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2018年12月31日 (月)

千駄木庵日乗十二月三十一日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、新年を迎える準備、原稿執筆など。

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祭政一致について

祭政一致について

 

 最近の日本は誤れる「民主主義思想・人権思想」によって人と國家の神聖性・道義性を隠蔽してきた。人間の尊厳性はその人間の生活する國家の尊厳性と不離一体の関係にある。國家をあしざまに罵り続け、国家の尊厳性・天皇の神聖性を隠蔽し、自分さえ良ければいいという観念が横溢したところに、今日の日本の頽廃と混迷の根本原因があると考える。 

 

日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

 

わが國古代においては、祭祀と政治は一體であった。だから祭祀も政治も「まつりごと」と言う。祭祀とは、五穀の豊饒と國民の幸福を神に祈る行事である。政治とは、規則と制度と行政によって國民の幸福を実現することである。祭祀と政治は本来その目的は一つである。これを「祭政一致」というのである。

 

「祭祀」が「政治」と一體であるのは古代からの伝統である。祭祀によって國家國民の平和と繁栄を祈ることと、具體的な施策や制度(すなわち政治)によって國家國民の平和と繁栄を実現することとは、分かち難く一體であった。

 

祭祀とは、己をむなしくして神に仕えまつる行事である。ゆえに、日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方であり、民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。天皇は神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方である。だから民から天皇を仰ぐ時には、この世に生きたもう神すなわち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが祭政一致であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、覇者同士による多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位におられ続けた。

 

武力によるいかなる覇者も、天皇の「親任」を得ることによってその地位の正統性を得ることができた。いかなる覇者も、天皇を廃して自らが日本國の最高君主になることはできなかった。徳川幕藩體制下では、行政権・司法権ともに幕府が掌握していたが、祭祀を根本にした日本國の君主すなわち最高の統治者としての権威は天皇にあった。

 

これは現代においても同じである。今日の日本の政治制度も、國会において多数を制した勢力の長が与党として内閣を組織するが、彼らは天皇の「親任」を得ることによってはじめて「内閣総理大臣」以下大臣としての地位につき國務を執行することができるのである。そして日本の政治のみならず、国家全体の安定性が確保されるのである。 

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2018年12月30日 (日)

千駄木庵日乗十二月三十日

午前は、諸事。

午後は、正月の準備、神棚及び仏壇清掃。

この後、根津神社に参拝。ご加護に感謝の祈りを捧げる。

帰宅後は、書状執筆・原稿執筆など。

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韓国とまともな外交関係を確立することはできない

 

韓国とまともな外交関係を確立することはできないと考える。

 

事大主義(じだいしゅぎ・小が大に事(つか)えること)が韓国の歴史的外交姿勢である。強い方に着く。近代以後では、支那・ロシア・日本・アメリカそして今は支那に事えた。

 

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、大陸の中原を制した国家に対して事大してきた。朴正煕は「自律精神の欠如」としてこれを批判していたがその娘は確実に継承した。

 

漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた迎恩門とは、支那皇帝の臣下であり、冊封国であった李氏朝鮮の歴代の王が、明代および清代の支那皇帝の使者を迎えるための門である。迎恩門とは恩のある支那皇帝の使いが通る門という意である。

 

崔基鎬氏によると、迎恩門は朝鮮国王が三跪九叩頭の礼によって明代および清代の支那からの使者を迎えた場所であるという。

 

その迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は、清の使節団が滞在する建物である。慕華館とは字面を見ても明らかだが『中華を慕う館』という意である。かくの如く李氏朝鮮は、支那の属国であった。

 

それだけ、支那に追従してきた韓国は血縁集団の集合体である。宗族というのは男子単系血族で構成される同姓血縁集団である。

 

全州李氏・慶州金氏とかいう氏がある。この相続が男系の子孫を確保するために他の異姓の血縁集団と婚姻関係を結ぶ。しかし、女性は婚姻によって他家に移っても、宗族の系図(族譜)に名が記されることがない。女性は男子単系血族の子孫を生む<道具>に過ぎない。従って、父系祖先の祭祀には通常、女性は参加できない。いわんや祭祀主になることはできない。かかる風習というか悪弊は、支那の儒教思想と同じである。

 

支那韓国の最高の徳目は「孝」である。そして儒教の「孝」とは単に両親を大切にすることではなく、両親と祖先への孝であり、家系を継ぐべき男子を生むことが大切である。

 

日本人が「忠」を大切にするのは非血族を含む「家」の存続を大切にするからだと呉善花氏は言う。

 

韓国民の反日感情は、これからますますひどくなるであろう。なぜなら日本を強国ではないと甘く見てゐるからである。

 

日本と韓国は、文化的・宗教的相違点の典型は、キリスト教に対する態度である。儒教・仏教の受容の態度も異なる。

 

日本はキリスト教を全面的に受け入れなかったが、韓国は受け入れている。キリスト教徒が多い。しかもオカルト的なキリスト教が多い。

 

多神教、自然を神として拝み、八百万の神を拝むため、一神教が浸透しなかった日本と、一神教を信ずる人が多い韓国とは基本的に信仰精神・文化感覚が異なると思う。日本は包摂・包容の文化であり、韓国は排他・独善の文化である。

 

呉善花さんは、「韓国には日本の神社や神道というクッション(媒介)がないため、日本のように、多神教の持つエネルギーを現代市民社会のより高度な発展へと向かう力に変えることができていない」「韓国の多神教の伝統は、日本のようにクッションを通して市民社会の無意識層に浸透しているものではなく、市民社会とは別個に、田舎、あるいは前近代的な場においてだけ、各地に細々と生きているにすぎない。この点日本と大きく事情が異なっている。韓国は儒教、キリスト教という外来の器に自前のシャーマニズムを流し込んでゆくが、日本は神道という自前の器に外来の宗教を受け入れ飲み込んでしまうのである」と述べている。(『續スカートの風』)

 

さらに呉善花さんは、「日本語の文字には漢字、カタカナ、ひらがながあって、どんな外国語の受け入れにも対応できるようになっている。受け入れを身上とする日本文化ならではのものと言えるだろう。漢字で中国大陸から入った文化用語や形式的な言葉に対応させる。またカタカナで主に欧米からの外来語に対応させる。そして、平仮名によって固有語をそのまま残すことができる」と論じてゐる。(『續スカートの風』)

 

儒教は、「怪力乱神を語らず」という思想があるが、韓国にシャーマニズムが残っており大いに怪力乱神を語り信じてゐる。

 

最近の日本に「ヘイトスピーチ」「レイシズム」が起きていると言うが、憎悪表現・人種差別は韓国の方がひどい。それは繰り返される反日デモを見れば明らかである。

 

韓国の反日そう簡単に無くならない。しかるに日本人には、韓国及び韓国人に対してのみならず支那及び支那人に対して妙な親近感を持つ人がいる。韓国・支那は異文化・異民族であることをもっと確認すべきだ。日本と韓国とは近親でも身内でもない。別の国であり別の民族である。地理的には近隣かも知れないが、精神的文化的には近隣ではない。

 

小沢一郎は、平成二十年七月十五日の記者会見で、竹島が日本の固有の領土であることを日本の教科書の明記することに関して、「(竹島について)日韓両国で考え方の違いがあり、しっかり話をすべきだ。それを避けておいて教科書に載せるとか載せないというたぐいは筋道が違う」と政府を批判した。

 

竹島はわが国の領土なのだから、その事を教科書に記載するために、韓国と話し合いをする必要は全くない。にもかかわらず小沢がこのようなことを言ったのは、彼が「竹島は日本固有の領土ではない」と考えているからである。

 

さらに小沢一郎は、平成二十一年十二月、ソウルの国民大学で、「日本人の若者は漠然と他人に寄生し寄生虫として生きているとんでもない害虫だ」「もともと日本人の親達もどうかしている。日本人は動物にも劣る民族といっても過言ではない」「日本人はもともと民度が劣るから、君達韓国人のような優秀な民族の血を日本人に入れない限り、他人やアジアに寄生して生きる害虫日本人が増えるだけだ」「(日本の古代歴史についても)韓半島南部の権力者が日本の国家を樹立したもの」「日本は騎馬民族に征服された」「天皇・皇室は騎馬民族の子孫だ」などと言った。まともな日本人なら、外国に行ってこんな発言は絶対にしない。

 

小沢一郎は、習近平来日の時にも、天皇陛下・皇室を蔑にする許し難い言動を行った。彼には祖国愛も尊皇精神もないと断じざるを得ない。小沢一郎が帰化した人だと言うわけではない。また、私は、帰化した人・在日韓国朝鮮人だからと言ってその人を差別したり頭から嫌ったりするべきではないと思う。しかし、帰化した人であろうとなかろうと、日本天皇及び日本国に忠誠心を持たないばかりか、冒瀆する人々は断じて許してはならないと考える。以上の小沢の発言は永遠に忘れてはならない。

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2018年12月29日 (土)

千駄木庵日乗十二月三十日

午前、病院を退院、帰宅。

午後からは、書状執筆、正月の準備、原稿執筆など。

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この頃思ったこと

診察して下さる医師の方々はみんな私の息子の年代だったのには驚きました。

カテーテルというのを心臓までさし入れられました。初めての経験でした。これで色々な事が分かったとのことです。

病院食というのは、まさに味も素っ気もそっけもないものでした。こういうものをこれから食べ続けることは実行できるかどうか自信がありません。

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千駄木庵日乗十二月二十九日

本日退院いたしました。皆様のご厚情に感謝いたします。

しばらく自宅にてゆっくり仕事をいたします。

どうか佳き新年をお迎えくださいませ。

四宮正貴合掌

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2018年12月20日 (木)

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第三十一号

平成三十一年一月 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集

 

 

[特集] 天皇御譲位・皇位継承と永遠の日本

ー新しき御代を迎える意義ー

「巻頭言」御譲位・皇位継承と天皇國日本の道統            四宮正貴  

「インタビュー」

 ご譲位、そして新しい御代へ 日本の文化を継承するーその中心を担う皇室というご存在

                                曽野綾子  

 天皇陛下ご譲位に現れる真のシンボリズムとしての「象徴」

と行動で果たす機能としての「象徴」                           小堀桂一郎 

 國體を第一に重んじ、日本の伝統と文化を継承し発展させることが、真の保守主義だ 

                                  前原誠司  

今上天皇のご譲位ー学友として感じた陛下の深遠なるご尊厳      明石元紹  

「佐藤優の視点」安倍晋三首相の北方領土戦略と対米自主外交     佐藤優   

天皇陛下は、御譲位によって、御自ら戦後憲法体制を超えられるのだ  西村眞悟  

大嘗祭を考える                          茂木貞純  

日本社会存続の危機……生前譲位がもたらした問いかけ        三宅義信  

永遠の日本ー神話、皇統、大麻ー                  新田均   

天皇陛下御譲位における「先例重視の伝統と儀式」          山村明義  

皇位継承と日本国憲法                       高乗智之  

新たなる大御代に希うもの                     折本龍則  

日本と皇室 日本国民と天皇の存在                 濱田浩一郎 

「聞き書き」「ご譲位」は戦後初めて示された天皇の“ご意思” 政府はこの大御心をしっかり受け止めよ                            上杉隆   

「提言・直言」

皇位の安定的な継承に向けて国民の議論を             海江田万里    

 天皇は日本国家不可分であり、過去・現在・未来を通して、国民の心棒でもある

 北神圭朗  

 

