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2019年1月31日 (木)

大東亜戦争について

 およそ国運を賭しての大国間の戦争が、そう簡単に始められるものではない。アメリカの歴史家・ベアードは、「日本はルーズベルト大統領の巧妙なる秘密工作により、戦争に追い込まれたのである。大統領は、開戦一年二ヵ月前の一九四〇年十月、既に日米開戦の不可避を知っていた」と多くの資料に基づいて論述している。           

 

 ルーズベルト大統領は、わが国による真珠湾攻撃の五ヵ月前の昭和十六年七月十八日に、米爆撃機を使ってわが国の工業地帯を先制奇襲爆撃する計画にゴー・サインを出し、自ら署名していた。(米国立公文書館、極秘資料)

 

 また、昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府は最後通牒『ハル・ノート』を突きつけた。その内容の要点は、①支那大陸とフランス領インドシナからの日本軍の即時全面撤退②蒋介石政権以外の政権を否認すること③日独伊三国同盟を死文化すること-など十項目である。

 

 日清・日露両戦役、第一次世界大戦で得た支那大陸における日本の合法的権益(条約に基づく租借地や租界)を一切認めない、日本軍の仏印進駐はヴィシー政権との条約に基づくのだがそれを認めない、南京の汪兆銘政権を認めてはならないという、それに加えて三国同盟を破棄せよと迫ったのである。当時の国際常識からいったら無茶苦茶な無理難題というほかはない。それはパール判事が、「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも米合衆国に戈をもって立ち上がったであろう」と評したほどの無理な要求であった。

 

 『ハルノート』は、ソ連工作員・パブロフから直接指示されたソ連のスパイ=ハリー・ホワイト米財務長官が六月に起草したものであったことが判明した。(米特殊機関「VENONA資料」)一方、そのホワイトに対日強硬策を工作したソ連側の当事者パブロフは、ソ連崩壊後に回顧録を執筆しその謀略の内容を明らかにした。

 

 当時のアメリカにとって、日本はソ連や支那以上に憎い国であった。日本が日露戦争に勝利をおさめた後、アメリカにとって仮想敵国は日本だった。アメリカの歴史こそまさに帝国主義の歴史・侵略の歴史であった。十八世紀にイギリスから十三州で独立したアメリカ合衆国は、フロンティア精神を発揮して西部開拓を行い、インディアンを駆逐し、メキシコから領土を奪い取り、西海岸に到達し、ハワイを併合し、グアム、フィリッピンを植民地化したのはまさに侵略・帝国主義以外のなにものでもない。幕末のペリー来航は、支那大陸への中継港確保が主目的だったが、あわよくば日本の植民地化を狙ったものでもあった。

 

 フィリッピン植民地化後、支那大陸への野望を募らせたアメリカの前に立ちはだかる国は日本しかなかった。日本を押さえ込むことがアメリカの目的だったのである。

 

 このように、日米開戦は、まさに、アメリカ・ルーズベルト政権の挑発によるものなのである。それはルーズベルト政権がソ連に踊らされただけでなく、アメリカのアジア進攻という強い意志によるのである。その証拠は、大東亜戦争の日本降伏の調印式が行われた戦艦「ミズーリ」の艦橋にペリー来航時の米国国旗が翻っていたことである。

 

 大東亜戦争において、東南アジアが戦場になったが、決してわが国が東南アジアをその地域を侵略し領土拡大を狙ったわけではない。東南アジアを植民地支配していた米英蘭という西欧列強と戦ったのである。米英蘭などの西欧列強は、それまでアジアの資源を独占していたが、わが国の大東亜戦争によって、アジア諸国はことごとく独立を獲得した。

 

 いわゆる「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行問題」も政治的作為であり、虚構であることは、歴史家の調査及び種々の文献によって明白である。

 

 そもそも、「侵略」とは、無法に独立主権国家の支配下にある領土等に軍事力で侵入して奪い取り、そのまま長期にわたってこれを占領して主権を侵害するする状態をいう。国際法上の戦争行為・行動や戦争中における一時的占領行為を意味するものではない。

 

 大東亜戦争においてわが国が軍事進攻した地域は、清朝崩壊後多数、政権・軍閥が並立して、統一された独立主権国家が存在していなかった支那大陸と、欧米列強の植民地だったアジア地域であった。支那事変におけるわが軍の支那大陸進攻、大東亜戦争におけるハワイ急襲、マレー上陸・シンガポール攻略、フィリッピン・香港・蘭印・ビルマへの進軍などは、すべて戦争手段たる一時的作戦・戦闘行為であって、断じて侵略ではない。

 

 極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)を創設したマッカーサーですら、一九五一年五月、米上院の軍事外交合同委員会の公聴会で、「日本が第二次大戦に赴いた目的はその殆どが安全保障のためであった」と述べ、侵略ではなかったと証言した。

 

 極東国際軍事裁判の裁判長を勤めたウエップもバーガミニーという人の著書の序文で、「米国も英国も日本が一九四一年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えたかもしれない」と書いている。

 

 大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだったのであり、かつ、アジア解放戦争であったのである。欧米列強こそ、アジア侵略の張本人であったのだ。

 

 しかるに、わが国自身がいわゆる「東京裁判史観」に呪縛されたまま、謝罪決議を行ったり、謝罪総理談話を発表したのである。「東京裁判史観」とは、極東国際軍事裁判の多数判決即ち六人の判事の西欧列強のアジア侵略を正当化するためにわが国の行為を一方的に処断した判決を正しいとする歴史観である。

 

 また、支那共産政府そして韓国の内政干渉に屈伏して、「謝罪外交」をくり返しているわが国政府、そして、外国の手先となって祖国の歴史を冒瀆している国内の反日勢力はこれを糾弾しなければならない。

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千駄木庵日乗一月三十日

午前は、諸事。

午後二時より、目黒にてケント・ギルバート氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、編集実務担当者と打合せ。

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理。

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民主だ、立憲だ、護憲だなどと言っている勢力こそ、わが国をロシア・支那・朝鮮のような独裁専制国家にする勢力なのだ

日本には、近現代において、スターリン・毛沢東・金日成・正日・正恩のような、残虐無比の独裁者は出現しなかった。

 

また、歴史を通じて絶対専制君主が出現しなかった。征夷大将軍などは専制君主に近かったが、征夷大将軍も、日本国の上御一人・君主であらせられる天皇の臣下であった。ここが、西欧諸国や支那大陸や朝鮮半島とわが国が根本的に異なるところである。

 

わが国は、神武建国以来、一系の天子が祭祀主・上御一人として君臨されてきた信仰共同体であり、祭祀国家である。祭祀主としての天皇、道義の鏡としての天皇が、上におわしましたことが、武力・権力闘争に打ち勝った覇者が出現しても、自然に自制心、かしこみの心が生まれたと考える。それが、絶対専制君主や独裁権力者がわが国に生まれなかった原因である。

 

今日及び将来の日本においても、祭祀主たる日本天皇の信仰的権威が、政治権力を浄化し、権力者にかしこみの心を持たさしめ、国家・国民の幸福をはかることが出来るのである。こうした事が、わが国建国以来の「祭政一致」の理想であり、万邦無比の日本國體の素晴らしさである。

 

尊皇精神こそが、日本国安泰の基礎である。天皇を君主と仰ぐ日本國體の護持とその理想実現こそが、日本国永遠の隆昌の基礎である。従って、尊皇精神希薄な権力者は断じてこれを排除しなければならない。

 

さらに、國體破壊をめざす勢力はこれを断固として排撃しなければならない。今日においては、日本共産党であり、立憲民主党の大部分である。民主だ、立憲だ、護憲だなどと言っている勢力こそ、わが国をロシア・支那・朝鮮のような独裁専制国家にする勢力なのだ。

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千駄木庵日乗一月三十日

午前は、諸事。

午後は、友人来宅、懇談。

この後、明日のインタビューの準備、資料整理、原稿執筆。

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2019年1月30日 (水)

志位和夫はソ連のスパイの甥っ子である

私は昨日の本欄において、安倍総理が施政方針演説で、明治天皇御製について語った事に対して、志位和夫日本共産党委員長が、「日本国憲法の平和主義に真っ向から反するものだと強く抗議したい」と非難したことを強く批判した。

 

志位和夫の祖父は、何と陸軍中将・志位正人である。その息子で、大東亜戦争時の日本軍第三方面軍参謀(少佐)でシベリア抑留後は外務省職員でありKGBのスパイだった志位正二は志位和夫の伯父である。つまり志位和夫はソ連のスパイの甥っ子なのである。

 

佐々淳行氏の著書『私を通り過ぎたスパイたち』という本によると、志位和夫の伯父・志位正二は、シベリア抑留後の昭和二十三年四月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。帰国後は、GHQ参謀第二部(2)に勤めた後、外務省アジア局調査員となり、二重スパイとして活動、ラストポロフ(ソ連の職業的諜報員、中佐)に日本の再軍備や米軍関係情報を約四十回にわたって提供、六五万五千円を報酬として受け取っていた。ライトポロフが亡命した後、志位正二も日本警察に自首したが、不起訴になる。その後ソ連東欧貿易会などに勤務し、シベリア開発の専門家になった。昭和四十八年、シベリアのハバロフスク上空を飛行中の日航機内で自殺した。死因は脳溢血とされ事件性は否定されたが、「御用済み」となってKGBに消されたとのうわさは絶えなかった。

 

ともかく、志位和夫という男は、根っからの筋金入りの反日本主義者であり、國體破壊を目指す逆賊であることは確かである。まさに志位和夫は共産主義革命思想の申し子であり、ソ連の手先なのだ。

 

志位和夫に、アメリカの「民主主義思想・平和思想・人権思想」を三原理とする「現行占領憲法」に依拠して安倍氏を批判する資格などありはしないのである。ましていわんや、明治天皇御製に対し奉り、「日露戦争のさなかに戦意高揚のために使われた」などと言うのは不敬千万である。志位和夫は今日においてもまさにロシアの手先であることを証明した発言である。

 

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千駄木庵日乗一月二十九日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

 

午後六時より、永田町の憲政記念館にて、『「明治の日」実現!総決起集会』開催。国歌斉唱。古屋圭司、稲田朋美、山田宏、高市早苗、山谷えり子、衛藤晟一、西村眞悟、大原康男、江崎道朗の各氏らがスピーチ。

 

帰宅後は、原稿執筆の準備・資料検索整理。原稿執筆。

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2019年1月29日 (火)

明治天皇の御聖徳を汚す志位の発言を糾弾する。日共の逆賊体質は何ら変わっていない。

安倍総理が、本日の「施政方針演説」で、

 

明治天皇御製

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」

 

を拝し奉り、「日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに力を合わせることで乗り越えてきた」とし、少子高齢化や激動する国際情勢など直面する課題に立ち向かう決意を訴えたことに対して、日共の志位委員長は、「1904年に詠んだ歌で、日露戦争のさなかに戦意高揚のために使われた歌だ。日本国憲法の平和主義に真っ向から反するものだと強く抗議したい」などと言った。文字通りの難癖であり、明治天皇の御聖徳を汚す発言である。断じて許し難い。

 

明治維新の後、わが国はロシアや清などの大国を相手に自国の独立を維持するために、懸命に戦った。そして、日清日露両戦争に勝利し、独立を維持した。

 

日共はソ連・共産支那・北朝鮮などの共産主義独裁国家・全体主義国家と同根の政党であり本質は全く同じである。日共はソ連の世界共産化謀略組織「コミンテルン日本支部」として創立した政党であり最初から共産主義侵略國家の手先なのだ。

 

共産主義独裁専制国家の最高権力者は人殺しである。プーチンはこれまで、反対派粛清・暗殺を指令した。金正恩は気に入らない人間は自分の叔父でも残虐なる方法で殺している。習近平は、形だけの裁判は行うが、敵対者・邪魔な者を監獄に放り込んでいる。ロシア・支那・北朝鮮の独裁者は根本的にそういう体質を持っている。

 

安倍晋三氏は、いろいろ批判すべきところはあっても、命懸けで国務に挺身していると思う。私にはそう思える。しかし、全体主義国家、独裁国家の指導者とは全く異なる。

 

日本が支那やロシアの属国にならないための戦い=日清・日露戦争は正しかったし、正義の祖国防衛戦争であった。

 

志位は安倍氏の発言を「日本国憲法の平和主義に真っ向から反する」などと非難したが、共産主義思想、共産主義独裁専制国家、共産主義政党・集団こそ、この百数十年間、世界・アジアそしてわが国の平和・自由・繁栄を根柢から破壊して来た。

 

本日の志位の発言は、日共の逆賊政党である体質・本性は何ら変わっていない事を証明した。日共を一日も早く討滅しなければならならない。

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千駄木庵日乗一月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料整理、原稿執筆など。

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2019年1月28日 (月)

「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心

 

『承久の變』は、中世以後における「道統の継承」の源流であり淵源であった。『承久の變』以後も、わが國の道統は、祭祀と和歌を根幹として朝廷によって継承された。つまり、後鳥羽院の隠岐遷幸は武力戦では敗北であったが、「道の復興」といふ大事業に於いては、決して敗者ではあらせられなかった。後鳥羽上皇の御志はその後のわが國史に脈々と継承されていった。わが國體は外國の王朝交代・易姓革命とは無縁である。

 

後鳥羽上皇は、「道」と題されて、

 

「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」

(奥山の草木の茂り合ってゐる下も踏み分けて、本来、道のある世であると、天下の人に知らせやう)

 

といふ御製を詠ませられた。後鳥羽上皇が御年二十九歳の時、承元二年(一二〇八)五月二十九日『住吉社歌合』で、「山に寄する」と題されて詠まれた御製である。

 

正しい道が行はれなくなった世を正し、正しい道が存することを天下の民に知らせやうといふ強いご意志を示された御製である。「道ある世」即ち「道義國家」の回復を熱祷された御製である。「ますらをぶり」の御歌であり述志の御製である。

 

上三句は「道」にかかり、下句はその「道」を天下にあまねく明らかにしたいといふ強い御意思を示されたと拝する。武家政権によって「天皇中心の國體」が隠蔽されてゐる状態を正し、日本のあるべき道を明らかにしたいといふ大御心である。

 

後鳥羽上皇はこの御製で、単に鎌倉幕府の専横・北条氏による政治権力壟断を嘆かれたのではなく、「道」すなわち上古以来のわが國の道統が隠されてしまった世の中を嘆かれたのである。単に政治的なことをお詠みになったのではなく、傳統的な精神文化・藝術の復興をも願はれたと拝する。

 

武家の権力は、強い者が弱い者を倒して獲得した私的なものである。これを「覇道」と言ふ。後鳥羽上皇は、天皇の信仰的権威による國家統治といふ本来のわが國の國柄の回復が「正しき道」「あるべき道」であるとされ、「道の回復」を念願された。繰り返しいふが、『承久の變』は、朝廷が政治権力を武家から奪還するなどといふ低次元のことではなかったのである。

 

「われこそは新島守よ隠岐の海荒き波風心して吹け」

(自分こそはこれからの新しい島守なのだ。沖の海の荒い波風よ、心して吹け)

 

後鳥羽上皇が承久三年七月、隠岐に遷幸された時の御製である。この御製に対しても、「権力闘争の敗者のうめき・負け惜しみ」などと評する者がゐる。全く誤りである。これは、「おく山の」の御製と共に、道の継承に対する悲壮な御決意を表白された御製である。簡潔なお言葉と強い調べに、上皇のご決意とご感慨が偲ばれる。一切の「合理主義」「教条」による歴史解釈を超越した雄大にして激烈な御精神である。まさしく大御心である。

 

「承久の變」の後、幕府勢力が強大となり、一君萬民の日本國體は隠蔽されたが、「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流に脈々と流れ続けた。まさに、武家専横の代といふ「おどろ」の下にわが國の「道」は一筋につながって行ったのである。

 

