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2018年11月17日 (土)

石破茂氏の大東亜戦争観について

石破茂氏(当時自民党幹事長)は『文藝春秋』平成二十五年二月号所載「新しい自民党をつくる」といふ論文で、「私にとって政治家としての信念とは、『集団的自衛権行使を可能とし、独立主権国家にふさわしい国家をつくる』ことでありこれは今も変わらない」「占領下でつくられた現行憲法を戴いている限り、日本は真の独立国家たりえない。現行憲法には、独立国家の憲法であれば、当然定められているべき、軍の規定と非常事態条項が抜けているからである。そこを見直して、独立国家にふさわしい法体系を整えることが、すなわち、『戦後レジームからの脱却』であり、そもそも自民党はそのためにつくられた政党であることは、結党時に定められた綱領を見れば明らかだ」「『常識的に考えて、北朝鮮は軍事行動はとるまい』という楽観論を、独立国家は持つべきではない」と論じてゐる。全く正しい見解である。

 

ところが石破茂氏はさらに次のやうに論じた。「これは私の持論だが、戦後レジームからの脱却は、先の戦争に対する検証なくしては、あり得ない。この検証プロジェクトは、安倍総理主導のもと、政府として取組むべきことだと思う。終戦後、『一億総懺悔』という言葉が一人歩きし何となく国民全員が悪かったのだということになったが、これは誤った認識だ。敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たちと、国のために命をささげた兵士の責任が一緒であっていいわけがない。皮肉なことだが、人は歴史からは、絶対に学ばないというのは、ほとんど唯一の歴史の教訓である。だからといって、あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」と論じてゐる。

 

さても大変なことを主張したものである。「歴史の検証」とは具体的に一体どういふことなのか。しかもその「歴史の検証」安倍総理のもとにプロジェクトを作り政府で行ふといふのである。

 

これまで、大東亜戦争の歴史の検証あるいは論議は様々な個人・報道機関・政党・研究団体などが行ってきた。しかし検証や論議の結果は様々な結論や認識がだされ、統一的見解は戦後七十三年を経過しても提出されゐない。それはある意味当然のことである。

 

大東亜戦争に限らず歴史問題に関して政府がプロジェクトを作って検証し、統一見解を出すなどといふことは全く不可能になことである。

 

だから政府機関によって「歴史の検証」が政府の機関で行はれないままに、平成二十六年年七月一日、政府は臨時閣議を開き、憲法九条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めたのである。これに対して当時の石破茂自民党幹事長が激しい抗議を行ったと言ふ事は聞かなかった。

 

石破氏の言ふ「先の戦争」とは「大東亜戦争」の事であらうが、あの戦争の歴史の検証とは、昭和十六年の開戦から同二十年の終戦までの歴史を検証すれば良いと言ふ事ではない。「東亜百年」或はそれ以上の歴史を検証しなければ、真の検証にはならない。

 

石破氏の「あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」といふ主張は全く理解できない。「あの戦争の実態を検証」の結果を待ってゐたら、それこそ永遠に『集団的自衛権行使の議論』は始まらなかったであらう。「検証」はさう安易にたやすくできることではない。まして、内閣・政府が行ふなどといふことは全く不可能なことである。

 

石破氏は「敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たち」と論じてゐるが、果たして昭和十六年十二月八日開戦の大東亜戦争(米英との戦ひ)は最初から敗戦が明白であったかどうか、それこそ検証が必要である。

 

『大東亜戦争開戦の詔書』に「米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益〻經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」と示された戦争目的の達成があの勝利である。

 

『詔書』に示された戦争目的の達成は不可能であったと断言することは全くできない。むしろ米英との四年間の戦ひは、英米などの欧米帝国主義国家による東亜侵略を防ぎとめ、中東を含む大アジア諸国家・諸民族を解放した偉大な戦ひであったと小生は考へる。

 

ともかく、正当なる国防論を唱へてゐるだけに甚だ残念であるが、石破氏の歴史に対する考へ方は承認することはできない。

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2018年11月16日 (金)

千駄木庵日乗十一月十六日

朝は、諸事。

午前十時半、病院に赴き診察を受ける。来月精密検査を受ける必要ありとのこと。

帰宅後は、休息。原稿執筆。『伝統と革新』編集の仕事。

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日本民族の道義心・倫理觀の根幹

「矢弾盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國(みくに)護らむ」

 

牛島満

 

牛島満陸軍中将が、昭和二十年六月二十三日午前四時三十分、沖縄県摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決された時の辞世歌である。真にも悲しくも深く切なる歌である。自決した後も、魂は祖国に帰ってきて日本を護るといふ決意を示された歌である。

 

牛島司令官はまた、

「秋を待たで枯れゆくしまの青草は皇國(みくに)の春によみがへらなむ」

 

といふ辞世も遺されてゐる。

 

摩文仁の丘は、沖縄戦で日本軍および沖縄県民が最後の最後まで戦った地である。今は多くの慰霊塔が建てられ、平和記念公園になってゐる。美しい沖縄の天地に囲まれ整へられた公園であるが、戦争の悲しい歴史は消し去ることは出来ない。摩文仁岳の西端には、牛島司令官そして長勇参謀長など日本軍第三十二軍将兵の御霊を慰霊する『黎明之塔』も建てられてゐる。

 

日本人は、死んだらご先祖が草葉の陰から子孫を守って下さるといふ信仰がある。靖國神社そして各県の護國神社に鎮まりまします護國の英靈は今日唯今もわが祖國をお護り下さってゐるのである。

 

 それは皇后陛下が「終戰記念日」と題されて、

 

「海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御靈國護るらむ」

 

 と、詠ませられてゐる御歌を拝しても明らかである。

 

 國家も國民も現に今生きてゐる者たちのみによって成り立ってゐるわけではない。わが國建國以来、この國に生まれこの國に生きこの國に死んでいった人々の御靈、とりわけ國のために命を捧げた尊い英靈たちの御蔭によって今日のわが國そしてわが國民の存在があることを忘却してはならない。

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」(よその世界・まだ行くことのできぬ世界)である。従って人が死んだことを「他界した」と言ふ。亡くなった人は草葉の蔭から生きてゐる人を見守るといふことは、死後の世界と現世は遮断してゐないで交流し連動してゐるといふことである。それは『古事記』に記されてゐる伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉(よみの)(くに) の「神話」に明らかである。

 

死後の世界は、次第に理想化・光明化されて行き、神々の住みたまふ世界と信じられるようになった。なぜなら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでゐるなどと考えへることに耐へられないからである。しかし、反面、穢れた他界も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでゐると信じられた。素晴らしい聖なる世界・清らかな「他界」は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき「他界」は夜見の国・根の国と呼ばれた。

 

春秋二回のお彼岸は、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事である。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねて来ると信じてきた。「彼岸」とは向かふ岸といふ意味であり、日本人の他界観念とつながる。

 

この世を去った方々の御靈に感謝すると共に、現世に生きる者たちを護りたまへと祈ることが、わが國の傳統信仰として今日まで生き続けてゐる。それは、日本民族の道義心・倫理觀の根幹である。

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今日聞いたこと。今日思ったこと。

今日の会合で、外交官の方や学者の方から次のような意見を聞いた。「『非核三原則』で思考停止しているのはおかしいし危険」「平和を願っていれば平和になるという考え方は悪い意味の神秘主義」「イランでクライシスが起こると日本に石油が入って来なくなる」「北朝鮮とは国交を結ぶべきではない。今の韓国政府は『日韓基本条約は不平等条約だ』と思っている。韓国との関係正常化はあと十年くらいかかる」。

 

『月刊文春』に前靖國神社宮司が手記を書いている。神社側のコメントでは確か「暫く身を慎む」はずだった。違和感を覚える。しかもその内容はやはりおかしなこと、納得できないことが書き連ねられている。

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千駄木庵日乗十一月十五日

午前は、諸事。

午後は、休息。

午後六時半より、霞が関の霞山会館にて、『岡崎研究所懇親会』開催。茂田宏理事長が挨拶。笹川陽平・笹川平和財団名誉会長、加藤良三元駐米大使、下川眞樹外務省官房長、田中伸男笹川平和財団会長などがスピーチ。

帰宅後は、休息、原稿執筆。

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2018年11月15日 (木)

「君が代」「國」を思ふ心を歌った幕末志士の歌

明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際會して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

日本における最も大きな変革は明治維新である。國家変革即ち維新と和歌は不可分であるから、「萬葉の精神」は明治維新に大きな影響を及ぼした。幕末期の日本的ナショナリズムは、萬葉時代・建武中興の時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついてゐた。

