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2018年10月31日 (水)

浅薄なる國體論の横行は是正されるべきである

 

最近『国体論 菊と星条旗』(白井聡氏著)、『丸山眞男と戦後日本の国体』(池田信夫氏著)というように「国体」を書名にした著作が刊行されている。白井氏の著書は友人に勧められて讀んだ。池田氏の著書は未読である。白井氏の本は「戦後の国体」「戦前の国体」ということが書かれている。池田氏の著書も書名を見ても分かる通りそういう分け方をしているのであろう。しかし、「國體」には戦前も戦後もない。肇国以来継承されてきた日本国の本来の姿・国柄を「國體」と言うのである。白井・池田両氏は、國體を単に「國家体制」という意味でとらえているのである。

 

三潴信吾氏は、「國體は、我国にあっては、如何なるものであるかといふと、約言すれば、(一)、祭政一致 (二)、萬世一系の天皇の統治 (三)、君民一体 といふことができる。」(『祭祀大権の本質及び統治大権との関係について』)

 

「國體とは、自主的普遍我たる国家の本質が、各国家の成立事実に立脚して各国家毎に、如何様に体現されて居るかといふことであって、各国家の國體の軽重は、その、国家の本質の体現の程度によって判定される。その要点は、国家の自主性、普遍性の確立保障にある。しかして、これを観察し得る最も重要なる中核点は、実に、国家人格の自主表現人たる元首の地位の本質にあり、具象的には、元首定立の態様に於て之を見ることができる。」(『祭祀大権の本質及び統治大権との関係について』)

 

「國體とは、各国家の国柄、品格のことをいふのであって、その国の成立事情によって定まる」「我が国にあっては、皇祖を日の神(天照大神)と仰ぎ、その和魂を継承されつつ、一切の天神地祇、八百万神々を祭り、これといよいよ一心同体たらせ給ふ天皇が、御代々を通じて御一人(一系)として天下を治ろしめすといふ國體を保有してきた」(『國體と政体について』)「政体とは、政治権力の組織制度のことを云ふ。」(國體と政体について)と述べられている。

 

小森義峯氏は、「國體とは、平たくいえば、『くにがら』という意味である。その国をその国たらしめている、その国の根本的性格をいう。」「皇祖天照大神と霊肉共に『万世一系の天皇』を日本国の最高の権威(権力ではない)の座に頂き、君民一体の姿で民族の歴史を展開してきた、という点に日本の国柄の最大の特質がある。」(正統憲法復元改正への道標)と述べておられる。

 

こうした國體観をいかにして今の若者たちに分りやすく説くか、そして納得してもらうかが、今後の課題である。

 

日本天皇と日本国民は対立する権力関係にあるのではない。天皇と国民とは、天皇が民の平安と五穀の豊饒そして世界の平和を祈って行われる祭祀を基とした信仰的一体関係にある。したがって、「天皇を中心とした神の国」と「民の国」とは全く矛盾しないのである。

 

 

日本國體とは、天皇を中心とした精神的信仰的生命的な共同体のことである。単なる「国家の体制」のことではない。「体制」とは、ものの組み立てられた状態という意であり、単に組織、機構、機関、組織、システムのことである。したがって、「国家の体制」とは、無機的な権力機構としての国家組織のあり方即ち統治権力の運用する仕方に関する形式のことである。これは「政体」と表現すべきであって、伝統的な日本國體を「国家の体制」と表現する間は誤りである。國體とは、日本国の国柄・国の本質のことを言う。

 

日本國家の存立の精神的中核は、天神地祇を尊崇し稲穂を大切にする信仰精神であり、日本という國家は<天皇を祭祀主とする信仰共同體>なのである。ゆえに日本國は天皇國といわれるのである。浅薄なる國體論の横行は是正されるべきである。

 

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千駄木庵日乗十月三十日

午前は、諸事。

午後は、休息。

午後四時半より、永田町の衆議院第二議員会館にて、前原誠司衆院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆・資料の整理。

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2018年10月30日 (火)

日本人の自然観は天地自然を神として崇める信仰

日本民族は自然を神と崇めた。萬葉歌人・柿本人麻呂は、天地生成神話の発想で、神そのものとしての國土の永遠の美しさを讚歎してゐる。人麿は神話の世界を今に生きた歌人なのである。人麿が和歌史上第一の歌人といはれる所以はかうした神話意識にある。人麿において「神代」とは遠く遥かな過去の時代のことではなく、「今」がそのまま「神代」なのである。

 

人類は自然と人間との関係において、自然を征服し支配し造り変へるといふ対し方と、自然に即し自然と共に生きるといふ対し方の二つの立場を持ってゐる。一神教は前者、多神教は後者である。

 

 自然と共に生きるといふことは、自然の命と人の命を連続したものと見、自然は神から生まれたといふ信仰、自然の中に神を見る信仰から出てくる精神である。

 

 世界各地の「神話」は、人類最初の男女神はまづ最初に人間を創造してゐる。キリスト教の『創世記』には「はじめに神は天と地とを創造された」「神は自分のかたちに人を創造された。…神は彼らを祝福していはれた。『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従はせよ、…すべての生き物とを治めよ』」と書かれてゐる。

 

天地自然や人間は全知全能の神が創造された物であるといふことは、神と天地及び人間とは<別個の存在>だといふことである。また、人間は大地を服従させ、すべての生物を支配することを神から許されたのだから、人間が自然をいかに造り変へても構はないし、また生物を生かすも殺すも人間の自由である。近代科學技術による自然の造り変へ・破壊が何らの罪悪感無しに行はれてきた思想的根拠はここにある。

 

 日本の天地生成神話では、伊耶那岐命と伊耶那美命の「むすび」によって國が生まれた。自然も國土も神から生まれたのだから神の命の延長である。また、単なる「大地の生成」ではなく「國土の生成」である。伊耶那岐命・伊耶那美命がお生みになった大地は、無國籍にして名前もない土の塊としての大地ではなく、國土である。だから生まれた國には神の名が付けられる。大八洲を神の住みたまふ國土として把握する。つまり天地自然を神として拝んだのである。

 

 このやうな日本人の自然観は、人間が自然を征服し作り替へるといふ西洋の自然観とは断然異なる。柿本人麿の長歌はかうしたわが國の神話の精神を表現してゐる。自然破壊が進む今日において、日本伝統信仰の自然観は重要に意義を持つと考へる。

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千駄木庵日乗十月二十九日

午前は、諸事。

 

午後三時より、六本木の国際文化会館にて、小堀桂一郎東京大学名誉教授にインタビュー。

 

午後六時より、永田町の衆議院第二議員会館にて、『明治の日を実現するための議員連盟支援集会』開催。塚本三郎明治の日推進協議会会長・古屋圭司議員連盟会長・稲田朋美同幹事長・山田宏同事務局長・衛藤晟一氏・櫻井よし子氏・阿羅健一氏・新保祐司氏などがスピーチ。

 

帰宅後は、明日のインタビューの準備、原稿執筆。

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2018年10月29日 (月)

日本國體精神と危機打開

 

わが国の歴史は、外圧と対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族が外圧を除去し、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核は、天皇・皇室のご存在である。

 

ナショナリズムとは、外國からの圧力・干渉を排して國家の独立を維持する思想および運動と定義される。運命共同體意識と言ひ換へても良いと思ふ。これは、國家民族の危機の時に澎湃として沸き起こってくるものであり、ごく自然な感情である。危険視したり不潔であるとすることはできない。わが國の歴史を回顧すれば明らかなことであるが、國民の強烈なナショナリズムの沸騰が、民族の独立を守り國家の存立を維持した。

 

言ふまでもないが、ナショナリズムは日本にだけ存在するものではない。世界各國に共通して勃興し存在する。その國・民族・共同體が危機に瀕した時に興起する國家防衛・独立確保の主張と行動である。

 

ナショナリズムは、歴史意識・傳統信仰と深く結びついてゐる。といふよりも不離一體である。自己の意識の中に民族の歴史を蘇らせることによって、ナショナリズムが形成される。國家的危機に際會した時、それを撥ね退けんとしてその國民がその國の歴史意識・傳統精神を根底に置いて運命共同體意識を結集し、勃興する精神と行動がナショナリズムである。民族の歴史を國民一人一人の精神の中で甦らせ、自己の倫理観・道義観の基本に置くことによって民族の主體性が形成される。

 

わが國が、西欧列強の侵略・植民地支配を受けることなく独立国家として近代化を遂げ発展し得たのは、「尊皇攘夷」を基本思想とした明治維新といふまさに「有史以来未曾有の大変革」を行ったからである。そしてそれが成功した根本的原因は、わが國は肇國以来、天皇を神聖君主と仰ぐ國體観・國家観が確立されていたからである。

 

今日わが國は外圧の危機が顕著になってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識を回復する以外に無い。今こそ、日本民族の國體精神・歴史意識・傳統精神を我々一人一人の精神の中で甦らせ、國民一人一人の倫理観・道義感の基本に置き、日本民族精神・日本的ナショナリズムが勃興すべき時である。

 

『大西郷遺訓』に次のやうな言葉がある。

 

「正道を踏み國を以て斃(たお)るるの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮(いしゅく)し、圓滑(えんかつ)を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮(けいぶ)を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん」。

 

「國の陵辱(りょうじょく)せらるるに當(あた)りては、縱令國を以て斃るる共、正道を踐(ふ)み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戰(いくさ)の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也」。

 

「大西郷の精神」とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現です。西洋列強の侵略から祖国を守り天皇中心・四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

 

さらに『大西郷遺訓』には次のやうな言葉がある。

 

「王を尊び民を憐れむは学問の本旨なり」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」

 

「萬民の上に位する者」即ち政治権力者は「王(天皇陛下)を尊び民を憐れむ心」を正しく確立しなければならない。今日及び将来の日本においても、祭祀主たる日本天皇の精神的権威が、政治権力を浄化し、権力者にかしこみの心を持たさしめ、国家・国民の幸福をはかることが出来る。これが、わが国建国以来の「祭政一致」の理想であり、万邦無比の日本國體の素晴らしさである。

 

尊皇精神こそが、日本国安泰の基礎である。天皇を君主と仰ぐ日本國體の護持とその理想実現こそが、日本国永遠の隆昌の基礎である。従って、尊皇精神希薄な権力者は断じてこれを排除しなければならない。また、皇室を貶める学者文化人評論家も厳しく糾弾しなければならない。国家革新や維新などを主張しても、尊皇精神がなければ、日本国を正しい姿を回復することは出来ない。

 

現代日本は、國民の皇室尊崇の念が薄れつつあり、伝統信仰が顧みられなくなりつつある。これが今日の國家の弱体化の原因であり、このままでは國家崩壊につながる。今日においては、民族の正氣・日本の心を回復せしめなければ日本は危うい。

 

外患に当って、「神祭・神事」が盛んになるのは、わが國の伝統である。現代においてこそ、祭祀主日本天皇の真姿が開顕されるべきである。今こそ天皇を中心とした國家の回復を目指す皇道大維新運動を繰り広げねばならない。

 

今日の日本も内憂外患を除去するために、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じように、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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千駄木庵日乗十月二十八日

午前は、諸事。

午後は、本日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が、「尊皇攘夷の精神とナショナリズム―明治維新に学ぶ」と題して講演。活発な質疑応答意見発表か行われた。

帰宅後は、明日行うインタビューの準備など。

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2018年10月28日 (日)

日本民族の愛国心・ナショナリズムの特質

 

吉本隆明氏は、「『ナショナリズム』というとき、ひとによってさまざまにかげりをこめて語られる。社会学・政治学の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。しかし、『ナショナリズム』という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族によってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さまざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。さらに、これが、日本の『ナショナリズム』として、明治以後の日本近代社会に起こった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義、排外主義、超国家主義、侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。」(『日本のナショナリズム』・「現代日本思想体系 ナショナリズム」所収論文)と論じてゐる。

 

日本のナショナリズムは明治になってから発生し発達したものではない。「辞書」によると「國民國家」とは、「同一民族または國民といふ意識によって形成された中央集権國家」「領域内の全住民を國民といふ単位に纏め上げて成立した國家そのもの」といふ定義である。近代以後においてかういふ國家が成立したといふのが定説になってゐるやうである。「神國思想」「尊王思想」の継承の歴史を見て明らかな通り、わが國においては、近代以後に「同一民族または國民といふ意識によって形成された國家」が建設されたのではない。江戸時代以前と言うよりも古代以来、においてもわが國は日本民族による統一國家體制は確立してゐた。

 

安倍晋三氏は、「現在の國家の形を、一般にネーションステート(國民國家)と呼ぶ。これはもともと近代のヨーロッパで生まれた概念だ。…日本で國民國家が成立したのは、厳密にいえば明治維新以後ということになるが、それ以前から、日本という國はずっと存在してきた。」(『美しい國へ』)と論じてゐる。

 

西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一體感・運命共同意識を醸成して外敵に当たらうとした。それが明治維新である。しかし、明治維新以前に於いてもわが國が、天皇を君主と仰ぐ統一國家であったし、天皇中心の國體精神に回帰することによって、國難を打開し変革を行ってきた。

 

和辻哲郎氏は「シナ古代に典拠を求めていた尊皇攘夷論は、日本人が欧米の圧迫によって日本を一つの全體として自覚するとともに、その鋒(ほこさき)を幕府の封建制に向け、武士社會成立以前の國民的統一を回復しようとする主張に変わって行った。…日本第一期以来の天皇尊崇の感情が…國民的統一の指導原理となった。…王政復古の達成は、松陰処刑後わずかに八年目のことであった。」(日本倫理思想史)と論じてをられる。

 

和辻氏の言ふ「武士社會成立以前の國民的統一の回復」=王政復古が、わが國における『近代國民國家の成立』であったのである。そしてその根底にあった思想は、和辻氏の言ふ「日本第一期以来の天皇尊崇の感情」である。日本ナショナリズムが古代からの日本傳統精神が原基となってゐることは明らかである。

 

 わが國における攘夷とは、時代を無視した頑なな排外思想ではない。吉田松陰をはじめ多くの維新の先人たちは世界の状況・時代の趨勢を正しく把握しやうとしてゐた。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。吉田松陰が安政三年三月二十七日夜、金子重輔と一緒に下田来泊のペリーの米艦にて米國に渡航せんとしたことは、攘夷とは排外・鎖國を専らとするのではなく、日本が外國の支配下に入ることを拒み、独立を維持するために、外國の進歩した文物を學ぶことを要するといふ開明的な考へ方であった。維新後の開國政策の下地はこの頃からあった。古来、わが國が外國文化・文明を柔軟に包摂して来たのは、日本民族の根底に強靭なる傳統信仰があったからである。