保田與重郎氏は「日本の國と民と、さうして血統と神の永遠の誓ひの歌は、花鳥の風詠と竝行して、九重の奥で、しかも一等高い自信でつねにくりかへされてきたのである。それは後鳥羽院、順徳院から、龜山上皇、後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇とへて、次は後醍醐天皇のもとに南山の憂國悲憤の歌となる。この最も高遠にして永遠な男子の志を展く歌は、維新先憂志士や神道國學者の述志をへて、維新行動志士によって民衆の歌になったのである。」「後鳥羽院が後世の詩人に教へられた事は、その大様の文藝王國の精神であり、一人でそれを支へる詩人の決意である。雄大で永遠な信念や國柄の久しい信仰を反映した大業は、現世の成敗とは無縁に、永久の未來にかけて永續し又開花の日を常にたくはへてゆくものであるといふことも、院が御自身の運命で教へられた最大の詩人の信念の一つである。」(『後鳥羽院』)と論じてゐる。

 

保田氏の言ふ「未來の花の開花」は、武家専横時代の終焉である「明治維新」であった。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。維新變革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌は悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。須佐之男命・日本武尊・後鳥羽上皇・後醍醐天皇の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

國體が隠蔽されたといふ意味において、「承久の變」以後と、戦後日本が相似である。我々は、「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」との、後鳥羽上皇の大御心を體して、現代維新の戦ひを行はなければならない。

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千駄木庵日乗一月一月二十七日

午前は、諸事。

午後は今夜行う講義の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が挨拶。小生が「大嘗祭と現行占領憲法」と題して講義。質疑応答、討論。

帰宅後は、資料の整理など。

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2019年1月27日 (日)

安倍晋三総理、石破茂氏などの歴史観について

私はかつて石破茂氏を総理候補の人として期待してゐたことを今猛烈に反省しています。彼の歴史観はあまりにもひどい。そこで、昨年九月二十日に書いた拙文を再掲載させていただきたい。

 

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安倍晋三総理、石破茂氏などの歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも石橋だけを責め立てるわけにいかない。自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。

 

また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと 「戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と書かれている。日本を戦争に追い込んだ米ソ両国の事には全く触れていない。そして日本の一方的侵略で当ったかのような主張だ。石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければならない。

 

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軍事と祭祀-神功皇后と斉明天皇の子ご事績を仰ぎ奉りて

神功皇后が新羅に進軍される時、航海の神であられる底筒男・中筒男・上筒男の三柱の神(住吉大神)が御託宣をお下しになり、「今まことにその國を求めむと思ほさば、天つ神地(くに)つ祇(かみ)、また山の神と河海の諸神(もろかむ)たちまでに悉に幣帛(ぬさ)奉り、我が御魂を船の上にませて、真木の灰を瓠(ひさご)に納()れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さは)に作りて、皆皆大海に散らし浮けて、度(わた)りますべし」(『古事記』・天地の神たち、また山の神、海河の神たちにことごとく幣帛を奉り、私の御魂を御船の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠に入れ、また箸と皿とをたくさん作って、ことごとく大海に散らし浮かべてお渡りなさるが良い)と討伐の方法を示された。

 

斎明天皇が率いられた軍團が百済救援のために船出をする時も、これと同じやうな祭事が行なはれたのであらう。

 

文學の発生は、神への祝詞・唱へ言である。神にものごとを訴へ祈る人間のひたすらなる営為が歌を発生させたのである。

 

古代日本では、祭事を以て戦場に臨み、敵軍を守る精靈を圧伏した。古代のいくさは武の戦ひであったと共に、祈り・靈力の戦ひであったといへる。戦士を「もののふ」といふ。「もののふ」の「もの」は、「物の怪」「物語」「物狂ひ」「物忌み」の「もの」と同じで「靈」のことである。古代における戦ひは、靈力を以て敵を圧倒することが第一であった。

 

折口信夫氏は、「後代の軍人は、武器をもつ事を主として考へてゐるやうに見えるが、ものゝふは、神の爲事をしたのであって、力の根元は神にあった。『ものゝふ』といひ、或は『ものゝべ』といひ、同じ語の音韻變化から、後に分れては来てゐるが、もとは、意味が動揺してゐた。この團體は、神に仕へる時には、靈魂を扱ふ團體とも稱せられるべきものとなり、宮廷の生活に妨げを爲す魂(もの)防ぐ爲事を持った。『ものゝふ・ものゝべ』の『もの』は即、靈魂を指して居るのである。『べ』(部)は、職業團體を意味する」(『農民短歌史序説』)と論じてゐる。

 

『陸海軍人に下し給へる勅諭』に「神武天皇躬つから大伴・物部の兵ともを率ゐ」と示されてゐるやうに、物部氏は軍事を担当する氏族であったが、それは同時に日本傳統信仰の祭祀も重要な役目であった。だから、佛教の流入に反対したのである。

 

ともかく、わが國においては、靈的力・信仰の力が軍事力の基礎である。それは古代のみならず今日に至る迄のわが國の傳統である。

 

斎明天皇は、皇極天皇の重祚であらせられる。皇極天皇は、祭り主としてのご使命を強く発揮あそばされ、日本の神々への祭祀を盛んに行なはれた。神を祭り、神に祈り、神のお告げどおりに多くの建設を行はれ、百済大寺・飛鳥板蓋宮・吉野離宮そして壮大な祭祀場などを造営された。

 

皇極天皇が即位された年(五九四)の六月以来、わが國は旱魃に悩まされた。七月には、民衆も僧侶も雨乞ひの祈りを行ったが、効果はなかった。そこで、八月に、皇極天皇が南淵の川上に行幸され、雨乞ひの祈りを天に捧げられると、雷鳴と共に雨が降って来たといふ。その雨は五日間も降り続き、民衆は大喜びで、皇極天皇への敬慕の思ひが高まったと傳へられる。

 

斎明天皇七年七月、斎明天皇は、出陣中の九州福岡の朝倉宮で崩御された。御年六十八歳であらせられた。

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第91回日本の心を学ぶ会

91回日本の心を学ぶ会

 

即位儀礼・皇室祭祀について

 

御譲位と改元が迫ってまいりました。御譲位による皇位継承は約二百年ぶりのことです。政府は、江戸時代に君臨あそばされた第一一九代・光格天皇の譲位式を参考に儀礼の準備を進めているとのことです。

即位儀礼のなかで国事行為とされる「即位の礼」に比べると、公的皇室行事とされる「大嘗祭」については、国民にあまり良く知られていないようです。

「即位の礼」「剣璽等継承の儀」によって、皇位は新天皇に継承されます。しかし「大嘗祭」は、皇位継承において「即位の礼」と共にまことに重要な儀式であります。「大嘗祭」とは、新天皇自ら新穀を天神地祇に捧げ、皇祖天照大神の御神霊と一体になられる祭祀であると承ります。まさに天皇という御存在と不可分の祭祀であるといえます。

そもそも天皇陛下が行われる祭祀とは統治と一体のものであり、時代の変遷の中でも、天皇が祭祀を通じて御神意をうかがい、国民の意志を神に申し上げ、政治を正しくされてきました。これを「祭政一致」と申し上げます。この「祭政一致」の國體は建国以来今日までゆらぐことはありませんでした。

しかし『現行占領憲法』においては「天皇祭祀・皇室祭祀」は「皇室の私的行事」とされております。「大嘗祭」も公的性格は有するが国事行為ではないというのが政府見解です。しかも、国費を使うことについては「政教分離の規定」に違反するという批判すらあります。

そこで今回の勉強会では「即位儀礼」と「皇室祭祀」について考えてみたいと思います。

 【日 時】平成31127日 午後6時から

【場 所】文京区民センター 2-B

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

【演 題】大嘗祭と現行占領憲法

【講 師】 四宮正貴四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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千駄木庵日乗一月二十六日

午前は、諸事。専門家来宅して、パソコンのメンテナンス。

午後からは、資料の整理、書状執筆、原稿執筆、明日開かれる『日本の心を学ぶ会』で行う講義の準備など。

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2019年1月26日 (土)

女性天皇は祭祀・軍の統率を行ひ得ないといふことはない

 

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇の御事績を拝すれば明らかである。

 

第三十七代・斎明天皇は、敏達天皇の皇曾孫であり、舒明天皇の皇后であらせられる。また、第三十五代・皇極天皇の重祚(一度位を退かれた天皇が再び位につかれること)であらせられる。斎明天皇六年(六六○)三月、我が國と友好関係にある百済に、唐・新羅連合軍が電撃的に侵攻し、七月には、百済は敗北した。そして、百済の義慈王は唐の國へ連行されてしまった。九月、百済から我が國に沙彌覚従(さみかくじゅ)などの使者が来て、百済再興のため日本に救援を要請してきた。

 

斎明天皇は詔して、「百済が困窮してわが國を頼ってきました。どうして見捨てることができませうか。将軍たちはそれぞれに命令を下し、前進しなさい。雲のやうに集ひ、雷のやうに動いて敵を倒し、百済の危機を救ひなさい」と、激しい口調の命令をお下しになった。(『日本書紀』に拠る)

 

斎明天皇七年(六六一年)正月六日、六十八歳となられたご老齢の女帝・斎明天皇の率いる朝廷の軍船は、中大兄皇子・大海人皇子そして妃や王子・王女など全皇族とご一緒に、寒風の中を難波の港を出発して、瀬戸内海を航行し筑前朝倉宮まで赴かれた。率いられる軍船團は、船千艘、兵士二萬七千人であったと傳へられる。

 

三百年近くにわたり同盟関係にある百済救援は当然のことではあったが、戦ひの相手は唐と新羅である。國家挙げての大きな戦ひであった。天皇御自身が戦ひを決意され、御自ら総指揮者として外征のために軍船に筑紫の向かふことは、神功皇后以来のことであったと傳へられる。

 

軍船團は、一月十四日、伊豫熟田津(今の愛媛県松山の港)に船を泊めた。熟田津には、斎明天皇がかつて夫君・舒明天皇と行幸され、禊を行はれたことのある石湯(今の道後温泉)の行宮があった。軍團が伊豫の石湯行宮に寄ったのは、そこで戦勝を祈念する禊(みそぎ)をされるためであった。斎明天皇は出航予定の二十三日まで、しばらくその行宮に滞在された。

 

二十三日夜、斎明天皇は御座船で、御自ら祭主となられて國家的大事の前の戦勝祈願と出航出陣の祭事を執行された。

 

午前二時、空に満月が昇って来て、塩は満潮になった。そして西向きの風も強まった。いよいよ神意にかなふ船出の時を迎へた。まことにも神秘的な情景であったと思はれる。

 

斎明天皇は、祝詞を奏上され、神に祈られた。そして、気迫が漲った次の歌を高らかにお歌ひあそばされた。

 

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船出をしやうと月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今、漕ぎ出さう)

 

「船乗りせむと」は、船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は、船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二十三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 

古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。かがり火をつけた百千の軍船團は神に護られるがごとく月光に照らされながら潮の流れに乗って次々と出航した。それは勇壮な光景であったと思はれる。

 

潮が満ちて来て船出が可能となった時の緊張した雰囲氣と月光に浮き立つ場面が一体となって生き生きと迫って来る。差しのぼる月とその光、くっきりと照らし出された数多くの軍船、満ちて来る潮が出発の時を告げるのを「今はこぎ出でな」と歌はれて、船出を祝福し航海の無事を祈られると共に、眼前の風景をも雄渾に歌ひあげた感動を呼ぶ御歌である。

 

「やまとことば」特に和歌には靈力がこもってゐると信じるわが國の「言靈信仰」が脈うってゐる御製である。この御歌にこそ、祭り主・日本天皇の大御心が実によく表白されてゐる。

 

祭祀主であらせられ全軍の最高指揮者であらせられる斎明天皇ならではの御歌である。萬葉集の代表歌の一つとなってゐる。

 

天皇は、神と人との間に立ってまつりごとを執行され神の言葉を宣せられる祭り主であらせられる。斎明天皇も祭り主として、航海の無事を祈るまつりごとを執行された。その時に、神のお告げ・御託宣を受けて出発を命令され、御自らを励まされ全軍を叱咤し鼓舞し、船出を祝福された。女性天皇の御歌ではあるが歌柄の大きい氣迫のこもった男性的な御歌である。一種の神憑り状態で御託宣として歌はれたのであらうと拝察する。

 

この御製は、『萬葉集』に収められてゐるのであるが、「題詞」(詩歌の詠まれた事情・趣意・作者などを記したことばで、歌詞の前に置いたもの。詞書)には「額田王の歌」と記されてゐる。しかし、左註(歌の左側に記す注)には、「天皇の御製なり」と記されてゐる。『萬葉集』の研究者の意見も二つに分かれてゐる。

 

この御歌のしらべは、やはり上御一人でなければ歌ひ得ない格調と強さを持ってゐる。また「今は漕ぎ出でな」といふ結句は、全船團に出航を命令してゐるのである。「斎明天皇の御製」と拝すべきと考へる。

 

また、斎明天皇の命を受けて額田王が代作したとする説もある。中西進氏は、「この緊張したしらべは、託宣のひびきにも似ておごそかであろう。そのとおりに、これは斉明女帝の立場で歌われたものであり、かつ出航をうらなった一首だった。古くは『女軍(めいくさ)』というものがあった。兵力として戦う男性軍に対して、つねに神意をうかがいながらこれを指揮する集團のことである。この傳統に立って、額田王は右の歌を口ずさんだのである。初期萬葉には女歌が多い。それは一つにはのこされた歌が公的な儀礼歌にかたよっているからであり、それには、神と人との中に立って〝ことば〟を傳えるのに女性があたるという傳統があったからである。額田王もその流れにいた。」(『萬葉の心』)と論じてゐる。

 

額田王が実際に詠んだとしても、この歌には、斎明天皇の大御心が表白されてゐることには違ひはない。

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千駄木庵日乗一月二十五日

午前は、諸事。『政治文化情報』発送作業。

ごご一時半より、内幸町の日本プレスセンターにて、『新聞通信調査会講演会』開催。松浦基明共同通信政治部長が「安倍政権レガシーづくりの行方」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報』発送完了。資料整理など。

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2019年1月25日 (金)

日本天皇の國家統治と和歌と武は一体である

 

天皇の統治をやまとことばで「しろしめす」「しらしめす」と申し上げる。「しろしめす」「しらしめす」とは、「知る」の尊敬語で、お知りになる、承知しておられる、おわかりでいらっしゃるといふ意である。「しらしめす」は、「しらす」(「知る」の尊敬語)に、さらに尊敬の補助動詞「めす」の付いた言葉である。

 

また、「きこしめす」とも申し上げる。「きこしめす」は「きく(聞く)」の尊敬語「きこす」に「見る」の尊敬語から転じた「めす」が付いて一語となった言葉で、聞きあそばす、お聞きになるといふ意である。

 

天皇は、神の御心のままに國を治められると共に、臣下・民の心を良くお知りになり、お聞きになって、この國を統治あそばされるのである。

 

そして、天皇と民の心をつなぐものが「やまとうた」=和歌である。天皇は御製によってその御心を民に示したまひ、民もまた歌を捧げることによって民の心を天皇にお知りいただくのである。その傳統は、毎年行はれる「新年歌會始」に継承されてゐる。

 

天皇統治とやまとうたは切り離し難く一体なのである。君民一体の國柄は和歌によって保たれてきた。神代の昔より、今日に至るまで、高下貴賎の区別なく継承されて歌はれて来た文藝が和歌である。かかる優雅にして清らかなる君民一体の國柄は他の國には見られない。

 

小田村寅二郎氏は、「遠い遠いところに居られるやうに感じてゐた御歴代の天皇がたが、御歌を拝読するわれわれの目の前に、身近にお姿を現され、お聲をかけてくださるやうな気さへしてくる。『詩歌』とはまことに不思議なものであり、とくに『和歌』を介しての作者と読者とは、時空の隔たりを超えて心一つに通ひ合ふことができさうである。」(『歴代天皇の御歌』はしがき)と論じてゐる。

