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2019年5月 8日 (水)

今こそ日本國民全体が愛國心・大和魂を発揮して國難に当たるべき時である


 『男らしさの美學』という文章で三島由紀夫氏は「私は日本で革命を成功させる一番いい方法は、日本の政界、財界、文化界のおえら方、いはゆる支配勢力を全員数珠つなぎにして、全裸で、銀座を歩かせることだ。…その醜悪さに民衆は、自分たちを支配してゐた権力の實態を直ちに知るだらう。この世を支配してゐるのは美ではない。といふことを端的に知るだらう。美の革命が即座に起るだらう。男が服装において、肉體の線を出せば出すだけ、權力乃至地位の威嚴と抽象性が弱まる」と論じた。

 三島由紀夫氏はまた、『行動學入門』で、「武器といふ一定の目的を持った道具を使って、人間がその武器と同一化して、目的に向かってまっしぐらに突進することを、行動といふものの定義と考へていいと思ふ。なぜならわれわれの行動は目的なしにはあり得ず、われわれの肉體的行動は男である以上戰ひなしにはあり得ないからである」と書いている。
三島氏にとって行動・行為とは武器を持った戦いであったのである。

「三島由紀夫氏辞世

益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」

直訳すると、「日本男児が腰に差してゐる太刀の刀が鞘に合はないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」といふ意である。

しかし、「鞘鳴り」とは単に音がするといふ物理的な意味ではない。その刀剣に宿ってゐる靈がさやさやと発動するといふ意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたといふ意味である。

「楯の会」決起の際の『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒する者を待つわけには行かぬ」といふ叫びに呼応する歌なのである。

高崎正秀氏は、「今も刀剣を幾ふりと数へるのは、鞘に納めてさやさやと鎮魂した処にさやの名が起った様に、やはり魂触りした前代呪儀の名残を示すものであった」(『神剣考』)と論じてゐる。

日本語のサ行は、ものごとの「新鮮さ・神聖さ」をあらはす語彙が多く含まれる。早乙女・さっぱり・爽やか・栄える・榊・ささ(酒のこと)・幸・颯爽と、などである。

戸田義雄氏は、これらの言葉について「『早乙女』の『さ』は接頭語で、元来稲を指す言葉でした。神聖な稲が『さ』と発音されました。…日本人のことばの生活が、何を一番貴いと実感して来たか、を物語ってくれている。…稻、榊、酒・早乙女、はみな穀霊の豊穣を祈る神道祭祀と農耕儀礼に関係ある。全体が命の蘇った神聖、新鮮で栄を約束する感覚の『サ行音』で発音されている」(『日本人の感性』)と論じてゐる。

「鞘鳴り」とは、刀剣に籠ったさやさやと魂が発動して罪穢れを祓ひ清めんとする神聖なる音なのである。日本刀に気高さがあり、気品があり、神秘性があるのは、霊が籠ってゐるからである。

剣や玉など呪器に籠る霊力を振はせることによって、人間などの力を復活させることを「魂触り」と言ふ。御神輿が練り歩くのも、神体等を揺り動かすことにより神霊を活性化させる意義があるそれと。同じく剣を振る事によって本来活力を失った魂を再生し活力を再生させる。鎮魂は、ミタマシズメ・ミタマフリと言ひ、枯渇した人間の魂を振り起し、復活させ、衰微した魂の生命力を再生し復活させる行事である。

「刀は武士の魂」として大切にされて来たばかりでなく、神社の御神体即ち祭祀と礼拝と祈りの対象となってゐる。

そして昭和五十四年五月二十五日大東神社にて割腹した影山正治氏は

「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」

という辞世をのこしている。

愛国尊皇の心を張りつめた精神で歌ふ時、やはり日本伝統の文学形式即ち和歌で表現されることが多かった。漢詩にもすぐれたものがあるが、和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからである。

今日の日本はまさしく亡国の危機に瀕している。今こそ、その危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が祖国への愛・至尊への恋闕の思い歌ひあげる和歌の復興なのである。今こそ日本國民全体が愛國心・大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。

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