 木村三浩 御代替わりと憲法上の矛盾、曖昧を超える一考察     木村三浩  

 「連載」

 「やまと歌の心」                       千駄木庵主人 

 「石垣島便り25」異国の地に眠れる英霊よ、安かれ。ミンタルの戦没者慰霊祭にて

                                 中尾秀一  

「憂国放談」第三回 御代替わりを前に噴出する神社本庁の不祥事   犬塚博英  

 伝統と革新バックナンバー一覧                   

 取り扱い書店一覧                        

編集後記     

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千駄木庵日乗十二月二十日

午前は諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆。明日からの入院の準備など。

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お知らせ

明日からしばらく入院します。

その間、新規投稿はお休みします。

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共産支那=中華人民共和国こそ、軍国主義国家であり、侵略国家であり、独裁国家である

共産支那=中華人民共和国こそ、軍国主義国家であり、侵略国家であり、独裁国家であります。

 

中国共産党の軍事委員会が軍の最高指揮権を持ってゐます。日本でいへば、自民党の中に軍事委員会といふ組織があり、その主席は必ず自民党総裁が兼任し、自衛隊の最高指揮権を持ってゐるといふ事です。日本のやうな自由民主国家ではとても考へられない体制です。

 

そして、これまでチベット・東トルキスタン・ベトナム・モンゴル・満州などを侵略してきた国、そして今日アジア全域において軍事的覇権を確立しやうとしてゐる国が共産支那なのです。

 

北京・上海・広州など支那の各都市は、その都市の共産党市委員会と市政府そして公安局が一つの建物にあります。東京でいへば、自民党東京都連と東京都庁と警視庁が一つの建物にあるとゐふことです。これが一党独裁体制です。

 

偏向マスコミやサヨク政党は、かうした実態を知ってゐるくせに、絶対に共産支那を批判しません。そして、わが國政府の防衛力整備を非難してゐるのです。これはまさに共産支那による日本及びアジア侵略支配に手を貸す邪悪なる策謀であります。なんとも許し難いと思ひます。

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2018年12月19日 (水)

『天壤無窮の神勅』には日本國體が端的に示されている

 

 「天壤無窮」とは、「天地と共に窮(きわ)まりが無く永遠である」という意味である。太陽神であり皇室の祖先神である天照大神の御孫であられる邇邇藝命が地上に天降られる時に、天照大神が邇邇藝命に与えられた<神勅>のひとつである『天壤無窮の神勅』にある聖句である。「壤」とは「土」のことである。

 

 『天壤無窮の神勅』には次のように示されている。

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」。

 

 これを現代國語に訳すと、「豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう」というほどの意である。  

 

 この『天壤無窮の神勅』には、「日本國は天皇が永遠に統治する國である」という日本國體が端的に表現されている。

 

 「吾が子孫(うみのこ)」とは、邇邇藝命をはじめ神武天皇そして今上天皇に至るまでの御歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」であり、御歴代の天皇は天照大神の御神霊と一體であり、同一神格であり、邇邇藝命も神武天皇も御歴代の天皇も今上天皇も、天照大神と同じ関係であるということである。ゆえに天皇を皇御孫尊(すめみまのみこと)と申し上げるのである。今上天皇は、邇邇藝命・神武天皇と不二一體なのである。天皇が現御神・現人神であらせられるとはこういう意味である。 

 

 「爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)」は、天照大神の生みの子よ、日本國を統べ治めよ、つつがなくあれ、という御命令である。 

「治(し)らす」とは、「知る」の尊敬語の「知らす」と同じで、「知る」という動詞に尊敬の意を表す「す」のついた語である。天の下を御統治されるという意味である。

 

なぜ「知る」という言葉が「統治」を意味するようになったのか。それは祭り主たる天皇は、神の意志を知ることを根本にして國家を統治されるからである。神の意志を君主がよくお知りになることが國家國民を統治することの基本なのである。

 

天皇が神をお祭りになられて、神の御心をお知りになり、臣下は天皇がお知りになった神の御心に基づきそれを実現するために実際の政治を行うというのがわが國の古来の「まつりごと」のあり方である。これを「祭政一致」という。

 

御歴代の天皇は神のご意志をよくお知りになって神の意志を実現させることを使命とされる。

 

 「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむ」とは、「皇位が栄える」(寶祚とは天皇の御位のことである)ということである。「あまつひつぎ」とは、政治権力者の地位ということでは全くない。

 

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある通り、「寶祚」は「天津日繼ぎ」あるいは「天津日嗣」と書く。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」という意味である。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるので、皇位のことを「天津日繼ぎの高御座」というのである。「高御座」とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所という意味である。

 

 皇位の繼承は日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 天地が永遠であるように天皇の日本國御統治も永遠であると、天照大神は宣言されているのである。これが「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」の意味である。

 

このように『天壤無窮の御神勅』は、天照大神の神靈をそのまま受け継がれた「天照大御神の生みの子」たる邇邇藝命及びその御子孫が永遠に統治される國が日本であるということを端的に表現しているのである。

天孫降臨は、日神であり祖母神であらせられ穀靈であらせられる天照大御神の御神靈を體された邇邇藝命が、「生みの御子」として豊葦原瑞穂國の稲穂の稔りを體現される御存在として地上に降られたのである。即位の大禮及び大嘗祭・新嘗祭は天孫降臨の繰り返しの意義があるのである。

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千駄木庵日乗十二月十九日

午前は、諸事。

午後一時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。この後、六本木にて納め会。同志と懇談。

帰宅後は、休息。原稿執筆。資料検索。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 一月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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今こそ日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を発揮して國難に当たるべき時である

村田清風の歌

 

「しきしまの 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗」

 

村田清風(天明三年【一七八三】五月二六日―安政二年【一八五五】五月二六日)は長州家老。藩政改革の中心人物。長州藩が雄藩として明治維新を主導する基礎を築きあげた。吉田松陰をはじめ多くの人々が清風に教へを乞ふたといふ。七十三歳で死去。

 

ペリー来航の時、長州藩で要職をつとめてゐた清風は、高まる外圧の危機に対処するため、海防の重要性を認識し、農民町人の武装を積極的に奨励し、やがて農民漁民による警備隊が創設する。これは高杉晋作による奇兵隊に継承される。この歌はさうした時期に詠まれたと考へられる。北條時宗が弘安二年、わが國に朝貢(日本が貢ぎ物を差し出して元の属國になること)を求めて来た蒙古の使者を博多で斬った。この時宗の行為を「大和心」の典型であるとして讃へた歌である。蒙古の使者を北条時宗が斬った戦闘心・攘夷精神を「大和魂」と表現した。つまり、どんな大國を相手としても死を恐れないでこれを討つといふ精神即ち戦闘的な大和心を歌ひあげたのである。

 

この歌に表白された「攘夷の志」は、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允らに受け継がれ、長州藩革新派を輩出する原動力となったと思はれる。また、この歌の根底には、幕府の軟弱外交への批判がある。

 

この歌は申すまでもなく、近世の國學者・本居宣長の歌

 

「敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花」

 

から「本歌取り」した歌である。「本歌取り」とは和歌で,古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことである。

 

 本居宣長の歌は、「大和心とはどういふものかと人に問はれたら、朝日に美しく映える山桜だと答へやう」といふほどの意である。

 

日本傳統精神は、「やまとごころ」「大和魂」といふ言葉で表現される。日本民族固有の精神、または、儒教・仏教などが入ってくる以前からの、日本人本来の物の見方・考へ方、即ち日本の傳統的精神のことを大和心或いは大和魂と言ふ。

 

神の生みたまひし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の精神である。これを「大和心」と言ふ。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた精神である。「大和心」即ち日本傳統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

 

本居宣長は、朝日に映える山桜花を理屈なしに美しいと感じた純粋な感受性を、神の生みたまひし國に生まれた日本人のみが持つ素直にして純粋なる心即ち大和心であると歌った。

 

美しく咲き、美しく散っていく桜の花を日本人が好むといふことは、日本人が死を恐れない心を持ってゐることを意味する。その死を恐れない心・潔く散って行く精神・散華の美を尊ぶ心が、戦闘的な大和心を生む。つまり、理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるといふ純粋なる精神が大和心なのである。

 

大和心・大和魂には、大らかで明るい精神と、戦闘的な精神とがあると思ふ。大らかで明るい大和心・大和魂は、日本民族の持つ包容力・美しさを愛する心である。和魂漢才・和魂洋才の「和魂」は日本民族の大らかにして強靱なる包容力のことであらう。一方、戦闘的な大和心・大和魂は、勇武の心・桜の花に象徴される散華の心(潔く散る精神)、死を厭はない精神である。

 

この二つの「大和心」は別なものではなく、清明心(清らかで明るい心)・純粋な心・素直な心・そのままの心として一つである。それは日本民族の本来的持ってゐる清らかなる魂であり素直な精神である。

 

近世國學は、明治維新の基本原理・精神的思想的基盤であった。わが國には、対外的危機感が傳統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚ます歴史がある。明治維新がその典型である。現代もさうした時期である。今こそ日本國民全体が日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。近世國學者が外圧の危機に中で行ったやうに、古代日本の歴史精神として今日まで傳へられてきてゐる「道」を學び、今日において明らかにすることによって、現代の危機を打開することが大切である。

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千駄木庵日乗十二月十八日

午前は、諸事。

午後は、資料整理。

この後、病院赴き。医師の診察を受ける。二十一日に入院と決まる。

帰宅後は、資料の整理、明日のスピーチの準備、原稿執筆。

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2018年12月18日 (火)

西郷隆盛・西南戦争について

西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので嬉しく思う。

 

各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

この郷中制度出身者には、西郷・大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

大西郷が生まれた地は、その波乱万丈の生涯のとは裏腹に、今は静かに石碑が立っている。

 

この加治屋町からは桜島が眺められる。

平野國臣が

 

「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」

 

と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

近代日本の基礎を築いたと言っても過言ではない西郷・大久保の二人が生まれ育った加治屋町である。

歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

大西郷と大久保甲東の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」と「覇道」、「伝統回帰」と「欧化」と言われるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった事は確かである。

 

城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊鹿児島県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちをここに手厚く葬った。

 

佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働く者もいたという。

 

西郷等の墓所は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。

 

墓地の正面の下の方には、勝海舟の

 

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

という歌碑が建てられている。最近建てられたものであろう。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。

 

西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると信じる。

 

警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光が維新前に徳川幕府を威圧するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たのである。

 

また、墓地には常夜燈が建てられてゐる。西郷と勝との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功をたてた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

通俊の弟は岩村高俊というが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って介錯を命じたという。

 

こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

明治維新の歴史・そして近代日本の歴史は、この薩摩の國の人たちが都(京都と江戸)に踊り出で、築きたるものと言うべきか。西郷南洲・大久保甲東皆共に、薩摩隼人の気性を背負いて近代日本の礎作りし人である。

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千駄木庵日乗十二月十七日

午前は、諸事。

午後は、病院に赴き、診察・検査を受ける。待ち時間が長く、病院内のあちらこちらを移動しなければならない。全て終えるのに五時間近くかかった。

地元のクリニックに赴き、診察を受け、処方箋をもらう。

帰宅後は、休息。原稿執筆など。

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2018年12月16日 (日)

言霊思想について

 