 

天皇・皇室は、神代以来、祭祀を継承されると共に、和歌の道を連綿として継承されてきた。そもそも和歌の起源は、皇室のご祖先であられる神代の神々のお歌に遡る。わが國の文藝(歌・物語)の起源は祭詞から発生した。わが國は祭祀國家であり、天皇はわが國の祭祀主であらせられる。天皇の國家統治は、祭祀と和歌がその基本である。

 

天皇主宰のもとに行はれる「勅撰和歌集」の編纂が、和歌の継承に不可欠であった。今日、「勅撰和歌集」が編纂されなくなってゐるのは、わが國の國柄が正しく開顕してゐないといふことである。

 

和歌と武と祭祀は一体である。日本國が本来的に和を尊ぶ國であり、天皇・皇室が武力を以て民を支配する御存在ではあらせられないといふことを強調するために、天皇・皇室と「武」との関係を軽視したりあるいは否定してしまふ論議がある。さういふ論議がと「現行占領憲法」の誤れる「平和主義」と結びつける人もゐるやうである。

 

しかし、天皇・皇室が「武の道統」を継承して来られた事は、天皇の國家統治を表象する「三種の神器」に「草薙剣」がある事によって明白である。この事は、女性天皇におかせられても何の変りはない。女性天皇も「三種の神器」を継承せられる。

 

「草薙剣」は、素戔嗚尊が、出雲國簸川(ひのかわ)上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を切った時に、その尾から出たと傳へられる剣である。

 

『古今和歌集』の「仮名序」に、「人の世となりて、素盞鳴尊よりぞ三十文字あまり一文字はよみける」と書かれ、素盞鳴尊がお詠みになった

 

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を

 

が、和歌(三十一文字)の起源であると説かれてゐる。素盞鳴尊は、皇祖・天照大御神の弟神であらせられ、且つ、「武の神」であり、和歌を始めてお詠みになられた御方なのである。和歌は神詠であるといふ古来よりの信仰はここから生まれた。和歌と武とは一体なのである。これを「剣魂歌心」といふ。

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2019年1月24日 (木)

千駄木庵日乗一月二十四日

午前は、諸事。

午後四時半より、新横浜の山海楼にて、『㈱大吼出版新年総会』開催。石井忠彦実行委員長が主催者挨拶。阿形充規、大下英二、南丘喜八郎の各氏そして小生などが祝辞を述べ、盛宴に移った。

帰宅後は、原稿執筆、資料整理。

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今日思ったこと

本日(平成三十一年一月二十四日 の報道によると、東京大学病院(東京都文京区)の循環器内科で昨年秋、カテーテル(管)を使った心臓病の最先端治療で40代の男性患者が死亡したという。東京都は医療法に基づき12月に立ち入り調査し、安全が確認できるまで同治療を中止するよう指導したとのこと。

 

小生も昨年暮れ、東大病院で、心不全の治療のために「カテーテルを使った最先端治療」というのを受けたばかりである。今のところ私は異常は感じられない。しかし、どうにも怖いなあというのが実感である。

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2019年1月23日 (水)

「日韓併合」を謝罪する必要は全くないー朝鮮は日本の植民地ではなかった

 

日本による韓國併合は、当時の日本にとって万止むを得ざる選択であったと共に、当時の韓國政府との正式な交渉のもとに行はれたことである。しかも、併合後韓國は、近代化を遂げ、あらゆる面で併合以前よりも発展し、國民は豊かになった。そして継承され護られるべき韓国の傳統文化は保護された。わが國は、韓國・朝鮮を一方的に侵略し支配したのではない。従って韓國に対してわが國政府が百年の区切りの年だとか言って謝罪する必要は全くない。

 

朝鮮併合を『植民地支配』と言うのは大きな間違いである。朝鮮は日本の植民地ではなかった。九州・四國と同じに考えられた合邦國家であった。だから朝鮮総督府は内閣に直属していた。

 

明治天皇の『韓國併合に付下し給へる詔書』(明治四十三年八月二十九日)に、「(朝鮮の注)民衆は朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし。産業及び貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし。而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑はざる所なり」と示されている通り、わが國には韓國・朝鮮を植民地する考えは全くなかった。

 

わが國が朝鮮半島において植民地搾取を行ったと言うなら、『数字』を根拠とするべきである。朝鮮統治三十六年間、朝鮮総督府の財政予算の一五~二0%は日本中央政府から補助を受けていた。『日本は朝鮮半島の土地を収奪し、人の命を収奪した』と言うが、日本統治時代に朝鮮の土地の利用価値・生産価値を高め、三十七年間の自然・社會環境の整備によって人口を倍増せしめた。

 

朝鮮、台湾、樺太を外地と呼ぶことはあったが、植民地と呼ぶことは政府によって排された。事実、民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。

 

朝鮮半島の歴史は、「中華帝國」への隷属の歴史であった。文化的にも政治的にも軍事的にも支那の属國であり続けた。しかし、日清戦争の後の「下関条約」(明治二十八年)で、「清國は、朝鮮が完全無欠なる独立自主の國であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮國から清國に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)」事となった。すなわち、朝鮮は日本のお陰で支那からの独立を獲得したのだ。

 

ところが、日本が「三國干渉」に屈服したため、「日本弱し」と見た李氏朝鮮は、今度はロシアに接近しその属國となった。國王の高宗はロシア大使館で政務を執るという状況であった。こうした朝鮮の体質を「事大主義」(『以小事大』(小を以て大に事〈つか〉へる)と言う。強い者を背景に弱い者をいじめるという体質である。「事大主義」は、李氏朝鮮建國以来の國策であった。

 

日本に併合される以前の韓國は、ある時はロシアの属國となり、またある時は支那の属國になるという体たらくで、とても独立國と言える状況ではなかった。また國内の改革・近代化も全く進まず、経済的に破綻に近い状態にあり、権力者は腐敗し、政争を繰り返していた。そして國民は疲弊し李朝の圧政に苦しんでいた。  

 

そのままの状況で推移すれば、朝鮮半島は、きわめて不安定になる。これはわが國にとって重大な脅威である。そこで、日露戦争に勝利した日本は、当時の韓國政府との正式な交渉のもとに、ロシアの属國であった朝鮮を併合したのである。当時の國際感覚では当然の成り行きであり、文字通り致し方の無い選択であった。

 

日本の韓国統治は西洋列強がアジア・アフリカなどに対して行った「植民地支配」とは全く異なる。断じて謝罪する必要はない。

 

韓國や北朝鮮は、日本が謝罪すればするほどますます居丈高になって過去のことを責め立てて来る。一体今まで、日本は韓國に対して、そして支那に対して何回「謝罪」してきたのか。そしてそれによって日韓関係・日支関係が良くなったのか。断じて否である。何回謝罪しても、友好関係は確立していない。わが国政府は、謝罪などせず、竹島奪還・拉致問題の解決など韓国・朝鮮に対する正当な要求を毅然として行うべきである。

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千駄木庵日乗一月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆、資料の整理など。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 二月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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日本は大陸国家・半島国家の悪逆非道から祖国を守らねばならない

 

全世界の国家がさうであるやうに、東アジアにおいても大陸国家と半島国家・海洋国家とに分けられる。支那は大陸国家であり、朝鮮は半島国家であり、日本や東南アジア各国は海洋国家である。戦争が起こる確率が高いのは半島国家だといふ。

 

これまでの歴史を顧みると、わが国は朝鮮半島や支那大陸に進出すると手ひどい目に遭ってゐる。成功したためしはない。戦前は、軍事的・政治的に大陸に深入りして、ソ連中共の謀略に引っかかり、泥沼の戦ひとなって日米戦争にまで進み敗北した。戦後は、支那大陸に経済的に深入りして、金と技術をまきあげられ、共産支那を軍事大国にしてしまひ、かへってわが國の安全と独立が脅かされてゐる。

 

朝鮮半島についても同じことが言へる。朝鮮半島と支那大陸に深入りすることは日本にとって利益にはならない。実際、近代日本は、半島と大陸に深入りしすぎて、結局亡国への道を歩んだ。近代どころではない、古代日本の白村江の戦ひの敗北、豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗を見てもそれは明らかである。我々は歴史に学ばねばならない。

 

近年の日本も支那大陸・朝鮮半島に政治的経済的に深入りしすぎてきた。日本のお蔭で経済発展した支那韓国は、日本に牙を向けて来てゐる。日本はまづ自らの主体性を正しく確立しなければならない。

 

わが国は北の脅威に韓国と共に対処する必要はない。韓国の防衛は韓国自身と韓国の同盟国アメリカに任せればいい。日本はアメリカを後方支援すれば良い。ともかく敵対国家韓国と軍事的協力などする必要はさらさらない。

 

韓国が北朝鮮・支那に侵略支配されようと、わが国が韓国に軍事的支援をする必要はない。韓国は北朝鮮に侵略され統一国家になったら、日本に侵略の牙を向けて来るのは火を見るよりも明らかである。

 

大陸・半島に軍事的経済的政治的にあまりにも深入りしたことによって、亡国の道を歩んだのだ。歴史を繰り返してはならない。

 

わが国が共産支那や南北朝鮮から祖国を守るためには核武装が必要である。日本傳統精神を興起せしめ道義国家日本の真姿を回復し、アジアの平和のために貢献することは大切であるが、それは支那朝鮮と妥協したり、言ひなりになることではない。

 

もちろん、四海同胞・八紘爲宇・アジアナショナリズム・アジア解放の理想は正しいが、「アジアは一つ」ではあっても、各民族・各国家はそれぞれ全く異なる文化と歴史と民族性を持ってゐることをはっきりと認識し、海洋国家(台湾・ベトナム、マレーシア、フィリッピン、インドネシア、インド、オーストラリア、ニュージーランドそしてアメリカ)と協力して大陸国家・半島国家の悪逆非道から祖国を守らねばならない。

 

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千駄木庵日乗一月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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2019年1月21日 (月)

今日思ったこと

私の小中学生時代は、悪いことをしたら先生から体罰を加えられるのは当たり前だった。いわゆる「愛の鞭」か、憎しみの感情で殴ったかはその場ですぐにわかった。良い先生は良い先生だし、嫌な先生は嫌な先生だった。やたらに感情に任せあるいは自分の立場を守るだけために生徒に体罰を加えた先生は、生徒が卒業した後、仇を討たれた人もいた。

 

パワハラということがいろいろ問題になっているが、パワハラに耐えそれに打ち勝ち、次第に強い男に成長していくのではないだろうか。パワハラに耐えられず自殺するなどというのはとても考えられない。特に警察官にそういう事例がある。階級が上の人・上司には逆らえないというのが習い性になっているのだろうか。どうせ自分の命を絶つのなら相手を殺してから自殺すれば良いではないか。そうもいかないのでしょうか?。

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いはゆる「従軍慰安婦」とは虚構であり嘘八百である

中川八洋氏はその著書で、「第二次大戦における戦場でのレイブ事件の発生率については、日本軍は他国に比して際立って少ない。まさしく称讃されるべき世界第一級の模範軍であった。…戦場の『敵国』女性を保護する政策を立派に遂行した。その成果であった。また、慰安婦がすべて民間の純粋な『市場』において集められた点でも世界の範であった。…『従軍置屋』をもって、『日本のみがなした野蛮な制度』とするのは歴史的事実に反する。日本を中傷するための悪意ある嘘である」

「一九五〇年に朝鮮戦争が始まると米軍は日本の横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の『センター』を設置した朝鮮の戦場から一定期間ごとに交代で米軍の兵隊が送られてきた」「一九四五年八月十五日の停戦と九月二日の敗戦の日以降、米軍約四十万人が日本に上陸したが、『従軍置屋』も売春婦も伴っていなかった。このため、GHQも命令したし、また日本政府側も日本の一般女子の貞操を強姦から守るべく、占領軍用の売春施設を全国規模で設置した」

「置屋が従軍して移動する制度は…国際的には普遍的である。何ら非難されるべきものではない。むしろ戦場や占領地における強姦を防止し性病をより減少せしめる成果においてそれ相応に評価されねばならない。売春の是非という問題だけに論点を視野狭窄させて、『従軍置屋』制度を非難するとすれば、その方が非人間性に基づいた非難である。非難されるべきは、満洲や東欧やドイツでなしたロシア(ソ連)軍のような残虐極まる強姦の問題である。…日本軍の『従軍置屋』制度について真赤な嘘をもって難詰しながら、この満洲や東ヨーロッパやドイツでのロシア軍によって生じた二十世紀最悪のレイプ被害に対しては一切の言及もしない、日本の『従軍慰安婦』キャンペーンを専門とする弁護士たちは、果たして人間なのだろうか。人格喪失のデマゴーグたちである」(『歴史を偽造する韓国』)と論じてゐる。

 

このやうに、「従軍慰安婦実在説」は成立しない事は今日明らかになっている。「強制連行」といふ事実がない以上、「慰安婦」と言はれる人々は戦地に出張営業した「娼婦・売春婦」であり、官・軍が営業を認可した「公娼」だったのである。

 

「女子挺身隊の名で戦場に強制連行され日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦」は全く存在しなかった。実際、戦地に出張した朝鮮人娼婦・売春婦の殆どが、親に売られたり、朝鮮人の民間業者(女衒)の手で転売されたりした女性たちである。

 

「従軍慰安婦問題」でわが國を責め立ててゐるわが國内外の勢力は、「人権感覚」に基づいてゐるのではない。虚構・嘘八百による日本断罪である。「慰安婦強制連行」という挙行・嘘八百を材料にして「反日策謀」を広める反日国家、そしてわが国内の反日勢力の意図があるのである。

 

ソ連の崩壊――東西冷戦の終結によって、それまで社会主義を礼賛し日本の共産化を呼号してきた勢力は、「目標」を失った。それに代はる目標あるいは自己の存在証明が、「慰安婦強制連行プロパガンダ」などの「反日的歴史問題」の「追及」になったのだ。このような虚構の「反日プロパガンダ」を断固として撃破しなければならない。

 

問題は日本の近現代史を悪逆非道と描き出す『朝日新聞』などの反日メディア、亡国野党などの反日勢力の存在である。わが国の歴史を汚し、旧軍人を侮辱することは天人共に許さざる行為である。

 

いはゆる「従軍慰安婦」とは、相当の報酬を得てゐた特殊職業婦人(俗にいふ売春に携はる女性)のことで、勿論、わが国政府及び軍に強制されたものではなかった。

 

軍は戦地での強姦暴行事件が起こるのを未然に防止するために、業者にこの種の女性の募集を委託した。従って性病防止などのため管理面で軍が関与したことはあっても、日本軍が強制連行したことはあり得ない。

 

韓国や日本国内の「反日勢力」は「従軍慰安募集」を、不当に歪曲し、誇大化して「強制連行」などと大々的に報道し、キャンペーンを張ったのである。その結果、内外の多くの人は「強制連行」があたかも歴史的真実であると信じ、日本軍及び日本政府が行ったかのやうに思い込んだ。そして、女性の人権を蹂躙した人道的犯罪を、日本軍が犯したと妄信されてしまった。

 

公表された「慰安婦」関係の記録文書には、朝鮮半島出身者に関する文書に「強制」「強要」「甘言」があった「事実」を示す記録は一件もなかった。「従軍慰安婦」問題はでっち上げであったのである。虚構の「反日プロパガンダ」を撃破しなければならない

 

 

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千駄木庵日乗一月二十一日

午前は、諸事。

午後一時半より、永田町の衆議院第二議員会館にて、「明治の日」実現運動の実行委員会。高池勝彦弁護士が座長、相澤宏明展転社会長が司会。全員で討議。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』発送準備。原稿執筆。

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2019年1月20日 (日)