 

日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言ってゐる。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

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千駄木庵日乗十月二十七日

終日在宅して、、『政治文化情報』発送作業、発送完了。明日行われる『日本の心を学会』における講演の準備。原稿執筆など。

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2018年10月27日 (土)

今日思ったこと

日本は今こそアメリカと共に共産支那・習近平政権を締め上げるべきだ。安倍自民党政権は「外交の成果」なるものを政権維持に利用すべきではない。アメリカなどと関係が悪くなると日本にすり寄るというのは共産支那の常套手段。安倍氏はそれを知らないはずがないのだが

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無私なる天皇が国家の中心にいますことが国家の安定と道義性の基である

野村秋介氏は、日本天皇の「無私の大御心」について次のように語っている。

「インドでは空観仏教という宗教が生まれました。これは釈迦がつくった言葉ですね。色即是空、〝空〟の概念が出たのか僕はずーっとインドを歩いたんですが、あのインドには六世紀に、ゼロというという概念が生まれているわけですね。数字は、昔は一、に、三、四から始まった。ところが、ゼロという概念がなかったら、アインシュタインも生まれないし、宇宙も分からないし、今の天文学というのは成り立たないわけですよ。しかし、ゼロという概念というのがインドで生まれたということが、非常に不思議で(注・インドに)見に行ったわけです。その道程の中で、ふっと思ったことは、政治力学の中のゼロという概念と、日本の天皇の概念というのは非常に似ているなあ、ということを発見したことがあるんです。」(大原康男氏との対談「わがうちなる天皇、そして神道」『さらば群青』所収)「戦後、陛下はマッカーサーに対し、自分の命はいいんだ、国民を助けていただきたい、という態度を示された。そして、御前会議が真っ二つに分かれたときの態度も立派だった。われわれが依拠する天皇の理念を垣間見るわけです。」(いいだももとの対談「今こそ語ろう天皇制」・『いま君に牙はあるか』所収)

日本人は、古来「無」「空」「間」という言葉で表されるような、見えないものの深遠さを尊んで来た。「無」「空」の概念を数字として示したものが、アラビア人の「ゼロ」の概念だといわれている。そしてその「無」の概念が、インド思想家たちに「無」を一つの単位とすることを認識させ、やがてアラビア人が「ゼロ」を生み出したという。


「無」や「ゼロ」は何もないということではなく、果てしない可能性を秘めた宇宙空間だという。禅語の「無一物中無盡蔵」(もともとは支那の詩人・蘇東披の詩に出て来る言葉)とはこのことを表現した言葉であろう。

天皇は常に無私の心で統治される。無私の心とは神の御心のままということである。さらに御歴代の天皇の踏み行われた「道」を継承されることを心がけられる。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事、即ち国民の幸福実現となる。

祭祀とは、己をむなしくして神に仕えまつる行事である。ゆえに、日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方であり、民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

天皇は私をなくして神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方である。だから民から天皇を仰ぐときには、この世に生きたもう神すなわち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げる。

「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが「祭政一致」であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、覇者同士による多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位に君臨され続けた。

明治天皇の外祖父・中山忠能前権大納言は、明治天皇の即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、」と言上したという。

日本皇室と外国の王室・帝室との違いは、理論理屈で述べるよりも、京都御所と、外国の王室・帝室の宮殿の違いを見れば一目瞭然である。京都御所の簡素にして荘厳な美しさ・清らかさと、フランスのヴェルサイユ宮殿、支那の紫禁城などの豪華絢爛たる贅をつくした姿との違いを見れば明らかである。

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考えている。しかしわが国においては、天子たる天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、天皇は一大家族国家の中心であると考えている。

簡単に言えば、支那においては天子は権力と武力と財力によって国民を支配し、日本においては天皇の信仰的権威によって国民を慈しむのである。この違いは支那と日本の国家の成り立ちとその後の歴史の違いによると思われる。 

無私にして清らかな天皇の御存在が国家の中心にいまし、常に国家の平安と国民の幸福を神に祈る祭祀を続けられているということが、政治のみならず日本国のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の国家統治そのものなのである。

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の本姿を回復することが大切である。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

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2018年10月26日 (金)

千駄木庵日乗十月二十六日

午前は、諸事。

 

午前十一時半より、日暮里のホテルラングヴッドにて、『呉竹会幹事・評議員会』開催。頭山興助氏がスピーチ。小生が「来島恒喜氏と条約改正運動」について講話。

 

この後、出席者全員で、谷中霊園の来島恒喜氏墓所参拝。

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帰宅後は、明後日開かれる『日本の心を学ぶ会』における講演の準備、原稿執筆など。

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近代日本における日本人の誇るべき「國民的気概」

 

十九世紀中頃、植民地主義が批判され出した時代においても、イギリスはインドの完全なる領有、香港の奪取、オーストラリア・ニュージーランドの占領を行った。フランスはインドシナを略取し、ロシアは中央アジア及びシベリアを領有した。さうした時期において、吉田松陰などのわが國先覚者が、欧米列強の侵略から祖國を守り、わが國独立維持の國民的自覚を高めるたに、今日から見れば激烈な「アジア経綸の方策」を唱へたのは当然のことである。欧米列強の帝國主義的侵略の矛先を跳ね返すために國民的自覚を促さんとしたのである。「膨張主義」でも「侵略主義」でもなかった。

 

我國に対して、欧米列強の侵略支配が成功しなかったのは、わが國朝野において独立維持の國民的自覚が高まったからである。明治元年八月二十七日の、明治天皇即位の大礼には、嘉永五年六月、水戸藩主・徳川齊昭が奉献した径三尺六寸余の大地球儀が承明門(京都御所の南面内門)の中央に飾られた。維新日本が世界に雄飛する決意を示したのである。

 

そして、明治維新における祖國防衛・独立維持の精神の實践が「条約改正」運動であり、対韓政策であり、日清・日露と言ふ祖國防衛戦争だったのである。

 

「玄洋社」をはじめとする維新勢力が展開した『条約改正運動』は、幕末以来のわが國民の欧米列強に対する抵抗精神の継続である。そして、實際に関税自主権の回復も含めた「不平等条約」の改正が完全に達成され、欧米との対等なる外交関係を確立したのは、わが國が「日清戦争」「日露戦争」に勝利した後である。弱肉強食の帝國主義時代においてはそれが現實だったのである。故に、日清日露両戦争は、わが日本民族の独立戦争であったと言ひ得るのである。

 

和辻哲郎氏は次の如くに論じてゐる。「(日露戦争によって・注)日本が、その國民的意気によって世界の帝國主義の鋒先をくじいた。…世界史への日本の登場によって最も力強く影響せられたのは欧米人の世界及び人間に対する考え方である。二十世紀までは世界史は白人の歴史であり、芸術は白人の芸術であり、思想は白人の思想であった。しかるに二十世紀は、日本の出現によって、この考え方を覆した。もとより白人の自尊心は有色人種の文化を対等に認めることを欲しないのではあるが、しかしいやいやながらもある程度に認めざるを得なくなったのである。…日本人の衝動的な國民的気概は、明らかに自覚せられざる段階において、かくの如き世界史的意義を持ったのである」(『續日本精神史研究』)

 

明治初期における日本人の「衝動的な國民的気概」は決して恥じるべき事ではなく、むしろ誇るべき事なのである。

 

保田與重郎氏は、「明治の精神は言はば日清日露の二役を戰ひ勝たねばならぬ精神であった。…アジアは一般に舊世紀であり白人の植民地であるか、それに毅然として否と呼んだのは、天心であり、鑑三であり、一般に明治の精神であった」(『明治の精神』)と論じた。

 

そもそも「侵略主義」「膨張主義」とは、曾てのナチスドイツのやうに非アーリア人種を従属させ、奴隷にし、絶滅するといふ行為であり、「中華帝國主義」のやうに漢民族以外は野蛮なる動物(夷狄)であるからこれを従属させ、奴隷にし、抵抗するものは殺戮するといふ行為であり、旧ソ連のやうに終戦のどさくさに乗じて東欧諸国及び南樺太全千島を侵略する行為である。

 

わが國のアジア進出は、『大東亜共同宣言』を見ても明らかなごとく、欧米列強の植民地支配を打破、東亜同胞との共存共栄を目的としたのである。

 

昭和十八年(一九四三)十一月六日の大東亜會議にて採択された『大東亜共同宣言』には次のやうに書かれてゐる。

 

「抑〻世界各國ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」

 

この「宣言」は、わが國の東亜百年の大計を實現せんとする宣言であった。そしてわが國は、戦ひには敗れたが、その戦争目的は達成したのである。

 

名越二荒之助氏は次のやうに論じた。「クラウゼヴィッツは、『戦勝國とは最終的に戦争目的を達成した國をいう』と書いております。日本の戦争目的の中には、アジアにまで手をのばした西欧勢力に一撃を与え、アジアの解放をはかる点にありました。日本は大東亜戦争によって、敗れたけれど最終的に目的を達成したのであります。こういう点に着目すれば、日本は戦勝國と言える訳であります」(『大東亜戦争を見直そう』)

 

日清・日露の両戦争、そして大東亜戦争が、欧米列強・白色人種による長年にわたる有色人種に対する征服支配を撃ち破ったのである。日清・日露両戦争から大東亜戦争までの東亜百年戦争は、その目的を達したといふ意味においては、わが國の勝利だったと言へる。そしてその根源にあるものは、吉田松陰などのわが國先覚者のアジア経綸策にあったのである。三百萬英霊は決して犬死ではなかったのである。

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千駄木庵日乗十月二十五日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後五時より、芝公園のアバッタスタジオにおいて行われた『報道番組ニューズ・オブエド』にゲスト出演。薬師寺克行東洋大学教授、上杉隆氏などと討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年10月25日 (木)

第89回日本の心を学ぶ会のお知らせ

89回日本の心を学ぶ会

 

日本的ナショナリズムを考える

 

 ナショナリズムとは国家主義や国民主義あるいは民族主義と翻訳されています。しかしこれらの言葉はナショナリズムの一つの側面しか表わしていないように思えます。

 

ナショナリズムとは多義的な概念であり、それぞれの国や民族によって意味するものがいくばくか違うようにも見えます。さらにいえば、ナショナリズムは人間が自然に覚える郷土愛とは厳然として区別されており、「故郷」とはそのままに「祖国」ではないということです。

 

つまりナショナリズムとは歴史のある段階において成立した精神であるといえます。

 

わが国においてナショナリズムは明治維新以降において成立したものといわれております。

 

しかしナショナリズムの源流となる「尊皇精神」や「神国思想」は近代のはるか以前から存在し、歴史のなかで継承されてきました。蒙古襲来やペリー来航など国難がおとづれるたびにこれらの精神が勃興し国難を乗り越えてきました。

明治維新から150年経過した今日の日本も外国の脅威にさらされ、国内には課題を多く抱えております、このような中で日本的ナショナリズムを考えることは無駄ではないと思われます。

 

今回の勉強会では日本的ナショナリズムについて考えてみたいと思います。

 

【日時】平成301028日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-B

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5

東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15

都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【講 演】尊王攘夷の精神とナショナリズムー明治維新に学ぶ

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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この告知文は主催者が作成しました。

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萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十一月十四日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2018年10月24日 (水)

来島恒喜氏について

来島恒喜は、明治二十二年(一八八九年)十月十八日、外務省からの帰路にあった大隈外務大臣に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年二十九歳であった。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。

 

的野半助氏著『来島恒喜』には、「来島恒喜が自刃するや、東京埋葬と郷里埋葬との両説ありしが、終に両説を採りて之を東京、福岡に葬ることと爲れり。初め恒喜の遺骸は、翌暁(午前三時)麹町区役所に於て假にこれを青山共同墓地に埋葬せしが、(友人たちが)青山龍泉寺に於て弔祭の典を挙げ…遺髪は谷中共同墓地に葬れり。会葬者三百名。東京では官憲を憚って質素にした。一周年忌に、頭山満自ら資を投じて墓石を建つ。勝海舟これに題して「来島恒喜之墓」と曰ふ。蓋し頭山は来島恒喜が海舟の教えを受けたことありしを以て海舟の揮毫を乞いしなりという」と書かれている。

 

毎年、祥月命日には、其の志を継ぐ人々によって、盛大な法要が営まれた。毎年その日になると、匿名の人から立派な生花が届けられた。初めのうちは誰ともわからなかったが、熱心な人が探索した結果、大隈重信その人であることが判明した。この命日ごとの献花は、大隈重信没後には、嗣子信常侯爵(平戸藩主松浦詮の子で、大隈重信の養子)によって長く続けられたという。

 

遺骨は福岡に帰り、崇福寺に葬られる。会葬者は頭山満・新藤喜平太・平岡浩太郎をはじめとした玄洋社の同志ら五千有余名。

 

この日、頭山が来島の棺の前で讀んだ弔辞の中で、「天下の諤々は君が一撃に若かず」という一句が、聞く人の心に深く印象づけられ、後世まで伝えられる言葉となった。

 

事実、あれほど天下を騒がせた条約改正論議も、来島の爆弾と一撃でぴたりと鎮まり、内閣は総辞職し、改正は延期された。

 

『玄洋社』憲則三章には、

「第一条 皇室を敬戴すべし。

「第二条 本国を愛重すべし。

「第三条 人民の権利を固守すべし」

 

とある。民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。即ち「不平等条約」の破棄である。

 

維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』という不平等条約の桎梏下に置かれ、半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。それが尊皇攘夷である。明治維新の戦いの大きな目的はそれであった。近代の言葉で言えば。ナショナリズム・民族主義の勃興である。

 

天皇を君主と仰ぐ日本国を欧米列強の侵略支配から守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であり尊皇攘夷の実現である。

 

明治維新の理想が完全に実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。

 

それは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いである。来島恒喜の大隈重信爆殺未遂はその大きな動きであった。

 

大隈重信を中心とする当時の政府の「条約改正案」の要点は、

「一、 外国人は日本国内のいずれの地域も自由に旅行し、通商し、居住し、またはあるある物件を所有することが出来る。

「二、 外国人の居留地は、今後何年かは現在のまま存続するが、そのうち廃止する。

「三、 外国人が日本国内を自由に旅行できるようになる前に、日本の高等裁判所は、相当数の外国人法官を任命すること。」

 

