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2019年5月31日 (金)

愛國心・尊皇心は理論や教条よりも和歌によってよく表白されてきた

「愛國心」とは個人が運命共同體として結集し拡大された鞏固なる歴史的存在意識であるといふ。「愛國心」といふ言葉が使はれ出したのはおそらく明治以降であらう。「愛國心」および「ナショナリズム」といふ言葉は、明治以後外國との交渉や競争が激しくなってきてから使はれるやうになったと言へる。これはいふまでもなく「やまとことば」ではない。漢語である。

 日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに萬邦無比といはれる日本國體精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際しも國體精神が勃興した。

 大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言っている。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

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千駄木庵日乗五月三十日

朝は。諸事。

午前、病院に赴き診察を受ける。

帰宅後は、休息。

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『第1回SPF安全保障セミナー「ポスト冷戦」後の展望 ー米中新冷戦?あるいは更なる混沌か?』開催。
渡部恒夫上席研究員(元米戦略国際問題研究所(CSIS)上級研究員)、小原凡司上席研究員(元海上自衛隊ヘリコプターパイロット、在中国日本国大使館防衛駐在官)、山口昇参与(元在米国日本国大使館防衛駐在官、陸上自衛隊研究本部長<陸将)、西田一平太主任研究員(元内閣府PKO局研究員)がパネリストとなって討論。

帰宅後は、「傳統と革新」編集の仕事、原稿執筆。

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2019年5月30日 (木)

天皇陛下と国軍・自衛隊

トランプ大統領が陸上自衛隊の儀仗隊の栄誉礼を受け、整列した隊員を巡閲したとき、天皇陛下は共に巡閲されなかった。何故なのであろうか。大きな違和感を覚えた。政府からもテレビ報道でも何故陛下が共に巡閲されなかったのかの適切な説明はなかった。ある女性キャスターは「天皇は自衛隊に関係ないから」などと言っていた。「現行憲法」下では天皇は「国民統合の象徴」とされている。それでは自衛隊は国民ではないのか。天皇が統合された存在ではないのか。

軍および軍人が順従する対象は、時の政権でもなく権力体制でもない。祭祀主であらせられ、日本の道義精神の体現者であらせられる上御一人を君主と仰ぐ天皇国日本である。この基本が確立していなければ、軍が権力者の恣意によって動かされることとなるし、軍が単なる体制擁護のための暴力装置となってしまふ。
かかる意味において、私欲や党派の利害を超越したご存在であらせられ、無私の精神・清明心の体現者であらせられる天皇が軍の最高統率者であらせられるべきなのである。

戦後、天皇・皇室の文化的中心者としてのお役目や平和を祈られるご精神が強調されたことは素晴らしいことであった。ところがその半面、天皇・皇室と軍との関はり・武との関はりが全く無視され遮断されてきたことについては、小生は大きな疑問を持ってゐる。

戦後日本の「民主化」「非軍事化」「伝統否定」の中で、祭祀主・宗教的権威としての天皇のご本質が軽視され隠蔽され、天皇の祭祀といふ最も大切な行事が「天皇の私的行為」とされてゐる。さらに、天皇・皇室と国軍=自衛隊とのつながりも極端に制限されてゐる。また、天皇陛下が、一般自衛官の前に立たれて励まされることもないと承る。

『現行憲法』に「軍」の規定が無いから、天皇と軍との関係に関する規定もない。

しかし、何処の國も、元首・君主が軍の最高の「統帥者」(実際に軍を指揮するといふのではない栄誉的地位も含めて)である。日本のみがさうであってはならないといふことはないと信じる。

祭祀・生産・軍事といふ国家存立の三大要素の体現者が天皇であらせられる
「まつりごと」「生産」「軍事」といふ国家存立の三大要素が、天皇の国家統治を表象する「三種の神器」の意義である。天皇の御権能、国家統治の御精神は「三種の神器」に示されてゐる。「三種の神器」には鏡=祭祀・政治、玉=豊穣・生産、剣=軍事の意義がある。祭祀・生産・軍事の継承者・中心者・体現者が天皇であらせられる。皇室の道統に「武・軍事」があることを否定することはできない。

わが国傳統信仰において「剣」とは、単なる武器・人斬り包丁ではない。神の力が発現する神聖なる器物である。さらに、「剣」には、武勇・克己の精神が象徴される。剣は、己に克ち、無私の精神を象徴してゐる。

わが国においては、文化・政治・宗教などありとあらゆるものが、わが国におけるもっとも神聖なるご存在であらせられる天皇によってその倫理性・道徳性が保証される。であれば、軍事がその例外であるはずはない。

軍の政治的中立性、生命を賭けて国を守る精神と行動の精神的源泉は、天皇への忠節の心である。わが國における國軍の道義性は、「わが国軍は天皇の軍である」といふ精神から発する。道義を喪失した軍隊は、単なる暴力装置である。覇道精神・強いもの勝ちの精神が支配する軍は、悲劇を招く。

『陸海軍人ニ賜リタル勅諭』に示されてゐる通り、中世以降に武家が台頭し國政を掌握したことは、わが国の本来のあり方ではない。戦後日本のやうに、天皇と軍を全く切り離すことは本来の姿ではない。天皇が政治・軍事・祭祀の大権を掌握されるのが本来のあり方である。それによってわが国の道義が保たれるのである。

天皇を、国軍の尊厳性・道義性の拠り処とし、最高の精神的栄誉的統帥者として仰ぐ「天皇尊崇の精神」が、覇道精神・強いもの勝ちの精神を抑制すると考へる。

憲法改正あるいは自主憲法制定においては、國家の基軸中の基軸を為す天皇の「統治大権」「祭祀大権」「統帥大権」の復権が何よりも先に行はれなければならないのである。これが為されないかぎり真の憲法改正・自主憲法制定とはならない。

高橋紘氏などは、「明治初期に新しい国家を造るにあたって、天皇は陸海軍の統率者・統帥者であらねばならなかったから、天皇は男系の男子とした。女帝であってはさまにならないとした。」「明治以後、男系の男子でなければ皇位につくことあたはずとしたのは、女性では大元帥陛下として軍を統帥できないからだ」などと論じてゐる。畏れ多いが、女性天皇も「三種の神器」を継承され、「剣」のご精神を体現されるのである。女性天皇も軍の統率者であられる。事ある時には男帝女帝の別なく、天皇の御本質・御稜威が発現する。

ただ、戦前の日本軍が「上官の命令は天皇陛下の命令だ」と言って恣意的な命令に部下を隷従させたり、「統帥権干犯」を主張して、政府・議会の意志を陸海軍が全く無視したといふ事があったと伝へられる。かかる事を防ぐためにも、「天皇は国軍の道義的・精神的な統帥者である」といふ事を明確にすべである。

「尊皇」を言ひながら実は天皇のご意志を無視し逆らふといふことは絶対にあってはならないことである。

今日、政治の混乱・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そして人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性が大事になってくる。

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は常に、天皇を中心とするわが國體の精神であった。特に政治・倫理・文化・軍など國家民族形成の基本においてしかりであった。大化改新・明治維新の歴史を見て明らかなやうに、急速な変化と激動の中でわが國が祖先から受け継いだ伝統を守り、かつ変革を為し遂げた核は天皇のご存在であった。

近代のみならずわが國の歴史始まって以来、日本といふ統一された國家を体現する核が天皇であった。どのやうな困難な時期においても、日本國家・日本民族が常に伝統を守り統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その中心の核が天皇であった。

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千駄木庵日乗五月二十九日

午前は、諸事。室内整理清掃。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆。

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2019年5月29日 (水)

永井荷風のわが町千駄木讃美と近代日本批判

「根津の低地から彌生ヶ岡と千駄木の高地を仰げば、こゝも亦絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津權現の方から團子坂の上へと通ずる一條の路がある。私は東京中の往來の中で、この道ほど興味ある處はないと思ってゐる。…千駄木の崖上から見る彼の廣漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄に包まれ一面に煙り渡った底から、數知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には深い黄昏の微光をば夢のやうに殘してゐた。私はシヤワンの描いた聖女ジェネヴイエーブが靜に巴里の夜景を見下してゐる、かのパンテオンの壁畫の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。」

 

これは、永井荷風の随筆『日和下駄』(大正四年)の一節で、「千駄木の絶壁」の真下の駒込坂下町(千駄木三丁目)で育った私にとって、この文章はきはめて親しみ深いものがある。とりわけ、わが町を通る古道を「東京中の往來の中で、この道ほど興味ある處はないと思ってゐる」と評した荷風散人に無上の敬慕の念を抱く。

 

今日唯今も、私は、よく「千駄木の崖上から見る彼の廣漠たる市中の眺望」「數知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森」を眺めてゐる。荷風がこのやうな文章を書いたのは、彼が唯一尊敬してゐた先輩作家・森鷗外の住む観潮楼をよく訪問したからであらう。荷風は、わたくしにとって、最も親近感を抱き且つ尊敬する作家の一人である。

 

永井荷風は、近代日本の欧化主義に対して辛辣なる批判を行ひ激しい嫌悪を抱いた人である。グローバル時代とかいはれ、日本の傳統とか習慣とが侮蔑にされてゐる今日のおいてそれは大きな意味を持つ。永井荷風は、滔々たる西洋化・近代化の流れに圧倒されず、それを拒否し、江戸情緒・傳統文化をこよなくいとほしんだ人である。

 

永井荷風の近代批判の底流には、薩摩長州主導の明治政府への反感があった。それは、荷風の父・永井久一郎が尾張國愛知郡荒井村(現在の南区元鳴海町)の旧尾張徳川藩士の家の出で明治政府に出仕してゐたことと、母・恒(つね)は尾張徳川藩の儒学者として活躍した鷲津毅堂の娘であることによるといふのが通説である。しかし、尾張徳川藩は、江戸時代においても御三家筆頭の立場にあったが、尊皇の傳統を保持してゐた。また、戊辰戦争では新政府軍の一翼を担った。

 

荷風の薩長への反発は凄まじく次のやうな文章をのこしてゐる。曰く「江戸傳来の趣味性は九州の足軽風情が經營した俗悪蕪雜な明治と一致することが出來ず…」(『深川の唄』・明治四十二年)「薩長土肥の浪士は實行すべからざる攘夷論を唱へ、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顛覆したれど、原(もともと)これ文華を有せざる蕃族なり。」(『東京の夏の趣味』・大正二年)「瓦解(注・徳川幕府崩壊のこと)この方日々變る世間の有様、九州四國の山猿が、洋服ステッキ高シャッポ、馬車に乗って馳けまはる、見るもの聞くもの癪の種。」(『開花一夜艸』・大正九年)。

 

よくもこれだけ罵倒に近い文章を書けたものと感心する。かうした傾向は晩年まで続く。

 

「岩倉全權大使米歐回覧覽記を讀む時、人をして失笑噴飯せしむるものあり。大使の一行にはその副使として木戸大久保伊藤等の諸氏あり。この人々わづか三四年前までは鎖國攘夷を以て日本の國是となし、徳川幕府が外國との修好貿易の條約をなしたるを憤り外國使節の客舎に火を放ちまたは江戸城に忍入りて放火などをなせしものなり。伊藤博文が御殿山の英國公使館に放火せし浪士の一人なりし事は英人サトウの著書、又英國大使フレーザー氏夫人の著書に詳なり。」(『斷腸亭日乗』昭和十二月十四日)

 

「今日戰亂の世にあたりて偶然明治初年の人情を追想すれば、その變遷の甚しき唯驚くのほかはなし。明治以後日本人の悪くなりし原因は、權謀に富みし薩長人の天下を取りし爲なること、今更のやうに痛嘆せらるゝなり。」(『斷腸亭日乗』昭和十九年十一月二十一日)「…浪士をして華族ならしめた新日本の軍國は北米合衆國の飛行機に粉碎されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで國の木鐸となった。薩長浪士の構成した新國家は我々に何を殘していったらう。まさか闇相場と豹變主義のみでもないだらう。」(『冬日の窓』昭和二十年)

 

「薩長の軍隊は戰勝の結果この都城(注・東京のこと)を占領し、諸侯の空屋敷を兵舎と官廰に當て、こゝに新しい政府を建設した。何の事はない。他人の建てた古家に住込んで手當り次第間に合せの手入れをしたやうなものである。」(『假寝の夢』・昭和二十一年)

 

永井荷風の明治新政府への反感と抵抗心は、必然的に明治維新以前即ち江戸時代への憧憬・回帰の心となる。また、上滑りにして表面的な西洋模倣が、日本固有の文化を埋没せしめていることへの憤怒も強くなった。

 

荷風は、明治三十六年十月から四十一年五月までの約五年間欧米に滞在した。帰國後、日本の欧米模倣文化に嫌悪感を覚え、それが明治新政府を主導した薩長藩閥への反感を増幅させたと考ヘられる。彼の眼から見れば、明治以後の日本の近代化・欧化が上滑りのものであり、猿真似の域を脱してゐないと實感したのであらう。

 

荷風は近代化・西欧化によって埋没され破壊されつつあった江戸時代の遺物に対する愛着と、日本の傳統的特質への崇拝の精神を抱いた。そして傳統破壊への怒りを根底にした荷風の近代日本への批判精神が、『深川の唄』『牡丹の客』『すみだ川』といった一連の江戸情緒、下町情緒を描いた作品を生んだ。それは多くの人々の共感を呼んだ。

 

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千駄木庵日乗五月二十八日

午前は、室内整理、整頓。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『萬葉集』講義原稿執筆・脱稿送付など。

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2019年5月28日 (火)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 六月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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今日思ったこと

昔ある宗教家の方に、「浩宮さまは素晴らしい天皇になられる」と言われたことがあります。まことにそうなりました。有り難いことでございます。

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2019年5月27日 (月)

永井荷風の憂へた状況は今日に於いてますます深く激しくなってゐる

今夕地元の先輩と語り合った永井荷風の事を記したい。明治四十一年、約五年間の欧米生活を終へて帰国した永井荷風が直面した明治日本の近代化の欺瞞性に対する反発がやがて憂悶の思ひとなり、さらに過去への追憶と現実に対する韜晦の心理に沈淪せしめた。これが荷風文学の基本であると思ふ。荷風は、日本を愛し、日本の傳統を尊んでゐた。荷風は廃滅していく江戸情緒・江戸趣味をこよなく愛し、西欧化・近代化から免れた日本の風景風物特に旧江戸市中のそれを描くことに熱中した。祖国への愛をさうした形で全うさせた。しかし、前述した如く、荷風は飛鳥・天平時代そしてそれ以前の古代日本、さらには神代への回帰といふ真の「復古」の自覚を欠いてゐた。『記紀萬葉』にはほとんど無関心であった。

荷風が回帰せんとした傳統は、日本民族の稲作生活から生まれた信仰と道徳即ち日本伝統信仰たる神道への回帰ではなく、近代化によって零落した江戸時代の文化であった。ゆゑに近代日本・欧化日本への激しい批判と抵抗は、風俗世態の方面に限られる傾向があった。

しかし荷風は、日本の風土と自然を愛し、西洋化による破壊に憤怒した。荷風は言ふ。「一国の道徳も風土の美を離れて成立ち難し。明治の新時代を作りたる人々の無考へなりし事萬事につけて情けなく被存候。…東京市の悪政に小生も既に義憤の極みを盡して今や早や口にする勇氣も失せ申候。…一国の風景は役人共の手にて破壊せられ一国の美術は外国の爲に購盡され候て餘りに情けなく痛嘆に至りに御座候。」(『大窪だより』大正二年)。