 

江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなったのである。

 

幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放ってゐる。それらの歌は、なべて日本國の傳統精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されてゐる。

 

幕末の動乱期に「尊皇攘夷」の戦ひに挺身した人々の述志の歌は憂國の至情が表白され、「魂の訴へ」といふ和歌の本質そのものの歌ばかりである。

 

「君が代」「國」を思ふ心を直截に歌った幕末の歌を挙げさせていただく。

 

藤田東湖(水戸藩主徳川斉昭と肝胆相照らし熱烈な尊皇攘夷論を主張し尊攘運動に大きな影響を与へた)の歌。

 

かきくらすあめりかひとに天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや

(心をかき乱すやうなアメリカ人がやって来たが、天つ日が照り輝く日本の國風を見せてやればよい、といふ意)

 

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 

度會(わたらひ)の宮路(みやぢ) に立てる五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは神代なりけり

 

光平は、幕末の志士で國學者。河内國志紀郡の人。初め浄土真宗の僧となったが、加納諸平・中村良臣・伴信友らに師事して國學を修め、還俗。荒廃せる山陵再興を志し畿内を巡る。天誅組の大和義挙に参加して捕へられ京都六角の獄にて刑死。年五十二。著『南山踏雲録』など。文化十年〈一八一三〉~元治元年〈一八六四〉。

 

伴林光平は、伊勢参宮の時の実感を詠んだ。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆへに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。

 

「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思はれ、自分自身も神代の人のやうに思はれる」といふほどの意である。

「今即神代」が日本傳統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思ひを抱く。

 

近代歌人もこれと同じ思ひを歌に詠んでゐる。若き日に社會主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において「おのづから神にかよへるいにしへの人の心をまのあたり見む」と詠んでゐる。窪田空穂は「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでゐる。

 

今を神代へ帰したいといふ祈り即ち「いにしへを恋ふる心」がそのまま現状への変革を志向する。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴へてゐる。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 

光平は「いにしへを恋ふる歌」を詠み、さうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への実際行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

 

同年八月十三日、孝明天皇は、攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕へえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。 

 

光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、

 

君が代はいはほと共に動かねばくだけてかへれ沖つしら浪

 

である。「天皇國日本は巌のやうに不動であるから日本を侵略しやうとする國々は沖の白波のやうに砕けて帰ってしまへ」といふ意。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と傳へられる。死への恐怖などといふものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 

「君が代はいはほと共に動かぬ」といふ信念は光平の「神代即今」「今即神代」といふ深い信仰が基盤になってゐるのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

 

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

 

 吉田松陰の安政元年、二十五歳の時の歌である。江戸獄中より郷里の兄杉梅太郎に宛てた手紙に記されてゐたといふ。同年三月、伊豆下田にてアメリカ艦船に乗り込まんとして果たせず、江戸へ護送される途中、四月十五日高輪泉岳寺前を通過した時詠んだ。赤穂義士は吉良上野之介義央を討てば死を賜ることとなるのは分かってゐても、やむにやまれぬ心で主君の仇を討った。松陰自身もまさしくやむにやまれぬ心で米艦に乗らうとした。ゆへに赤穂義士に共感したのである。幕末志士の歌で結句を「大和魂」にした歌は多いが、この歌が最も多くの人々の心を打つ。あふれるばかりの思ひとはりつめた精神が五・七・五・七・七という定型に凝縮されてゐる。かかる思ひは和歌によってしか表現され得ないであらう。

 

 片岡啓治氏は「詩的精神、いわば自己自身であろうとし、もっとも固有な心情そのものであろうとする心のあり方が自らを語ろうとするとき、日本にもっとも固有な詩の形式を借りたのは当然であろう。そこには、自己自身であり、日本に同一化することがそのまま詩でありうるという、文學と現実の幸福な一致がある」(『維新幻想』)と論じてゐる。

 

日本固有の文學形式によって自己の真情が吐露できるといふことは、日本人が神から与へられた伝統である

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千駄木庵日乗十一月十四日

午前は、諸事。

午後は、休息。今夜の『萬葉集』講義の準備。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が柿本人麻呂歌集の歌などを講義。質疑応答。

帰途、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、休息。原稿執筆。

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2018年11月13日 (火)

六月二十七日に開催された東京財団政策研究所フォーラム第111回「トランプ大統領はどこまでできるか――大統領権限と政策動向を読み解く」における登壇者の発言

六月二十七日に開催された東京財団政策研究所フォーラム第111回「トランプ大統領はどこまでできるか――大統領権限と政策動向を読み解く」における登壇者の発言は次の通り。

 

久保文明東京財団政策研究所上席研究員(「アメリカ大統領権限分析」プロジェクトリーダー/東京大学大学院法学政治学研究科教授)「トランプ大統領は大統領令を連発して新しい政策に着手したように見える。しかし、フランス・韓国・ロシアと比較してアメリカは大統領としての権限は限定されている。何でも好きなことができるわけではない。外交では自由裁量権がある。議会と大統領の力関係は変動している。日本は三権分立が固定している。しかしアメリカは三権の関係は変化している。トランプは司法をより共和党化した。トランプの支持率はオバマと同じ。アメリカの制度は強靭性がある」。

 

梅川健首都大学東京法学部教授「一九三〇年から六〇年は協調的大統領制。ユ一九七〇年代から今日まではニラテラル(片務的、一方的)大統領制。前者は大きな政府を目指したので大統領の権限が大きいことがアメリカの民主主義の強さだと言われた。後者は保守とリベラルの対立が激しく議会で法案が通らない。

大統領権限で何でもできると思って当選してきたのに、それが出来なくなった。無理をしながら人々の支持を得ようとしている。大統領に法案提出権はない。行政は議会によって作られた法律を執行する。どういう風に法律を執行すべきかを記したのが大統領令。関税の問題ではトランプは大統領令をうまく使った。大統領に不逮捕特権があるかどうか分らない。アメリカでは法律に書き込まれていないことが多い。大統領の訴追については未だ定まっていない」。

 

松岡泰熊本県立大学名誉教授「議会が承認しないと人事か決められない。議会対策が重要。これを側近の補佐官が行う。一九六〇年代までは白人しか議会にいなかった。今と違ってイデオロギーしか対立はなかった。一九七〇年代から八〇年代に、価値と文化を巡る対立になった。共和党支持層の九割は白人。民主党はヒスパニックと黒人に支持層が多い。社会の中に眠っている亀裂を極端に強調することによって自分たちの支持者を増やす。トランプは民主党幹部を罵倒して大統領になった。議会がなかなか動いてくれない。中間選挙でトランプは議員を作りたい」。

 

杉野綾子日本エネルギー経済研究所主任研究員「トランプは良からぬことをしていると裁判所がストッパーになっていて、アメリカの民主主義が健全に機能している」。

 

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千駄木庵日乗十一月十三日

午前は、諸事。

午後は、休息。原稿執筆。『伝統と革新』編集の仕事など。無理をしないように努めています。家の中でもゆっくりと行動しています。すると心も落ち着きます。今日は以前大変にお世話になった方からお見舞いのお手紙をいただきました。有り難き限りです。

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三島由紀夫・森田必勝両氏の辞世について

三島由紀夫氏は、戦後日本の廓清のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の「祖國への献身、天皇への捨身」という「源泉の感情」への回帰であった。

 

三島由紀夫氏は歴史の中に生きた高貴な魂であった。日本の文化意志・日本の神々の御稜威を体現した三島氏の魂は決して過去の存在ではなく、今日の日本の日本人の魂を奮い立たせ覚醒せしめる存在である。そういう意味で三島氏自身もまた日本の神々になられたのである。

 

 

 三島由紀夫氏辞世

 

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

 

 

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

 

 

 森田必勝氏辞世

 

今日にかけて かねて誓ひし わが胸の 思ひを知るは野分(のわき)のみかは

 

 「益荒男が」の歌は、直訳すると、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合わないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」という意。

しかし、「鞘鳴り」というのは単に鞘の音がするという物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿っているという信仰があった。鞘が鳴るというのはその刀剣に宿っている靈が発動するという意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたということである。

 

「檄文」にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒する者を待つわけには行かぬ」という叫びに呼応する歌なのである。

 

 「散るをいとふ」の歌は、「散ることを嫌がっている世の中にも人にも先駆けて散っていくのこそ花であると吹く小夜嵐(夜に吹く強い風)」という意味である。

 

