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2018年10月 9日 (火)

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

吉村寅太郎

 

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

 

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

 

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 

しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

 

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

 

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

 

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

 

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

 

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

 

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

 

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

 

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

 

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母

に知らせよ」

 

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

 

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」

を實感させる歌である。

 

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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