「日本都市の外觀と社会の風俗人情は遠からずして全く變ずべし。痛ましくも米国化すべし。…然れども日本の気候と天象と草木とは黒潮の流れに浸されたる火山質の島嶼が存する限り、永遠に初夏晩秋の夕日は猩々と緋の如く赤かるべし。永遠に中秋月夜の山水は藍の如く青かるべし。椿と紅梅の花に降る春の雪はまた永遠に友禅禪模様の染織の如く絢爛たるべし。婦女の頭髪は焼鏝をもて縮らさゞる限り、永遠に水櫛の鬢の美しさを誇るに適すべし。」(『江戸藝術論』・大正二年)。

現代日本のまさにかくの如き状況である。荷風は、いかに日本人の生活が西洋化しやうとも、美しき日本は永遠であると自らに言ひ聞かせてゐる。しかし悲しむべきは、現代日本は、グローバル化などと言って、政治・経済・文化などすべての面に於いて、明治日本よりも激しく日本の傳統や独自性を隠滅し破壊しアメリカ化しやうとしてゐる。

自然環境はそこに住む人々の思想・精神に大きな影響を与へる。日本の傳統精神は麗しき日本の自然から生まれて来たのである。ゆゑに日本の傳統を護らむとすれば日本の自然を護らねばならない。日本的変革即ち維新は、政治経済体制を変革するのみではない。その根本に精神の変革がなければならない。日本固有の美、伝統信仰、秀麗なる日本の山河・自然を愛する心を涵養することが根本である。西洋科学文明・グローバル化によって隠蔽されつつある日本の伝統美を護り再生せしめることこそ、現代救済の原理である。日本の自然美・伝統美をこよなく愛し、国語文化即ち美しき日本分を書きのこした永井荷風は、近代日本における偉大なる文人であったといはなければならない。

わが日本は、本来的にその持てる文化的力によって世界を救済すべき使命を有する国である。しかし、日本自らがその「文化的力」を忘却し隠蔽してゐるのである。荷風の憂へた状況は今日の日本に於いてますます深くそして激しくなってゐる。今日に於いてこそ、永井荷風の文明批評に学ぶことは多いと考へる。


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千駄木庵日乗五月二十七日

午前は、諸事。室内整理整頓。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆依頼。『大吼』連載中の『萬葉集』講義原稿執筆。

夕刻、谷中三崎坂にて、小学校の先輩と懇談。

帰宅後も原稿執筆など。

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千駄木庵日乗五月二十六日

午前は、諸事。


午後は、本日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『第九十五回 日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「現代における尊皇精神を考える」と対して講演。活発な質疑応答。討論が行われた。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

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和平救國路線をとった汪兆銘の再評価は未だに行なわれていない

昭和四十年代後半にはじめて台湾を訪問した時、ホテルで讀んだ國民党の機関紙『中央日報』が、汪兆銘のことを汪逆精衛、陳公博のことを陳逆公博、毛沢東のことを毛匪沢東、葉剣英のことを葉匪剣英と書いていたのを讀んで驚いた。わが國の戦時中の教科書でも足利尊氏を足利逆尊氏、大杉栄のことを大杉匪栄とは書かなかった。戦後の日本人の多くは、左は毛沢東萬歳、右は蒋介石萬歳だった。そして汪兆銘を無視した。また、台湾独立運動にも非協力的だった。

李登輝氏によって台湾の民主化は實現したが、和平救國路線をとった悲劇の政治家汪兆銘の再評価は日本においても支那においても未だに行なわれていない。『反清復明・滅満興漢』が辛亥革命のスローガンだった。満州は支那ではない。無主の地を開拓し殖産興業・民生安定の實を挙げたのは日本だった。満州事変と満州建國は日本の支那に対する侵略ではない。東條英機元総理を侮辱する銅像が海南島に建てられても、政府もマスコミも一切抗議しない。

以前、米沢を旅行した時、明治維新の際、薩摩に対して『官軍の名を借りて暴虐を行なっている』と抗議し、ついに梟首の刑に処せられた雲井龍雄の旧居址を訪ねた。そこには「憂國志士雲井龍雄遺蹟 中華民國行政院長梁鴻志 昭和十三年建碑」と刻まれた石碑が立っていた。

梁鴻志は、昭和十三年に南京に樹立された中華民國維新政府行政院長をつとめた政治家である。その年、来日した時に、この石碑の文字を書いたと思われる。汪兆銘が昭和十五年に國民政府還都を行なった時、合流して監察院長となり、汪氏逝去後は立法院長となった。戦後、漢奸として裁かれ、昭和二十一年銃殺刑に処せられた。梁鴻志はまるで自分の最期を予感したかのように、同じように叛逆者として死刑に処せられた雲井龍雄という人物のために筆をとったのである。なんとも悲しくも不思議な因縁と言わざるを得ない。梁鴻志は単なる親日家ではなく、深く日本の歴史と道統を理解していた人であったと思われる。

雲井龍雄は、『討薩之激』という文章で、「薩摩多年譎詐萬端、上は天幕を暴蔑し烈侯を欺罔し…薩族の兵東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざるなく、…人の鶏牛を盗み、或は婦女に淫し発掘殺戮残酷極まる。…これ今上陛下をして桀紂の名を負はしむるなり」と書いている。

汪兆銘・梁鴻志なども、決して祖國を裏切ったのでなく、わが國と協力し和平することが祖國のためになると信じたのであろう。雲井龍雄・江藤新平・汪兆銘・梁鴻志など、歴史上叛逆者・逆賊として葬られた人物の真の姿をもう一度見直す必要がある。

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2019年5月26日 (日)

布団を投げたら逮捕するとは何事か。

大勢の人に迷惑をかけるな。布団を投げたら逮捕するとは何事か。貴賓席で観戦すべきである。

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孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である

「ナショナリズム」とは、一つの民族が他の民族の支配を排除して、自身の國家の独立を回復あるいは維持しやうとする國民的規模の思想及び行動である。さらに、「ナショナリズム」は、将来へ向けて自國・自民族が独立を維持するための精神であって、決して回顧的なものではない。今日の日本の危機打開独立のためにも欠くべからざるものなのである。

安政五年(一八五八)のアメリカとの通商条約締結の問題によって、倒幕論が澎湃として起こった。和辻哲郎氏は「シナ古代に典拠を求めていた尊皇攘夷論は、日本人が欧米の圧迫によって日本を一つの全體として自覚するとともに、その鋒(ほこさき)を幕府の封建制に向け、武士社會成立以前の國民的統一を回復しようとする主張に変わって行った。…日本第一期以来の天皇尊崇の感情が…國民的統一の指導原理となった。…王政復古の達成は、松陰処刑後わずかに八年目のことであった。」(『日本倫理思想史』)と論じてをられる。

わが國幕末期における「攘夷の精神」とは、松陰など維新を志した人々が抱いたアジア及び日本に対する西欧列強の侵略を打ち払ふといふナショナリズム・國防意識と言って良いのである。しかしそれは前述した通り決して外國との交はりを一切絶つといふことではない。

日本ナショナリズムの基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。日本國民の國を愛する心の特質は、「尊皇攘夷」「尊皇愛國」といふやうに萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本の民族意識・日本ナショナリズムの基礎は、一君万民の共同體即ち天皇中心の國體を護持する精神である。民族主義・愛國心・ナショナリズムは、天皇中心の歴史意識と不離一體である。日本民族の歴史を我々一人一人の精神の中で甦らせて、自己の倫理観・道義感の基本に置くことによって日本民族の意識・ナショナリズムが形成される。今日においても然りである。日本ナショナリズムの基礎にはわが國の古代からの傳統精神への回帰があった。これを復古即革新といふ。

朝廷は、外國の勢威を恐れた屈辱的な開國に反対した。また開國反対の世論が巻き起った。しかし、徳川幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷の「攘夷」のご命令を無視して開國した。この事によって尊皇倒幕の声が全國から澎湃として巻き起った。

第百二十一代・孝明天皇御製を拝したい。

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船

戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。孝明天皇のこの大御心にこたへ奉る変革が明治維新だった。

安政五年六月十九日、井伊直弼の主導する幕府は、勅許を得ずして『日米通商条約』を締結した。その前々日の六月十七日、孝明天皇が発せられた『大神宮に外患調伏を祈禱し給ふの宣命』には、
「嘉永の年より以往(このかた)、蛮夷屡来れども、殊に墨夷(米夷)は魁主と爲て、深くわが國と和親を請ふ所、後年併呑の兆、又邪教の傳染も亦恐る可し。若し要(もとめ)に逆へば、戦争に曁(およ)ぶ可き由を曰(まを)す。實に安危の間、決し難く思ひ煩ふ所、東武(註・幕府)に於いて應接に及び、方今差し拒む可きの慮(こころ)もなく、時勢の變革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輙ち天下國家の汚辱、禍害遠からずと、晝とも無く夜とも無く、寤(さ)めても憂へ寐ても憂ふ。若し兵船来たるべくあらば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没(しづ)ましめ、鎮護の誓を愆(かだ)はずして、天變地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、…國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、萬民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、寶位(あまつひつぎ)動(ゆる)ぎ無く、常磐に堅磐に、夜守日守に幸へ給へと、恐み恐みも申し賜はくと申す」(アメリカを主とした外國がわが國との和親を求めて来たが、後年になってわが國を併呑しやうとしてゐる兆しがある。また邪教の傳染も危険である。わが國が開國を拒否したら武力を行使すると言ってゐる。實に危険である。ところが徳川幕府は時代が変ったのだとして貿易交通を許容しやうとしてゐる。これは國家の汚辱であり害である。わたくしは昼も夜も寝ても覚めても心配してゐる。もし外國が攻めて来たら、天照大御神は明らかに察知されて、神徳の擁護によって蒙古来襲の古事のやうに、神風を吹かせ給ひ、賊船を沈没させ、國家鎮護のお誓ひに違はず、天変地妖を消し除き給ひて、國體を誤らず、禍乱を除き給ひ、世界平和、萬民幸福、永遠に外敵の憂ひ無く、五穀豊饒にして、天皇の御位も揺らぐことなく、永遠に堅固に夜も昼も護り給へと恐れながら申し上げます、といふほどの意)
と示されてゐる。

孝明天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇以来の連綿たる皇統の神聖権威を體現され、内憂外患交々来たるといった困難な情勢に先頭に立って立ち向はれたのである。攘夷断行といふ孝明天皇の強いご意志・大御心が國民意識を呼び覚まし、沸騰させ、強靭なナショナリズムとなり、短期間のうちに明治維新といふ大変革をもたらしたのである。

勅許を待たずに『日米通商条約』を締結した幕府への孝明天皇のお怒りは激しく、安政五年七月一日に次のやうな御製を詠ませられた。

しげりあひ繁り合ひたる萩すすきあるに甲斐なき武蔵野の原

「あるに甲斐なき武蔵野の原」とは、「夷」(外國)征伐ができず条約を結んでしまった徳川幕府は、信頼するに足らないといふ意味であり、言ひ換へれば、徳川氏は征夷大将軍たるの資格を喪失したといふ意である。

さらに、孝明天皇は、幕府の専断を嘆かせ給ひ、六月二十八日には御退位の『密勅』を下し給ふた。それには、「(徳川幕府は)縦令ひ治世続き候とて(外國に)敵し難き旨申し候ては、實に征夷之官職紛失、歎箇敷事に候。所詮条約許容之儀は如何致し候とも、神州之瑕瑾、天下危亡之基、(御名)に於ては何処迄も許容難致候。」と示されてゐる。孝明天皇は、徳川幕府はその使命たる征夷を成し遂げることができない事を歎かれ、条約締結は神國の大きな傷となるとされたのである。

「征夷大将軍」とはいかなる役目を持つかについて、平田篤胤は次のやうに述べてゐる。「東西南北のエビスどもの、御國へ対し奉り不届きをせぬやうまた不届き無礼があったならば、相糾し、打平らげよと云ふ大将軍に御任じおかれてさし置かるる、大切なる徳川の御家に坐すによって、征夷大将軍とは申し奉るでござる。」(『伊吹於呂志』)。

上御一人・孝明天皇が、「徳川氏は征夷大将軍の使命を果たすことができなくなった」と思し召された事の意味は大きい。

さらに八月五日には、重ねて攘夷の勅諭を下され、その中で徳川幕府に対して「厳重に申せば違勅、實意に申せば不信の至りに之無きや」と仰せられた。
八月七日には、幕府の非を戒め、國論の一致・挙國體制確立を望まれる『御趣意書』を下された。これを『戊午の密勅』と申し上げる。これが契機となり、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、征長の変、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争へと歴史が進み明治維新が成就するのである。

宇都宮藩士・大橋訥庵(幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子學を學び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を企てて捕へられ、幽居中病死。)はその著『政権恢復秘策』(文久元年九月)において、「今上ハ英明ニマシマシテ、夷狄猖獗ヲ憂憤シ玉ヒ、日夜宸襟を苦シメ玉フト云フコトハ、草莽マデモ聞エ渡リテ、誰モ彼モ有難キコトヨト涙ヲ流シ、カカル澆季(註・末世)ノ世ニ当リ、神州ノ危キ折カラニ、英明ノ天子出玉フテ、國土ヲ憂憤シ玉フハ、古ヘノ天祖ノ勅ニ、宝祚之隆当与天壌無窮ト宣ヒツルシルシナラント、人ミナ心強キコトニ思ヒ、神州ノ夷狄トナラザル恃ミハ、只天子ノ宸断ニアリ…一声ノ霹靂ノ轟クガ如ク、攘夷ノ詔勅ヲ下シ玉ハゞ、一人モ感動セザル者ナク、海内一時ニ饗応センコト、断々乎トシテ疑ヒナケレバ、是レゾ誠ニ今日第一ノ急務ニ非ズヤ。」と論じた。

全國の志士が身命を賭して尊皇倒幕に奮起したのは、孝明天皇の幕府に対する震怒がその根本要因である。そして孝明天皇の震怒が志士を奮起せしめたのは、神代以来のわが國の天皇信仰に基づくのである。つまり、孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である。徳川将軍家の統治能力が弱まったから相対的に朝廷の権威と権力が増したなどといふのは一面的にして且つ世俗的解釈である。國家存亡の危機に際して日本民族の三千年来の現御神信仰・尊皇精神が興起したのである。

徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない、また当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。すなわち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御陰であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇和歌御會記及び御年譜』の「序」)と喝破しておられる。

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千駄木庵日乗五月二十五日

午前は、諸事。

午後は、室内整理。資料の整理。

午後五時半より、赤坂の乃木神社にて、「楠公祭」執行。国歌斉唱・祭祀奏上・祈願詞奏上、『櫻井の訣別』斉唱、玉串奉奠、『海征かば』斉唱などが行われた。犬塚博英氏、三澤浩一氏が挨拶。

続いて、宮本雅史産経新聞編集委員が「忠誠を貫いた楠公の精神」と題して講演。

大変充実し意義深い祭儀であった。

帰宅後は、明日の講演の準備、『伝統と革新』編集の仕事。

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2019年5月25日 (土)

第九十五回日本の心を学ぶ会


第九十五回日本の心を学ぶ会

現代における尊皇精神を考える

令和の御世がはじまりました。五月四日の一般参賀には多くの人が赴き、新天皇のご即位を祝い申し上げました。改元後の10連休は日本全土が祝賀ムードに溢れ、一般の日本国民にとって、天皇という御存在がまことに大きいものであることがよくわかりました。

世論調査では、天皇に親しみを覚える国民は八割にものぼっております。令和の御世になっても日本が天皇を中心とする君民一体の国體であることはいささかも変わっておりません。