これは「散華の美」を歌っている。今の世の中は繁栄と生命尊重にうつつを抜かして、命を絶つとか國のために生命を捧げるということを嫌がっているが、生命以上の価値即ち日本の伝統と文化そしてその體現者でらせられるところの天皇陛下の御為に命を捧げることこそ真の美しき生き方であり死に方であるという歌である。

 

「今日にかけて」の歌は、「今日という日にかけたかねてから誓っていた私の胸の思いを知るのは野分(のわき・秋から初冬にかけて吹く強い風)のみであろうか、いやそうではない」という意。

 

誰も分かってはくれないのではないかという孤独感を持ちながらも、いやそうではない誰かは分かってくれると信じて散っていく心を歌っている。

 

「今日の初霜」「小夜嵐」「野分」という季節感のある言葉を用いて志を述べているのはまさに日本文芸・敷島の道の道統を正しく継承していると言える。

 

 和歌というものは、日本伝統精神を保持し継承する殆ど唯一の文芸である。和歌の形式(五七五七七)とそこから生まれる「しらべ」が日本人の心情を訴えるのにもっとも適しているのである。

 

 『萬葉集』以来、歌は祈りであり鎮魂である。本居宣長は「物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづから文(あや・言葉の飾った言い回し。表現上の技巧・注)ある辭が、歌の根本にして、眞の歌なり」(石上私淑言・いそのかみささめごと・歌論書)と述べている。

 

「もののあはれ」即ち物事に対する感動・自己の魂の訴えを一定の「カタ」におさめて美しく表現するのが歌である。

 

そうした特質を持つ和歌の中で、萬感の思いを全靈を傾けて表白しようという切なさにおいて成立しているのが、「相聞」と「辞世」と「挽歌」である。とりわけ「辞世」は文字通り命を賭した歌である。

 現代の危機の一つとして、言葉の乱れということが言われている。この言葉の乱れは、情報化社會といわれ、活字媒體のみならず様々な情報伝達機能が発達した現代において、言葉を発するということ自體、苦しむこともなくなりきわめて安易になっていることが原因になっていると思われる。これが現代の腐敗・堕落・混迷の原因の一つである。

 

つまり言葉までもが商品化しているのである。「言靈のさきはふ(豊かに栄える・注)國」といわれてきた日本において、現代のように言靈があまりにも安易に語られて過ぎている時代はかつて無かった。

 

 死に臨んだ時の「言葉」「歌」は即ち「辞世」は命懸けの言靈である。昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫・森田必勝両氏の自決の際の「辞世」はまさに命懸けの言霊であった。そしてそれは今日においても強く激しく鳴り響いているのである。

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千駄木庵日乗十一月十二日

午前は、諸事。

 

午後三時半より、永田町の衆議院第二議員会館にて、『明治の日推進協議会』実行委員会開催。相澤宏明氏が司会。稲田朋美衆院議員がスピーチ。全員で討議。

 

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・送付など。

 

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2018年11月12日 (月)

第九十回日本の心を学ぶ会のお知らせ

 

 

第九十回日本の心を学ぶ会

 

三島由紀夫と楯の会事件を考える

 

第九十回の勉強会は三島由紀夫が蹶起した十一月二十五日に開催いたします。

四十八年前の昭和四十五年十一月二十五日に三島由紀夫氏は楯の会会員四名と共に東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部において総監を人質にとり約千名の自衛隊員の前で「憲法を改正し天皇を中心とする建国の本義に基づいた真の国軍になるべく蹶起せよ」と演説を行い、楯の会会員一名と共に割腹自殺を遂げました。

 

事件そのものは約一時間二十分という短い時間だったにも関わらずこの事件は政治的にも社会的にも大きな衝撃と影響を与えました。

 

政界やマスコミは一様に三島氏の行動を、狂気であり軍国主義の復活を目指すものであり、民主主義の危機であるという否定的な反応であふれました。平和主義や民主主義など戦後日本の基盤となるような価値観を再確認せざるを得なかったところにこの事件の衝撃性があったといえましょう。

 

つまり三島氏は蹶起をつうじて戦後日本の自明とする価値観へ根源的な疑問を突き付けたといえます。三島は「檄文」の中で國體、憲法、国防など重要な問題について真正面から問いかけております

 

これらの「問いかけ」は、蹶起以来四十八年を経過した今日、ますます深刻な問題として我々に突き付けられています。憲法改正、自主国防体制の確立、そして何よりも日本國體の眞姿の回復という所謂国家基本問題は何一つ根本的に解決してはおりません。

 

今年最後の勉強会では「楯の会」の蹶起について考えてみたいと思います。

 

【日時】平成301125日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-B

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5

東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15

都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【演題】三島由紀夫氏義挙の精神と現代の日本

 

【講師】 四宮正貴 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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2018年11月11日 (日)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提に、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか蹶起以来四十八年を経過した今日、三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。だから、三島氏は「文士」という言葉を使ったと思う。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、言葉の正しい意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここで言う「身分の高貴さ」とは、階層的・職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏の作品と人生における「文化意志」は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道の実現」であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその「美の極致」を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。 

 

 『萬葉集』所収の「柿本人麿歌集」の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に置き換えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方であろう。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動をいわゆる「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りだ。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島氏の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。           

 

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。生き長らえれば、三島氏の四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪したのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。しかし、その後の時代の経過は、三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。

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千駄木庵日乗十一月十一日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料整理、原稿執筆など。

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『やまと』とは

 

「やまと」は、申すまでもなく日本国の意である。古義では、皇都のある国を中心としてその四辺を指したといふ。大和朝廷の都があった奈良盆地の東南地域が「大和(やまと)」と呼称されてゐたといふ。そして奈良中期になって、外国に対して日本国といふ観念になったといふ。

 

石井良助氏は、「やまと」とは、山門(やまと)即ち山への入り口といふ意であるとし、「そのやまとは三輪山辺りから東方の伊賀の山地に違いない。そして伊賀を超えれば伊勢である。大和より東方で、早朝太陽を仰ぐ勝地として五十鈴川の近辺に太陽神たる天照大神が祀られた」と論じてゐる。

 

高崎正秀氏は、「大和とは、神座を指す意味を持ってゐるから、山の神事を行ふ座席―山の神座―それがやまとではなかったらうか。そこで行われる神事儀礼の威力の及ぶ範囲が『やまと』と呼ばれ、これが次第に国名になり、日本総國に国号にまで拡大されていく」と論じてゐる。

 

「やまと」とは、「山上の神座(かみくら)」のことであり、「天皇が祭事を執行せられる地」を指したと思はれる。

 

「やまと」は、神話時代以来日本人の魂のふるさとであり、日本人の最も大切な心の置き所であった。日本武尊が恋慕した美しい国であった。古代歌謡や萬葉歌に「やまと」を歌ひこめた歌が多い。古代の歌人(うたびと)たちは常に「やまと」を思ひ、たとへ肉体は滅びても魂となって還るべき地が「やまと」であると思ってゐた。

 

元明天皇の御代の和銅六年(七一三)五月に『風土記』を編纂する勅令が出されると共に、雅字を用いた二字で地名を表すやうにとの勅令が下された。これを『好字二字令』『諸国郡郷名著好字令』と言ふ。

 

それまで、国名、郡名、郷名の表記の多くは、やまと言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないことが多かったので、地名の表記を統一する目的で発せられた勅令である。

 

さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいふ)を用いることになった。そこでそれまで「やまと」は「倭」といふ漢字が充てられてゐたが、「大和」と言ふやうになったといふ。ちなみに「下毛野」は「下野」(現栃木県)、「上毛野」は「上野」(現群馬県)、「泉」は「和泉」(現大阪府南西部)と言ふやうになった。

 

「やまと」といふ国号に「日本」といふ漢字を用いるやうになったのは、大宝元年(七〇一)の『大宝律令』に、「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらしめすやまとのすめらみこと)」と記されたのが最初とされる。支那の歴史書『旧唐書』に、西暦七〇一年に栗田真人を首席とする遣唐使が、支那に対してはじめて「日本」の国号を用いたと記録されてゐるといふ。

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千駄木庵日乗十一月十日

午前は、諸事。

午後からは、休息の後、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。『政治文化情報』の原稿執筆。

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2018年11月10日 (土)

防人の歌のますらをぶり

 

 防人とは、国土防衛の兵士のことである。古代において、新羅が唐を背景としてわが国を侵略する危険があった。これに対してわが国は、太宰府を置いて、九州と壱岐・対馬二島を管理せしめ侵略軍を防がんとした。このために東国諸国の国民から選抜し、筑紫・壱岐・対馬で守備の任にあたらせた。それが防人である。

