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2019年4月29日 (月)

日本の國家変革は「天皇中心の日本國體の真姿顕現」が基本である

皇極天皇四年(六四五)六月、中大兄皇子によって、蘇我蝦夷・入鹿父子が誅殺された。中大兄皇子は、舒明天皇を御父とし、皇極天皇を御母とした皇子であらせられる。皇子は、幼い頃から、蘇我氏の専横に憤りを感じておられたと承る。山背大兄皇子一族が蘇我氏によって滅ぼされる事件を見て、何としても蘇我氏を打倒しない限り、天皇中心の國體を護ることは出来ないし、日本の正しい國づくりはできないと判断され、蘇我氏誅滅を決意されたのである。

まず、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を誅殺し、ついで蘇我蝦夷を攻め滅ぼした。これはまさに劇的な大事件であった。

蘇我氏の専横は、崇峻天皇の弑逆、山背大兄皇子一族の殲滅など、その極に達していた。大化改新は、蘇我氏という悪逆無道の逆族を滅ぼして、天皇中心の國體を明らかにすることがその根本目的であった。それは聖徳太子の『十七条憲法』の精神の継承でもあり、実現でもあった。 

それは、大化二年の中大兄皇子の奏言(天皇に申し上げる言葉)に「天に双の日無く、國に二の王無し。是の故に天下を兼併して萬民を使ひたまふべきは、唯天皇のみ」(『日本書紀』)と示されていることによって明らかである。

一方、対外関係も、支那大陸において中央集権的な唐が成立し、その対外進出政策が顕著になり、朝鮮半島において新羅勢力が勃興し、わが國は極めて危険な立場に立つことになった。まさに内憂外患交々来るといった状況だったのである。それは幕末・明治維新期と相似である。そればかりでなく、今日唯今の日本の状況とも酷似している。

大化改新は日本建國以来最初の大きな國家変革である。そして大化改新以来今日まで日本の國家変革は、承久の変即ち後鳥羽上皇による北条氏討伐の御行動も、建武中興も、明治維新も、そして昭和維新運動も、「天皇中心の國體の明徴化」言い換えれば「天壌無窮の御神勅への回帰」「神武建國への回帰」がその基本であった。

皇極天皇四年六月十九日、天皇及び皇太子(中大兄皇子)は、大槻樹下に群臣を集めて、次のように天神地祇に誓われた。そして、年号を建てて、大化元年とした。

「天覆ひ、地載せて、帝道(きみのみち)は唯一なり。しかるに末代澆薄(すえのようすら)ぎて、君臣序(ついで)を失へり。皇天、手を我に仮(か)し、暴逆を誅し殄(う)てり。……自今以後、君に弐(ふたつ)の政(まつりごと)無く、臣は朝(みかど)に弐(ふたごころ)あること無し。」

これはまさに聖徳太子『憲法十七条』の「詔を承けては必ず謹め、君をば天とし、臣をば則ち地とす」「國に二君なく、民に両の主無し。率土の兆民、王を以て主と為す。所任(よさせ)る官司は皆是れ王の臣たり」の御精神を受け継いだものである。

大化改新以前は、各豪族(氏上)もまた「きみ」(君)であり、天皇はその氏上を統合する「おおきみ」(大王)であらせられたのであるが、天下に君たるお方は天皇ただお一方であるという、神代以来の一君萬民の國體のあるべき姿を明らかにせられたのである。

さらに重要なのは、大化改新において、「公地公民制」が採用されたことである。諸氏族の私領私民に対して氏上が君たることの否定であり、私領私民の否定である。これは、一君萬民の國體が明らかにするための当然の変革である。

これらの変革は、明治維新における徳川幕府打倒・廃藩置県と相似である。大化改新後、時間が経過して武家社會になると、この大化改新の精神が忘却され隠蔽されて、各地の武将・大名を「君」と仰ぐようになるのである。

大化改新はただ聖徳太子の御精神を継承し実現しただけではなく、神代以来の天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体としての日本國の本姿を顕現せしめた変革であった。

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