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2019年4月30日 (火)

公益社団法人・日本弘道会主催「弘道シンポジウム2018ー日本の皇室を考える-天皇陛下の御退位を目前にして」における小堀桂一郎東京大学名誉教授による「天皇=象徴観の今昔」と題する基調講演の内容


十月二十三日に開催された公益社団法人・日本弘道会主催「弘道シンポジウム2018ー日本の皇室を考える-天皇陛下の御退位を目前にして」における小堀桂一郎東京大学名誉教授による「天皇=象徴観の今昔」と題する基調講演の内容は次の通り。
「平成二十八年七月十三日に、天皇陛下が譲位のご意志を内々にお示しになったとNHKが報道。この段階では宮内庁は否定。メディアは強い反応。あのご高齢では譲位はもっともというのが世論の大多数。八月八日に陛下が譲位のご意向を国民に直接表明された。御退位は動かし難いものとなった。生前退位という表現を、皇后陛下が拒否。『産経』をはじめ譲位と表現した。

草莽の人々はある種の困惑を惹き起こした。憲法のもとの天皇は、国政に関する権能を持たないと言われた上で、摂政を否定し、譲位を表明された。超憲法的処置を求められた。昭和五十三年、栗栖弘臣統幕議長(当時)が『国家緊急事態の折には超法規的措置を以て対処する』と言っただけで罷免された。天皇の国事行為に対する助言と承認をする政府も、そして国民も柔軟な対応を示した。これは歓迎に値する。現行憲法は敗戦国の戦勝国に対する臣従の誓いのようなもの。占領目的の達成の手段が米国製憲法であった。これは国家的屈辱であった。この拘束を破る憲法無視は結構ということである。

しかし、天皇の個人的ご意向によって超憲法的事態が生ずるのは一抹の不安が生ぜしめる。『特例法』は、『今上天皇お一人に限る御譲位』という配慮が施してある。今回の事が前例として踏襲されることは防がれた。

今上陛下は憲法第一条の規定を強く意識され、象徴の在り方について常に心を砕いてこられた。〈日本国の象徴〉〈国民統合の象徴〉であるという現憲法での天皇の位置づけ乃至性格規定をめぐって、今上天皇と皇室伝統擁護派の一部言論人との間に、この規定の理解をめぐって齟齬が生じていることが明らかとなった。大きな災害が発生した時の被災者への親身なご激励、天皇皇后両陛下のご行動が不幸を背負った人々にどれほど大きな慰めとなったか。しかし、三十年間の靖国神社不参拝が、私どもの考える『象徴』と、陛下が模索される『象徴』との食い違いが生じる。

陛下がご加齢による身体の衰えの故に『これまでのように、全身全霊を以て象徴の務めを果たしていくことが難しくなる』とご軫念に、ある疑問にとらわれることがある。つまり陛下の言われる『象徴としての務め』とは皇位にあられる身にとって本当に不可欠な義務なのであろうかとの疑念である。

憲法の規定は、天皇は『統治権の総攬者』『国家元首』から『象徴』になった。國體の変更が起こったのか。和辻哲郎は『象徴天皇』で國體は変更していないとした。佐々木惣一は変更しているとして論争となった。国民の総意とは個々人の意識の集積ではなく、二千年の歴史的意志である。歴史的に形成された全体意思の中に無数の死者たちの意思も含まれるルソーの一般意思である。

和辻氏は見落としていたが、『天皇は象徴である』という性格規定を文字にした先例がある。それは明治三十四年に新渡戸稲造氏が英文で著作した『武士道』である。この書の中で新渡戸稲造氏はブリートミーというイギリスの歴史家が英国の王室について〈それは権威の像(イメージ)たるのみでなく、国民的統一の創造者であり象徴(シンボル)である〉と説明したことを引いて、それが実態をよく表現し得た言葉であるとの表現を付して、〈この事は日本の皇室については二倍も三倍にも強調せるべき事柄である〉との見解を述べている。

現行憲法の〈国民統合の象徴〉規定は、GHQ民政局次長として英文原案の奇想のたずさわったチャールズ・ケイディスの『その場でのふっとした思いつきだった』という告白的回想にもかかわらず、実際には新渡戸のこの英文著作から意識して借用したものだというのが私の見解である。

象徴としての天皇の御存在は、独自の行動的機能を有する必要を有しない、祭祀主としての静謐な在り様をお示し下さっていればそれで十分なのだった。今上天皇は昭和二十年からの数年間、小学校初等科六年から中学初年級という学齢の時期に、昭和天皇が国家存亡の危機に毅然として対処しておられたその極度の緊張を経験しておられる。父帝を身近にご覧になるにつけても、祭祀主としての伝統に則した象徴的の説に安んぜられる環境になかった。

皇太子の時代に、象徴と位置付けられた天皇は如何に身を処してゆくべきか、いかに行動すれば国民統合の役割を果たすことができるのか、という問いを自らが運命的に背負った課題として模索を試みることを余儀なくせられた。所詮罪は米国製の國體違反の憲法にある。罪は独立回復の時この米国製憲法を廃棄しなかった政府と立法府の怠慢にある」。

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千駄木庵日乗四月三十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理清掃。原稿執筆。資料整理。

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『伝統と革新』第三十二号

32-2

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『伝統と革新』第三十二号

32-2

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伝統と革新 32号

伝統と革新 32号 令和元年 目次
特集
平成の御代の回顧と新しき御代への展望
皇室・憲法・国防安保・外交など

【巻頭言】
「占領憲法」の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があってはならない
四宮正貴
【インタビュー】 平成に始まりこれからも加速していく社会変化に対応せよ     ケント・ギルバート
御代替わりの年だからこそ国際社会の変化を見据えて、日本も変わらなければならない
田久保忠衛
平成の御代はこれからの時代の基礎作り 新しき御代に日本は何をすべきか  中山恭子
新・国際秩序を創るメインプレーヤーにーそれが日本の使命と責任だ    長島昭久
ご皇室のあり方が注目された平成の御代 今後は九条「加憲」へ注力すべきだ 八木秀次
【佐藤 優の視点】 平成時代の北方領土交渉               佐藤 優
新しい御代の始まりにこそ「大日本帝国憲法」を甦らせるべし       西村眞悟
新しき御代を迎えるにあたり、悠久の日本を守るために我等何を為すべきか 新保祐司
平成の時代から新しい御代へ                      高池勝彦
私的戦後論ー「平和」の代わりに失ったものー              荒木和博
國たての朝はあけたり こぞりてたたなむ                 稲村公望
被災地行幸と慰霊の旅                         荒岩宏奨
平成時代を振り返る                          小林興起
【聞き書き】 「譲位」のことーほか、最近のこの国について思うこと           上杉 隆
【提言・直言】万世一系の天皇を戴いて                 松崎哲久
【連載】 『やまと歌の心』                          千駄木庵主人
【石垣島便り】辺野古米軍基地建設のための、埋め立ての賛否を問う県民投票に想うこと
中尾秀一
平成を振り返り、日本を真に取り戻していく               木村三浩
「憂国放談」第四回 昭和から平成の御代替わりの思い出         犬塚博英
「伝統と革新」バックナンバー一覧
取り扱い書店様一覧
編集後記

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天皇御即位についてー成文憲法及び政治権力は、天皇を制約し奉り國體の眞姿を隠蔽する権限は一切ない


わが國悠久の歴史は、現御神として君臨あそばされる天皇の御稜威と、天皇を現御神として仰いだ國民の尊皇精神とが支へてきたのである。

天皇は、信仰共同體である日本國の祭祀主であらせられる。権力機構としての國家の権力者ではない。祭祀國家の祭祀主であらせられる天皇の御位の繼承=「皇位繼承」について、権力機構としての國家の行事では断じてない。従って、権力機構である行政府が主導すべきではない。あくまでも皇室の伝統に基づいて執行されるべきである。國體・皇室の根幹の問題はなべて祭祀主=日本の傳統精神の體現者であらせられる天皇様の大御心に帰一しそれに遵ふべきである。臣下・権力機構が決めるべきではない。

「皇位繼承」は、祭祀國家日本の祭祀主に関はること、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體日本の國體に関する神聖なる事柄であり、世俗の権力問題ではない。即ち決して『現行憲法』のいふ「政治権力作用としての國政」ではない。占領軍に押し付けられた『占領憲法』などに拘束されて、天皇の大御心を無視するなどといふことは許されない。

天皇陛下は、日本傳統精神の體現者であらせられる。信仰共同體日本・祭祀國家日本の根本に関することは、天皇の大御心に随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基本である。天皇は祭祀主であらせられ、権力者ではない。臣下国民が、天皇の大御心に随順することは、権力者に絶対服従するのとは全く異なる。

皇位継承即ち「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄を、上御一人の御意志をうかがふこともせず、政争が繰り返される権力機構たる議會そして政府で決めるのは間違ってゐる。皇室の重要な事柄・行事を、天皇のご意向を無視して決定し執行することは、政體が國體を規制し、権力が権威を規制し、「俗」が「聖」を規制することになる。これは文字通り國體破壊である。

日本國體は「天皇を中心とした神の國日本」である。國體に関することは、神の御心のまま・現御神日本の天皇の御心に随順すべきである。それが日本の道統である。

祭政一致のわが國の傳統においては、天皇の仰せごとは即ち神のご意志であり、民が守らなければならない「法」なのである。天皇の上に「法」があるなどといふことは絶対にあり得ないしあってはならない。

「天皇は『憲法』『皇室典範』よりも下位にある機関」などといふ説はまったくわが國體と相容れない。第一、現御神日本天皇は断じて「機関」ではあらせられない。天皇國日本の「法」の尊厳性は、「天皇の仰せごと」といふところにある。天皇國日本においては憲法を含め全ての「法」の正統性は、天皇の神聖権威によるのである。何故なら天皇は現御神であらせられるからである。

天皇の正統性は成文憲法によるのではない。まして戦勝国によって押し付けられた「占領憲法」によるのではない。現御神日本天皇以上の権威は日本には存在しない。皇位継承など皇室に関することは、國家の権力機構である立法府・行政府で決めるべきではなく、天皇陛下の大御心に遵ふべきである。戦勝国によって押し付けられた占領憲法の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない

西洋の成文法は、一定の地域で共同生活を営む人間同士が信頼することができなくなり、文章で色々な決め事を書いておかなければならない状況になってから作られるようになったのであろう。

要するに西洋の成文法とは共同生活を営む人間同士の契約文書である。といふことは、人間同士が本当に信頼し合って生きてゐる世の中であれば成文法などは本来不必要だとも言へる。極論すれば成文法は人間性悪説に立脚してゐると言っても過言ではない。

 西洋の成文憲法の淵源とされる『マグナカルタ』(一二一五年、イギリスの封建諸侯が國王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。國王の専制から國民の権利・自由を守るための典拠としてイギリスの立憲制の支柱とされる)は、専制君主と國民との間の不信感に発して作られた契約文書にほかならない。ここから「憲法は権力の制限規範だ」といふ考へ方が生まれた。

 天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家・信仰共同體である日本國には成文法は本来不必要なのである。

 しかし、現実には明治以来、近代國家が建設され、國家権力機構も巨大化し、西洋文化・文明も輸入されてきたため、國民が政治に参与し、且つ権力の圧迫から國民の自由を守るためにも、成文憲法が必要であるといふことになった。つまり、近代以後西洋法思想が日本に入ってきて、日本にも欧米諸國と同じやうな成文憲法が必要であるといふことになった。そこで制定されたのが『大日本帝國憲法』である。

 明治天皇は『大日本帝國憲法及び皇室典範制定の御告文』(明治二十二年二月十一日)に、「茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス。惟フニ此レ皆 皇祖 皇宗ノ後裔ニ貽(のこ)シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」と示されてゐる。「洪範」とは天下を統治する大法といふ意味、「紹述」とは先人の事業や精神を受け継いでそれにしたがって行なふ意味である。

 『大日本帝國憲法』と『皇室典範』は、天照大神の御命令によって高天原より瑞穂の國に天降られた天孫邇邇藝命以来御歴代の天皇の日本國御統治の大法を実行することを記した成文法なのである。

 國體(國柄)は、憲法に基づいて確立されるのではない。一國の國體(國柄)に基づいて憲法の國體に関する条項が成文化されなければならない。天皇國日本の國體は、成文憲法が制定される以前からずっと続いてきたのであり、憲法に規定されることによって合法性が与へられたのではない。

 「成文憲法にかう書かれてゐるから、皇室はかうあらねばならない」とか「天皇はかういふことをされてはならない」と主張するのは本末転倒である。「憲法があっ天皇がゐます」のではなく、「天皇がゐまして憲法がある」のである。

 したがって、成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定したり隠蔽すること絶対にできないのである。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 憲法や政治権力は、その権限を越えて、共同體國家の精神伝統及び國民の精神生活、道徳生活、文化創造活動などに介入したり制限を加えたりしてはならない。特に成文法によって、天皇皇室を規制し奉ってはならない。成文憲法や政治権力は、日本國の道統に立脚し、その道統を正しく実際の國家において実現するための役割を果たすべきなのである。

 そもそも日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるといふ神話と信仰が古来から今日まで信じられて来てゐる。

 國家を単なる権力機関として見ると、天皇の神聖性・国家の道義性を否定し、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、それが國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそさうした状況に置かれつつある。

 西洋法思想がその理念となり、國家を権力機関としてとらへた「現行憲法」がある限り、國家は美しく良きものであり、人間はその國の國民として生きることによって幸福を得るといふことが不可能になる。

 今日においてさらに重大な問題は、神聖君主・日本國天皇が、成文憲法しかも戦勝国によって押し付けられた「占領憲法」の制約下に置かれるやうになってゐることである。かうしたことは天皇の眞姿を隠蔽するのみならず國體破壊の導火線である。

政府・内閣法制局は、「生前御譲位」を将来にわたって可能にするためには「憲法改正が必要」とした。その理由は「占領憲法」第一条で「天皇の地位は国民の総意に基づく」と定めてゐるので、天皇のご意思で「譲位」されることはこれに抵触するからだと言ふ。だから、「譲位」ではなく「退位」と言ふべしといふのが政府の方針となった。

「現行占領憲法」第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれてゐる。そして「憲法は権力の制限規範である」と言ふ。であるならば、国政に関する権能を有されない即ち権力者ではあらせられない天皇は、「権力の制限規範」の制約を受けられない。
従って、天皇・皇室に関する一切の事柄は、「現行占領憲法」の規定を超越してゐるのである。だから「皇室典範」など天皇・皇室の根幹に関はる事柄を権力機関で議論し決定すべきではない。また一切の皇室に関する事柄について「憲法に違反してゐるかどうか」と議論する必要もない。

天皇・皇室に関する一切の事柄は、日本の傳統的な「神観」「國「國體観」「天皇観」「人間観」に回帰して決定せられ論じられるべきである。

繰り返し言ふ。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。

吉田松陰先生は、「安政の大獄」で処刑される直前、同囚の堀江克之助に与へた手紙の中で「天照の神勅に、『日嗣の隆えまさむこと、天壌と窮りなかるべし』と之あり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。唯今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と書かれた。