 

 『萬葉集』にはその防人たちが詠んだ歌が収められてゐる。防人の歌は、大伴家持が兵部少輔としての職掌柄、諸国の部領使たちに命じて防人たちの歌を収集したものである。 

 

 「大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて」

 

 助丁丈部造人麻呂<すけのよぼろはせつかべのみやつこひとまろ>の歌。「大君の仰せをかしこんで、任務を果たすため、磯に触れながら海原を渡ります。父母を国許に残しまして」といふ意。

君に忠・親の孝の道義精神が歌われている。「萬葉集」には、防人たちが家族や戀人たちとの離別の悲しさを歌った歌が数多く収められている。しかし、「大君の命」をかしこむ心は絶対である。それが「もののふ」のみならず日本国民の最高の倫理である。

 

 「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」

 

 下野の国の防人・火長今奉部與曾布<かちゃういままつりべのよそふ>の歌。「防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致しますといふ意。「醜」とは身の卑しさを言うよりも、大国主命に別名葦原色許男(しこお)の「しこ」と同様に勇猛と解釈する説もある。御楯は大君のために矢面に立つ者の意。

 

火長とは十人の兵隊の長。十人を一火として炊事を共にさせた。與曾布には大君の醜の御楯としての光栄・自負心・矜持・歓喜がある。故に父母・妻・子を顧みないのである。この歌も「海ゆかば…」と同様に千古万古に国民の胸に躍る決意の響きがある。

 

 阪東武者といわれる東人は、常に野にあって勇猛であった。武士の語源が「野に伏す」であることにも関連する。第四十八代・称徳天皇の神護景雲三年(七六九)に、朝廷守護のために東人を召された時の「詔」で、「この東人は常にいはく額には箭(や・矢)は立つとも背には立たじといひて、君を一心に護るものぞ」と宣せられた。東国武士は忠勇義烈であり、卑怯未練の振る舞いがないと仰せになっているのである。

 

東国武士が勇猛なのは、神代よりの伝統である。甲信越に勇者が出るのは、信濃の諏訪に建御名方神が祭られており、鹿島神宮に建御雷神、香取神宮に經津主神が祭られているからである。だから、東国人が防人として出発した時に、「鹿島の神を祈りつつ」と歌ったのだ。

 

 「あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に 吾は來にしを」

 常陸の国の防人大舎人部千文<おほとねりべのちふみ>の歌。「鹿島の神に祈   りつつ天皇の兵士として私は来たのだぞ」といふ意。

「あられ降り」は「鹿島」に掛る枕詞。あられが降るとかしましいからという意。

 「鹿島の神」即ち鹿島神宮は、茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する建御雷神(タケミカヅチ)を祭神とする。建御雷神は、邇邇藝命降臨の際、先に天降って国土を平定された軍神。敬神愛国武勇の歌。

 

「天地の 神を祈りて 幸矢(さつや)貫(ぬ)き 筑紫の島を さして行く吾は」

 下野の国の防人・火長大田部荒耳<おほたべのあらみみ>の歌。「天地の神に   祈って、矢を身に帯びて筑紫の方を目指して行くのであるといふ意。

 

 「幸矢」とは狩猟に用いて効果ある矢のこと。「貫き」とは矢を身に帯びること。これは天神地祇に祈りつつ勇気を振り起こして、防人として出発していく精神を歌っている。「さして行く吾は」に歌の調子を強くする効力がある。神の守りを信じて勇んで征途につくますらをの心がよく歌われている。

 

「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。古事記・萬葉の歌々を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

 

といふ歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(「武士道」)と論じてゐる。

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千駄木庵日乗十一月九日

午前は、諸事。

午後は、休息。

夕刻、病院に赴き、診察を受ける医師より話を聞く。詳しくは書けないが、安心していい状況ではない。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2018年11月 9日 (金)

本是神州清潔之民

今年は台風がよく日本列島を直撃しました。わが国は台風がよく来ます。何故か、日本列島に近づくと方向を変え、支那大陸や朝鮮半島にはあまり上陸せず、わが國に上陸して北東方角へ去って行きます。

 

私は、日本人が清潔さを好む民族なのは、台風というものが日本によく来ることがその原因の一つではないかと考えています。強い風と雨が地上の穢れを吹き払い洗い清めてくれる台風は、自然に日本人の清潔さ・いさぎよさを好む精神を養成したのではないかと思うのです。勿論、台風によって多くの自然災害が起こります。しかしそのことも、日本人の強靭さ忍耐強さを養うこととなっているのではないでしょうか。

 

「本是神州清潔之民」という日本漢詩があるように、わが民族はすがすがしさ、清らかさ、清潔さを好みます。我が国伝統信仰には、『禊』という行事があります。また「大祓詞」という祝詞もあります。台風が多く、水が清らかな日本の風土に生きる日本民族なればこそ清潔を好むのであります。

 

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・國学者。越前の人)が維新の精神を詠んだ歌です。清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の傳統的道義精神です。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌です。維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐます。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ひます。

 

常に全てを祓い清めて新生を繰り返し永遠の生命を甦らしめるという精神が、日本伝統信仰の根本であります。日本は長い歴史を有する国であるが、ただ古さを誇りとするのではなく、伝統を顧みつつ常に新生・祓清めを繰り返してきたところに素晴らしさがあるのです。

 

我が国の維新の道統もまさに清らかさを好む民族精神と一体なのであります。

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日本共産党の本質

 

 

日本共産党・社民党・立憲民主党などの亡国野党は、政府自民党やアメリカに対する非難攻撃は熱心だが、共産支那や北朝鮮の暴虐に対しては全く口をつぐんでゐる。

 

日本共産党は、あらうことか長い間、「朝鮮戦争はアメリカの侵略だった」といふ嘘八百を並べ立ててゐた。

 

『日本共産党の四十五年』といふ書物(昭和四五年八月二五日・日本共産党中央委員會出版局発行)には「アメリカ帝國主義は、(一九五○年)六月二十五日、わが國を前進基地として朝鮮への侵略戦争をはじめました」と書いてゐる。

 

 日本共産党は、わが國における最初にして最大の北朝鮮軍事独裁政権支援組織だったのである。また、日本共産党は戦後一貫して、朝鮮労働党の日本における窓口であった。

 

また、「在日朝鮮人の祖國帰還運動」にも積極的に協力した。日本共産党と北朝鮮は昭和三十四年、在日朝鮮人の北朝鮮への「集団帰還事業」をわが國政府に働きかけ實現させた。これによって、約九万八千人の在日朝鮮人(約七千人の日本人を含む)が北に永住帰國した。

 

この「集団帰還事業」について宮本顕治書記長(当時)は、朝鮮労働党第四回大會で帰國熱を煽った。つまり、日本共産党は多くの在日朝鮮人を地獄に送り込んだのだ。

 

七〇年代初頭、北朝鮮の國家保衛部は、九万八千人の在日朝鮮人帰國者たちを粛清の対象にした。絶え間ない監視と罪状の捏造によって、金日成父子冒瀆、反動宣伝煽動罪、スパイ罪をかぶせ、七三年から八〇年の間に、全帰國者の約二割を処刑もしくは政治犯収容所送りにしたといふ。

 

帰國事業では、日本共産党の有力者が、全國の「帰國協會」で「事務局長」を務め、地方党員が實働部隊となって在日朝鮮人を帰國させ、政治的には「北朝鮮に社會主義國の建設を」と宣伝した。

 

在日朝鮮人の北朝鮮への帰國に決定的な役割を果たしたのは日本共産党であった。しかるに日本共産党は自らが犯した犯罪行為に対して何の謝罪も行なってゐない。のみならず、悲惨極まる状況に陥ってゐる帰國者の救援・救出にもソッポを向き、それを妨害して来た。共産党は、昭和四十年代前半くらいまでは、北朝鮮を理想國家・天國のように宣伝してゐた。

 

日本共産党は拉致問題に関しても、平成十二年十月五日の党首討論で、不破哲三委員長(当時)らが「政府は拉致の確たる証拠を示してゐない」とか「確たる物証がなく状況証拠だけだ」などと述べた。拉致された人々は北朝鮮におり、拉致したのは北朝鮮なのである。「確たる物証」は北朝鮮にはあっても日本國内にあるはずがない。わが國の警察の捜査が及ばない北朝鮮の國家ぐるみの犯罪について、わが國の治安当局が「確たる証拠を示す」ことは殆ど不可能である。不破氏がこんなことを言ったのは、共産党が北朝鮮を擁護し拉致問題解決の意志が無かった何よりの証拠である。

