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2018年11月22日 (木)

わが國の韓国併合は「植民地支配」とするのは大きな間違いである

わが國の韓国併合は「植民地支配」とするのは大きな間違いである。朝鮮は日本の植民地ではなかった。九州・四國と同じに考えられた合邦國家であった。だから朝鮮総督府は内閣に直属していた。

 

 明治天皇の『韓國併合に付下し給へる詔書』(明治四十三年八月二十九日)に、「(朝鮮の注)民衆は朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし。産業及び貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし。而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑はざる所なり」と示されている通り、わが國には韓國・朝鮮を搾取の対象たる植民地にする考えは全くなかった。

 

また、大正天皇は、大正八年三月一日の独立運動事件の後に出された『総督府官制改革の詔書』に、「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し其の民衆を愛撫すること一視同仁朕が臣民として秋毫の差異あることなく各其の所を得其の生に聊(やすん )じ斉しく休明の沢を享けしむることを期せり」と示された。

 

 わが國が朝鮮半島において植民地搾取を行ったと言うなら、『数字』を根拠とするべきである。朝鮮統治三十六年間、朝鮮総督府の財政予算の一五~二〇%は日本中央政府から補助を受けていた。「日本は朝鮮半島の土地を収奪し、人の命を収奪した」と言うが、日本統治時代に朝鮮の土地の利用価値・生産価値を高め、三十七年間の自然・社會環境の整備によって人口を倍増せしめた。「合邦國家」の誕生は「侵略」でもなければ、「植民地支配」でもなかった。

 

朝鮮、台湾、樺太を外地と呼ぶことはあったが、植民地と呼ぶことは政府によって排された。そして民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、李氏朝鮮時代の悲惨な状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。

 

朝鮮半島の歴史は、「中華帝國」への隷属の歴史であった。有史以来、李氏朝鮮は中華帝国の属国であった。李氏朝鮮王室は、朝鮮半島では絶対専制君主ではあっても、支那皇帝の臣下であった。李氏朝鮮の国是は大国・強国に仕える「事大主義」(『以小事大』(小を以て大に事〈つか〉へる)である。強い者を背景に弱い者をいじめるという体質である。「事大主義」は、李氏朝鮮建國以来の体質であり國策であった。

 

李氏朝鮮の国号は、李成桂が高麗王朝から政権を簒奪した後、明の皇帝から下賜された国号である。この国号は、日本が日清戰争に勝利し、大韓帝国になるまで五百年以上使われた。最初から言葉の真の意味における独立国ではなかったのである。李氏朝鮮は、「小中華」を名乗り、中華帝国の属国であることに満足していたのである。

 

朝鮮は、文化的にも政治的にも軍事的にも支那の属國であり続けた。李氏朝鮮王室は、権力を維持し自らが生き延びるためには、ロシアについたり、支那についたりする芸当を続けて来た。その一番良い例が、困窮に喘ぐ農民の一斉蜂起である東學党の乱の鎮定を清にゆだねたという事実である。

 

しかし、日清戦争の後の「下関条約」(明治二十八年)で、「清國は、朝鮮が完全無欠なる独立自主の國であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮國から清國に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)」事となった。すなわち、日清戦争における日本の勝利の結果、朝鮮半島は支那からの独立を獲得したのだ。

 

ところが、日清戦争の後日本が「三國干渉」に屈服すると、「日本弱し」と見た李氏朝鮮王室は、「清が駄目ならロシアがあるさ」とばかりに今度はロシアに接近し、日清戦争の翌年の一八九六年二月十一日、李朝国王・高宗は、宮廷を脱出して、何とロシア大使館に駆け込み、そこで政治をおこなうようになった。

 

このように日本に併合される以前の韓國は、ある時は支那の属國になり、ある時はロシアの属國となるという体たらくで、とても独立國と言える状況ではなかった。

 

日本が国運を睹して戦った日清、日露両戦争が韓国の独立保全を目的として戦われたことは両戦争の『宣戦の詔書』に明らかに示されている。

 

李朝は最早国家統治者としての資格を喪失した集団であった。朝鮮の悲劇の根源は、国王専制下の政治腐敗・農民に対する貪官汚吏の苛斂誅求にあった。また李氏朝鮮は國内の改革・近代化も全く進まず、経済的に破綻に近い状態にあり、権力者は腐敗し、政争を繰り返していた。そして國民は極度に疲弊し李朝の圧政に苦しんでいた。   

 

ともかく、当時の朝鮮半島は、きわめて不安定な情勢であった。これはわが國にとって重大な脅威である。そこで、日露戦争に勝利した日本は、事實上ロシアの属國であった朝鮮を併合したのである。当時の國際感覚では当然の成り行きであり、文字通り致し方の無い選択であった。 

 

日露戦争の後、韓国は『日韓協約』により我が国の保護国とされ、伊藤博文が初代統監に就任した。この協約締結に際しての伊藤博文の態度は今日批判を受けているが、その伊藤も本心は韓国を名実伴う独立国にすることにあった。韓国皇太子・李王垠殿下は伊藤博文を追慕して「伊藤は『自分は今、韓国を立派な国に建て直すために懸命の努力を払っておりますが、殿下はやがて韓国の帝位にお就きになる方ですから、それに相応しい御修行にお励みになりますように』と常々申していた」と語ったという。

 

しかしそうした伊藤博文の心が韓国民のよく理解するところとならず、ハルピン駅頭において伊藤博文は安重根の銃弾によって暗殺され、日韓併合に至るのである。

 

日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。日本が韓国統治において一方的な収奪したというのは大きく事実に反する。

 

日本の朝鮮統治により、朝鮮は多大な発展を遂げた。三○年間に、一○○万足らずだった人工が二五○○万に増え、平均寿命は二四歳から四五歳に伸び、未開の農業国だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌した。

 

日本本土から優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが整備された。その他、文芸・美術など文化面でも復興が遂げられた。 

 

韓国・朝鮮人の独立運動が国内外において起こったが、限定されたものであった。韓国人の多くは日本統治体制に協力した。日本に協力し日韓融合に努めた多くの青年達が、韓国が独立した後、大統領・首相・閣僚・参謀総長・企業家・高級官僚・学者をはじめとする国家指導者となった。こうした事実を否定することはできないし、否定することはかえって韓国人を傷つけることとなる。

 

日本の台湾・朝鮮統治は、台湾・朝鮮を搾取の対象としたのでない。投資と開発、教育の普及を行うことによって、共存・共栄の道を歩んだのである。台湾・朝鮮の遅れた社会構造を解体して産業革命の基礎を作り出したのである。

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