このような国體を護持してきた基礎にあるものは日本の歴史的伝統的に生成されてきた尊皇精神です。わが国は国家の危機的な状況に際して必ず尊皇精神が勃興し国難をのりこえてきました。 

大化の改新、建武の中興、明治維新など背景にあったのは天皇を中心とした国體を守ろうとする尊皇精神です。

そして日本の伝統、歴史、文化の体現者たる天皇の大御心、御意志にまつらうことが日本国民の道義心の根幹です。

令和の御世を迎えた現代のわれわれも過去と同じく内外に数多くの難問を抱えております。現代の国難を乗り越えるため今こそ、現代における尊皇精神について考えてみたいと思います。

【日 時】令和元年5月26日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-C
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】尊皇精神の體現者・楠正成公

【講 師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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自虐史観の払拭=大東亜戦争の意義の恢弘と占領憲法無効・正統憲法への回帰とは一体の運動である

石川県護國神社境内に建立されてゐる『大東亜聖戦大碑』は平成十二年八月四日に建立された。草地貞吾元陸軍大佐(関東軍参謀作戦班長)の書。高さ十二㍍。『銘』には草地氏の「大東亜 おほみいくさは 萬世の 歴史を照らす 鏡なりけり」といふ歌が刻まれてゐる。またこの碑建立に貢献された個人・団体の名が刻まれてゐる。背面には「八紘為宇」と刻まれてゐる。

桑木崇秀氏(陸軍軍医としてインパール作戦に参加。ビルマ英霊顕彰會副會長)はこの大碑の意義について、「大東亜戦争が英霊のお蔭で白色人種の植民地を解放し、萬民平等の世界をつくった―――そのことを日本人は世界に誇るべきであるのに、日本は侵略戦争をした、アジアに迷惑をかけたなどと謝罪ばかりしている。広島でも、國際法無視のアメリカの原爆にやられたのに、『二度と過ちは繰り返しません』などと、まるで日本が悪かったように反省している。…こうした日本の空気を、日本人の心を一新しようというのが、この聖戦大碑建立の意義であろう」(平成十二年八月二十五日 『戦友連』三七九号)と述べてゐる。

すぐそばに『清水澄博士顕彰之碑』建てられてゐる。清水澄博士は、明治元年金沢市に生まれ、東京帝國大學法科を卒業後、學習院大學教授となり、明治三十八年法學博士の學位取得し、宮内省、東宮御學問所の御用掛を拝命された。大正天皇、昭和天皇に御進講され、行政裁判所長官、枢密院顧問官を経て、敗戦後、最後の枢密院議長に任ぜられた憲法學者である。

碑文には大要次のやうに記されてゐる。「憲法學者清水澄博士(金沢市東山三丁目御出身)は占領軍司令部が強制した日本國憲法施行の日、日本國の天皇制(原文のまま)の将来を憂慮され、幽界よりわが國體の護持と皇室の御安泰、今上陛下の御在位を祈願しようと自決を決意され、憂國の至誠極まる所、汨羅(べきら)の淵に身を投じた楚の國の忠臣屈原の故事に倣い、九月二十五日、熱海の錦ヶ浦の波涛に愛國赤心の躯幹を投ぜられた。敗戦日本の正気阻喪の惨状は正視するに耐え難いものが連続的に生起した。博士はわが國の傳統・文化の変革し行く姿を見、祖國の将来を憂慮され、ことに建國以来、國の生命、民族の中心として連綿と存在する皇室の上に思いをいたされ、身の置き処が無かったのである。東京の青山墓地に眠る博士の墓石に記された嗣子虎雄氏の碑文の中に『ケダシソノ生涯ハ君國ニ対スル忠誠ノ念ヲモッテ終始シ』とある如く、博士の衷情はただ一つ祖國の道義を萬代に堅持せんがための至情以外の何ものでもなかった。新憲法下ここに三十年、博士の憂慮された如く、この間政治 経済 文化 その他あらゆる分野において、正統の道義は地に落ち、全て自己中心の個人主義の思想が瀰漫し、國の傳統と民族の歴史に背反すること夥しく、まさに祖國の危機と言わざるを得ない。この亡國的惨状打開の途は、國の歴史と傳統に基づく民族の正気の恢弘、維新以外にあり得ない。云々 昭和五十二年九月 林屋亀次郎」。

汨羅は支那湖南省北部を流れる湘江の支流。江西省修水県の西南を源とし、西流して湘水に入る。

林屋亀次郎氏は、明治十九年金沢市生まれ。昭和五十五年逝去。昭和二十二年以来、参議院議員三期。

 清水澄博士の『自決ノ辞』には次のやうに記されてゐた。
「新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム
 追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ」。
 
今日、「碑文」に書かれた憂慮すべき状況は愈々益々深刻になってきてゐる。憲法改正が現實の問題として論じられて来てはゐるが、肝心要の國體については、欧米の権力國家観・契約國家論に基づく『國民主権』といふ日本國體に合致しない『原理』を踏襲するのでは、真の「憲法改正」でもないし「自主憲法制定」でもない。現行占領憲法には「天皇条項」は第一章であるのに、これを第二章に移し、第一章を「國民主権」にするなどといふのはまさに國體隠蔽であり憲法改悪である。

日本天皇は権力・武力を以って國家國民を支配される御存在ではない。また、天皇と國民は権力的対立関係にあるのではない。天皇と國民は精神的信仰的一体関係にある。これを君民一体の國柄といふ。主権が君主にあるとか國民にあるとかといふことは、わが國の國體には全く無関係なのである。したがって、「國民主権」などということを憲法に麗々しく憲法に記す必要はさらさらない。そのやうなことを記すことは天皇を権力者と仰ぎ奉ることになり、重大な國體破壊である。

『清水澄博士顕彰之碑』のすぐ近くに『大東亜聖戦大碑』が建立された事は實に意義深いことである。自虐史観の払拭=大東亜戦争の意義の恢弘と占領憲法無効・正統憲法への回帰とは一体の運動である。

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千駄木庵日乗五月二十四日

午前は、諸事。室内整頓。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、根津にて知人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。

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2019年5月24日 (金)

今日思ったこと

対米自立・反安倍を声高に主張する元自民党の政治家たちを見ていると、この人たちが権力闘争に負けないで自民党政権の中枢に残っていればこんなことは口が腐っても云わないだろうと思うことがある。対米自立は結構だ。反対する人はいないだろう。しかしそれでは何をどうすべきなのか、具体論を述べる政治家はいない。在野の活動家ならまだしも、実際の政治に長年にわたって責任を負ってきた政治家が、ただ「反米反米」「反安倍」を叫んでいるだけでは駄目だ。

平野貞夫と云う男は、小沢一郎の腰巾着だったが、昨日の集会で『安倍はファシストだ』などと口走っていた。私に言わせれば小沢一郎は、政財官の癒着の上に立って独裁権力を手に入れる寸前までいった男であり。まさに小沢こそファシストたらんとしていたのだ。その腰巾着・使い走りだった男が正義の味方面をして何を言うかと言いたい。一体「ファシスト」「ファシズム」の定義は何か、平野に聞いてみたい。

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『五箇条の御誓文』について

日本國體と欧米の権力國家論との結合は不可能である。古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行われる祭祀を中核として、他の地方的な祭祀が全國的に統一されることによって実現したのである。これが天皇國日本の成立である。日本國は権力者の武力によって統一された権力國家ではない。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生まれた國である。

 古代日本の統一とは祭祀的・信仰的統一であり、日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の精神的な共同体である。
 
したがって、日本という國家は権力者が國民を支配するための機関すなわち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、天皇國日本は、世界の多くの國々のような征服や革命によって人為的に成立した國家ではない。だからわが國の國体を「萬邦無比」というのである。

「天皇制と民主主義は矛盾する。歴史の進歩にしたがって天皇制はなくなるし、なくすべきだ」と考える人がいる。こうした考えは、悠久の歴史を有する日本國を否定し破壊する考え方である。そして、こうした考え方に妥協して、いわゆる「民主主義」といわゆる「天皇制」を何とか矛盾なく結合させようとする考え方がある。現行占領憲法の「天皇条項」はそうした考え方によって書かれていると言えるのかもしれない。この度の御代替わり、皇位継承の意義深い行事・儀式においても『現行占領憲法』によって伝統が破壊され隠蔽されたところが大いにあった。
 
占領憲法に象徴される「戦後民主主義」(欧米民主主義思想と言い換えてもよい)なるものが如何に日本國を堕落させ破壊したかは、今日の日本の現状を見れば火を見るよりも明らかである。我々は日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」を根底から否定しなければならない。そして、「戦後民主主義」の否定は、日本の伝統的國家観・政治思想の復興によって行われるのである。言い換えると、日本國體精神が「戦後民主主義」否定の原理なのである。
 わが日本は建國以来、民が「主」の國ではない。天皇が「主」の國である。これが萬古不易のわが日本國體である。ゆえに、日本國は決して「占領軍や共産主義勢力が目指した民主國家」になってはならない。日本國は天皇國である。「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)は決して善でも正義でも真理でもない。日本にとって百害あって一利無き亡國思想である。欧米民主主義を建国以来理想として来た国がアメリカであるが、そのアメリカにおいて黒人の奴隷制が行われていた。

国家を権力機構とみなし、君主と人民は対立する関係にあるとする「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)と「天皇制」との結合などということは全く必要のないことであるし、また不可能なことなのである。

 ただし、わが國體精神・天皇の国家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。国民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが国においては、古代より国民を「おほみたから(大御宝)」ときた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

 御歴代の天皇は、すべて国民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」戸しての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの国民に限りない仁政を垂れたもうたのである。

 国民の幸福を実現する政治制度という意味で「民主政治」「民主主義」という言葉を使うとするなら、わが國の天皇統治はまさにそういう政治制度を生み出す根幹なのである。天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。

それは、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、民主政治の基本が示されている。

 葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外国の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治しそうであった。」(『近代民主主義の終末』)と論じている。
 昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。天皇の国家統治は、「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。

 天皇の国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝国議会が開設され『大日本帝国憲法』が施行されたのである。

近代に於いてのみならず、古代日本においても、国民のために政治が天皇の統治によって実現していたのである。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ。」

 天皇が国民の幸福を祈られる祭祀を執行され、国民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、国民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民主政治のである。

天皇は常に国民の幸福を祈られ、天皇統治とは国民を意志をお知りになることが基本である。わが國は天皇が民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされる君民一体の国柄である。これこそ真の民主政治でなくして何であろうか。

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千駄木庵日乗五月二十三日

午前は、諸事。室内整理清掃。

午後は、北区にある菩提寺にて『お施餓鬼法要』執行。御住職御夫妻にご挨拶。

この後、四宮家墓所を掃苔、『般若心経』読誦、ご冥福とご加護を祈念申し上げる。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2019年5月23日 (木)

天皇の「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」の回復

私はその「戦後民主主義」自体を疑ってかからないといけないと思ふ。民主主義とは「國民主権」と同義語であるやうだ。しかし、わが國の本来の姿は、建國以来天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体である。天皇と國民は権力関係・支配被支配の関係にあるのではない。「主権が國民にあるか君主にあるか」といふ西洋國家観はわが國にはあてはまらない。したがって、主権者は國民であるなどといふ戦後民主主義はわが國の國體に合致しない。

 

日本を弱体化する目的で押し付けられた「現行占領憲法」には「天皇は、日本國および日本國民統合の象徴であり、その地位は主権に存する日本國民の総意に基づく」と規定されてゐる。

 

天皇がなにゆゑ日本國及び日本國民統合の象徴であられるのかが書かれてゐない。「天皇・皇室は國民統合の象徴である」といふ条文は「天皇の空間的統一性」をある程度表現してゐるとは思ふが、天皇・皇室は神話時代以来の傳統を継承されるといふ「天皇の歴史的傳統性(時間的連続性)」は全く記されてゐない。

 

心の底では「天皇制などなくなってしまった方が良い」と思ってゐても、「天皇制支持」が八十㌫を超える今日、なかなかそれを言ひ出せない連中による「天皇及び國體を何とか無化しやうとする策謀」が渦巻いてゐる。『朝日新聞』はその元凶である。

 

さうした状況における「日本弱体化のために國民の皇室尊崇の心を希薄化しやうとした占領政策」にのっとった皇室論、そしてそれに便乗した左翼勢力の「天皇制打倒」を目的とする皇室論は厳しくこれを否定すべきである。

 

「現行憲法」上の「象徴」といふ地位は一体いかなる存在なのか。國民統合の「象徴」であられる以上普通一般の人間ではない。しかし、民主主義國家であり主権は國民にあるのだから、天皇は一般國民の上に立つ存在ではない。しかも、一般人よりも道義的道徳的に優れた存在でなければならない。その上、自由な発言される事も許されない。

 

皇族をこのやうなお立場に囲ひ込み、がんじがらめにし奉ってゐるのが、今日の「象徴天皇制」なのである。政治家と官僚の非人間的な「操り人形」として扱はれる状況が、今日の皇太子殿下のご発言になったのではないか。

 

桶谷秀昭氏は、「『たとへば勇気でも親切でも、私たちがさういふ抽象的な属性の<象徴>たらうとすれば、全生活をあげてそれにならうとする結果、身動きのできぬ非人間的な存在にならざるを得なくなるだらう』と言ったのは、福田恒存である。つまり、『象徴』といふ概念は、天皇を神格化しないが、非人間化を強ひるものである。天皇は一度も人間になってゐない。大衆社會のとどまることを知らない卑俗化に耐へ、なほかつ『象徴』なる規定によって非人間化を強ひられてゐるのが、今日の『象徴』天皇である。皇太子殿下が、『人格を否定するやうな動き』といはれたのは、宮内庁の中の誰かが雅子妃殿下に嫌がらせを言ったとか、いぢめたといふ次元の問題ではないであらう。だから『動き』といはれたのであらう。この『動き』は、多分、皇室の傳統や慣習とからみあって、『象徴』規定にあいまいさに無自覚な人間たちの、悪意のない非人間化の意思を指してゐるのであらう。悪意がないだけに、それは一層残酷な効果をもつのである。」(『諸君』平成十六年七月号「わざはひの根としての『象徴』規定」)と論じてをられる。

 

現御神日本天皇及び日嗣の御子としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

古代の天皇様は現御神(生きたまふ神)として崇められつつ、人としてもきはめて自由に行動されてゐた。天皇の最大の御使命である祭祀とは、神人合一の行事である。「神人合一」とは「人にして神・神にして人」といふことである。天皇は、「人にして神・神にして人」であらせられるのである。

 

この場合の「神」とは一神教のゴッド・宇宙創造神・絶対無謬の唯一絶対神ではない。天地自然に宿りたまふ八百萬の神々であり、太陽神であるとともに皇室及び日本民族の祖先神=天照大御神である。「天皇が現御神である」とは、天皇が唯一神・全知全能の神・絶対無謬神だといふ事ではない。天皇が祭祀國家・信仰共同体日本の祭り主といふ「人として最も尊い御存在」であるといふことである。

 

また、祭り=神人合一とは、一切の「私」を禊祓ひ去って生成の根源に帰ることであり、「無私」こそが「祭」の窮極である。したがって、天皇の本質は「無私」なのである。無私だからこそ現御神といふ最高に尊い御存在となられるのである。

 

猪瀬直樹氏はかつて「朝まで生テレビ」で、「天皇家に意味があるとすれば、天皇が無私=ゼロ地点にあるので、みんなが欲望で生きてゐる時に、さういふ人がお祈りをしてゐるのだなあといふことがある種の秩序になってゐる」と述べたが、ほぼ正しい見解である。