 

 日本共産党は、昭和二十五年に、北朝鮮による韓國侵略=朝鮮戦争が起った時、日本において武装闘争・火炎ビン闘争を展開し、北の侵略を支援したのだ。また白鳥警部射殺事件、大須騒擾事件などを引き起こすなど暴力的破壊活動を展開した。これを後方攪乱と言う。

 

共産党員の多くは、「中核自衛隊」「山村工作隊」として、火焔ビンや時限爆弾などで武装して破壊活動を起した。さらに、日共が朝鮮総連と一緒になって、平事件・皇居前メーデー事件・吹田事件などの数多くの騒擾事件・集団暴力事件を起したことは歴然たる事実である。

 

日共の武装闘争は、北朝鮮の韓国侵略に対する後方支援であったのである。さらに言えば、ソ連・共産支那北朝鮮による日本侵略支配を目的としてゐたのである。

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千駄木庵日乗十一月八日

午前は諸事。

午後は休息。

夕刻、永田町のキャピタル東急ホテルにて、上杉隆氏にインタビュー。『伝統と革新』誌に掲載のためなり。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年11月 8日 (木)

神話と祭祀は分かち難く一體である

 

 神話とは太古の「神聖な歴史の物語」という定義がある。日本民族の「始まりの時」における神や聖なる存在の誕生、國土の生成などの出来事をつづった物語である。言い換えると、神話は、日本民族の「始まりの時」を説明し、生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものが、どのようにして生まれ存在し始めたかを語る。

 

 神や聖なる存在の誕生、國土の生成などの出来事など日本民族の始まりの時の出来事は、日本人一人一人およびその共同體としての國家の生き方・在り方(文化・信仰・文学・政治・教育・芸術など一切)の模範を示す。つまり、神話は日本民族そして日本國家を根源的なものを表現するものであり、日本民族の在り方・生き方に決定的な役割を持っている。

 

 「始まりの時」に帰ることによって現状を変革するという希望はあらゆる生命體が持っている。一人の人間として、新年を迎えた時や、春四月を迎えた時には、心機一転「初心」(始まりの時の心)に帰り新たなる気分になって仕事や勉学などに励もうとする。それと同じように、日本人一人一人およびその共同體としての國家は、つねに「始まりの時」=「神話の世界」への回帰によって現状を革新しようという希望を持つ。明治維新という國家的大変革も、「神武創業への回帰」(神武天皇が即位された時への回帰)がそのスローガンであった。

 

 そして神話の世界は、『古事記』『日本書紀』といった記録・文献として語り伝えられると共に、儀礼・祭祀という生きた現実として継承される。太古の神聖な物語を「文献」と「行事」によって今日まで伝えているという意味で、神話という「文献」と祭祀という「儀礼」は一體である。

 

 大林太良氏は「(神話と儀礼は)分かちがたくたがひに結びついている。儀礼は神話によってその意味が明らかにされねば効力を失い、神話は儀礼によって描きだされねば不毛である」(神話学入門)と述べておられる。

 

 「祭祀」とは、「始まりの時」に行われた行事を繰り返し行うことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓い、祝詞奏上、玉串奉奠などを行うことによって、罪けがれを祓い清めて、人としての本来の姿に立ち帰るという行事である。言い換えると、一切の私利私欲を禊祓い去って生成の根源に回帰するということである。「無私」になって神に一切を「まつろう」(従い奉る)から「まつり」というのである。

 

 そして日本神話は、天皇を祭り主とする大和朝廷による日本の祭祀的統一という歴史を背景として成立したのである。

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千駄木庵日乗十一月七日

午前は、諸事。

午後は、休息。

夕刻、若き友人と意見交換。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2018年11月 7日 (水)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十一月十四日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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昭和天皇御製に学ぶ 

わが國は、天皇を中心として発展し統一を保ってきた國である。日本は、天皇中心の國體を護持しさらにその本当の姿を顕してこそ、正しく発展していく事が出来る。昭和の歴史だけでなく、元冦や明治維新など、これまで幾度か起った大きな國難の歴史を見てもそれは明らかである。日本國民は、昭和天皇の御遺徳を偲び、且つ、昭和の光輝ある歴史を回顧し、さらには、皇室を中心とするわが國の歴史と傳統に回帰するべきである。

 

つねにご自分を無にして、國の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇は、権力や武力で國家・國民を支配と従はせるという覇者ではあらせられず、祭祀主としての信仰的権威と御徳によって國民をしろしめしてこられた。

 

戦後日本は、戦勝國の「日本つぶし」の嵐の中にあっても、たくましく生き抜き、経済復興を立派に遂げてきた。この戦後日本復興の原動力は、つねに日本國民の幸福を願はれてきた昭和天皇の大御心である。そして、天皇を仰慕し、戦前・戦中を生きぬいて来られた多くの先人・先輩の方たちの血と汗のにじむご努力を私たちは忘れてはならない。

 

日本国民は、昭和天皇の御遺徳を偲び、且つ、昭和の光輝ある歴史を回顧し、さらには、皇室を中心とするわが国の歴史と伝統に回帰するべきであると思います。

 

わが国は大東亜戦争という正義の戦いに敗北した後、戦勝国によって日本弱体化政策が行なわれました。戦後七十年以上を経過して、その日本弱体化政策が、花開き、実を結んでいる状況を呈しているのが今日の日本の体たらくなのです。これを何とかしなければ日本は滅びます。すでに神代以来の道義国家・神聖国家日本は滅びつつあると言わなければなりません。

 

戦後日本は、戦勝国の「日本つぶし」の嵐の中にあっても、たくましくそしてしたたかに生き抜き、経済復興を立派に遂げてきました。この戦後日本復興の原動力は、つねに日本国民の幸福を願われてきた昭和天皇の大御心であります。そして、戦前・戦中を生きぬいて来られた多くの先人・先輩の方たちの血と汗のにじむご努力をお蔭です。このことを私たちは忘れてはなりません。今日、日本国が存在し、日本民族が生きているのは、実に昭和天皇の仁慈の大御心によるのであります。

 

 昭和天皇は、大東亜戦争末期、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦し、愈々以って本土決戦しか戦う道がなくなった時、「自分の身はどうなってもいい。ただ民を救いたい」との大御心から、決然として『ポツダム宣言』受諾の御聖断を下されたのであります。あのまま戦争を続けていたなら、本土が戦場となり、わが国土は文字通り焦土と化し、大多数の日本国民が死に絶えたでありましょう。それを救われたのが昭和天皇なのです。この尊い事実を我々日本国民は永遠に忘れてはならないと思います。 その時の尊いご心境を昭和天皇様は次のやうに歌われてゐます。

 

爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

 

身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて

 

国がらをただまもらんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 

 昭和天皇は、国のため民のためならご自身はどうなってもいい、といふまさに神のごとき無私・捨身無我のご心境で戦争終結をご決断あそばされたのです。ここに、つねに国の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇の現御神としての御本質を仰ぐ事ができます。マッカーサーとのご会見において、この捨身無我の神のごとき大御心が発現したのです。

 

 さらに大事なのは、「国がらをただまもらんと」と歌はれていることです。わが国は、ただ単に領土と国民と主権さえあればいいといふ、普通一般の国家ではないのです。日本独自の国柄すなわち、神代以来・建国以来の天皇を中心とする國體というものが正しく継承されていなければ日本国とは言えないのである。国柄を守ること無くして真の日本国の存続はあり得ないのです。

 

夜久正雄氏は、「天皇様は『国がら』を守りぬかれたのである。この天皇様のお心にしたがふことが、国民の側からの『国柄』である。天皇さまが国民のうへを思ひくださるお心をあふいで感奮する、その心の中に、日本の国の国がらがあるのである。」(『歌人・今上天皇』)と論じてゐます。

 

たしかに領土も国民も主権も大切である。しかし、日本のやうに三千年の伝統を有する国は、その長い歴史と伝統と文化の核であるところの国柄・國體というものが破壊されてしまったら、たとへ領土と国民と主権が維持されても、日本は日本でなくなるのです。

 

 昭和天皇が「国柄をまもらん」とお歌ひになったのは、このかけがへのない日本国の國體が護持するために、たとへどのような苦難があらうとも茨の道を進んでいくとのご決意を示されたものと拝します。

 