「峰の色 溪の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と」                      道元

 

 

道元(正治二年【一二〇〇】一月二日―建長五年【一二五三】八月二八日。鎌倉時代初期の禅僧。曹洞宗及び永平寺の開祖。『正法眼蔵』の著者)の歌集『傘松道詠』所収。

 

「山々の色も谷川の響きも、すべてそのままに、私の信仰するお釈迦さまのお声であり、お姿であるなあ」といふ意。

 

道元はまた、「いはゆる経巻は、盡十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。」(『正法眼蔵』第二十四『仏経』))と説いてゐる。森羅万象全てが仏の言葉だと言ふのである。

 

弘法大師・空海も、「内外の風気(ふうき)わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声といふなり」「それ如来の説法は必ず文字による」「五大にみな響きあり。十界に言語を具す。六塵ことごとく文字なり。法身はこれ實相なり」(「『聲字即實相義』)と論じてゐる。

 

声字即ち言葉が世界と存在者の實相そのものであるといふのである。「言葉がすべての事物の本質である」といふ思想である。

 

『聖書』の『ヨハネによる福音書』の冒頭に、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」と記されてゐる。

一切の最始原は言葉であり、神は言葉であり、萬物は言葉=神によって成ってゐる即ち言葉が事物の本質であるといふ宣言である。全ての存在は言語・言葉を通じて表現される。神も「神」といふ言葉がなければ存在が表現されない。

 

『ヨハネによる福音書』の「言葉」も、空海の言ふ「聲字」も、道元の言ふ「経巻」「聲」も、人間の発する「音」や人間が書く「字」に限定されるのではなく、大宇宙の萬有一切を指してゐる。大宇宙の萬有一切が神の言葉であり、仏の言葉であるとするのである。

 

言葉・言語は、文化の基礎であり、文化は言葉によって成り立つ。言葉は神であり佛であり霊なのである。人間生活は言葉によって成り立つと言っても過言ではない。

 

日本民族は、古来言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

 

日本の國は、「言霊の幸はふ國」と言はれる。日本は言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉には生命が宿り、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じた。『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。

 

『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ、歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶ。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言霊のさきはふ國」と言はれるわが國においては、祝詞や歌は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。道元や空海の思想は、日本の言霊思想を仏教的に表現してゐると思はれる。

 

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千駄木庵日乗十二月十六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』発送準備。原稿執筆など。

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天皇陛下の「國見」の意義

今上天皇御製

 

平成二十四年歌会始

津波来()し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる

 

天皇、皇后両陛下は、平成二十三年四月二十七日、東日本大震災の被災者お見舞ひのため、津波で壊滅状態になった宮城県南三陸町や仙台市を御巡幸あそばされ、被災者を励まされ、救援・復興関係者をねぎらはれた。

 

当時の報道によると、四月二十七日午後、南三陸町の小学校校庭にヘリコプターで降り立たれた両陛下は、佐藤仁町長から説明を受けられた後、瓦礫が散乱する沿岸部に向かって黙礼された。体育館での被災者お見舞ひの後、救助活動に当たる自衛隊幹部らにも謁を賜り、「ありがとうございます」と述べられた。同町を去る直前には、お二人でもう一度、町の跡に向かひ頭を下げられたと承る。

 

ヘリコプターで移動される間には、壊滅した漁港や養殖場が続く三陸沿岸を視察された。報道によると、同乗した村井嘉浩知事に、陛下は、津波で約7割の児童が死亡か行方不明となった石巻市立大川小の上空で「大変な被害でしたね。可哀想でしたね」と仰せられたと承る。天皇皇后両陛下の慈しみ深き、御巡幸を拝すると自然に涙がこみ上げて来る。

 

 戦争直後、昭和天皇と香淳皇后は、全國各地を御巡幸あそばされ國民を励まされた。戦災復興は、昭和天皇の御巡幸が大きな力となった。東日本大震災の復興も、今上陛下の御巡幸が大きな力となっていった。有難き限りである。

 

今上陛下は、平成二十三年三月十六日、「東北地方太平洋沖地震に関するおことば」を賜り、

 

「これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,國民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

 

と仰せになった。

 

常に國民と喜びと悲しみを共にされるのが、歴代天皇の大御心である。歴代天皇の御製にも、常に民を思はれ、喜びも悲しみも民と共にされる大御心が示されてゐる。

 

天皇が、御巡幸あそばされ、國土の安穏、民の幸せ、五穀の豊穣を祈られることを「國見」と申し上げる。

 

天皇が「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀であり、天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。天皇が「國見」をされることによって、國土は、國土生成の時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。そして五穀豊饒が實現する。

 

「國見」によって天皇の靈と各地の國魂(産土の神・鎮守の神)とが一体となって結ばれる。これを「魂触り」(タマフリ)と言ふ。この「魂触り」によって、天皇の神聖なる國家統治の霊的お力が益々増幅されるのである。これを「食國天下のまつりごと」といふ。

 

「天皇陛下は皇居で祭祀を行はせられてゐればいい」といふ主張があるが、これは「國見」の意義を正しく理解してゐない主張であると思ふ。まして、たとへ國體護持、尊皇の思ひからの主張であっても、臣下國民による「天皇は皇居にゐて頂くだけで良い」といふ発言に接すると、大きな違和感を覚える。

 

『朝日新聞』平成二十九年年五月二十二日号に次の記事が掲載された。

「二〇一一年の東日本大震災発生の一九日後、天皇、皇后両陛下の被災地見舞いは三月三〇日、福島県から東京に避難した人々が身を寄せていた東京武道館から始まった。…石原慎太郎氏が都知事として迎えた。翌一二年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り『被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう』と進言した。陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。『石原さん、東北は、私が自分で行きます』。それまで石原氏は、首都の知事でありながら、園遊會や宮中晩餐會にあまり顔を出さなかった。珍しく両陛下を迎えた石原氏は陛下の言葉にあぜんとし、絶句した。その後、考えを変えた。『あれから東北三県に行かれて、みな感動した。行っていただいてよかった』と。両陛下は、大きな災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災者を見舞った」。

石原慎太郎氏は、ナショナリストではあるが、尊皇精神は稀薄な人であった。しかし、今上陛下の民を思はれる仁慈の大御心に、石原氏は大きな感動を覚えたのである。まことに有難き事實である。

 

今上陛下は、平成二十八年八月八日の「お言葉」で

「私が天皇の位についてから,ほぼ二十八年,この間私は,我が國における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

と仰せになった。

 

「國民の安寧と幸福を祈る」とはまさに宮中祭祀の御事であり、「國民の傍らに立ち國民の声に耳を傾け國民の思ひに寄り添ふ」とはまさに「御巡幸」「國見」の御事であると拝する。今上陛下は古代以来の天皇のご使命を果たして来られたのである。

 

『朝日新聞』は、(昨年)平成二十九年七月二十五日号から二十九日号まで「平成と天皇 首相経験者に聞く」といふ連載記事を掲載した。「首相経験者に聞く①」(七月二十五日号)は、福田康夫氏であった。

福田康夫氏は、今上陛下の外国ご訪問に主席随員として御伴をしたことに関連して「陛下の外国ご訪問は、最高レベルの国際親善だ。一つの皇統でこれだけ続いている家系は欧州にもなく、他国の王室からは特別な家系だと敬意を表されている。陛下のご活動は外国でも国内でも同じ。常に変わらず一人ひとりの邦人に丁寧に声をかけることに特別の意味があると感じた」と語った。

 

三千年の歴史と伝統を保持する萬世一系の天皇の御稜威・御徳が、世界各国との友好そして世界平和に大きなお役目を果たしてきたのである。

 

「陛下の象徴天皇としての歩みについてどう感じていますか」といふ記者の問ひに対して福田氏は、「『天皇陛下は御簾の中で祈っていればいい』という意見もあるが。それは暴論だ」と答へた。

 

「御譲位問題」に関連して、「天皇陛下は祭祀を行はせられることがもっとも重要なお役目であり、全国各地の御巡幸あそばされ国民を励まされたり、外国ご訪問されることを控へられれば良いのではないか」といふ意見を表明される方がゐる。

 

前述した通り、天皇が各地を行幸されて国民を激励され天下の諸情勢をご覧になられる尊い行事を「國見」と申し上げる。古代の天皇は、國見を度々行はせられた。

 

ところが、武家が政治権力を壟断し一君万民の國體が隠蔽されると、天皇の行幸即ち「國見」はあまり行はれなくなった。

 

特に徳川時代は、幕府の干渉により、天皇は京都御所から一歩も外にお出になることができなかった。幕藩体制下における、天皇の行幸は、慶安四年二月二十五日、後光明天皇が後水尾天皇に「朝覲(註・天皇が太上天皇・皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと)の行幸」を行はせられて以来、御所炎上などのやむを得ない場合のほか、文久三年(一八六三)三月と四月、孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂社・石清水社に行幸されるまで、二百十三年間、行はせられることはなかった。

 

つまり、行幸が制限されたり、行はれなくなったのは、「一君萬民」の國體が隠蔽されてゐた時期である。明治維新によって、「一君万民」の日本國體が明らかになった後、明治天皇は全国を御巡幸あそばされた。そしてその伝統は、大正天皇・昭和天皇・今上天皇に継承された。

 

福田康夫氏の「『天皇陛下は御簾の中で祈っていればいい』という意見もあるが。それは暴論だ」といふ発言は全く正しいと考へる。

 

今上天皇が、御巡幸の御事を詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

平成十五年歌會始 「町」

我が國の 旅重ねきて 思ふかな 年経る毎に 町はととのふ

 

平成十六年歌會始 「幸」

人々の 幸願ひつつ 國の内 めぐりきたりて 十五年経つ

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千駄木庵日乗十二月十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備。書状執筆。原稿執筆。

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2018年12月15日 (土)

今こそ山鹿素行の精神を学ぶべきである

元禄十五年十二月十五日未明、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われた。艱難辛苦を乗り越えて主君の仇を討った行為は、武士の鑑として歴史的に高く評価されてきた。三波春夫氏の「俵星玄蕃」は、赤穂浪士の討ち入りをテーマとした歌である。私は、発売された直後、昭和三十九年の高校時代にこの歌を覚えた。以来、年末になると、忘年会などでよくこの歌を歌わせていただいてきた。

 

赤穂城にも十年ほど前に行ったことがある。もちろん、高輪泉岳寺にも数回参詣させていただいた。元禄時代から四百年くらい経過しているのに、今でも、赤穂浪士のことは忘れなれていない。『鉄道唱歌』に「高輪泉岳寺 四十七士の墓所 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも」と歌われている通りである。

 

「忠臣蔵」とも言われ、芝居や歌や映画にこれほど多く題材になっている事件もめずらしいではないか。それだけ日本人の心情に合う事件だったということであろう。

 

赤穂藩士に大きな思想的感化を与えた人物は、山鹿素行である。江戸時代において、尊皇思想を鼓吹した人物であり、幕末の勤皇の志士にも大きな影響を与えた。徳川初期の儒学者・兵学者である山鹿素行は、一君万民の正統思想を説き、日本の皇統の正統性と政治の理想が古代において実現されていたと論じた『中朝事実』といふ歴史書を著した。これは日本の特質を儒教思想によって論じているという。「中朝」とは世界の中心に位置する朝廷の意で、日本は神国であり天皇はご子孫であるとの意見が開陳されている。