今日、日本はまさに危機に瀕してゐる。しかし、神は必ず日本國と日本皇室を守り給ふ。『天壌無窮の神勅』に示されてゐるやうに、天照大御神の生みの御子がしろしめすわが日本國は永遠に不滅である。されば現御神日本天皇の大御心に帰一することによっていかなる危機もこれを乗り切り、神國日本の真姿が回復すると確信する。

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千駄木庵日乗四月二十九日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理整頓。原稿執筆など。

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2019年4月29日 (月)

日本の國家変革は「天皇中心の日本國體の真姿顕現」が基本である

皇極天皇四年(六四五)六月、中大兄皇子によって、蘇我蝦夷・入鹿父子が誅殺された。中大兄皇子は、舒明天皇を御父とし、皇極天皇を御母とした皇子であらせられる。皇子は、幼い頃から、蘇我氏の専横に憤りを感じておられたと承る。山背大兄皇子一族が蘇我氏によって滅ぼされる事件を見て、何としても蘇我氏を打倒しない限り、天皇中心の國體を護ることは出来ないし、日本の正しい國づくりはできないと判断され、蘇我氏誅滅を決意されたのである。

まず、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を誅殺し、ついで蘇我蝦夷を攻め滅ぼした。これはまさに劇的な大事件であった。

蘇我氏の専横は、崇峻天皇の弑逆、山背大兄皇子一族の殲滅など、その極に達していた。大化改新は、蘇我氏という悪逆無道の逆族を滅ぼして、天皇中心の國體を明らかにすることがその根本目的であった。それは聖徳太子の『十七条憲法』の精神の継承でもあり、実現でもあった。 

それは、大化二年の中大兄皇子の奏言(天皇に申し上げる言葉)に「天に双の日無く、國に二の王無し。是の故に天下を兼併して萬民を使ひたまふべきは、唯天皇のみ」(『日本書紀』)と示されていることによって明らかである。

一方、対外関係も、支那大陸において中央集権的な唐が成立し、その対外進出政策が顕著になり、朝鮮半島において新羅勢力が勃興し、わが國は極めて危険な立場に立つことになった。まさに内憂外患交々来るといった状況だったのである。それは幕末・明治維新期と相似である。そればかりでなく、今日唯今の日本の状況とも酷似している。

大化改新は日本建國以来最初の大きな國家変革である。そして大化改新以来今日まで日本の國家変革は、承久の変即ち後鳥羽上皇による北条氏討伐の御行動も、建武中興も、明治維新も、そして昭和維新運動も、「天皇中心の國體の明徴化」言い換えれば「天壌無窮の御神勅への回帰」「神武建國への回帰」がその基本であった。

皇極天皇四年六月十九日、天皇及び皇太子(中大兄皇子)は、大槻樹下に群臣を集めて、次のように天神地祇に誓われた。そして、年号を建てて、大化元年とした。

「天覆ひ、地載せて、帝道(きみのみち)は唯一なり。しかるに末代澆薄(すえのようすら)ぎて、君臣序(ついで)を失へり。皇天、手を我に仮(か)し、暴逆を誅し殄(う)てり。……自今以後、君に弐(ふたつ)の政(まつりごと)無く、臣は朝(みかど)に弐(ふたごころ)あること無し。」

これはまさに聖徳太子『憲法十七条』の「詔を承けては必ず謹め、君をば天とし、臣をば則ち地とす」「國に二君なく、民に両の主無し。率土の兆民、王を以て主と為す。所任(よさせ)る官司は皆是れ王の臣たり」の御精神を受け継いだものである。

大化改新以前は、各豪族(氏上)もまた「きみ」(君)であり、天皇はその氏上を統合する「おおきみ」(大王)であらせられたのであるが、天下に君たるお方は天皇ただお一方であるという、神代以来の一君萬民の國體のあるべき姿を明らかにせられたのである。

さらに重要なのは、大化改新において、「公地公民制」が採用されたことである。諸氏族の私領私民に対して氏上が君たることの否定であり、私領私民の否定である。これは、一君萬民の國體が明らかにするための当然の変革である。

これらの変革は、明治維新における徳川幕府打倒・廃藩置県と相似である。大化改新後、時間が経過して武家社會になると、この大化改新の精神が忘却され隠蔽されて、各地の武将・大名を「君」と仰ぐようになるのである。

大化改新はただ聖徳太子の御精神を継承し実現しただけではなく、神代以来の天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体としての日本國の本姿を顕現せしめた変革であった。

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千駄木庵日乗四月二十八日

午前は、諸事。

 

午後二時より、神宮前の南国酒家にて、「大日本一誠会」創立五十周年記念小宴開催。

 

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『第94回日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邉昇氏が主催者挨拶。小生が、「壬申の乱・白村江の戦い・大化の改新と『萬葉集』」と題して講演。活発な質疑応答、討論が行われた。

 

帰宅後は、休息。原稿執筆。

 

 

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2019年4月27日 (土)

来年一月に行われる台湾総統選挙について

本日開催された『アジア問題懇話会』における福島香織氏(ジャーナリスト)による「米中新冷戦構造と台湾―そして日本の対応は―」と題する講演はとても勉強になった。講演を聞き来つつ、小生は次のようなことを考えた。

来年一月十一日に行われる台湾総統選挙で、国民党が勝利する可能性が高いと言う。そうなるといわゆる「中台統一」という名の共産支那による台湾併合の危険が物凄く高まる。習近平は自分の権力基盤の強化にあせっているので、共産支那は相当無理をしてでも台湾併合を実行するだろう。

わが日本にとって最も憂慮すべきなのは、台湾という島国が共産支那の軍事基地になるということである。中華民国陸海空三軍が、「中国人民解放軍」という名の支那アジア侵略軍の指揮下に入るということである。

アメリカは、軍高官に外省人(支那人)が多い台湾軍による軍事情報の共産支那への漏えい、武器の支那への譲渡若しくは売却を今でも警戒しているという。

蒋介石は亡くなった時、「堅守民主陣容」「光復大陸國土」という遺訓を遺した。そして蒋介石は「反攻大陸」を願い続けた。今の国民党はそうした遺訓をすべて無視して、中共と手を結び、事実上の第三次国共合作をしている。まさに台湾は共産支那の支配下に置かれようとしているのである。

然るに日本は対南北朝鮮に比較すると、台湾に対する関心は薄い。特に問題なのは、自民党・公明党に「親中派」が多いということだ。公明党は党を挙げて「親中」だし、自民党は二階幹事長・福田元首相という大物が親中派である。自民党政府も、メディアも、共産支那によって不当に拘束されている多数の日本人の解放要求を全く行わない。沈黙を決め込んでいる。そして国民大多数もこの事に全く無関心である。

来年一月の総統選挙に国民党が勝利し、中台統一が実現すると、台湾は支那の一部になる。つまり中華人民共和国台湾省になるのだ。台湾は共産支那の軍事基地となり、支那は太平洋に自由に軍事進出できるようになる。そして共産支那の「太平洋を米中で二分割する」の野望を達成するのである。そうなったら日本はどうなるのか。

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千駄木庵日乗四月二十七日

午前は、『政治文化情報』発送作業。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。福島香織氏(ジャーナリスト)が「米中新冷戦構造と台湾―そして日本の対応は―」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報発送』完了。明日の講演の準備など。

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大伴家持・山上憶良の尊皇精神の歌


新元号「令和」の典拠になった『萬葉集』の巻五に収められた「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の中に作品がある大伴家持・山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神・武の精神を歌ってゐる。

劒(つるぎ)刀(たち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負(お)ひて 來(き)にしその名ぞ
(四四六七)

 大伴家持が詠んだ短歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」という意。「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じように大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないようにすべきだという意がある。「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」という極めて断定的な強い表現になっているところに家持の毅然たる態度と意志がある。

山上憶良の尊皇精神の歌
山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神を歌った歌は次の歌である。

惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首幷びに序

或る人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履(だつし)よりも輕(いるかせ)にし。自ら倍俗先生(せにしゃう)と稱(なの)る。意氣は青雲の上に揚るといへども、身體はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖とあるに驗あらず。けだしくは、山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)三綱を指示し、更(また)五教を開き、遣(おく)るに歌をもちてし、その惑を反さしむ。歌に曰く、

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことはり) もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天(あま)雲(ぐも)の 向(むか)伏(ふ)す極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞こしをす 國のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに 然(しか)にはあらじか       (八〇〇)

反歌

ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に歸りて 業(なり)を爲(し)まさに (八〇一)

詞書の通釋は、「ある人がゐて、父母を尊敬することは知ってゐるが、孝養をつくすことを忘れ、妻子のことは顧みないで、脱ぎ捨てた履物のやうにこれを軽んじ、自らを倍俗先生(世俗に背を向けた隠遁者)と名乗る。意氣は空の青雲の上にも上らんばかりだが、身体はなほ世の塵の中にある。まだ修業をして道を極めた聖人になったしるしもない。言ふなれば山の中の澤に亡命した民であらうか。そこで、三綱(人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序)を示し、五教(人の守るべき五つの教へ。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝)をさらに説くべく、この歌を贈ってその迷ひを直させることにする。その歌に曰く」。

長歌の通釋は、「父母を見れば尊いし、妻子を見ればいとしく可愛い、世の中はこれが当たり前のことではないか。もち鳥(鳥もちにかかった鳥)のやうに離れがたいものだ。行く末も分からないのだから、穴のあいた履物を脱ぎ捨てるやうに(家族を)捨てて行くといふ人は、石や木やうに非情の物から成り出て来た人なのか、お前の名を言ひなさい。天へ行ったならばお前の勝手にすればいいが、この地上には、大君がをられるのだ。この照らしてゐる日月の下は、天雲の横たはってゐる果てまでも、蟾蜍(ひきがえる)が這ひまはる果てまでも、大君が統治されるすぐれた國だ。あれこれと自分の欲望のままにそのやうにしてはいけないのではないか」。

反歌の通釋は、「天(日本の神々のゐます高天原のことではなく、支那の神仙思想が説くところのこの世が厭になった人間が逃避する場所のこと)への道のりは遠い。素直に家に帰って、家業にいそしみなさい」。

憶良の生きた時は、支那の老荘思想や仏教の無常感の影響で、家庭を顧みないで、俗世間を脱して暮らさうといふ人が増えて来たらしい。そこで、日本の傳統的倫理思想を説いて、その迷ひを払拭せしめやうとした作品である。天皇國日本に生きてゐる國民は、家族を捨てて現實から逃避するやうなことをしてはならないと歌ってゐるのである。『萬葉集』に歌はれた國民精神への回帰によって現代の危機を乗り越えなければならない。混迷の極にある現代においてこそ『萬葉集』の精神への回帰が大切である。

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千駄木庵日乗四月二十六日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、明後日行う『日本の心を学ぶ会』における講義の準備。

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2019年4月26日 (金)

新たなる天皇が即位されることは天孫降臨の繰り返しである

保田與重郎氏は、「天降(あも)りの原義は、天皇陛下の御即位は、天孫降臨を新しい代替りごとに再現される儀式にて、しかも天皇陛下の御生存御在位中は、つねづね、この『天降り』の持續した状態である。だから御代はかはっても、天皇陛下はつねに御一方であるとされてきた」(『萬葉集名歌選釋』)と論じてゐる。

われわれ日本民族は、天皇をただ単に神武天皇の肉體的御子孫として仰いできたのではなく、天照大神の生みの御子・地上における御代理・御顕現即ち現御神として仰いで来たのである。歴代天皇お一方お一方が、天照大御神の「生みの御子」であらせられ、現御神であらせられる。この信仰を〈歴聖一如〉と申し上げる。

折口信夫氏は、「古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が皇位を繼承した事になるが信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、斉しく天照大御神の御孫で居られる。決して、天照大御神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大御神との御関係は、にゝぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である」(『大嘗祭の本義』)と論じてゐる。

この「歴聖一如」といはれる天皇信仰は、折口信夫氏の直感でも独断でもなく、また、昭和十年代といふ時代を背景として考へ出された論議でもなく、古代以来のわが國の傳統信仰である。『古事記』『萬葉集』にも語られ歌はれてゐる。

平田篤胤は、「わが天皇命の高御座は、天照大御神の、萬千秋之長五百秋(ヨロヅチアキノナガイホアキ)に、所地看(シロシメ)せと依賜へる御座なる故に、その高御座に位(マ)すは、御孫ながらに、御代御代、天ツ神ノ御子と申し奉ることなり。此はその高御座に位(マシマ)すは、即天照大御神の御子に坐せばなり。」(『靈の眞柱』)と論じてゐる。

日蓮は、「日本國の王となる人は天照太神の御魂の入りかはらせ給ふ王なり」(『高橋入道殿御返事』)と論じてゐる。

吉田兼好は「帝の御位はいともかしこし、竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞやんごとなき」(『徒然草』)と述べてゐる。「竹の園生」とは皇族の御事である。皇族すべてが「人間の種」ではないといふ信仰である。

天皇のお體には天照大御神の神靈がお入りになってをり、天照大御神の地上的御顕現であるといふ信仰が古代以来の現御神信仰である。日本天皇は、天照大御神の「生みの御子」「地上的御顕現」=現御神であらせられるのであるから、生物學的男女を超越した御存在であらせられる。

歴代天皇は、祭祀を行はれることによって、天孫降臨の時に天照大神が下された「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂(いなほ)を以ちて、亦吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」と仰せられた「神勅」に身をもって応へられてゐるのである

天皇は、天照大御神より「斎庭の穂」を賜って、これを「嘗め」されることにより、天照大御神と御一體となられ、大御神の靈統を繼承され神格を體される。天皇はまさに、「伊勢の大神の入れ替らせ給へるお方」である。

女帝は祭祀を行ひ得ないし行ってはならないといふのはわが國の傳統とは相容れない思想であり事實に反する

現御神信仰は古代以来近世・近代に至るまで正しく繼承されてきた。第百十六代・桃園天皇は、

「もろおみの朕(われ)をあふぐも天てらす皇御神(すめらみかみ)の光とぞおもふ」

と詠ませられてゐる。
第百十七代・後櫻町天皇は、

「まもれなほ伊勢の内外(うちと)の宮ばしら天つ日つぎの末ながき世を」

と詠ませられてゐる。後櫻町天皇は女帝であらせられる。
後櫻町天皇は第百十五代・櫻町天皇の第二皇女であらせられる。江戸時代の宝暦十三年(一七六三)に即位。

地上において天照大神の御代理としての御資格を有される天皇は、血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するが、信仰上は、先帝も今上天皇も天照大神の御神靈が体内に天降ってきておられ、全く同じ御資格なのである。御肉身が男性であらせられやうと女性であらせられやうとその御本質には全く変りはないのである。

現實に崩御された天皇の神靈は一旦天にお帰りになる。しかし天にお帰りになった神靈は再び新しい天皇の御身体に天降って来られる。ゆゑに、天照大神の御神靈と一体の御存在であるといふことにおいては、邇邇藝命も神武天皇も歴代天皇も今上天皇も全く同一なのである。天皇を、「天照大神の御魂の入りかはらせたまふ王」と申し上げるのは以上のやうな信仰を表現してゐるのである。