「国柄を守る」とは、昭和天皇御一身の地位の安泰を意味するのでは全くないことは、「いばら道すすみゆくとも」と歌はれていることで明白です。昭和天皇は、ご自分が戦犯として処罰されても、天皇を君主と仰ぐ国柄・國體が護持されればよい、とのご信念で終戦を決意されのである。有難き限りである。

 

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千駄木庵日乗十一月六日

午前は、諸事。

午後からは、原稿執筆など。

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2018年11月 6日 (火)

國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し國難の時にこそ神國思想が勃興する

國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し國難の時にこそ神國思想が勃興する

 

大化改新と明治維新は共通する面が多い。この二つの変革で行はれたのは、外圧の排除であり、政治體制・法體制の整備であり、外國文明・文化の輸入である。大化改新後の律令國家體制は明治維新後の明治憲法體制と相似である。

 

中村元氏は次のごとくに論じてゐる。

「國家至上主義(ultra nationalism)は決して明治維新以後のある時期になって突然あらわれたものではない。その萌芽はきわめて古い時代から存する。…『大日本』という語は、傳教大師がしばしば用いているが、おそらく『大日本』という語の用いられた最初であろう。…日本の國土がシナに比してはるかに狭小であり、物質的な財力もシナよりはるかに劣っていることを、かれは熟知していた。シナに留學していたかれは、この事実を当時の何人よりも痛感していたはずである。それにもかかわらず、なお『大日本』と称したわけで、かれが日本を大乗相応の地と信じていたからである」

「日本が神國であるということは、謡曲においても自明のこととして考えられている。日蓮はこのような見解をはっきりと採用している。『日本國は神國なり』(『月水御書』)『夫れ此國は神國なり。神は非礼を稟(う)けたまはず』(『与北条時宗書』)などという。」「日蓮によれば、宗教そのものは國家に奉仕すべきものである。『日本國一萬三千三十七の寺、並に三千一百三十二の神は、國家安穏の為に崇められて候』(『諌暁八幡抄』)…日蓮が問題としていたのは、どこまでも日本の問題であった。」(『日本人の思惟方法』)と。

 

神國思想は、内憂外患交々来たるといふ時代であった中世において謳歌されたが、その淵源は、日本神話の天地生成神話にあることは言ふまでもない。

 

「神國」という語が文献にあらはれたのは、『日本書紀』の「神功皇后の巻」に新羅の王が日本軍を迎へて「吾聞東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。其國神兵也。」と述べたと書かれてゐるのが最初である。

 

『平家物語』(鎌倉前期の軍記物語)には、「さすが我朝は辺地粟散の地の境(註・辺鄙な所にある粟を散らしたやうな小國といふ意)とは申しながら天照大神の御子孫、國の主とし…猥(みだのがは)しく法皇を傾け参らせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非礼を受け給はず。」と書かれてゐる。

 

日本國が天照大御神の御子孫が統治される神國であるといふ思想は、武家政権が確立した鎌倉時代においても変る事なく継承されてゐるのである。『平家物語』は琵琶法師によって広く世間に広められた物語であり、天皇を君主と仰ぐ神國思想は、当時の國民の共通の認識であったと考へられる。

 

鎌倉時代中期以後の民衆の意識が反映されているといふ「謡曲」には、天皇を君主と仰ぐ日本國の理想と傳統が濃厚に示されてゐる。『弓八幡』といふ作品では「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巖となりて苔のむす、…君安全に民敦く、関の戸ざしもささざりき」とあり、天皇が統治する日本國の平和と開放性を称へてゐる。

 

和辻哲郎氏は、「関の戸を閉ざさないということは、天皇の統治のもとに全國が統一され、どこにも武力による対立がないことを指し示す」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。この時代において、天皇を中心とする統一國家意識が正しく確立されてゐたのである。

 

 そして、蒙古襲来により日本國民はナショナリズムを燃え立たせ神國意識を益々強固ものとした。

 

「西の海寄せくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞ」(春日若宮社の神職・中臣祐春の歌。『異國のこと聞こえ侍るに神國たのもしくて』との詞書がある。日本國が神國であるとの信念を吐露した歌)

 

「勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪ぞかつくだけつる」(藤原定家の孫・藤原為氏が亀山上皇の勅使として蒙古撃退・敵國降伏を祈願するために伊勢にお参りした時の歌)

 

といふ歌が生まれた。

 

禅宗の僧侶・宏覚も蒙古襲来といふ國難の時期にあって六十三日間蒙古撃退の祈願を行ひその祈願文の最後には、

 

「末の世の末の末まで我國はよろづの國にすぐれたる國」

といふ歌を記した。

 

文永の役の翌年の建治元年(一二七五)、当時五十四歳の日蓮が、国家的危機の真最中に書いた『撰時鈔下』に、「日本国と申すは、天照大神の日天にてましますゆへなり」と書いてゐる。そして、『神国王御書』では日本は「八万の国に超たる国」である論じ、その理由として「此の日本国は外道一人無し。其の上神は又第一天照大神、第二八幡大菩薩、第三山王等の三千餘社、晝夜に我国を護り朝夕に国家を視(みそなはし) 給ふ。其の上天照大神は内侍所と申す明鏡に浮べ影内裏に崇められ給ふ」と論じてゐる。

 

かうしたナショナリズムの勃興がやがて建武中興へとつながっていく。このやうに日本民族は古代から・中古・中世・近世へと脈々と神國思想及びそれと一體のものとしての尊皇心を継承して来たのである。

 

『神皇正統記』(南北朝時代の史論。北畠親房著。延元四年成立)の冒頭には、「大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也、天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとゐ)ヲヒラキ、日神(ひのかみ)ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝(いてう)ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云(いふ)也。」とある。

 

この文章に「わが國は、神が護り給ふ國であるだけでなく、天照大御神の生みの御子が統治し給ふ國である」といふわが國の傳統的國家観・天皇観が端的に示されてゐる。國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し、國難の時にこそ神國思想が勃興するのである。今日のおいてもさうであるし、さうであらねばならない。

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千駄木庵日乗十一月五日

午前は、諸事。

五個からは、在宅して『政治文化情報』原稿執筆・『伝統と革新』編集の仕事など。

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2018年11月 5日 (月)

熊野信仰について

熊野信仰について

 

 熊野本宮大社の御祭神は熊野坐大神(くまのにますおおかみ)と申し上げ、熊野に鎮まりまします大神という意である。本社には十四柱の神が鎮まっているが、その総称を熊野坐大神と申し上げる。十四柱の神々の主祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ・須佐之男命の別名)。「ケ」は食物を意味する言葉であるから穀霊神と見てよいという。この神は熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬのみこと)とも申し上げ、木の御神霊である。紀伊の國は木の國であり、山に覆われ木が生い茂る國である。また熊野の「クマ」とは「神」の意であるという。つまりこの神社に祭られている神は太古より信仰された紀伊の國の樹木の神霊と申し上げてよいと思う。その信仰が大和朝廷の神話の神であられる須佐之男命と融合したのであろう。

 

 さらに熊野の「クマ」は、奥まった隅のところという意でもある。地理的に熊野は大和から見るとまさに「奥まった隅のところ」である。「奥まった隅のところ」は神秘的なところであり神のいますところと信じられたのである。

 

 そして『日本書紀』では、伊耶那美命が亡くなってから葬られた地が熊野であるとされており、熊野は夜見の國(あの世)・常世(永遠の理想郷)に近いところと信じられた。なお、『古事記』では出雲の國に葬られたとある。出雲にも熊野神社がある。紀伊國と出雲とは日本伝統信仰において深いつながりというか共通性がある。伊耶那美命はこの神社では熊野牟須美大神(くまのむすみのおおかみ)という御名で祀られている。

 

 また、『古事記』によると神武天皇が熊野に上陸されると、「大きなる熊、髪(くさ・草のこと)より出で入りしてすなわち失せぬ」とある。

 

 本地垂迹説(日本の神は仏が人々を救済するために仮の姿を現したという説)では、日本伝統信仰の常世への憧れと仏教の浄土思想が融合しため、熊野三山が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が観世音菩薩を本地とする。本宮の主祭神・家津美御子大神の本地は阿弥陀仏であるとされる。ゆえに熊野の神は熊野大権現とも言われる。権現とは仏の仮の姿という意。 

 

 熊野本宮大社の御鎮座は神武天皇御東征以前と伝えられ、第十代崇神天皇六五年に社殿が創建されたという。また奈良時代より修験道(神仏混淆の山岳修行道)の行場であった。そして、平安時代には仏化(神社というよりも寺になったということ)した。熊野水軍を統率し源平の戦いに参加したくらいであり、その権勢は國守や領主を凌いだという。南北朝時代は吉野朝(南朝)に忠誠を尽くした。  