 

支那は自国を「中華・中国・中朝」とし、外国をことごとく野蛮な国と断じている。素行は、その「中華・中国・中朝」は実に日本であるとして、書名を『中朝事実』としたのである。つまり山鹿素行は、日本国を支那と同等あるいは上位に置き、国粋思想を支那の学問を借りて論じたのである。

 

吉良上野介に関しては、芝居や映画では敵役になっているが、実際にはそうではなかったという説もある。歴史の見方は色々である。

 

日本民族は今こそ民族の誇りを取り戻さなければならない。正しい國體観と歴史精神を回復しなければならない。

 

山鹿素行の『中朝事實』は徳川時代初期に著されたもので、「日本は神國なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。

 

平泉澄氏は次のように論じている。「山鹿素行先生は…日本こそ他國にすぐれたる國であり、正しく中華といひ、中國といひ、中朝といふべき國であるとして、ここに日本の歴史を述べて、これに題して中朝事實といはれたのであります。…中朝事實こそは、長く外國の學問に耽り、外國の思想に惑ひたる後に、一朝目覺めて日本を發見し、日本の偉大に驚歎し、ここに眞の學問として日本學を樹立組織せんとしたる先哲の偉大なる足跡といふべきであります」(『日本學叢書 中朝事實』解説)と。

 

山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中國」であって、支那は「中國」にあらずとの前提に立っている。『中朝事實』には「皇祖高皇産霊尊、遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵命を立てて、葦原中國の主(きみ)と爲さんと欲(おぼ)す。…是れ、本朝を以て、中國と爲すの謂(いひ)なり」「本朝の 神代、既に 天御中主尊有り、二神(ふたはしらのおほんかみ)國の中の柱(みはしら)を建つれば、則ち、本朝の中國たるや、天地自然の勢なり」と記されている。

 

共産支那は今日、日本の経済協力によって急速な経済近代化・経済建設が進行したにもかかわらず「恩を仇で返す」という言葉そのままにその経済力をベースに、露骨に軍事力増強の「富國強兵」策を取り、わが国に対して軍事的圧迫、侵略策謀を行っている。

 

支那共産政権は、「戦前の日本は侵略國家だった。そして日本に軍國主義が復活しつつある」と攻撃しているが、共産支那こそ、アジア最大の侵略國家であり、軍國主義國家である。

 

これに対して、戦後七十年近くにわたって「富國強兵」とは正反対の「富國弱兵」政策を採り続けてきたわが國は、主権國家としての政治的・軍事的力がきわめて弱体である。このような状況が続けば、日本は「中華帝國」の広域支配下に組み入れられてしまう危険がある。

 

支那こそ、真の侵略国家であり、他民族蔑視国家である。支那に対する誤れる劣等意識や贖罪意識は払拭し、断固たる姿勢で臨まねばならない。今こそ山鹿素行の精神を学ぶべきである。

 

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千駄木庵日乗十二月十四日

午前は、諸事。

 

午前十一時半より麹町にて、『呉竹会幹事・評議員会』開催。頭山興助会長がスピーチ。全員で討論。

 

この後、南青山の根津美術館にて開催中の『特別展 新・桃山の茶陶』展参観。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。最終校正。

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2018年12月13日 (木)

昭和天皇は「戦争責任」を回避されたことなど一度もない

 

昭和天皇が米國訪問を終へられた昭和五十年十月三十一日、初めての公式記者会見を行はれ時、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」と仰せになったことについて『国体論 菊と星条旗』という本の著者・白井聡氏は、「この発言に対して多くの人々が驚き、憤慨したが、素朴に読めば、とてつもなく無責任で倫理的不感症を感じさせる発言である」と論じてゐる。

 

しかしこの陛下のお言葉は「天皇陛下はホワイトハウスで『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」といふ記者の質問に対するご回答である。

 

「陛下はご自分に戦争責任があると思っておられますか」といふ質問に答へられたのではない。まさに「言葉のあや」についての質問だったのである。「戦争責任」を「言葉のあや」と仰せられたのではない。

 

昭和天皇はいはゆる「戦争責任」を回避されたことなど一度もない。むしろ積極的に責任を果たされるために、天皇の御位にとどまられたのである。そして「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」その責任を果たされたのである。

 

小堀桂一郎氏は、「天皇が果たされた戰爭責任は、戰爭の収拾に成功されたといふところまでで本来は竭くされたはずである。驚嘆すべく、畏れ多いことであるが、その責任達成の御努力は、戰後の跡始末の部分にまで及んだ。…戰後度重なる占領軍司令官との御會見、そして六年にわたる全國御巡幸の旅である。戰争の全責任を引受けられ、ついで戰後復興といふ事業にも進んで責任を負擔されたことにより、今上天皇の戰前の二十年の御統治と戰後四十年の國民統合の象徴的御行動とは見事な一貫性・連續性を以て嚴としてつながってゐる」(『昭和天皇論』)と論じてゐる。

 

昭和天皇が、疲弊し困難に立ち向かふ日本國民を鼓舞激励され、國のために一身を捧げた英靈に対して常に慰靈の誠を捧げられた。そのことが、「道義的戦争責任」と言ふよりも「君主として天皇としての使命と責任」を果たし続けられ、ご生涯をかけて國民の幸福と平和の実現を祈られたのである。

 

昭和天皇崩御前年の最晩年の昭和六十三年には、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」

 

と詠ませられた。

 

 昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」といふやうな次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられたのである。根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たさうとされ、また事實果たされたのである。

 

 だからこそ、その後、昭和天皇は、國民大多数そして諸外國から仰慕され尊敬され続けたのである。 だから、昭和五十年十月三十一日の「御発言」があった直後も、そしてその後も、さらには崩御の時も、昭和天皇に対する国民の仰慕の思ひは高まることはあっても無くなることはなかった。白井聡氏の言ふ「多くの人々が驚き、憤慨した」などといふのは大嘘である。

 

昭和天皇が御不例になられ、昭和六十三年九月二十二日、皇居坂下門をはじめ全國十二ヶ所の宮内庁施設で、「お見舞記帳」が開始されて以来、一般記帳者の数は八百萬をはるかに超へた。

 

昭和六十四年一月七日午前六時三十三分、昭和天皇は宝算八十九歳をもって崩御あそばされた。皇居前など全國の記帳所における記帳者は、一月七日から十六日までの間に二百三十三萬二千七百九十一人にのぼった。一月二十二日から二十四日まで、殯宮一般拝礼が許されたが、三日間で三十三萬九千百人が拝礼を行った。

 

平成元年二月二十四日の御大喪の儀では、御轜車がお通りになる沿道には,氷雨の中五十七萬人余の人々がお見送り申し上げた。日本國民の大多数は、昭和天皇が退位されずに日本國の君主としてその責任を果たされ続けられたことに対し奉り、満腔の敬意を表し感謝してゐたことは、この事實を見れば明らかなことである。

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千駄木庵日乗十二月十三日

午前は、諸事。

 

午後三時半より、永田町の衆議院第二議員会館にて、「明治の日実現! 総決起集会」の実行委員会開催。相澤宏明氏が報告。稲田朋美衆院議員がスピーチ。全員で討論。終了後懇親会。

 

帰宅後は、休息。「政治文化情報」発送準備など。

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徳川幕府による朝廷圧迫について

第 一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

 

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

 

後水尾天皇は、

「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

 

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

 

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

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千駄木庵日乗十二月十二日

午前は、諸事。

午後は、今夜行う萬葉集』講義の準備、『政治文化情報』の原稿執筆。休息。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が作者未詳歌を講義。

帰途、出席者と懇談。

帰宅後は、休息。『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。

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2018年12月11日 (火)

この頃詠みし歌

黄色に染まりし銀杏の街路樹を眺めつつまたこの一年の過ぎゆくを惜しむ

 

人ら多く支払ひを待つ病院に我も一人で座りゐるなり

 

病む人が数多きことに驚きぬ大病院の待合室に座し

 

老人と病人が多くゐるこの國に我もその一人と思ひつつゐる

 

下り行く無縁坂は静かにて銀杏の枯葉が舞ひ落つるかも

 

岩崎邸の高き塀に沿ひ歩み行く師走の午後に舞ひ落ちる落ち葉

 

受診終へて下り来たれる無縁坂に落ち葉は繁く舞ひ落ちるかも

 

人間の体は必ず弱り行くこの必然をかみしめてゐる

 

急ぎ足は心臓に悪し日々(にちにち)の歩みは常にゆったりとする

 

ゆっくりと歩くことにつとめなば心も何となくゆったりとする

 

自転車に乗りし知り人が声をかける師走の町は忙しなきかな

 

古き友が病と闘ふといふ文章を讀みてわが胸も痛むなりけり(鈴木邦男兄)

 

あれほどの喧嘩の強き人なりしに七十代にして老いと戦ふ()

 

杖をつきて歩むと聞きぬそんなことがあり得ることかと切なかりけり()

 

すっかりと老いにけるかなと思ひつつ友の姿をテレビにて見る()

 

一仕事終へて安らげる時にしも懐かしき友をテレビにて見る()

 

主義者は嫌ひと言ふ人こそは主義者ならずやと思ふ時あり

 

大日本男児としてこの國に生()れし我は日本酒をこそ呑みて喜ぶ

 

美味きもの食して佳き酒呑むことがこの世に生まれし甲斐にこそある

 

幾十年通ひ来たれる居酒屋の煮込みは美味し今日も食せり

 

一回り上の人からの葉書を讀みすこやかにをはすことの嬉しさ

 

来年もまた新たなる魂を奮ひ立たせて生きゆかんかな

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千駄木庵日乗十二月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、明日行う『萬葉集』講義の準備、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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オピニオン雑誌『傳統と革新』 第三十一号

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オピニオン雑誌『傳統と革新』 第三十一号

平成三十一年一月 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集

[特集] 天皇御譲位・皇位継承と永遠の日本

ー新しき御代を迎える意義ー

「巻頭言」御譲位・皇位継承と天皇國日本の道統            四宮正貴  

「インタビュー」

 ご譲位、そして新しい御代へ 日本の文化を継承するーその中心を担う皇室というご存在

                                  曽野綾子  

 天皇陛下ご譲位に現れる真のシンボリズムとしての「象徴」と行動で果たす機能としての「象徴」                           小堀桂一郎 

 國體を第一に重んじ、日本の伝統と文化を継承し発展させることが、真の保守主義だ 

                                  前原誠司  

今上天皇のご譲位ー学友として感じた陛下の深遠なるご尊厳      明石元紹  

「佐藤優の視点」安倍晋三首相の北方領土戦略と対米自主外交     佐藤優   

天皇陛下は、御譲位によって、御自ら戦後憲法体制を超えられるのだ  西村眞悟  

大嘗祭を考える                          茂木貞純  

日本社会存続の危機……生前譲位がもたらした問いかけ        三宅義信  

永遠の日本ー神話、皇統、大麻ー                  新田均   

天皇陛下御譲位における「先例重視の伝統と儀式」          山村明義  

皇位継承と日本国憲法                       高乗智之  

新たなる大御代に希うもの                     折本龍則  

日本と皇室 日本国民と天皇の存在                 濱田浩一郎 

「聞き書き」「ご譲位」は戦後初めて示された天皇の“ご意思” 政府はこの大御心をしっかり受け止めよ                            上杉隆   

「提言・直言」

皇位の安定的な継承に向けて国民の議論を             海江田万里    

 天皇は日本国家不可分であり、過去・現在・未来を通して、国民の心棒でもある

 北神圭朗  

 