というものであった。条約改正反対論者は、条約改正に反対なのではなかった。改正ならどんな改正でもいいというものではない。日本の裁判に外国人法官を参加させることは、日本の独立を侵害するものと考えた。現行憲法改正に関する動きと似ている。

 

頭山満の基本点考えは、明治二十二年八月一日、松方正義内務大臣に面会して述べた次の言葉に明らかである。

 

「条約案は、金甌無欠の國體を毀損するものなり。今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。万一、条約案にして成立することあらば、閣下は独り今日の国家に対して、其の責任を辞すること能はざるのみならず、永劫未来、子々孫々に対して其責任を辞すること能はざるなり。苟も閣下にして、其責任を忘れて条約改正に賛成することあらば、余は国民と共に鼓を鳴らして其罪を問はざる可からず。余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲する者なり」と。辞色甚だ決するものゝ如し。松方之を聞き、儼然襟を正しうして曰く『余は誓て足下の言に負かざらんことを期す』と。其後松方が閣議に於て固く条約改正中止の意見を執り、大隈案に反対するに至りしもの、頭山の遊説與りて力ありとなりと云ふ。」(的野半助氏著『来島恒喜』)

 

そして、同年十一月に開かれた愛国五団体の会議の席で頭山は「格別意見は持たない。しかし自分は、政府をして断じて屈辱的条約締結をなさしめない事に決めた」と述べた。この簡潔一語に潜む凛冽な殺気に満座は静まり返った。(頭山統一『筑前玄洋社』)

 

しかし黒田首相、大隈外相の意志は固かった。来島恒喜は条約改正を阻止するためには大隈重信に対して直接行動に訴えるしかないと決意した。それ以外に道は無いと考えた。

 

改正反対論者は、政府の条約改正の動きと共に、鹿鳴館の欧化主義、欧米外国人に対する屈辱的や阿諛叩頭、保安条例などによる自由民権運動への弾圧、その他政府に対する不満がその背景というか奥底にあった。

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千駄木庵日乗十月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備。明日のインタビュー、明後日の講演の準備など。

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2018年10月23日 (火)

中皇命(なかつすめらみこと)の御歌に歌はれた「むすび」信仰

 

中皇命(なかつすめらみこと) 、紀の温泉に往きましし時の御歌  

 

君が代も わが世も知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根(くさ

)いざ結びてな                  (一〇)

 

 中皇命は、舒明天皇の皇女・間人皇女(はしひとのひめみこ・天智天皇の妹君) の御事。大化元年(六四五)に孝徳天皇の皇后になられ、天智四年(六六五)に崩御された。また、第三十七代・斉明天皇(舒明天皇の皇后・天智天武両天皇の母君)とする説もある。

 

「紀の温泉」とは和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉。「君が代もわが世も知るや」の「君」は、作者を間人皇后とすれば中大兄皇子を指す。間人皇女は、兄君・天智天皇とひそかな恋をされてゐたといふ。

 

また中皇命を斉明天皇とすると「君が代」の「君」は舒明天皇の御事とされる。どちらにしても、愛する人と共に紀國へ旅をされた途中でお互ひの旅の平安を祈られた御歌。  

 

「しる」は単にものごとを知識として知るといふのではなく、もっと深く「関係する」「司る」といふ意。天皇の御統治の御事を「しらす」「しろしめす」と申し上げるのと同意義。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれることが往々にしてある。

 

天皇の國家統治を「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てを認識され、全てに関係され司られるといふ意である。天皇は、鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを統治され認識され司られることができる。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐる。天皇は自己を無私なる鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできない。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることである。学問も自分を無にして学ぶ心がなければならない。

 

「磐代」は和歌山県日高郡南部町岩代及び東岩代。紀の國に通じる熊野街道の要衝にあたり、旅人が木の枝や草を結び行路の平安を祈り予祝する神秘的な場所であった。「磐」には長久の意味がある。「草根」は草のことで、「根」は接尾語。「いざ」は人を誘ひまた自ら行動を起こそうとするときに発する語。「な」は勧誘をあらはす。

 

 通釈は、「あなたと私の寿命といふものを知ってゐるところの靈験あらたか岩代の草を結んで、岩代の岡の巖のやうに命長く幸せであることを祈りませう」といふほどの意。古代信仰が歌はれた歌。

 

「むすび」はわが國傳統信仰上とても重要である。漢字では「産靈」と書く。生命の誕生・萬物の生成のことである。『古事記』冒頭の造化の三神(天地生成の神)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)である。この三神はそれぞれ宇宙の中心の神・男性(陽)の神・女性(陰)の神と申し上げてよいと思ふ。

 

男性と女性がむすび合はされて生命が誕生する。生まれてきた男の子が「むすこ」であり女の子が「むすめ」である。手を結ぶとは「人と人とが和合する」こと。御飯をむすんだものを「おむすび」と云ひこれを食すると生命が生き長らへる。「むすび」とは命が発生し長らへることである。

 

この歌は、『古今和歌集』巻第七に「賀歌」に分類されて収録されてゐる「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千代に八千代(非常に長い年代)にまで続いていただきたい。一握りの小石が大きくなり、巖となって、苔が生へる時までも)に通じる。この歌の初句が「君が代は」となり、今日の國歌「君が代」になった。

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千駄木庵日乗十月二十三日

午前は、諸事。

 

午後十二時半より、神田学士会館にて、公益社団法人 日本弘道会主催『弘道シンポジウム2018ー「日本の皇室を考える」-天皇陛下の御退位を目前にして』開催。小堀桂一郎氏(東京大学名誉教授)が基調講演。所功氏(京都産業大学名誉教授)古川隆久氏(日本大学教授)八木 秀次氏(麗澤大学教授)がパネリスト、土田健次郎氏が(早稲田大学教授、本会副会長)となり、シンポジウムが行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆、『政治文化情報発送準備。

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2018年10月22日 (月)

六月十一日に開催された「平成の大演説会」における冨澤暉第二三代陸上幕僚長、偕行社理事長の講演内容

六月十一日に開催された「平成の大演説会」における冨澤暉第二三代陸上幕僚長、偕行社理事長の講演内容は次の通り。

 

「國の形について国民のコンセンサスがない。公務員は憲法を擁護し批判してはならないとされ、自衛隊の職務をしていて何かというと憲法が引っ掛かった。国家主権は国民の権利を守るためにある。一国平和主義は国際的に通らない。自衛隊という言葉は世界に通用しない。

 

米国ではSelf-defenseとは自分(個人)をまもることで、Self-defense-forceとは『護身隊』『正当防衛隊』と聞こえるらしい、昭和三十年代、ある自衛隊幹部が留学先の米・軍学校で、クラスメートたちに「私たちは陸軍(army)ではなく陸上自衛隊(ground-self-defense-force)であると説明したら、爆笑が起きたという事例がある。その人ははじめその嗤いがなぜ起きたのか分からなかったそうだが、それが侮蔑の嗤いだったと知り、帰国後自衛隊を辞職した。

 

一番欲しいのは国民からの認知。シラー(ドイツの詩人、歴史学者)は『大いなる青春は忍耐する事にある』と言った。安倍首相は『自衛隊が違憲では自衛隊員が可哀想』と言った。統幕議長は『有難い』と言った。しかし自衛軍はまずい。外国から嗤われる。誤解されない言葉が良い。国防軍か防衛隊という名稱が可。selfだけは不可。今の憲法に『自衛隊』という言葉がないのは救い。自衛隊法を防衛隊法にした方がまだいい。

 

『自衛隊は違憲だ』という話は、一九九四年の自衛隊観閲式における村山首相訓示で終わっている。村山総理は『今の自衛隊は憲法違反ではない』と言った。その時の、陸上幕僚長は私。村山さんは食堂で『今日言ったことを一番喜んだのは社会党の仲間たちなんだ』と言った。

 

改憲が成立しても憲法学者たちが黙るとは言えない。憲法違反でないものを何故憲法に書かねばならないのか。また国民投票で国民に拒否されたらどうしようもなくなる。私ども自衛隊OBは憲法学者の批判に慣れており、それよりも、外国軍人たちに嗤われることだけは避けたい。

 

九条第一項は国連憲章戦争放棄条約と同じものなので変更の必要なし。交戦権という言葉は無用。世界の何処にもない。武力行使は①自衛権発動(領域警備を含む)にあたってのもののみならず②集団安全保障(PKO、多国籍軍、有志連合軍を含む)における武力行使だけは認めるようにする必要がある。日本国憲法、日米安保条約、国連憲章は英米法で出来ている。それゆえ英米法らしく成文は変更せず、判例・事例により憲法解釈で逐次変更していくべきである。自衛隊法は防衛隊法にすればいい。

 

新しい國軍は外国から世界の常識で一緒にやっていけると思われる事か重要。国際法からものを考えねばならない。国際法、条約などに基づき国際情勢に適合する部隊運用ができるようにしてほしい。現に日本は北朝鮮に対して集団安全保障措置を取っており、『国連郡地位協定』による基地提供は明らかに軍事的措置である」。

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千駄木庵日乗十月二十二日

午前は、諸事。

昼は、若き友人と懇談。

午後からは、在宅して、原稿執筆など。

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六月十一日に開催された「平成の大演説会」における登壇者の講演内容

六月十一日に開催された「平成の大演説会」における登壇者の講演内容は次の通り。

高乗正臣平成国際大学名誉教授「昭和四十五年十一月二十五日の市ヶ谷台上における三島由紀夫氏の自決の才の『檄文』に、今日の状況がそのまま見て取れる。『檄文』には『われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない』と書かれている。

 

二十二万人の人員・装備・予算を見ればまぎれもなく自衛隊は戦力である。それを自衛力と称して来たのは欺瞞。これが国民の国防意識にどういう影響を与えるか。自衛隊は戦力であり軍隊である。憲法を改正しなければならない。保守系の学者は次から次へと変節。公明党は最初から改憲はない。自民党は立党の理念を捨てて公明党化したのではないか。

 

自衛権とは武力攻撃を受けた時に武力を行使すること。自衛のための戦力は持つことができるというのなら、九条二項の存在理由は全くない。戦力と自衛力とはどこがどう違うか。自衛力を超えるものが戦力という理論はさっぱり理解できない。フィリッピン、シンガポールの実力は自衛隊より小さいから戦力ではないとは言えない。自衛隊の予算は三兆円。イギリスと同じ。二十二万人の人員の自衛隊を軍と言わずして何というのか。戦力・交戦権を認めないのは自衛権を否定したことになる。

 

昭和二十七年四月、主権と自衛権を回復。この時点で憲法を改正すべきだった。平成二十四年の自民党の改憲試案では国防軍として明記しようとしたのに、昨年の安倍氏のメッセージによって欺瞞の上塗りが行われた。欺瞞的姑息な憲法解釈を続けるのか。国民道徳に関わる。憲法九条の一、二項をそのままにした加憲には反対する。安倍首相は憲法九条に自衛隊を明記すること、そして二〇二〇年に改正憲法を施行したいと述べた。首相の提案には論理的におかしいところが多々あるが、それはさておき、祖国の防衛に関する議論である九条の改正を提起したこと自体は、評価すべきものがある。もう先送りは許されない。正々堂々と憲法九条の改正の是非を議論すべきである。国民一人一人が、自分の國の防衛に責任を持って真正面から真剣に議論する事こそが、喫緊の課題である」。

 

慶野義雄平成国際大學名誉教授「憲法九条は東京裁判史観のシンボル。それを永久化してはならない。GHQは日本人に戰爭の罪悪感を植え付けた。日本は道義国家であり欧米は侵略国家であったということは否定したかった。日本の輝ける戦争目的を消し去りたかった。アグレッションとは侵攻という意味であり、今日的意味の侵略ではない。GHQに迎合して東京裁判を正当化したのは横田喜三郎。

 

我が国の社会学の父と言われる高田保馬は、その著『国家と階級』に於いて、『国家は最小限の姿において何であるか。それは防衛の組織である』と述べている。『国家は見えざる家である。見えざる家の防衛の設備である』というのである。『國』という漢字は、『囗』(國構え)と『或』の合字であるという。『囗』は境界を表す。『或』は、クニの四方を象る囗と土地を表す一を武器の戈()をもって守ることを意味し、単独でクニを意味したが、国境を守る兵士が敵の襲来を恐れる心理から『或(まど)う』の義に転用したため、さらに『囗』を加えて『國』にしたという。そう考えると國という文字に防衛という意味が含まれているわけで防衛が國の本質に関わることがわかる。

 

二項を存置し三項加憲の案は、学会・公明党に魂を売った。押し付け憲法に対する無念の思いが風化した。帝国憲法に殉じて自決した元枢密院議長清水澄博士の心、三島由紀夫氏の自決、吉田松陰の『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』は、美しい日本人の心。

 

昭和二十一年四月十日に行われた戦後第一回の総選挙では、恥知らずな選挙干渉が行われた。候補者審査が行われた。GHQは総選挙に先立つ一月四日に公職追放指令を発した。総選挙立候補予定者について、GHQは厳格にふるいにかけ、保守勢力の一層を図った。GHQ民政局の二―ディーラー(フランクリン・ルーズヴェルト政権によって展開されたニューディール政策を経験し、社会民主主義的な思想を持つ人々のこと)であったケーディスによる社会党政権を作ろうとする目論見があった。幣原内閣閣僚の大半が追放。憲法担当の国務大臣・松本烝治は反動的憲法案を作ったとして追放。九条を審議する衆議院憲法改正委員会小委員会で最も目立ったのは社会党鈴木義男の発言であった。

 

『帝国憲法』には統帥権や宣戦、講和、軍の編成などについて規定しているだけであり、軍の保有について何ら規定していない。軍の保有は独立主権国家として当然のことだからである。九条さえ廃棄すれば、自衛隊保持を明記しなくても、自衛隊の現状時に何の問題もないし、今後は、世論の成熟度を見ながら、また国際情勢の変化に応じて法律さえ作れば、完全な意味の再軍備は法律によって何時でもできるのである」。

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千駄木庵日乗十月二十一日

午前は、諸事。

 

午後二時より、崎門学研究会・大アジア研究会主催『龍光寺・染井霊園を巡り日本思想を考える』ツアーに参加。龍光寺(東京都文京区本駒込)に集合。龍光寺に眠る山崎闇斎を祖とする崎門学派の鵜飼錬齋、三宅観瀾、栗山潜鋒三氏の墓所に拝礼。続いて豊島区駒込の染井霊園に移動。陸羯南(くが・かつなん)、岡倉天心、安岡正篤三氏の墓所拝礼。病身の小生を気遣って下さった坪内隆彦・折本龍則両氏などのお世話に感謝する。