わが国は、悪逆非道の韓国に対し竹島からの撤退と謝罪と賠償、李承晩ライン問題の謝罪と賠償、日本人の個人資産返還・戦後賠償返還を韓国に要求すべきだ

わが国は、悪逆非道の韓国に対し竹島からの撤退と謝罪と賠償、李承晩ライン問題の謝罪と賠償、日本人の個人資産返還・戦後賠償返還を韓国に要求すべきだ

 

これまでの日韓関係について考へてみたい。韓國は、わが國の主権回復を承認する「サンフランシスコ講和条約」が発効する直前の昭和二七年一月十八日、韓國が海洋資源を独占し、領土を拡張するため、突如、島根県・竹島を取り込んで、一方的に公海上に引いた軍事境界線・排他的経済水域「李承晩ライン」を引いた。そして、日本漁船を締め出すと共に竹島を強奪した。これは、國際法上全く不当不法な行為であった。

 

韓國警備艇は、「李承晩ライン」の外側を航行中の日本漁船までも襲撃し、無辜の日本漁民を拉致して釜山港へ連行し、残虐な拷問を加へ、自白を強要し、一方的な判決を言ひ渡し劣悪な環境下で拘束した。さらに日本漁船を多数強奪した。

 

下條正男氏は要旨次のやうに論じてゐる。「李承晩ラインを引き竹島を強奪したのが、何故一月十八日であったのか。二月二十八日に始まる日韓国交正常化交渉を韓国側に有利に進めるためである」「李承晩ラインは一方的に公海上に引いた線である。日本漁船が二百隻以上拿捕され、三千人以上の日本漁民が拿捕された。昭和二十八年二月四日には、漁労長が射殺された」「日韓の国交正常化交渉で一番大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置であった。その個人資産は、当時の韓国経済の八〇%に当るという。韓国側はこの事を日本側に持ち出されたら困る。日本人の個人資産を日本側の搬出させないために韓国側が外交カードとして使ったのが、拿捕し拉致し不当に抑留した日本漁民たちの身体と生命である。竹島問題、李承晩ライン、個人資産問題で日本が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである」(『竹島の現状と日韓の主張』・「虎ノ門道場ブックス・知っていますか、日本の島」所収)

 

韓国は北朝鮮に負けず劣らずまさに「人さらひ国家」である。北朝鮮の日本人拉致と何ら変はりはない。韓国は戦時中の「徴用」を「強制連行」などと批判するが、自分たちこそ、強制連行・拉致・不当拘束の本家本元なのである。

 

さらに韓国は、『日韓基本条約』踏み躙り、いはゆる従軍慰安婦問題で、日本を責め立て、補償を要求し、日本側も十億円の金を出すことにした。韓国が「日韓基本条約」を踏み躙るのなら、わが国も正々堂々日本人の個人資産返還を韓国に求めるべきだ。

 

昭和四十年に「日韓基本条約」「請求権・経済協力協定」「日韓漁業協定」が締結されるまでの間、韓國の不法行為により投獄された日本漁民は三九二九人にのぼり、拿捕時の攻撃による死傷者は四十四人、物的被害総額は当時の金額で約九十億円にも上る。

 

にもかかはらず、韓國は現在に至るまで謝罪も補償も一切してゐない。わが國政府は、韓國政府に対して「李承晩ライン」問題について謝罪と賠償を強く求めるべきである。

 

韓国が「日韓基本条約」を踏み躙るのなら、日本人の個人資産返還・戦後賠償返還を韓国に求めるべきだ

 

強調しておかなければならないことは韓国が日本に対する「請求権」を放棄したのは、わが国が韓国に対し、朝鮮半島に投資した日本資本及び日本人の個別財産の全てを放棄すると共に、膨大な額の援助を行ふことになったからである。韓国は無償で対日請求権を放棄したのではない。

 

昭和四十年六月に、日韓両国政府が調印した『日韓基本条約』と同時に締結された付随協約の一つである『日韓請求権並びに経済協力協定』は、第一条が日本から韓国に対して経済協力が行われるための手順規定、第二条が日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」規定、および、第三条が日韓両国間で「この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争」を解決するための手順規定となってゐる。

 

この「協定」に基づき、日本は、韓国との正式国交開始と同時に、当時世界最貧国のひとつであった韓国に対し、合計五億米ドル(無償三億米ドル、有償二億米ドル)及び民間融資三億米ドルの経済協力支援を行った。当時の韓国の国家予算は三・五億米ドル程度、日本の外貨準備額は十八億米ドルであったことから、その額の膨大さが推し量れる。

 

韓国は、この日本からの経済協力金を原資として、国内のダムや高速道路を整備し、「漢江の奇跡」を成し遂げたのである。

 

これについて金完燮氏は「その著『親日派のための弁明』で、「日本としては、遅れた朝鮮半島を譲りうけ、四〇年間にわたって大規模な投資をし教育を施し、近代的な制度を導入して膨大な産業基盤を建設したあげく、金を受けとるどころか賠償金まで支払わなければならなかったのは、さぞ無念なことだったろう」「日本の立場からすれば、朝鮮に残した莫大な財産を強奪され、数多くの日本人が殺害され追放された被害に対してなんらの賠償も要求できなかったうえに、大幅に譲歩しながら締結した協定について、韓国側がこれに反する言動を延々とくりかえしているのだから、韓国人はいくら与えてもつぎつぎと無理難題を吹っかけてくるおかしな集団と受けとるだろう」と。

 

韓国が「日韓基本条約」を踏み躙るのなら、わが国も日本人の個人資産返還・戦後賠償返還を韓国に求めるべきだ。

 

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千駄木庵日乗一月二十日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2019年1月19日 (土)

日本天皇の国家統治の御精神は「和」「仁慈」だけではなく「剣」の精神がある

神武天皇御製 

 

みつみつし 久米の子らが 粟生(あはふ)には 臭()韮一(みらひと)(もと)(かみらひともと) そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ

 

 神武天皇(神日本磐余彦尊・かむやまといはれひこのみこと)は、九州日向(宮崎)の美々津の浜を出発され、瀬戸内海を東へ進み、紀伊半島を迂回され、熊野から吉野を経て、大和に入られた。これを「神武天皇の御東征」と言ふ。数々の戦闘が行はれたが、大和の忍坂(おさか・今日の奈良県桜井市忍坂)で、神武天皇に抵抗し奉った長髄彦といふ豪族の長を討たれる際に、神武天皇の軍を激励して詠まれた御歌がこの御製である。

 

【みつみつし】「久米」に掛かる枕詞。威勢がいい、強いの意。「御稜(みい)()」と同意義で、武力が強いといふ意だけでなく、霊力があるといふ意が含まれる。【久米の子ら】久米部の兵士たち。久米は氏族の名。神武天皇の御東征につき従った。【粟生】粟畑。【臭韮一茎】臭い韮が一本。【そねが茎 そね芽繋ぎて】その根元と芽を一つにつないで。古代日本においては、韮や山椒など刺激が強い臭気や味を持つ植物には呪力が宿ってゐると信じられ、武器となったといふ。

通釈は、「いかめしく強い久米の人々の粟の畑には臭い韮が一本生えてゐる。その根のもとにその芽をくっつけてやっつけてしまふぞ」といふ意、

 

烈々の攻撃精神が充満してゐる。日本天皇は「もののふの道」の體現者であらせられることを示す御歌である。

 

日本天皇の国家統治の御精神は「和」「仁慈」だけではない。「剣」の精神がある。「武」「軍」「戦ひ」を否定してゐるのではない。上御一人日本天皇は「もののふの道」「ますらをの道」の體現者であらせられる。「ますらをぶり」は日本民族の基本的道義精神である。一たび戦ひとなれば、神武天皇御製に歌はれたやうな「そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」といふ雄々しさ・勇気・戦闘心が発揮される。

 

「三種の神器」は、日本天皇の國家統治・日本民族の指導精神の象徴でり、皇位の「みしるし」であり、皇霊が憑依すると信じられ、歴代天皇が即位と共に継承されてきた。その「三種の神器」の一つは「剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)」である。「剣」は、「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象してゐる。

 

「鏡(八咫鏡・やたのかがみ)」は、「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象し、「玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)」は、「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」をそれぞれ表象してゐる。祭祀・軍事・農業を司りたまふ天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されてゐる。

 

神武天皇の御東征の御精神について、『日本書紀』に「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日の神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむには。かからば則ち曾て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ…」と記されてゐる。

 

御東征の戦ひは神を祭り、神の霊威を背負ひ神の御心のままの戦ひであった。故に武は「神武」であり、剣は「神剣」であり、戦ひは「聖戦」となる。そして「刃に血ぬらずして」まつろはぬ者どもを平定する。

 

「ますらをぶり=武士道」と「剣」とは一體である。剣は殺傷の武器ではない。日本刀=剣は製作過程からして既に神道祭式の宗教儀式になってゐる。刀鍛冶は職人にして単なる職人ではなく、朝から斎戒沐浴して仕事(これも仕へまつるといふこと)にかかる。仕事場に榊を立て、しめ縄を張り巡らせて、その中で仕事をする。剣の製作は、神の魂が籠るものを作るのであるから神事であるのは当然である。

 

古代日本における剣・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。

 

わが國においては、武器は神聖視されてをり、倫理精神の象徴であり神社における礼拝の対象となってゐる。奈良県天理市にある石上神宮の御祭神は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)である。剣・刀が「忠義と名誉の象徴」「武士の魂」として大切にされてきた根源にはかうした信仰がある。

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千駄木庵日乗一月十九日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。川村純彦岡崎研究所副理事長(元海将補)が「中国の脅威に対処するためのわが国の防衛体制」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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悠久の歴史を持つ天皇・皇室の傳統・統合力・求心力が日本の政治・文化などあらゆることの根柢にある

天皇は祭祀主であらせられるとともに、統治者であらせられる。ゆえにただ祭祀をしておられればいいとか、京都に移られて政治に関与されないほうがいいという主張は誤りである。

 

天皇は、日本の伝統精神の体現者として、日本の政治・文化・経済などすべてのことを聖化し安定化し統合される御存在である。

 

『大日本帝国憲法』において「しらす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いた。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。

 

明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現実の「國家君主」と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限り続くであろう。こうした事実が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。

 

わが國が、長い歴史を通して様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本という國は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

 

繰り返し言う。天皇は祭り主であられるが日本の統治者である。統治と祭祀を切り離すことはできない。

 

日本は、多くの國家の中で、活力がある。社会の安定と秩序が確立されている。それだけではない。支那・南北朝鮮・ロシアのような国民を虐げる独裁専制政治は行われない。その基盤に皇室の存在がある。

 

悠久の歴史を持つ天皇・皇室の傳統・統合力・求心力が日本の政治・文化などあらゆることの根柢にある。日本には王朝交代がない。武家が権力に握る時代が七百年続いたがその上に絶対的な天皇・皇室の権威があった。わが国は、権力武力を超越した皇室があることよって自由で国民を大切にする政治が機能してきた。

 

皇室祭祀の「大祭」は、元始祭・昭和天皇祭・神武天皇祭・春秋の皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭である。天皇は潔斎され、ご自身でお供えを行わせられる。大和朝廷発祥の地・纏向遺跡は新嘗祭が行われた形跡があるという。

 

天皇の祭祀は『現行憲法』の「国事行為」であってはならない。「国事行為」にすると内閣の助言と承認が必要になる。祭祀は天皇の公事である。天皇の祭祀は統治者としての祭りであり、統治と祭祀は一体であり、権力機関である政府の「助言と承認」なるものを受ける必要は全くない。

 

天皇が不断にお祭りをされ国民の幸福を祈られるので、被災地にお出ましになると、国民に勇気と慰めを与えられる。それだけではない。国土の地霊・自然に宿る神霊を鎮魂されるのである。天皇はお祭りだけをされていればいいというのは本末転倒の議論である。

 

『現行憲法』の「国民主権」の「国民」は建国以来の国民、将来の国民を含むという意味ではない。『現行憲法』第十条では「国民の要件を法律で定める」とある。国民の要件を定めると明記している法律は『国籍法』。つまり『現行憲法』における国民の要件は国籍のみ。故に国民主権の国民は建国以来の国民ではない。したがって『現行憲法』の「国民主権論」はきわめて危険であり、國體破壊の元凶になる危険がある。

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2019年1月18日 (金)

渡辺剛杏林大学教授による「中国のシャープパワーに揺れる台湾民意」と題する講演内容

昨年七月七日に開催された『アジア問題懇話会』における渡辺剛杏林大学教授による「中国のシャープパワーに揺れる台湾民意」と題する講演内容は次の通り。

 

「私は台北市生まれ。母方の祖父が台湾人。祖父は戦前地主。戦後没落。国民党に恨みを持つ。私は、外事捜査官の教育もした。警察学校国際捜査官養成コース教官を経て杏林大学教授。

 

シャープパワーとは軍事力、経済力、権威主義。国家による影響力行使。中国の工作の対象は先進国全般。アフリカへの浸食は激しい。ハードパワーとは経済・軍事での実力。ソフトパワーは文化イメージ。理念も重要。アメリカはハードパワーだけでなくソフトパワーも強い。シャープパワーは内部から蝕んでいく。シャープパワーの対象は財界。

 

企業は金さえ儲かれば國さえ売りかねない。政治家・官僚にも飼い犬になる奴がいる。オーストラリアの政官界で『中国の資金を受け取ってはならぬ』という立法が行われた。文化、学界、有識者、大学、シンクタンクを工作の対象にしている。工作の内容は、虚偽情報流布、人的経済的浸透工作。

 

投資を人質にとって『中国を裏切ったらどうなるか分かっているだろ』ということになる。弱みを握られる。親中派と保守派の間にくさびを打ち込む。レーニンの手法。レーニンは『弱い所を狙え』と言った。開かれた自由民主国家はこれを防ぎきれない。

 

マスコミに外資が入るのを断固として防ぐ必要あり。国民としてのアイデンティティが弱いと付け込まれる。自由民主主義が定着しないとそれに付け込んでくる。アフリカへの中国の食い込みは激しい。インフラ・社会システムに中国資本が入り、やり方も中国式になっている。経済基盤が作られる。

 

カンボジアは中国に乗っ取られた。政治根経済も中国化している。ケニアのインフラは中国式になっている。ケニアは顔認識ができる。危機感が薄い。中国問題の専門家が少ない。こういう国を狙って中国は入って来る。中国に逆らっても無駄だと思い込ませる。中国は「途上国の味方だ」と強調する。香港はかなりひどく食い荒らされている。しかし香港資本反中国に傾いている。オーストラリアも遅まきながら気付いた。先進国は中共のネガティブイメージが強い。後進国はそうではない。

 

中台関係はかなり悪い。蔡英文は就任演説で台湾という言葉を使わなかった。陳水扁は使ったが…。蔡英文はその後かなり中国を刺激するようなことをしている。中国の『文攻武嚇』が強まっている。呼称問題で、航空会社・ホテルへの圧力を強めている。断交国も増えている。企業も名所変更を余儀なくされている。台湾が国交を持つ国は貧しい國が多い、そこに中共が食い込む。

 

台湾人意識はじりじり下がっている。心情的反中も下がっている。『戦争になるのは嫌だから現状維持が良い』と言う人が増えている。しかし自分のことを中国人と言い切る人はほぼいない。『中国が大きくなるのだったら呑みこまれるのはやむなし』という人が増加。多数派は台湾人意識だがそうではない人も増え始めている。台湾人アイデンティティが薄くなっている背景にあるのは、経済優先、実利志向、名より実の傾向が強いこと。対中警戒感は多数派を占めているが、比率が下がってきている。台湾の貿易相手は四割が中国。

 

ドイツ、オーストリア、スイスはドイツ民族だが、国家は異なる。アングロサクソンも、英米加豪ニュージーランド。国家は別。国ごとにアイデンティティを持っている。台湾は国民アイデンティティが未成熟。蔡英文は、『台湾は多元的移民社会』という考え。教育の場で、中国史を外国史に入れた。地理も同じことが行われようとしている。与野党対立はひどい。国民党統治の全否定。