 木村三浩 御代替わりと憲法上の矛盾、曖昧を超える一考察     木村三浩  

 「連載」

 「やまと歌の心」                       千駄木庵主人 

 「石垣島便り25」異国の地に眠れる英霊よ、安かれ。ミンタルの戦没者慰霊祭にて

                                 中尾秀一  

「憂国放談」第三回 御代替わりを前に噴出する神社本庁の不祥事   犬塚博英  

 伝統と革新バックナンバー一覧                   

 取り扱い書店様一覧                        

編集後記 

                             

定価 本體価格1000円+税。 168頁

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 

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天之御中主神は、神々や人間や一切のもの生成の根源・宇宙の中心のにゐます神

 

『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示され、「天地の生成の本源神」たる天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されてゐる。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

 

「造化の三神」が「天地初發の時、高天原になりませる神」(天地宇宙の生成と共になりませる神)と仰がれてゐるのは、「造化の三神」が天地宇宙開闢以来天地宇宙と共に存在する神、天地宇宙の中心にまします根源神であるといふことである。ユダヤ神話の神のやうな被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在・被造物と対立する存在たる「天地創造神」ではないのである。

 

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独神(ひとりがみ)すなはち“唯一神”であり、宇宙の根源神である。この「造化の三神」は、宇宙根源神・絶対神の「中心歸一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現してをり一体の御存在である。

 

また、「宇摩志阿斯与訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」「天常立神(あめのとこたちのかみ)」の二柱の神も「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。「國之常立神(くにのとこたちのかみ)」「豊雲野神(とよくもぬのかみ)」も「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

 

計七柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのである。だから、「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐるのである。七柱の「独神」がをられるのは、唯一神の多くの働き・性格を「神名」によって表現していると解釈できる。「多即一・一即多」である。

 

「言靈のさきはふ國」といはれるやうに古代日本人の言葉に対する信仰は深かった。神の名・人の名についての信仰はその最たるものであった。

 

中西進氏は、「(『古事記』は)神々の誕生という主題のもとで、単に神々の名を連ねるという独自の神話的方法によっている…心理的文脈は神名の蔭にかくれている。」(古事記を読む)と論じてゐる。つまり、日本の神々の御名自体に深い意味があり、神々の御働き。御権能・御本質が示されているのである。

 

「天之御中主神」といふ神名には、古代日本人の壮大なる信仰精神が込められてゐる。大國主命・一言主命・事代主命・大物主命といふ神々がをられるやうに、古代日本人は森羅万象の中に何処かに「ぬし(主)」がゐると信じ、天地宇宙の中心にも「ぬし(主)」がゐると信じた。日本民族の叡智は、それを「天之御中主神」といふ神名で表現した。天之御中主神は、神々や人間や一切のもの生成の根源・宇宙の中心にゐます神である。

 

影山正治氏は、「天(あめ)は全宇宙を意味し、御中(みなか)は眞中であり、主(ぬし)は主宰者を意味する。即全宇宙の根源の神であり、一切の可能性を内包された始發の神であり、宇宙そのものゝの神である。」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

古代日本人は、宇宙の中心にまします無限定の神、無限に流動する神・神聖性の母胎を「天之御中主神」といふ神名で表現した。天之御中主神は、無限定にして特定の姿形なき天地宇宙の中心にまします神であり、一切を生み一切の存在の生成の根源の神である。現象世界の神ではなく目に見えぬ世界の神である。そのことを古代日本人は「独神に成りまして、身を隠したまひき」と表現した。

 

「天之御中主神」といふ神名は、神話的な思考としてもっとも高次なものである。天之御中主神は、生命の根源・宇宙の中心の神であるが、他の神々と対立し他の神々の存在を一切認めない「唯一絶対神」ではない。多くの日本の神々の根源の神である。

 

ゆゑに、天之御中主神は『古事記』の冒頭に登場するが、多くの神社に祭祀されることはないし、神話の神々の物語にも登場されない神である。

 

宮廷で重視された宮中八神殿の奉斎神にもみえず、地方でもこの神が祭祀された形跡はほとんどない。平安時代の『延喜式神名帳』にも、その神名や神社名はみあたらない。「身を隠したまひき」なのである。しかし、日本民族の信仰生活といふ實際の経験の中で仰がれてゐる神々即ち八百万の神々の根源神である。

 

中西進氏は、「(天之御中主神は)天の真中の支配神という抽象的な名である。…この神は神話體系を構築する時におかれた抽象神で、新しい時代の産物という通説は正しいであろう。…天の永遠性と、地の永遠性の真中に、天之御中主神がいるという一つの體系が看取できる」(『古事記を読む・天つ神の世界』)と論じている。

 

天之御中主神は、古代日本人が天地宇宙・世界の生成の不思議を神話的に物語る時に生まれた神であり、その意味において英雄神・自然神・祖先神の出現よりも新しく生まれた神であり、相当人知の進んだ時期に至って生まれ神と見ることができる。だからといって、虚構の神とすることはできない。古代日本人が天地生成の不思議を信仰的に把握した神の御名である。「天之御中主神」と「天地生成神話」は、古代人の宇宙の神秘に対する驚嘆の思ひから生まれた「神」であり「神話」なのである。天之御中主神=宇宙主宰神を神統及び皇統の根源神と仰いだのである。

 

影山正治氏は、「古代の日本人は萬ものを神に於て理解しようとした…神は無數であって八百萬の神である。しかし萬神一に歸すれば天之御中主神であって、決して云ふ所の低い庶物崇拝ではない…萬物を『いのち』に於て把握し『神』に於て理解する日本人の宇宙觀はまことに比類なきものと云はねばならない。日本に哲學なしなどゝ考へるのはとんでもない間違ひで、人類今後の思考の哲学はまさにこの日本神話の根源から發するものである」(『古事記要講』)と論じてをられる。

 

日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。これは、天之御中主神が、天地宇宙の根源神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられるからである。

 

天之御中主神は、天地生成の根源神であられるが、「唯一絶対神」として他の神々をと対立しその存在を許さない神ではない。八百万の神と申し上げる天地の神々を包容される神である。

 

天之御中主神は、<一即多・多即一>の神であり、最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。ゆゑに、天之御中主神は祭祀の対象とはならなかったのである。

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千駄木庵日乗十二月十日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、春日の文京シビックセンターにて、「國體政治研究会」開催。

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2018年12月10日 (月)

千駄木庵日乗十二月十日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』原稿執筆。

午後六時半より、春日の文京シビックホールにて、『國體政治研究会』開催。田中卓郎氏(哲学者)が「敗戦國體制の完成形態としてのわが国の現状」と題して講演。質疑応答・討論。

帰宅後は、休息。原稿執筆。

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萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十二月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

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「現行占領憲法」が、「天皇の祭祀」「神社神道」を一般の教団宗教と一緒くたにしてゐるのが根本的誤り

政教分離とは、西洋におけるキリスト教会と政治権力の分離であって、信仰と國の分離ではない。アメリカ大統領就任式には牧師が来るし聖書に手を置いて宣誓する。「現行憲法」は日本の伝統とは全く相いれない権力国家観・契約国家論に基づいてゐる。日本の伝統とか文化は全く書かれていない。

 

政教分離などといふ「現行占領憲法」の規定は、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体君主国家日本の國體に全く合致しない。このやうな規定のある憲法を戴いてゐることが、我が国の道義が頽廃する原因である。

 

日本伝統信仰・祭祀宗教たる日本神道が日本民族の道義の根幹である。ところが「現行占領憲法」が、天皇の祭祀・神社神道を一般の宗教法人と一緒くたにしてゐる。これが根本的誤りなのである。

 

日本国といふ信仰共同体の根幹が神社であり祭祀である。そのことは、一宗教法人・教団宗教が政治権力を掌握し行使することは全く次元が異なるのである。

 

 

憲法二〇条で定める政教分離の原則をめぐっては、津市が市体育館の起工式を神道祭式で行ったことに対して、反日勢力が市長に工費返還を求めた訴訟で、最高裁が昭和五十二年に出した判決がある。そこでは、「國家と宗教との完全な分離を実現する事は、実際上不可能に近い」とした上で、憲法で禁止している「宗教的活動」とは、その「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に限られるとして、いわゆる<目的効果基準>を示した。妥当な判決である。

 

「政教分離」とは國や行政が宗教と全く関わってはいけないという事ではない。それは不可能である。そこにたとえ何らかの宗教的側面があったとしても、行為の本来の目的が別にあったならば、「政教一致」にはならない。

 

國家や行政が宗教と全く関わってはいけないと言うのなら、善通寺市・天理市・金光町という自治体名をつけることは違憲になる。また、刑務所で特定の教団宗教に属する僧侶などが行っている「教誨」は公共の施設の中で宗教活動を行うのであるから明白なる違憲行為となる。さらに、東京都慰靈堂(都有財産・関東大震災及び戦災で亡くなった方々を慰靈する施設)で都知事などが出席して仏式で行われる「慰靈大法要」も明確に違憲である。

 

総理の靖國神社参拝は、戦没者慰靈が目的である。靖國神社という宗教法人を援助し助長するためではない。また他の宗教法人を圧迫するためでもない。したがって「現行憲法」下においても、総理の靖國神社参拝は合憲である。今後も正々堂々と参拝は続けられるべきである。

 

しかし、「現行占領憲法」に重大な欠陥がある事も事実である。敬神崇祖の伝統、美風にそって全國民が等しく英靈に対して感謝と慰靈の真心を捧げるという最も大切なことを禁じていると解釈できる「現行憲法」は悪法である。そうした憲法は一日も早く否定しなければならない。

 

日本という國は祭祀國家であり信仰共同体である。ゆえに、日本國を神道と切り離すことは不可能である。政教分離などという原則をわが國の神道祭式による公的な慰靈行為に適用してこれを禁止しようとすることが大きな間違いなのである。

 

政教分離の原則というのは、激しい宗教戦争を繰り返してきた西欧や中近東の國々において、政治権力と特定の教会・教団が結びついて他の教会・教団を弾圧し圧迫する事のないようにするために考え出された原則である。

 

わが國には、歴史を紐解けば明らかなように、一神教の世界のような激しくも残虐なる宗教戦争はなかったし、特定の教団が政治権力を壟断して他の教団を弾圧したり圧迫した歴史はなかった。

 

わが國の長い宗教史・精神史・思想史においては、儒教などの支那思想や仏教そしてキリスト教における日本の伝統と著しく異なる思想は自然にすたれて行き、わが國傳統信仰と融合したというのが事実である。

 

大東亜戦争で散華した二百十三万余英靈の人柱の上に今日の日本がある。そして英靈たちは今日唯今も祖國日本を護って下さっているのである。靖國の英靈に対しわれわれ今に生きる日本國民が感謝と慰靈の誠を捧げることが、日本國及び日本國民永遠の平和の基礎である。

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千駄木庵日乗十二月九日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2018年12月 9日 (日)

宮中祭祀・皇室祭祀・天皇の祭祀と憲法

宮中祭祀・皇室祭祀・天皇の祭祀が、『現行占領憲法』第八十九条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」に言う「宗教上の組織もしくは団体」の宗教活動ではない。況や特定の宗教を圧迫したり助成するものでもあり得ない。天皇の皇位継承に伴う公的儀式であると位置付けるのが当然である。