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鵜飼錬齋、三宅観瀾、栗山潜鋒三氏の墓所

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岡倉天心墓所

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陸羯南氏墓所

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安岡正篤氏墓所

帰宅後は、暫く休息。原稿執筆など。

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2018年10月20日 (土)

「山河を亡ぼすなかれ」とは「國體を亡ぼすなかれ」と同義である

 

野村秋介氏は、河野邸焼き打ち事件、経団連事件、朝日新聞本社における自決といふ当時の社会を震撼させた文字通り命懸けの三つの直接行動を実行した。戦前戦後を通じて、このような人物はいない。

 

敵に対する或は悪に対する闘争心は激しいものがあった。過激と言えば、野村氏ほど過激な発想を持ち、それを実行した人はいない。しかしその半面、野村氏は人の心の痛みがわかる實に心優しい人であった。私は親しくさせて頂いて、野村氏ほど他人に対して優しく思いやりのある人はあまりいないと思った。本当の志士とはまさに野村氏のような人であろうと思った。

 

野村氏が自決した時、「すめらみこと弥栄」を唱えられたと聞いて本当に感銘した。我々の運動の原点は「天皇陛下万歳」で「ありすめらみこと弥栄」である。

「僕も(注・大島渚氏に)言ったんだ。『…私の心の原点は萬葉集なんだ。萬葉集ぐらい面白い世界はない。セックスあり、恋あり、歌あり、自分の奥さんの兄さんを恋し、セックスする。それも一般庶民じゃなく、天皇さまがやっている」(「天皇の理念と権力悪の打倒」・『いま君に牙はあるか』所収)

 

私は永年『萬葉集』を勉強させていただいているので、野村氏のこの言葉に深く共感する。

 

野村秋介氏は、「ぼくたちは、新しい日本なんて全然いってない。一番古い日本を守りたいわけ。そのためには常に新しくならなきゃいけない、といってるんです。ぼくは天皇制擁護派じゃないんです。天皇擁護派で『制』を抜くわけ。ぼくは天皇派だからね」(太田竜氏との対談「天皇・民族そして革命とは何か」・『友よ山河を亡ぼすなかれ』所収)と語っている。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體は、決して政治制度はない。「國體護持」とは、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されている「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体」「母なる大地」である祖国日本を護持することである。「一番古い日本を守りたいわけ。そのためには常に新しくならなきゃいけない」といふ言葉は。まさに復古即革新即ち維新の根本原理である。

 

野村氏はまた、「ぼくにとっての陛下は日本の美しい山河と同義なんです。かりに日本が砂漠だらけで、山紫水明の風土がなければ、当然古神道も生れなかったし、神道に象徴される陛下の思想っていうのは生まれなかったと思う。」(座談会「残奸の思想を語る」・『友よ山河を亡ぼすなかれ』所収)と語っている。

さらに野村氏は、自決の際に遺した「天の怒りか、地の声か」という文章で次のように語った。

 

「私は寺山修司の

『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし

身捨つるほどの祖国ありや』

という詩と十数年にわたって心の中で対峙し続けてきた。そして今『ある!』と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は『ない』と言った。私は『ある』と言う」。

 

日本傳統信仰たる神道とは自然崇拝と祖霊崇拝が大きな二つの軸である。野村氏が最後の言葉で言われた「山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである」の精神はまさにこの日本傳統信仰を述べたのである。それは「いのちあるもの拝む精神」である。そしてそれが、日本天皇の大御心なのである。天地自然の神々を祭りたまう天皇こそが、「日本なるもの」の体現者であらせられる。野村秋介氏が言われた「山河を亡ぼすなかれ」とは、「國體を亡ぼすなかれ」とまったく同義である。

 

野村秋介氏のご冥福とお祈りさせていただくと同時に、まさに存亡の危機にあるわが祖国日本を天上よりお護り下さいと切に祈らせていただきます。

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千駄木庵日乗十月二十日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。山田吉彦東海大学海洋学部教授が「日本の海が危ない―脆弱な島嶼防衛」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、休息。資料の整理、原稿執筆。

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2018年10月19日 (金)

日本伝統信仰と一神教の自然観の違ひ

 

 

イスラム教徒にとって理想郷とは、川が流れ泉があり緑のある所である。「エデンの園」とはさういふ所である。『コーラン』には次のやうに記されてゐる。「神は、男の信者にも女の信者にも、下を河川が流れ、そこに永遠にとどまるべき楽園と、エデンの園の中のよき住まいとを約束したもうたのである」「楽園には木々が生い繁る。…流れ出る泉が共にある。…深緑に包まれている」「神を懼るる人々に供えらるるは安き場所、緑したたる果樹園とたわわに實る葡萄園」。

 

泉が涌き、川が流れ、緑滴る楽園、それはまさに我々の生活する「緑の日本列島」である。日本のやうな気候風土の國こそ、砂漠の宗教にとって「楽園」であり「理想郷」なのである。曽野綾子さんは、『人間の目利き』という対談集でイラクの小学校の女性の先生たちを日本に招かれて、伊勢神宮にご案内されたことを話された。彼女たちが伊勢神宮の外宮で柏手を打って拝礼をしたこと、そして五十鈴川のほとりを散策して感激したことなどを紹介されている。

 

曽野綾子さんは、『伝統と革新』第二十三号(平成二十八年五月発行)におけるインタビューで小生の質問に答えて、「(伊勢神宮は)尽きることのない清流、まわりに緑したたる森がある。『アラブの大義』のために聖戦に参加して、死んだら行けるとアルカイダたちが言っている天国というものを、彼女たちはこの世で見たのだと思います」「私は、じつは伊勢神宮が大好きなんです。伊勢神宮は、ずっと人々に優しかったですよね。末社が一二五社もおありになって、当時の人々がお酒を造ったり、塩を造ったりすることを支えていらっしゃったのです、つまり物心両面で社会の人々を支えていらっしゃったわけです。本当にすばらしい。伊勢神宮は日本の誇りだと思います。日本は本当にいい国だと私は思います。ですから、日本に住んでいて日本の悪口を言う人には、どうぞ、好きな所に移住して下さい、といつも言っています(笑い)」と語られた。

 

穏やかな風土の緑豊かな地に生まれた多神教の神は、自然と一体であり自然の中に宿る。不毛な風土の砂漠地帯に生まれた一神教の神は、自然と対立しこれを支配し征服する神である。日本伝統信仰は、自然の「神のいのち」として拝ろがむ。ところが、キリスト教の自然観は、人間は神の命令により自然を征服し支配し改造する権利を与へられてゐるといふ信仰なので、庭造りにしても、自然を改造して美しさを作り出す。

 

『創世記』には、「神いひ給ひけるは、『我等に象(かたど)りて、我等の像(かたち)のごとくに我等人を造り、之に海の魚と、空の鳥と、家畜と全地と地に匍ふ處の諸(すべ)ての昆蟲(はふむし)を治めしめんと』…『生めよ殖えよ、地に滿てよ、地を從がはせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、…』」と記されてゐる。

 

この神の命令により、神の形の如く造られた人間は、自然を征服し支配し改造し操作し利用する権利が与へられたとされる。これが西洋における自然改造の手段としての科学技術や機械の発展の精神的基礎であると言へる。近代科学技術はこのような自然観を基礎として発達し、それによって人間は便利な生活を享受したが、反面、そのために自然を破壊しつつある。

 

神への信仰があるうちは、神が創造した自然を、人間の利己的な目的のみのために利用し改造し害することは、神に対する「罪」であるといふ慎みの心があった。しかし、その天地創造の神を否定する人が多くなった近代においては、さうした心も消え失せ、人間の「幸福」のために自然を改造し破壊してきたのである。それが現代における自然破壊・公害問題の根本原因であると考へる。

一方、日本の精神伝統は、自然崇拝、自然を神として拝む心がその基本にある。これが日本の精神史の不滅の基礎である。

 

この自然崇拝の心(人と自然との一体観)といふ日本の精神伝統とは異なる一神教は日本に根付くことはなかった。

 

これまでの世界は、西洋文明・文化が主流となって歴史を形成してきた。たしかに西洋の文化・文明は偉大であり、それによって世界が進歩し発展してきた。しかし、現代は精神的にも物質的にも大きな困難に直面してゐる。各地で民族紛争・宗教紛争が起こり、資源が枯渇し、自然破壊が進み、人類は不幸への道を歩んでゐる。

 

この根本原因は、砂漠に生まれ、神と人間が隔絶した関係にあり、自然を人間の対立物ととらへ、一つの神・一つの教義を絶対視して他を排除する一神教的思想を淵源としてゐる西洋の文化・文明にあると考へられる。これを根本的に是正すべき時に来てゐる。

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千駄木庵日乗十月十九日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、病院にて診察を受ける。血液検査の結果を聞く。酒を慎み、無理な仕事も運動もせず、体重を落とすこと、というご託宣を医師より受ける。

帰宅後は、資料整理。

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今日思ったこと

「秋月正夫がステッキを持ち元気さうに楽屋より出で来しを見たる思ひ出

 

歌ひ終へし田谷力三がびっしょりと汗かきてゐるを楽屋にて見し

 

銀座の街で島田正吾と握手して芝居の台詞を言ひし思ひ出」

 

以前詠んだ歌です。

 

島田正吾・秋月正夫両氏は、新国劇の俳優。田谷力三氏は浅草オペラのスター。お三方ともお目にかかったことがある。演劇史・音楽史に残る人々である。

 

この方たちはたとえ観客がどんなに少なくても舞台をキャンセルするなどということはなかったと思う。

 

沢田研二は私と同年だ。歴史にのこる大歌手なのかどうかは、私にはわからない。しかし、観客が少ないと「意地がある」とか言って公演をキャンセルするなどということは全く許せないことだと思う。一体何様だと思っているのか。どうでもいいことですが敢えて書きました。

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自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である「祭祀」が自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する

自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である「祭祀」が自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する。

 

日本列島はモンスーン地帯に属する温暖湿潤な自然風土であり、年間降雨量も多く、森が豊かに生育した。森では木の実や山菜など豊かな食料が供給された。そして清く豊かな水、温かな太陽、豊かな国土に恵まれてゐる。日本の自然は、時に荒れることはあっても基本的に穏やかで美しく人間に対してやさしい存在である。

 

日本の自然環境は他国と比較すれば温和であり、四季の変化が規則正しい。日本は一年中極寒あるいは酷暑が続くことはない。

 

日本民族は、自然が持ってゐるリズムに逆らふことがなければ、基本的には、自然と共生して生きていくことができる。古代日本人は、人生も自然であり、人の生活は自然の中にあるものであって、人間は自然の摂理と共に生きるべきと考へた。そして、人が自然を破壊し自然の摂理に歯向かふ時、人間は自然の報復を受け。災ひを受けるといふことを体験的に知った。報復と言って悪ければ、摂理に逆らふことによって害を受けることを知ってゐた。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。

 

日本の神々は、今はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり霊である。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをもらたす。古代日本人は体験的にそう信じた。

 

古代日本人は、自然は人間と対立するものでも、征服する対象でも、作り替へるものでもなく、人間と一体のものであるといふこと体験的に知ってゐた。自然を神々として拝ろがみ、自然に随順し、自然の中に抱かれて生活してきた。

 

自然を神として拝ろがみ、自然と自己とが霊的・生命的に一体であるといふ信仰の自然な形での実践が祭祀である。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精霊たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精霊たちを祓ひ清め鎮めることである。日本人が古来行なってきた「祭祀」は、まさに自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である。

 

日本人は旅する時には、訪れた土地の神々を祀り、山に登る時には、その山の神を拝ろがんだ。だから西洋のやうに「自然を征服する」とか「自然を改造する」などといふ考へ方は元来なかった。人の力を試すため、冒険のため、征服するために山に登るなどといふことは無かった。国土や山の神明を敬ふ旅であり登山であった。

 

日本人は、「山びこ」(山の谷などで起こる声や音の反響)のことを「こだま」即ち「木霊」「木魂」といふ。山野の樹木に霊が宿るといふ信仰から出た言葉である。まさに日本人にとって、山野には霊が宿ってをり、深山幽谷は精霊の世界だったのである。

 

原子力開発が「自然の摂理」に歯向かふものであるかどうかは、私には分らない。しかし、日本人のみならず現代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆らって文明の進歩発展・経済発展の道をひたすら突っ走ってきたことは確かである。

 

近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精霊として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替へようなどといふ文字通り「神をも恐れぬ考へ」を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。太陽の神・大地の神・海の神・山の神・水の神など、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるものを、神と崇める日本伝統信仰に回帰することが今一番求められてゐる。

 

自然保護・自然との共生は、法令や罰則の強化による以前に、日本人が本来持ってゐる信仰精神を回復し今日に蘇らせることが自然保護の最高の方策である。法令や罰則の強化は必要ないとは言はないが、それ以前に、自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。人間が自然を支配し造る変へることは正しいとする人間中心思想を脱却するにはこうした信仰精神に回帰するしかない。

 

自然保護・自然との共生は、自然の中に宿る生命と人間の生命とが本来一体であるといふ信仰的真実を実感し、自然を畏れる心を大切にすることによって自然に実現するのである。

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千駄木庵日乗十月十八日

終日在宅して、書状執筆、資料の整理など。

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2018年10月17日 (水)

日本民族の自然信仰とは

 

梅原猛氏は、NHKの「Eテレ」の「3・11をどう生きる」(平成二十四年四月一日放送)といふ番組で、天台本覚思想・「草木もの言ふ」といふ思想が現代文明を乗り越える思想であると述べてゐる。「草木もの言ふ」思想は、『古事記』に語られてゐる。

 

『古事記』の「身禊」の条に、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。『日本書紀』には、「然(しか)も彼()の地(くに)に、多(さは)に蛍火の光(かがや)く神、及び蠅声す邪しき神有り。復(また)草木咸(ことごとく)に能()く言語(ものいふこと)あり」と記されてゐる。

 

自然の中に精霊が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文学的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

梅原猛氏はさらに、「『君が代』の『さざれ石が大きな岩となる』といふ言葉に草木国土悉皆成仏の心が込められてゐる。石も生きてゐる」と論じてゐる。

 