 

天皇が國民を統合される尊貴な御存在であられるといふことは、天皇は神にして人であらせられるといふことである。天皇が日本國の祭祀主であらせられることが、天皇が國家國民の統合の中心であり君主であらせられることの源泉なのである。「人にして神である」といふ天皇及び日嗣の御子の御本質・日本國の祭祀主であり統治者としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

天皇の「おほらかにして自由なそして神聖なる君主としての傳統」「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」が回復されるべきである。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた占領憲法の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の傳統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといへば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまふことが間違ひなのである。

 

成文法といふものは、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合へないから、成文法を作ってお互ひにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが國は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と國民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆゑに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。

 

天皇も皇族も自由に御発言され御行動されて然るべきだし、天皇の御地位・自然な御行動・御発言は、成文法や政治家・官僚・メディアによって制限されるべきではない。

 

天皇中心の日本國體は、近代成文法や近代合理主義や近代民主主義を超越した存在である。しかしどうしても成文法に天皇を規定しなければならないのなら、現行憲法の「象徴天皇」の規定を根本的に改めて、日本國の祭祀主・統治者の御地位にあられることを明確に規定すべきである。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのなら絶対に不可である。

 

「開かれた皇室」とは何か。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのならこれは絶対に不可である。現行憲法体制の「象徴天皇」は、歴史的傳統性・時間的連続性を剥奪されたままで「象徴」などといふ地位になってゐるから、非人間的な無機質な操り人形のやうなお立場に立たれるほかはなくなるのである。「象徴」といふ地位は卑俗化し、開かれた皇室=皇室の大衆化といふ言葉によって、ますます尊厳性は隠蔽されるのである。

 

そもそも大衆と同じレベルの「人間」が「國家國民統合の象徴」といふ地位になることは不可能である。その不可能を現行憲法施行以来今日迄可能にして来たのは、古来から皇室の傳統性が生きてゐるからである。「開かれた皇室論」は「天皇制」打倒・國體破壊そのものである。その具体的にあらはれが、皇室への尊敬語の不使用である。
天皇・皇室は格別に尊貴なる御存在であるから、大衆化はあり得ない。大衆化した時、「象徴」としての地位がなくなるばかりでなく、日本國體が破壊されるのである。

 

現御神・祭祀主としての傳統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。建國以来三千年の傳統をに回帰し護持する事が最も大切である。皇室の御事はそこから考へねばならない。

 

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千駄木庵日乗五月二十二日

午前は、諸事。

午後は、室内整理、「伝統と革新」編集の仕事。

午後六時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『創刊二十三年「月刊日本」を叱咤激励する会』開催。藤井裕久・村上正邦・平野貞夫・亀井静香・二階俊博・石破茂・平沢勝栄・西原春夫の各氏らがスピーチ。南丘喜八郎氏が挨拶。自民党から離れた人に対米自立・反安倍政権の主張が多かった。小沢一郎の子分だった元参院議員が「安倍政権はファッシズム」という意見を述べたのには驚いた。多くの知人・友人とお会いした。

帰宅後は、「伝統と革新」編集の仕事など。

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2019年5月22日 (水)

絶対尊皇精神の体現者・大楠公

大楠公・楠木正成こそ尊皇精神の体現者であられた。大楠公の絶対尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。大楠公は絶対尊皇精神の具現者である。

日本の古典には「名文」と言はれるものが多数ある。『太平記』の次の一節は、その最たるものであろう。「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報国の精神が見事にうたひあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈に決意を吐露した。

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生きとおして、君国に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

保田與重郎氏は、「『罪業深き悪念云々』といふのは、当時の仏教思想に基づく考へ方である。『太平記』の作者も、仏教観念の鼓吹を、この物語執筆の趣旨としたのだが、大楠公の品格をのべ行動と結末を語るに当っては、さういふ観念のものを全く棄て、超越してゐるのである。」「正季公がからから打笑ひ、七生尽忠の志を誓はれたのにたいし、大楠公が『よに嬉しげなる気色にて』これを諾ったといふ書きぶりは、まことにこの物語の作者の志のたけ高さ示すに十分であった。これこそすなほな民族感情の表現である。正季公がからからと打笑ったといふことは、当時の一般教養界を風靡した仏教信仰からくる穢土厭離の思想をその笑ひで吹きとばされたのである。」(『太平記と大楠公』・湊川神社社務所発行「大楠公」所収論文)と論じてゐる。

絶対尊皇精神といふ「素直な民族感情」は、仏教の宿命論、輪廻思想・厭離穢土思想を超越するのである。「七生報国」の精神は、仏教の輪廻転生思想・宿命論が我が国に入って来る以前から日本民族が抱いてゐた死生観より生まれた観念だからである。

「七生報国」の楠公精神は、後世においてきはめて大きな影響を与へた。明治維新で活躍した多くの志士は、殆ど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いてゐた。維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。明治維新の戦ひにおいて、楠公精神・七生報国の精神は志士たちによって継承され、且つ、実践された。楠公仰慕心、「七生報国」の精神の継承が、明治維新は成就の一大原動力であった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

歌人であり国学者でもあった橘曙覽は次の歌をのこした。

「湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり」

楠公の墓が荒廃してゐたのを嘆いた義公・水戸光圀が、元禄五年(一六九二)、佐々助三郎宗淳を湊川に派遣して石碑を建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自筆で題した。その楠公のお墓に刻まれた文字を仰げば、子供といへども感激して墓前に屈んで「嗚呼」と唱へるであらうといふ意。

吉田松陰は、安政三年(一八五六)『七生説』を書いて、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、「楠公兄弟は、徒(たゞ)に七生のみにあらず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是より其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者は無ければ、則ち楠公の後復た楠公を生ずる者、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや」と論じた。

また、吉田松陰の『留魂録』には次の歌がある。

「七たびも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや」

楠公の崇拝者として知られ『今楠公』といはれたといふ真木和泉守保臣は、天保十年、二十七歳の時、次の歌を詠んだ。

「すめる世も濁れる世にも湊川絶えぬ流れの水や汲ままし」

さらに、西郷隆盛は次のやうな漢詩をのこしてゐる。

「楠公題図(楠公の図に題す) 

奇策明籌不可謨(奇策の明籌、謨(はか)るべからず)、正勤王事是真儒(正に王事に勤る、是真儒) 懐君一子七生語(懐(おも)ふ、君が一子七生の語) 抱此忠魂今在無(この忠魂を抱くもの、今在りや無しや)」。

森田康之助氏は次のやうに論じてゐる。「先年の大戦の評価については本書のよくするところではない。鉄を熔かす暑熱にも耐え、肌も凍る寒気を凌ぎ、或は南溟に或は北漠に、興行の成否を問うこともなしに、名もなき国民の一人一人が、名も無いままに国運に殉じた痛ましいわが国史の跡である。この難に殉じた数多い人々の胸中には、楠公湊川の精神が生き生きと回顧され、脈々と息づいてはずである」(『楠木正成』)。

大東亜戦争において、楠公精神を生き貫き、名も無いままに国運に殉じた名も無き国民ののこした歌を掲げさせていただく。

高田豊志氏(昭和二十年五月十三日、特攻戦死、享年十九歳)
「七たびと誓ひて散りしわが友の心は咲かむ靖国の庭」

堀毛利衛氏(昭和二十年七月十八日、特攻戦死、享年二十三歳)
「七度ぞ生れて御国を守らばや身は大空の花と散るとも」

竹野弁治氏(昭和二十年四月十二日、特攻戦死、享年十九歳)
「七度も生れ変りて諸共に醜の御楯と我は征くなり」

平川勉氏(昭和十九年七月五日、戦死、享年二十五歳)
「君が代のしづめとはてし湊川その誠心ぞ神につながる」

山本卓美氏(昭和十九年十二月七日、特攻戦死、陸軍中尉)
「七たびも生れかはりて守らばやわが美しき大和島根を」

加賀和元氏(昭和二十二年四月二十八日、旧ソ連アングレン収容所にて逝去、享年二十六歳)
「楠のふかきかをりを身にしめて七たび死なんすべらぎの辺に」

昭和二十年六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将は、摩文仁の丘にて自刃された時、次の歌をのこされた。享年五十八歳であった。
「矢弾盡き 天地染めて 散るとても 魂がへり 魂がへりつつ 皇国護らむ」

これらの辞世はまさに楠公精神とまったく同じ精神、志、魂の表白である。

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2019年5月21日 (火)

千駄木庵日乗五月二十一日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、『政治文化情報』発送準備、『伝統と革新』編集の仕事など。

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萬葉古代史研究会のお知らせ

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 六月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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『現行占領憲法』は根底から全面的に否定されなければならない



『現行占領憲法』には次のように書かれている。

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

第一項は現実無視の亡国条文である。国家防衛即ち自衛戦争は、最重要な「国権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「国際紛争」である。これを阻止するために「武力による威嚇又は武力の行使」を行うのは国家として当然の権利だ。これを否定する第一項は亡国条文であることは明白だ。

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という第二項は、国家の存立を根底から否定する条文である。自衛隊は誰が見ても、陸海空軍である。しかし、この条文がある限り「陸海空軍」と見做されないのである。また「交戦権」が否定されているのに事実上「陸海空軍」があるというのは全くの欺瞞である。

安倍総理は、『現行憲法』の第九条をそのままにして、「自衛隊を憲法」に明記すると言う。これは、公明党の「加権」という主張を考慮したのと、一日も早く「自衛隊違憲論」の根拠をなくすための窮余の一策なのだろうが、このような欺瞞的「加憲」を行うべきではない。

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであろうと戦争は行わない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」という意味であることは明白だ。こんな憲法は根底から否定されなければならない。正々堂々「国家防衛」「国軍保持」を憲法に規定するべきである。

交戦権を否定した憲法を持っているわが国は未だに独立主権国家ではないということである。これでは、アメリカ・共産支那・朝鮮半島に対してまともな外交が出来ないのは当然である。アメリカの軍事力の庇護のもとにあり、支那や朝鮮から軍事的恫喝を受け続ける国が、現行憲法体制下の日本なのである。現行憲法無効宣言は国家緊急の課題である。

「九条の会」など自主憲法制定・現行憲法改正に反対する勢力は、日本が共産支那・朝鮮の属国であることを望んでいるとしか思えない。すなわち売国勢力である。私の知っているある政治家はある時、中曽根内閣官房長官時代の後藤田正晴氏に「改憲を早く行うべきだ」と言ったら、後藤田氏は色をなして「五一五、二二六で警察官が軍に殺されたんだ」と言ったという。(私的な会話なのでその政治家の氏名を書くことは控える)こういう手合いが官僚や自民党には多い。ある元官僚が「今の東大出身の官僚はリベラル左派が多い」と語っていたのを思い出す。

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千駄木庵日乗五月二十日

午前は、諸事。

 

午後は、資料整理。

 

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』次号編集会議。

 

終了後、出席者と懇談。

 

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

 

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2019年5月20日 (月)

十年前の私の憂慮は現実のものとなった。


平成二十一年十二月四日即ち今から十年前の「千駄木庵日乗」に小生は次のようなことを書いている。

「自民党の谷垣総裁は、先頃、靖国神社に参拝した。今日は、自主憲法制定に意欲を示した。自民党は野党になってややまともになったという感がある。しかし、民主党との違いを出すためだけのためで、政権を取ったら、また元に戻るというのでは困る。

もともと谷垣氏は宮沢喜一・加藤紘一などと同じ宏池会だから、いわゆるリベラル派に属すると思っていたが、そうではなかったのであろうか。そうなら大いに結構である。

自民党結党以来、鳩山一郎初代総裁・岸信介三代総裁は、自主憲法制定を目指していたが、池田勇人・佐藤栄作両氏が、『憲法は定着した』などと言って、自主憲法制定を顧みなくなった。これが今日の混迷の原因の一つである。

それにしても、民主党政権の混迷ぶりにはあいた口がふさがらない。普天間基地問題での鳩山氏のブレ方もひどい。

三党連立はあとどのくらい持つのであろうか。政界の混迷だけならまだいいが、国家民族の行く手が危うくなることを憂える」。

私の憂慮は当った。自民党は、政権を奪還したら、安倍総理はただの一回も靖国神社に参拝していない。建国記念日に政府主催行事を行うと公約していたがそれも実現していない。憲法問題もしなくても良い、否、してはならない「加憲」「一部改正」で事を済まそうとしている。まさに自民党は与党に戻ったら、国家基本問題に対する姿勢も元に戻ってしまったのである。安倍氏は真正保守の政治家として期待されていたのにまことに残念だ。

また、鳩山由紀夫の沖縄政策の誤りが今日の混迷の原因になっている。

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2019年5月19日 (日)

今日思ったこと

謝罪すべきは、侵略し、日本人を殺戮し、領土を占拠し続けるロシアである。ノコノコと謝罪に行った維新とは名ばかりの亡国政党を討つべし。こうなったら丸山穂高氏を支持すべきである。

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昨年十一月十七日に開催された『アジア問題懇話会』における阿部純一霞山会常任理事・研究主幹の「中国『一帯一路』の軍事的側面を考える」と題する講演内容

昨年十一月十七日に開催された『アジア問題懇話会』における阿部純一霞山会常任理事・研究主幹の「中国『一帯一路』の軍事的側面を考える」と題する講演内容は次の通り。

「一体一路というのは曲者。時間と共に変化している。今は南米まで加わっている。氷山のシルクロードと言って北極航路の利用まで打ち出している。一帯一路は党規約に書き込まれた習近平の国家戦略。中国の野心はどんどん広がっている。その根本を決めるのは中国のエネルギー戦略。

やがて中国共産党結党から百年、中華人民共和国建国から百年を迎える。二〇一九年以降、中国経済の成長は鈍化している。鉄鋼やセメントの過剰がリーマンショックの影響で起こってしまった。過剰生産、外貨の過剰準備。二つの過剰を金儲けの手段に切り替えた。スリランカの港湾建設に大きな金を高利で貸し付けた。インドネシアの高速道路、ラオスの鉄道建設でも貸し付ける。中国側に有利な仕組みで中国の国有企業が儲かる。中国の影響力強化を図る。

一九九二年より、エネルギー・石油輸入国になった。国内経済の活発化で国内石油では足りなくなった。中国国内で消費されているエネルギーは石炭。大気汚染が深刻化。天然ガスに切り替えると習近平が命令したが、うまく進まなかった。民生用の石油利用はどんどん増えていく。中国の入ってくる石油供給源は中東アフリカ。日本の石油ルートとあまり変わらない。中国にとって脅威はマラッカ海峡封鎖。シンガポールの港にアメリカ海軍が定期的に寄港。マラッカ海峡封鎖の脅威を回避するためにパイプラインを作る。石油の中心とするエネルギー安全保障が中国の最大関心事。連結性強化を図る。

習近平は終身国家主席になった。二〇三五年、習近平は八二歳から八三歳。アメリカに追いつける意欲を見せている。そのために一帯一路は重要。海軍力を拡大しアメリカ海軍を西太平洋から駆逐する。二〇一三年の習近平の初訪米で、太平洋は広いから東西二分論を主張。ハワイから西を中国の影響下に置きたい。中央アジアで中国とロシアの覇権争いが起こる。リムランド(地政学の用語のひとつ。ニコラス・スパイクマンによる造語であり、北西ヨーロッパから中東、インドシナ半島までの東南アジア、中国大陸、ユーラシア大陸東部に至るユーラシアの沿岸地帯を指す)は中国にとって手ごわい地帯。インド日本という中国の言うことを聞かない国がある。ソマリア海賊退治は中国にとって天の助け。インド洋では中国の軍事拠点はジブジだけ。

