« 千駄木庵日乗十一月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十六日 »

2018年11月26日 (月)

三島由紀夫氏の自決は「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現した

 

 昭和四十五年十一月二十五日、三島氏が自決した際の『檄文』で「待った」という言葉を繰り返した。彼は自然死・病死を待ち切れなかったのである。

 

 三島氏は、『魔群の通過』(昭和二四年)という小説で、自殺願望で作家志望の「主人公・曽我」が他人から自殺について「自然に死ぬのを待ったっておなじことじゃないか?」と言われた時の返答として主人公に、「それが待てますか?」「僕だって胃癌の遺傳を持ってゐるんです。待てれば雜作がないんですよ」「しかし待てますか?」と言わせている。

 

 三島氏は何もかも待ち切れず、武士として、儀式に則って死んだのである。三島氏には、美しい自決の舞台が整っていなければならなかった。あの市谷台上こそ、その舞台であった。

 

『假面の告白』には次のように書かれている。「私は他人の中で晴れ晴れと死にたいと思った。」「人生は舞臺のやうなものであると誰しもいふ。しかし私のやうに、少年期のをはりごろから、人生は舞臺だといふ意識にとらはれつづけた人間が数多くゐるとは思はれない。」と。三島氏は事實この通りに形式を踏んだ死を選んだ。『葉隱入門』(昭和四二)で三島由紀夫氏は、「死を心に當てて萬一のときには死ぬはうに片づくばかりだと考へれば、人間は行動を誤ることはない。」「切腹といふ積極的な自殺は、西洋の自殺のやうに敗北ではなく、名譽を守るための自由意思の極限的なあらはれである。」「生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。『葉隱』はこの場合に、ただ行動の純粹性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定してゐる。それを『犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武士道』だと呼んでゐる。」「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覺に、いつも陥りたがる。しかし『葉隱』が示してゐるのは、もっと容赦のない死であり、花も實もない無駄な犬死さへも、人間の死としての尊嚴を持ってゐるといふことを主張してゐるのである。」と論じている。これは明らかに死の賛美である。死に理屈は要らないとする。死はただ美しいのである。

 

 三島氏が「死」にもっとも接近した機会は、昭和二十年、二十歳の時に、軍隊への召集であった。だが、即日帰郷となってその機会は失われた。それが三島氏の大きな心の傷・負い目・負の遺産となったと言われている。

 

 三島氏は、『假面の告白』で「私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。營門をあとにすると私は駈け出した。荒涼とした冬の坂が村のはうへ降りてゐた。…ともかくも『死』ではないもの、何にまれ『死』ではないもののはうへ、私の足は駈けた。」と書いている。それは「死にたい人間が死から拒まれるといふ奇妙な苦痛」(『假面の告白』)であったという。

 

 以来戦後一貫して三島氏は死に憧れ続け、今日生きていても明日は生きているという保証はない世界に憧れた。虚弱體質ゆえの死からの脱出が、戦後頑健な肉體を作ることを實行させ、さらに「死ではない方」への疾走が、「死」への疾走になっていったのかも知れない。三島氏の若き頃からの「死への願望」がいよいよ極まって極限状況になった時、前述した「日本の傳統的文化意志」が三島氏の精神に甦った。別の言い方をすれば、日本の神々の御稜威が三島氏を通して発現した。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であった。三島氏は、ドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。文士は、「散らぬ桜」を創作し続ける人である。三島氏は文士としての自己の使命は果たし終え、「散る桜」すなわち武士として死んでいくことを決意したのである。

 

 三島氏は文士という言葉をよく使った。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文人」を「文士」ということはあるが、「商人」を「商士」とはいわない。「士」とは立派な男子という意味である。「文士」とは文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。

 三島氏は、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。この「身分の高貴さ」とは、「死を恐れない武士」のことである。

 

 日本民族の傳統的な文化意志において、切腹はまさに美の實現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の實現の最高の形態と言って良い。

 詩歌などの「文」は、いうまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け割腹自決によって最終的に實現したと言える。

 

 愛するものへ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と言える。

 

割腹自決は名誉ある死であると共に、克己心が必要な苦しい死である。三島氏が理想とした美の極致としての自決は、絶望と苦しさからの逃避のための自殺とは全く別次元のものである。

 

三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

戦後の「平和と民主主義」の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。そして、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、「おのれの美學」のために死ぬなどということはない。

 

 三島氏の自決の決意は、『檄文』の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ」という言葉に示されている。

 

「義のために共に死ぬ」という覚悟は、大東亜戦争中即ち十代の三島氏が信じたものであったに違いない。それは三島氏自身が言った「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の時代の「源泉の感情」である。その感情が三島氏に死を決意させたと言える。

 

三島氏は、大東亜戦争において死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪した。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬した。「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現したのが三島氏の自決であった。

 

三島氏は、「戦争で死ぬことができなかった。死に遅れた」という悔恨を持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。

 

|

« 千駄木庵日乗十一月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十六日 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 三島由紀夫氏の自決は「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現した:

« 千駄木庵日乗十一月二十五日 | トップページ | 千駄木庵日乗十一月二十六日 »