わが国の国歌である「君が代は 千代に八千代 に さざれ石の いはほ となりて 苔のむすまで」の元歌は、平安朝初期から知られていた「詠み人知らず」(作者不明)の古歌(『古今和歌集』巻第七及び『和漢朗詠集』に賀歌として収録)の一首「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千年も八千年も、小さな石が巌となって苔が生えるまで、末永くお健やかでいて下さい、といふほどの意)である。

 

石と岩の違ひは、石が成長した岩には魂が籠ってゐるといふことである。石が成長して大きくなり巌となるといふのは日本人の古来からの信仰的真実である。古代日本人は、石が成長すると信じた。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩といふ自然物が生きているという自然神秘思想から来ている。全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。

 

「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は、「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させずに霊力を賦活させ神聖化する意味である。

 

そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。魂の籠ってゐる「石」を「岩」と言ふと言っていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところである。

 

家に籠ることを「いはむ」といふ。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けることである。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることを言ふ。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いはふ。いつく。ものいみする、といふ意)と同じ意である。「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含してゐる神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来てゐる。

 

日本の「家」(いへ)は、家を構成する人々つまり家族の魂が一処に籠ってゐるといふ意味である。従って、「君が代(天皇の御代)」が、「石」が「岩」になるまで続くといふことは、「天皇國日本」は魂の籠ってゐる永遠の國家であるといふことである。岩を霊的なものとしてとらへ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういふ信仰を歌ってゐる歌が『君が代』なのである。

 

古代日本人は、石や岩に亡くなった人の霊魂が憑依し籠ると信じた。人々は、死者を葬った場所に大きな石を置き、遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるといふ信仰に基づく。また、墓を岩石で作るのは、地下に眠る人の霊魂がその岩石に封じ込まれ滅多に地上に戻らないやうするためといふ説もある。墓所に用いられて石は、地下の霊界と地上の現界とをつなぐ役目を果たすのである。

 

石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考へた。このように、『國歌君が代』には日本國民の伝統的天皇信仰・自然信仰が高らかに歌いあげられている。

 

また梅原猛氏は、太陽信仰・水への信仰の大切さを説いてゐる。日本人がとりわけ尊ぶ自然は、日と水と火である。この三つは、人間の生活に欠かせぬものであり、この三つの恩恵を受けることなしには人は命を保つことが出来ないからである。故に、日本神道は太陽神と国土の神と水の神を崇める。日本神道は、その最高神として太陽神であられ天照大御神を崇めてゐる。奈良の大仏も大日如来も、日本の太陽信仰・天照大御神信仰の仏教的展開である。

 

龍神信仰は水の神への信仰である。『日本書紀』には、天武天皇・持統天皇の御代に、非常に多く地震そして津波が発生したことが記されてゐる。また、頻繁に水と風の神である「廣瀬・龍田の神」を祭り、五穀の豊穣と風水害を無きことを祈ったと記されてゐる。

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千駄木庵日乗十月十七日

午前は、諸事。

午後一時、病院に赴き診察を受ける。

午後四時より、田園調布にて、曽野綾子さんにインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年10月16日 (火)

この頃詠みし歌

朝毎に八種類の薬をばのまねばならぬわが身悲しき 

 

人類の進歩と調和といふ言葉余りにも空しき響くことあり

 

角筈行きの都電懐かし九段上の停留所に立ちて待ちゐし

 

今からは五十年も昔のこと夢の如くに思ひ出さるる

 

靖國神社の銀杏の實を拾ひ来てストーブの上で焼きし思ひ出

 

二松學舎に通ひたる約十年間九段の坂は親しかりけり

 

大山巌品川彌二郎像 薩長が大江戸を制したる証しか

 

若き夫婦が明るく楽しく店を守ることのよろしも団子坂下

 

ああやはり昔は良かったなどと言はず今日のこの日を生きて行かなん

 

敵國の手先の政党が偽りの平和を叫ぶことの疎まし

 

新たなる思ひに今宵三カ月ぶりの萬葉集の講義を為せり

 

若き友の一途な思ひを受け止めて我に力無きをいたく恥じたり

 

パワハラとやらに鍛へられつつ生きて来し者たち多し我等の世代

 

これほどに心臓がいたみてゐたるとは夢にも思はず生きて来にけり

 

親切な看護師さんに血液を取られて嬉し秋の夕暮れ

 

心臓が爆発をして一瞬にこの世を去ればそれも良きかな

 

大君の貴き御姿を拝しながら靖國を潰すとは何といふ言葉

 

これやこの神職を長く務め来し人の言葉かと空しくなりぬ

 

わが怒り激しく燃え立つ今日の夜は甘き物など食べたくなりぬ

 

羊羹も金平糖もわが怒り鎮めるに良しと今日も食せり    

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千駄木庵日乗十六日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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「ますらをぶり」について

「ますらをぶり」は、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 

「剣太刀 いよよ研ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さやけ)く負ひて 來しその名ぞ」

 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨け  よ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。

 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」を詠んだ。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。

 

 この長歌と反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。

 

 『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。

 

 「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着しないさまである。

 

 天智天皇御製、

 

「渡津海の 豐旗雲に 入り日さし 今夜の月夜 清明(あきらけく)こそ」

(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)

 

 「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

 

 山上憶良の武の精神

 

「士(をのこ)やも 空(むな)しかるべき 萬代に  語り繼ぐべき名は立てずして」(九七八・男児たるものが空しく朽ち果ててよいものか。何時何時までも語り伝えられるに足りる名は立てないで)

 

 憶良は大宝年間に遣唐使として徒唐した。学問は漢和に亘り、聖武天皇が東宮の頃に侍講として奉仕し、筑前守となり、大伴旅人の知遇を受ける。七十歳で帰京、七十四歳で亡くなる時の辞世歌。

 

 名を立て、名を惜しみ、名を重んずる心が歌われている。「身を立て名をあげ…」という『仰げば尊し』が今歌われているかどうか。憶良が病に沈んで最後が近くなった時に胸中からほとばしり出た男子の本心を歌った慷慨悲憤の辞世。憶良は名をあげる機会に接しなかったことを悲しんでいる。しかし憶良は、こうした歌をのこしたことによって、名を後世にのこすことができた。人の胸を打つ。彼がいかに自分の名を揚げようと努力していたかが窺われる。

 

 聖武天皇の天平五年(七三三)のある日、藤原八束(不比等の第二子房前の第三子。大納言。後の摂関家は全て八束の門から出た。この歌のときは二十代後半から三十代と推測される)の使いのお見舞に謝して後暫くして涙を拭って悲しみ嘆じてこの歌を口ずさんだという。七十四歳の人生を振り返っての感慨である。春秋に富む藤原八束への激励であったかもしれない。

 わが国の武士道の徳目の一つに、「廉恥(心が清らかで、恥を知る心がつよいこと)心」があった。日本は名と恥の文化といわれている。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は、諸事。

午後二時より、世田谷にて、明石元紹氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年10月15日 (月)

第89回日本の心を学ぶ会のお知らせ

89回日本の心を学ぶ会

 

日本的ナショナリズムを考える

 

 ナショナリズムとは国家主義や国民主義あるいは民族主義と翻訳されています。しかしこれらの言葉はナショナリズムの一つの側面しか表わしていないように思えます。

 

ナショナリズムとは多義的な概念であり、それぞれの国や民族によって意味するものがいくばくか違うようにも見えます。さらにいえば、ナショナリズムは人間が自然に覚える郷土愛とは厳然として区別されており、「故郷」とはそのままに「祖国」ではないということです。

 

つまりナショナリズムとは歴史のある段階において成立した精神であるといえます。

 

わが国においてナショナリズムは明治維新以降において成立したものといわれております。

 

しかしナショナリズムの源流となる「尊皇精神」や「神国思想」は近代のはるか以前から存在し、歴史のなかで継承されてきました。蒙古襲来やペリー来航など国難がおとづれるたびにこれらの精神が勃興し国難を乗り越えてきました。

明治維新から150年経過した今日の日本も外国の脅威にさらされ、国内には課題を多く抱えております、このような中で日本的ナショナリズムを考えることは無駄ではないと思われます。

 

今回の勉強会では日本的ナショナリズムについて考えてみたいと思います。

 

【日時】平成301028日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-B

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5

東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15

都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【講 演】尊王攘夷の精神とナショナリズムー明治維新に学ぶ

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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この告知文は主催者が作成しました。

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皇后陛下の御歌を拝し奉りてー靖国の英霊は今日唯今も祖国日本を護って下さっている

戰勝國は、復讐のためにいわゆる「戰争犯罪人」を捕らえ「裁判」にかけたのである。戰勝國による復讐の軍事裁判は、見せしめのための裁判であった。そして、わが國に侵略國家の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。

 

「A級戰犯は戰争責任者だから靖國神社に祭られてはならない」とか「A級戰犯が祭られている靖國神社に総理大臣が参拝するのは侵略戰争を讃美することになる」などという議論は、戰勝國が行った法律なき「軍事裁判」即ち非人道的にして残虐無比な復讐を肯定することとなる。

 

「A級戰犯」という呼称はあくまでも戰勝國側の呼称であって、わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。昭和殉難者は、まさに英靈であり戦没者である。だから、靖國神社においては「昭和殉難者」「戰死者」として祭られているのである。 

 

靖國神社に祭られている英靈は、國のために命を捧げられたばかりでなく今日唯今もわが祖國をお護り下さっているのである。

 

それは皇后陛下が「終戰記念日」と題されて、

 

「海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御靈國護るらむ」

 

と、詠ませられている御歌を拝しても明らかである。

 

昭和二十年(一九四五)六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官として摩文仁岳にて自刃した牛島満陸軍大将の辞世歌を掲げさせていただく。

 

「矢彈(やだま)盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國(みくに)護らむ」

 

沖縄戦に於いて第三十二軍を指揮し、昭和二十年六月二十三日、自決された牛島満陸軍大将の辞世の歌である。まことにも悲しくも深く切なる歌である。自決した後も魂は祖國に帰ってきて、天皇國日本を守るといふ決意を表白された歌である。

 

われわれ国民は、天皇陛下にそして英霊にお護り頂いているのだ。國體護持も靖国神社国家護持も感謝報恩のための言葉である。 

 

わが國及びわが國民は、靖國神社そして各県の護國神社に鎮まりまします護國の英靈によってお護りいただいている。であるが故に内閣総理大臣をはじめ全國民は、靖國の英靈に対して感謝・報恩・顕彰の誠を捧げるのは当然である。共産支那や韓國の圧迫に屈してこれを怠るなどということは絶対にあってはならない。

 

また、國のために命を捧げた英靈をお祀りする靖國神社に内閣総理大臣が公式参拝すること、各県の護國神社に県知事が玉串奉奠することを「憲法違反だ」「近隣諸國との関係を悪化させる」などと決めつける法匪、亡國マスコミは許しがたい。

 

 

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千駄木庵日乗十月十四日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明日及び十五日に行うインタビューの準備など。毎日数種類の処方箋を服用していますが、呑んだ後猛烈な睡魔が襲ってきます。

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2018年10月13日 (土)

現御神信仰について

 

昭和天皇御製

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契りむすぶこの朝

 

と詠ませられた。「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」とも申し上げる。昭和天皇におかせられては、「天皇及び皇太子は天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚が、大東亜戦争後においても、いささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

「現御神信仰」は『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌に「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この長歌は、古代日本人の「現御神日本天皇仰慕」の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。「現御神信仰」は、わが國古代以来、今日まで繼承されて来たてゐるのである。

 

歴代の天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。

 

昭和天皇はさらに、昭和三十五年に『光』と題されて、

 

さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわがねがひなる

 

と詠ませられてゐる。「さし昇る朝日の光が差別することなく世を照らすことこそ私の願いである」といふほどの意と拝する。

 

鈴木正男氏は、この御製について「まことに堂々たる天津日嗣天皇の大みうたである。…一天萬乗の至尊にしてはじめて述べることのできる御製である。いかに昭和天皇が皇祖皇宗の示された大道を畏み給ひ、御歴代中最も苦難な御一代を通じて、その御重責をいかに御痛感遊ばされてゐたかを示す御製である。」と述べてゐる。(『昭和天皇のおほみうた』)

 

昭和天皇は、現御神として君臨あそばされてゐるといふ御自覚は決して失ってをられなかったのである。『昭和二十一年元旦の詔書』において昭和天皇は「人間宣言」をされたなどといふことは全くの絵空事である。

 

先帝陛下も、今上陛下も祭祀を厳修せられてゐる。この貴い事實は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強いによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。

 

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千駄木庵日乗十月十三日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明後日行うインタビューの準備など。

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今上陛下御製を拝し奉りて

「天皇陛下は皇居で祭祀を行はせられてゐればいい」といふ主張は、『國見』の意義を正しく理解してゐない主張であると思ふ。まして、たとへ國體護持、尊皇の思ひからの主張であっても、臣下國民による「天皇は皇居にゐて頂くだけで良い」といふ発言に接すると、大きな違和感を覚える。

 

『朝日新聞』本年五月二十二日号に次の記事が掲載された。「二〇一一年の東日本大震災発生の一九日後、天皇、皇后両陛下の被災地見舞いは三月三〇日、福島県から東京に避難した人々が身を寄せていた東京武道館から始まった。…石原慎太郎氏が都知事として迎えた。翌一二年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り『被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう』と進言した。陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。『石原さん、東北は、私が自分で行きます』。それまで石原氏は、首都の知事でありながら、園遊會や宮中晩餐會にあまり顔を出さなかった。珍しく両陛下を迎えた石原氏は陛下の言葉にあぜんとし、絶句した。その後、考えを変えた。『あれから東北三県に行かれて、みな感動した。行っていただいてよかった』と。両陛下は、大きな災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災者を見舞った」。

 

石原慎太郎氏は、ナショナリストではあるが、尊皇精神は稀薄な人であった。しかし、今上陛下の民を思はれる仁慈の大御心に、石原氏は大きな感動を覚えたのである。まことに有難き事實である。

 

今上陛下は、一昨年八月八日の「お言葉」で

 

「私が天皇の位についてから,ほぼ二八年,この間私は,我が國における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

 

と仰せになった。

 

「國民の安寧と幸福を祈る」とはまさに宮中祭祀の御事であり、「國民の傍らに立ち國民の声に耳を傾け國民の思ひに寄り添ふ」とはまさに『御巡幸』『國見』の御事であると拝する。今上陛下は古代以来の天皇のご使命を果たして来られたのである。

 

今上天皇御製 平成十五年歌會始 「町」

我が國の 旅重ねきて 思ふかな 年経る毎に 町はととのふ

 