南シナ海は中国のベースでどんどん軍事化が進んでいる。戦闘機は長持ちする。中国製の戦闘機は輸出できない。耐久性に劣る。アメリカに対抗できる力を中国は持っていない。実績を積む前に虎の尾を踏んだ。私はアジアにおける発火点としては北朝鮮より台湾の方がより大きくなりつつあると懸念している。中国は、『アメリカ艦船が高雄に寄港したらその時、台湾海峡で戦火が上がる』と脅している。台湾海峡での軍事バランスは極めて危うい。しかし中国の台湾上陸は難しい。アメリカは対応を取る。一九四九年以来のアメリカとオーストラリアとの同盟関係は強固。オーストラリアはアメリカのやる戰爭には必ず協力。中国は米豪関係を分断できない。パプアニューギニアはオーストラリアの影響下。中国軍は組織的作戦で戰爭に勝てる軍ではない。中国軍は腐敗している。経験の無い連中が軍の上にいる」。

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昨年十月二十九日に開催された『明治の日を実現するための議員連盟支援集会』における登壇者の発言

昨年十月二十九日に開催された『明治の日を実現するための議員連盟支援集会』における登壇者の発言は次の通り。

塚本三郎明治の日推進協議会会長「明治維新の先人の努力を学ぶことが大切。先人の事績を学び、感謝すべし」。

古屋圭司議員連盟会長「消防団は日本が生んだ世界一のインフラ。十一月三日は叙勲の日。出来るだけ多くの与野党の賛同を得る必要あり。昭和二十二年十一月三日、『明治節』が『文化の日』に替えることを強いられた。『明治の日』を作ると国家神道が復活するとA新聞は批判。風が吹けば桶屋が儲かる論法。法制局と協力を進めている。自民党の中でも政務調査会と連携し、法案成立を期す。将来を担う子供が明治の精神を全く学校で学んでいない。明治の日制定によって学校教育で学ぶことができるようになる」。

稲田朋美議員連盟幹事長「私は『代表質問』で『五箇条の御誓文』の復活を訴えた。道義的に尊敬される國を目指し明治の精神に回帰しなけれはいけない。明治維新百五十年の今年に形にしてゆく」。

山田宏議員連盟事務局長「天下大乱の時に日本人にとって大切なのは民族の記憶。明治時代を作った記憶に回帰する。『文化の日』では駄目。自民党内の部会を通し、公明党の理解を得て、野党の支持を受ける。私は野党生活が長いので野党対策」。

衛藤晟一氏「明治維新前後の激動の時代は、日本人が素晴らしい精神で駆け抜けた時代。その精神を私たちの心の中に蘇えらせる」。

新保祐司氏「国民が歴史を振り返ることは大事。奈良時代も偉大だった。明治時代はもっと偉大だった。明治の精神が偉大だったのは物質文明が偉大だったからではない。非凡なる凡人が明治の人。義の精神が強くあった。今日の日本人は鑑として振り返らねばならない。独立自尊の精神。カレンダーに『明治』という文字が刻まれ、『明治の日』の行事が行われることによって明治の精神が継承される」。

櫻井よし子氏「日本に本当に必要であるのは、日本人は立派な民族であるという精神。自分の力で国土と民族を守ることが求められている。それが出来なければ民族は滅びる。戦後は豊かになったか、日本人は日本人の価値を置いて来てしまった。国家としての日本、精神の気高さ、誇りがあった。それが形になったのが明治国家。『五箇条の御誓文』ほど立派なものは無い。今の時代にも通用する。今日の世界に広めてゆく価値のあるものが『五箇条の御誓文』。その精神を忘れないために『明治の日』制定が大切」。

阿羅健一氏「十一月三日を『明治の日に』という篤い思いで日本青年館に集まったのは十年前。正念場に来て国会議員と一緒になって頑張っていきたい」。

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千駄木庵日乗五月十九日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して室内整理、原稿執筆など。

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やまと歌・『萬葉集』の現代における価値


中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、今と神代と直結する文藝、そして身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

和歌は傳統の継承と創造とは一體である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として學ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち傳統と創造が一體になってゐる。ここに和歌文學の特質がある。日本人は傳統の継承から創造を學んだ。和歌はその典型である。傳統と創造が渾然一體となっているのが和歌である。

これは、皇位継承・伊勢の神宮の御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉體であらせられながら邇邇藝命以来の靈統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神靈は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが國の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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千駄木庵日乗五月十八日

午前は、諸事。

午後一時半より、丸の内の日本倶楽部にて、『國語問題協議會総會・講演會』開催。小堀桂一郎東京大学名誉教授が挨拶・講師紹介。小谷恵三元鳥取県立倉吉高校教諭が「源氏物語の真実」と題して講演。

帰宅後は、原稿執筆の準備、資料検索など。

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2019年5月18日 (土)

天皇の御即位は「天孫降臨」の繰り返しであり再現である

天皇の御即位は「天孫降臨」の繰り返しであり再現である

今上天皇が、五月一日午前十時に、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀に臨まれた御姿、そして、五月四日の国民の参賀にお応えになられる御姿を拝し奉り、皇位継承とは天孫降臨の繰り返してあるという神聖なる事実をあらためて実感させていただいた。畏れ多いが、皇太子(日嗣の皇子)の頃とは全く違ったお顔、お姿になっておられたと拝する。それは皇后陛下の同じである。本当に不思議なことである。まさに現御神、天照大御神の「生みの御子」が降臨あそばされたのである。天皇の御即位は、「天孫降臨」の繰り返しであり再現である。

 日本は、現御神日本天皇を祭祀主と仰ぎ、天地の神々が生き給ふ國である。それは、わが國の歴史を見れば、否定することは全く不可能な事實であり、建國以来のわが國體である。

會澤正志斎は、『草偃和言』(そうえんわげん)といふ著書で「日嗣の君は、日神の遺體(地上に遺された玉體という意味)にましまして今も天神に事へ給ふ事在すが如く、氏々の人は皆諸神の子孫にして其遠祖の人々古日神に事へ奉りし時にかはらず、千萬世の後までも天上の儀を傳へて神代の遺風を其まゝに行はれ、今の世も神の世に異なる事なきは、他邦異域に絶てなき事なれば神國と申すなり」と論じてゐる。今即神代、天皇即神といふ篤い信仰精神が語られてゐる。

天照大御神と天皇はご一體である。天照大御神と天皇とは時間と歴史を超えて一體である。天皇に仕へる臣下國民もまた、八百万の神々の子孫である。まさに、歴史と時間を貫いて今此処が神代であり、高天原なのである。高天原を地上に持ち来すことが國體の明徴化なのである。今即神代、天皇即神であられるからこそ、日本に革命も皇統の断絶も無いのである。

天皇を君主と仰ぐ日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで生きてゐる。ところが、古代オリエントや古代支那などにおいては、祭祀を中心とする共同體は武力征服王朝によって破壊されてしまった。そして古代民族信仰・祭祀宗教は無くなり、太古の王家も古代國家も姿を消した。その後に現れた支配者は武力による征服者であり、國家は権力國家であった。

それに比してわが日本は、神話の世界が今日唯今現實に生きてゐる國である。すなはち、わが日本は、古代祭祀宗教の祭祀主たる神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現實の君主と仰ぎ、國家と民族の中心者として仰いでゐる殆ど世界唯一の國である。わが國は太古以来の祭祀主を君主と仰ぐ共同體國家が破壊されることなく今日まで続いて来てゐる。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふのである。

それは、會澤正志斎が『新論』において、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。」と説き、北畠親房が『神皇正統記』において、「大日本者神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。」と説いてゐる通りである。まことに有難き事實である。

歴代天皇は、御玉體は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

保田與重郎氏は、「天降(あも)りの原義は、天皇陛下の御即位は、天孫降臨を新しい代替りごとに再現される儀式にて、しかも天皇陛下の御生存御在位中は、つねづね、この『天降り』の持續した状態である。だから御代はかはっても、天皇陛下はつねに御一方であるとされてきた」(『萬葉集名歌選釋』)と論じてゐる。
われわれ日本民族は、天皇をただ単に神武天皇の肉體的御子孫として仰いできたのではなく、天照大神の生みの御子・地上における御代理・御顕現即ち現御神として仰いで来たのである。歴代天皇お一方お一方が、天照大御神の「生みの御子」であらせられ、現御神であらせられる。この信仰を〈歴聖一如〉と申し上げる。

折口信夫氏は、「古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が皇位を繼承した事になるが信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、斉しく天照大御神の御孫で居られる。決して、天照大御神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大御神との御関係は、にゝぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である」(『大嘗祭の本義』)と論じてゐる。

この「歴聖一如」といはれる天皇信仰は、折口信夫氏の直感でも独断でもなく、また、昭和十年代といふ時代を背景として考へ出された論議でもなく、古代以来のわが國の傳統信仰である。『古事記』『萬葉集』にも語られ歌はれてゐる。

平田篤胤は、「わが天皇命の高御座は、天照大御神の、萬千秋之長五百秋(ヨロヅチアキノナガイホアキ)に、所地看(シロシメ)せと依賜へる御座なる故に、その高御座に位(マ)すは、御孫ながらに、御代御代、天ツ神ノ御子と申し奉ることなり。此はその高御座に位(マシマ)すは、即天照大御神の御子に坐せばなり。」(『靈の眞柱』)と論じてゐる。

日蓮は、「日本國の王となる人は天照太神の御魂の入りかはらせ給ふ王なり」(『高橋入道殿御返事』)と論じてゐる。

吉田兼好は「帝の御位はいともかしこし、竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞやんごとなき」(『徒然草』)と述べてゐる。「竹の園生」とは皇族の御事である。皇族すべてが「人間の種」ではないといふ信仰である。

天皇のお體には天照大御神の神靈がお入りになってをり、天照大御神の地上的御顕現であるといふ信仰が古代以来の現御神信仰である。日本天皇は、天照大御神の「生みの御子」「地上的御顕現」=現御神であらせられるのであるから、生物學的男女を超越した御存在であらせられる。

歴代天皇は、祭祀を行はれることによって、天孫降臨の時に天照大神が下された「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂(いなほ)を以ちて、亦吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」と仰せられた「神勅」に身をもって応へられてゐるのである

天皇は、天照大御神より「斎庭の穂」を賜って、これを「嘗め」されることにより、天照大御神と御一體となられ、大御神の靈統を繼承され神格を體される。天皇はまさに、「伊勢の大神の入れ替らせ給へるお方」である。

日本がその長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。

日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。天皇國日本を愛し守護する心を養ふことこそが日本國永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。現實政治の浄化も、維新も、神代・天孫降臨への回帰によって實現する。それが神政復古である。

歴史は繰り返すといふが、今日の日本も幕末当時と同じやうに、内憂外患交々来るといった状況になってゐる。今日の危機的状況を打開するためには、「水戸學」をはじめとする明治維新の精神に回帰し、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」を基本理念とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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千駄木庵日乗五月十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆。

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2019年5月17日 (金)

国会議員と言論の自由

二、三日前に書いたことと矛盾するというお叱りを受けるかもしれませんが、国会議員には「言論の自由」はないのでしょうか。あの程度の発言で「議員を辞職しろ」などと決議するのはおかしい。七十四年間も領土を不法不当に奪ったまま返そうとしないロシアという國と戦争をしてでも取り返すべしという主張は否定すべきでないし、そういう発言をしたからといって、「議員辞職しろ」などと迫るのはまさに「言論の自由」の否定であり圧迫であると思いますが如何でしょうか。議員の資質の低下を責める資格のある議員が一体何人いるのかと思います。辻元清美などは存在そのものが議員辞職してもらいたい人だと思います。私たち一般庶民の先祖の御墓ですら、他人が勝手に電飾し、イルミネーションで飾り立てるなどというのは絶対に許し難いことです。ましていわんや、神聖君主日本天皇の御陵にそのようなことしたらどうかなどと不敬発言をした男こそ、大阪市長及び公党の代表を辞任すべきであります。

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孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となった。

吉田松陰は、『講孟箚記巻の一』「梁恵王下篇第八章」において、「(注・漢は)天の命ずる所を以て天の廃する所を討つ。何ぞ放伐を疑はんや。本邦は則ち然らず。天日の嗣、永く天壌無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へる者なり。故に億兆の人、宜しく日嗣と休戚(注・喜びと悲しみ)を同じうして、復た他念あるべからず。若し夫征夷大将軍の類は、天朝の命ずる所にして、其の職に称(かな)ふ者のみ是に居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職の如くならしめば。直ちに是を廃するも可なり」。
(支那に於いては、天の命ずる所に従って天が排する者を討つといふ放伐思想を疑はない。わが國はさうではない。天照大御神の継嗣は天地と共に極まりなく永遠の存在であるので、この日本は天照大御神が開き給へる国で、天照大御神の継嗣が永く護り給へるものである。故に多くの人々は、良く天照大御神の継嗣と喜びも悲しみも共にして、他の思ひを持ってはならない。征夷大将軍の地位は、天朝の命ずるところに従って就任するのであるから、その職責にかなふ者のみその地位にゐることができる。だから、征夷大将軍が足利氏のやうに職務をおろそかにすることがあったならば、ただちにこれを廃しても構はないのである、といふ意)。

 

吉田松陰は、征夷大将軍がその職責を全うし得ず、夷狄を平らげることができなくなり、天皇のご信頼を失った場合はこれを打倒すべきであると論じたのである。この思想が徳川幕府打倒運動の正統性の根拠になる。

 

「天命が去った暴君を討ち倒すのは正義である」といふ支那孟子の「湯武放伐論」を日本的に昇華させ適用したのが松陰である。即ち、天照大御神の子孫(生みの子)であらせられる日本天皇は、神聖なるご存在であり、天そのものであり給ひ、日本の永遠の君主であらせられる。しかし、徳川将軍は覇者であり、征夷の職責を果たせなくなったらこれを討伐してよいといふ思想である。

 

孝明天皇の大御心にこたえ奉る変革が明治維新だった。嘉永六年(一八五三)にペリーが来航した。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行ひ開国を迫った。かうした事態に対して徳川幕府は、軍事的衝突を避けつつ、全國の力を結集する必要に迫られた。

 

徳川幕府は、鎖国を国是としてゐた。ところが、鎖國といふ徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを、朝廷にお伺ひを立て、各大名そして陪臣(大名の臣)にまで広く諮問した。

 

徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に委任されてゐる。朝廷は政治に口出しはできない」といふ原則を幕府自身が踏み躙らざるを得なくなったのである。これは徳川幕府の自己決定権の喪失であり、徳川幕府が国防の任を全うし得ないことが満天下に明らかになったのである。幕府権威の大きな失墜であり、幕府瓦解の始まりであった。

「御家門筆頭」とされる越前福井藩主・松平慶永ですら、ペリーの開国要求に屈した幕府に対し「征夷大将軍の御重任は御名のみにて、上は天朝御代々、神祖(注・家康のこと)御始御歴世様方え対され、下は諸大名万民迄えも、御信義地を払い云々」(『安政元年二月三十日、阿部正弘宛建白書』)と批判した。

 

征夷大将軍の「征夷」とは、「夷を征討する」の意である。「夷」とは、第一義的には外敵のことである。征夷大将軍の最も重要な使命・責任を果たせくなっゐることがペリー来航によって明らかとなったのである。まさに徳川幕府の正統性が根底から崩れ始めたのである。

 

