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2019年1月13日 (日)

明治維新の素晴らしさ

 

今月七日にも書いたが、ロシア・支那・朝鮮という三つの國の歴史や現実を色々考えてみると、この三つの國は、わが国とは基本的の異なる国柄と歴史を持つであると思う。基本的に、国民の生命・自由民主政治・議会政治・民権・他国との平和的関係というものを全く無視する国であるということだ。

これはこの三つの國の建国以来の長い歴史が生み出した極めて不幸にして悲惨な事実なのである。専制政治、独裁政治しか経験した事がない國である。それは、この三つの國に生まれ生活する国民にとってはきわめて不幸なことであるばかりでなく、近隣国家にとってもきわめて迷惑なことなのである。

わが国は、この三つの國とはまともな外交関係を構築することができない事を正しく認識すべきだ。近代以後の歴史そして現実を見てそれは火を見るよりも明らかなことだ。

つまり、ロシア・支那・朝鮮はまともな国ではないということである。私はそう断定しても間違いではないと思う。否、断定すべきであると思う。

 

同じユーラシア大陸の東に位置する国々でありながら、なぜこのような違いがあるのか。いろいろ考えてみたのだが、ロシアも支那も朝鮮も近代において大変革を経験してゐない国であることに気が付いた。ロシアは帝政打倒のロシア革命を経験し、支那は同じく帝政で党の辛亥革命そして第二次大戦後に共産革命を経験しているけれども、その後、自由民主体制、議会政治体制は全く確立しなかった。そして個人あるいは一党による独裁専制政治が続いてきている。そして民衆の生命も財産もそして政治的自由もまったく蹂躙され続けている。

 

わが国は、明治維新という有史以来未曽有の大変革を断行したが、肇国以来の國體が破壊されることは無かった。國體が破壊されなかったどころか、天皇を君主・祭祀主と仰ぐ君民一体の國體を明らかにすることが、現状の大変革となり、国家の危機を打開した。それが明治維新である。

 

明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』には「(徳川慶喜が提出した『大政奉還の上表文』の勅許により・注)鎌倉幕府以来七百年の伝統的な武門政治の制度は、急流のやうに変革されて行ったがこの間の思想の潮流としていちじるしいことは、『この国際的緊急時に際しては、日本国は天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守らねばならない』との政治思想の原則が、あらゆる政派藩閥の別と対立との上にあって、何人にも抗し難い政治原則として確立されてゐた、といふことである」と論じられてゐる。

 

ロシア革命はロマノフ王朝を打倒し皇帝一族を皆殺しにした。支那革命もまた清朝を廃絶した。朝鮮森長を發絶し、過去と全く断絶した革命を行って伝統を破壊したが、その後もまた独裁専制政治が続いて今日に至ってゐる。

 

わが国の明治維新は、『大日本帝国憲法制定史』に論じられてゐる通り「天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守る」ことができた。明治維新がいかに素晴らしい変革であったかはこの事実によって明らかである。

 

慶応四年(明治元年)三月十四日、明治天皇が、百官・公家・諸侯を率いられて京都御所紫宸殿に出御あらせられ、御自ら天神地祇をお祀りになり、維新の基本方針を天地の神々にお誓ひになった御文である『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐる。

この御文について、「封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものである」といふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統の継承であり回帰である。

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは「身分差別」である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等』が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

 

 

 

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