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2018年10月23日 (火)

中皇命(なかつすめらみこと)の御歌に歌はれた「むすび」信仰

 

中皇命(なかつすめらみこと) 、紀の温泉に往きましし時の御歌  

 

君が代も わが世も知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根(くさ

)いざ結びてな                  (一〇)

 

 中皇命は、舒明天皇の皇女・間人皇女(はしひとのひめみこ・天智天皇の妹君) の御事。大化元年(六四五)に孝徳天皇の皇后になられ、天智四年(六六五)に崩御された。また、第三十七代・斉明天皇(舒明天皇の皇后・天智天武両天皇の母君)とする説もある。

 

「紀の温泉」とは和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉。「君が代もわが世も知るや」の「君」は、作者を間人皇后とすれば中大兄皇子を指す。間人皇女は、兄君・天智天皇とひそかな恋をされてゐたといふ。

 

また中皇命を斉明天皇とすると「君が代」の「君」は舒明天皇の御事とされる。どちらにしても、愛する人と共に紀國へ旅をされた途中でお互ひの旅の平安を祈られた御歌。  

 

「しる」は単にものごとを知識として知るといふのではなく、もっと深く「関係する」「司る」といふ意。天皇の御統治の御事を「しらす」「しろしめす」と申し上げるのと同意義。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれることが往々にしてある。

 

天皇の國家統治を「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てを認識され、全てに関係され司られるといふ意である。天皇は、鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを統治され認識され司られることができる。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐる。天皇は自己を無私なる鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできない。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることである。学問も自分を無にして学ぶ心がなければならない。

 

「磐代」は和歌山県日高郡南部町岩代及び東岩代。紀の國に通じる熊野街道の要衝にあたり、旅人が木の枝や草を結び行路の平安を祈り予祝する神秘的な場所であった。「磐」には長久の意味がある。「草根」は草のことで、「根」は接尾語。「いざ」は人を誘ひまた自ら行動を起こそうとするときに発する語。「な」は勧誘をあらはす。

 

 通釈は、「あなたと私の寿命といふものを知ってゐるところの靈験あらたか岩代の草を結んで、岩代の岡の巖のやうに命長く幸せであることを祈りませう」といふほどの意。古代信仰が歌はれた歌。

 

「むすび」はわが國傳統信仰上とても重要である。漢字では「産靈」と書く。生命の誕生・萬物の生成のことである。『古事記』冒頭の造化の三神(天地生成の神)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)である。この三神はそれぞれ宇宙の中心の神・男性(陽)の神・女性(陰)の神と申し上げてよいと思ふ。

 

男性と女性がむすび合はされて生命が誕生する。生まれてきた男の子が「むすこ」であり女の子が「むすめ」である。手を結ぶとは「人と人とが和合する」こと。御飯をむすんだものを「おむすび」と云ひこれを食すると生命が生き長らへる。「むすび」とは命が発生し長らへることである。

 

この歌は、『古今和歌集』巻第七に「賀歌」に分類されて収録されてゐる「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千代に八千代(非常に長い年代)にまで続いていただきたい。一握りの小石が大きくなり、巖となって、苔が生へる時までも)に通じる。この歌の初句が「君が代は」となり、今日の國歌「君が代」になった。

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