神靈が天皇の御身体に天降り一体となるお祭りが、毎年行はれる新嘗祭である。そして、即位後初めて行はれる新嘗祭を大嘗祭と申し上げる。
 
譲位あるいは崩御によって、天皇の肉身はお替はりになっても、天皇の御神靈=大御命(おほみいのち)は永遠に不滅なのである。新帝の御即位は、天皇の御神靈が新しき肉身に宿りたまひ復活されたといふことなのである。新たなる天皇が即位されることは天孫降臨の繰り返しである。これは永遠の繰り返されるのである。

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千駄木庵日乗四月二十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、二十八日に行われる『日本の心を学ぶ会』における講義の準備、資料検索・整理など。

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2019年4月25日 (木)

『萬葉集』の時代背景

 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に習って、中央集権制度が整い、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎えた。

 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。

『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦いなどという大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行われた。また、国内的には、大化改新という大変革、壬申の乱という国家の存亡にかかわる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似ている。

当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はそういう時期におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためにはやはり、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌われた国民精神を回復することが必要なのである。 

 萬葉の時代を具体的にいえば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。

 中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった。」(神々と人間)と論じている。

 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。

 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。

 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。

しかし、白鳳朱鳥大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は、着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。萬葉集は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。

 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教という精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。

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千駄木庵日乗四月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、二十八日に行われる『日本の心を学ぶ会』における講義の準備。

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2019年4月24日 (水)

第94回日本の心を学ぶ会のお知らせ


第94回日本の心を学ぶ会

テーマ 『萬葉集』の精神と現代日本

四月一日に新元号が「令和」と発表されました。

日本最古の歌集である『萬葉集』からの出典であり、日本の古典からの引用は二百四十八の元号のなかではじめてです。
安倍首相は記者会見の中で「『萬葉集』は1200年余り前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります」と説明しました。

『萬葉集』は最古の歌集であるだけでなく、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いという国家的危機そして国家建設の時代の国民精神が歌われた「やまと歌」が集められた歌集です。
そして、日本の変革や危機に際して多くの国民に讀まれてきた歌集であるということも忘れてはなりません。明治維新の志士たちも『萬葉集』をよく学び、大東亜戦争に出征した兵士たちも『萬葉集』を戦地に持って行ったこともよく知られております。

戦争中、第二の国歌とも呼ばれ親しまれてきた「海行かば」も『萬葉集』に収められている大伴家持の歌です。

さらに明治維新の精神的原動力の一つである国学は『萬葉集』の研究から始まりました。

日本人は危機の中で『萬葉集』の精神に回帰することで自らのアイデンティティを確認してきたといえましょう。
平成最後となる今回の勉強会では『萬葉集』の精神と現代の日本について考えてみたいと思います。

【日 時】平成31年4月28日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-B
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】壬申の乱・白村江の戦い・大化の改新と『萬葉集』

【講 師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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区議選で感じたこと

区議選は、期間は短いのですが、数多い候補者が街宣車や自転車で活動するので、大変にぎやかです。顔見知りの人もいるので、手を振ったりして応援の意思表示をしたいのですが、主義主張が異なる人もいますし、私は既に投票する人物を決めておりましたので、それはしないことにしています。

ところがある日、街宣車に乗っている候補者をチラッと見たら、なんとウグイス嬢(以前はこういう言い方がありました)から「あたたかな眼差し有り難うございます」と言われました。

代々木に本部がある政党の候補者の運動員は以前わが家に来た時、「安倍内閣が続くと戦争になります」「徴兵制がひかれます」と言っていましたが、その後そういうことにはなっていません。近所に住む顔見知りの老婦人ですので、文句は言わないことにしています。デマ宣伝・洗脳教育とは恐ろしいとしみじみ思いました。

昔は、「神社にお参りをすると罰が当たる」と言っていた宗教団体と同体異名の政党の区議会議員がお祭りのお神輿をかついでいたので「お神輿をかついでもいいんですか」と聞いたら「政教分離です」と答えました。これは大分前の事です。

最近はその宗教団体の人は町会役員になって街のために頑張っています。そして町神輿の修繕費用への寄附を集めにわが家に来たのには驚きました。世の中は変わるものです。排他的だった教団も日本の伝統的な寛容な宗教的風土になじんでくるのでしょうか。


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2019年4月23日 (火)

千駄木庵日乗四月二十三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、『政治文化情報』発送準備など。

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昭和天皇と吉田茂・岸信介両氏

 本日、所功先生より、御編著書『昭和天皇の大御歌』をご恵送頂いた。心より感謝申し上げる。

これまで『昭和天皇御製集 おほうなばら』、夜久正雄氏著『歌人・今上天皇』、鈴木正男氏著『昭和天皇のおほみうた』を拝読した。

この度の、所功先生御編著書『昭和天皇の大御歌』には、昭和天皇のこれまで公表されてゐた八七二首の御製と、新発見の二七三首の御製が収められてゐると承る。まことに有意義なことであると思ふ。

吉田茂、岸信介両氏を偲ばれる昭和天皇御製を感慨深く拝読させていただいた。昭和天皇のこの二人の総理経験者に対する御信頼は篤かったと拝する。

昭和三十年十一月一日、昭和天皇が大磯の吉田茂私邸前を御通過になられた折のことを次のやうにお詠みになった。

「往きかへり枝折戸を見てしひけりしばし相見ぬあるじいかにと」

昭和四十二年十月、吉田茂氏逝去の際の御製。

「君のいさをけふも思ふかなこの秋はさびしくなりぬ大磯の里」
「外国(とつくに)の人とむつみし君はなし思へばかなしこのをりふしに」

昭和六十二年七月十日、岸信介氏逝去の際の御製。

「國の爲務たる君秋またで世を去りにけりゆふべさみしく」
「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり」(頭注)言葉は聲なき聲のことなり。

つい先日の会合で、ある学者と評論家の方が、吉田茂氏を痛烈に批判してゐた。吉田氏が構築した「護憲安保体制「吉田ドクトリンが日本をおかしくした」といふ論旨であった。

朝鮮戦争さなかの昭和二十六年一月、アメリカのダレス国務長官は吉田首相に憲法改正を要請したが、吉田氏は拒否したと言はれてゐる。また、講和発効の時「現行占領憲法」無効を宣言していれば良かったと言ふ人もゐる。

しかし、憲法学者の三潴信吾氏は平成十一年五月八日に開かれた『憲法懇話會』において、「自主憲法制定の基本方針」と題して講義され、次のやうに語られた。

「憲法改正より自主憲法制定が正しい。吉田茂首相は自主憲法制定の意志があった。二十八年の主権回復と共に、自由党として自主憲法制定をするとはっきり言って、自主憲法制定の組織を作るやうに岸信介氏に命じた。吉田茂は憲法に手を付ける意図がなかったといふのは真っ赤な嘘。高柳委員會以前に自由党の憲法調査會があった」と語った。

 昭和二十七年十一月十日、今上天皇の立太子の礼の時、吉田茂総理大臣は寿詞(お祝ひの言葉)で、自らを「臣 茂」と読み上げた。

さらに、吉田茂氏は、昭和二十六年の「サンフランシスコ講和条約」調印式出席前後の心境について、

「唯奉勅使萬里外 五洲視聴聚一身 和議盟成桑港夕 飛龍直還扶桑晨」(ただ勅を奉じて萬里の外に使ひす 五洲の視聴は一身に聚る 議を和し盟成る桑港の夕 飛龍となって直ちに還る扶桑の晨)といふ漢詩を作った。

吉田茂氏は、天皇の勅命を奉じてアメリカに赴き「サンフランシスコ講和条約」を締結したといふ自覚を持ってゐたのである。

「現行占領憲法」には「主権在民」と規定され、曲學阿世の憲法學者の中には「日本の元首は内閣総理大臣だ」などと論ずる輩もゐるのに、吉田氏は天皇の臣下としての自覚と矜持を持ってゐた偉大なる尊皇政治家であり、まさに昭和の忠臣と言って良いであらう。

吉田茂氏は、漢詩を作ることができた。今の政治家で漢詩を作る人は何人いるであらうか。
 
昭和天皇と吉田茂元総理との関係はまさに、「君臣水魚の交わり」に近い麗しい関係だったのではないかと、小生は考へる。だからこそ、昭和天皇は、上に掲げさせていただいた御製を詠ませられたと拝察し奉る。吉田茂氏はこの御製を拝誦し感涙にむせんだのではないだらうか。

 岸信介氏も尊皇精神の持ち主であった。第一次安保騒動の時、アイゼンハワー米大統領の訪日延期を要請した時のことを、岸氏は次のように語ってゐる。「あの頃警察官は本当に疲れ果てていた。機動隊の数も少なく、装備も悪いし、訓練もしていない。……陛下ご自身が(注・羽田にアイゼンハワーを)お迎えに行かれなければならない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理が本当に腹を切っても相済まない、それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って(注・アイゼンハワー訪日を)断ったんです」(『岸信介の回想』。

 羽田空港に大統領を出迎へに行っていただいた陛下の御身に萬一のことがあったら死んでも償い切れないといふことで、アイゼンハワー訪日延期を決定したのである。そして岸内閣は総辞職した。      
 
 また、大東亜戦争中、サイパンが陥落した後の昭和十九年七月、岸氏が東條英機総理と決定的に対立した際、身分は一大佐である四方諒二東京憲兵隊長が、商工大臣である岸氏の家を訪れ、軍刀を立て、「東條総理大臣が右向け右、左向け左と言へば、閣僚はそれに従ふべきではないか、それを総理の意見に反対するとは何事か」と脅迫した。岸氏はそれに対し、「黙れ兵隊!お前のようなことを言ふ者がゐるから、東條さんはこの頃評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左といふ力を持ってゐるのは天皇陛下だけではないか。それを東條さん本人が言ふのならともかく、お前たちのようなわけのわからない兵隊が言ふとは何事だ、下がれ!」と一喝して追ひ返した。(『岸信介の回想』)

 このやうに岸氏といふ人はきはめて強い尊皇精神と気骨を持った人であった。今の政界にかういふ政治家はゐるだらうか。 
 
 吉田氏にも岸氏にも、「天皇の臣下」としての深く強い自覚と責任感があったのである。

 政治家や官僚は、日本國の神聖なる君主であらせられ日本國民の道義心の鏡であらせられる日本天皇へのかしこみの心が基本になければならない。政治家や官僚に「天皇の臣下」といふ自覚があれば、極悪非道なことはできない。

 最近の政治家と官僚の質の低下は目を覆ひたくなる。その根本原因は、彼らの道義心・正義感・使命感の欠如にある。わが國の道義心・倫理観の根本は天皇への忠節の心と國を愛する心である。現下日本の政治・行政の腐敗の根本原因は、政治家や官僚に「尊皇愛國の心」が希薄になってゐるからであると考へる。

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千駄木庵日乗四月二十二日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、原稿執筆、書状執筆など。

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2019年4月22日 (月)

沖縄米軍事基地問題について

共産支那が南シナ海で大々的に人工島を造成を始めて六年、軍事基地化が着々と進んでいる。フィリッピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は「南シナ海はすでに中国の手中にある」と言った。

 

昨年十一月には米議会諮問機関『米中経済安全保障調査委員会』は中国の軍事戦略について「二〇三五年までにインド洋や太平洋の全域で米軍に対抗できる能力を備えるだろう」と報告した。

 

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設の是非を最大の争点とする沖縄3区両補欠選挙は、主要な国政野党が支援した無所属新人の屋良朝博氏((56)が自民新人の元沖縄・北方担当相との一騎打ちを制した。

 

屋良氏は、移設工事を進める安倍政権への批判を背景に選挙戦を優位に展開。玉城県政を支える「オール沖縄」勢力が支援し、国政野党4党首もそろって現地入りした。

 

問題は、沖縄が、東アジアにおける共産支那の軍事的侵略・覇権確立を阻止し、日本のアジアの独立と平和を守るためにまことに重要な軍事的要衝であることだ。

 

日本の左翼勢力は、日米軍事同盟、日米安保、そして沖縄の米軍基地に対する反対運動を戦後一貫して行ってきた。これは自覚するとしないとに関わらず、共産支那の軍事侵略に協力する行為である。我々は、そのことは正しく認識すべきである。

 

「沖縄の負担はひどい」「沖縄はこれまでずっと犠牲になってきた」と言われる。しかし、沖縄の地政学的位置を考えればそれは止むを得ざることである。沖縄の負担を軽減するのは私も賛成である。

 

しかし、いますぐに「日米安保」「アメリカの軍事基地を沖縄そして日本全土から無くす」というのは無理である。沖縄米軍事基地の問題は、「沖縄と日本国政府」もそして「沖縄とアメリカ政府」の問題ではない。あくまでも日本国とアメリカとの国家間の問題である。そしてアジア全体の平和と安全の問題である。沖縄の民意を全く無視しろというのではないが、この事はきちんと確認すべきである。

 

さらに、「対米自立」を実現し、「日本のアメリカ軍事的従属」に反対するというのは正論である。愛国運動の「戦後体制打倒」「ヤルタポツダム体制打倒」という永年の運動目標はまさにそのことと同意義である。

 

「対米自立の実現」「アメリカへの軍事的政治的従属の解消」とは、自衛隊の国軍化、核武装なくしては実現し得ない。沖縄を含めて日本にある米国の陸海空軍基地を全て日本国軍の基地にしてこそそれは実現するのである。そのことを目指さずして、単に「対米自立」「米軍撤退」のみを主張し、日米安保破棄を叫ぶはの、共産支那の軍事侵略、覇権拡大を許すこととなる。

 

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千駄木庵日乗四月二十一日

朝は、諸事。

午前十一時より、上野恩賜公園・西郷南洲翁銅像前にて、『西郷南洲翁銅像清洗式』執行。祭事、玉櫛奉奠、国民儀礼が行われた。続いて、早瀬内海西郷南洲会理事長が主催者挨拶。小生などがを祝辞述べた。多くの同志が参列した。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆など。

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2019年4月21日 (日)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 五月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2019年4月20日 (土)

国家的危機と敬神尊皇精神

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇敬神思想・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。「白村江の戦ひ」に敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた時には、大化改新を断行し、天皇中心の國家體制を明徴化した。「壬申の乱」の後には、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』及び『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。「元寇」の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。

幕末の外患の危機に際しては、尊皇攘夷を基本精神とする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。今日の日本の危機的状況も、尊皇精神の興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。

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千駄木庵日乗四月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、明日行うスピーチの準備、原稿執筆など。

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「春の特別展・江戸時代の天皇」拝観記

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展示されていた「平成の書」

 

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東山天皇御即位・大嘗会祭図(貞享四年十一月十六日)

 

「春の特別展・江戸時代の天皇」は、「平成31年(2019)は天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位が行われます。本展では、この御退位・御即位を記念し、江戸時代の天皇について取り上げます。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら天下人が登場し、それに続く江戸幕府による支配の中で、天皇・朝廷はどのように渡り合い、関係を構築していったのか。光格天皇による朝廷儀式の再興、江戸時代の元号の選定と改元などについて、当館所蔵の絵巻物や公家日記などを中心に御紹介いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

