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2018年10月24日 (水)

来島恒喜氏について

来島恒喜は、明治二十二年(一八八九年)十月十八日、外務省からの帰路にあった大隈外務大臣に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年二十九歳であった。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。

 

的野半助氏著『来島恒喜』には、「来島恒喜が自刃するや、東京埋葬と郷里埋葬との両説ありしが、終に両説を採りて之を東京、福岡に葬ることと爲れり。初め恒喜の遺骸は、翌暁(午前三時)麹町区役所に於て假にこれを青山共同墓地に埋葬せしが、(友人たちが)青山龍泉寺に於て弔祭の典を挙げ…遺髪は谷中共同墓地に葬れり。会葬者三百名。東京では官憲を憚って質素にした。一周年忌に、頭山満自ら資を投じて墓石を建つ。勝海舟これに題して「来島恒喜之墓」と曰ふ。蓋し頭山は来島恒喜が海舟の教えを受けたことありしを以て海舟の揮毫を乞いしなりという」と書かれている。

 

毎年、祥月命日には、其の志を継ぐ人々によって、盛大な法要が営まれた。毎年その日になると、匿名の人から立派な生花が届けられた。初めのうちは誰ともわからなかったが、熱心な人が探索した結果、大隈重信その人であることが判明した。この命日ごとの献花は、大隈重信没後には、嗣子信常侯爵(平戸藩主松浦詮の子で、大隈重信の養子)によって長く続けられたという。

 

遺骨は福岡に帰り、崇福寺に葬られる。会葬者は頭山満・新藤喜平太・平岡浩太郎をはじめとした玄洋社の同志ら五千有余名。

 

この日、頭山が来島の棺の前で讀んだ弔辞の中で、「天下の諤々は君が一撃に若かず」という一句が、聞く人の心に深く印象づけられ、後世まで伝えられる言葉となった。

 

事実、あれほど天下を騒がせた条約改正論議も、来島の爆弾と一撃でぴたりと鎮まり、内閣は総辞職し、改正は延期された。

 

『玄洋社』憲則三章には、

「第一条 皇室を敬戴すべし。

「第二条 本国を愛重すべし。

「第三条 人民の権利を固守すべし」

 

とある。民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。即ち「不平等条約」の破棄である。

 

維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』という不平等条約の桎梏下に置かれ、半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。それが尊皇攘夷である。明治維新の戦いの大きな目的はそれであった。近代の言葉で言えば。ナショナリズム・民族主義の勃興である。

 

天皇を君主と仰ぐ日本国を欧米列強の侵略支配から守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であり尊皇攘夷の実現である。

 

明治維新の理想が完全に実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。

 

それは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いである。来島恒喜の大隈重信爆殺未遂はその大きな動きであった。

 

大隈重信を中心とする当時の政府の「条約改正案」の要点は、

「一、 外国人は日本国内のいずれの地域も自由に旅行し、通商し、居住し、またはあるある物件を所有することが出来る。

「二、 外国人の居留地は、今後何年かは現在のまま存続するが、そのうち廃止する。

「三、 外国人が日本国内を自由に旅行できるようになる前に、日本の高等裁判所は、相当数の外国人法官を任命すること。」

 

というものであった。条約改正反対論者は、条約改正に反対なのではなかった。改正ならどんな改正でもいいというものではない。日本の裁判に外国人法官を参加させることは、日本の独立を侵害するものと考えた。現行憲法改正に関する動きと似ている。

 

頭山満の基本点考えは、明治二十二年八月一日、松方正義内務大臣に面会して述べた次の言葉に明らかである。

 

「条約案は、金甌無欠の國體を毀損するものなり。今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。万一、条約案にして成立することあらば、閣下は独り今日の国家に対して、其の責任を辞すること能はざるのみならず、永劫未来、子々孫々に対して其責任を辞すること能はざるなり。苟も閣下にして、其責任を忘れて条約改正に賛成することあらば、余は国民と共に鼓を鳴らして其罪を問はざる可からず。余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲する者なり」と。辞色甚だ決するものゝ如し。松方之を聞き、儼然襟を正しうして曰く『余は誓て足下の言に負かざらんことを期す』と。其後松方が閣議に於て固く条約改正中止の意見を執り、大隈案に反対するに至りしもの、頭山の遊説與りて力ありとなりと云ふ。」(的野半助氏著『来島恒喜』)

 

そして、同年十一月に開かれた愛国五団体の会議の席で頭山は「格別意見は持たない。しかし自分は、政府をして断じて屈辱的条約締結をなさしめない事に決めた」と述べた。この簡潔一語に潜む凛冽な殺気に満座は静まり返った。(頭山統一『筑前玄洋社』)

 

しかし黒田首相、大隈外相の意志は固かった。来島恒喜は条約改正を阻止するためには大隈重信に対して直接行動に訴えるしかないと決意した。それ以外に道は無いと考えた。

 

改正反対論者は、政府の条約改正の動きと共に、鹿鳴館の欧化主義、欧米外国人に対する屈辱的や阿諛叩頭、保安条例などによる自由民権運動への弾圧、その他政府に対する不満がその背景というか奥底にあった。

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