 

日本もトランプ政権並みに台湾支持を鮮明にすべし。『在台北米代表処の防衛のために海兵隊を派遣する』とうのがインパクトを与えている。軍は国民党。将官は外省人。下士官に台湾人が多い。世代交代で将校は本省人。将校には素朴に台湾を守りたいという人が多い」。

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千駄木庵日乗一月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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黒田秀高伏見稲荷大社正禰宜の「明治維新から第二維新へ」と題する講演内容

昨年七月三日に開催された『國體政治研究会』における黒田秀高伏見稲荷大社正禰宜の「明治維新から第二維新へ」と題する講演内容は次の通り。

 

「去年は『応仁の乱』五百五十年。『応仁の乱』と明治維新は関係がある。『応仁の乱』は家督相続の戦争で、戦国時代まで続いた。能、歌舞伎は『応仁の乱』以後に興った。戦乱の中の民衆の側からの改革によって日本は変った。明治維新の制度改革は民衆から盛り上がったのではない。『応仁の乱』とは対照的。『応仁の乱』で権威は崩れた。

 

明治維新には理念はあったが思想はあったのか。薩長は討幕の後の理念を決めていなかった。徳川慶喜の方が列侯会議を考えていた。薩長と慶喜との駆け引きがあった。慶喜は大政奉還を行った。慌てたのは薩長。島津斉彬は討幕を考えていなかった。斉彬は列侯会議を目指した。井伊直弼は幕府にしがみつき過ぎた。時代を考えていなかった。江戸時代は宮家より摂関が上だった。摂関家が朝廷の権威を貶めていた。

 

明治維新の後、太政官と神祇官が復興した。神祇官は何をすればいいか制度内容が決まっていなかった。平田篤胤と津和野派の福羽美静との軋轢があった。神祇省は教部省になった。残念ながら内容の検討が出来ぬまま明治維新を迎えてしまった。戊辰戦争終結の後、まずしなければならなかったのが外国との交渉。不平等条約の改正。前王朝の歴史を編纂することが正統性の証明になる。前王朝から引き継いだことを証明するために正史を作る。正統性の主張の大きな意義がある。日本は『三代実録』で生死が途絶えた。修史は東京大学史料編纂所に引き継がれた。『日本書紀』『続日本紀』の『紀』とは本筋・筋道という意。

 

廃藩置県、版籍奉還は公地公民・王土王民という考えがあった。しかし中途半端に終わってしまった。土地私有化が進んだ。徴兵令の制定によって武士階級がなくされた。

明治十四年国会開設。二十四年憲法発布。上からの制度変革が立て続けに行われた。西郷隆盛が一番の思想家。『南洲遺訓』をいかにして生かすかが問題。明治第一の思想」。

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ロシア・支那のアジア及び我が国侵略の野望を叩き潰すべし

近代になって、わが国が祖国防衛上やむを得ず戦火を交えた国は、支那であり、ロシアである。清帝国・ロシア帝国のアジアにおける覇権拡大、朝鮮半島・わが国への侵略を食い止めるために我が国は死力を尽くして戦った。それが日清・日露戦争である。また支那及びロシアの朝鮮半島・わが国への侵略を食い止めるその過程において、我が国は多大な犠牲を払って朝鮮半島を併合し近代化・インフラ整備を行い多大の貢献を行った。

 

日本はロシア・支那・朝鮮から恨まれるようなことはしていない。しかしこの三つの國は、わが国に対して恨みを抱き、わが国領土を奪取し、侵略せんとしている。

 

特にロシアは、日本が戦争に負けそうになった時、突如「日ソ不可侵条約」を破棄して日本に宣戦し、満州・北朝鮮そしてわが国固有の領土たる南樺太全千島を侵略した。のみならずわが国同胞約百七万人をシベリアやソ連各地に拉致し、強制労働させた。確認済みの死者は二十五万四千人、行方不明・推定死亡者は九万三千名で、事実上、約三十四万人の日本人が死亡したという。また一九四五年から一九四九年までの四年間だけで、旧ソ連での日本人捕虜の死亡者は、三十七万四千四十一人にのぼるという調査結果もある。

 

そしてロシアは今日に至るまで、我が国の領土である南樺太全千島を返還しようとしないばかりか、軍事基地を建設している。

 

さらに、「日本は北方領土と呼ぶべきではない」とか「北方領土は第二次大戦の結果ロシアの領土になった。日本に第二次世界大戦の結果を受け入れるべきだ」などと言っている。「盗人猛々しい」とはこのことである。

 

こうしたロシアの態度を見ていると、ロシアは北方領土を返還する意思はないと断じざるを得ない。ロシアに限らず外国のわが国に対する不当不法な行為に対して、日本はもっともっと毅然とした態度で臨まなければならない。

 

自民党安倍政権は、日米軍事同盟を強化すると共に、自主防衛体制を確立し、ロシア・南北朝鮮・共産支那に厳正に対峙すべきである。そしてロシア・支那のアジア及び我が国侵略の野望を叩き潰すべきである。

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千駄木庵日乗一月十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。資料整理。原稿執筆。

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2019年1月17日 (木)

今日思ったこと

報道によると「森友学園への国有地売却を巡る問題で、野党各党は17日、大阪府内で、前理事長の籠池泰典被告への聞き取りや、現地の視察を行った」という。

 

日本の政治家・政党が今やるべきことはこんなことではない。今、日本の政治家・政党がやるべきことは不当不法に我が国への軍事的圧迫、挑発行為を続けている韓国・ロシアへの抗議であり糾弾である。

 

わが国の祖国防衛のための軍事力強化、日米軍事同盟強化に対しては、狂気の如く非難し攻撃し妨害するにもかかわらず、韓国・ロシア・共産支那などによる我が国への侵略行為、軍事的圧迫に対しては何の抗議も批判も行わない立憲民主・共産・社民、そして朝日新聞テレビ朝日などの偏向メディアは、敵性国家の手先であり祖国の敵である。殲滅すべきである。

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日本における『道』とは

 

 

「神ながらの道」とはいかなる道であろうか。それは「教条」や「掟」ではない。「神のみ心に随順しそれを行ふ」といふことである。日本の神々の道をそのまま踏み行ふことである。

 

小林秀雄氏は次のやうに論じておられる。「『道といふこと』とは、論(あげつら)はうにも論ひやうもない、『神代の古事(ふるごと)』であった。『古事記』といふ『まそみの鏡』の面にうつし出された、『よく見よ』と言ふより他はない『上つ代の形』であった。…『上つ代の形』とは、たゞ『天つ神の御心』のまゝであらうとする、『上つ代』の心の『ありやう』、『すがた』た他ならず…」(『本居宣長』)

 

つまり、「日本の道」とは、神のみ心のままであらうとする「道」の継承と言っていい。日本語には古来、西洋で言ふ「知識」とか「認識」というふ名詞は存在しなかったといふ。日本人は、単に知識を求めたのではなく、「道」を求めたのである。それが日本の学問即ち国学だったのである。「道を学び問ふ」事を大切にしたのである。 

 

人が道を歩むといふ具体的な行ひが、学問といふ精神的な「いとなみ」を言ひ表す場合にも用いられたといふ事は、日本人はそれだけ「実践・行ひ」を重んじたといふ事である。具体的に道を歩むといふ行ひの姿を以て精神的な道を探求することを表現したのである。

 

日本民族は、日本民族特有の思想や精神を理論・教条として言挙げしなかった。だから、日本には独自の思想教条理論は無かったのではないかと主張する人さへゐる。

 

しかし、理論・教条で説明する思想精神はそれだけ狭く限定されたものと言へる。日本の伝統精神は、祭祀・文藝・武道などの実際の「いとなみ」によって自然に継承されてきたのである。それだけ自由であり、広らかなるものである。

 

「日本の道」は祭祀・神話・和歌・物語によって伝へられてゐる。本居宣長は、「古(いにしへ)の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はただ物にゆく道こそ有りけれ、もののことわりあるべきすべ、万の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国(あたしくに)のさだなり」(『直毘靈』)「主(むね)と道を学ぶ輩は、…おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、歌などよむをば、たゞあだ事のやうに思ひすてゝ、歌集などは、ひらきて見ん物ともせず、古人の雅情を、夢にもしらざる故に、その主とするところの古の道をも、しることあたはず」(『うひ山ふみ』)と述べてゐる。

 

さらに本居宣長は、「日本の道」とは、「天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、真の道」(『うひ山ふみ』)であると述べてゐる。

 

そしてそれは、理論・教条といふ形ではなく、『記紀神話』に示され、『萬葉集』に歌はれてゐる。日本の古の道・古人の雅情は、教条的な形で理論として伝へられてゐるのではなく、祭祀といふ信仰行事そして神話や和歌や物語によって伝へられてゐる。

 

『記紀萬葉』は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のやうな教義・教条が書き記されてゐる文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められてゐる。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ、抽象的な論議や理論をそれほど重んじなかった。

 

近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べてゐる。

 

平田篤胤は、儒教や仏教といふ外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の「道」を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じてゐるのである。国学とはさういふ学問なのである。

 

さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり」と論じてゐる。

 

つまり日本の伝統精神即ち日本民族固有の「道」は事実の上に備はってをり、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないといふのである。抽象的・概念的な考へ方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見て、それを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたひあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

かういふ理論・理屈・教条を排するといふ日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を自由に柔軟に幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原基である。

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千駄木庵日乗一月十六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、脱稿、送付。『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。原稿執筆。

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2019年1月16日 (水)

今こそ、尊皇攘夷の精神が必要な時であると

民族運動・維新運動は、戦後一貫してと言っていいくらい長い間、具体的な運動目標として来たのは、「北方領土・竹島の失地回復」「靖国神社国家護持実現」「政治の粛正」「憲法改正」「教育正常化」「自主防衛体制構築」「歴史問題・屈辱外交問題の解決」「反共産中国・反北朝鮮」「台湾支持」「道義国家建設」などである。

 

これらの問題は、それぞれ国民の多くに理解を得てきた主張である。民族派が戦後一貫して訴えて来たことは、基本的に正しかったことは、今日の祖国が置かれて状況が証明している。

 

逆に言えば、真正保守運動愛国運動の主張を否定し非難攻撃してきた偏向メディア・亡国野党が如何に間違っていたか、そして彼らが敵性国家の手先であったことを証明した。

 

愛国運動・真正保守運動は、民族運動・維新運動は、今日の日本において、その存在価値はますます大きくなっている。 明治維新が「尊皇攘夷」を基本理念にして戦われたように、現代維新においても、「尊皇攘夷」の精神を根底に置いて戦われなければならない。

 

「尊皇」とは萬世一系の天皇を中核とする國民的統一・道義心の高揚を図る事であり、「攘夷」とは國家民族の自主独立を回復することである。内憂外患交々来るといった状況にある今こそ、尊皇攘夷の精神が必要な時であると言える。

 

民族の傳統への誇りを忘却した民族には未来はない。しかし、我々は絶望してはならない。上に天皇おわします限り、民族の命は必ず新生し甦る。そして、民族の歴史の流れ、民族の道統に立脚した変革が行われなければならない。日本國體精神こそが永遠の維新の原理である。

 

 我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生を実現し、北朝鮮・共産支那・ロシアという悪逆なる侵略国家と祓い清め、祖国日本・アジア・世界の真の平和実現に邁進しなければならない。 

 

 

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この頃詠みし歌

 

 

酒場にてうまきもの食す我が楽しみは心臓病みて奪はれにけり

 

いたつきの癒える日を信じ今日もまた神への祈り深めつつをり

 

ともかくもわが日の本は強くありて仇なす国から國護るべし

 

夕暮に参り来たれる根津神社 丹塗りの社幻の如し

 

ガラケイをスマホに替へてみたけれどこの二つの言葉の意味が分からぬ

 

文京区駒込坂下が幼き日に我が過ごし来し町の名なりけり

 

大給坂狸坂に団子坂の下なる街に我生きて来し

 

我と同じく独身生活を送る人が心臓を病むと聞きて驚く

 

やらねばならぬ仕事はしっかりやり遂げることのみ心に決めて生き行く

 

汝の親と兄弟に感謝せよと説く教団のトップが逆のことする

 

これがまあ終の棲家といふ俳句思ひ出しつつ部屋の掃除す

 

幼馴染みの姿も減り来しさみしさに今日も豆腐を一丁買ひにゆく

 

豆腐の角に頭ぶつけて怪我したなどと言われたる子も老いにけるかな

 

今日もまた思ひのたけを文章につづりて心たらへる如し

 

新しき発想と思ひて書きてゐしに何と以前の文章と同じ

 

ともかくも食ひ過ぎず呑み過ぎず興奮をせず生きて行かなん

 

病院の冷たき対応看護師の心なき言葉忘れることなし

 

家族の身になって考へろと大き声出したる事幾度か

 

八十歳になるまではほど遠し生きてゆかなむひと日ひと日を

 

ひと日ひと日を生き行くほどに歳月は早く過ぎゆく命尊し

 

カップルの隣で寿司を一人食む何とさみしき事にぞありける

 

今宵また焼き鳥屋にて一杯の酒を呑みたり身を労はりつつ

 

神保町のビアホールに来たれども本日休業では詮方も無し

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千駄木庵日乗一月十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2019年1月15日 (火)

今日思ったこと

南樺太全千島が即時無条件全面返還されるまで、ロシアに一切の協力を行うべきではない。

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韓国は友邦ではない。徹底的に対決すべし。

日本に対して敵対行為を行い、「国防白書」で北朝鮮を「敵」とした従来の表記を削除する一方、日本については「自由民主主義と市場経済の基本価値を共有している」との表記を省いた韓国は、もう友邦ではなく敵性国家である。一切の協力関係を断絶し徹底的に対決すべきである。

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孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

 

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

 

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主體はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事實中の大事實をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

 

征夷の實力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。國患ヲ思ハズ、國辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

 

井伊幕閣の違勅行為により、全國的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開國した」との批判が巻き起こった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくした。思想的理論的尊皇統幕思想は脈々と継承されてゐた。幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことにより、現實に尊皇討幕を目指して全國の志士が決起したのである。

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千駄木庵日乗一月十四日

午前は、諸事。

午後二時二十分より、曙橋の会議室にて、『莫友会』開催。犬塚博英氏と稲貴夫氏が問題提起。討論。

数人の十代後半からの同志と久しぶりにお会いした。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2019年1月14日 (月)

『船中八策』『航海遠略策』『薩土盟約』などの國家変革策

『船中八策』『航海遠略策』『薩土盟約』などの國家変革策

 

幕末期の國家的危機を打開せんとした人々は、徳川幕藩體制を否定し、新たなる國家體制を創出しなければならないと自覚した。そしてそれはわが國肇國以来の國體の回復による新たなる変革即ち復古即革新であった。

 

慶應三年(一八六七)六月、土佐藩船「夕顔」船上で坂本龍馬に発案によりまとめられた國家変革策『戦中八策』には、「一、天下ノ政権ヲ朝廷二奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」とある。

 

『薩土盟約』 (慶応三年(一八六七) 年六月、兵庫開港勅許の直後、薩摩藩討幕派西郷隆盛、小松帯刀と、土佐藩公議政體派の坂本龍馬,後藤象二郎らの間に結ばれた盟約)には、「方今、皇國ノ國體制度ヲ糺正シ万國ニ臨テ不恥。是第一義トス。其要、王制復古、宇内ノ形勢ヲ参酌シ、天下後世ニ至テ猶其遺憾ナキノ大条理ヲ以テ処セン。國ニ二王ナシ、政権一君ニ帰ス、是其大条理。我皇家綿々一系、万古不易、然ニ古郡県ノ政変ジテ今封建ノ體ト成ル。大政遂ニ幕府ニ帰ス、上皇帝在ヲ不知。是ヲ地球上ニ考フルニ、其國體如玆者アラン歟。然則制度一新、政権朝ニ帰シ、諸侯會議、人民共和、然後庶幾以テ万國ニ臨テ不恥。是ヲ以テ初テ我皇國ノ國體特立スル者ト云ベシ。…一、天下ノ大成ヲ議定スル全権ハ朝廷ニ在リ。我皇國ノ制度法則、一切ノ万機、京師(けいし・皇都のこと)ノ議事堂ヨリ出(いづる)ヲ要ス」とある。

