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2019年3月 8日 (金)

国民の心に沁みついてゐる「国家=悪」といふ観念を払拭することが大切である

安倍晋三総理は、その著『美しい国』で「戦後日本は六十年前の戦争の原因と敗戦の理由をひたすら国家主義に求めた。その結果、戦後の日本人の心性のどこかに、国家=悪という方程式がビルトイン(四宮註・小生にとってはまことに聞き慣れない言葉であるが、辞書によると、内蔵されていること、はめ込むこと、作り付けであること、といふ意。コンピュータ用語らしい)されてしまった。だから、国家的見地からの発想がなかなかできない。いやむしろ忌避するような傾向が強い。戦後教育の蹉跌のひとつである。」と論じてゐる。

 

 戦後日本において、欧米の国家思想が滔滔と流れ込んできた。国家を権力機構と見なし、「国家権力は本来悪であり、これを出来得るかぎり制限して、人民の権利を拡張しなければならない。また、君主と人民は対立関係にあり、君主制を打倒して人民が権力を掌握することが歴史の進歩である」「國家は人間を束縛するものであり侵略戦争を起こすものである。だからいづれは無くなってしまった方が良いし、國家の力は押さえた方が良いし、國家の言ふことは聞かない方が良い」といふ思想が蔓延した。今日それは続いてゐる。

 

日本国はいかなる國であるのか、そしていかなる国であるべきかを正しく把握してゐないと、即ち正しき国家観が確立されてゐないと、正しい『憲法』への回帰は行ひ得ないし『国歌・国旗』への正しい態度も養へない。

 

安倍晋三氏は「国家」について次のやうに論じてゐる。「そもそも、人間はひとりで生きているわけではないし、ひとりで生きられない。その人の両親、生まれた土地、その人が育まれた地域のコミュニティ、そして、それらをとりまいている文化や伝統や歴史から、個人を独立させて、切り離すことなどできないのだ。人は、『個』として存在しているように見えるが、その実体は、さまざまなものとつながっていて、けっして『個』ではない。国もまた、同じだ。人が生まれて成長して年をとっていくうえで、切り離せないものとして存在しているのである。ここでいう国とは統治機構としてのそれではない。悠久の歴史を持った日本という土地柄である。そこに私たちは慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということは自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである」。

 

さらに安倍氏は、「天皇」について「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタベストリー(四宮註・これまた聞き慣れない言葉であるが、辞書によると、羊毛や絹、麻などを材料として、絵模様を織り出した綴織(つづれおり)のこと)だといった。日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と論じてゐる。正しい見解である。

 

国とか国家といふ言葉には色々に意味がある。司馬遼太郎氏は、「英語で古代以来、自然にそこにある国をネーション(nation)と言い、憲法を柱にして法で構築された国家はステイト(state)と呼ばれる」(『風塵抄』)と述べてゐる。

このほか、カウントリー(countryといふ言葉もある。これは故郷とか生国といふ意味だといふ。

 

我々が限り無く愛する日本國とはいかなる國であるのだらうか。「國家」といふ言葉は「漢語」であるが「やまとことば」には「クニ」といふ言葉がある。この「クニ」といふ言葉は「懐かしい故郷」といふ意味で用いられる場合がある。「あなたクニはどこですか?」「クニの父さん、母さん」と言ふ時は、故郷といふ意味である。英語でいふと「country」である。ところが「クニに税金を取られる」という時の「クニ」は、行政機構・権力組織のことである。英語でいふと「state」である。

 

「母國」とか「祖國」とかいふ言葉で表現される一定の広がりを持った土地の上に自然に生まれた共同體が、我々が懐かしく思ふ「國」である。その基本は夫婦であり子であり孫である。すなはち「家」である。「國」と「家」は一體である。ゆゑに「國家」といふ言葉が生まれたのではなかろうか。

 

我々が愛する國とはやはり「懐かしい故郷」としての國家であり、権力機構としての國家ではない。税務署や警察署を懐かしく思ひ愛着を抱く人はそんなに多くはないだらう。そこを職場にしてゐる人以外は皆無に近いと思ふ。

 

権力機構としての國家を否定することは或いは可能かもしれない。例へば「腐敗堕落した官僚や自民党が好き勝手なことをしてゐるから税金なんか納めない」と主張し、それを實行することは可能である。(勿論それによって権力機構から制裁を加へられるだらうが…)しかし、「父祖の國」「母國」と表現されるところの「國」に生まれ育ち生きてゐる事實は否定できない。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を持つ國においては、無理に英語を用いて定義を分けなくても「国家とは悠久の歴史を持ち、日本国民が生まれ生活してきたところ」といふのが自然の観念である。

 

西洋の国家観は、ある特定の地域の内部で物理的暴力による支配機構といふ事らしい。国家は個人の抑圧装置としてゐる。個人にとって国家とは本質的に敵である。このやうな国家観で日本国の国柄を規定してはならない。

 

國家を否定し、國家を破壊する運動を展開してきたのが共産主義革命運動である。これは、マルクスの「我々が國家を持つのは資本主義においてのみである」「國家は少数者による多数者に對する支配と搾取の體制」「國家は人間疎外の装置」といふ思想による。これは國家を権力機構・支配統制組織としてのみとらへた考へ方である。

 

 しかし、共産主義國家こそ、多数者による少数者の搾取を行ひ、人間疎外の装置として國民を圧迫し苦しめてきたことは、旧ソ連・共産支那・北朝鮮を見れば明らかである。権力無き社會の實現を目指して戦った共産主義勢力は、その結果として強大にして残虐無比な権力國家を作りあげた。


また、共産主義社會の實現を目指し反國家闘争を繰り返してきた日本國内の共産主義勢力は、仲間内で恐るべき闘争を繰り返し互ひに殺し合ってきた。

 

國家否定を目的とする左翼革命勢力こそ、権力國家の建設を目指し、外國の権力國家の侵略に協力してきた。戦後日本における「反國家・國家破壊の思想と行動」は惨禍しかもたらさなかったと言って良い。その残り滓が共産党であり立憲民主党の中にゐる。

 

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