平成十六年歌會始 「幸」

人々の 幸願ひつつ 國の内 めぐりきたりて 十五年経つ

 

平成二十四年歌會始 「岸」

津波来()し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる 

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。そして印象に残ったのは、当時日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎氏が、参列者の一人として賢所にかしこまって座っていたことである。

 

いかなる政治的立場・宗教的立場に立とうとも、敬神崇祖・尊皇愛国は、日本国民の共通の国民精神である。今日の日本の混迷を救う基礎は、敬神崇祖・尊皇愛国の精神の回復である。

 

天皇には『私』をお持ちにならない。ひたすら民やすかれ、国安かれと祈られる。今上天皇様の宮中祭祀への情熱は御歴代を超えられるものがある。新嘗祭は衣冠束帯で二時間正座される。『天皇とは祭り主であらせられる』の一言に尽きる。

 

今上天皇が「祭」について詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

昭和三十二年

歌会始御題 ともしび

ともしびの静かにもゆる神嘉殿(しんかでん)琴はじきうたふ声ひくくひびく

 

昭和三十四年

結婚の儀を終へ伊勢神宮に参拝

木にかげる参道を来て垣内(かきうち)なり新しき宮に朝日かがやく

 

昭和四十五年

新嘗祭

松明(たいまつ)の火に照らされてすのこの上歩を進め行く古(いにしへ)思ひて

 

新嘗(にいなめ)の祭始まりぬ神嘉殿ひちきりの音静かに流るととあわ

 

ひちきりの音と合せて歌ふ声しじまの中に低くたゆたふ

 

歌ふ声静まりて聞ゆこの時に告文(つげぶみ)読ますおほどかなる御声(みこえ)

 

 

昭和四十九年

歌会始御題 朝

神殿へすのこの上をすすみ行く年の始の空白み初む

 

昭和五十年

歌会始御題 祭り

神あそびの歌流るるなか告文(つげぶみ)の御声聞え来新嘗の夜

 

 

平成二年

大嘗祭

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ 

 

平成十七年

歳旦祭

明け初むる賢(かしこ)(どころ)の庭の面()は雪積む中にかがり火赤し

 

平成十七年

歳旦祭

明け初むる賢所(かしこどころ)の庭の面()は雪積む中にかがり火赤し

 

平成六年

豊受大神宮参拝

白石(しらいし)を踏み進みゆく我が前に光に映()えて新宮(にひみや)は立つ

 

平成二年

大嘗祭

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 

戦争直後の、戦勝国による皇室弱体化策謀は、六十年を経た今日、花開き実を結びつつあると言っても過言ではない。まことに由々しきことである。しかし、神の御加護は必ずある。これまでの国史を顧みても、「壬申の乱」「南北朝の争乱」など大変な危機的状況を克服してきた。日本皇室は永遠であり、皇統はまさに天壌無窮である。われわれ日本国民は、そのことを固く信じつつ、その信の上に立って、最近特に巧妙になってきた國體隠蔽・國體破壊の策謀を断固として粉砕していかねばならない。

 

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千駄木庵日乗十月十二日

終日在宅して、体を休めつつ。『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年10月12日 (金)

小堀邦夫氏の発言について

小堀邦夫氏は、神社神道の教学に相当造詣が深い人であろう。また神職としても位の高い人であろう。そういう人が「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」と言われたことに大きな驚きを覚えた。

 

「靖国神社は遠ざかって行く」と言うのは一体どういう意味か。天皇陛下が靖国神社から遠ざかって行かれるという意味なのか。「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」という発言はもっと重大だ。神職にはこういう考え方を持っている人は多いのであろうか。

 

靖国神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭である。この日には、勅使が参向になり、天皇陛下よりの幣物が献じられ、御祭文が奏上されると承る。

 

「今上陛下が靖國神社か遠ざかっていく、今上陛下は靖国神社を潰そうとしている」などということは全くあり得ないことである。

 

「どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても」という発言も理解に苦しむ。戦跡には、遺骨があっても無くても、やはり御霊がおられると私は信じる。パラオなどに慰霊に行った同志が神秘的体験をして御霊がおられるということを実感したという話を何回も聴いた。遺骨は祖国に帰っている場合も多い。しかし、戦跡にはとどまっている英霊はおられるのではないであろうか。そして慰霊に行った人々に「よく来てくれました」とお礼を言って下さるのではないだろうか。

 

それは我々日常生活でお墓参りをするのと同じである。先祖の御霊は、各家の仏壇などに安置されている位牌に鎮まって居られても、菩提寺・霊園などの墓所にも鎮まっておられるのと同じであろう。これは理屈ではなく、まさに心の問題である。小堀氏は、墓所には御霊はいないと考えているのであろうか。それが神社神道の教学なのであろうか。

 

両陛下が各地に赴き、慰霊をされ、御霊に拝礼される御姿を見て、「今上陛下が靖國神社か遠ざかっていく、今上陛下は靖国神社を潰そうとしている」などと考えるのは私にとって全く理解の外である。

両陛下が慰霊されるお姿を拝した人々の中には、自分たちも戦没者を慰霊するために、現地には行けないまでも、靖国神社や地元の護国神社に参拝するようになった人々も多いのではなかろうか。

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千駄木庵日乗十月十一日

午前は、諸事。

休息る。

この後、病院に赴き、診察を受ける。安心べき状況ではないとのこと。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年10月11日 (木)

深谷隆司氏の主張

深谷隆司氏の主張を紹介します。

四宮正貴

 

20181007

 

776回「ノーベル平和賞とは?」

 

 深谷隆司の言いたい放題第776

 

 「ノーベル平和賞とは?」

 

 今年のノーベル平和賞が誰になるのか気になっていた。マスコミ等の事前の予測で韓国の文大統領、北朝鮮の金委員長、更に米のトランプ大統領の名前まで上がっていたからだ。

 

 文大統領が北朝鮮にのめりこんでいく姿は、やはり同胞意識としてやむを得ないとは思うものの、肝心の核廃絶が進まなければ何の意味もない。いままで何度も北に騙されて、結果的に核保有国にしてしまったのは歴代韓国大統領ではなかったか。

 

 おまけに、真実に反する慰安婦問題を喧伝し、世界に慰安婦像を拡散させている。最近では主権の象徴ともいうべき自衛隊の艦旗「旭日旗」にまでいちゃもんをつける。旭日旗を「戦犯旗」と言う韓国の主張は一分の理もない言いがかりだ。 

 

 国内法で掲揚が義務付けられ、国際法上でも国の軍隊に所属する船舶を示す「外部標識」、しかも半世紀以上にわたって行なわれており、国際的な慣行として確立している。

 

 日本は5日に行なわれる予定の韓国での国際観艦式への護衛艦派遣を見送った。当然の事だが政府の毅然たる姿勢を評価したい。同盟国に対して平気で主権侵害を行う大統領に平和賞などとんでもないことだ。

 

 金委員長などは論外だ。北朝鮮当局による拷問、公開処刑、外国人拉致、意思表示の権利剥奪、強制収容所では裁判もせず処刑されているという。300万人以上の餓死者を出した問題も含め、人権問題が国連でしばしば取り上げられ、決議案も採択されている。どこをとっても平和賞に価する筈もない。

 

 トランプ氏は日替わりメニューで何を考えているのかわからない。大統領選挙時は日本バッシングが目立ったが、安倍総理と親しくなって最近は良好な関係だ。しかし、6月の日米首脳会談では「真珠湾攻撃を忘れないぞ」と二国間通商交渉を迫ったりする。

 

 中国の習主席を友人だといいながら、中国製品に多大な関税をかけ、中国も報復処置で対抗、今や米中貿易戦争は世界経済に悪影響を与えている。

 

 北朝鮮問題でも金委員長を「チビのロケットマン」「狂った男」と言ったかと思うと、シンガポールのセントーサ島で史上初の米朝首脳会談を開くと、いかにも親しげな態度をとる。

 

 朝鮮半島の「終戦協定」を「平和協定」にするという動きに対しても賛意を示す。そうなれば38度線は対馬海峡まで広がり、日本の脅威は高まる一方だ。

 

 幸いノーベル平和賞はコンゴの医師とIS被害女性に決まったが、平和賞に関しては今までに首を傾げたくなるような人物に与えられ、不信感はぬぐえない。

 

 一方、京都大学の本庶佑特別教授がノーベル医学生理学賞を受賞した。本当に嬉しい。

 

 2000年以降、日本人のノーベル賞受賞者は18人に達した。実証主義である科学の分野で、このような成果を挙げた事は本当に見事だ。日本人の素晴らしさに改めて感動している。

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安倍総理に望む

 

 自民党は、野党時代、「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた。自民党が政権を奪還し、「日本を取り戻す」を政治理念とする安倍晋三氏が総理総裁となり、愈々政府主催の建国記念の日奉祝式典が行われると期待していたが、今日に至るまで実現していない。これは一体どうした事か。

 

「戦後七十年談話誤れる歴史観」「建国記念の日の政府主催行事の不実行」「靖国神社総理参拝の不実行」は公約違反などという生易しい問題ではない。まさに「日本を取りもどす」即ち国家再生・維新断行の根本問題の一つである。

 

野党に政権を取らせてはならないが、安倍政権の根本姿勢のおかしさは厳しくこれを批判しなければならない。

 

安倍晋三総理は、総理就任後、「戦後レジームからの脱却」ということをあまり主張なくなった。「レジーム」とは体制の事だ。七〇年代、活発に展開された民族派学生運動の中心スローガンは、「戦後体制打倒」「ヤルタポツダム体制打倒」であった。安倍氏のブレーンには、民族派学生運動で活躍した人たちがいる。

 

「真正保守」という言葉がある。本物の保守という意味であろう。偽物の保守とは現状維持・戦後体制維持勢力だ。真正保守とは一言で言えば「國體護持」である。それはあるべき日本の眞姿の回復と言い換えてもいい。そしてその日本の眞姿の回復はそのまま現状の革新なのである。「維新とは復古即革新である」と言われる所以である。「復古」の「古」とは時間的過去のことではない事は言うまでもない。日本のあるべき姿、天皇国日本の眞姿の事である。

 

今日、日本國體・日本の眞姿を隠蔽しているのが「戦後レジーム」「戦後体制」である。「戦後体制打倒」「戦後レジームからの脱却」とは、つまりは「維新」という事である。安倍氏は残りの任期中、このことをしっかりと自覚し「戦後レジーム」からの脱却の道を正しく歩んでもらいたい。

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千駄木庵日乗十月十日

午前は、諸事。

午後は、本日行う『萬葉集』講義の準備。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、田邊福麻呂の歌などを講義。

帰宅後は、休息。

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2018年10月10日 (水)

三輪山信仰について

三輪山は奈良県桜井市の大和盆地東南にある山。麓に古道「山邊の道」が通ってゐる。海抜四六七㍍。周囲十六㎞。麓に大物主神(大國主神の和魂ともされるが、元来は別神といふ)を祀る大神(おほみわ)神社が鎮座する。この神社の御神体が三輪山である。

 

 わが國には地域社會・共同体ごとに信仰の対象になる神の山があった。これを「神奈備(かむなび)信仰」といふ。大和盆地の東南に、紡錘形の美しい形で横たはってゐる三輪山の姿を、大和地方の人々は毎日仰ぎながら生活し、「神奈備」として古くから崇めて来てゐる。三輪山はわが國の原始信仰が今日において生きてゐる山である。

 

大和から近江に遷都するにあたって、大和の國の「神奈備」である三輪山に対して鎮魂をしなければならないといふことで國家的祭事が行はれ、宮中の祭事に仕へる巫女であった額田王によってこの歌は歌はれたとされる。

 

 三輪山と別れることを大和の人々は非常に悲しんだ。或いは三輪山の神の神威を恐れた。大和人にとって大和の國から去るといふ事は三輪山から去ることと同意義だった。さうした大和人の心を代表する形で額田王はこの歌を詠んだのである。                           

 

 わが國は三輪山信仰などの太古からの信仰が、今日唯今、生活の中に生

きてゐる。これが日本伝統信仰のすばらしさである。世界でも類ひ稀なことである。

 

三輪山を しかも隱すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隱さふべしや

                              (十八)

 

「額田王、近江國に下りし時、作れる歌」の反歌(長歌のあとに添へる短歌。長歌の意を補足または要約した歌)。

「しかも」は、そんなに、そのやうにといふ意。「隱すか」のカは詠嘆。「雲だにも」のダニは、「せめて~だけでも」といふ意味を表す副助詞で、願望・打ち消し・命令などと呼応する言葉。「あらなむ」のナムは実現不可能なことを希求する助詞。「雲だにも情あらなむ隱さふべしや」は「雲でさへ心があってほしい。隠すべきでせうか。隠してはいけません」といふ意。

 通釈は、「三輪山をどうしてあのやうに隠すのだらう。せめて雲なりとも情けがあったならば、隠してよいものか、隠してくれるな」。

 本来心なき雲に心あれかしと願ふ心の背後にあるものは、どうしても三輪山そして三輪山が象徴する大和の國から離れたくないといふ悲しみの情念であらう。大和を離れ行く人々の大和と三輪山への愛着の思ひを切々と歌った歌である。三輪山に名残りを惜しむ深い宗教的感情或いは激しい恋情の心が歌はれてゐる。額田王にとって三輪山は単なる自然物ではなかった。

 

近江遷都が行はれたのは、天智天皇六年三月十九日、陽暦でいふと四月二十日のことであった。

 

『萬葉集』編者の言葉として、「山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、都を近江國に還しし時、三輪山を御覧(みそなは)せし御歌なりといへり」と書かれてゐる通り、この長歌と反歌は、天智天皇の御歌との傳承があるが、熟田津の船出の時のやうに、額田王が、天智天皇のご命令により代作したか、天皇のお立場に立って詠んだ歌とも考へられる。

 

 とすると、この歌は個人的な感傷を歌った歌ではなく、遷都の際、奈良山を越える峠の國境で行はれた三輪山の神に代表される大和の國魂への畏敬と鎮魂の祭事の歌として歌はれたといふことになる。

 

長歌の結句「情なく 雲の 隱さふべしや」と、反歌の結句「情あらなむ隱さふべしや」は、山への霊的な呼びかけであり自然の精霊との交感である。

 