 

倒幕を目指した人々のみならず、徳川将軍ですら、次のやうに論じた。慶應三年(一八六七)六月十四日第十五代将軍・徳川慶喜が朝廷に奉呈した『大政奉還の上表文』には「臣慶喜謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇國ヲ保護仕候得ハ必ス海外万國ト可並立候臣慶喜國家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上」とある。

 

長州藩直目付長井雅楽(うた)は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じてゐる。

「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の實は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。

 

大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反してをり日本の傳統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を體し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ気宇壮大な主張である。鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行後の開國政策によって實現した。

この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。

 

これに対して、孝明天皇は、「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以て慶親へたまひたる」と題されて、

 

「國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ」

 

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかったことを証しする。わが國の主體性を確立したうえでの開國・海外発展・外國との交際を目指してをられたのである。

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千駄木庵日乗一月十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆・原稿執筆など。

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2019年1月13日 (日)

明治維新の素晴らしさ

 

今月七日にも書いたが、ロシア・支那・朝鮮という三つの國の歴史や現実を色々考えてみると、この三つの國は、わが国とは基本的の異なる国柄と歴史を持つであると思う。基本的に、国民の生命・自由民主政治・議会政治・民権・他国との平和的関係というものを全く無視する国であるということだ。

これはこの三つの國の建国以来の長い歴史が生み出した極めて不幸にして悲惨な事実なのである。専制政治、独裁政治しか経験した事がない國である。それは、この三つの國に生まれ生活する国民にとってはきわめて不幸なことであるばかりでなく、近隣国家にとってもきわめて迷惑なことなのである。

わが国は、この三つの國とはまともな外交関係を構築することができない事を正しく認識すべきだ。近代以後の歴史そして現実を見てそれは火を見るよりも明らかなことだ。

つまり、ロシア・支那・朝鮮はまともな国ではないということである。私はそう断定しても間違いではないと思う。否、断定すべきであると思う。

 

同じユーラシア大陸の東に位置する国々でありながら、なぜこのような違いがあるのか。いろいろ考えてみたのだが、ロシアも支那も朝鮮も近代において大変革を経験してゐない国であることに気が付いた。ロシアは帝政打倒のロシア革命を経験し、支那は同じく帝政で党の辛亥革命そして第二次大戦後に共産革命を経験しているけれども、その後、自由民主体制、議会政治体制は全く確立しなかった。そして個人あるいは一党による独裁専制政治が続いてきている。そして民衆の生命も財産もそして政治的自由もまったく蹂躙され続けている。

 

わが国は、明治維新という有史以来未曽有の大変革を断行したが、肇国以来の國體が破壊されることは無かった。國體が破壊されなかったどころか、天皇を君主・祭祀主と仰ぐ君民一体の國體を明らかにすることが、現状の大変革となり、国家の危機を打開した。それが明治維新である。

 

明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』には「(徳川慶喜が提出した『大政奉還の上表文』の勅許により・注)鎌倉幕府以来七百年の伝統的な武門政治の制度は、急流のやうに変革されて行ったがこの間の思想の潮流としていちじるしいことは、『この国際的緊急時に際しては、日本国は天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守らねばならない』との政治思想の原則が、あらゆる政派藩閥の別と対立との上にあって、何人にも抗し難い政治原則として確立されてゐた、といふことである」と論じられてゐる。

 

ロシア革命はロマノフ王朝を打倒し皇帝一族を皆殺しにした。支那革命もまた清朝を廃絶した。朝鮮森長を發絶し、過去と全く断絶した革命を行って伝統を破壊したが、その後もまた独裁専制政治が続いて今日に至ってゐる。

 

わが国の明治維新は、『大日本帝国憲法制定史』に論じられてゐる通り「天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守る」ことができた。明治維新がいかに素晴らしい変革であったかはこの事実によって明らかである。

 

慶応四年(明治元年)三月十四日、明治天皇が、百官・公家・諸侯を率いられて京都御所紫宸殿に出御あらせられ、御自ら天神地祇をお祀りになり、維新の基本方針を天地の神々にお誓ひになった御文である『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐる。

この御文について、「封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものである」といふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統の継承であり回帰である。

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは「身分差別」である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等』が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

 

 

 

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千駄木庵日乗一月十二日

午前は、諸事。室内整理整頓清掃。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。原稿執筆の準備、資料検索整理。

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2019年1月12日 (土)

永遠に護られるべきわが國の國柄とは

柿本人麿は、輕皇子(かるのみこ・後の第四二代・文武天皇)がの安騎野(あきのの・奈良県宇陀郡大宇陀町一帯の山野)へ行幸された時に、

 

 「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと……」(やすらけくたいらけく四方八方を御統治あそばされるわが大君、高く照らすわが日の神の皇子は、神様であるままに、神様らしく振る舞はれるべく……という意)

 

 と歌った。

 

 「やすみしし わが大君」は、萬葉仮名では「八隅知之」と書かれてゐる。「四方八方を知る」といふ意である。「天皇は空間的に日本國の四方八方をしろしめしたまふ」といふことである。或いは、「安見知之」とも書く。これは「やすらけくこれを見、知る」といふ意で、「天皇は空間的にたいらけくやすらけく日本國をしろしめしたまふ」といふことである。

 

 「高照らす 日の皇子」は、「高く照っておられる日の神の皇子」といふ意である。これは、日の神であらせられる天照大神が、生みの御子であられる邇邇藝命を地上に天降らせたまひて天の下を統治せよと御命令になって以来、邇邇藝命の子孫である天皇が日本國を統治されてゐるといふ時間的事実をいった言葉である。

 

 つまり、「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子」といふ対句表現は、現御神として日本國を時間的に空間的に統治される天皇の御本質を、神話的・詩的に美しく表現した言葉なのである。かうした表現は、『日本書紀』の歌謡の中に現れ、『古事記』では景行天皇記の日本武尊の御歌の中に「高光る 日の御子」といふ言葉がある。

 

 天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大神(太陽の神)の御子としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹は太陽神を祭られる<天皇の祭祀>である。

 

 このやうな『古事記』『萬葉集』以来の我が國の精神伝統が、永遠に護られるべき「わが國は天皇を祭祀主と仰ぐ神の國である」とする「國體」「國柄」なのである。

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千駄木庵日乗一月十一日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』次号の編集会議。終了後、出席者と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2019年1月11日 (金)

第91回日本の心を学ぶ会

 

91回日本の心を学ぶ会

 

即位儀礼・皇室祭祀について

 

御譲位と改元が迫ってまいりました。御譲位による皇位継承は約二百年ぶりのことです。政府は、江戸時代に君臨あそばされた第一一九代・光格天皇の譲位式を参考に儀礼の準備を進めているとのことです。

 

即位儀礼のなかで国事行為とされる「即位の礼」に比べると、公的皇室行事とされる「大嘗祭」については、国民にあまり良く知られていないようです。

「即位の礼」「剣璽等継承の儀」によって、皇位は新天皇に継承されます。しかし「大嘗祭」は、皇位継承において「即位の礼」と共にまことに重要な儀式であります。「大嘗祭」とは、新天皇自ら新穀を天神地祇に捧げ、皇祖天照大神の御神霊と一体になられる祭祀であると承ります。まさに天皇という御存在と不可分の祭祀であるといえます。

 

そもそも天皇陛下が行われる祭祀とは統治と一体のものであり、時代の変遷の中でも、天皇が祭祀を通じて御神意をうかがい、国民の意志を神に申し上げ、政治を正しくされてきました。これを「祭政一致」と申し上げます。この「祭政一致」の國體は建国以来今日までゆらぐことはありませんでした。

しかし『現行占領憲法』においては「天皇祭祀・皇室祭祀」は「皇室の私的行事」とされております。「大嘗祭」も公的性格は有するが国事行為ではないというのが政府見解です。しかも、国費を使うことについては「政教分離の規定」に違反するという批判すらあります。

 

そこで今回の勉強会では「即位儀礼」と「皇室祭祀」について考えてみたいと思います。

 

 【日 時】平成31127日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-B

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html 文京区本郷4-15-14/03(3814)6731

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【演 題】大嘗祭と現行占領憲法

 

【講 師】 四宮正貴四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

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今の検察・警察はおかしい

拘置所に冷暖房が無いなんて許されるのか。法務省には人権擁護局というのがあったと思うが何を考えているのか。容疑者或は被疑者は有罪が確定しているわけではない。ヤメ検の弁護士が以前「被疑者の人権何て頭の片隅にも考えたことはなかった」と語っていた。自白しないとずっと留置場や拘置所に拘束するというのは明らかに拷問であり、虐待だ。厚生労働省の村木さんの時は証拠の捏造まで行われた。今の検察・警察はおかしい。

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「天皇を中心とした神の国」が肇国以来のわが國體

 

 「國體」と同じ意義の「国柄」といふ言葉は、萬葉の代表歌人・柿本人麿が文武天皇の大御世(西暦七〇七年頃)に「讃岐の狹岑(さみね)の島に石の中の死(みまか)れる人を視て」詠んだ長歌に使はれてゐる。

 

 それには、「玉藻よし 讃岐の國は 國からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 滿(た)りゆかむ 神の御面(みおも)と 繼ぎ來(きた)る……」と歌はれてゐる。「(玉藻よし・讃岐に掛かる枕詞)讃岐の國は國柄のせいか、見ても飽きることがなく、神のみ心によってか、かくも貴い。天地と日と月と共に完全円満である神の御顔として、太古から傳へてきた……」といふほどの意である。

 

 これはわが國の傳統的な自然観に基づく國土讃歌である。「國からか」は國そのものの性格のせいか、といふ意。「から」は人柄の「柄」と同意義である。「神からか」は、日本の國土は伊耶那岐命と伊耶那美命がお生みになったといふ神話に基づいた表現で、神の御性格のままに、といふ意である。

 

 「神の御面」は、神のお生みになった日本の國土は神のお顔だといふこと。この表現は、「四國は体は一つ、顔は四つ」といふ日本神話の傳承に基づく。『古事記』の「國生み神話」に記されてゐる「次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の國を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の國を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟の國を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左の國を建依別(たけよりわけ)といふ」といふ傳承を歌ってゐる。ここに自然を神として拝ろがむ古代日本人の意識が表白されてゐる。日本人にとって『神代』は遠く遥かな過去の時代のことではなく『今』なのである。

 

 さらに柿本人麿は、輕皇子(かるのみこ・後の第四十二代・文武天皇)が安騎野(あきの・奈良県宇陀郡大宇陀町一帯の山野)へ行幸された時に、

 「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと……」(やすらけくたいらけく四方八方を御統治あそばされるわが大君、高く照らすわが日の神の皇子は、神様であるままに、神様らしく振る舞はれるべく……といふ意)と歌った。

 

 「やすみしし わが大君」は、萬葉仮名では「八隅知之」と書かれてゐる。「四方八方を知る」といふ意である。「天皇は空間的に日本國の四方八方をしろしめしたまふ」といふことである。或いは、「安見知之」とも書く。これは「やすらけくこれを見、知る」といふ意で、「天皇は空間的にたいらけくやすらけく日本國をしろしめしたまふ」といふことである。

 

 「高照らす 日の皇子」は、「高く照ってをられる日の神の皇子」といふ意である。これは、日の神であらせられる天照大神が、生みの御子であられる邇邇藝命を地上に天降らせたまひて天の下を統治せよと御命令になって以来、邇邇藝命の子孫である天皇が日本國を統治されてゐるといふ時間的事実を言った言葉である。

 

 つまり、「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子」といふ対句表現は、現御神として日本國を時間的に空間的に統治される天皇の御本質を、神話的・詩的に美しく表現した言葉なのである。かうした表現は、『日本書紀』の歌謡の中に現れ、『古事記』では景行天皇記の日本武尊の御歌の中に「高光る 日の御子」といふ言葉がある。

 

 天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大神(太陽の神)の御子としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹は<天皇の祭祀>である。記紀に記され萬葉に歌はれてゐる「天皇を中心とした神の国」が日本の「國體」「国柄」なのである。

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千駄木庵日乗一月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2019年1月 9日 (水)

萬邦無比の日本國體

「國體」と言ふ語は、『出雲國國造神賀詞』に「高天(たかま)の神王髙御魂(かむみおやたかみふすび)の命の、皇御孫(すめみま)の命に天の下大八島國を事避(ことよ)さしまつりし時に、出雲の臣らが遠つ神天のほひの命を、國體(くにがた)見に遣はしし時に、天の八重雲をおし分けて、天翔り國翔りて、天の下を見廻りて返事(かへりごと)申したまはく…」と記されてゐるのが、最も古いとされる。

 

「国柄」といふ言葉は、『萬葉集』巻二に「玉もよしさぬきの國は、國がらか、みれどもあかぬ…」とあるのが最も古いかもしれない。

 

日本は、天皇=現御神を祭祀主とする神国であるといふのが我が国の國體精神である。

 

村岡典嗣氏は、「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想史研究・四』)

 

さらに村岡典嗣氏は、「(日本国家の神的起源思想の特色として・注)國家成立の要素たる國土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百萬神はもとより、大八洲の國土そのものまでも、同じ諾冉二神(伊弉諾尊・伊弉冉尊)から生れ出たはらからであるとの考へである」(同書)

 

国家成立の三要素は「領土、国民、主権」とされる。しかし、わが国の場合、「國土・國民・君主(統治者)」である。この三要素が伊耶那岐命・伊耶那美命の「国生み」によって生まれた「はらから」とされる。国土も君主(天照大神)も国民も諾冉二神の「むすび」によって生まれた関係にあるのである。

 

つまりわが国は肇国以来、国土・君主・国民は神において一体の関係であり、決して対立関係にあるのではないのである。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふ。

 

世界各地の神話は、人類最初の男女神は、人間を生んでいる。ところが日本神話では、國を生んでゐる。これが日本神話の特質である。

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千駄木庵日乗一月九日

午前は、諸事。

午後は、今夜行う『萬葉集』講義の準備など。

午後六時半より、豊島区立駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が『萬葉集』巻七作者未詳歌を講義。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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日本國體・國柄について

 

昭和天皇は、終戦時のご心境として、

 

「国がらを ただまもらんと いばら道 すすみゆくともいくさとめけり」

 

と詠ませられた。

 

わが国は、ただ単に領土と国民と主権さへあればいいといふ普通一般の国家ではない。日本独自の国柄即ち、神代以来・建国以来の天皇を中心とする國體が正しく継承されてゐなければならない。「国柄を守る」こと無くして真の日本国の存続はあり得ない。

 

たしかに領土も国民も主権も大切である。しかし、日本のやうに三千年の伝統を有する国は、その長い歴史と伝統と文化の核であるところの国柄・國體というものが破壊されてしまったら、たとへ領土と国民と主権が維持されても、日本は日本でなくなるのである。

 

昭和天皇が「国柄をまもらん」とお歌ひになったのは、このかけがへのない日本国の國體が護持するために、たとへどのような苦難があらうとも茨の道を進んでいくとのご決意を示されたものと拝する。

 

ただ単に、「国柄を守る」「國體護持」とは、ただ単に、「国家体制」「政治体制」を守るといふ事ではない。また、昭和天皇御一身のご安泰を意味するのでは全くない。このことは、「いばら道すすみゆくとも」と歌はれていることで明白である。

 

昭和天皇は、ご自分が戦犯として処罰されても、天皇を君主と仰ぐ肇国以来の国柄・國體が護持されればよい、とのご信念で終戦を決意されたのである。有難き限りである。

 

