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2018年12月13日 (木)

徳川幕府による朝廷圧迫について

第 一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

 

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

 

後水尾天皇は、

「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

 

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

 

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

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