 

 熊野三山は御歴代の天皇の御崇敬篤く、第五九代宇多法皇(延喜七年・九0七年に行幸)より第九十代亀山上皇まで、上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達した。鳥羽上皇二十八度、後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度に達している。熊野への行幸は往復二十数日を要する難行苦行の旅であった。こうした皇室の崇敬が熊野水軍という勤皇の軍団が生まれた原因であろう。

 

 何故このように皇室の御信仰が篤かったのか。それは太古の昔から熊野が聖地として仰がれたと共に、神武天皇が橿原に都を開かれる前に熊野の地を通られたこともその理由の一つであると思われる。また中世期に入ってから末法思想が盛んになり、浄土への憧れが強くなったことが、常世・浄土の入口と信じられた熊野への信仰が平安から鎌倉時代にかけて最高潮に達した原因であろう。

 

 要するに熊野信仰には、山・森林への自然信仰と、他界信仰(常世への憧れの思想)という日本の伝統信仰が凝集しているのである。

 

 熊野本宮大社の鳥居には「熊野大権現」と書かれている。太古からの社殿は明治二十四年(一九八一)の大洪水で災害を蒙り、現在の地に移転したと承る。

 

総門には菊の御紋の染められた幕が下がっている。社殿は四つあり第一殿第二殿には伊耶那美命(熊野牟須美大)神など、第三殿には家津美御子大神(須佐之男命)など、第四殿は天照皇大御神が祀られでいる。

 

境内には、境内には、白河上皇御製碑が建てられている。

 

「咲きにほふ 花のけしきを 見るからに 神のこゝろぞ そらにしらるゝ 雍仁親王妃勢津子謹書」

 

と刻まれている。第七二代・白河天皇は、院政を創始した方であらせられ、「治天の君」と讃えられ、『源平盛衰記』には「賀茂の水、双六の賽、山法師」の三つのほかは何事も上皇の意のままであるという「天下三不如意」という話も伝えられている。この御製は行幸の折熊野本宮社前にて詠まれたと承る。

 

後鳥羽上皇御製碑も建てられている。

 

「はるばると さかしきみねを わけすぎて おとなし川を けふみつるかな」

 

と刻まれている。

 

「おとなし川」とは本宮の旧社地近くを流れている川。後鳥羽上皇の行幸は、建久九年(一一九八)八月の以降、二十八度に及ぶと承る。

 

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千駄木庵日乗十一月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料の整理など。

体調の関係で、会合出席がままならないのが残念。

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2018年11月 3日 (土)

明治天皇の御聖徳を仰ぎ奉る

私は、山中峯太郎氏著『愛の国父 明治天皇』(昭和三十二年五月第五版発行)といふ本を持ってゐる。昭和三十二年、私が小学校二年生の時に購入した本である。日清・日露の戦いを中心にして、明治天皇の御事績が書かれた本であり、当時私はこの本を読んで非常に感激した。

山中氏は次のやうに書いてゐる。「日本は明治時代に、支那の戰爭し、ロシヤと戰爭し、大正時代にドイツと戰爭し、昭和時代にアメリカとイギリスそのほかと戰爭した。しかし、アメリカが勝手にきめた『侵略戰爭』をしたのではない。日本が戰ったのば、外國の勢力に迫られて、日本をまもるための戰爭であったのを、正しい歴史が証明する」「ある日、天皇は宮内大臣の田中光顯に言われた『おまえたちは、ぐあいかわるいことがあると、辞職という方法がある。しかし、わたしには、そのような方法はない。そうではないか』『はい……』気の強い田中光顯も、恐れ入って何とも言えなかった」と書かれてゐる。

この本を私が讀んだ同じ年の昭和三十二年に、『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男監督、新東宝製作)が公開された。父が連れて行ってくれたのだが、嵐寛寿郎演じるところの映画の中の明治天皇も「天皇には辞職はない」といふ言葉を語ってゐた。また映画のところどころに、明治天皇御製が朗誦された。まことに素晴らしい映画であった。

私が愛国心に目覚め、やまと歌に関心を持ったのは、この本を読みこの映画を見てからかも知れない。この映画と本が私の愛国心の目覚めに大きな影響を与へたことは確かである。映画を見に連れて行ってくれた父に感謝してゐる。

また、私がまだ幼少の頃、外から帰って来ると、母が新聞を讀みながら涙をぽろぽろ流しながら泣いてゐた。気丈な母が泣いてゐるのを見たことが無かった私は驚いた。母は、貞明皇后崩御の報道記事を見て泣いてゐたのだった。貞明皇后が崩御されたのは、昭和二十六年五月十七日であるから、私がまだ四歳の時であった。

私は、自然に尊皇愛国の心を父母の教育によって身につけることができたのである。父母に心より感謝してゐる。

 

明治天皇は、『明治維新の御宸翰』(明治元年三月十四日)において、

「…今般、朝政一身の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば、朕身骨を勞し、心志を苦め艱難の先に立、古列祖の盡させ給ひし蹤(あと)を履み治蹟を勤めてこそ始て天職を奉じて憶兆の君たる所に背かざるべし。」「朕こゝに…親ら四方を経營し、汝億兆を安撫し、遂には萬里の波濤を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置んことを欲す。」

と示されてゐる。

公議輿論を重んずる明治維新の政治理想を闡明(道理や意義を明らかにすること)し新国家建設の基本指針となった歴史的な詔である。

三月十四日、明治天皇は諸臣を率いて宮中の正殿である紫宸殿にお出ましになり、天地の神々をお祭りになり、御誓文を奉られた。そして、諸臣に対して御宸翰を下された。

わが國の祭政一致の伝統が見事に復活した。しかも「天職を奉じて」と仰せられ、かつ、神々に誓はれたといふ事は、天皇が「朕は国家なり」といふやうな絶対専制君主ではなく、あくまでも神々の御命令・御委任によって国家を統治され日本に国に君臨あそばされることを示されたのである。

かつ「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば」の大御心は、明治天皇御製と伝へられる

「罪あらば 吾をとがめよ 天つ神 民はわが身の 生みし子なれば」

の御精神の通じる。

 具体的は、大政奉還・廃藩置県・四民(士農工商)平等・大日本帝国憲法発布・国会開設・皇軍建設(徴兵令発布)などが実行された。徴兵令発布は、国民皆兵ということであり、特権階級としての武士の存在を根本的に改革するものである。ただし武士道精神は残った。といふよりも、国民全体に武士道精神が浸透した。

科学技術文明によってわが國を威嚇する西洋の圧迫に対峙して國家民族の生存と独立を維持するために、わが國は武力・経済力そして科学技術の面で西洋と対等の力を持つことが急務であった。そして、日本の伝統に回帰してわが國の独立を守るといふ「尊皇攘夷の精神」と、法律制度や政治制度そして科学技術などの西洋の文化・文明を受容して近代國家体制を整えるといふ「開國主義・文明開化の精神」とが昇華統合された。

しかし、近代日本において、天皇中心の信仰共同体が、西洋的な利益社会・権力國家体制によって隠蔽され、近代日本が、現実への対処のためとはいへ、「覇道精神・強いもの勝ちの精神」の浸潤を許したこともまた事実である。

しかし、天皇中心の信仰共同体の精神・日本國體が破壊されたわけではなかった。日本国民の天皇尊崇の精神・國體精神が、わが國が覇道精神・強いもの勝ちの世の中になりきるのを抑制し、國家のエゴ・侵略性・収奪性を和らげるものとなった。

國難に際會してゐる今日の日本は、明治天皇の御聖徳・大御心を仰ぎ奉ることが大切である。

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千駄木庵日乗十一月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿送付。資料の整理など。

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「九条を守れ」とは「國を滅ぼせ」と同義語である

 

今こそ、わが日本は國防体制の整備を断行すべきである。わが國が核武装し核抑止力を持つことがもっとも効果的な防衛戦略である。支那朝鮮からの侵略を防ぎ、対米自立・自主防衛体制が確立するにはこれ以外に方法はない。

 

「わが國は唯一の被爆國だから核兵器廃絶に努力し絶対に核武装すべきではない」といふ意見がある。しかし、わが國が原爆を持ちアメリカに対する報復力を持ってゐれば、広島長崎に原爆は落されなかったのである。

 

