社の 静けき中に 聞え来る 歌声ゆかし 新嘗の祭

 

静まり返った皇居・神嘉殿に於いて、殿舎の外から聞こえて來る神楽の音色に耳を傾けられつつ、我が国のその年一年の平安と豊作に神への感謝のみ心を静かなる御心で歌に詠まれたと拝する。

 

皇位の継承は祭祀の継承であり、それは現御神日本天皇のご使命・ご自覚の継承である。将来ご自身が皇位を継承され、祭祀を司ることになるといふ秘かなる御自覚・責任感が、まさに静かにそしてゆかしく歌はれてゐると拝する。

 

上皇陛下におかせられては、平成二年、「大嘗祭」と題されて、

父君の にひなめまつり しのびつつ 我がおほにへの まつり行なふ

 

と詠ませられた。この先帝陛下の御製も、祭祀の継承をゆかしく詠ませられた御製である。今上陛下は、上皇陛下がこの御製に示された御心と同じ御心を歌はれたと拝する。

 

天皇が即位の大礼を行はれ、大嘗祭を執行されるといふことは、すなはち天皇の神聖性の確認であり、現御神日本天皇の靈統の継承なのである。
    
祭祀と歌会始は日本の伝統を継承する中核行事である。祭祀とやまと歌の道は、日本の道そのものである。その中心に天皇・皇室がましますのである。これがわが日本の國體の精華である。

 

日本伝統精神は、天皇の祭祀を中核として今もなおその生命が伝えられている。のみならず、現実に、今上天皇の常に民の幸福を祈られ自然の命を慈しみたもうご精神とご行動が、人心の荒廃と自然破壊を食い止める大きな力となっている。

 

日本国の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇のご存在があってこそ、日本国は安定と平和が保たれるのである。今日の日本は醜い権力闘争が繰り広げられている。夢も希望もない亡国の淵に立たされているかの如き状況である。しかし、天皇陛下の清らかなお姿を拝すると、心洗われ、無上の安らぎを覚える。陛下は、まさに「やまと心」・「無私の精神」の体現者であらせられる。天皇・皇室がおわします限り日本国は安泰であると信ずる。

 

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