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2019年1月 6日 (日)

ペリーの開國要求に屈した徳川幕府はその正統性が根底から崩れはじめた

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。

同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。

 

梁川星厳は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「當年乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、徳川氏の祖先の家康の意気は、勢いを盛んにして、人を凌いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日、外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

梁川星厳は江戸末期の漢詩人。寛政元年六月十八日(一七八九年七月十日)―安政五年九月二日(一八五八年十月八日))。美濃國安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。

 

江戸に出て、夫人で星巌と同じく詩人であった紅蘭と共に、神田お玉が池で「玉池吟社」といふ塾を開き、漢詩の講義のみならず國事に関する講義を行った。

梁川星厳は、天保八年(一八三七)、大阪で、幕府の政治を糺さんと蹶起した大塩平八郎に共感した。さらに、一八三九年、清朝が阿片戦争に敗れ、多額の賠償金を払はされるのみならず、香港の割譲までしたことを知った星厳は、大きな衝撃を受けた。

 

星巌は、五十歳を過ぎて憂國の情愈々熾烈となり、京の都に移り住み、鴨川のほとり居を構へ、京都における尊皇攘夷運動の中心人物となった。

 

徳富蘇峰氏は「(注・ペリー来航は)日本國民に向かって、一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるに足らざることの不言の教訓を、実物を以て示した…これがために二百五十年間全く冬眠状態であった京都の眠りを覚まし、たとえて言えば従来神殿に鎮座ましましたるものが、現つ神の本面目に立ち還り、ここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じてゐる」(『明治三傑』)と論じてゐる。徳富蘇峰氏の「現つ神の本面目に立ち還り」といふ指摘は重要である。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

征夷大将軍の「征夷」とは、「夷を征討する」の意である。源頼朝が政権を掌握して、朝廷より「征夷大将軍」に任ぜられ、建久三年(一一九二)七月、鎌倉に幕府を開いた。それ以来、いはゆる「兵馬の権」握るものを表す名として「征夷大将軍」の名が用いられるようになった。

 

江戸時代に於いて「征夷大将軍」は、実質的に天下の覇者であり、支配者であったが、天皇との関係に於いては、君臣関係であった。

 

江戸時代初期の陽明学者・熊沢蕃山はその著『三輪物語』(巻七)において、禰宜からの「他の國には、誰にても、天下を取る人が王と成り給ふに、日本にては、かく天子の御筋一統にして、天下を知り給ふ人も臣と称し、将軍といひて、天下の権を取り給ふは、如何なる故にておはしますや」との質問に対して、公達をして、「天照皇神武の御徳により、人々心に神明あることを知りて、礼儀の風俗起れり、此の厚恩は天よりも高く、海よりも深し、……此の國のあらんかぎりは、天照皇の御子孫を國の王とあふぎ奉り、居べからざるを道理の至極とす」と答へさせてゐる。

 

また、慶応元年六月二十九日の「ジャパン・ヘラルド」(文久元年【一八六一】に、横浜で最初に発行された週刊新聞)には「古来大君(注・征夷大将軍の事)を日本全國一統の君主と思ひしは誤りにして、日本全國の大権は御門(注・天皇の御事)に在り、而して大君は日本の守護を承る大将軍なり。…(注・大君は)御門より官位を受け、且國政の大任を託せられてこれを子孫に伝へたる者にして、全く独立の君主とは謂ふべからず、然れども大君を以て全く日本の君といふも不可なる言無し、諸大名悉く大君の命令に従ふ…」と書いてゐる。(石井良助氏著『天皇の生成および不親政の伝統』参照)

 

「征夷大将軍」の「夷」とは、第一義的には外敵のことである。征夷大将軍の最も重要な使命・責任を果たせくなってゐることがペリー来航によって明らかとなった。つまり、「日本の守護を承る大将軍」たるの資格を喪失し始めたのである。

 

「御家門筆頭」とされる越前福井藩主・松平慶永ですら、ペリーの開國要求に屈した幕府に対し「征夷大将軍の御重任は御名のみにて、上は天朝御代々、神祖(注・家康のこと)御始御歴世様方え対され、下は諸大名萬民迄えも、御信義地を払い云々」(『安政元年二月三十日、阿部正弘宛建白書』)と批判した。まさに徳川幕府の正統性が根底から崩れ始めたのである。

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