 

桜町殿行幸図 文化14年(1817)3月22日、光格天皇が禁裏御所を出て、上皇の御所である「桜町殿」へ向かう行幸の行列を描いた、上下巻あわせて全長約45メートルに及ぶ長大な絵巻。天皇の乗物である「鳳輦(ほうれん)」や、行列見物の人々、京都所司代による警固の様子などが描かれている。

 

礼儀類典 常陸水戸藩主徳川光圀が『大日本史』編纂の過程で、朝廷古来の行事や儀式(朝儀)が衰退している状況を憂慮し、編纂させた書。書名は霊元上皇のご命名。光圀没後の宝永7年(1710)、ときの水戸藩主・徳川綱條から浄書本515巻が幕府へ献上された。画像は天皇の玉座である高御座(たかみくら)。紅葉山文庫旧蔵。

 

公武御用日記 江戸時代、朝廷と幕府をつなぐ朝廷側の窓口となったのは武家伝奏という役職に就いた公家であった。画像は文化14年(1817)から天保2年(1831)まで武家伝奏を勤めた広橋胤定の公武御用日記。広橋家旧蔵。

 

公事余筆 天命の大火災で禁裏御所・仙洞御所などが焼失したため、その再建・御所造営について造内裏御用掛・広橋伊光が記した文書。

 

寛政内裡潜幸之図 寛政二年聖護院の仮御所から新造内裏へ潜幸された時の御行列を描いた図。

 

翁草 江戸時代後期の随筆。神沢杜口 (貞幹。京都町奉行の与力) 著 天明の飢饉の時、三万人に上る民衆が御所の周囲をぐるぐる回り拝礼し祈願した「千度参り」のことなどが記されている文書。この千度参りにより幕府は民衆救済のための救米を行った。

 

等を拝観。

 

江戸時代初期に於ける徳川家康・秀忠による天皇朝廷圧迫の事實は許し難い思いがある。後陽成天皇・後水尾天皇は幕府の圧迫に対する戦いの御生涯であったと言っても言い過ぎではない。しかし徳川綱吉の時代以降、幕府はそれまでよりは朝廷を大切にするようになったようである。しかし、江戸時代を通じて、幕府は、畏れ多い表現であるが、朝廷を京都御所に封じ込めつづけた。しかも、徳川将軍・幕府の権力を強め、天皇朝廷を蔑にしたことは否定できない事実である。しかし、本展覧会を見ても時代が進むにつれて、朝廷に権威は高まって行った。そしてやがて尊王攘夷の倒幕運動へとつながって行く。「天皇中心帰一」の國體が明徴化されたのである。

 

以下は以前に書いた拙文である。

 

徳川幕府による朝廷圧迫について
第 一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

後水尾天皇は、
「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」
「葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
といふ御製をのこされてゐる。

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

 

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千駄木庵日乗四月十八日

朝は、諸事。

 

午前十一時半より、麹町あさ乃にて、『呉竹会幹事・評議員会』開催。頭山興助会長が挨拶。池田龍紀氏が「御代替わりを迎えて提起されている問題を整理する」と題して講演。質疑応答。

 

この後、一人で竹橋の国立公文書館に赴き、開催中の「春の特別展・江戸時代の天皇」参観。

 

帰宅し、暫く休憩。

 

夕刻、千駄木にて、小中学校時代の同級生と懇談。

 

帰宅後も休憩。原稿執筆。

 

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2019年4月18日 (木)

ロシア・共産支那・北朝鮮による侵略と殺戮の歴史

『世界日報』昨年十一月十三日号に掲載された「ワシントン発ビル・ガーツの眼 トランプ氏共産主義の犠牲者を追悼」という記事によると、トランプ大統領は「共産主義犠牲者の国民的記念日の」昨年十一月七日、声明を発表、共産主義体制下での弾圧・抑圧で死亡した一億人の人々に哀悼の意を表明したという。

その記事には一九一七年のロシア革命について、独裁的共産主義思想による苦しみ、弾圧、死を目の当たりにした。中国では共産主義体制下、処刑、強制労働などで六五〇〇万が死亡した。ロシア・中国、キューバなどの共産主義政権下の弾圧で、九四〇〇万人が死亡した。共産主義政権下で発生した大量殺戮としては、ソ連時代にウクライナで発生した飢饉「ホロドモール」で一二〇〇万人が死亡した。三六年から三八年のスターリンの恐怖政治では、政敵と共に七〇万人の土地所有農民が「富農」として殺害された」と書かれている。

このほかにも、共産支那の「文化大革命」という名の毛沢東による大虐殺・殺戮で殺された人は何百万にのぼるか分からない。北朝鮮における金日成・金正日、金正恩による殺戮・粛清、そしてカンボジアのポルポトによる殺戮でどれだけに人が犠牲になったか分からない。

さらにソ連による満洲・樺太・チェコ侵入侵略、共産支那によるベトナム・チベット・韓国侵略侵入、・北朝鮮による韓国侵略侵入による犠牲者もどれぽとの数になるか分からない。

二十世紀はまさに共産主義といふ妖怪が多くの人類を殺戮し、自由を奪ひ、地獄に突き落とした世紀だったのである。それは今日においても全く変わっていない。支那もロシアも北朝鮮も、国民に犠牲を強い、対外侵略の牙をむいているのだ。

日本国内にいまだに「似非進歩主義」「マルクス・レーニン主義」の呪縛から脱出できていない者たちが数多く残存する。そしてロシア・共産支那・北朝鮮は、日本への軍事的圧迫を強めている。その手先となって動くのが、こうした連中である。

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千駄木庵日乗四月十八日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、室内整理、原稿執筆など。

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国家的危機と大西郷の精神


西郷隆盛が鹿児島に帰ってから作った私学校とは、賞典学校と銃隊学校、砲隊学校そして開墾社と私学校分校を含めた総称で、その綱領は、「一、道を同し義相相協(かな)うを以て暗(ひそか)に聚合(しゅうごう)せり。然らば此理を研窮し、道義においては一身を顧みず必ず踏行うべき事。一、王(きみ)を尊び民を憐むは学問の本旨、然らば此天理を極め人民の義務に臨みては一向(ひたすら)難に当り一同の義を立つべき事。」の二つであった。西郷精神の指標ともいうべきもので、人間にとって大事な学問や教育は、つまるところこの二つのためにあるというのが西郷の思想であった。王を尊び民を憐む心をつきつめて行けば、この時期、反政府的にならざるを得なかったのである。

 

今日、日本は内治外交共に大きな危機に瀕している。古代日本の大変革たる大化改新は、支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻と言う外圧危機下に行はれた。明治維新もまた西欧列強の外圧の危機下に行われた。

 

今日の日本のこの国家的危機に際して、一大変革の時期が到来したと考えるべきである。その意味においても、明治維新三傑の筆頭にあげられる大西郷の精神に思いを致すべきと考える。

 

明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」である。天皇を君主と仰ぎ、國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。そしてそれは、吉田松陰先生と並んで明治維新最大の功労者である大西郷の精神でもある。

西郷隆盛は、文久二年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の逆鱗に触れ、沖永良部島に流された時に『獄中有感(獄中感有り)』と題する次の詩を詠んだ。

「朝蒙恩遇夕焚坑   朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生浮沈似晦明   人生の浮沈晦明に似たり
縦不回光葵向日   たとひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若無開運意推誠   もし運開くなきも意は誠を推す
洛陽知己皆為鬼   洛陽の知己皆鬼となり
南嶼俘囚独竊生   南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何疑天付与   生死何ぞ疑はん天の付与なるを
願留魂魄護皇城   願はくは魂魄を留めて皇城を護らん」

勝海舟ゆかりの洗足池(東京都大田区)に西郷隆盛の遺徳を顕彰する留魂碑が建立されてゐる。その碑には西郷自筆のこの「獄中有感」の詩が刻まれてゐる。

この詩は、「朝に主君の恩遇を受けたと思うと夕には生き埋めにされる。人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。葵(ヒマワリ)は太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。京都の同志たちは皆、国難に殉じている南の島の囚人となった私ひとりが生き恥をさらしている。人間の生死は天から与えられたものであることは疑いない。願うことは死んでも魂は地にとどまって皇城(天皇の御所)を守護したい」といふほどの意である。

平泉澄氏はこの詩について「西郷の詩として傳へられるもの百数首、その中に於いて最も重要なるものとして、私は此の詩をあげたい。その一生の間、厄難多く、島流しにあふ事も前後三回に及んだが、運命の浮沈いかにあらうとも、皇城を仰ぐ忠誠の一念はかわるものでは無い」「末句『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至っては、皇国の道義、発揮せられて余蘊なく、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る」(『首丘の人大西郷』)と論じてゐる。

影山正治氏はこの詩について、「寺田屋事件に於て有馬新七らを失ひ、月照を失ひ、齊彬公を失ひ、東湖を失ひ、その他多くの先輩盟友既に無く、一人南島の獄中に沈思回想して無言の慟哭をなして居るのだ。…『生死何ぞ疑はん天の付与なるを、願はくば魂魄を留めて皇城を護らん』南洲五十年の全生命、凝ってこの一句に結晶してゐる。かくて五十年の生命は悠久無限の大生命に飛躍したのだ」(『大西郷の精神』)と論じてゐる。

「願くば魂魄を留めて皇城を護らん」こそ、「大西郷の精神」の根幹・尊皇攘夷精神である。

共産支那や南北朝鮮の「傲慢無礼」なわが国領土に対する侵略策謀・反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されてゐる今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

今日の危機的状況を打開するためには、南洲精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち維新を断行しなければならないと信ずる。

 

 

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千駄木庵日乗四月十七日

午前は、諸事。


午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿目・送付など。

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2019年4月16日 (火)

元号は天皇の勅定によるといふ千数百年にわたるわが國の伝統が無視されたのは 重大なる國體隠蔽である

日本人の生活は、農耕を基本とし、規則正しく、自然の変化に順応してゐる。そして、日本における暦は、祭祀主であらせられる天皇によって授けられるといふのが伝統であった。

 

一年間の時間の推移、季節の変化は、日本民族の生活と不離一体の関係にある。特に稲作生活において然りである。故に、暦は必要不可欠のものとして大切にされてきた。

 

祭祀國家日本の祭祀主として常に五穀の豊穣・國土の安穏・國民の幸福を祈られてきた天皇が、「まつりごと」の重要なご使命として「暦」を民に授けられたのである。

 

「元号勅定」もこの事と同意義である。「元号」を立てることは、時の流れに節目をつけ、願望と祈りをこめるきはめて高次にして大切なる営みである。しかも、わが國においては、大化以来千年以上の歴史と伝統を持つ。

 

稲作國家日本の祭祀主であらせられる天皇にとって、時代に節目にをつけ、時を授けるのは大切なるご使命であった。

 

これまでの歴史を顧みれば明らかな通り、新元号を建てることによって、時代転換、世直し、國家の新生、維新が行はれてきた。

 

天皇のみのご使命である元号を定めることは、決して権力行為ではなく祭祀であることは、「元号の勅定」が天皇の「統治権の総攬者」としての「國務・政務」について規定されてゐる『大日本帝國憲法』ではなく、「卽位ノ禮及大嘗祭」などの即位に関はる宮中における祭祀についてのみ規定されてゐる「登極令(とうきょくれい) 」に規定されてゐることによって明白である。

 

明治以後は不文の法のみならず成文法においても明治二十二年(一八八九)二月十一日、『大日本帝國憲法』と同時に公布された『皇室典範』によって一世一元が確認せられ、改元の手続きは『皇室典範』の附属法である『登極令』(明治四十二年【一九〇九】二月十一日公布)において「第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム  元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス 第三條 元號ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」と定められてゐる。

 

近代成文法において、天皇陛下の御意思にあらざれば元号は改めることはできないと明確に規定されてゐる。そして、元号の勅定は、大嘗祭などと同じく、天皇の行はせられる祭祀なのである。

 

内閣は、新帝即位に伴ふ改元につき、「國民生活への影響を考慮して」「経済界や國民生活の利便性を考へて」即位に先立つ四月一日に政府から新元号を発表することとした。そして、天皇陛下の勅許も聴許も承らず、新しい御代の元号が定められてしまった。これは、君主たる上御一人日本天皇が勅定あそばされるべき「元号」が、臣下たる内閣によって決められたといふ事であり、元号は天皇の勅定によるといふ千数百年にわたるわが國の伝統が、無視されたのである。重大なる國體隠蔽である。

 

内閣がかかることを行ったのは、「天皇の事前許可を求めれば天皇の國政関与を禁じた憲法に反する」といふ考へ方に基づくと言はれてゐるが、元号の勅定は、天皇の権力行使ではないし、政治権力行為ではない。「天皇の祭祀」の重要な事柄である。政府も國會も、皇室や日本の伝統よりも『現行憲法』の規定を重んじる姿勢を貫いてゐる。「現行占領憲法」はまさに國體破壊・國體隠蔽の亡國憲法である。一刻も早く全面否定しなければならない。

 

明治維新に際して明治天皇が「一世一元」の制を定められ、また昭和五十四年制定の「元号法」においても改元は皇位の継承があった時、とされており、改元は新帝によるものと理解されるべきである。

 

「ついに日本は、天皇が『時間空間』を統治される國ではなくなった。内閣総理大臣以下政治権力者が『時間』を支配する國となった」と極言することも可能である。

 

安倍総理にそのやうな意思は毛頭なかったであらう。安倍総理は「現行占領憲法」下において、天皇陛下を心をうかがふべく出来得る限りの努力をしたと思はれる。

 

報道によると、安倍総理は、天皇陛下の政治への関与を禁じた『現行占領憲法』第四条に抵触しないやう配慮しつつ、「新元号」決定前も決定後も、皇居・東宮御所に何回か参内し、天皇陛下、皇太子殿下に選考が元号にご説明申し上げたやうである。天皇陛下、皇太子殿下のご報告申し上げ、ご意向をうかがったと思はれる。

 

『現行占領憲法』には、「第四条 天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない」と書かれてゐる。権力者ではあらせられない日本天皇は、「権力の制限規範」である『現行憲法』によって規制される御存在ではあり得ない。天皇・皇室は「憲法」を超越した御存在である。天皇は権力者ではあらせられないのであるから、権力の制限規範たる成文憲法に規制されない。

 

しかるに新しい元号は、天皇が勅定されるといふ伝統が無視され、臣下の権力機構たる政府が決めたといふことは、德川幕府でさへ行ひ得なかったしなかった重大なる伝統破壊である。

 

新井白石(江戸時代中期の旗本・政治家・朱子學者。六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を實質的に主導した)は、享保元年(一七一六年)頃に書いた『折たく柴の記』といふ随筆において、「わが朝の今に至りて、天子の号令、四海の内に行はるゝ所は、獨年号の一事のみにこそおはしますなれ」と書いたといふ。

 

