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2019年1月15日 (火)

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

 

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

 

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主體はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事實中の大事實をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

 

征夷の實力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。國患ヲ思ハズ、國辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

 

井伊幕閣の違勅行為により、全國的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開國した」との批判が巻き起こった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくした。思想的理論的尊皇統幕思想は脈々と継承されてゐた。幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことにより、現實に尊皇討幕を目指して全國の志士が決起したのである。

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