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2019年5月27日 (月)

和平救國路線をとった汪兆銘の再評価は未だに行なわれていない

昭和四十年代後半にはじめて台湾を訪問した時、ホテルで讀んだ國民党の機関紙『中央日報』が、汪兆銘のことを汪逆精衛、陳公博のことを陳逆公博、毛沢東のことを毛匪沢東、葉剣英のことを葉匪剣英と書いていたのを讀んで驚いた。わが國の戦時中の教科書でも足利尊氏を足利逆尊氏、大杉栄のことを大杉匪栄とは書かなかった。戦後の日本人の多くは、左は毛沢東萬歳、右は蒋介石萬歳だった。そして汪兆銘を無視した。また、台湾独立運動にも非協力的だった。

李登輝氏によって台湾の民主化は實現したが、和平救國路線をとった悲劇の政治家汪兆銘の再評価は日本においても支那においても未だに行なわれていない。『反清復明・滅満興漢』が辛亥革命のスローガンだった。満州は支那ではない。無主の地を開拓し殖産興業・民生安定の實を挙げたのは日本だった。満州事変と満州建國は日本の支那に対する侵略ではない。東條英機元総理を侮辱する銅像が海南島に建てられても、政府もマスコミも一切抗議しない。

以前、米沢を旅行した時、明治維新の際、薩摩に対して『官軍の名を借りて暴虐を行なっている』と抗議し、ついに梟首の刑に処せられた雲井龍雄の旧居址を訪ねた。そこには「憂國志士雲井龍雄遺蹟 中華民國行政院長梁鴻志 昭和十三年建碑」と刻まれた石碑が立っていた。

梁鴻志は、昭和十三年に南京に樹立された中華民國維新政府行政院長をつとめた政治家である。その年、来日した時に、この石碑の文字を書いたと思われる。汪兆銘が昭和十五年に國民政府還都を行なった時、合流して監察院長となり、汪氏逝去後は立法院長となった。戦後、漢奸として裁かれ、昭和二十一年銃殺刑に処せられた。梁鴻志はまるで自分の最期を予感したかのように、同じように叛逆者として死刑に処せられた雲井龍雄という人物のために筆をとったのである。なんとも悲しくも不思議な因縁と言わざるを得ない。梁鴻志は単なる親日家ではなく、深く日本の歴史と道統を理解していた人であったと思われる。

雲井龍雄は、『討薩之激』という文章で、「薩摩多年譎詐萬端、上は天幕を暴蔑し烈侯を欺罔し…薩族の兵東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざるなく、…人の鶏牛を盗み、或は婦女に淫し発掘殺戮残酷極まる。…これ今上陛下をして桀紂の名を負はしむるなり」と書いている。

汪兆銘・梁鴻志なども、決して祖國を裏切ったのでなく、わが國と協力し和平することが祖國のためになると信じたのであろう。雲井龍雄・江藤新平・汪兆銘・梁鴻志など、歴史上叛逆者・逆賊として葬られた人物の真の姿をもう一度見直す必要がある。

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