三輪山が大和地方の神奈備であるといふことは、三輪山はその地に都を置いてゐた大和朝廷の信仰的権威の象徴でもあったわけである。だから、敏達天皇の御代に、蝦夷の反乱を討伐して蝦夷の酋長を大和に連れて来た時、泊瀬川(はつせがわ)で体を清めさせて、三輪山の神の御前で大和朝廷への服従を誓はせた。

 

 何故、三輪山が大和の「神奈備」になったのかといふと、山の姿そのものが美しかったことと共に、大和盆地の東南に位置する三輪山の方角から太陽が昇って来たからである。そして大和盆地の上を太陽が渡って二上山の方角に沈んだ。故に太陽信仰・日の神信仰の象徴として三輪山が仰がれた。三輪山信仰は、山そのものを御神体として拝むと共に、三輪山の背後から昇って来る日の神への信仰・太陽信仰でもあったと思はれる。

 

 三輪山の麓は大和笠縫邑(ヤマトカサヌイノムラ)といはれ、伊勢に祭られる前に天照大神が祭られた場所である。だからその地に鎮座する檜原神社(御祭神は天照大神)を元伊勢と申し上げる。天照大神は最初に三輪山の麓に祭られた後、各地を経巡られて、最後に大和盆地から直線上東方に位置する伊勢の地に鎮まられた。

 

 また、三輪山の麓から真直ぐ西に行ったところに、天皇御陵のやうに大きな箸墓といふ古墳がある。倭迹々日百襲姫命の御墓といはれてゐる。『書紀』には、倭迹々日百襲姫命に大物主神が神懸りしたと伝へられてゐる。つまりこの墓は三輪山の神を祭った巫女の墓といふことである。

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千駄木庵日乗十月九日

終日在宅して、「政治文化情報」原稿執筆など。

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2018年10月 9日 (火)

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

吉村寅太郎

 

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

 

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

 

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 

しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

 

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

 

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

 

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

 

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

 

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

 

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

 

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

 

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

 

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母

に知らせよ」

 

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

 

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」

を實感させる歌である。

 

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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千駄木庵日乗十月八日

終日在宅して、『政治文化情報』原稿執筆、資料の整理など。無理をせず、体調に注意しながら仕事をしております。

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2018年10月 8日 (月)

古代日本の太陽信仰と檜原神社

 

日本最古の道と言われる「山の辺の道」を、大神(おほみわ)神社から三輪山の麓の麗しい景色を眺めつつ北へ歩み行くと、檜原神社(ひばらじんじゃ)に至る。この神社は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神のご神靈を、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」に比定される地に建てられている。

 

天照大御神が、伊勢の地にお遷りになった後も、「倭笠縫邑」は「元伊勢(もといせ)」として今日まで尊ばれてきてゐる。

 

神域には、明治天皇第七皇女・北白川宮房子内親王(北白川宮成久王妃)の御歌碑(昭和四十年建立)がある。

 

「檜原神社旧蹟をおろがみまつりし折よめる

立つ石に 昔をしのび をろがめば 神のみいつの いやちこにして」

 

と刻まれてゐる。

 

伊勢皇大神宮祭主・神社本庁総裁をつとめられた北白川宮房子内親王は、初めて天照大御神が皇居から移されて祀られた宮跡と伝えられる檜原神社に参拝され、天照大御神の赫々たる御神威を実感されたのであろう。

 

檜原は日原とも言はれたといふから、太陽信仰の地であったと思はれる。古代の人々は、大和盆地の東方にあり神宿る美しき山である三輪山の後方から昇り来る日の大神を、倭笠縫邑で拝んだのであろう。

 

檜原神社から西方を眺めると、すぐ下に倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはかか・箸墓古墳)が見える。やや左手方向に大和三山、そして眼前に広がる大和盆地を越えて真向かひに二上山が眺められる。何ともいへぬ神秘的な景色である。

 

三輪山の日の出と二上山の日没は、大和の國の「日の神信仰・太陽信仰」の原点であろう。

 

太古の人々は神聖なる山と仰がれた三輪山と二上山の間を渡る太陽を、日の神の去来と信じた。そして二上山の背後に沈んだ太陽は再び東方の三輪山の背後から出現するように、三輪山から昇る日の神は永遠不滅の存在であり、人の命もまた永遠であると信じた。

 

大和盆地の西方の二上山に葬った死者の霊は必ず蘇ると信じた。二上山は二つの峰を持ち大津皇子の墓所がある。大和盆地に昇った太陽が二上山の二つの峰の中間に沈むことから、他界の入り口と信じられた。この信仰が、西方極楽浄土信仰と融合した。

 

麓に西方極楽浄土の様子を表はした「当麻曼荼羅」があり日本の浄土信仰発祥の寺とされる當麻寺がある。

 

三輪山・檜原神社・箸墓・二上山は一直線で結ばれてをり、春分・秋分の日にはその上を太陽が通るといふ。

 

すなわち、檜原神社がある倭笠縫邑は、大和地方の太陽信仰・天照大御神信仰の中心地であり、発祥の地と言っていいと思う

 

春分・秋分の日は、三輪山を中心にして、真東に七〇キロ行ったところの伊勢の斎宮、真西に八〇キロ行ったところの淡路島北淡町の伊勢の森をまっすぐに結ぶ「太陽の道」と呼ばれる「北緯三四度三二分」の線がある。この線上に太陽崇拝および山岳信仰と何らかのつながりがある古代祭祀遺跡が並んでいるといふ。

 

「三輪の檜原」と呼ばれる地で詠まれた歌は、『萬葉集』に数多く収められ、柿本人麿の育った地とも言はれてゐる。「柿本人麿歌集」には次のやうに歌がある。

 

鳴る神の 音(おと)のみ聞きし 巻(まき)(むく)の 檜原の山を 今日見つ

るかも                  (一〇九二)

 

()(もろ)つく 三輪山見れば 隠(こもり)()の 泊瀬の檜原 思ほゆる

かも                   (一〇九五)

 

いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ            (一一一八)

 

大和国中を一望するこの地には何回か訪れているが、日本人の「魂の故郷」に帰って来た心地がする。「まほろば」と呼ばれる通り、筆舌に尽くし難い穏やかにして美しい景色である。これほど美しくのどかで、しかも日本国生成の歴史を伝える地は他にないのではないだろうか。

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千駄木庵日乗十月七日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2018年10月 7日 (日)

『現行占領憲法』の「国民主権」「政教分離」は、日本國體・皇室の道統とは相容れない

『現行占領憲法』は、日本の傳統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立ってゐる。

 

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う國の儀式などの挙行に係る基本方針について」の「第一 各式典の挙行に係る基本的な考え方について」には「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとすること」と書かれてゐる。

 

「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとする」といふことにそもそも無理がある。

 

『現行占領憲法』は、日本國體・皇室の傳統とは相容れない「國民主権」と「政教分離」(祭祀と統治の分離をも意味する)を基本理念としてゐる。従って、憲法の趣旨の沿ふことと、皇室の傳統を尊重する事とはどうしても矛盾してしまふのである。

 

『現行占領憲法』は、「君主と人民とは相対立する存在であり、國家は國民同士が契約して成立する」といふ西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定してゐない。それどころか『現行憲法』は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になってゐる。

 

『現行占領憲法』の「政教分離」「國民主権」の原則は、「天皇の國家統治と祭祀との一体」「君民一体」といふ國體の根幹、皇室の傳統を否定してゐる。このやうな「憲法」と皇室の傳統とを整合性を求めることは本来できない。また整合性を求める必要も無い。

 

祭祀國家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に國民の幸福と五穀の豊穣そして國家國民の平和と幸福を祈る御存在であらせられるのであるから、外國の専制君主のやうな國民と相対立する御存在ではないし、國民を力によって支配し隷従せしめる御存在ではない。

 

國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の實現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり天皇と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。かうした天皇中心の日本の國柄を「君民一体の日本國體」と言ふのである。また、天皇の祭祀は私的行為では絶対にない。祭祀と天皇の國家統治とは分かち難く一体である。

 

「憲法」に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現してゐない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いてゐるのである。

 

この度の「ご譲位」そして「皇室典範改正の議論」においても、「憲法との整合性」「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行はれてゐる。

 

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統を隠蔽し破壊してゐる。これは、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『國民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇』の地位を復元すべきものと思ふ。」(『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

 

今日、政治の混乱・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そして人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性の回復が大事になってくる。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は常に、天皇を中心とする國體精神であった。特に政治・倫理・文化・生産・軍・教育など國家民族の基本において然りであった。

 

大化改新・明治維新の歴史を見て明らかなやうに、急速な変化と激動の中でわが國が祖先から受け継いだ傳統を守り、かつ変革を為し遂げた核は、天皇のご存在であった。

 

わが國の歴史始まって以来、日本といふ統一された國家を体現する核が天皇であった。どのやうな困難な時期においても、日本國家・日本民族が常に傳統を守り統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その中心の核が天皇であった。國家的危機にある今日こそ、日本國體精神の回復が大切なのである。

 

 天皇の御存在・歴史を貫く天皇の傳統的神聖権威は、まさに「天壤無窮」である。しかし、それは日本を弱體化せんとして戦勝國・アメリカによって國際法を蹂躙して戦争直後に押しつけられた『現行占領憲法』の「規定」によって隠蔽され続けてゐる。

 

日本國體の道統、皇室の傳統とりわけ「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄の正しき傳統あるべき姿の隠蔽、無視、改変の原因は『現行占領憲法』である。『現行占領憲法』は、「天壤無窮の神勅」に示された「天皇は日本の永遠の統治者であらせられる」といふ國體の本姿を隠蔽してゐる。「諸悪の因」は『現行占領憲法』にあるのである。

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2018年10月 6日 (土)

千駄木庵日乗十月六日

終日、在宅して、体を休ませつつ、室内整理、資料整理、十日に開催される『萬葉古代史研究会』の講義の準備、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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楠公一族の絶対尊皇精神・七生報國の精神

楠木正行の歌

 

「帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る名をぞ 留むる」(出陣したならば、放たれた梓弓のやうに帰って来ることは無いとかねてから覚悟して来たので、過去帳に記されるであらう人々の名を書きとどめて置かう)。

 

楠木正行は、河内國水分にて正成公の長男として生まれた。父・正成公が湊川に出陣する時、正行は十一歳であったので、父から懇々と諭されて故郷の河内に帰り他日を期した。正平二年、正行が二十二歳になると、足利方は悪名高き高師直を総大将として吉野に攻め寄せて来た。正行は、後村上天皇に拝謁してお暇乞ひをし、後醍醐天皇の御陵を拝した。その後、如意輪寺にて決死覚悟の一族郎党一四三名の過去帳と遺髪を奉納し、この辞世の歌を扉に鏃で刻んだ。

 

そして翌年一月五日、四条畷にて高師直、師泰連合軍約八万騎を楠木勢約二千騎にて迎へ撃ち、師直の本陣へと突入し、師直を討ち取る寸前までの奮闘を見せるが、やがて幕府軍の大軍に取り囲まれ、弟正時公と刺し違へて生涯を終へた。

 

正行は、早くから死を覚悟してゐた。後村上天皇は正行に弁内侍といふ女性を娶るやうに勧められたが、正行は辞退してゐる。その時詠んだ歌が「とても世に 永らふべくもあらぬ身の 仮の契りを いかで結ばん」である。

 

天皇國日本存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と、國民の「尊皇精神」である。國民が、神聖君主・日本天皇の大御心に「清らけき心」「明けき心」を以て随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の根幹である。私心なく天皇にお仕へする心は、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

中世においては、大楠公・楠木正成こそ尊皇精神の体現者であられた。大楠公の絶対尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。大楠公は絶対尊皇精神の具現者である。

 

日本の古典には「名文」と言はれるものが多数ある。『太平記』の次の一節は、その最たるものであらう。

 

「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

 

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報國の精神が見事にうたひあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

 

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈に決意を吐露した。

 

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生き通して、君國に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

絶対尊皇精神といふ「素直な民族感情」は、仏教の宿命論、輪廻思想・厭離穢土思想を超越するのである。「七生報國」の精神は、仏教の輪廻転生思想・宿命論が我が國に入って来る以前から日本民族が抱いてゐた死生観より生まれた観念だからである。

 

「七生まで唯同じ人間に生れる」とは、「よみがへりの思想」である。黄泉の國(あの世)に行かれた伊邪那美命の所を訪問した後、この世に帰って来られた伊邪那岐命は「よみがへられた」のである。

 

落合直文が作詞した『櫻井の訣別』に

 

「汝をこゝより歸さむは わが私のためならず おのれ討死なさむには 世は尊氏のまゝならむ 早く生ひ立ち大君に 仕へまつれよ國のため」

 

といふ一節がある。毎年『楠公祭』で斉唱する度に、胸が迫る。現代のわが國は、精神的・思想的・政治的に混迷の極に達している。また近隣諸國との関係も緊迫している。今こそ、楠公精神即ち絶対尊皇精神・七生報國の精神に回帰しなければならない。

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千駄木庵日乗十月五日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

休息。

夕刻、根津にて、ある大学教授と憲法問題・台湾問題について懇談。

帰宅後は、休息。

資料の整理。

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2018年10月 5日 (金)

絶対尊皇精神・楠公精神について

 

日本国民の「楠公崇拝」は、楠公の「絶対尊皇精神」がその根源にある。それは、天皇を現御神と仰ぎ奉り絶対の信をよせることが日本の臣道ということである。

 

久保田収氏はその著『建武中興』において次のやうに論じてをられる。

 

「『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして、…奮戦し…中興の糸口をつくったこと…七生報国の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志をうけつごうとする決意とを生み出したのである。…正成に対する感激…決定的方向を与えたのは水戸光圀である。…『大日本史』において、吉野の正統を主張した…湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』という碑を立てた…。…天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎…の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えている…強斎は、このことばが『わが国士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである」。

「明治維新…のために活動した多くの志士は、ほとんど例外なく楠公に対する感激と崇敬とをいだいていた。…松陰は、安政三年(一八五六)、『七生説』を作って、正成が七度人間と生まれて国賊を滅ぼすことを誓ったことについて、『楠公兄弟、たゞに七たび生れるのみならず、初めより未だかつて死せざるなり』といい、『是より其の後、忠孝節義の人、楠公に見て興起せざるものなし。…』となし…ひとびとの心が楠公崇拝に帰一した時に、明治維新は成就したのである。挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活したというべきであろう。…建武中興への懐古、ことに国家の中興を目指し道義的理想を実現しようとされた後醍醐天皇と、その御志を理解して、身命を捧げた忠臣義士に対する感激が、王政復古運動を導き出し、やがて明治維新実現に至る精神的動因となった」。