もっともこの新井白石は、「徳川将軍は天下の主権者たるにふさわしい『日本國王』の称号を持つべきであると」と主張した人物である。事實、正徳元年(一七一一年)に徳川幕府が朝鮮からの使節を迎へるに際して、國書に記載される将軍の称号を「日本國王」と改めさせた。新井白石は、文字通り幕府の御用學者であったと言ふべきである。

 

新井白石の主張に対して、頼山陽は後に「噫(ああ)、是れ足利氏を助けて虐(注・天皇に対する反逆)を成すものなり」「名分の在る所、踰越(注・のりこえる)すべからず」(『日本外史』)と厳しく批判した。また、新井白石は、徳川吉宗が将軍になると失脚した。

 

元号は、臣下の學者・官僚たちがいろいろ議論して原案を作っても、その原案を、天皇に奏上し、叡慮によって決せられ、勅定されるべきなのである。王朝時代においても、元号は公家・學者による討議があったのちに勅定せられた。
ともかく君主たる上御一人日本天皇が勅定あそばされるべき「元号」が、臣下たる権力機構によって決められたことは、國體が大きく隠蔽されたと言っても過言ではない。

 

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千駄木庵日乗四月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。明日のスピーチの準備など。

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この頃詠みし歌

この頃詠みし歌

日の大神の輝く國の大君は神の如くに大いなる光

父母はもうこの世には居まさねば我は一人で生きるほかなし

胸の痛み今日はあまり感じざれば何か長生きするやうな気がする

どんどんと外国人が入り来る國となりたるを肯ふべきか

共生といふ言葉を余りにも安易に使ふことはよろしきや

猛獣とは共生できぬ故にこそ彼らを檻に閉じ込めるにあらずや

北海道より来たりし人と隣同士でチャンチャン焼きのことなど話しぬ

元号は上御一人が勅定する伝統を守らぬ政府許し難し

敗戦後押し付けられし憲法は七十二年経ちて日本を破壊せんとす

「時により過ぐれば民の嘆きなり」と歌ひし人は凶刃に斃る

多くの人々眠れる霊園に春の風吹き来て嬉し今日の法要

寒き風吹き来る墓苑でうからたち先祖の御霊を拝ろがみまつる

墓石に水かけて喜ぶ幼児を曾祖父曾祖母も喜びてをらん

幼き命尊き命わが甥の子にしありなばなほに愛しき

我にしもまとはりつく幼児をいとしと思ふ老いにける我

寝る前に歌を一首二首詠むことが習ひとなりて今日も筆とる

曇り日の下なる満開の桜花 上野の山の春の華やぎ

心臓を労はりにつつ歩み行く上野の山の櫻木の下

還暦を過ぎし友と古稀過ぎし我とが語らふ葬儀のことを

墓場をもマンションと言ふと初めて聞きぬ納骨堂の事

やはり我は壺に納まりて土の中に入り行きたしと強く思へり

春の太陽昇り来たりし時にしも手を広げつつ息を吸ひ込む

帰り行く家のあることがうれしくて春雨の下傘さしてゆく

今もなほ摩文仁の丘の潮騒が聞こえ来るなり幾歳経ても

安易なる言葉使ふなとわが内より聞こえ来るなり歌詠む時に

大臣が大君に謁を賜るを面会などと言ふ國になりにけるかな

毎年の春に来たりて心愛(を)しむ谷中霊園の満開の桜

満開の桜の大樹を仰ぎてはわれの命もさきはへにけり

諏訪台に桜の花の咲き満ちる時に拝ろがむ空海の像

神やしろ古きがままに神々しく桜の花に囲まれてをり

天地の神に抱かれ今日もまたこの天地に生きて行くかも

妹背山を模して作れる築山を眺めつつ抹茶を啜る楽しさ(六義園)

受診終へ無縁坂を下り来れば春の日耀よふ不忍池

鳥たちもげに楽しげに桜木に羽やすめをり不忍池

桜花咲き盛るなる春の日の不忍池に人さはに満つ

諏訪台のみ寺に来れば桜花に囲まれて空海の像立ちませる

釈迦牟尼像今日も静かに座しませる谷中天王寺に人ら遊べり

日暮里の諏訪のみ社そのかみの村の鎮守のままののどけさ

この年の櫻も今日が見納めと経巡れる上野の山の賑はひ

防衛大の訓練の写真を見て思ふわが國には確かに国軍はある(『宮嶋茂樹写真展・防衛大学校の日々』)

桜花散り果てにける夜の街冬に戻りて寒き風吹く

二人の友と共に食せるもつ鍋は寒き夜ならなほ美味かりき

思ひ出を語り合ひたるこの夜は寒きが故に鍋美味かりき

老人が多く乗りゐると思ひつつバスに乗れば我も老人の一人ではないか

七十二歳を老人と言ふは早いぞと繰り返し自分に言ひ聞かせゐる

元気良き若き運転手が操れるタクシーに乗るは心地良きかな

大いなる神の光が満ち溢れ合掌するわが手も輝きてゐる

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千駄木庵日乗四月十五日

午前は、諸事。

 

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2019年4月15日 (月)

「第94回日本の心を学ぶ会」のお知らせ


第94回日本の心を学ぶ会

テーマ 『萬葉集』の精神と現代日本

四月一日に新元号が「令和」と発表されました。

日本最古の歌集である『萬葉集』からの出典であり、日本の古典からの引用は二百四十八の元号のなかではじめてです。
安倍首相は記者会見の中で「『萬葉集』は1200年余り前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります」と説明しました。

『萬葉集』は最古の歌集であるだけでなく、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いという国家的危機そして国家建設の時代の国民精神が歌われた「やまと歌」が集められた歌集です。
そして、日本の変革や危機に際して多くの国民に讀まれてきた歌集であるということも忘れてはなりません。明治維新の志士たちも『萬葉集』をよく学び、大東亜戦争に出征した兵士たちも『萬葉集』を戦地に持って行ったこともよく知られております。

戦争中、第二の国歌とも呼ばれ親しまれてきた「海行かば」も『萬葉集』に収められている大伴家持の歌です。

さらに明治維新の精神的原動力の一つである国学は『萬葉集』の研究から始まりました。

日本人は危機の中で『萬葉集』の精神に回帰することで自らのアイデンティティを確認してきたといえましょう。
平成最後となる今回の勉強会では『萬葉集』の精神と現代の日本について考えてみたいと思います。

【日 時】平成31年4月28日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-B
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】壬申の乱・白村江の戦い・大化の改新と『萬葉集』

【講 師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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わが國創世神話が伝はる南九州

 南九州の地は、天孫降臨から神武天皇御東征御出発までの神話が伝へられてゐる。南九州は海に面している地なので、海の神への深い信仰が伝へられてゐる。それが『海幸彦・山幸彦の神話』であり、『龍宮伝説』『浦島太郎伝説』である。

 南九州の日向(後に大隅・薩摩に国が分立したといふ)には、天照大神の御命令によって天孫・番(ホ・穂のこと)の邇邇藝命(ニニギノミコト・にきにぎしく穂が実ること)が降臨された地である高千穂峰(高く稲穂を積み上げた山のこと)がある。

 高千穂の峰は現在の鹿児島県の霧島山の一峰と、宮崎県西臼杵郡の二ヵ所がその伝承地である。

 『古事記』にはさらに、南九州とりわけ鹿児島がわが國本土最南端にあり、海に面した黒潮洗ふ地であり、明るい太陽に照らされた地であることを次のやうに表現してゐる。

天照大神が「此地(このち)は韓國に向ひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に眞来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉(よ)き地(ところ)」(この地は海外に向かって、笠紗の岬に(良き國を)尋ね求めて通って来て、朝日が真っ直ぐに照り輝く國、夕日の輝く國である。こここそは大変良い所である、といふほどの意)と詔されたと記されてゐる。

「笠紗の岬」とは現在の鹿児島県河辺郡笠沙町の岬とされる。南九州の地には邇邇藝命の御陵が鎮まりまします。埋葬地である「筑紫の日向の可愛の山陵」の御陵伝承地は南九州各地にある。私は、昭和四十年代後半に、鹿児島県薩摩川内市宮内町の新田神社境内に鎮まりまします可愛山陵(えのやまのみささぎ)に参拝させていただいた。

津田左右吉氏が、『記紀』におさめられた「神話」及び応神天皇以前の「歴史」を、六世紀の大和朝廷が自己を正当化・神聖化するための作り話・フィクションであると論じたことに対して、梅原猛氏は次のやうに論じてゐる。
「津田が文献のみで記紀を批判して、現地(注・南九州や出雲のこと)を訪れていない…彼は、出雲神話や日向神話をまったくのフィクションだとしたけれど、その神話の故郷を訪ねた形跡はない。また、津田の時代には歴史研究に考古学がほとんど採り入れられておらず、彼の歴史學も考古学的発見を参考にしたところは乏しい。彼の記紀論は、伝承をあつかう民俗学や遺跡を調べる考古学と、まったく無関係に提出されたものである。しかし、このふたつの学問の助けなくしては真実をつかむことができないというのが現代の歴史学の方向である」(『天皇家の〝ふるさと〟日向をゆく』)。

我が國創世の神話は薩摩を中心とする南九州の地から始まってゐる。故に、薩摩人は古来、敬神・尊皇の念が篤い。薩摩には、聖武天皇の御代に國分寺が立てられてゐる。奈良の都からははるか遠い南端の地でありながら、天皇を君主と仰ぐ律令國家を担ふのが早かったことを証明する。

薩摩の地は、縄文・弥生時代から文化が発達し、古墳時代には隼人と呼ばれる武力に秀で独立進取の気性が強かった人々がゐた。黒潮に洗はれ、険しい山がある南九州の地は、雄々しい大和心が伝はってゐる。

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千駄木庵日乗四月十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2019年4月14日 (日)

「天 つ 日 継 ぎ の 高 御 座」と は


 
 天皇の国家統治とは、権力行為ではない。力によって民を屈伏せしめ支配するというものではない。国家と国民の統一と調和が天皇の宗教的権威によって保たれるということである。

 天皇の宗教的権威は、天皇が、天の神の地上における御代理として祭りを行われ日本国を統治されるというところから発する。日本神話によると、高天原にいます天の神が地上の日本国を治めるように天皇に委任されたとされている。

 「紀元節」の歌に、「天津日継ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日継ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。

 「天津日継ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(霊)を継承される」ということである。日本天皇は天の神(それは天照大神であり日の神である)の霊統を継承され、神の御心のままに(神ながらに)日本国を治められるのである。

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて継承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・国文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。皇位の継承は肉体的な血統のみによるのではなく、日の神の神霊を継承するという文字通り神代以来の信仰に基づくのである。

 さらに「高御座」について折口信夫氏は「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 天皇が高御座に昇られることによって、天上の国と地上の国がそのまま一体になるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。これが支那と異なっている点である。高天原を地上に持ち来たし、日本国を高天原のように清らかにして神聖なる理想国にすることが天皇の御使命である。

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を継承され、御即位の大礼において天津日継ぎの高御座にお立ちになった。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。大嘗祭は宗教行事であるが即位礼は宗行事ではないなどという議論も全く誤りである。信仰共同体日本の君主の御即位に関わる行事は全て宗教行事としての意義を持つのである。そしてそれは政府と国民の奉仕によって伝統に則って正しく執り行われなければならないのである。  

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千駄木庵日乗四月十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆など。

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2019年4月13日 (土)

「清明心」に憧れ「くらき心」「きたなき心」を嫌ふ日本人の心




大伴家持

「劒太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (四四六七・わが一族の傳統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく傳へてきた大君の辺にこそ死なめといふ大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)といふ意。

天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者・古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」といふ長歌を詠んだ。この歌はその反歌である。

「剣太刀いよよ研ぐべし」と、きはめて断定的な歌ひ方をしてゐる。興奮した歌ひぶり。「研ぐ」といふ言葉に「剣太刀を研ぐこと」と「家名を磨くこと」を掛けてゐる。

 長歌は、「ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より…」と天孫降臨から歌ひ起こし、神武天皇橿原奠都を歌ひ、わが國の歴史を述べ、天孫降臨すなはち肇國のはじめからの歴史精神を貫いてゐる。そして、「皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隱さはぬ 赤き心を 皇方(すめらべ)に 極め盡して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と …… 清きその名ぞ 凡(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなごと)も 祖の名斷つな 大伴の 氏の名に負へる 丈夫(ますらを)の伴(とも)」と歌った。

 この家持の「族を喩す歌」には、二つの大きな思想精神が詠まれてゐる。一つは、天孫降臨以来の皇統連綿・萬世一系の御歴代天皇への絶對的忠誠であり、降臨された天孫邇邇藝命に仕へ、御歴代の天皇に仕へた大伴氏の勤皇の誇りである。二つは、祖先を尊び家柄・家名を重んじる精神である。「名を重んずる心」である。

反歌では特に家名を重んじる精神を歌ってゐる。「剣太刀いよよ研ぐべし」といふ武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」といふ赤誠心を詠んだ。

保田與重郎氏は、「彼(註・大伴家持)は喩族歌の中で、史官の描かない、時局情勢の描かぬ、眞の歴史を歌ひあげ、…その日の時局に對立して肇國の精神を貫かうとする思想であった。…天降りし天孫に仕へ奉ったといふことをいふ、皇方(スメラヘ)に仕へた勤皇の誇りだったのである。…彼は不平不満の中で、不平の詩歌を開くといふ類の東洋的詩人の域をつとに脱してゐたのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

大伴家持の『族に喩す歌』は、神代以来忠誠を一族の使命として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促し、大伴一門の傳統的忠誠・尊皇思想そして家名を重んじる精神を歌ってゐる。しかし、それだけでなく、わが國民全体が保持すべき尊皇精神と家名を重んじる廉恥の心を歌ったと言へる。

 そして、この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、真心を吐露し、赤誠を表白した血の出るやうな歌である。

家持の歌の「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。

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千駄木庵日乗四月十二日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、原稿執筆など。

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2019年4月12日 (金)

国家存立の基礎を揺るがす国民主権論

天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある。今日、何かと言うと「国民主権」ということが強調される。この「国民主権」というのは、君主と国民が政治権力を争った西洋において生まれた思想である。

日本国においては、君主と国民とは対立関係にあるのではないし国家と国民も対立関係にあるのではないことは、日本神話に示されてゐる。神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神のよって生まれたのである。

国土も自然も人も全てが神の命のあらはれであり、神霊的に一体なのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、岐美二神の「愛・むすび」によって国土が生まれた。つまり神と国土・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、神霊的に一体の関係にあるのである。ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

伊耶那岐命が「国土を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。世界の他の国よりも我が国は国家観念が強かったといへる。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことは言ふまでもない。

日本国と全く国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想たる国民主権論をわが國の憲法思想にしてはならない

天皇と国民と国土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の国柄」といふ。

しかるに今日の多くの政治家や学者やマスコミは、相変らず外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」をとり、わが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

さらに憲法論においても、重大な問題がある。西洋成文憲法は権力に対する制限規範である。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ法治主義を確立した」とされる。