徳富蘇峰氏は「(注・ペリー来航は)日本国民に向かって、一面外国の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるに足らざることの不言の教訓を、実物を以て示した…これがために二百五十年間全く冬眠状態であった京都の眠りを覚まし、たとえて言えば従来神殿に鎮座ましましたるものが、現つ神の本面目に立ち還り、ここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った。」(『明治三傑』)と論じてゐる。徳富蘇峰氏の「現つ神の本面目に立ち還り」といふ指摘は重要である。

 

孝明天皇は、文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。四月十一日には、石清水社に行幸あらせられ、攘夷の叡願があった。さらに二十一日には、賀茂蔡を行はしめ、外患一掃を祈願された。国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となった。

 

 

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千駄木庵日乗五月十六日

午前は、諸事。

午後は、室内整理。

午後六時より、上野にて、永年の同志と懇談。

帰宅後は、資料整理など。

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2019年5月16日 (木)

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた


安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の思想的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、國の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神國日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、國が辱めを受けることを世界に示し、日本國始まって以来無かったやうな傷を神國日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲濱・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、「大獄」の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

「紀事
當年の乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、
風雲を叱咤し地を卷きて興る。
今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、
征夷の二字は是れ虚稱。」
(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、實物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、實際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般國民にも漸次これを會得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、國の支配者たるの地位も失ふのである。今日の外患の危機も、日本國民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく體得し、強い愛國心を持つことによって打開できると確信する。

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「第九十五回日本の心を学ぶ会」のお知らせ



現代における尊皇精神を考える

令和の御世がはじまりました。五月四日の一般参賀には多くの人が赴き、新天皇のご即位を祝い申し上げました。改元後の10連休は日本全土が祝賀ムードに溢れ、一般の日本国民にとって、天皇という御存在がまことに大きいものであることがよくわかりました。

世論調査では、天皇に親しみを覚える国民は八割にものぼっております。令和の御世になっても日本が天皇を中心とする君民一体の国體であることはいささかも変わっておりません。

このような国體を護持してきた基礎にあるものは日本の歴史的伝統的に生成されてきた尊皇精神です。わが国は国家の危機的な状況に際して必ず尊皇精神が勃興し国難をのりこえてきました。 

大化の改新、建武の中興、明治維新など背景にあったのは天皇を中心とした国體を守ろうとする尊皇精神です。

そして日本の伝統、歴史、文化の体現者たる天皇の大御心、御意志にまつらうことが日本国民の道義心の根幹です。

令和の御世を迎えた現代のわれわれも過去と同じく内外に数多くの難問を抱えております。現代の国難を乗り越えるため今こそ、現代における尊皇精神について考えてみたいと思います。

【日 時】令和元年5月26日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-C
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】尊皇精神の體現者・楠正成公

【講 師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395


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千駄木庵日乗五月十五日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆など。

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2019年5月15日 (水)

松井一郎なる男にも早急に大阪市長そして日本維新の会代表を辞任してもらいたい

北方領土奪還について、「戦争しないと、どうしようもなくないか」と発言した日本維新の会所属の丸山穂高衆院議員に対して、日本維新の会・松井代表は14日午後、「除名処分という結論を出した」と述べた。そして日本維新の会は正式に丸山氏を除名した。そして、松井代表は丸山氏に対して、「自ら議員を辞職すべきだ」と述べた。

 

政治家が、北方領土問題という国家の大事を、その北方領土である国後島において、元島民であるビザなし訪問団の団長との会合で、酒を呑み相当酩酊して論じるなどということはやはりあってはならないことである。

 

丸山氏は東大卒、経産省キャリア官僚、そして松下政経塾出身のエリートだ。与野党、国会議員地方議員を問わず、最近の政治の質の低下はまことにひどいものがある。

 

しかし、今回丸山議員に除名処分を下した日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長は)も例外ではない。

 

平成二十五年9月5日に堺市中区のソフィア堺で開催された、堺市長選挙を前にした大阪維新の会タウンミーティングにおけるパネルディスカッションで、仁徳天皇御陵の「世界遺産登録」について「宮内庁がどう言うかはあるけどイルミネーションで飾ってみよう、中を見学できるようにしようと色んなアイデアを出して初めて指定される」と発言した。

 

天皇御陵は、申すまでもなく、天皇陛下の御神霊が鎮まられている清浄なる御墓所であり、聖地である。そこを他の観光施設と同様に考えて、イルミネーションで飾るとは何たることであろうか。不敬であり、皇室そして歴代天皇の御神霊を冒瀆する大逆行為である。

 

これが「維新」を名乗る政党の代表発言であるかと思うと本当に情けなくなる。松井一郎なる男にも早急に大阪市長そして日本維新の会代表を辞任してもらいたい。発言内容は、丸山氏よりもずっと悪質である。

 

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千駄木庵日乗五月十四日

午前は、諸事。室内整理。

 

午後からは、在宅して『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。書状執筆など。

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2019年5月14日 (火)

日本はロシアとの戦争も辞さない姿勢を示すべきである。

北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪問した日本維新の会の丸山穂高衆院議員は五月十一日夜、滞在先の国後島古釜布(ふるかまっぷ)で元島民の男性に対し、北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言した。ところがメデイァなどから批判が起こると、十三日夜、自らの発言について「政治家という立場でありながら、不適切な発言だった。元島民に配慮を欠いた」と非を認め、「心から謝罪し、撤回させていただく」と表明した。おそらく党の意向に従わざるを得なかったのであろう。

 日本とソ連(ロシア)の間には昭和二十年(1946年)4月まで有効期間がある「日ソ中立条約」があった、しかしソ連は、同条約を踏みにじって昭和二十年8月8日深夜に日本に宣戦布告して、9日未明から満州・樺太・千島列島へ軍事侵略したのである。

 日本政府は8月14日深夜、「4国共同宣言」=「ポッダム宣言」を受諾する旨の米、英、ソ、支の4国政府宛ての電報を、米国政府宛で打ち(米政府から英、ソ、支の政府に伝えられた)、翌15日正午に、昭和天皇陛下が玉音放送で、4国共同宣言を受諾することを述べて、停戦に合意したのであった。米軍は15日早朝から停戦していた。日本のポッダム宣言受諾によって、8月15日に、実質的に終戦となったのである。

 しかしソ連は、領土獲得のために対日侵略を止めなかった。ソ連が南樺太に軍事侵攻したのは8月16日以後である。千島列島の軍事侵攻は8月18日以降であり、千島列島最南端の得撫島への侵攻は8月31日であった。非千島列島の択捉島侵攻は8月28日、国後島侵攻は9月1日である。北海道の一部である色丹島と歯舞郡島への侵攻も9月1日であった。

スターリンはトルーマン米国大統領に北海道の北半分(留萌と釧路を結ぶ線以北)をもソ連に占領させるよう要求したが(1945年8月16日)、トルーマン大統領に拒絶された(8月18日)。

 ソ連軍(ロシア軍)は満州で、約150万人の日本人の財産を全て奪い、多くの婦女子をレイプし、約20万人を殺害した。シベリアに約105万人の日本軍将兵と男子を強制連行した。 40万人以上を強制労働で殺害した(中川八洋筑波大学名誉教授『脱原発のウソと犯罪』 277頁、283頁参照。2012年2月刊)。

南樺太でも日本人婦女子をレイプし、殺害した。

 プーチン・ロシア政府は日本の北方領土について、「第2次大戦の結果、ロシア領になった。日本は第二次世界大戦の結果を否定してはならない」と言い続けている。だが日本の「北方領土」(4島だけでなく、千島列島も南樺太も)は、前記のとおり4国共同宣言受諾で実質的に終戦になった8月15日以降に、ソ連に国際法に違反して軍事侵略され占領されたのであり、現在もロシアが違法に占領しているのである。

 戦後の国際社会の国際法の原則のひとつは「領土不拡大」である。ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の「カイロ宣言」(1943年11月27日)は、「自国のために何等の利得をも欲求するものに非ず。また領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」とする。トルーマン、チャーチル、蒋介石の「ポッダム宣言」(1945年7月26日)も第八項で「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」としている。つまり「領土不拡大」である。そしてソ連も8月8日日本に宣戦すると同時に「ポッダム宣言」に参加したのである。「ポッダム宣言」は、「4国共同宣言」となった。

 つまり、ソ連=ロシアの「北方領土」の占領そして今日繰り返されるプーチン・ロシアの「第2次大戦の結果だ」との主張は、「ポッダム宣言」の領土不拡大に違反するものなのである。に日本軍将兵ら105万人のシベリア拉致・強制労働も、同宣言第九項、十項違反である。

 米、英、支、ソなどの連合国側は昭和二十年(1945年)6月26日にサンフランシスコにおいて、「国連憲章」に署名した。ソ連=ロシアの日本の北方領土への武力行使(軍事侵略)は、国連憲章第2条の4項違反である。

 ソ連=ロシアは国家の本質が侵略国家なのだ。だから、プーチンロシアが日本の北方領土を返還することはあり得ない。そればかりかロシアは、北は南樺太、東は択捉島・国後島、西は沿海州で北海道を包囲して、北海道を軍事侵略占領することを狙っている。北海道を占領すれば、そこを出撃基地にして東日本の支配を狙う。ロシアと同盟関係の中共もそれに呼応して西側から日本を侵略占領することを狙う。

 だから日本は、侵略国家ロシアとの「平和条約」などを締結する必要は全くない。ロシアの日本侵略を糾弾し、満州における殺りくとレイプ、シベリアへの拉致と強制労働と殺害の謝罪を要求し、北方領土(南樺太全千島)の即時返還を要求し、対露防衛力強化に邁進していかなくてはならないのである。つまりロシアとの戦争も辞さない姿勢を示すべきなのである。

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千駄木庵日乗五月十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆など。

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2019年5月13日 (月)

奉祝歌

 

大君は神の如くにましませばみ民我新しき御代を寿ぐ

 

日の大神の御稜威畏む今日の日にわが大君の神々しきみ姿

 

新しき御代迎へて日の本は常に生き生きと栄えゆくべし

 

第百二十六代日本天皇のみ姿を拝し奉ることのかしこさ

 

新しき御代の光は明るくもすがすがしきかな日の本の國

 

新帝のみ祭りのお姿拝しつつ新しき御代の榮えを祈る

 

日の本は常若の國新しき御代に新しき大君を仰ぐ

 

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この頃詠みし歌

美しき色とりどりの躑躅の花を愛でつつぞ立つ根津の神垣

 

あまたの人躑躅の花を愛でにつつ根津の宮居を経巡りてゐる

 

躑躅の花咲き盛りゐる根津神社に新しき御代の彌榮を祈る

 

新しき令和の御代を生き行かむ萬葉集をなほ学びつつ

 

久しぶりに會ひたる友は健やかにわが前に座し語りゐるなり

 

ニコライ堂の姿麗しく見ゆるなる茶房の窓辺に友と語らふ

 

神田明神ニコライ堂に湯島聖堂 日の本の國は大らかなるかな

 

如何に考へても好きにはなれぬ油虫わが部屋内をウロウロしゐる

 

早朝の牛乳屋の音が聞こえ来てもう新しき一日が始まる

 

人間は皆衰へて老いてゆく こんなことを考へるやうになりし我七十二

 

 

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千駄木庵日乗五月十二日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆など。

 

 

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追悼歌


青若葉すがしく耀よふ初夏の日に君はみづら命絶ちたり

御霊たちのもとに行きしかわが友はみづから命を絶ちにけるかも

血痕がまだ残りゐて悲しくも切なき君の祈りにぞ哭く

道の辺にいまだ消えざる血痕を拝ろがみまつる初夏の昼下がり

切なくも悲しき祈りに慟哭す青葉繁れる靖國の宮

七生報國楠公の志を継ぐ如く自決を遂げし御霊拝ろがむ

すがしき笑顔まだ眼前にあるごとし御霊はすでに天翔るとも

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2019年5月12日 (日)

『萬葉集』の時代背景


 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に倣って中央集権制度が整ひ、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎へた。
 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。
『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦ひなど大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために『萬葉集』は編纂された。
萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行はれた。また、国内的には、大化改新といふ大変革、壬申の乱といふ国家の存亡にかかはる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似てゐる。
しかし当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はさういふ時代におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためには、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌はれた国民精神を回復することが必要なのである。 
 萬葉の時代を具体的にいへば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。
中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった」(神々と人間)と論じている。
 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。
 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。
 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。
しかし、白鳳・朱鳥・大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。『萬葉集』は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。
 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教といふ精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。即ち、大唐模倣から日本国の独自文化の興隆をもたらした歌集が『萬葉集』なのである。

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千駄木庵日乗五月十一日

午前は諸事。

 

渡邉昇氏より、沼山光洋氏の自決の報を聞く。

 

午後、靖国神社に赴き、沼山氏自決の地に拝礼。ご冥福を祈り奉る。数人の先輩同志と挨拶。

 

沼山氏とは最近二回ほどお目にかかったが、いつもと変わらない笑顔であった。これほど思いつめていたとは思わなかった。今は何かを申し述べる事は控えたい。ただご冥福を祈るのみである。ただし、沼山氏にたいする軽薄なる批判は許されない。

 

自決現場で、影山正治先生の辞世
「身一つを みづ玉串と ささげまつり 御代を祈らむ みたまらとともに」
を思ひ出した。

 

午後六時より、神田学士会館にて、「憲法懇話会」開催。高乗智之松陰大学准教授が「皇位継承をめぐる憲法問題」と題して報告。村松伸治日本文化大学教授が「外国人の人権を考える」と題して報告。質疑応答、全員で討論。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

 

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2019年5月11日 (土)

大伴家持のますらをふりの歌

『萬葉集』には、確かに優雅にして麗しい歌が多く収められてゐるが、日本の伝統的な「ますらをぶり」の精神を歌った歌も収められてゐる。

ますらをとは、丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけを。人並み優れて強い男子を誉めて言ふ。つまり英雄のことである。

賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。

ますらをぶりは、大伴旅人の子である大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。

研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。
 
 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から詠んだ「族を喩す歌」である。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。
 ますらを(丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけお。人並み優れて強い男子を誉めて言う。つまり英雄のこと。「~ぶり」▽雅語的)賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。ますらをぶりは、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、

私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」と言ふ長歌の反歌である。
「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。高潮したした歌いぶりである。

 この反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。 

『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。

「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。
 
「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着(しゆうじやく)しないさまである。

 天智天皇御製に、
「渡津海の豐旗雲に入り日さし今夜の月夜清明(あきらけく)こそ」
(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)
 がある。「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

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千駄木庵日乗五月十日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、資料の整理、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2019年5月10日 (金)

神を祭る心の回復が大切である

和辻哲郎氏は、その著『風土』において次のように論じている。
「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。…ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。……自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然と共に生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さをまって初めてあり得たことであろう」。

ヨーロッパの自然は、比較的温順にして秩序正しいので、神が創造した自然は、神の創造物の中で最も高い地位にある人間によって支配され改造され利用されてよいという思想が生まれたと思われる。これがヨーロッパの自然観である。こうした自然観が、自然を改造し利用して科学技術を発達させたが、自然破壊につながった。

日本をはじめとした東洋の自然は比較的厳しく秩序もないので、人間は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。

近年の自然災害の多発は、まさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させた。

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。ただし、自然に宿る神々には、和やかな神もおられれば、荒ぶる神をおられるのである。

日本国土も自然も實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の快適な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の快適な生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

文明は発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩しているが故になおさら惨禍がひどくなる。今回の大地震を見てそれは明らかである。