國體とは、日本國の國柄・國の本質のことを言う。単なる「國家の体制」のことではない。「体制」とは、ものの組み立てられた状態という意であり、単に組織、機構、機関、組織、システムのことである。

 

従って、「國家の体制」とは、無機的な権力機構としての國家組織のあり方即ち統治権力の運用する仕方に関する形式のことである。これは「政体」と表現すべきであって、伝統的な日本國體を「國家の体制」と表現するのは誤りである。

 

日本國の本質は、「祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體」である。天の神、地の神、そして祖霊に対する祭祀がその中核である。日本國は、祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。

 

つまり、日本國體とは、天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体國家であるわが日本國の、永久に変わらざる基本的在り方のことである。 

 

三潴信吾氏は、その論文『國体と政体について』(「皇室大百科」所収)において、「一、祭政一致 二、萬世一系の天皇の統治 三、君民一体」が、わが國柄であって、日の本つ國として日の本つ道を祖先代々、皇室を知友しんとして、実践し、家つくり、國つくり、生成、化育、創造を行ふことが國史の真髄とされた」と論じられた。

 

日本國體とは、 日本國體は、[①祭政一致。②萬世一系の天皇の統治、③君民一体]の三つがその柱である。ただしこの三つは独立しているのではなく、一体となりて、天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家日本国の基本を成しているのである。

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千駄木庵日乗一月八日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、書状執筆、原稿執筆、明日開かれる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

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2019年1月 8日 (火)

「即位の大礼」「大嘗祭」は、「天孫降臨」の繰り返しであり再現である

 

 そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しである。天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん實らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になる。邇邇藝命は、その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具で、おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)のやうなものである。

 

日嗣の皇子の御魂と天照大神と神霊と稲穂の霊と一體となり、日嗣の皇子が日の御子(現御神)としての神聖性を開顕される祭祀である大嘗祭においても、天皇は真床追衾に包まれるといふ。大嘗祭によって新しい天皇が、先の天皇と同じやうに神と一體となられるのである。

 

つまり御歴代の天皇は、御肉體は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事實の繰り返しであり、御歴代の天皇が天照大神の御神霊と一體になられるおまつりであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。大嘗祭は、この人麿の長歌が歌はれた持統天皇の御代から行はれるやうになったと承る。

 

 日本は、現御神日本天皇を祭祀主と仰ぎ、天地の神々が生き給ふ國である。それは、わが國の歴史を見れば、否定することは全く不可能な事實であり、建國以来のわが國體である。

 

 日本の傳統精神・國家観・人間観を隠蔽してゐる元凶は「現行占領憲法」である。憲法は國家あっての憲法であり、國家目標・國家理念をまず明らかにして、憲法を制定すべきである。つまり國家存立の基礎を正しく憲法に規定すべきである。

 

 わが國の悠久の歴史そして肇国以来の國體に、憲法の条文なり思想が合致してゐなければならない。國家存立の根本である「天皇中心の日本國體」を正しく顕現するために、「現行占領憲法」を全面的に否定することがが最も大切なのである。

 

 終戦直後、國際法の禁を破って押し付けられた「現行占領憲法」を全面否定し、わが國の國體精神に立脚した憲法を回復しなければならない。それが、独立國家としても、憲政のあり方としても、至極当然な道理である。

 

今日の多くの政治家や憲法學者やマスコミは、相変らず外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」をとり、わが國の國家傳統の破壊、してゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

「即位の大礼」そして「大嘗祭」は、前述した如く、「天孫降臨」の繰り返しであり再現である。即位された天皇が、御自ら新穀を捧げて皇祖・天照大御神を祭られ、共に新穀を食され、天照大神の御神霊とご一體になられる祭祀が「大嘗祭」である。お仕へする群臣もまた神代・高天原の神々の子孫である。時間と歴史を超越して天照大神が今此処にゐますごとくに観ずるのである。

會澤正志斎は、『草偃和言』(そうえんわげん)といふ著書で「日嗣の君は、日神の遺體にましまして今も天神に事へ給ふ事在すが如く、氏々の人は皆諸神の子孫にして其遠祖の人々古日神に事へ奉りし時にかはらず、千萬世の後までも天上の儀を傳へて神代の遺風を其まゝに行はれ、今の世も神の世に異なる事なきは、他邦異域に絶てなき事なれば神國と申すなり」と論じてゐる。今即神代、天皇即神といふ篤い信仰精神が語られてゐる。

天照大神と天皇はご一體であり、天皇は天照大御神のご遺體(神が遺してくれた體といふ意)である。天照大御神と天皇とは時間と歴史を超えて一體であるといふ信仰である。天皇に仕へる臣下國民もまた、天の神々の子孫である。まさに、歴史と時間を貫いて今此処が神代であり、高天原なのである。高天原を地上に持ち来すことが國體の明徴化なのである。今即神代、天皇即神であられるからこそ、日本に革命も皇統の断絶も無いのである。

天皇を君主と仰ぐ日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで生きてゐる。ところが、古代オリエントや古代支那などにおいては、祭祀を中心とする共同體は武力征服王朝によって破壊されてしまった。そして古代民族信仰・祭祀宗教は無くなり、太古の王家も古代國家も姿を消した。その後に現れた支配者は武力による征服者であり、國家は権力國家であった。

それに比してわが日本は、神話の世界が今日唯今現實に生きてゐる國である。すなはち、わが日本は、古代祭祀宗教の祭祀主たる神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現實の君主と仰ぎ、國家と民族の中心者として仰いでゐる殆ど世界唯一の國である。わが國は太古以来の祭祀主を君主と仰ぐ共同體國家が破壊されることなく今日まで続いて来てゐる。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふのである。

それは、會澤正志斎が『新論』において、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。」と説き、北畠親房が『神皇正統記』において、「大日本者神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。」と説いてゐる通りである。まことに有難き事實である。

日本がその長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。

日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。天皇國日本を愛し守護する心を養ふことこそが日本國永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。現實政治の浄化も、維新も、神代・天孫降臨への回帰によって實現する。それが神政復古である。

歴史は繰り返すといふが、今日の日本も幕末当時と同じやうに、内憂外患交々来るといった状況になってゐる。今日の危機的状況を打開するためには、「水戸學」をはじめとする明治維新の精神に回帰し、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」を基本理念とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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千駄木庵日乗一月七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、無理をしないように、資料の整理、原稿の執筆などをして過ごす。

多くの方々から年賀状をいただきましたが、昨年末に入院いたしましたため、小生から年賀状をお出しすることができませんでした。まことに申し訳ございませんでした。深くお詫び申し上げます。

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2019年1月 7日 (月)

ロシア・支那・朝鮮はまともな国ではない

ロシア・支那・朝鮮という三つの國の歴史や現実を色々考えてみると、この三つの國は、わが国とは基本的の異なる国柄と歴史を持つであると思う。基本的に、国民の生命・自由民主政治・議会政治・民権・他国との平和的関係というものを全く無視する国であるということだ。

 

これはこの三つの國の建国以来の長い歴史が生み出した極めて不幸にして悲惨な事実なのである。専制政治、独裁政治しか経験した事がない國である。それは、この三つの國に生まれ生活する国民にとってはきわめて不幸なことであるばかりでなく、近隣国家にとってもきわめて迷惑なことなのである。

 

わが国は、この三つの國とはまともな外交関係を構築することができない事を正しく認識すべきだ。近代以後の歴史そして現実を見てそれは火を見るよりも明らかなことだ。

 

つまり、ロシア・支那・朝鮮はまともな国ではないということである。私はそう断定しても間違いではないと思う。否、断定すべきであると思う。

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日本国はまさに今に生きる祭祀共同体である

 

 

古代より日本は言葉の真の意味における平和な国である。伊勢皇大神宮の祭祀とたたずまひほど平和で清らかなものは無い。伊勢皇大神宮に限らない、全国各地の神社・神宮は本来清浄であり、穏やかであり、美しい。

 

日本各地に神社があり、国全体の祭祀主として、天皇がおはします。神社が無い共同体は殆どない。神社が共同体村落の精神的中心である。五穀の豊穣と民の幸福といふ共同体共通の祈りが捧げられ、願ひが訴へられる場が神社である。神社とは、常に村全体、共同体全体の神が祀られてゐる社(やしろ)である。そしてその神社に祀られてゐる神を「氏神」と申し上げ、その神社を崇敬する人々は「氏子」と呼ばれる。それぞれの共同体において日本の神々は「親」と仰がれ、国民は「子」として慈しまれるのである。日本国はまさに祭祀共同体である。

 

小生が居住する東京下町の文京区千駄木(旧町名・本郷区駒込坂下町)の周辺には古くからの神社があり、初夏から秋にかけて祭りが行はれる。わが家は、千駄木の隣町・根津に鎮座する根津神社の氏子である。根津神社の御祭神は須佐之男命で、景行天皇の御代、日本武尊が御東征の折、千駄木の地に須佐之男命を追慕して創始したと伝えへられる。文明年間(一四六九~八七)大田道灌で社殿を奉建した。徳川五代将軍徳川綱吉が宝永三年(一七〇六)、根津の地に社殿を造営した。明治維新後、明治天皇により、勅裁社に准じられた。大東亜太平洋戦争で被災せず、徳川綱吉が造営した時の建造物が現存しており、建造物は国指定重要文化財となってゐる。

 

わが町周辺は日本武尊の遺跡が多い。近くの湯島には日本武尊と弟橘姫を祀った妻恋神社がある。駒込といふ地名も日本武尊が辺りを見渡して「駒込み(混み)たり」と言ったことに由来すると伝へられる。馬がたくさん生息してゐたといふ地名伝説である。

 

南側の隣町・湯島には、湯島神社が鎮座する。御祭神は、天手力雄命・菅原道真公。雄略天皇二年(四五六)一月、勅命により創建されたと伝へられる。

 

北側の隣町・本駒込には、天祖神社が鎮座する。小生が通った中学校の隣にある神社で、御祭神は天照大御神。文治五年(一一八九)五月、源頼朝が奥州藤原泰衡追討に赴く途次、靈夢により創建したと伝へられる。

 

本駒込には、さらに富士神社が鎮座する。御祭神は、木花咲耶姫命。加賀前田藩邸(今日の東京大学)に祀られていたが、寛永五年(一六二八)の現在地に遷座した。霊峰富士への山岳信仰の神社である。

 

東側の隣町・日暮里には、諏方神社が鎮座する。この神社はどういふわけが「諏訪」とは表記しないで「諏方」と表記する。御祭神は、建御名方命。元久二年(一二〇二)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したと伝えられる。日暮里・谷中総鎮守と言はれる。

 

このやうに、わが家近くの神社には、皇祖天照大御神、須佐之男命、天手力雄命、木花咲耶姫命、建御名方命、日本武尊、菅原道真公などの神々が祀られてゐるのである。そしてこれらの神社を中心として共同体が今も生き続けてゐる。有難き限りである。

 

わが国は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体が今日においても脈々と伝へられてゐる、といふよりも現実に生きてゐるところにわが日本国の素晴らしさがある。古代オリエント、古代支那、古代インドは、征服されて祭祀共同体は破壊され、そこに生きてゐた人々は個別化された。

 

わが国は、地域のみではなく、企業においても神社あるいは祠を立てて神を祭ってゐる。さうした神々は「企業神」と言はれる。企業神は無機質な利益追求の機能集団である企業に倫理的精神的結合を与へてゐる。

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千駄木庵日乗一月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理。原稿執筆など。

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2019年1月 6日 (日)

ペリーの開國要求に屈した徳川幕府はその正統性が根底から崩れはじめた

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。

同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。

 

梁川星厳は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「當年乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、徳川氏の祖先の家康の意気は、勢いを盛んにして、人を凌いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日、外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

梁川星厳は江戸末期の漢詩人。寛政元年六月十八日(一七八九年七月十日)―安政五年九月二日(一八五八年十月八日))。美濃國安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。

 

江戸に出て、夫人で星巌と同じく詩人であった紅蘭と共に、神田お玉が池で「玉池吟社」といふ塾を開き、漢詩の講義のみならず國事に関する講義を行った。

梁川星厳は、天保八年(一八三七)、大阪で、幕府の政治を糺さんと蹶起した大塩平八郎に共感した。さらに、一八三九年、清朝が阿片戦争に敗れ、多額の賠償金を払はされるのみならず、香港の割譲までしたことを知った星厳は、大きな衝撃を受けた。

 

星巌は、五十歳を過ぎて憂國の情愈々熾烈となり、京の都に移り住み、鴨川のほとり居を構へ、京都における尊皇攘夷運動の中心人物となった。

 

徳富蘇峰氏は「(注・ペリー来航は)日本國民に向かって、一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるに足らざることの不言の教訓を、実物を以て示した…これがために二百五十年間全く冬眠状態であった京都の眠りを覚まし、たとえて言えば従来神殿に鎮座ましましたるものが、現つ神の本面目に立ち還り、ここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じてゐる」(『明治三傑』)と論じてゐる。徳富蘇峰氏の「現つ神の本面目に立ち還り」といふ指摘は重要である。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

征夷大将軍の「征夷」とは、「夷を征討する」の意である。源頼朝が政権を掌握して、朝廷より「征夷大将軍」に任ぜられ、建久三年(一一九二)七月、鎌倉に幕府を開いた。それ以来、いはゆる「兵馬の権」握るものを表す名として「征夷大将軍」の名が用いられるようになった。

 

江戸時代に於いて「征夷大将軍」は、実質的に天下の覇者であり、支配者であったが、天皇との関係に於いては、君臣関係であった。

 

江戸時代初期の陽明学者・熊沢蕃山はその著『三輪物語』(巻七)において、禰宜からの「他の國には、誰にても、天下を取る人が王と成り給ふに、日本にては、かく天子の御筋一統にして、天下を知り給ふ人も臣と称し、将軍といひて、天下の権を取り給ふは、如何なる故にておはしますや」との質問に対して、公達をして、「天照皇神武の御徳により、人々心に神明あることを知りて、礼儀の風俗起れり、此の厚恩は天よりも高く、海よりも深し、……此の國のあらんかぎりは、天照皇の御子孫を國の王とあふぎ奉り、居べからざるを道理の至極とす」と答へさせてゐる。

 

また、慶応元年六月二十九日の「ジャパン・ヘラルド」(文久元年【一八六一】に、横浜で最初に発行された週刊新聞)には「古来大君(注・征夷大将軍の事)を日本全國一統の君主と思ひしは誤りにして、日本全國の大権は御門(注・天皇の御事)に在り、而して大君は日本の守護を承る大将軍なり。…(注・大君は)御門より官位を受け、且國政の大任を託せられてこれを子孫に伝へたる者にして、全く独立の君主とは謂ふべからず、然れども大君を以て全く日本の君といふも不可なる言無し、諸大名悉く大君の命令に従ふ…」と書いてゐる。(石井良助氏著『天皇の生成および不親政の伝統』参照)

 

「征夷大将軍」の「夷」とは、第一義的には外敵のことである。征夷大将軍の最も重要な使命・責任を果たせくなってゐることがペリー来航によって明らかとなった。つまり、「日本の守護を承る大将軍」たるの資格を喪失し始めたのである。

 

「御家門筆頭」とされる越前福井藩主・松平慶永ですら、ペリーの開國要求に屈した幕府に対し「征夷大将軍の御重任は御名のみにて、上は天朝御代々、神祖(注・家康のこと)御始御歴世様方え対され、下は諸大名萬民迄えも、御信義地を払い云々」(『安政元年二月三十日、阿部正弘宛建白書』)と批判した。まさに徳川幕府の正統性が根底から崩れ始めたのである。

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千駄木庵日乗一月五日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料整理、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2019年1月 4日 (金)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 一月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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明治維新=尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論

 

第百二十一代・孝明天皇は、安政五年(一八五八)の『日米通商条約』締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米國条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなり」と深く幕府の専断を嘆かせたまひ、同年六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、実に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

