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2019年5月23日 (木)

天皇の「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」の回復

私はその「戦後民主主義」自体を疑ってかからないといけないと思ふ。民主主義とは「國民主権」と同義語であるやうだ。しかし、わが國の本来の姿は、建國以来天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体である。天皇と國民は権力関係・支配被支配の関係にあるのではない。「主権が國民にあるか君主にあるか」といふ西洋國家観はわが國にはあてはまらない。したがって、主権者は國民であるなどといふ戦後民主主義はわが國の國體に合致しない。

 

日本を弱体化する目的で押し付けられた「現行占領憲法」には「天皇は、日本國および日本國民統合の象徴であり、その地位は主権に存する日本國民の総意に基づく」と規定されてゐる。

 

天皇がなにゆゑ日本國及び日本國民統合の象徴であられるのかが書かれてゐない。「天皇・皇室は國民統合の象徴である」といふ条文は「天皇の空間的統一性」をある程度表現してゐるとは思ふが、天皇・皇室は神話時代以来の傳統を継承されるといふ「天皇の歴史的傳統性(時間的連続性)」は全く記されてゐない。

 

心の底では「天皇制などなくなってしまった方が良い」と思ってゐても、「天皇制支持」が八十㌫を超える今日、なかなかそれを言ひ出せない連中による「天皇及び國體を何とか無化しやうとする策謀」が渦巻いてゐる。『朝日新聞』はその元凶である。

 

さうした状況における「日本弱体化のために國民の皇室尊崇の心を希薄化しやうとした占領政策」にのっとった皇室論、そしてそれに便乗した左翼勢力の「天皇制打倒」を目的とする皇室論は厳しくこれを否定すべきである。

 

「現行憲法」上の「象徴」といふ地位は一体いかなる存在なのか。國民統合の「象徴」であられる以上普通一般の人間ではない。しかし、民主主義國家であり主権は國民にあるのだから、天皇は一般國民の上に立つ存在ではない。しかも、一般人よりも道義的道徳的に優れた存在でなければならない。その上、自由な発言される事も許されない。

 

皇族をこのやうなお立場に囲ひ込み、がんじがらめにし奉ってゐるのが、今日の「象徴天皇制」なのである。政治家と官僚の非人間的な「操り人形」として扱はれる状況が、今日の皇太子殿下のご発言になったのではないか。

 

桶谷秀昭氏は、「『たとへば勇気でも親切でも、私たちがさういふ抽象的な属性の<象徴>たらうとすれば、全生活をあげてそれにならうとする結果、身動きのできぬ非人間的な存在にならざるを得なくなるだらう』と言ったのは、福田恒存である。つまり、『象徴』といふ概念は、天皇を神格化しないが、非人間化を強ひるものである。天皇は一度も人間になってゐない。大衆社會のとどまることを知らない卑俗化に耐へ、なほかつ『象徴』なる規定によって非人間化を強ひられてゐるのが、今日の『象徴』天皇である。皇太子殿下が、『人格を否定するやうな動き』といはれたのは、宮内庁の中の誰かが雅子妃殿下に嫌がらせを言ったとか、いぢめたといふ次元の問題ではないであらう。だから『動き』といはれたのであらう。この『動き』は、多分、皇室の傳統や慣習とからみあって、『象徴』規定にあいまいさに無自覚な人間たちの、悪意のない非人間化の意思を指してゐるのであらう。悪意がないだけに、それは一層残酷な効果をもつのである。」(『諸君』平成十六年七月号「わざはひの根としての『象徴』規定」)と論じてをられる。

 

現御神日本天皇及び日嗣の御子としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

古代の天皇様は現御神(生きたまふ神)として崇められつつ、人としてもきはめて自由に行動されてゐた。天皇の最大の御使命である祭祀とは、神人合一の行事である。「神人合一」とは「人にして神・神にして人」といふことである。天皇は、「人にして神・神にして人」であらせられるのである。

 

この場合の「神」とは一神教のゴッド・宇宙創造神・絶対無謬の唯一絶対神ではない。天地自然に宿りたまふ八百萬の神々であり、太陽神であるとともに皇室及び日本民族の祖先神=天照大御神である。「天皇が現御神である」とは、天皇が唯一神・全知全能の神・絶対無謬神だといふ事ではない。天皇が祭祀國家・信仰共同体日本の祭り主といふ「人として最も尊い御存在」であるといふことである。

 

また、祭り=神人合一とは、一切の「私」を禊祓ひ去って生成の根源に帰ることであり、「無私」こそが「祭」の窮極である。したがって、天皇の本質は「無私」なのである。無私だからこそ現御神といふ最高に尊い御存在となられるのである。

 

猪瀬直樹氏はかつて「朝まで生テレビ」で、「天皇家に意味があるとすれば、天皇が無私=ゼロ地点にあるので、みんなが欲望で生きてゐる時に、さういふ人がお祈りをしてゐるのだなあといふことがある種の秩序になってゐる」と述べたが、ほぼ正しい見解である。

 

天皇が國民を統合される尊貴な御存在であられるといふことは、天皇は神にして人であらせられるといふことである。天皇が日本國の祭祀主であらせられることが、天皇が國家國民の統合の中心であり君主であらせられることの源泉なのである。「人にして神である」といふ天皇及び日嗣の御子の御本質・日本國の祭祀主であり統治者としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

天皇の「おほらかにして自由なそして神聖なる君主としての傳統」「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」が回復されるべきである。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた占領憲法の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の傳統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといへば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまふことが間違ひなのである。

 

成文法といふものは、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合へないから、成文法を作ってお互ひにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが國は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と國民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆゑに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。

 

天皇も皇族も自由に御発言され御行動されて然るべきだし、天皇の御地位・自然な御行動・御発言は、成文法や政治家・官僚・メディアによって制限されるべきではない。

 

天皇中心の日本國體は、近代成文法や近代合理主義や近代民主主義を超越した存在である。しかしどうしても成文法に天皇を規定しなければならないのなら、現行憲法の「象徴天皇」の規定を根本的に改めて、日本國の祭祀主・統治者の御地位にあられることを明確に規定すべきである。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのなら絶対に不可である。

 

「開かれた皇室」とは何か。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのならこれは絶対に不可である。現行憲法体制の「象徴天皇」は、歴史的傳統性・時間的連続性を剥奪されたままで「象徴」などといふ地位になってゐるから、非人間的な無機質な操り人形のやうなお立場に立たれるほかはなくなるのである。「象徴」といふ地位は卑俗化し、開かれた皇室=皇室の大衆化といふ言葉によって、ますます尊厳性は隠蔽されるのである。

 

そもそも大衆と同じレベルの「人間」が「國家國民統合の象徴」といふ地位になることは不可能である。その不可能を現行憲法施行以来今日迄可能にして来たのは、古来から皇室の傳統性が生きてゐるからである。「開かれた皇室論」は「天皇制」打倒・國體破壊そのものである。その具体的にあらはれが、皇室への尊敬語の不使用である。
天皇・皇室は格別に尊貴なる御存在であるから、大衆化はあり得ない。大衆化した時、「象徴」としての地位がなくなるばかりでなく、日本國體が破壊されるのである。

 

現御神・祭祀主としての傳統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。建國以来三千年の傳統をに回帰し護持する事が最も大切である。皇室の御事はそこから考へねばならない。

 

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