われわれは、自然および科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではあるまいか。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族は、そういう使命を帯びていると思う。

科学技術至上主義・物質至上主義・営利至上主義・快楽主義に汚染され続けてきた日本及び日本國民の頽廃を救うには、日本の傳統精神・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないのである。我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心、そして、「農」を大切にされる御心を、道義的倫理的規範として習い奉るということが大切である。そして、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。

「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)」(『古事記傳』)と定義してゐる。

日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

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千駄木庵日乗五月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、室内整理など。

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2019年5月 8日 (水)

今こそ日本國民全体が愛國心・大和魂を発揮して國難に当たるべき時である


 『男らしさの美學』という文章で三島由紀夫氏は「私は日本で革命を成功させる一番いい方法は、日本の政界、財界、文化界のおえら方、いはゆる支配勢力を全員数珠つなぎにして、全裸で、銀座を歩かせることだ。…その醜悪さに民衆は、自分たちを支配してゐた権力の實態を直ちに知るだらう。この世を支配してゐるのは美ではない。といふことを端的に知るだらう。美の革命が即座に起るだらう。男が服装において、肉體の線を出せば出すだけ、權力乃至地位の威嚴と抽象性が弱まる」と論じた。

 三島由紀夫氏はまた、『行動學入門』で、「武器といふ一定の目的を持った道具を使って、人間がその武器と同一化して、目的に向かってまっしぐらに突進することを、行動といふものの定義と考へていいと思ふ。なぜならわれわれの行動は目的なしにはあり得ず、われわれの肉體的行動は男である以上戰ひなしにはあり得ないからである」と書いている。
三島氏にとって行動・行為とは武器を持った戦いであったのである。

「三島由紀夫氏辞世

益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」

直訳すると、「日本男児が腰に差してゐる太刀の刀が鞘に合はないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」といふ意である。

しかし、「鞘鳴り」とは単に音がするといふ物理的な意味ではない。その刀剣に宿ってゐる靈がさやさやと発動するといふ意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたといふ意味である。

「楯の会」決起の際の『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒する者を待つわけには行かぬ」といふ叫びに呼応する歌なのである。

高崎正秀氏は、「今も刀剣を幾ふりと数へるのは、鞘に納めてさやさやと鎮魂した処にさやの名が起った様に、やはり魂触りした前代呪儀の名残を示すものであった」(『神剣考』)と論じてゐる。

日本語のサ行は、ものごとの「新鮮さ・神聖さ」をあらはす語彙が多く含まれる。早乙女・さっぱり・爽やか・栄える・榊・ささ(酒のこと)・幸・颯爽と、などである。

戸田義雄氏は、これらの言葉について「『早乙女』の『さ』は接頭語で、元来稲を指す言葉でした。神聖な稲が『さ』と発音されました。…日本人のことばの生活が、何を一番貴いと実感して来たか、を物語ってくれている。…稻、榊、酒・早乙女、はみな穀霊の豊穣を祈る神道祭祀と農耕儀礼に関係ある。全体が命の蘇った神聖、新鮮で栄を約束する感覚の『サ行音』で発音されている」(『日本人の感性』)と論じてゐる。

「鞘鳴り」とは、刀剣に籠ったさやさやと魂が発動して罪穢れを祓ひ清めんとする神聖なる音なのである。日本刀に気高さがあり、気品があり、神秘性があるのは、霊が籠ってゐるからである。

剣や玉など呪器に籠る霊力を振はせることによって、人間などの力を復活させることを「魂触り」と言ふ。御神輿が練り歩くのも、神体等を揺り動かすことにより神霊を活性化させる意義があるそれと。同じく剣を振る事によって本来活力を失った魂を再生し活力を再生させる。鎮魂は、ミタマシズメ・ミタマフリと言ひ、枯渇した人間の魂を振り起し、復活させ、衰微した魂の生命力を再生し復活させる行事である。

「刀は武士の魂」として大切にされて来たばかりでなく、神社の御神体即ち祭祀と礼拝と祈りの対象となってゐる。

そして昭和五十四年五月二十五日大東神社にて割腹した影山正治氏は

「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」

という辞世をのこしている。

愛国尊皇の心を張りつめた精神で歌ふ時、やはり日本伝統の文学形式即ち和歌で表現されることが多かった。漢詩にもすぐれたものがあるが、和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからである。

今日の日本はまさしく亡国の危機に瀕している。今こそ、その危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が祖国への愛・至尊への恋闕の思い歌ひあげる和歌の復興なのである。今こそ日本國民全体が愛國心・大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。

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千駄木庵日乗五月八日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』原稿執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が「萬葉集」作者未詳歌を講義。質疑応答。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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日本國はまさに今に生きる祭祀共同体である


日本は古代より言葉の真の意味における平和な國であった。伊勢皇大神宮の祭祀とたたずまひほど平和で清らかなものは無い。伊勢皇大神宮に限らず、全國各地の神社・神宮は清浄であり、穏やかであり、美しい。

國全体の祭祀主として、天皇がおはします。日本各地に神社があり、神社が無い共同体は殆どない。天皇は祭祀共同体日本の精神的中心者であり、神社は各地の共同体村落の精神的中心である。五穀の豊穣と民の幸福といふ共同体共通の祈りが捧げられ、願ひが訴へられる場が神社である。神社とは、常に村全体、共同体全体の神が祀られてゐる社(やしろ)である。そしてその神社に祀られてゐる神を「氏神」と申し上げ、その神社を崇敬する人々は「氏子」と呼ばれる。それぞれの共同体において日本の神々は「親」と仰がれ、民は「子」として慈しまれる。

天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体が今日においても脈々と傳へられ、現實に生きてゐるところにわが日本國の素晴らしさがある。古代オリエント、古代支那、古代インドは、征服されて祭祀共同体は破壊され、そこに生きてゐた人々は個別化された。つまり日本国と西洋諸国とでは国家の成り立ちが根本的に異なるのである。従って、西洋国家思想である「国民主権論」をわが国の憲法に採用するのは國體隠蔽につながる。

わが國は、地域のみではなく、企業においても神社あるいは祠を立てて神を祭ってゐる。さうした神々は「企業神」と言はれる。企業神は無機質な利益追求の機能集団である企業に倫理的精神的結合を与へてゐる。

日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の國家である。いはゆる自由民主体制は、國民一人一人の高い倫理精神が土台になってゐなければならない、さうでなければ、闘争・破壊・腐敗が蔓延し、國民の幸福は實現しない。ドイツの哲学者ヤスパースは、「自由というものは、神とも道とも涅槃とも、大きな充實した空とも、本然の存在とも呼ばれる超越的存在を私たちが経験する場所としてのみあり得ます」と語ったといふ。(昭和二十七年日本ヤスパース協会への「年頭の辞」・武藤光朗氏著『革命思想と實存哲学』より引用)

道義精神・倫理観のない國家は、権力組織に過ぎない。日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の國家である。さういふ國家に対してこそ、愛國心・國家意識が湧く。愛國心・國家意識は、共に懐かしむことができる歴史意識、傳統精神、道義精神、神話を持つことによって育まれる。

わが日本國民の生活は本来、精神的にも物質的にも、悠久の太古より継承された歴史・傳統・祭祀・信仰に積み重ねの上に形成されてゐる。グローバル化時代などと言はれてゐる今日こそ、その事を正しく認識すべきである。祭祀國家日本の本姿開顕、信仰共同体へ回帰してこそ、真の自由・真の民主政治が實現し國民の幸福が達成できる。

わが國は、ある特定の時代に人為的に作られた國家ではない。神話時代より継承されてきた神聖なる國である。「成文憲法」には、この事が正しく書かれてゐなければならない。

日本の「國生み神話」は、無名の大地の生成ではなく、國土の生成であるところに大きな意義がある。伊耶那岐命・伊耶那美命による國土生成の神話は、大八島國といふ統一した國土が生まれる物語である。そしてその中心の神が、天照大御神であり、天照大御神の靈統の継承者・地上における御代理が日本天皇である。

日本國民の天皇に対する帰属意識は、権力・武力に対する恐れに基づくのではない。従って、西洋傳来の「成文憲法」が「権力への制限規範」であるのならば、さうした「成文憲法」に「天皇条項」があること自体不自然と言へる。現御神・祭祀主であらせられる天皇陛下の御本質への回帰が第一であり天孫降臨・神武建國以来の道統を開顕する事が最も大切である。皇室の御事及び憲法はそこから考へねばならない。

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千駄木庵日乗五月七日

午前は、諸事。

 

午後は、室内整理、『政治文化情報』原稿執筆。

 

夕刻、お茶の水にて、二松学舎大学の同期生(佐藤一斎など日本儒学の研究家)と懇談。元号、御代替わりなどについて意見交換。

 

帰宅後も、原稿執筆。

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2019年5月 7日 (火)

「萬葉集」の掉尾を飾るに相応しい大伴家持の名歌

 大伴家持は、日本の国の国柄の素晴らしさを後世に伝えなければいけないという使命感を持って、「萬葉集」の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだのである。「萬葉集」は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱などという大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

 しかし、支那と比較すればわが国は平穏に歴史を経過して来た。支那は「易姓革命」といって、王室の姓が変わる革命が繰り返された。「易姓革命」とは、儒教の政治思想の一つで、天子は天命により天下を治めてゐるのであって、天子に不徳の者が出れば、天命は別の有徳の者に移り、王朝が交代するといふ思想である。わが国の天皇統治の道統には一切さういふ思想はない。天皇その方が天の神の地上における御代理・御顕現であり、現御神(うつし身として現れられた神)である。天皇の御意志そのものが天命なのである。一系の天子が永遠にわが国を治められるのである。だから支那のやうな王朝の交代とそれに伴ふ国家の分裂や興亡は起こらなかったのである。      

 三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、国郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首
                      
                  
新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)
                (四五一六)          

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝いの歌)で、「萬葉集」最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱う役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与へた時に詠んだ歌。

 「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるやうに良きことが積もれよ」といふほどの意。

 元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといはれてゐた。しんしんと雪が降り積もるやうにめでたきことも重なれよといふ願望を歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる「萬葉集」の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

 人麻呂の時代即ち初期萬葉の時代は、壬申の乱などがあったが、それでも神ながらなる日本を讃える歌を歌った。しかし、家持の時代になると、仏教しかも悪い意味の祈信仰が浸透し、藤原仲麻呂の専横・僧道鏡の出現など日本国の本来の大らかさ・明るさ・さやけさ・清らかさが隠蔽されつつあった。

 家持と同族であった大伴古慈悲とか大伴古麻呂という人たちは、橘奈良麻呂と一緒に、称徳天皇の寵を得て専横をきはめてゐた藤原仲麻呂打倒のクーデターに関ってみんな粛清されてしまった。そして直接クーデター計画に関わらなかった家持も因幡國に左遷されたのである。家持は後に、都に戻る。

 しかし、家持は、年の初めにかういふめでたい歌を詠んだ。「言事不二」という言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。聖書にも「言葉は神なりき。よろずものこれによりて成る」と書かれてゐる。家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事実として実現すると信じたのである。

 そして、「萬葉集」の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにしたところに、なにがしかの意味があると考えるべきである。国が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、また自分の一族が危機に瀕してゐても、否、だからこそ、天皇国日本の国の伝統を愛し讃へ、日本の国の永遠の栄えと安泰を祈る心の表白であらう。

 また、「萬葉集」編者(家持自身と言われる)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、「萬葉集」を万世の後まで伝えやうとする志を込めたといはれてゐる。我々は「萬葉集」という名称に、無限の力と祈りとを実感するのである。

 ともかくこの歌は、わが国の数多い和歌の中でもとりわけて尊くも意義深い歌である。

 この歌は、淳仁天皇が御即位された翌年の正月に詠まれた歌で、「萬葉集」の歌で最も作歌年代の新しい歌である。また家持の歌としてもこの歌が年代が最も新しい。この歌の後に家持が詠んだ歌は「萬葉集」に収録されてゐない。ということは、因幡國から都に戻った家持は、藤原仲麻呂打倒計画にまたまた巻き込まれ、今度は薩摩守に左遷されるが、再び都に戻り、参議兼東宮大夫、東北鎮撫の総帥持節征東将軍などを歴任し、延暦四年(七八五)、六十四歳でこの世を去ってゐる。

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2019年5月 6日 (月)

千駄木庵日乗五月六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆の準備、明後日行う『萬葉集』講義の準備など。

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山上憶良の「好去好来の歌」に歌われた言霊信仰

好去(かうこ)好来(かうらい)の歌

神代より 言ひ傳て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 滿ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛(めで)の盛りに 天(あめ)の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おほみこと) 戴き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(づま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等(たち) 船(ふなの)舳(へ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大國靈(おおくにたま) ひさかたの 天(あま)の御(み)虚(そら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船の舳(へ)に 御手(みて)打ち懸けて 墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の濱びに 直(ただ)泊(はて)に 御(み)船は泊(は)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早歸りませ                                       
(八九四)

山上憶良が、遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌である。天平五年(七三三)三月三日、大唐大使・多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)に謹上した長歌。多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)は、下野守・越前守などを歴任し、天平五年難波より、唐に向かって出発し、七年三月に帰朝し、天平十一年に死去。

「好去(かうこ)好来(かうらい)の歌」とは、無事に出発し無事に帰国して下さ
いと祈る歌といふ意。

【皇神(すめがみ)】天照大御神。【嚴(いつく)しき】は厳然としておられる。【言靈(ことだま)】言葉に宿る靈。【多(さは)に】数が多い。【高光る】日に掛かる枕詞。天皇は日の神たる天照大御神の御子であるとの信仰に基づく言葉。【日の朝廷(みかど)】日の大神の御子即ち天皇のいます宮殿。

【神ながら】は、神であられるままに、神の御心のままに。天皇を神として讃え、天皇の御行為は神の行為であるとする。この場合の天皇の御行為は広成を遣唐大使に任命した事をいふ。【愛(めで)の盛り】メヅは愛する意。【天(あめ)の下 奏(まを)したまひし】天下のまつりごとを執行される意。【罷(まか)りいませ】罷ルは貴人のもとから退出する意。

【神留(づま)り】カムは神として行動すること。ツマルは留まる意。【領(うしは)きいます】ウシハクは、領有すること。【船の舳(へ)】舳先近くに設けられた板の間。【倭の 大國靈(おおくにたま)】ヤマトは日本国、クニタマは国土の精霊。天理市に鎮座する大和神社のご祭神。【天(あま)がけり】大空を飛翔して。

【墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく】墨縄は、大工道具の一つである墨壺に付属した糸。真っ直ぐなことの譬に常用された言葉。【あちかをし】地名チカに掛かる枕詞。語義未詳。【値嘉(ちか)】長崎県南・北松浦郡、五島列島、平戸島及びその周辺の島々の総称。五島列島の西端福江島の三井楽湾が、遣唐使船の発着地であった。

【大伴の 御津(みつ)の濱】難波三津の地。「大伴」は現在の大阪市から堺市にかけての広範囲な地域の総称。古く大伴氏の領地であった。【御津】大阪市の上町台地の一角を指したというが所在不明。【び】ほとり、あたり。【直(ただ)泊(はて)に】寄り道せずまっすぐに。【つつみ】ケガ。【幸(さき)く】無事に。

