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2019年5月17日 (金)

孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となった。

吉田松陰は、『講孟箚記巻の一』「梁恵王下篇第八章」において、「(注・漢は)天の命ずる所を以て天の廃する所を討つ。何ぞ放伐を疑はんや。本邦は則ち然らず。天日の嗣、永く天壌無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へる者なり。故に億兆の人、宜しく日嗣と休戚(注・喜びと悲しみ)を同じうして、復た他念あるべからず。若し夫征夷大将軍の類は、天朝の命ずる所にして、其の職に称(かな)ふ者のみ是に居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職の如くならしめば。直ちに是を廃するも可なり」。
(支那に於いては、天の命ずる所に従って天が排する者を討つといふ放伐思想を疑はない。わが國はさうではない。天照大御神の継嗣は天地と共に極まりなく永遠の存在であるので、この日本は天照大御神が開き給へる国で、天照大御神の継嗣が永く護り給へるものである。故に多くの人々は、良く天照大御神の継嗣と喜びも悲しみも共にして、他の思ひを持ってはならない。征夷大将軍の地位は、天朝の命ずるところに従って就任するのであるから、その職責にかなふ者のみその地位にゐることができる。だから、征夷大将軍が足利氏のやうに職務をおろそかにすることがあったならば、ただちにこれを廃しても構はないのである、といふ意)。

 

吉田松陰は、征夷大将軍がその職責を全うし得ず、夷狄を平らげることができなくなり、天皇のご信頼を失った場合はこれを打倒すべきであると論じたのである。この思想が徳川幕府打倒運動の正統性の根拠になる。

 

「天命が去った暴君を討ち倒すのは正義である」といふ支那孟子の「湯武放伐論」を日本的に昇華させ適用したのが松陰である。即ち、天照大御神の子孫(生みの子)であらせられる日本天皇は、神聖なるご存在であり、天そのものであり給ひ、日本の永遠の君主であらせられる。しかし、徳川将軍は覇者であり、征夷の職責を果たせなくなったらこれを討伐してよいといふ思想である。

 

孝明天皇の大御心にこたえ奉る変革が明治維新だった。嘉永六年(一八五三)にペリーが来航した。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行ひ開国を迫った。かうした事態に対して徳川幕府は、軍事的衝突を避けつつ、全國の力を結集する必要に迫られた。

 

徳川幕府は、鎖国を国是としてゐた。ところが、鎖國といふ徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを、朝廷にお伺ひを立て、各大名そして陪臣(大名の臣)にまで広く諮問した。

 

徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に委任されてゐる。朝廷は政治に口出しはできない」といふ原則を幕府自身が踏み躙らざるを得なくなったのである。これは徳川幕府の自己決定権の喪失であり、徳川幕府が国防の任を全うし得ないことが満天下に明らかになったのである。幕府権威の大きな失墜であり、幕府瓦解の始まりであった。

「御家門筆頭」とされる越前福井藩主・松平慶永ですら、ペリーの開国要求に屈した幕府に対し「征夷大将軍の御重任は御名のみにて、上は天朝御代々、神祖(注・家康のこと)御始御歴世様方え対され、下は諸大名万民迄えも、御信義地を払い云々」(『安政元年二月三十日、阿部正弘宛建白書』)と批判した。

 

征夷大将軍の「征夷」とは、「夷を征討する」の意である。「夷」とは、第一義的には外敵のことである。征夷大将軍の最も重要な使命・責任を果たせくなっゐることがペリー来航によって明らかとなったのである。まさに徳川幕府の正統性が根底から崩れ始めたのである。

 

徳富蘇峰氏は「(注・ペリー来航は)日本国民に向かって、一面外国の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるに足らざることの不言の教訓を、実物を以て示した…これがために二百五十年間全く冬眠状態であった京都の眠りを覚まし、たとえて言えば従来神殿に鎮座ましましたるものが、現つ神の本面目に立ち還り、ここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った。」(『明治三傑』)と論じてゐる。徳富蘇峰氏の「現つ神の本面目に立ち還り」といふ指摘は重要である。

 

孝明天皇は、文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。四月十一日には、石清水社に行幸あらせられ、攘夷の叡願があった。さらに二十一日には、賀茂蔡を行はしめ、外患一掃を祈願された。国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となった。

 

 

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