 

あぢきなや またあぢきなや 蘆原の たのむにかひなき武蔵野の原

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

「征夷」の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

 

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の実質的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、國の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや」(『文久元年九月政権恢復秘策』)と論じた。

 

「徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し、征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神國日本を傷つけることもない。さうであれば大変に功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思はず、恭しく慎み深きする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、國が辱めを受けることを世界に示し、日本國始まって以来無かったような傷を神國日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない」といふ意である。

 

これは、徳川幕府が、朝廷を軽視して来た上に、肝心要の外敵を征伐するという「征夷大将軍」の使命を果たすことができない罪を追及した激烈な文章である。まさに、幕府の最大の罪を追及したのである。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐるのである。

 

幕末の國家的危機において、日本國民は、皇祖天照大神に國難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、國難を打開し、明治維新を断行した。

 

全國民が真に日本民族としての運命共同意識を強く保持し燃え立たせ得る精神的な基盤に依拠しなければならない。

 

さうした精神的基盤は、神代以来の神聖権威の体現者・保持者であらせられる日本天皇への尊崇の念即ち尊皇精神であらねばならない。

 

梁川星厳は、尊皇攘夷思想の志士たちと交流を深め、鴨川のほとりの「鴨沂(おうき)小隠」と名付けられた梁川星厳の家には、佐久間象山・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜・吉田松陰・宮部鼎蔵が訪れた。また、反幕府の廷臣たちとも交流した。

 

安政五年の井伊直弼の「違勅調印」に憤った越前、水戸、薩摩の尊皇の志士は、活発な反幕閣・井伊排撃運動を展開した。彼等は公卿と結び、朝廷の威光によって形成を挽回しようとした。その運動に京の都において協力した人物たちが、井伊派から「悪謀の四天王」と言はれた池内大学、梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星厳の四人であった。近衛忠熙、三条實萬などを動かして、水戸藩に密勅を下し、幕府の罪を責めるといふ方針のもとに一致協力した。

 

井伊直弼の配下、長野主膳は、水戸藩への降勅の実現に大きく貢献したのが梅田雲浜と梁川星厳であるとして、この二人を捕縛せんとした。雲浜は捕縛されたが、星厳は捕縛直前にコレラに罹り病死した。

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千駄木庵日乗一月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。

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君民一体とは

 

 

祭祀國家日本の祭り主である日本天皇は、常に國民の幸福を祈る祭り主なのであるから、國民と相対立する存在ではないし、日本天皇は國民を力によって支配し隷従せしめる存在ではない。

 

國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。

つまり君主と民は「和」と「共同」の関係にあるのであり、「対立関係」ではない。こうした天皇中心の日本の國柄を「君民一體の日本國體」と言う。

 

そして今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現実の國家君主と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限り続くであろう。こうした事実が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。日本國體が「万邦無比」と言われる所以である。

 

日本國家の神話的起源思想の特色は、國家成立の三要素たる君主、國土、人民が、神霊的・血統的に一体であるところにある。即ち「皇祖神たる天照大神」と「國土」と「國民の祖たる八百万神」が、伊耶那岐命・伊耶那美命から生れでた「はらから」といふ精神にある。

 

『古事記』の「國生み神話」には次のやうに語られてゐる。伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞(ふた)ぎて、國土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

 

伊耶那岐命が「國土(くに)を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。

 

日本神話の神は、単に天地の万物を創造したのではない。日本國土をお生みになった。これは日本神話の特色である。

 

日本國土のみならず皇祖神たる天照大神、そして我々日本國民祖先である八百万の神も、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

つまり、國土自然の神々、日本國の君主であらせられる天皇の祖先神たる天照大神も、日本國民の祖たる八百萬の神々と同じく伊耶那伎大神から生まれたのである。

 

日本神話では、君主・國・國民は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、同じ神から生まれ、生命的・霊的に「はらから」の関係にある。

 

ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地と人間を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

 

この神話は、日本國においては、君主と國民と國とは対立関係にあるのではなく、同じ神から生まれた「はらから」の関係にあることを示している。

 

國家成立の三要素たる國土・君主・國民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。

 

天皇と國民と國土は霊的・魂的に一体の関係にある。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の國柄」と言う。

 

愛国運動・維新運動とは、日本國體の本姿・真姿を隠蔽するあらゆる事象、罪穢れを祓い清め、日本の國體の正しい姿を回復することが最大・最高の目的なのである。

 

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2019年1月 3日 (木)

千駄木庵日乗一月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、書状執筆。

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萬世一系とは

萬世一系とは

 

『天壤無窮の神勅』には日本國體が端的に示されている。

 里見岸雄氏は、その著『萬世一系の天皇』において、「帝国憲法の第一条は『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』といふ極めて荘重な文章であったが、これにより、萬世一系の天皇といふ語は法上の語なったばかりか、広く人口に膾炙するに至った。その意味は、皇祖皇宗から万代の将来に至る迄天壌無窮の神勅の通り天照大神正統の御子孫の一系であるといふことにほかならない。つまり皇胤の純粋とその永続を萬世一池と言ったのである」と論じている。

 

 「天壤無窮」とは、「天地と共に窮(きわ)まりが無く永遠である」という意味である。太陽神であり皇室の祖先神である天照大神の御孫であられる邇邇藝命が地上に天降られる時に、天照大神が邇邇藝命に与えられた<神勅>のひとつである『天壤無窮の神勅』にある聖句である。「壤」とは「土」のことである。

 

 『天壤無窮の神勅』には次のように示されている。

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」。

 

 これを現代國語に訳すと、「豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう」というほどの意である。  

 

 この『天壤無窮の神勅』には、「日本國は天皇が永遠に統治する國である」という日本國體が端的に表現されている。

 

 「吾が子孫(うみのこ)」とは、邇邇藝命をはじめ神武天皇そして今上天皇に至るまでの御歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」であり、御歴代の天皇は天照大神の御神霊と一體であり、同一神格であり、邇邇藝命も神武天皇も御歴代の天皇も今上天皇も、天照大神と同じ関係であるということである。ゆえに天皇を皇御孫尊(すめみまのみこと)と申し上げるのである。今上天皇は、邇邇藝命・神武天皇と不二一體なのである。天皇が現御神・現人神であらせられるとはこういう意味である。 

 

 「爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)」は、天照大神の生みの子よ、日本國を統べ治めよ、つつがなくあれ、という御命令である。 

 

「治(し)らす」とは、「知る」の尊敬語の「知らす」と同じで、「知る」という動詞に尊敬の意を表す「す」のついた語である。天の下を御統治されるという意味である。

 

なぜ「知る」という言葉が「統治」を意味するようになったのか。それは祭り主たる天皇は、神の意志を知ることを根本にして國家を統治されるからである。神の意志を君主がよくお知りになることが國家國民を統治することの基本なのである。

 

天皇が神をお祭りになられて、神の御心をお知りになり、臣下は天皇がお知りになった神の御心に基づきそれを実現するために実際の政治を行うというのがわが國の古来の「まつりごと」のあり方である。これを「祭政一致」という。

 

御歴代の天皇は神のご意志をよくお知りになって神の意志を実現させることを使命とされる。

 

 「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむ」とは、「皇位が栄える」(寶祚とは天皇の御位のことである)ということである。「あまつひつぎ」とは、政治権力者の地位ということでは全くない。

 

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある通り、「寶祚」は「天津日繼ぎ」あるいは「天津日嗣」と書く。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」という意味である。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるので、皇位のことを「天津日繼ぎの高御座」というのである。「高御座」とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所という意味である。

 

 皇位の繼承は日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 天地が永遠であるように天皇の日本國御統治も永遠であると、天照大神は宣言されているのである。これが「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」の意味である。

 

このように『天壤無窮の御神勅』は、天照大神の神靈をそのまま受け継がれた「天照大御神の生みの子」たる邇邇藝命及びその御子孫即ち萬世一系の天皇が永遠に統治される國が日本であるということを端的に表現しているのである。

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千駄木庵日乗一月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆のための資料整理、検索、原稿執筆。

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2019年1月 2日 (水)

昭和天皇御製に拝する「現御神信仰」

 

報道によると、先帝・昭和天皇が晩年、御製を推敲あそばされた際、お使いになったとみられる原稿が発見されたという。

 

御歌集『おほうなばら』に収められた

 

御題

秋なかば国のつとめを東宮にゆづりてからだやすめけるかな

 

との御製の推敲前の御歌は

 

秋されば國の務を日のみこにゆづりてからたやすめけるかな

 

であったという。

「日のみこ」が「東宮」に変ったのであるが、「東宮」とは皇宮から見て東方に位置する宮であり、東は「五行説」で春に相当するため春宮(とうぐう/はるのみや)とも記され、では長子を意味する震卦にあたることから、皇太子の居所とされた東は、四季の春に配されて万物生成の意をもち、また易では長男を表す震にあたり、宮殿が皇居の東にあったところから、皇太子のお住まひになる宮殿を「東宮」と申し上げ、 皇太子の御事も「東宮」と申し上げるようになったと承る。

 

東は太陽・日の神の昇って来る方角である。「東宮」と書いて「日嗣の御子」とも申し上げると言う。

 

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契りむすぶこの朝

 

と詠ませられてゐる。

 

「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」と同じ意義である。この御製は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強いによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。 

昭和天皇におかせられては、天皇及び皇太子は「天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚はいささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌には「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この歌は、古代日本人の現御神日本天皇仰慕の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐる。

 

歴代天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。  

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平成三十一年元旦

午前は、諸事。

午後は、根津神社に参拝。

帰宅後は、書状執筆・原稿執筆など。

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2019年1月 1日 (火)

新しき年を迎えて

皆さま新年あけましておめでとうございます。

 

十代の頃から天長節皇居参賀・新年皇居参賀をさせて頂いている。一回も欠かしたことはない。しかし、昨年末の天長節と今年の新年は皇居に参賀することができない。まことに残念だし。申し訳ない。

 

 

天長の佳節なるに参賀にも行けずに一人病室に伏す

今上陛下最後の天長の佳節なれど我は一人で病室に伏す

天長の佳節の空を仰ぎつつ皇国日本の彌榮を祈る

天津日子の天降りませる日の本は永久に滅びることなきを信ず

昨年末に詠んだ拙歌である。

 

 

『萬葉集』は神話の時代来の「日本の中核的な傳統精神」をうたいあげた真の意味の「古典」であり國家変革・激動・外患の危機の時代の歌集である。

『萬葉集』は、大化改新・壬申の乱・白村江(はくすきのえ)の戦ひ(唐新羅連合軍と日本百済連合軍の戦ひ)の敗北という國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集である。『萬葉集』が生まれた時代は、明治維新の時期とよく似ている時代であり、今日の日本の状況ともよく似ていた時代であった。

 

『萬葉集』の時代は、わが國が外国の思想・文化・政治制度・法制度を受容した時代であった。わが國が異質の文化(特に仏教・儒教という精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対峙するためにわが國傳統的精神文化が興起した結晶が『萬葉集』である。 

変革の意志のないところに価値のある文藝は生まれない。『萬葉集』は復古即革新=日本的変革の歌集である。古代日本の律令體制下において、文化革新・文化維新を希求した歌集である。現代においてもそのような文化維新が望まれる。

 

わが國は白村江の戦い・元寇・明治維新・大東亜戦争など、國家的危機の時に、ナショナリズムが燃え上がった。そしてそれ一體ものとして「まごころを歌ひあげる言の葉」としての和歌が勃興する。それが『萬葉集』であり、幕末維新の志士の歌であり、大東亜戦争で散華した英靈たちの歌である。

『萬葉集』は、決して平和安穏の世の文藝ではない。内憂外患交々来るといった國難状況の時に生まれた歌集である。それは明治天皇が

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

 

と歌われている通りである。

今日の日本も萬葉時代と同じようにわが國には朝鮮半島及び支那大陸からの外患が迫って来ている。精神的・経済的・政治的・軍事的苦悩を強いられてゐる現代においてこそ、また自然災害の危機がいつ訪れるか分からない今こそ、『萬葉集』の精神の復興が大事である。『萬葉集』に歌われた精神の回復によって現代の危機を乗り越えなければならない。混迷の極にある現代においてこそ『萬葉集』の精神へ回帰するべきである。

 

『萬葉集』の掉尾を飾るに相応しいうたが、大伴家持の日本讃歌である。

 大伴家持は、日本の國の國柄の素晴らしさを後世に伝へなければいけないといふ使命感を持って、『萬葉集』の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだ。

 

三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、國郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首

 

新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)」

 

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝ひの歌)で、『萬葉集』最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱ふ役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与えた時に詠んだ歌である。

 

「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。通釈は、「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるように良きことが積もれよ」という意。

 

元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといわれるていた。しんしんと雪が降り積もるようにめでたきことも重なれよという願いを歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる『萬葉集』の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

「言事不二」といふ言葉がある。「言葉と事實と一致する、言葉と事實は二つではない一つである」「言葉に出したことは實現する」といふ意味である。

家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事實として實現すると信じたのである。

 

『萬葉集』の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにしたのは、國が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、否、だからこそ、天皇國日本の國の伝統を愛し讃へその永遠の栄えと安泰を祈る心の表白であらう。

 

『萬葉集』編者(家持自身とする説が有力である)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、『萬葉集』を萬世の後まで伝へやうとする志を込めたといはれてゐる。ともかくこの歌は、わが國の数多い和歌の中でもとりわけ尊くも意義深い歌である。

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この頃詠みし歌

 

 

大嘗祭を身の丈に合はすとはいかなることかと繰り返し思ふ

 

天国は大空の上にあると仰ぎ見る時にわが心明るくなりぬ

 

邪魔者を皆なぶり殺しにせし毛沢東の写真をいまだに飾りゐる支那

 

大君を批判する輩よ お前は一体どれほど偉いのかと怒鳴りつけたし

 

呑む所はいくらでもある千駄木湯島根津の町々

 

何年も病床に伏して苦しむより一瞬にしてこの世を去らん

 

日常から非日常へと飛翔するごとき思ひで入院をする

 

つひに行く道となるかならぬかは医師の判断にゆだねるほかなし

 

人は皆死に行くものをわれ一人それは無いなどといふことは無し

 

こんなに早く命の危機が来たるとは夢にも思はず過ごし来しかな

 

幾千年夜空に浮かび地を照らす月讀命の美しき姿

 

自らの不摂生の果てとあきらめて自らを裁くが如く医者の話を聞けり

 

家族と友の篤き情に支へられこの病室に一人過ごすも

 

生きることに執着は無しと思へども明日は手術と聞けば恐ろし

 

天長の佳節なるに参賀にも行けずに一人病室に伏す

 

今上陛下最後の天長の佳節なれど我は一人で病室に伏す

 

天長の佳節の空を仰ぎつつ皇国日本の彌榮を祈る

 

天津日子の天降りませる日の本は永久に滅びることなきを信ず

 

天地自然のあまりにも美しき日の本に生まれし幸をかみしめてゐる

 

天津日の強き光を拝みつつわが身体の健康を祈る

 

午前七時わが病室に朝日影が強く射し来ることの嬉しさ

 

我が病室に射し込み来たる朝日影に手を合はせることが毎朝の習ひ

 

わが体内の奥深くにカテーテル入り来たれども何の痛痒も感じることなし

 

医学の進歩の目覚ましさを実感す 心臓病の治療を受けし今年後半

 

怒りの感情が心臓に悪き事をしみじみと知る今年後半

 

この小さき肉体をまとひ生きて来てその血液ポンプが傷みけるかな

 

夕暮の根津のみやしろに参り来てこの一年のご加護に感謝す

 

狭量なのか偏屈なのか毎日を怒りの絶えぬ我の悲しさ

 

注射針と点滴の針を刺されたる我が両の腕を労はりてをり

 

友どちが我を励ましくれることまことにまことに嬉しかりけり

 

同志二人が病室に来たり我を励ましてくれることの嬉しさ

 

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