通釈は、「神代以来、言い伝えられてきたことだが、大和の國は日本国を統治される神の威徳が厳然としている國、言葉の精霊が働いて助けて下さる國であると、語り継ぎ、言い継いできた。今の世の中の人も悉く、目の前に見ていし知ってい。人々は数多くあふれている、高く光る日の神の朝廷、神の御心のままに、慈愛の心を盛んにして、天下の政治を担当された家柄の子としてお選びになり、天皇のご命令を戴いて、唐の遠い所に派遣され行ってしまうで、海原の岸にも沖にも、神として留まって支配される諸々の大御神たちは、船の舳先で導き申し上げ、天地の大御神たち、大和の大国魂の神は、天のみ空から天を飛翔し見渡しになられる仕事を終え、朝する日には、またさらに大御神たちは船の舳先に御手をかけて導き、墨縄を張ったよに、値嘉(ちか)の崎から大伴の三津の浜辺に、寄り道もせず、御舟は到着するでしょう。つつがなくご無事で早く御帰りなさいませ」。

「倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國」であるから、神々の守護によって、遣唐使の務めを無事に終えて、無事に帰朝するという信仰を歌ひあげた歌。壮大なる國誉め歌であると共に、神々のご加護のもとに、遣唐使としての使命を果たさんとする友に対する雄々しき激励の歌である。

山上憶良は遣唐使の先輩として、その困難さ、危険性を熟知していた。だからこそ、わが国の国威を損なうことなく、その使命を果たすために、日本人としての自覚、天皇の臣下としての使命感を確立し、さらに日本の神々のご守護を信じて、海を渡り唐に赴くことを祈ったのである。支那の思想・文藝に強い影響を受けた憶良であったが、日本天皇への仰慕の心、そして日本の神々への信は、きわめて深いものがあったことが分かる歌。

この歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言靈の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言靈私観』)と論じてゐる。 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを強く自覚し信じ、言葉の靈力によって、幸福がもたらされている國が大和の國であると信じていたことが、「人麻呂歌集」の歌と憶良の歌によって理解される。

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千駄木庵日乗五月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して資料の整理、原稿執筆など。

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2019年5月 5日 (日)

上皇陛下、今上陛下の御製を拝し奉りて

今上陛下のご即位を謹しみて寿ぎ奉る。

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された上皇陛下の「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。今日の日本の混迷を救う基礎は、敬神崇祖・尊皇愛国の精神の回復である。

 

日本国の祭り主であらせられる天皇は、「私」をお持ちにならない。ひたすら民やすかれ、国安かれと祈られる。天皇陛下は、新嘗祭において衣冠束帯で二時間正座されると承る。

 

「天皇の國家統治」とは、天皇が精神的・文化的に國家と國民を統合される事を言ふのであり、天皇が日本國の君主であり統治者であるとは、天皇が日本國の傳統・文化そして歴史的永続性を体現され日本國民の統合を体現される御存在であるといふ事である。

 

天皇が日本國及び日本國民を統合され統治される御存在であることは建國以来の道統である。

 

「統治」といふ言葉は漢語である。〈やまとことば〉で言へば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまひ民もまた天皇の御心を知る」といふことが「統治」なのである。

 

祭祀國家・信仰共同体たる日本において、祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の「しろしめす」=國家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本國が成立する。それはまさに「やまと歌」によって成立するのである。

 

天皇の即位は、聖なる『日の御子』御生誕であり天降りであり、新たなる大御代の始まりである。肇國(はつくに)・稚國(わかくに)への回帰である。

 

天皇即位の時、天津日嗣の高御座に登られ百官の前にお姿を現される御装束は、日の御子のお姿である。「天津日嗣の高御座」とは、天上の日の神とおられるところと同じ高いところといふ意味であるといふ。また、大嘗祭は、若々しい新生の「現御神御誕生」の祭祀である。

 

今上天皇におかせられては、皇太子であられた平成二十五年十一月二十三日の「新嘗祭」の際、次の御製を詠ませられた。

 

御社の 静けき中に 聞え来る 歌声ゆかし 新嘗の祭

 

静まり返った皇居・神嘉殿に於いて、殿舎の外から聞こえて來る神楽の音色に耳を傾けられつつ、我が国のその年一年の平安と豊作に神への感謝のみ心を静かなる御心で歌に詠まれたと拝する。

 

皇位の継承は祭祀の継承であり、それは現御神日本天皇のご使命・ご自覚の継承である。将来ご自身が皇位を継承され、祭祀を司ることになるといふ秘かなる御自覚・責任感が、まさに静かにそしてゆかしく歌はれてゐると拝する。

 

上皇陛下におかせられては、平成二年、「大嘗祭」と題されて、

父君の にひなめまつり しのびつつ 我がおほにへの まつり行なふ

 

と詠ませられた。この先帝陛下の御製も、祭祀の継承をゆかしく詠ませられた御製である。今上陛下は、上皇陛下がこの御製に示された御心と同じ御心を歌はれたと拝する。

 

天皇が即位の大礼を行はれ、大嘗祭を執行されるといふことは、すなはち天皇の神聖性の確認であり、現御神日本天皇の靈統の継承なのである。
    
祭祀と歌会始は日本の伝統を継承する中核行事である。祭祀とやまと歌の道は、日本の道そのものである。その中心に天皇・皇室がましますのである。これがわが日本の國體の精華である。

 

日本伝統精神は、天皇の祭祀を中核として今もなおその生命が伝えられている。のみならず、現実に、今上天皇の常に民の幸福を祈られ自然の命を慈しみたもうご精神とご行動が、人心の荒廃と自然破壊を食い止める大きな力となっている。

 

日本国の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇のご存在があってこそ、日本国は安定と平和が保たれるのである。今日の日本は醜い権力闘争が繰り広げられている。夢も希望もない亡国の淵に立たされているかの如き状況である。しかし、天皇陛下の清らかなお姿を拝すると、心洗われ、無上の安らぎを覚える。陛下は、まさに「やまと心」・「無私の精神」の体現者であらせられる。天皇・皇室がおわします限り日本国は安泰であると信ずる。

 

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千駄木庵日乗五月四日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、資料の整理、室内整理整頓、原稿執筆・脱稿・送付。

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萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 五月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2019年5月 4日 (土)

根津神社について

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今日、参拝させていただいた根津神社は、小生の地元の氏神・鎮守の神社です。東都北鎮といわれております。「由来書き」によると、根津神社の由緒は次の通りです。

 

「根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。

 

江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。宝永二年五大将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。

 

明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。

 

御祭神は、須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真公」。

 

私は、全国各地を旅行し、神社仏閣などにお参りをしましたが、日本武尊にかかわる伝説は全国に数多くあります。また、須佐之男命を御祭神にしている神社がとても多いようです。

 

この御二方は、英雄神であられるとともに、大変な苦難を経験した神であられます。また「やまと歌」を詠みになっておられます。

 

須佐之男命の 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という御歌は、わが国の和歌の発祥と言われております。

 

日本武尊は「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」など多くのお歌を詠まれています。

 

二神とも、剣魂歌心を身を以て実行された英雄神てあられます。古来、わが国民はこの二神に特別の親しみと仰慕の念を持っていたと思われます。日本武尊が千駄木の地に須佐之男命を祀られたのが根津神社の発祥であるという伝承もそのことを証ししています。

日本は古代より言葉の真の意味における平和な國でありました。伊勢皇大神宮の祭祀とたたずまひほど平和で清らかなものはありません。伊勢皇大神宮に限らず、全國各地の神社・神宮は清浄であり、穏やかであり、美しい。

國全体の祭祀主として、天皇がおはします。日本各地に神社があります。天皇は祭祀共同体日本の精神的中心者であせられ、神社は各地の共同体村落の精神的中心であります。五穀の豊穣と民の幸福といふ共同体共通の祈りが捧げられ、願ひが訴へられる場が神社である。

 

神社とは、常に村全体、共同体全体の神が祀られてゐる社(やしろ)であります。そしてその神社に祀られてゐる神を「氏神」と申し上げ、その神社を崇敬する人々は「氏子」と呼ばれます。それぞれの共同体において日本の神々は「親」と仰がれ、民は「子」として慈しまれます。

小生が居住する東京下町の千駄木(旧町名・駒込坂下町)の周辺には古くからの神社があり、初夏から秋にかけて祭りが行はれます。わが家は、千駄木の隣町・根津に鎮座する根津神社の氏子です。根津神社の御祭神は須佐之男命で、景行天皇の御代に日本武尊が御東征の折この地に来られた時、千駄木の地に須佐之男命を追慕して創始したと傳へられます。

 

文明年間(一四六九~八七)大田道灌が社殿を奉建した。徳川五代将軍・徳川綱吉は宝永三年(一七〇六)、根津の地に社殿を造営しました。明治維新後、明治天皇により、勅祭社に准じられました。大東亜戦争で被災せず、徳川綱吉が造営した時の建造物が現存しており國指定の重要文化財となってゐまい。

わが町周辺は日本武尊の遺跡が多い。近くの湯島には日本武尊と弟橘姫を祀った妻恋神社があります。駒込といふ地名も日本武尊があたりを見渡して「駒込み(混み)たり」と言ったことに由来すると傳へられま。馬がたくさん生息してゐたといふ地名傳説です。

湯島には、湯島神社が鎮座します。御祭神は、天手力雄命・菅原道真公。雄略天皇二年(四五六)一月、勅命により創建されたと傳へられる。

北側の隣町・本駒込には、天祖神社が鎮座します。小生が通った中学校の隣にある神社で、御祭神は天照大御神。文治五年(一一八九)五月、源頼朝が奥州の藤原泰衡追討に赴く途次、靈夢により創建したと傳へられます。

本駒込には、さらに富士神社が鎮座します。御祭神は、木花咲耶姫命。加賀前田藩邸(今日の東京大学)に祀られていましたが、寛永五年(一六二八)の現在地に遷座しました。霊峰富士への山岳信仰の神社です。

東側の隣町・日暮里には、諏方神社が鎮座します。この神社はどういふわけが「諏訪」とは表記しないで「諏方」と表記します。御祭神は、建御名方命。元久二年(一二〇二)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したと傳えられます。日暮里・谷中総鎮守です。

このやうに、わが家近くの神社には、皇祖天照大御神、須佐之男命、天手力雄命、木花咲耶姫命、建御名方命、日本武尊、菅原道真公などの神々が祀られてゐるのです。そしてこれらの神社を中心とした共同体が今も生き続けてゐます。有難き限りです。

 

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千駄木庵日乗五月三日

午前は、諸事。

 

午後は、東都北鎮根津神社参拝。新しき御代の彌榮と、天皇皇后両陛下の萬寿無窮を祈り奉る。

 

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2019年5月 3日 (金)

この頃詠みし歌

九条の会などと名乗りてこの国の守り揺るがす者共を討て

政治的スローガンの如き歌を詠むは致し方なきかこの頃の日本

賑はへる和光前で待ち合はせする人々は皆スマホ見てゐる

公文書館より眺むる皇居の森の清らかさ日の本の國は永久に滅びざるべし

伊勢の大神のみ前にみ足を進めたまふわが大君の老いませし姿

伊勢の大神の神前に進みたまふ大君の老いませるみ姿を手を合はせ拝す

新緑の鮮やかな上野の山の上西郷像は凛々しくぞ立つ

若き友の当選の報が続く夜我も嬉しく若返る如し

浦安の國となることを祈りたり二人の友の当選の報を聞き

十日間の連休などは嬉しくなしと日銭を稼ぐ人々は口々に言ふ

掃除機で床を清めるこの朝(あした)春の日は今日もうららかにして

再びは逢へざる人の歌を讀みその面影を偲ぶ夜かな

地震といふ大きな破壊が何時来るかビルの林立を眺めつつ思ふ

地下二階より階段を昇ればわが胸の動悸激しき春の昼下がり

ともかくもエレベーターとエスカレーターに頼るほかなき我の外出

生活の實感といふを歌に詠む文藝作品となるもならぬも

電話にて身勝手な言ひ分しゃべりまくる声を聞こえ来る長雨の夜

玉座より去りたまひゆく大君の御姿を拝する時のさみしさ

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千駄木庵日乗五月二日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆。

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2019年5月 1日 (水)

公益社団法人・日本弘道会主催「弘道シンポジウム2018ー日本の皇室を考える-天皇陛下の御退位を目前にして」における登壇者の発言

十月二十三日に開催された公益社団法人・日本弘道会主催「弘道シンポジウム2018ー日本の皇室を考える-天皇陛下の御退位を目前にして」における登壇者の発言は次の通り。
所功京都産業大学名誉教授「日本の皇室は天照大神を皇祖と仰ぐ。天皇皇室は国民大多数から敬われてきた。天照大御神は皇祖神であり、歴代天皇の御尊称はスメラミコト、スメミマノミコトである。神々を祭り、人心を清らかにし統一するミコトであらせられる。皇族が消滅する恐れがある。『皇室典範』の総合的見直しに努めるべし。日本皇室が続いて来たのは、血統が極めて重要。そのためにも君徳の涵養が大事。この会場に来ている人は、日本に皇室が末永く続くことを祈ることで共通している。今上陛下の御心と歴代天皇の御心とは違うかどうか。一昨年のお言葉は今上天皇個人の思い込みで仰ったとは思わない。原則原理には例外はある。譲位も例外。原則は重要だが状況が変化したら変えることによって本質が守られる。養子・猶子で正統性をつないだ。側室を認めることは不可能。旧皇族の御子孫を養子・猶子にする可能性を探るべし。男系か女系かの議論に疑問を持つ。平成二十二年の参与会議で譲位のご意向を示され、政府に伝わっていた。しかし民主党政権だったので十分な対応が出来なかった。もっと早く真剣に対応すべきだった。天皇制の存続を願ってのご放送であった。譲位という言葉を政府が使わないのは頑なな考え。譲位と言うべし」。
古川隆久氏日本大学教授「日本国憲法制定までの状況を見ると、戦争への反省があった。国民主権という国の在り方や象徴天皇という考え方は、日本の軍部官僚が神格化された天皇の権威を乱用して失敗を隠蔽し、その結果戰爭で甚大な被害を出してしまった事実を踏まえ、占領軍に先立って日本側から提起されたものだった。天皇のテレビメッセージはぎりぎり合法。天皇のご訪問によって被災地の救済が進むのであれば、国民主権と議会制民主主義が空洞化してしまう。天皇がリードしたり牽引するのは、現行憲法考え方に照らすと適切ではない。天皇の問題提起を受ける形で、国民の間で開かれた自由な論議が半年以上にわたって行われた。この事は国民主権下における象徴天皇制の定着が進んできたことを示しており、大変喜ばしい。女性天皇・女系天皇について自由な議論で、議会制民主主義で決めるべし。天皇制と議会制民主主義が共存する。皇族以外も含めて猶子を考えるべし」。

八木 秀次氏麗澤大学教授「現行『皇室典範』には退位の規定はない。政府国会は終身在位制を維持しつつ特例法を制定した。一代限りの退位という特例を作った。特例制定は先例となったので、皇位は不安定になったと言わざるを得ない。天皇の自由意志によって退位できる。即位も否定できる。国家の道徳的中心は天皇にある。天皇を戴くことが日本国を道徳的にする。日本には老舗が多い。日本人は努力勤勉を尊ぶ。男系継承で来たので安定している。天皇に徳を求めすぎると争いになる。天皇が政治に関わらないのは重要。象徴という言葉の出典は英国のウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』を参照した。バジョットの本の中に『君主は党派を超越、統合の象徴』とある。バジョットの本こそ福澤諭吉の『帝室論』の種本。福澤は『我帝室は政治社外にあるものなり』と言った。男系継承は確立した原理。一度も例外はない。天皇の正統性の直結。柔軟に考えてはいけない。最早十年もこうした議論をしている。政治の決断が必要」。


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千駄木庵日乗五月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、清掃。原稿執筆など。

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