しかし、日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。神聖なる権威による統治である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれてゐる。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。『現行憲法』は、わが國體とは相容れない。日本国と全く国の成り立ち・国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想をわが國の憲法思想にしてはならない。

「日本神話の精神」は西洋思想の行きづまりを原因とする世界的危機打開の力を持つ。何故、日本国は神聖なる国であるのか、それは「日本国は神が生みたまふた神の國である」といふ「神話の精神」によるのである。何故、天皇は神聖なる御存在であるのか、それは「天皇は天照大神の地上に於ける御代理であらせられる」といふ「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは「天皇は天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられる」といふ「神話の精神」によるのである。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変はることはないのである。

「神話の精神」と言ふと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がゐる。しかし、神話において語られてゐるのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実である。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られてゐる。そして「日本神話の精神」は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持ってゐる。
 
天皇を君主と仰ぐ日本の国柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきてゐる。ところが外国では、太古の王家も古代国家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた国家は権力国家であり、その後に現れた信仰は排他的な教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同体が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同体を奪はれ祭りを喪失したよるべなき人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力国家・武力支配国家を形成した。

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を中心とする共同体国家が、外国からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている唯一の国なのである。皇室祭祀だけでなく、全国各地で一般国民が参加する祭祀が続けられてゐる。まことにありがたき事実である。

 我が国は、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の国家の君主と仰ぎ、国家と民族の統一の中心として仰いでゐる。かうした事実は西洋諸国やシナと日本国との決定的違ひである。

 長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも国が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本国は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な国でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た国なのである。その不動の核が天皇である。天皇国日本を愛する心を養ふことこそが日本国永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。

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千駄木庵日乗四月十一日

午前は、諸事。

午後は、室内整理。

午後六時より。上野にて、永年の同志二氏と懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2019年4月10日 (水)

大伴家持が「むすび信仰」を詠んだ歌

大伴家持が「むすび信仰」を詠んだ歌

たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶこころは 長くとぞ思ふ(一〇四三)

右の一首は、大伴宿禰家持の歌なり。

大伴家持の歌。「たまきはる」は「命」にかかる枕詞。色々な説があるが、魂が発展し、張り出し、外に出て行くといふ意。冬の季節には籠ってゐた虫も動物も草木も、春になると動物は動き出し、植物の葉は張り出すので、「春」の語源は「張る」であると言ふ。四季の変化はあっても、いのちは永久に生き生きとしてゐるといふことであらう。

「命」は寿命のこと。「松が枝を結ぶこころ」は、吉凶を占ひ、また無事・幸福を祈るために松の枝を結ぶ風習。松の枝を結ぶことによって、自分の命の長久を祈った。

通釈は、「寿命のことはよくわからないけれども、松の枝を結ぶ心は、寿命よ長くあれと思ふ心からだ」といふ意。

家持二十五歳の時の歌と言ふ。今よりもずっと平均年齢が低かったので、かかる歌を詠んでも不思議ではなかったのであらう。

この歌は「むすび」の信仰を詠んでゐる。「苔が生(む)す」といふのは、苔の命がどんどん発展成長することである。命が出現することを「むす」と言ふ。

天之御中主神と一体の関係にある、高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。

ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

「むすび」は、生命の根源である。ゆへに「結び」を産靈とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子」「生す女」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生まれた生命が「むすこ」「むすめ」である。

また、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

「庵をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵はいろいろな木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的実在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

折口信夫氏は「むすびめしは、古代の人は靈的なものと考え、米そのものを神靈と考えている。神靈である米をにぎって、更に靈魂を入れておくと考えた。…それが人の身体へ入るともっと育つ。…水をむすぶのは、禊、復活の水を与えるとき、靈的水をあの形で人の中に入れたのだろう。靈魂のある水を掌のなかへ入れて、発達させておいて人の中に入れる。そして『むすび』の作用をさせる。」(『神道の靈魂思想』)と論じてをられる。

『國歌君が代』の「苔のむすまで」のムス、大伴家持の歌の「草むすかばね」のムスも、「生産する・生える・生ずる」といふ語と同根である。

西角川正慶氏は、「むすびなる語源は結びに外ならず、靈魂を肉体に来触せしめて、生命力を新たにすること、即ち神の持たるる靈威を宿らしめていることで…鎮魂にほかならぬ。…神話に於ても、天子の重大儀また危機に際しては、天神の御教へと共に、常にこの神の発動がある。」(『神道とはなんぞ』)と論じてをられる。
 
草や木の枝や根を「むすぶ」といふ行為は、生命の無事を祈る意義があった。旅人は松の枝などを結んで無事を祈ったのである。
「むすび」といふことが可能なのは“本来一つ”であるからである。この“むすびの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言ひ換へても良いと思ふ)といふものが天地宇宙生成の根源神=造化の三神の中に内包されてゐる。

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千駄木庵日乗四月十日

午前は、諸事、室内整理。

午後は、今夜行う「萬葉古代史研究会」における講義の準備。

午後六時半より、南大塚地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、新元号「令和」の典拠となった「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」を講義。質疑応答。

帰途、出席者と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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高山彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」の歌

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの 大宮處(おほみやどころ)

 

高山彦九郎

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

 

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと伝はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享四年五月八日(一七四七年六月一五日) – 寛政五年六月二八日(一七九三年八月四日)は、江戸時代後期の尊皇思想家である。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に生れた。高山良左衛門正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。父の高山彦八正教家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたといふ。

 

彦九郎は、同時代に生きた林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

二年間京都に滞留、この間多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、各地を遊歴して「勤皇論」を説いた。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

 

そして、水戸、仙台、松前を回り、寛政三年(一七九一)、北陸路から再び京都に入った。岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留した。この時「奇瑞の亀」を献上したことにより、光格天皇から謁を賜った。

 

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

 

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ歌が次の歌である。

 

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

 

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

 

この歌は、「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)」の歌と共に、草莽の臣が上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱であり『愛国百人一首』にも採られてゐる。

 

彦九郎はこの後、九州各地を遊歴し、久留米に至り、寛政五年(一七九三)六月二十七日、時世を嘆じ自刃して果てた。時に四十七歳であった。

 

 

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千駄木庵日乗四月二日

午前は、諸事。

 

午後は、原稿執筆の準備。

 

午後四時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、笹川平和財団主催 『中東・イスラム事業グループプログラム 中東におけるイラン:外交政策と展望』開催。田中伸男笹川平和財団会長が挨拶。 講演①「中東におけるイラン:外交政策と展望」セイエッド・カーゼム・サジャドプール氏(イラン・イスラム共和国外務次官 研究・教育担当、イラン国際問題研究所(IPIS)所長)。講演②「イランの外交政策から見た中東」サイーデ・ロトフィアン氏(テヘラン大学法政治学部教授)。③ パネルディスカッション 松永泰行・東京外国語大学教授、堀拔功二・日本エネルギー経済研究所主任研究員 。そして質疑応答

 

帰宅後は、明日行う『萬葉集』講義の準備など。

 

 

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2019年4月 9日 (火)

『宮嶋 茂樹 写真展:THE CADETS 防衛大学校の日々』を参観して

本日参観した『宮嶋 茂樹 写真展:THE CADETS 防衛大学校の日々』は、「報道写真家、宮嶋 茂樹氏が1年半以上にわたって取材し続けた、防衛大学校。海と山に囲まれた自然豊かな環境下の広大な敷地で、約2000人が集団生活を送りながら4年間学んでいます。高い倍率を突破して入学した学生たちは、毎日厳しい訓練と授業を受けて幹部自衛官を目指す。今まで知られることのなかった防大生らの学生生活の一部を垣間見ることができる写真展です」との趣旨で開催された。(案内書)

 

若き防大生の訓練の様子などを記録した写真展である。街で見かける今の若者たちとは全く異なる清々しい表情にまず驚いた。訓練の厳しさも大変なものだと認識した。これからの自衛隊の指揮官として活躍するであろう若者たちの姿に感銘した。

 

訓練の厳しさと装備そして何より訓練に耐え抜く防大生を写真で見て思ったのは、自衛隊という呼称ではあるが、やはり立派なそして正真正銘の国軍であると思う。

 

日本というのは変った国で、防衛大学、習志野空挺部隊、北富士演習場、横須賀などの我々が報道などで垣間見ることができる自衛隊の訓練を見て、「あれは軍隊の訓練ではない」と言わねばならない。何故なら「現行憲法」に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。戦力を保持しない」と書かれているからである。

 

以前はもっとひどく、陸上自衛隊が装備する「戦車」は「戦車」ではなく「特車」と言わねばならなかった。戦力が無くてどうやって國を侵略者から守ることができるのであろうか。

 

さらに不思議なのは、反米を叫ぶ連中が、アメリカから押し付けられた「亡国憲法」擁護を叫んでいることである。「アメリカは日本から出て行け」と叫びつつ、アメリカ製憲法を押し戴いていることに何の矛盾を感じない人々の心理を私は到底理解する事ができない。

 

わが国おいて「正義の味方ヅラ」をして「人権」だの「平和」だの「日本は侵略戦争をした」だのと騒いでいる連中が平和を守っているのではない。厳しい訓練を耐えている自衛隊が日本の独立と平和を守っているである。ともかく今の日本は嘘と矛盾に満ち溢れている。

 

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千駄木庵日乗四月八日

午前は、諸事。

 

午後は、キヤノンギャラリ―銀座で開催中の『宮嶋 茂樹 写真展:THE CADETS 防衛大学校の日々』参観。

 

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

 

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2019年4月 8日 (月)

天 皇 の 国 家 統 治 =「 き こ し め す 」 と 「 し ろ し め す 」の 意 義

 

 天皇の国家統治の「統治」という言葉は言うまでもなく漢語即ち支那の言葉である。これを<やまとことば>で言えば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまい民もまた天皇の御心を知る」ということが「統治」なのである。祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の国家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本国が成立する。

 萬葉集歌人・大伴家持はその長歌で、「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には…」(四0九四)と歌っている。現代語に訳せば、「この豊葦原の瑞穂の國を、高天原より天降られまして御統治あそばされました皇祖邇邇藝命から御代を重ねられ、天津日嗣として天の下を御統治になった御歴代の天皇の御代御代、治められたこの四方の國は…」というほどの意である。

 さらに『萬葉集』には、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」(はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)とか「高市岡本宮御宇天皇代」(たけちのをかもののみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)と記されている。

 天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるという雄大なる神話的発想に基づくのである。漢字表現は支那のものであっても、信仰自体は日本固有のものであって、神話時代より継承されてきたのである。人為的に権力・武力によって民と国土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって国民と国土を治めるというのが天皇の国家統治である。

 <やまとことば>ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言う。天皇が民の心を聞かれるという意味である。

 日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと      かむぬなかはみみ)と申し上げる。

さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命と申し上げる。日本国の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたと思われる。

 『古事記』には仁徳天皇の世を聖帝の世というと記されている。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、聖帝と讃えられた。

 日本思想体系『古事記』の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の仼)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じている。また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」という。

 一般人が聞きえないことを聞く人というのは、聴覚器官が普通の人より発達している人ということではなく、神霊の声を聞く人ということであり、祭り主ということである。神の声を聞いて民に伝え、民の声を聞いて神に申し上げるという神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では聖と書く)とは、「日を知る人」の意であるという。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁している人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきわめて重要である。これを知っている人は農耕国家の君主たる資格を持つのである。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」という意味でもある。

 『萬葉集』に収められた「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麿朝臣の作れる歌」という長歌の冒頭に、「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを…」とある。これは「(『玉だすき』は畝傍にかかる枕詞仼)畝傍の山の橿原に都を開かれた日知りにまします(神武天皇の仼)御代以来、(『つがの木』はつぎにかかる枕詞仼)この世に降臨された現御神はことこどくみな天下を御統治になられたが…」というほどの意である。ここにも「日知り」という言葉が登場する。本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

 仁徳天皇と同じように聖帝とお讃え申し上げる先帝昭和天皇陛下は、
 
 さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞ我がねがひなる

 とお詠みになっておられる。これは文字通り、<日の御子><現御神>としての神人合一の無上の御境涯を高らかにお詠みになった尊い御製であると共に、「昭和天皇は、昭和二十一年元旦の詔書において『人間宣言』をされ、天皇は神から天皇になった」などという議論が全く誤りであることを証明する御製である。 

 ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考えと支那の「聖」という字の意義とが結合して「聖帝」という考えが生まれたのである。

 このように民の心を知りたまい(しろしめす)聞きたまう(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。 

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千駄木庵日乗四月七日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、室内整理整頓、原稿執筆、資料整理など。

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2019年4月 7日 (日)

萬葉古代史研究會 のお知らせ


萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 四月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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『特別展 御即位三〇年記念 両陛下と文化交流』展参観記

本日参観した『特別展 御即位三〇年記念 両陛下と文化交流』展は、「本展は、宮内庁が所管する皇室ゆかりの作品の中から、天皇陛下御即位の儀式に際して東山魁夷、高山辰雄が平成2年(1990)に制作した「悠紀・主基地方風俗歌屛風」や、天皇皇后両陛下が外国御訪問の際にお持ちになって紹介された作品などを展示するものです。両陛下がお伝えになった日本文化を通して、海外の様々な人々が、わが国への理解と交流を深めてきました。御即位30年という記念すべき年に、両陛下が担われた文化交流についてご紹介します。」との趣旨で開催された。(案内書)

 

東山魁夷筆(悠紀地方風俗歌屛風)、高山辰雄筆(主基地方風俗歌屛風) 平成2年(1990)」 「小栗判官絵巻(おぐりはんがんえまき) 巻第十、第十五 岩佐又兵衛筆 江戸時代・17 世紀」 「花鳥十二ヶ月図(かちょうじゅうにかげつず) 酒井抱一筆 江戸時代・文政6年(1823)」 「養蚕天女(ようさんてんにょ) 高村光雲作 大正13年(1924)」 「赤縮緬地吉祥文様刺繍振袖(あかちりめんじきっしょうもんようししゅうふりそで) 天皇陛下御年二歳祝賀のお品 昭和10年(1935)」  「両陛下御記念のボンボニエール 両陛下古希記念」などを拝観。

 

皇室関連の美術展を参観する度に思うのであるが、日本の文化・美術は皇室を中心に継承されてきたということである。まことに有難き限りである。わが国の國體の素晴らしさは實にここにある。天皇・皇室は決して権力者ではない。「元号」を天皇陛下が勅定あそばされるという伝統について、「天皇は空間国土のみならず時間をも支配するからである」という説がある。

 

しかし、天皇は国土国民を支配されるのではない統治されるのである。そして統治をやまと言葉で「シロシメス」「キコシメス」と言うのでもわかる通り、上御一人が天の神の御心を知り給い国民の広く知らせる、ということであり、上御一人が国民の心を知り給い天の神に申上げるといふ意である。つまり祭祀である。

 

天皇は日本国の支配者ではあらせられず祭祀主であらせられる。祭祀は日本文化・美術の根源にある。歴代の天皇陛下は常に美の継承を大切にされてきた。祭祀とやまと歌は日本天皇の国家ご統治の基礎にあるのである。そしてそこから日本の文化・美術が生まれ発展してきた。大和絵はやまと歌と密接に関係する。

