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2018年11月15日 (木)

「君が代」「國」を思ふ心を歌った幕末志士の歌

明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際會して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

日本における最も大きな変革は明治維新である。國家変革即ち維新と和歌は不可分であるから、「萬葉の精神」は明治維新に大きな影響を及ぼした。幕末期の日本的ナショナリズムは、萬葉時代・建武中興の時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついてゐた。

 

江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなったのである。

 

幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放ってゐる。それらの歌は、なべて日本國の傳統精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されてゐる。

 

幕末の動乱期に「尊皇攘夷」の戦ひに挺身した人々の述志の歌は憂國の至情が表白され、「魂の訴へ」といふ和歌の本質そのものの歌ばかりである。

 

「君が代」「國」を思ふ心を直截に歌った幕末の歌を挙げさせていただく。

 

藤田東湖(水戸藩主徳川斉昭と肝胆相照らし熱烈な尊皇攘夷論を主張し尊攘運動に大きな影響を与へた)の歌。

 

かきくらすあめりかひとに天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや

(心をかき乱すやうなアメリカ人がやって来たが、天つ日が照り輝く日本の國風を見せてやればよい、といふ意)

 

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 

度會(わたらひ)の宮路(みやぢ) に立てる五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは神代なりけり

 

光平は、幕末の志士で國學者。河内國志紀郡の人。初め浄土真宗の僧となったが、加納諸平・中村良臣・伴信友らに師事して國學を修め、還俗。荒廃せる山陵再興を志し畿内を巡る。天誅組の大和義挙に参加して捕へられ京都六角の獄にて刑死。年五十二。著『南山踏雲録』など。文化十年〈一八一三〉~元治元年〈一八六四〉。

 

伴林光平は、伊勢参宮の時の実感を詠んだ。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆへに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。

 

「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思はれ、自分自身も神代の人のやうに思はれる」といふほどの意である。

「今即神代」が日本傳統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思ひを抱く。

 

近代歌人もこれと同じ思ひを歌に詠んでゐる。若き日に社會主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において「おのづから神にかよへるいにしへの人の心をまのあたり見む」と詠んでゐる。窪田空穂は「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでゐる。

 

今を神代へ帰したいといふ祈り即ち「いにしへを恋ふる心」がそのまま現状への変革を志向する。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴へてゐる。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 

光平は「いにしへを恋ふる歌」を詠み、さうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への実際行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

 

同年八月十三日、孝明天皇は、攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕へえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。 

 

光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、

 

君が代はいはほと共に動かねばくだけてかへれ沖つしら浪

 

である。「天皇國日本は巌のやうに不動であるから日本を侵略しやうとする國々は沖の白波のやうに砕けて帰ってしまへ」といふ意。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と傳へられる。死への恐怖などといふものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 

「君が代はいはほと共に動かぬ」といふ信念は光平の「神代即今」「今即神代」といふ深い信仰が基盤になってゐるのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

 

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

 

 吉田松陰の安政元年、二十五歳の時の歌である。江戸獄中より郷里の兄杉梅太郎に宛てた手紙に記されてゐたといふ。同年三月、伊豆下田にてアメリカ艦船に乗り込まんとして果たせず、江戸へ護送される途中、四月十五日高輪泉岳寺前を通過した時詠んだ。赤穂義士は吉良上野之介義央を討てば死を賜ることとなるのは分かってゐても、やむにやまれぬ心で主君の仇を討った。松陰自身もまさしくやむにやまれぬ心で米艦に乗らうとした。ゆへに赤穂義士に共感したのである。幕末志士の歌で結句を「大和魂」にした歌は多いが、この歌が最も多くの人々の心を打つ。あふれるばかりの思ひとはりつめた精神が五・七・五・七・七という定型に凝縮されてゐる。かかる思ひは和歌によってしか表現され得ないであらう。

 

 片岡啓治氏は「詩的精神、いわば自己自身であろうとし、もっとも固有な心情そのものであろうとする心のあり方が自らを語ろうとするとき、日本にもっとも固有な詩の形式を借りたのは当然であろう。そこには、自己自身であり、日本に同一化することがそのまま詩でありうるという、文學と現実の幸福な一致がある」(『維新幻想』)と論じてゐる。

 

日本固有の文學形式によって自己の真情が吐露できるといふことは、日本人が神から与へられた伝統である

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