 

大原康男氏著『現代日本の国家と宗教-戦後政教問題資料集成』に収録された議事録によると、平成二年四月十七日衆議院内閣委員会における山口那津夫氏に対する答弁で、工藤敦夫内閣法制局長官(当時)は「まず第一に大嘗祭は皇室の行事として行われるもので、国の機関の行為ではないということでございます。その挙行のために必要な費用というものは、大嘗祭が皇位の世襲制と結びついて、一世に一度の儀式として古来から皇位の継承があったときは必ず挙行される、こういうことで行われてまいりました極めて重要な儀式である、そういう面に着目して支出をいたしましても、その支出の目的がその宗教的意義に着目して支するものではないということが一つでございます。そういう意味では、目的・効果論のうちのまず目的の大部分でございます。それから効果としましても、これが特定の宗教への助長、介入という津地鎮祭判決で述べておりますようなそういう効果を有することになるとは到底言えないであろう、かように考えているわけでございます。」

 

さらに平成二年五月二十四日衆議院大蔵委員会における上田卓三氏に対する答弁で河部正之宮内庁長官官房審議官(当時)は「皇室の行事につきましては、明文の根拠を必要とするものではございませんので、法令に違反しない限りにおきまして、皇室の伝統を尊重してこれを行うことができる、こういうふうに考えておるものでございます。大嘗祭は、皇位の継承があったときは常例として必ず挙行すべきもの、こうなっておりまして、一世の一たびの儀式として古来行われてきて極めて重要な儀式でございます。皇位の世襲制に結びついた即位に伴う儀式の一環をなすものとして皇室に伝承されてきたものでございますので、今日ともなお伝統に従ってこれを挙行すべきもの、このように考えております」。

 

さらに、平成二年四月十七日衆議院内閣委員会に置ける光武顕議員に対する答弁で宮尾盤宮内庁次長(当時)は「大嘗祭の費用を宮廷費から支出する理由でございますが、大嘗祭は…皇室の行事として行われることにいたしておりますが、それは皇位が世襲であることに伴います一世に一度の極めて重要な伝統的儀式としての性格があるということでありまして、そういう意味からこの費用は宮廷費から支出することが相当であるというふうに考えておるわけでございます」。(大原康男編著『詳録・皇室を巡る国会論議』)と述べた。

 

平成二年十二月二十一日に「『即位の礼』の挙行について」と題する「政府見解」で「大嘗祭」の意義について「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」であり、、「天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣を祈念される」ことを内容とする「皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である」と説明している。そして、「皇位の世襲制をとるわが國の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手立てを講ずることは当然と考えられる」「大嘗祭は、公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当である」と結論している。

 

今上陛下の御成婚の時、「賢所大前の儀」は『現行占領憲法』にある「国事行為」として執行されたのであるから、この度の御譲位、御即位における「大嘗祭」も國の公的行事として執り行われるべきである。

 

「大嘗祭」は日本伝統信仰の祭祀であり、そうした意味においては純然たる伝統的宗教行事である。そして、「大嘗祭」は、天皇陛下が行わせられる最も大切な公的行事である。故に、政府が、翼賛し奉り国費が使われても、特定の宗教教団を援助し助長したり、特定の宗教教団を圧迫するものではない。このようなことは、これまでのわが国の長い歴史事実が証明している。

 

「大嘗祭」を皇室の公的行事とし、国費を以て賄うことは『現行占領憲法』の「政教分離の原則」なるものに反するなどと批判することは歴史的事実を無視した杞憂である

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千駄木庵日乗十二月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年12月 8日 (土)

『特別展 皇室ゆかりの美術―宮殿を彩った日本画』展参観記

本日参観した『特別展 皇室ゆかりの美術宮殿を彩った日本画』展は、「当館創立者の山﨑種二(やまざきたねじ)は、1968(昭和43)年に完成された皇居宮殿を飾った美術品に感銘を受け、より多くの人々にこの優れた作品をご覧いただきたいという願いから、山口蓬春(やまぐちほうしゅん)、上村松篁(うえむらしょうこう)、橋本明治(はしもとめいじ)、東山魁夷(ひがしやまかいい)ら宮殿装飾を手掛けた日本画家たちに同趣向の作品制作を依頼しました。このたび、山種美術館では、これら当館所蔵の皇居宮殿にちなんだ作品を4年ぶりに一挙公開するとともに、皇室ゆかりの美術をご紹介する展覧会を開催いたします。加えて、天皇の手になる書・宸翰(しんかん)や宮家に伝来した絵巻、皇族から下賜された美術工芸品、野口小蘋(のぐちしょうひん)、下村観山(しもむらかんざん)、西村五雲(にしむらごうん)らによる宮家旧蔵の日本画など、皇室とゆかりの深い作品をご覧いただきます。さらに、1890(明治23)年に皇室による美術の保護奨励の目的で設置された帝室技芸員制度にも注目します。橋本雅邦(はしもとがほう)、竹内栖鳳(たけうちせいほう)、上村松園(うえむらしょうえん)らの日本画から、川之邊一朝(かわのべいっちょう)、並河靖之(なみかわやすゆき)、濤川惣助(なみかわそうすけ)、香川勝廣(かつがわかつひろ)らの工芸作品、そして黒田清輝(くろだせいき)や和田英作(わだえいさく)らの洋画まで、帝室技芸員に任命された作家たちの優品を通して、近代の美術家たちが皇室とどのように関わってきたかを振り返ります」との趣旨で開催された。(案内書)

 

後陽成天皇《和歌巻》、有栖川宮熾仁親王《和歌懐紙》、土佐光信《うたたね草紙絵巻》、伝 海北友雪《太平記絵巻 巻第12》、下村観山《老松白藤》、《犬張子形ボンボニエール》、《釣灯籠形ボンボニエール》、橋本明治《朝陽桜》、 東山魁夷《満ち来る潮》、竹内栖鳳《双鶴》、 山元春挙《火口の水》、 川合玉堂《鵜飼》、 横山大観《富士山》、上村松園《牡丹雪》、並河靖之《花鳥図花瓶》、 香川勝廣《菊に蝶図花瓶》、小堀鞆音《秋色鵜飼》,横山大観《飛泉》、安田靫彦《萬葉和歌》、山口蓬春《新宮殿杉戸楓4分の1下絵》、下村観山《寿老》などを参観。

 

どの作品も「美しい」の一語に尽きる。皇室・朝廷と日本文化は一体である。日本の伝統的な美術も文藝も皇室なくして継承されてこなかった。美術・工芸品は古代の正倉院御物から発してまさに皇室の歴史と共にある。彫刻は聖武天皇ご創建の東大寺の毘盧遮那仏像、建築物は聖徳太子ご創建の法隆寺がその元初であり今に伝えられている。和歌文学の伝承と創造は『萬葉集』以来勅撰和歌集がその中心である。

 

天皇御自ら書を書かれ、さらに歌も詠まれた。修学院離宮・桂離宮の御造営など建築・作庭も行わせられた。近代以後は、「歌会始」の儀執行、帝室技芸員の任命による美術工芸の保護奨励が行われた。そして戦後は、日本芸術院の創設・文化勲章授与などが行われ、日本皇室と文化の全く一体の歴史は今日まで脈々と受け継がれている。本日の参観であらためてそのことを認識させていただいた。

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2018年12月 7日 (金)

千駄木庵日乗十二月七日

午前は、諸事。

午後は、広尾の山種美術館で開催中の『特別展 皇室ゆかりの美術―宮殿を彩った日本画』展参観。

帰宅後は、休息。来週水曜日に行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備、原稿執筆の準備、資料検索、原稿執筆など。

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「天皇の祭祀」と『現行占領憲法』の政教分離の規定

 

『現行占領憲法』第二十条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」

とある。

 

 この規定で、「宗教上の行為、祝典、儀式または行事」などについては、「国及びその機関」の関与を禁止していない。禁じているのは「宗教的活動」だけである。

 

 『現行占領憲法』で言う「宗教的活動」とは「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」(昭和五十二年・津地鎮祭訴訟最高裁判決文)である。これが今日のわが国の司法判断である。

 

「大嘗祭」は、皇位継承にともなう重要な「天皇の祭祀」であり、広い意味で「宗教上の行為、祝典、儀式または行事」である。「宗教教育その他いかなる宗教的活動」即ち「津地鎮祭訴訟最高裁判決文」に言うような「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」ではないことは明らかである。

 

天皇陛下が日本伝統信仰の祭祀を行われることによって、日本に数多く存在する宗教団体を圧迫・干渉したり助長・促進したりすることは全くない。

 

『現行占領憲法』は「皇位は、世襲のもの」と明記している。(第二条)。「皇位の世襲継承の原則」をうたっているのである。この規定は皇位継承に必然的に随伴する伝統的諸儀式を当然のこととして予想し、包含していると解すべきである。

 

したがって、皇位継承に伴う重要な公的行事である「大嘗祭」に国費が使われても「政教分離の原則」に反するものではないし何ら問題はない。  

 

ともかく、「天皇の祭祀」「皇室祭祀」を普通一般の宗教教団の活動と同列に考えること自体が大いなる誤りである。

 

國體(國柄)は、憲法に基づいて確立されるのではない。一國の國體(國柄)に基づいて憲法の國體に関する条項が成文化されなければならない。日本國に即していえば、天皇國日本という我が國の國體は、憲法が制定される以前に生まれ、ずっと続いてきたのであり、憲法に規定されることによって合法性が与えられたのではない。

 

憲法は國の基本法であるけれども、「憲法にこう書かれているから、皇室はこうあらねばならない」とか「天皇はこういうことをされてはならない」と主張するのは本末転倒なのである。まして況や戦勝國よって押し付けられた『アメリカ製亡国憲法占領憲法』においてをやである。

 

日本國の憲法は天皇の國家統治の道統に即して制定されなければならないのである。「憲法があって國家がある」のではなく、「國家があって憲法がある」のである。

 

 また、憲法というものは、「権力の制限規範」と言われる如くあくまでも國家の権力機構やその権限を文章に規定したものである。日本國の國體とか伝統とかは憲法に規定されるもされないもなく厳然として存在するのである。そして権力者ではあらせられない天皇は「権力の制限規範」たる憲法に規制されることはあり得ない。

 

したがって、憲法及び法律そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 

 憲法や政治権力は、その権限を越えて、共同體國家の精神伝統及び國民の精神生活、道徳生活、文化創造活動などに介入したり制限を加えたりしてはならない。憲法や政治権力は、日本國の道統に立脚し、その道統を正しく実際の國家において実現するための役割を果たすべきなのである。『現行占領憲法』の一日も早い全面的否定が急務である。

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2018年12月 6日 (木)

千駄木庵日乗十二月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆など。

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2018年12月 5日 (水)

國學は明治維新の思想的基盤

 

 明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。

 

 そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

 そして外来の思想や文化を「からごころ」(「から」とは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学は幕末期の日本の危機に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。

 

 そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に 息吹きやらはれ しづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。