 

こうしたことを今回の展覧会特に『悠紀地方風俗歌屛風』、『主基地方風俗歌屛風』を拝観してあらためて認識させていただいた。

 

本展覧会図録の解説書『皇室ゆかりの品々を伝えゆく』という文章において、太田彩さん(宮内庁三の丸尚蔵館)は「王政復古後の明治四年(一八七一)にお壊れた明治の即位礼が、奈良時代以降、連綿と継承されてきた礼服と呼ばれる装束に代表される中国式の装束や設(しつら)えではく、日本の古式に則った形に改められたことは、大嘗祭に用いられる悠紀主基屏風のありかたに大きな影響を与えている。中國的な『本文』と屏風は廃止され、わが国の室内調度として伝統的な和歌屏風である『和絵』屏風のみとし、その数も悠紀と主基の各国で、六曲一双の形に改められた」と書いておられる。

 

伝統への回帰・継承が外来文化文明の包容摂取の基本であったのである。そしてその中心は皇室であった。

 

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今日再び決意したこと。

医師から次のようなことを告げられました。退院直後も書きましたが、昨日病院に行き、医師から同じことを言われました。

 

一、 禁酒
二、 塩分控え目
三、 男女の営み控え目

 

つまり美味い物を食すこと、酒を呑むこと、異性との交わり、を抑えるという三つのことを厳しく実行すれば生きていけるというご託宣あります。人間としての快楽を無くして生きる。これは大変つらいことだとは思いますが、実行せねばなりますまい。酢の物ばかりというのも文字通り味気ないものです。もっとも三番目は最近トンとご無沙汰でしたが…。今日のところは、今後は学問一筋・勉強一筋で生きて行くと決意しております。ガハハハ。

 

遠隔地への旅行も行けません。したがって、都内のしかも近間の名所旧跡を経巡ることにしております。

 

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千駄木庵日乗四月六日

午前は諸事。

 

午後は、原稿執筆の準備。

 

この後、東京国立博物館で開催中の『特別展 御即位三〇年記念 両陛下と文化交流』展参観。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2019年4月 6日 (土)

柿本人麻呂の現御神信仰の歌

萬葉の大歌人・柿本人麻呂は、「輕(かるの)皇子(みこ)の安騎(あきの)野(の)に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」といふ長歌の冒頭で、 

 

「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと…」と歌ってゐる。「やすらけくたいらけく四方八方を御統治あそばされるわが大君、高く照らすわが日の神の皇子は、神様であるままに、神様らしく振る舞はれるべく」といふ意である。

 

これは、現御神日本天皇の御本質を表現してゐる。日本天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大御神の御子、地上におけるご代理としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹の行事が天地の神々を祭られる<天皇の祭祀>である。

 

稲作生活を営む日本民族にとって太陽はなくてはならぬ存在であるので、わが國では、日の神信仰(太陽信仰)は特に強固である。故に、日本の最尊最貴の神は日の神たる天照大御神なのである。その日の神の御子が「祭り主・日本天皇」であらせられる。
 
天皇は國民を統率し國民を代表して、神に祈り神を祭り、神の御命令を民に伝へる役目を果たされる。ゆへに、民から拝すれば地上における神の御代理即ち現御神であらせられる。

天皇が日の神の御子として國家を統治されるといふ御自覚は、「記紀」「萬葉」の昔だけでなく、御歴代の天皇に一貫してゐる。

 

 聖徳太子は隋の煬帝に出した國書(國の元首が、その國の名をもって出す外交文書)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と記し、「日本天皇は日の神の御子である」といふ信仰を高らかにうたひあげた。当時の先進國・隋に対して、このやうな堂々とした國書を提出したのである。

 

 聖徳太子の偉大なる御事績を拝して明らかな如く、「天皇は日の神の御子であるといふ思想は七世紀中頃、即ち大化改新以後につくりあげられた」といふ説は、大きな誤りである。
 
第一一六代・桃園天皇(江戸中期)は、

 

「もろおみの 朕(われ)をあふぐも 天てらす 皇(すめら)御神(みかみ)の 光とぞ思ふ」

 

といふ御製を詠ませられてゐる。

 

 天皇が御即位の大礼において、高御座に上られ、天下万民の前にお姿を現されるお姿は、「冕冠・大袖」である。「冕冠」は、『古事談』によると、応神天皇以来のものとされ、中央に金烏を描いた放射状の日像(ひがた)を立てる。これはまさしく日の御子のお姿である。つまり即位式において、天皇が高御座に登られるのは、新しい太陽神の地上における御誕生なのである。また、大嘗祭における鎮魂のみ祭りも、「日の神」として天皇のご神格の再生の祭りと承る。

 

 

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2019年4月 5日 (金)

千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆、室内整理など。

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2019年4月 4日 (木)

谷中・日暮里の桜

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山田吉彦東海大学海洋学部教授による「日本の海が危ない―脆弱な島嶼防衛」と題する講演内容

昨年十月二十日に行われた、『アジア問題懇話会』における山田吉彦東海大学海洋学部教授による「日本の海が危ない―脆弱な島嶼防衛」と題する講演内容は次の通り。

 

「日本という国は、北は択捉から沖ノ鳥島まで三千キロを超える。周囲一〇〇メートル以上の島嶼のみで六八五二の島がある。これ以外を加えると十万を超える島がある。離島の人口は七〇万人。淡路島も離島に分類され十万人住んでいる。人が住んでいる島は四一六。一人しか住んでいない島もあるのでこれは毎年変る。この島のお蔭で日本は非常に恵まれている。

 

国連の『海洋法条約』は大きな影響力がある。沿岸から十二カイリを領海とする。沿岸国が行政権・警察権を持つ。ただし無害交通権がある。瀬戸内海・東京湾は内水。無害交通権は適用されない。排他的経済水域は他を排し独占的に経済的権利が認められる。海底資源の権利、漁業管轄権などがある。海洋調査と安全を守るという義務を果たす。

 

台湾と日本が提携すべし。逆さ地図を見ると、中国は完全に蓋をかけられてしまう。アメリカに物を運ぶ時、日本の近海を通らなければ中国は貿易出来ない。中国はこれ以上攻撃的になれない。紛争国となれば中国は日本海域を通る事ができない。中国は沖縄切り崩しをしている。

 

尖閣・沖縄で嘘を百回言えば本当になる。琉球独立を図る。琉球独立学会というのがあり、毎年一回シンポジウムが北京で開かれている。沖縄の土地を中国企業に売るのが目的。沖縄の工業地帯造成地をかなり中国に売っている。沖縄取り崩しに向っている。中国は最初に与那国のレーダーを壊しに来る。台湾も中国から相当圧力をかけられている。

 

自衛隊は沖ノ鳥島に行くことができない。沖ノ鳥島は門司から六十時間かかる。日本の土地の持つ力は中国への圧力になっている。台湾と日本が手を結べば完全に中国を押しこめることができる。

 

ロシアは日本との協調関係が成立しないと極東開発ができない。ロシアは『日露平和条約』を結んでしまいたい。対馬には毎日三千人の韓国人観光客が来る。対馬で高麗蒙古連合軍が何をやったか。沿岸警備が重要。海上保安庁は一万三千人。数が少ない。船も少ない。中国の海警局の方が多い。海保は軍であってはならないということで後方支援も出来ない。

 

西之島(にしのしま。小笠原諸島にある島(無人島)。海底火山の活動により生じた火山島)は順調に大きくなった。尖閣で海洋調査をすべきだ。北方領土は返還される目途は立っていない。ロシアは日本海で仮想敵国・アメリカに対して軍事展開したい。色丹島には千人を超えるロシア兵がいる。だから二島返還もない。北方領土にどんどん観光客を送って相当巧妙に日本化しないとおいしい所だけ取られてしまう。観光客は七月から九月までしか行く事ができない。十月になったら冬。

 

日本の島々をしっかり管理することが重要。台湾と連携して島嶼防衛線を作る。他国と協力できる態勢を作るべし。習近平は八回から九回暗殺未遂に遭っている。中国の台湾侵攻はあり得る。習近平は祖国統一の英雄になりたい。尖閣に自衛隊を常駐させないと危険」。

 

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千駄木庵日乗四月四日

午前は、病院に赴き、検査、診察を受ける。「入院治療の必要無しとしないが、当面在宅して薬で病気の進行を止める。くれぐれも塩分の摂取量に注意すべし」とのこと。最近油断していて、塩分摂取が多かったようである。

 

帰途、不忍池を散策し満開の桜を見る。

 

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理など。

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この頃詠みし歌

日の大神の輝く國の大君は神の如くに大いなる光

 

父母はもうこの世には居まさねば我は一人で生きるほかなし

 

胸の痛み今日はあまり感じざれば何か長生きするやうな気がする

 

どんどんと外国人が入り来る國となりたるを肯ふべきか

 

共生といふ言葉を余りにも安易に使ふことはよろしきや

 

猛獣とは共生できぬ故にこそ彼らを檻に閉じ込めるにあらずや

 

北海道より来たりし人と隣同士でチャンチャン焼きのことなど話しぬ

 

元号は上御一人が勅定する伝統を守らぬ政府許し難し

 

敗戦後押し付けられし憲法は七十二年経ちて日本を破壊せんとす

 

「時により過ぐれば民の嘆きなり」と歌ひし人は凶刃に斃る

 

多くの人々眠れる霊園に春の風吹き来て嬉し今日の法要

 

寒き風吹き来る墓苑でうからたち先祖の御霊を拝ろがみまつる

 

墓石に水かけて喜ぶ幼児を曾祖父曾祖母も喜びてをらん

 

幼き命尊き命わが甥の子にしありなばなほに愛しき

 

我にしもまとはりつく幼児をいとしと思ふ老いにける我

 

寝る前に歌を一首二首詠むことが習ひとなりて今日も筆とる

 

曇り日の下なる満開の桜花 上野の山の春の華やぎ

 

心臓を労はりにつつ歩み行く上野の山の櫻木の下

 

還暦を過ぎし友と古稀過ぎし我とが語らふ葬儀のことを

 

墓場をもマンションと言ふと初めて聞きぬ納骨堂の事

 

やはり我は壺に納まりて土の中に入り行きたしと強く思へり

 

春の太陽昇り来たりし時にしも手を広げつつ息を吸ひ込む

 

帰り行く家のあることがうれしくて春雨の下傘さしてゆく

 

今もなほ摩文仁の丘の潮騒が聞こえ来るなり幾歳経ても

 

安易なる言葉使ふなとわが内より聞こえ来るなり歌詠む時に

 

大臣が大君に謁を賜るを面会などと言ふ國になりにけるかな

 

毎年の春に来たりて心愛(を)しむ谷中霊園の満開の桜

 

満開の桜の大樹を仰ぎてはわれの命もさきはへにけり

 

諏訪台に桜の花の咲き満ちる時に拝ろがむ空海の像

 

神やしろ古きがままに神々しく桜の花に囲まれてをり

 

天地の神に抱かれ今日もまたこの天地に生きて行くかも

 

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千駄木庵日乗四月三日

午前は、諸事。

 

午後は、六義園散策。しだれ桜はほとんど散っていた。

 

夕刻、日暮里にて、幼馴染と懇談。六十年以上の付き合いなり。

 

帰宅後は、『伝統と革新』最終校正。原稿執筆。

 

 

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2019年4月 3日 (水)

山上憶良の尊皇精神の歌

新元号「令和」の典拠になった『萬葉集』の巻五に収められた「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の中に作品がある山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神を歌った歌は次の歌である。

 

惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首幷びに序

 

或る人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履(だつし)よりも輕(いるかせ)にし。自ら倍俗先生(せにしゃう)と稱(なの)る。意氣は青雲の上に揚るといへども、身體はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖とあるに驗あらず。けだしくは、山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)三綱を指示し、更(また)五教を開き、遣(おく)るに歌をもちてし、その惑を反さしむ。歌に曰く、

 

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことはり) もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天(あま)雲(ぐも)の 向(むか)伏(ふ)す極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞こしをす 國のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに 然(しか)にはあらじか       (八〇〇)

 

反歌

 

ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に歸りて 業(なり)を爲(し)まさに (八〇一)

 

詞書の通釋は、「ある人がゐて、父母を尊敬することは知ってゐるが、孝養をつくすことを忘れ、妻子のことは顧みないで、脱ぎ捨てた履物のやうにこれを軽んじ、自らを倍俗先生(世俗に背を向けた隠遁者)と名乗る。意氣は空の青雲の上にも上らんばかりだが、身体はなほ世の塵の中にある。まだ修業をして道を極めた聖人になったしるしもない。言ふなれば山の中の澤に亡命した民であらうか。そこで、三綱(人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序)を示し、五教(人の守るべき五つの教へ。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝)をさらに説くべく、この歌を贈ってその迷ひを直させることにする。その歌に曰く」。

 

長歌の通釋は、「父母を見れば尊いし、妻子を見ればいとしく可愛い、世の中はこれが当たり前のことではないか。もち鳥(鳥もちにかかった鳥)のやうに離れがたいものだ。行く末も分からないのだから、穴のあいた履物を脱ぎ捨てるやうに(家族を)捨てて行くといふ人は、石や木やうに非情の物から成り出て来た人なのか、お前の名を言ひなさい。天へ行ったならばお前の勝手にすればいいが、この地上には、大君がをられるのだ。この照らしてゐる日月の下は、天雲の横たはってゐる果てまでも、蟾蜍(ひきがえる)が這ひまはる果てまでも、大君が統治されるすぐれた國だ。あれこれと自分の欲望のままにそのやうにしてはいけないのではないか」。

 

反歌の通釋は、「天(日本の神々のゐます高天原のことではなく、支那の神仙思想が説くところのこの世が厭になった人間が逃避する場所のこと)への道のりは遠い。素直に家に帰って、家業にいそしみなさい」。

 

憶良の生きた時は、支那の老荘思想や仏教の無常感の影響で、家庭を顧みないで、俗世間を脱して暮らさうといふ人が増えて来たらしい。そこで、日本の傳統的倫理思想を説いて、その迷ひを払拭せしめやうとした作品である。天皇國日本に生きてゐる國民は、家族を捨てて現實から逃避するやうなことをしてはならないと歌ってゐる。

 

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笹川平和財団主催『米国新安全保障センター(CNAS)理事長・リチャード・フォンテーン氏講演会』におけるリチャード・フォンテーン氏による「変化するアジアにおける日米関係」と題する講演内容

昨年十月一日に開催された笹川平和財団主催『米国新安全保障センター(CNAS)理事長・リチャード・フォンテーン氏講演会』におけるリチャード・フォンテーン氏による「変化するアジアにおける日米関係」と題する講演内容は次の通り。

 