亡國野党・偏向メデイアそして「反戦平和運動屋」たちは、わが國の防衛力強化には反対しても、北朝鮮や共産支那の核の脅威には一切抗議しない。共産支那のわが國に対する領海侵犯、北朝鮮のミサイル発射には何の抗議も行はない。それだけでなく、沖縄県においては、わが國の防衛力強化、日米軍事同盟強化を妨害してゐる。

 

さらに彼らはロシア・共産支那・北朝鮮の侵略行為・残虐行為・人権侵害がいかに酷くても、何の批判も抗議もしない。戦後の左翼運動は一貫してすべてさういふ姿勢を貫いてきた。

 

彼らは、日本が北や支那から核攻撃されることを望んでゐるとしか思へない。

軍事力を軽視することは、侵略者・無法國家を増長させるだけである。わが國は、自主防衛体制を確立する以外に、無法國家・侵略者から祖國を守る手立ては無い。

 

巨大な軍事國家・全体主義國家の奴隷になるか、國家の独立と自由と繁栄を守るか、といふ二者択一の選択が、わが國民に迫られてゐる。

 

中華帝國主義・共産支那、ロシアの覇権主義こそ、二十一世紀の日本及びアジアの最大の脅威である。日本は、いかにして北朝鮮や「中華帝國主義」の侵略から祖國を守るかが最大の課題である。「九条を守れ」などと言ってゐる輩こそ、侵略戦争を誘発し、國を亡ぼす輩なのである。「九条を守れ」とは「国を滅ぼせ」と同義語である。

 

我々は共産支那や北朝鮮に対する毅然とした態度を確立するためにも、國内の親共産支那・親北朝鮮勢力を厳しく糾弾しその罪を裁かねばならない。そして今こそ、わが日本は愛國心・同胞意識を確立し、國防体制の整備を断行すべきである。「非核三原則」は時代遅れで危険極まりない政策である。

 

ともかく、日本は自國の安全と独立を守るための体制を確立する事が急務である。「対米依存」といふ屈辱的状況から脱却するためにも、自主防衛体制の確立を断行しなければならない。北朝鮮・共産支那が日本に対しては絶対に手を出せないといふ國防体制確立が急務である。

 

そのためには、日本國内に巣食ふ似非平和運動勢力=事実上の共産支那・北朝鮮の手先を排撃すべきである。これが今日の國家的危機を打開する道である。

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千駄木庵日乗十一月二日

午前は諸事。

午後は、休息。

夕刻、病院に赴き、診察を受ける。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆の準備、書状執筆など。

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2018年11月 2日 (金)

わが國内に巣食ふ似非平和勢力の大罪

日本共産党は、あらうことか長い間、「朝鮮戦争をアメリカの侵略だった」などといふ根も葉もない嘘八百を並べ立ててゐた。

 

『日本共産党の四十五年』といふ書物(昭和四五年八月二五日・日本共産党中央委員會出版局発行)には「アメリカ帝國主義は、(一九五○年)六月二十五日、わが國を前進基地として朝鮮への侵略戦争をはじめました」とはっきり書いてゐる。

 

私の学生時代、即ち昭和四十年代前半、民主青年同盟といふ共産党の青年組織が学校の内外で活発な運動を展開してゐた。彼等は、北朝鮮を理想國家のやうに宣伝してゐた。そして北朝鮮の歌曲「イムジン河」を盛んに歌ってゐた。歯の浮くやうな北朝鮮礼賛の歌であった。また日本共産党は、北朝鮮を「地上の楽園」であるかのごとく宣伝し在日朝鮮人の北朝鮮帰國運動に全面的に協力した。

 

日本共産党は、わが國における最初にして最大の北朝鮮軍事独裁政権支援組織だったのである。日共がソ連・共産支那・北朝鮮のアジア赤化・侵略策謀に協力した罪は永遠に消し去ることはできない。

 

そもそも日本共産党とは、ソ連に司令部のあった國際共産主義組織・ソ連による世界赤化侵略策謀組織=コミンテルンの日本支部として誕生した政党である。本来的にソ連の手先の政党であった。ソ連軍の後押しで朝鮮半島の北半分を占領して出来上がった傀儡國家=北朝鮮と同根・同質の政党なのである。

 

共産党が「正義の味方面」をして、わが國の防衛政策・外交政策を批判する資格は毛筋の横幅ほども無いのである。

 

共産主義國家(=共産支那・北朝鮮)・共産主義政党(=日本共産党)こそ暴力的威圧で自由な言論を攻撃する國家であり政党である。

 

社民党は、社会党時代から朝鮮労働党と「友党関係」にあり、北朝鮮礼賛を繰り返しその手先となってゐた。社民党・土井たか子は、拉致問題を無視してきただけではなく否定してきた。

 

社民党は、拉致の事実が明らかになった後も日本人拉致事件を「荒唐無稽」「新しく創作された事件」などと否定してゐた。そして社民党は機関紙で北朝鮮による拉致事件を、「(韓國)安企部の脚本、産経(新聞)の脚色によるデッチあげ」、「日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された」などと主張し(平成九年七月号)、一貫して北朝鮮を擁護し続けてきた。

 

共産党・社民党は、北朝鮮の脅威について「話し合ひによる平和的解決」を主張してゐる。さう思ふのなら、志位なり不破なり福島なりが北朝鮮に行って、北朝鮮の核実験・ミサイル発射に抗議し、止めさせればいいではないか。

もしも日本共産党・社民党が本当に平和を望む政党ならば、そして対話を望む政党ならば、過去の歴史的関係から言って、社民党や共産党の党首は北朝鮮に乗り込んで、拉致された人々やその家族全員及び北朝鮮に行って悲惨な目に遭ってゐる日本人全員を救出すべきなのである。

 

共産党や旧社會党・社民党やうな政党の存在こそが日本國及び日本國民の安全と平和を脅かしてきたのだ。社民・共産両党そして立憲民主党内に巣食ふ旧社会党の連中が拉致問題に関してものを言ふ資格はない。また平和を主張する資格もないのである。

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千駄木庵日乗十一月一日

終日在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理など。

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2018年11月 1日 (木)

この頃詠みし歌

 

 

逝きし父母(ふぼ)を思ひ出しつつ過ごす夜遠き日のことも昨日の如く

 

血圧計で血圧計る習慣を身につけにけり七十を過ぎて

 

一つ一つの仕事を果たしその日その日真面目に生きて行くがよろしき

 

幾十年この地にありて靴磨く人はまだまだ健やかにおはす

 

ピカピカに光りし靴を喜びて足取り軽く街を歩めり

 

日は早く落ちにけるかも秋の夕べ染井霊園を友と歩めば

 

そのかみの大日の本で大いなる勲を立てし人々の墓

 

ほんの一杯酌み交はしたる酒の味友の情と共に身に沁む

 

古き街に古き茶房のあることをやすらぎとしてコーヒー啜る

 

昭和レトロといふ言葉ありそれほどに昭和は遠くなりにけるかや

 

弟がシベリアで亡くなりし歌人(うたびと)は何ゆゑか日共支持者となりぬ

 

情熱持って土佐日記を講義せし萩谷朴氏の面影浮かぶ

 

久しぶりに来たりし酒房の御主人も心臓病みて入院せしといふ

 

減酒減塩禁煙の日々を送りつつ何とか健康を保たんとする

 

明治の御代の激動の歴史を偲ぶなり来島恒喜氏の墓所に参り来て

 

大久保公大隈公を襲いひたる人々の墓所は谷中にぞある

 

政府高官もテロリストも共に眠りゐる谷中霊園ら秋の日照らす

 

まず以て尖閣から完全に手を引かずして「日中」の友好は無し

 

何回も同じ過ちを繰り返してはならぬと祈る安倍氏「訪中」

 

したたかな支那外交に踊らされること勿れと祈る今宵なるかも

 

老いてなほ健やけき人の前に座し話を聞くは嬉しかりけり

 

はっきりとそして爽やかに己が存念を語る政治家はイケメンにして    

 

京都山科の疎水懐かし一人して四宮といふ町を歩みたる旅

 

一燈園疎水辺の道を経巡りて四宮大明神といふ祠を拝みぬ

 

そのかみの大きみかどのみささぎに参りたる旅を懐かしみ偲ぶ(天智天皇御陵)

 

 

 

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千駄木庵日乗十月三十一日

午前は、諸事。

 

午後は、休息。

 

午後六時より、紀尾井町のホテルニューオータニにて、『平沢勝栄政経文化セミナー』開催。伊吹文明・衛藤征四郎・鴨下一郎。片山さつき・河村建夫・加藤勝信・田原総一朗・中村玉緒氏などが祝辞。平沢勝栄氏がスピーチ。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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