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千駄木庵日乗十二月五日

午前は、諸事。

午後は、平河町の平河天満宮参拝。

この後、平河町の先輩事務所訪問。懇談、意見交換。

帰宅後は、休息。書状執筆、原稿執筆など。

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祭祀は天皇の行われる最も大切な公事である

どんどん日が短くなってきた。十二月末の冬至が次第に近づいている。天照大御神の「天の岩戸の隠れの神話」は、冬至における太陽再生のお祭りという説がある。農耕民族の日本人にとって日照時間がどんどん短くなっていくことも気持ちのいいものではなかったろう。そこで太陽の再生・新生を祈る祭りすなわち微弱化した太陽を更新する祭祀・儀礼が行われたと思われる。

 

日本人は太陽神たる天照大御神を主神と仰いでいる。ゆえにすべてにおいて明るく大らかな民族である。「見直し」「聞き直し」「詔り直し」の思想もここから発するのである。天照大御神は、八百万の神々が行われた明るく笑いに満たされた歓喜の祭りによって、天の岩戸からご出現になった。厳しい苦行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないという他の宗教はとは全く異なる日本伝統信仰の特質である。

 

そしてその祭儀は太陽のもっとも衰える冬至に行われた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。天照大御神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり岩戸よりの出現は新しい太陽の再生なのである。

 

祭祀とは共同体における霊的・宗教的な営みの中でもっもとも大切なものであることは言うまでもない。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現するのである。

 

祭祀は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめるのである。生きとし生けるものは、一時的に生命が弱くなることがあっても、祭事によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂という植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再生するという農耕生活の実体験より生まれた信仰である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大御神の再生と共に行われるのである。さらに天照大御神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失わぬ精神によって実現する。こうしたことを象徴的に語っているのが天の岩戸神話であると考える。

 

今日の日本の混迷状態にあるが、我々国民が一致して再生の祭り即ち一切の穢れを祓い清める維新を行うことにより、天照大御神の地上におけるご代理であらせられる日本天皇の真姿が顕現し、日本国が再生し新生すると確信する。

 

天皇は祭り主であられるが日本の統治者である。統治と祭祀を切り離すことは國體を隠蔽する。「現行占領憲法」はまさにそういう憲法である。

 

皇室祭祀の大祭は、元始祭・昭和天皇祭・神武天皇祭・春秋の皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭である。最も大切なのは新嘗祭である。天皇は潔斎され、ご自身でお供えを行わせられる。大和朝廷発祥の地・纏向遺跡は新嘗祭が行われた形跡があると承る。

 

祭祀は天皇の行われる最も大切な公事である。天皇の祭祀は統治者としての祭りであり、統治と祭祀は一体である。

 

天皇が不断にお祭りをされ国民の幸福を祈られるので、被災地にお出ましになると、国民に勇気と慰めを与えられる。天皇はお祭りだけをされていればいいというのは本末転倒である。

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『新聞通信調査会シンポジウム・人口急減社会で何が起きるのか―メディア報道のあり方を考える』における登壇者の発言

六月二十八日に開催された『新聞通信調査会シンポジウム・人口急減社会で何が起きるのか―メディア報道のあり方を考える』における登壇者の発言は次の通り。

 

河合雅司産経新聞論説委員(基調講演)「今我々の生きている時代は、劇的に変わってゆく。これまで経験したことがないことが起こる。しかし、メディアも政治もこの問題にきわめて愚鈍。自分の身近にところに変化がないので何とかなると思っている。十年後はかなり変わっていても、日々の変化が小さい故に、みんなが対応できない。危機感を共有できない。この先何が起こるのか。二〇一七年の出生数は過去最低。死亡数は過去最高。婚姻件数は戦後最少。四十万人の人がこの國から減っている。この数は岐阜市の人口。産業は成り立たなくなってゆく。これから好転することはない。出生数が減る事がこの國の一番の危機。少子化とは次の世代の子供を生める女の人が減っていること。この下り坂のツケを我々はこれから払ってゆく。出産期にある女性(二十五歳から三十九歳)は二〇四〇年には今の四分の三。二〇六五年には半減してしまう。多産社会に戻るのは難しい。少子化は百年くらいは続く。子供が減っていくことを前提にしてこの國を豊かにして行くことを考えるべし。出生率は上がっていると政府は言うが、人口は減っている。今後出生数の大幅回復は望み薄。このまま何もしないで行くと百年間で出生する子供の数は三十万になる。百年後には今の人口の半分になる。二〇四〇年まで高齢者が増え若い人は減る。人口減少は地域によって異なる。女性高齢者が増える。男女とも八〇歳以上が増える。女性の半数は九〇歳まで生きる。一人暮らしが増加。貧しい高齢者が増える。非正規雇用で結婚できなかった人が増え、年金がもらえない人、子供がいない人が増える。前期高齢者と後期高齢者が逆転する。八四歳以上が人口の一四%になる。二〇四二年が人口のピークを迎える。団塊の世代がお元気で、団塊ジュニア世代も七十代で高齢者になる。親と同居の未婚者は三十一万人。五十万人が全面的に親に依存。年金保険料も支払って来なかった老後をどうやって生きて行くのかの問題が出て来るのが二〇四二年。働き手不足対策の政府の四本柱は①外国人労働者の受け入れ。②AI・ロボットの実用化。③高齢者の社会参加。④女性の活躍推進。重要だが『切り札』とはならず」。

 

上林千恵子法政大学社会学部教授「外国人労働者は一貫して増えている。外国人労働者とは近隣諸国の人と日系が殆ど。もっと賃金が高い所に行きたい、もっと長く日本に滞在したいなどの理由で失踪する。入国管理法違反」。

 

岩本晃一経済産業研究所上席研究員「ケアワークを含めると労働時間は長い。高卒男性管理職が大卒の女性管理職より多い。旧態依然とした結婚観が少子化を促進。男性の家事・育児参加は重要。第二子が生まれる割合が高くなる。女性の離職理由は育児が三割。『雇用の未来』の問題は、人口減少・少子高齢化問題とよく似ている。日本の急速な人口減少・少子高齢化はかなりの高い精度で予測されていた。資金的に余裕のあるうちから手を打つべきだと良識派は主張。だがそうした声はかき消され、目の前に危機が来るまで、日本人は手を打たずにここまで来た。『雇用の未来』は、数多くの調査分析により、将来の姿はある程度予想され、必要な対策もほぼ明らかになった。今度こそ現実の危機に直面する前に、今から真剣に取り組まないと、日本という国はますます沈没すだろう」。

 

諏訪雄三共同通信社編集委員兼論説委員「人口の減少によって消防などの住民サービスが困難になる。道路や橋、上下水道、公共施設といった社会資本が老朽化。鉄道・バスといった地域の足が成り立たなくなっている。公共サービスをどう維持するのか。年金を貰っている人を巻き込んでいくかを考えるべし。行政サービスに住民とNPOを巻き込んでいく。東京二十三区に団塊の世代が百万から二百万住んでいる。そういう人をどう面倒を見るかが問題。あと二百万人介護士を増やさないといけない。優生保護法の堕胎OKで人口が急激に減った。団塊の世代の子供が子を産めない。第二のベビーブームが来なかった。バブルの崩壊で人口問題が発生」。

 

水無田気流(詩人・社会学者「九十年代以降、先進国の女性の雇用安定が子供を増やす。年収が増えれば子を産む。婚姻率が高くなる。相乗効果。首都機能移転とか分散によって、南海トラフ巨大地震や首都直下地震を視野に入れた被害を受けにくい国づくりの一環で進めるべし」。

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千駄木庵日乗十二月四日

午前は、諸事。

午後、病院に赴き、診察を受ける。

帰宅後は、休息、原稿執筆など。

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2018年12月 4日 (火)

「天皇の祭祀」は断じて「私事」ではない

 

 天皇が天下を統治されるところを「都」といふ。天皇は祭祀主として神を祭り、國民の幸福・國家の平安・五穀の豊饒を祈られた。それを「まつりごと」といふ。そして、政治と祭祀は一体であった。天皇の祭祀が行われる宮のあるところであるから、「みやこ」といふ。天皇の行はれる祭祀は断じて私事ではない。

 

 天武天皇の御代までは「一代一宮の遷宮」といって、御代替りごとに皇居も新しく造営された。新たなる祭り主たる天皇が御即位になったら、宮も作り替えなければならなかった。新しき宮に新しき神霊が天降ると信じたからである。しかし、原則的には奈良盆地の東南すなわち大和地方の中に皇居が造営された。

 

 この慣習は、伊勢の神宮の式年遷宮に受け継がれてゐる。日本の伝統信仰・民族信仰の中心神殿たる伊勢の神宮は、二十年毎に式年遷宮が行はれ、神殿を新しく作り替え、御装束・神宝が新調される。式年遷宮を大神嘗祭といふ。神嘗祭とは、その年にできたお米を伊勢の大神にお供へする行事である。新しい宮を造ることによって、祭られてゐる神の威力が更新し増大すると信じられてゐる。

 

 神宮は決して過去の遺物として残ってゐるのではない。わが國の古代民族信仰は今日ただ今も脈々と生き続けてゐる。他の國の古代民族信仰は、キリスト教や回教に滅ぼされて、神殿は過去の遺物となってゐるが、日本伝統信仰は、今日ただ今も日本人の生活の中に生きており、全國各地でお祭りが行はれてゐる。最新の技術を用いた建物などを建設する時も、地鎮祭や上棟祭が行われる。國家元首が伝統信仰のまつりごとを行はれるといふのもわが日本だけである。

 

 アメリカ大統領は聖書に手を置いて宣誓をする。イギリス國王はキリスト教會で即位式を行ふ。しかしそれらは民族信仰・古代からの伝統信仰に基づく行事ではない。日本天皇は、御自身が古代以来の日本伝統信仰・民族宗教の祭り主であらせられ、しかも「現行憲法」においても「日本國の象徴」「國民統合の象徴」といふ事実上の「國家元首」であらせられる。このやうに國はわが國だけであらう。だからこそわが國の國體を万邦無比といふのである。日本國の中心地にして四方を山に囲まれてゐることが皇都の大原則であった。

 

 天武天皇の御代になると、國家の運営や外國との関係、宮殿の規模や官僚機構の肥大化などにより、「一代一宮」の制度は、事実上困難になった。また大化改新の後、唐の政治法律制度を見習ったので、唐の都を模した都を建設することとなった。そして、天武天皇は、都を御一代毎に遷都するのではなく、恒常的な新京造営を計画された。持統天皇はその御遺志を継がれて藤原京を御造営あそばされたのである。藤原京の造営によって「一代一宮制」は廃止になった。

 

 藤原遷都は、持統天皇八年(六九四)十二月である。藤原京は奈良県橿原市高殿町一帯を中心として九百二十メートル四方。中央に内裏がある。大内裏・朝堂院・大極殿を中心に中央政府の官庁が造られた。そして官僚の家族の住む家ができ、一万人位の官僚およびその家族が住んでゐた。その周りに一般の人々が住む家ができた。藤原京は、元明天皇の御代の和銅三年(七一〇)に奈良に遷都されるまで十六年間続いた。

 

 藤原京は、今日は無くなってゐる。しかし、藤原京跡地には大極殿跡が残ってゐる。そこに立つと今でも萬葉時代と同じ眺めすなわち大和三山と吉野の山々を眺めることができる。

 

 神話と祭祀とは、日本民族の固有の精神の在り方を示すものであり、日本という國の根底にある精神的道統・価値観・國家観・人間観を・文化観・宗教観を體現している。であるがゆえに、日本國家の統合・安定・継承・発展の基礎である。