「日米関係が強いことがアジアの平和のために重要。日米の連携は以前にも増して重要。インド太平洋、アジア太平洋は変化しているしこれからも変化する。トランプ政権は『自由で開かれたインド太平洋地域を』と言っている。言葉の背後には概念の変化もある。二つの海の交わる所で複数の地域に影響がある。『日米印の二十年の強化』という言葉の背後には政策立案者の考えがある。中国の野心的な影響力が背後にある。一帯一路の投資は巨額の金が動く。このままの事態が続くと思ってはならない。中国は労働者の数が減った。地域の國が返済できなくなっている恐れがある。中国の国産空母が出来、海軍力が強化されている。中国の軍事力が強化されている。米国の優位は小さくなりつつある。日米連携の動きは中国の動きが背景にある。北朝鮮の動きもある。日米関係に劇的な変化があった。非核化の枠組みをどのように確保するのか。北朝鮮が核兵器を放棄する。抑圧体制を変えることに疑問を持っている。現状ではその反対。北朝鮮の核放棄の兆候は全く見えない。あっという間に緊張関係に戻る可能性あり。中国を除くインド太平洋の国々が日本とオーストラリアと絆を強めつつある。アジアの安全保障のネットワーク構築は中国への懸念がある。アメリカとの同盟関係に加えて協力関係を作るのは評価すべし。ネットワークの多角化を図るべし。インド太平洋におけるアメリカの役割をトランプ政権は重視している。地域秩序を守ろうとしている。トランプ政権は中国の一帯一路に警戒的。中国の他国への干渉に対してもアメリカは批判的。防衛面でこの数年日本にとって大事な時期になる。憲法九条改正、輸出用の武器製造、敵地攻撃能力が議論として出てくる。アメリカの保護に日本は何時まで頼り続けるのか議論した。アメリカ国民には三つの分野がある。①平和の維持のためにヨーロッパとアジアは提携関係を持つ。②豊かさを維持するために自由貿易を守る。③アメリカの政治的価値を世界に広げる。この三つの原則は民主・共和両政権に共通する。アメリカは自由な国際秩序とルールを作ってきたと思っている。トランプは今の国際秩序于アメリカのためになっていないと思っている。トランプだけでなくアメリカ国民もそう思っている。この傾向がインド太平洋における関与を決めている。日米両国は共に強く共に近い関係が良い。一緒にいた方が良い。アジェンダ(計画・予定)を共有し日米両国が共通の目的を持っていた方が良い。根本的現状理解に立ち戻り米軍幹部は日米協力を大切と思っている。トランプも安倍との会見が他国の人より多い」。

 

続いてパネルディスカッションが行われ、次の発言があった。
佐橋亮氏(神奈川大学 教授、アジア研究センター所長)「インド太平洋という戦略概念が広まっている。中国に対応するアメリカに政府と大統領とのせめぎ合いがある。トランプに共鳴する人も増えている。トランプ政権はグローバルに対する敵意を持つ外交政策を持つ。トランプとそれを支える経済ナショナリストが強い。秩序を気にしないトランプ。アメリカ以外の國がどんなに連携してもバランスオブパワーを崩すことはない」。

 

リチャード・フォンテーン氏「インド太平洋戦略がアメリカンファーストに吸収されてしまうのは一部正しい。ただし実戰上何処まで変って来るのか分からない。日米豪印が力を合わせて中国に対抗する。アメリカがインド太平洋から離れて行くとは私は見ていない。アメリカの同盟国で日本は圧倒的に軍事的能力が高い。冷戦下の米ソ関係には無かった依存的経済貿易関係が今日の日中米にはある。今日の日米中には対立競争関係だけでなく相互依存的関係がある。金正恩とトランプの関係には破綻があり得る。北朝鮮は敵対政策をもう一回やりたいと思っている。アメリカ国民は選挙干渉があったのでロシアに関心を持っている。中国に対する防衛能力、抑止力は極めて大切」。

 

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千駄木庵日乗四月二日

午前は、諸事。

 

午後は専門家来宅。ケーブルテレビなどのメンテナンス。

 

この後は、在宅して、原稿執筆の準備、原稿執筆など。

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2019年4月 2日 (火)

天皇陛下の御名御璽を頂いた法律などを批判した人は「日本人ではない」のか?

「天皇陛下に御名御璽を頂いた『法律』『政令』を批判してはならない」と言う人がいます。中には「批判するとは日本人ではない」と極論する人がいます。

 

そうしますと、国会で可決され、天皇陛下の御名御璽を頂いた法律などを批判した人は「日本人ではない」ということになります。「日本国憲法」を否定し、無効や破棄を主張する人は「日本人ではない」ということになります。

 

さらに言えば、西南戦争で政府軍と戦った西郷隆盛以下薩摩の人々も「日本人ではない」、五・一五事件や二・二六事件で、天皇陛下が任命された総理大臣や政府高官を殺した青年将校も「日本人ではない」ということになります。

 

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2019年4月 1日 (月)

千駄木庵日乗四月一日

午前は、諸事。

 

午後は、日暮里谷中散策。満開の桜を愛でる。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

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『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

大伴旅人と山上憶良が梅の花を詠んだ歌

 

『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

 

天平二年(ふたとせといふとし)正月(むつき)の十三日(とをかまりみかのひ)、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)(太宰府長官・大伴旅人の邸宅)に萃(あつ)まるは、宴會を申(の)ぶるなり。時に初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい・古代の装身具で匂ひ袋のやうなものといふ)の後の香を薫らす。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りては、松、羅(うすもの)を掛けて盖(きぬかさ)を傾け、夕岫(ゆうべのくき)(山の頂き)に霧結びては、鳥、穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ鴈(かり)歸る。ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にして、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏(うら)に忘れ、(一室の中で言葉を忘れるほど楽しく興じること)衿を煙霞の外に開き、(着物の襟をそのに向かって開く。心をくつろがせることの形容)淡然として自ら放(ほしきまま)に、快然として自ら足りぬ。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦(よ)みて聊か短詠(みじかうた)を成(な)すベし。」
(梅花の歌三十二首と序。天平二年正月十三日、太宰府長官大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開く。時に、正月のめでたい月にして、気は良く、風は和み、梅は鏡の前の白粉のやうに白く咲き、蘭は匂ひ袋のやうに香ってゐる。そればかりではなく、夜明けの山に雲がかかってきて、松はその雲をベールのやうに纏ひ絹で張った傘をさしかけたやうに見え、夕方の山の頂には霧がかかり、鳥はその霧に封じ込められて、林の中を迷ってゐる。庭には今年生まれた新しき蝶が舞ひ、空には去年渡来した雁が巣に帰って行く。そこで、天を屋根にし、地を座席にして、互ひに膝を近付け酒の盃を回す。一室の内では言ふ言葉を忘れるほど楽しく和やかに語り合ひ、外の大気に向かっては心をくつろがせ、心がさっぱりとして皆が自ら気楽に振る舞ひ、心楽しく満足する。もしも文筆に拠らないではどうやってこの楽しい情感を述べつくすことが出来やうか。漢詩に落梅の詩篇が記されてゐる。それは昔も今も変らない。どうか庭園の梅を題にしてともかくも短歌を作らうではないか、といふほどの意)。

 

天平二年(七三〇)正月十三日に、大伴旅人の屋敷に、旅人の部下の官人たち三十数人が集まって宴会を開いた。その経緯を序文に記してゐる。いかに旅人が漢文の知識があったかが分かる。旅人を中心とした風雅な和歌の世界である。これを筑紫歌壇といふ。

 

太宰府の管轄下には、九国(西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の九国の総称)二島(壱岐・対馬)あった。

 

三十二首のうち二首の歌について書いてみたい。

 

 

春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫 (八一八)

 

筑前守山上大夫は、山上憶良(奈良前期の官人・歌人。大宝
二年(七〇二)渡唐し、帰国後、伯耆守(ほうきのかみ)・東
宮侍講・筑前守を歴任)。
「春されば」は、春になると。「宿」は、住まひとしての家
屋。特に草木が植えられた庭園のある家を指す事が多い。
「見つつや」は、見ながら。自分の現在の動作を詠嘆的に述
べてゐる。
通釋は、「春になると、真っ先に咲く家の梅の花を一人見な
がら春の日を暮らすのでせうか」。
かういふ歌を獨詠といふ。自分で自分に歌って聞かせてゐる
歌。一人で見ることを強調してゐる。美の中に陶酔するので
はなく、少しひねった感覚である。憶良は憶良らしく自分
の世界に浸って、多くの人々が集まってゐる宴会でかういふ
歌を詠んだ。
この当時、梅は外来の花であって、珍木として尊重されたと
いふ。旅人と憶良は支那文學・漢詩の影響を強く受けた。だ
から梅に対する人一倍の愛着があったといへる。
「花ひとり見つつや春日暮らさむ」に、憶良のさみしさも表
現されてゐる。家族などと一緒に楽しく梅花を鑑賞したいと
いふ心もあるが、孤独を愛する心もあったのかもしれない。
あるいは、孤独感・疎外者意識を意図的に表現したとも言へ
る。憶良が七十一歳の時の歌。

 

 

わが苑(その)に梅の花散る久かたの天(あめ)より雪の流れ来るかも      
                 主人(あるじ) (八二二)

 

この歌会の主催者であった大伴旅人の歌。
これらの歌は即席の題詠である。「わが苑に」は、私の家の
庭に。「久かたの」は、天に掛かる枕詞。の「天(あめ)より雪の流
れ来るかも」は、天から雪が降って来るのであらうか。雪が
降ることを流れ来ると表現した。梅の花を行きと見る趣向で
ある。
通釋は、「わが庭に梅の花が散る。天から雪が流れて来るの
であらうか。」といふ意。
梅の花が散るのを見て、雪が流れて来ると歌ってゐる。雪と
梅を取り合はせる表現は支那の六朝文學(支那で、後漢の滅
亡後、隋の統一まで呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝)
の漢詩にもあり、珍しくはないのであるが、この歌の場合は歌柄が大きい。名門の棟梁としての風格がにじみ出てゐる歌である。大らかでこせついたところがなく、気品と風格がある。旅人が六十六歳の時の歌。
雪が風に乗って流れるやうに降って来るといふ情景。世俗を
超越してゐるやうな雰囲気が出てゐる。奥らと違って美の中
に素直に陶酔してゐる。
山上憶良は、「花ひとり見つつや春日暮らさむ」と歌って、
自己の人間性を出してゐる。同じ時代で、同じ場所で歌って、
同じ貴族でありながら、違ふ資質を持ってゐる。
平安時代頃までは、日本が愛でた花は梅であった。当時、梅
は外来の花であり、エキゾチックな感覚の花であった。時代
が下ると桜が愛されるやうになる。梅を鑑賞しながら、風雅
の世界に遊んでゐる歌。

 

 

員外(かずよりほか)、故郷(くに)を思(しぬ)ふ(歌(うた)両首(ふたつ)

 

雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾(あ)が身また變(を)若ちぬべ
し                     (八四八)

 

「員外」とは、梅花三十二首の枠の外の歌といふ意。作者は
旅人か憶良かどちらかであるが、いづれかは判定できない。
「雲に飛ぶ藥」とは、飲めば天に飛んでいくことができると
いふ仙薬。支那の傳説に基づく表現。
「よは」は、~するよりは。「都見ば」は、都を見たならば。
「變(を)若ちぬべし」は、若返るであらう。
通釋は「雲に飛ぶ仙薬を飲むよりは、都を見たならば、つま
らないわが身も、また若返るに違ひない」といふ意。
旅人にしても憶良にしても、「都に早く帰りたい、仙薬を飲
むよりも、都に帰ることができれば、年老いたわが身も若返
ることができると」いふ歌。都への憧れの気持ちの激しさを
詠んだ歌。 
大伴旅人に「わが盛また變(を)若(ち)ちめやもほとほとに寧樂の
京(みやこ)を見ずかなりなむ」(三三一・私が若く元気だった頃が戻
って来ることがあらうか。ひょっとして奈良の都を再び見る
ことなくこのまま人生を終えてしまふのか)といふ歌がある。
しかし、旅人は太宰府に三年間ゐただけで都に帰る。
憶良は旅人を中心とする「筑紫歌壇」で重要な役目を果た
してゐる。大伴旅人と山上憶良は、旅人が憶良の上司であり、
年齢は憶良の方が十歳ほど上であり、歌風も全くと言ってい
いほど異なるが、とても仲が良かった。旅人は、傳統的貴族
であり、憶良は學才によって登用された貴族であった。冷た
い対立関係はなく、お互ひに信頼し合ってゐたと考へられる。

 

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新元号決定について

元号の勅定は、政治権力行為ではなく、大嘗祭などと同じく、天皇の行はせられる祭祀なのである。

 

支那においては、易姓革命が行はれたので、各地に複数の王朝が出現したこともあり、元号が同時に二つも三つもあるといふ事態が発生した。しかし、わが日本は、易姓革命は無く、肇國以来萬世一系の天子が日本国を統治あそばされてきた。しかも、南北朝の異変の時でも、いはゆる南朝年号・北朝年号が建てられたが、臣下が元号を建てると云ふことはなかった。また正しく言へば、北朝といふ朝廷はあり得なかった。吉野朝廷のみが正統の朝廷であった。

 

ともかく、元号は天皇の勅定であったといふ千数百年にわたるわが国の伝統が、この度はじめて無視されたのである。由々しき事態である。この度、天皇陛下の勅許も聴許も承らず、元号を定めるのは、犯してはならない伝統が政府によって犯されたのである。君主たる上御一人日本天皇が勅定あそばされるべき「元号」が、臣下たる権力者によって決められたことは、國體が大きく隠蔽されてと言っても過言ではない。まことに由々しき事態である。

 

内閣は、新帝即位に伴う改元につき、「国民生活への影響を考慮して」即位に先立つ四月一日に政府から新元号を発表することとしていた。

 

しかし明治維新に際して明治大帝が「一世一元」の制を定められ、また昭和54年制定の「元号法」においても改元は皇位の継承があったとき、とされており、改元は新帝の大権によるものと理解されるべきである。

 

従って安倍内閣が「経済界や国民生活の利便性」を考えて前倒しで新元号を政府によって公布するのは、臣下の分を弁えず、元号にかかる天皇大権を無視、干犯するものと批判されてもやむをえない。

 

安倍総理にそのような意思は全くないであろうが、「ついに日本は、天皇が時間空間を統治される國ではなくなった。内閣総理大臣以下政治権力者が『時』を支配する國となった」と極言することも可能である。

 

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千駄木庵日乗三月三十一日

午前は、諸事。

 

午後は、今晩行う講義の準備。

 

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「國體隠蔽・伝統破壊の元凶『現行占領憲法』』と題して講義、質疑応答。全員で活発な討論か行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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新元号の決定について

新元号の決定が明るいニュースとして報道されている時に大変恐縮であるが次のことは申し述べたい。

 

元号は、天皇の勅定によるのがわが国の道統である。元号を決められるのは、天皇の祭祀であり統治行為である。天皇による政治権力の行使では断じてない。

 

政府によって決められる元号には何の神聖権威もないし、伝統の継承もない。元号は天皇の勅定によるという國體の本義が否定されたのは重大な國體隠蔽である。

 

政府は日本の道統・國體の本義よりもアメリカ製亡国憲法に遵ったのである。許されざることである。

 

 

 

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