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。近代日本は、様々な苦難に遭遇しながらも世界の中でめざましい変化と発展を遂げた國である。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥にある不動の核があった。それが日本天皇であることはいうまでもない。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が爆弾や原爆で破壊された時期があった。

 

しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

 

 今日の日本の危機を打開し救済するためには、「現代に生きる神話」すなわち<天皇の祭祀>が大切である。具體的に言えば、政治権力を掌握した人のみならず我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心を、道義的倫理的規範としてならい奉るということである。それが理想的な國家実現の基礎である。「天皇の祭祀」は決して「天皇の私事」ではないし、押しつけられた「占領憲法」に規制されないのである。 

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千駄木庵日乗十二月三日

午前は、諸事。

午後は休息。書状執筆、原稿執筆など。

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2018年12月 3日 (月)

「天皇の祭祀」について

 後土御門天皇は、明応四年(一四九九)に次のような御製を詠ませられた。

 

「伊勢   

 にごりゆく 世を思ふにも 五十鈴川 すまばと神を なほたのむかな」

 

第一〇三代・後土御門天皇の御代は、応仁文明の乱・疫病の流行・大火大地震などがあり、國民は疲弊し、朝廷の衰微も極に達した。崩御になられた後、御大葬は行はれず、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十九日に及んだといふ。この時もまた未曽有の國難であった。この國難に際して、後土御門天皇は御宸筆の「般若心経」を伊勢の皇大神宮に奉納し、聖算長久、武運安全、兵革静謐を祈願された。

 

この御製は聖天子の篤き祈りの御歌である。いかなる濁れる世、乱世であっても、否、そうであればこそ、上御一人日本天皇は、神の祭祀、祈りを深められた。そしてその事が、日本國再生の基となった。 

 

今上天皇におかせられても、國民と苦難を共にせられ、国民の幸福・国家の安泰そして世界の平和を神に祈られる祭祀につとめられてきた。

 

『現行占領憲法』に規定された「政教分離」とはある特定の教団宗教が政治権力を掌握してはならないという原則である。この政教分離の原則は西洋の宗教戦争や政治権力による宗教弾圧の経験から生まれたものである。ゆえに、我が國の伝統信仰と政治の関係とは全く異なる次元の原則なのである。

 

我が國伝統信仰=祭祀はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰行事である。それは我が國伝統信仰が國民生活の中から自然に生まれてきた信仰精神であるからである。

 

だからこそ、日本伝統信仰の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。我が國において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全國に國分寺・國分尼寺を建立された。我が國において仏教は、皇室を通して広まったと言っていいのである。そして日本伝統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合してきた。

 

今日、『現行占領憲法』の「政教分離」の原則とやらをやかましく言い立てて、日本伝統信仰=祭祀を排斥する勢力こそ、排他独善の教義・思想を信ずる勢力なのである。

 

日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられている。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の君主として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきている国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

 

現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>というのである。

日本国の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇陛下そして皇室のご存在があってこそ、日本国は安定と平和が保たれるのである。

 

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千駄木庵日乗十二月二日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、書状執筆、資料の整理、原稿執筆・脱稿送付。

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2018年12月 2日 (日)

天皇を祭祀主・君主と仰ぐ日本國體について


 

三島由紀夫氏は、祭祀國家と政治機構としての國家について次のように論じている。

「ネーションというものは祭祀國家というものが本源的にあって、これは管理機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。……ラショナル(四宮注・合理的)な機能を統治國家が代表して、イラショナル(非合理的)なイロジカル(非論理的)な機能はこの祭祀國家が代表している。ぼくの考えるよき國家というのは、この二つのイロジカルな國家とロジカル(論理的)な國家が表裏一體になることがぼくの考えるいい國家なんです。…天皇でなければだめなんです。どうしても祭祀國家の大神官がいなくちゃならんですね。」(『尚武の心』所収・村上一郎氏との対談「尚武の心と憤怒の抒情」)

 

「統治國家は遠心力とすれば祭祀國家は求心力であり、前者を空間的國家とすれば、後者は時間的國家であり、私の理想とする國家はこのやうな二元性の調和、緊張のはらんだ生ける均衡にほかならない」「祭祀的國家はふだんは目に見えない。ここでは象徴的行爲としての祭祀が、國家の永遠の時間的連續性を保障し、歴史・傳統・文化などが繼承され、反理性的なもの、情感的情緒的にものの源泉が保持され、文化はここにのみ根を見いだし、眞のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートス(四宮注・民族社會に共通な精神)の國家の首長が天皇である。」(「『變革の思想』とはー道理の實現」)

 

日本國の素晴らしさは、古代に生成した天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家が今日に至るまで解體したり断絶したりすることなく今日まで連綿として続いていることである。わが國は神話の時代のままに、高天原から天降られた天照大御神の「生みの御子」の使命を現身の形でそのまま受け継がれる天皇を現實に日本國の元首・君主と仰いでいることである。こういう貴い國は世界の何処を探しても見当たらない。

 

そしてその信仰共同體・祭祀國家は、単に理念的な存在もっと言えば架空にして抽象的な存在ではなく、山紫水明麗しい大自然に恵まれ稲作を中心とする農耕そして漁業などを営み、村落共同體から民族共同體へと生成発展してきたのである。

 

日本神話は天皇中心の日本國體を、「豊葦原千百秋之瑞穂國は、天照大御神生みの御子すなわち日本天皇の統治される國」と表現したのである。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同體國家であってこそ、國家への忠誠心も持つことが出来るし、國民としての道義精神と真の遵法精神を持つことができるのである。

 

ゆえに、神代以来連綿として続いてきた天皇國日本というわが國體の尊厳性を守るというのがわが国に於ける最高の遵法精神なのである。日本國立國の基礎であり成文法の基盤である天皇および天皇中心の國體の尊厳性をお護りする精神が最も大切である。

 

憲法をはじめとした成文法及び國家機関の正統性は、天皇を中心とする日本國體の上に立脚しているところにある。天皇の正統性は成文憲法に立脚するのではない。

 

また「現行占領憲法」において、天皇は「政治的権能を有しない」と規定されている。天皇陛下は「権力者」ではあらせられないということである。であるならば、天皇陛下に対し奉り、「権力の制限規範」とされる「成文憲法」が掣肘する事があってはならないのである。

 

天皇に対する尊崇の心・國體を護持しようという精神を國民が喪失すると、日本は日本でなくなり、日本國民は日本國民でなくなり、國は解體し、精神的に荒廃して行く。今日の日本はまさにそういう状況になってきつつある。日本の道義の頽廃は國民の尊皇精神が希薄になっているところにその原因がある。

 

わが國においては、國家への忠誠心と天皇尊崇の心は一體である。道義の回復も國防體制の確立も政治の安定も経済の再建も、天皇尊崇の精神が正しく回復されなければ不可能である。

 

悠久の太古から自然に生成されてきた天皇を中心とする麗しい信仰共同体である祖國日本が破壊され隠蔽され、人工的・人為的な利益國家・契約國家・権力國家にわが國が成り果ててしまうことは何としても阻止しなければならない。そのためには、天皇を祭祀主・君主と仰ぐ日本國體を隠蔽する一切の事象を祓い清めねばならないのである。

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千駄木庵日乗十二月一日

午前は、諸事。

 

午後は、専門家来宅して、パソコン・プリンターのメンテナンス。

 

休息。資料の整理、原稿執筆。

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2018年12月 1日 (土)

祭政一致とはいかなることかー天皇の日本國家統治の本質

 

 わが國古代においては、祭祀と政治は一體であった。だから祭祀も政治も「まつりごと」という。祭祀とは、五穀の豊饒と國民の幸福を神に祈る行事である。政治とは、規則と制度と行政によって國民の幸福を実現することである。祭祀と政治は本来その目的は一つである。これを「祭政一致」というのである。「祭祀」が「政治」と一體であるのは古代からの伝統である。祭祀によって國家國民の平和と繁栄を祈ることと具體的な施策や制度(すなわち政治)によって國家國民の平和と繁栄を実現することとは分かちがたいものであった。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方である。また民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。だから民から天皇を仰ぐときにはこの世に生きたもう神すなわち現御神(あきつみかみ)あるいは現人神(あらひとがみ)と申し上げるのである。

 

 「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが祭政一致であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位におられ続けた。国民主権といふ概念とは全く無縁なのである。

 

 日本においては、日本神話の「神聖な歴史の物語」は、今日ただ今も<天皇の祭祀>に生きている。神話の世界で、天照大神が行われたと同じ祭祀(新嘗祭)を、今上陛下は今日も行われている。よその國では滅びてしまった「神話の世界」が、日本においては、仏教やキリスト教といった世界宗教が日本に入ってきた後もそして、近代科学技術文明が入ってきた後も、<天皇の祭祀>として今も現実に生きている。日本の國の素晴らしさはここにある。つまり<天皇の祭祀>は日本における「生きた神話」なのである。

 

 神話と祭祀とは、日本民族の固有の精神の在り方を示すものであり、日本という國の根底にある精神的道統・価値観・國家観・人間観を・文化観・宗教観を體現している。であるがゆえに、日本國家の統合・安定・継承・発展の基礎である。このことは敗戦後戦勝国によって押し付けられた「占領家憲法」の規定などとは全く関係ないことである。

 

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。特に、今世紀の日本は、世界の中でめざましい変化と発展を遂げた國である。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥にある不動の核があった。それが日本天皇であることはいうまでもない。

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日本における「生きた神話」=<天皇の祭祀>が現代を救う

 

 日本においては、日本神話の「神聖な歴史の物語」は、今日ただ今も<天皇の祭祀>に生きている。神話の世界で、天照大神が行われたと同じ祭祀(新嘗祭・大嘗祭)を、今上陛下は今日も行われている。よその國では滅びてしまった「神話の世界」が、日本においては、仏教やキリスト教といった世界宗教が日本に入ってきた後もそして、近代科学技術文明が入ってきた後も、<天皇の祭祀>として今も現実に生きている。日本の國の素晴らしさはここにある。つまり<天皇の祭祀>は日本における「生きた神話」なのである。

 

 神話と祭祀とは、日本民族の固有の精神の在り方を示すものであり、日本という國の根底にある精神的道統・価値観・國家観・人間観を・文化観・宗教観を體現している。であるがゆえに、日本國家の統合・安定・継承・発展の基礎である。

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。特に、近代の日本は、世界の中でめざましい変化と発展を遂げた國である。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥にある不動の核があった。それが日本天皇であることはいうまでもない。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が爆弾や原爆で破壊された時期があった。

 

しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

 

混迷する現代日本は、崩壊の危機にあるといわれている。よほどの変革が行われなければならない。しかし、上に天皇がいますかぎりは、この危機を見事に乗り切るための変革を断行することができる。古来日本の変革思想は、祭政一致の理想國家への回帰がその根本にあったのである。

 

 今日の日本の危機を打開し救済するためには、「現代に生きる神話」すなわち<天皇の祭祀>への回帰しかないのである。具體的に言えば、政治権力を掌握した人のみならず我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心を、道義的倫理的規範としてならい奉るということである。それが理想的な國家実現の基礎である。

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千駄木庵日乗十一月三十日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆。

この後、丸の内の出光美術館にて開催中の『江戸絵画の文雅―魅惑の十八世紀』展参観。

帰宅後は、休息。原稿執筆に度。

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