 

この他高山彦九郎・有馬新七・真木和泉守保臣など、明治維新の草莽の志士たちは殆ど例外なく楠公を尊敬した。

 

自分の意志や思想と一致する天皇を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従ひ奉るのが真の尊皇であり勤皇である。そのことは、日本武尊の御事績・楠正成公の事績を見れば明らかである。

 

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下をあからさまに批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。楠正成公が言はれた如く「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」なのである。この絶対尊皇精神は太古以来の日本の道統である。

 

我が国の歴史書において、大楠公を賛美しても、後醍醐天皇を失徳の天子として批判することがある。

 

村岡典嗣氏は「まごゝろといひ、大和心といふものには、一味もののはれと通ずるところがある。而してこれまた、現人神にます天皇を對象とすることに於いて、重なる存在をはじめに有した丹き心本来の性格であった。……正統記に、儒教的の有徳王君主の思想を少なくとも絶對的に否定しつべき積極的主張の十分でなかったことを、感ぜざるを得ざらしめる。これは國學者の立場からせば、所謂漢意を去りえなかったのである。天皇は天皇にまします故に貴く、善悪の論を離れて絶對に尊びまつるべしといふのは、合理主義以上のまた以外の至情である。丹き心の根柢にはこの情味がある。この事は、國學をまって、始めて明瞭なる自覺を以て發揮せられたところである。されば親房以後近世の日本的儒學者の間に於いては、就中、山鹿素行の如き、頗る日本精神の主張に於いて、一層の進歩を示したとはいへども、未だこの點國學ほど純粋ではなかった憾みがある。而してこは、國學の古典學を有しなかった爲である」(『日本思想氏研究第四』)と論じてゐる。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に對する絶對的な仰慕の心・戀闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「然(しか)あらば、汝(みまし)が心の清く明きは何を以ちて知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

「清明心」「清き心」の傳統は、日本の倫理思想の中に力強く生きてゐる。そしてそれは、絶對尊皇精神と一体の倫理観であった。日本武尊の御事績を拝すればそれは明らかである。

 

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればその君主を廃する」といふ思想である。日本の尊皇精神は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。「あかき心」とは「無私の心」である。

 

吉田松陰は、『講孟箚記巻の一』「梁恵王下篇第八章」において、「(注・漢は)天の命ずる所を以て天の廃する所を討つ。何ぞ放伐を疑はんや。本邦は則ち然らず。天日の嗣、永く天壌無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へる者なり。故に億兆の人、宜しく日嗣と休戚(注・喜びと悲しみ)を同じうして、復た他念あるべからず。若し夫征夷大将軍の類は、天朝の命ずる所にして、其の職に称(かな)ふ者のみ是に居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職の如くならしめば。直ちに是を廃するも可なり。」

(支那に於いては、天の命ずる所に従って天が排する者を討つといふ放伐思想を疑はない。わが國はさうではない。天照大御神の継嗣は天地と共に極まりなく永遠の存在であるので、この日本は天照大御神が開き給へる国で、天照大御神の継嗣が永く護り給へるものである。故に多くの人々は、良く天照大御神の継嗣と喜びも悲しみも共にして、他の思ひを持ってはならない。征夷大将軍の地位は、天朝の命ずるところに従って就任するのであるから、その職責にかなふ者のみその地位にゐることができる。だから、征夷大将軍が足利氏のやうに職務をおろそかにすることがあったならば、ただちにこれを廃しても構はないのである、といふ意)

 

吉田松陰は、征夷大将軍がその職責を全うし得ず、夷狄を平らげることができなくなり、天皇のご信頼を失った場合はこれを打倒すべきであると論じたのである。この思想が徳川幕府打倒運動の正統性の根拠になる。

 

「天命が去った暴君を討ち倒すのは正義である」といふ支那孟子の「湯武放伐論」を日本的に昇華させ適用したのが松陰である。即ち、天照大御神の子孫(生みの子)であらせられる日本天皇は、神聖なるご存在であり、天そのものであり給ひ、日本の永遠の君主であらせられ、絶対的御存在である。しかし、徳川将軍は覇者であり、征夷の職責を果たせなくなったらこれを討伐してよいといふ思想である。

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千駄木庵日乗十月四日

終日在宅して、休息しながら『伝統と革新』編集の仕事、資料整理など。

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2018年10月 4日 (木)

日本と支那の君主観の決定的違ひ

 

 宇野精一先生は、「支那においては、俸禄を受けて直接君主に仕へる者を臣と言ひ、俸禄を受けないものを民といふ。しかして一般のいはゆる民は君主に対して直接何の義務もない。わが国においては、臣は即ち民であり、民は即ち臣である。」(要約)と論じてをられる。(宇野精一氏著『儒教思想』)

 

このやうに、日本と支那の国体観・君主観には大きな違ひがある。わが国肇国以来の傳統である天皇に対する「忠」と、封建君主に対する「忠」とは、絶対的に区別されるべきである。日本は一君萬民の國體であり、天皇は萬民の君であり、萬民は天皇を絶対的君主と仰ぐのである。封建社会が解体され、一君萬民・天皇中心の國體が明徴化された近代以後においては、「絶対的忠誠」の対象は、天皇以外にあり得ない。

 

「忠」と「恕」を倫理の基本と考へた孔子の思想=『論語』は、「君子」(朝廷の會議に参列できる貴族・官僚たちの総称)の身分道徳であった。然るに、わが国においては、封建時代においてすら、寺小屋で『論語』が教へられゐたことによって明らかなやうに、孔子の思想は一般國民の道徳として学ばれた。

 

わが國の尊皇精神・天皇への忠誠心は、俸禄を与へる封建君主と俸禄を与へられる臣下の間の精神的紐帯ではない。百人一首・雛祭りが一般国民に愛好され、農民が『なに兵衛』と名乗るやうに、天皇への忠誠心は、俸禄などといふものは全く関係のない心であり、上御一人と日本国の民衆全体との精神的紐帯である。天皇への忠誠は封建道徳ではない。

 

ゆゑに、「士農工商」といふ身分制度が解体された明治維新後において、国民全体の尊皇精神・天皇への絶対的忠誠心は、顕在化し高まったのである。

 

天皇は常に無私の御心で統治される。無私の心とは神の御心のままといふことである。さらに御歴代の天皇の踏み行はれた道を継承されることを心がけられる。そのことがそのまま國民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となる。天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではない。

 

ところが、支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらへ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考へられてゐる。しかしわが国においては、天子たる天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、天皇は一大家族国家の中心であると考へてゐる。

 

簡単に言へば、支那においては皇帝は権力と武力によって国民を支配し、日本においては天皇は信仰的権威によって国民を慈しむのである。この違ひは支那と日本の国家の成り立ちとその後の歴史の違ひによる。

 

明治維新によって、肇国以来の一君萬民の国体が回復した。明治天皇は、西洋模倣・知育偏重の教育を憂へ給ひ、『教育勅語』を渙発された。そして天皇は、全国民に対して「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」といふ徳目が示されたのである。それが肇国以来のわが國の道統である。萬葉時代の防人の歌を見ても、萬民が大君の御爲国の爲に「義勇公に奉じ」る精神が歌はれでゐる。決して武士階級(支那で言ふ『士・大夫』)のみが大君の御爲国家の爲に義勇を以って奉じたのではない。これがわが國體の本義である。

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千駄木庵日乗十月三日

午前は、諸事。

午後からは、休息しつつ、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理。

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2018年10月 3日 (水)

今日思ったこと

今回の閣僚人事、そして沖縄県知事選挙の結果を見て、来年の参院選が心配である。どうして防衛大臣を代える必要があったのか。絶対に野党に政権を取らせてはならない。

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2018年10月 2日 (火)

この頃詠みし歌

 

 

与へられしわれの命を大切に生きて行かなんこれからの日々

 

病み上がりといふ言の葉そのままに部屋を歩けばふらふらとする

 

少しくらいは良いではないかと口つけし酒は以前ほど美味くは非ず

 

酔ひも早く美味くもなければ早く早く家に帰りて横たはりたし

 

灯点せばゴキブリ一匹動きをり殺生の罪を犯せと如く

 

身は揺らぐ心はあせる病み上がりの我は日々(にちにち)を強く生きなむ

 

生命は強く生き生きと輝きてわが心臓を蘇へらせたまへ

 

今日もまた一日の仕事を為し終へぬ身体健全除災招福

 

いたつきの癒ゆるを信じ今日もまた神に佛に祈りこめたり

 

雨の降る街歩み行きわが命の力甦れと祈りたるかな

 

醤油と塩を控へて食せと言はれたり味気なき食べ物を食せといふ事

 

満月がすっきり浮かぶ秋の夜

 

美しや満月は今煌々と光煌めく都の上に照る

 

満月が昇り来るなる姿をば今宵はじめて見ては喜ぶ

 

雲の中より満月が今昇り来て不可思議なる光りを放ちゐるなり

 

愛想良き郵便局員と真向ひて入院保険の話などする

 

満月の光明るき秋の夜を一人過ごせば静かなる心

 

一歩一歩静かに街を歩み行く心の臓をば大切にしつつ

 

未練がましい心なりとは知りながらなほもこの世に生きたしと思ふ

 

凄惨なる戦争画の前に立ちつくし斃れし人の命を思ふ(没後五十年藤田嗣治展)

 

マリア様に礼拝をする嗣治の顔何となく滑稽に見えにけるかも()

 

日本を愛し日本を恋せし老画家はフランスの地に眠りゐるなり()

 

台風が来るといふのにわが講義聞かんと集まりし人有難し

 

雨風がわがマンションにあたる音聞こゆる真夜中に一人もの書く

 

三十年住み続けたるマンションは強き風雨に少し揺れたり

 

朝毎に八種類の薬をば飲まねばならぬわが身なりけり

 

嵐去りて青空白雲仰ぎ見るすがしき朝をベランダに立つ

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千駄木庵日乗十月二日

午前は諸事。

午後は休息。『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、地元の先輩と懇談。

帰宅後は、休息。原稿執筆。

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天岩戸神話つにいて

伊耶那岐命に海原を治めなさいと命じられた須佐之男命は「母のいる黄泉の国へ行きたい」と泣きわめいたので、伊耶那岐命に追い払われてしまった。そこで須佐之男命が黄泉の国へ行く前に天照大神のところへ挨拶に行こうと天に上っていくと、山川が鳴り騒ぎ国土が振動したので、天照大神は天上の国を奪いに来たのだと思われる。須佐之男命はそんな心は持っていないといわれ、誓約(うけい・どちらが正しいかを判断する神秘的な行事)をした。その結果、須佐之男命が勝ったので須佐之男命は勢いにまかせて大暴れする。すると天照大神は天の岩戸にお隠れになってしまう。そこで八百万の神々は色々な方法を用いて、天照大神を岩戸から引き出す。そして須佐之男命は天上の世界から追い払われて出雲の国にお降りになる、という物語が「天岩戸神話」である。

 

天照大神は須佐之男命の田を壊したり溝を埋めたり御殿に糞をするという様々な御乱行(荒ぶる行為)に対して「糞のように見えるのは酔って吐いたのでしょう。田を壊し溝を埋めたのは大地をいたわってのことでしょう」と善いように解釈されて最初は咎められなかった。これを「詔り直し」という。悪い行為を善い意味に解釈することである。そして「詔る」とは言葉を発するという意であり「直す」悪いことを善くすることである。日本民族は本来、悪を固定的に考えないし、他人の長所を見て短所を細かくあげつらわないのである。これは言霊(ことだま)による浄化・善化・光明化である。邪悪なものを言霊によって直すことが「詔り直し」である。

 

 天照大神が天の岩戸の隠れることについては、次のような解釈がある。一つは日蝕説であり、もう一つは冬至説である。太陽が欠けていくことは古代人にとってとりわけ農耕民族の日本人にとって恐ろしいことであったに違いない。また日照時間がどんどん短くなっていくことも気持ちのいいものではなかったろう。そこで太陽の再生・新生を祈る祭りすなわち微弱化した太陽を更新する宗教儀礼が行われたと思われる。それが天の岩戸前における八百万の神々の祭事だといわれている。

 

八百万の神々は長鳴鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉が沢山ついた玉の緒のついた榊を作ったり、布刀玉命が占いをしたり、天児屋命が祝詞を唱えたり、天宇受売命が神懸りして踊るなどのお祭りをし、「天晴れ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ」と大笑いし大騒ぎをした。天照大神が不思議に思って岩戸を少し開けて覗かれると、「あなたより尊い神がおいでになります」と言って、手力男命が手を引いてお出しするのである。

 

中西進氏は「知力、呪力、体力、技術力、笑いの力というもろもろの力が集められており、これ以上盛大な祭儀はないというほどであった。太陽の子孫を称する天孫族の日招き神話の詞章として、まことにありうべき壮麗さである。・…笑いはもっとも旺盛な呼吸活動であり、『生きる』ことの極上の状態を示す。失われた太陽を復活させるための、貪欲な模擬行為といえるだろう。天孫、天皇家のもっとも大事な祭儀と考えられた理由もよく理解されるところである」(天つ神の世界)と論じておられる。

 

日本人は太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。だからすべてにおいて明るく大らかな民族であるのだ。前述した見直し聞き直し詔り直しの思想もここから発するのである。ただ明るく笑いに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないというのとは全く異なる日本伝統信仰の誇るべき特徴である。

 

そしてその祭儀は太陽のもっとも衰える冬至に行われた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。天照大神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり岩戸よりの出現は新しい太陽の再生なのである。

 

この天の岩戸神話には日本の踊りの起源も語られている。すなわち天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されているのが舞踊の起源なのである。 

 

桶を踏み轟かせたというのは大地に籠っている霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることであるといわれている。神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で興奮状態になって舞い踊ることであった。これを神楽という。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖ということなのである。 

 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっもとも大切なものであることは言うまでもない。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現するのである。

 

祭事は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめるのである。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭事によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂という植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再び再生するという農耕生活の実体験より生まれた信仰である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行われるのである。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失わぬ精神によって実現する。こうしたことを象徴的に語っているのが天の岩戸神話であると考える。

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千駄木庵日乗十月一日

午前は、諸事。

 

暫く休息。

 

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、笹川平和財団主催『米国新安全保障センター(CNAS)理事長・リチャード・フォンテーン氏講演会』開催。リチャード・フォンテーン氏が「変化するアジアにおける日米関係」をテーマに講演。質疑応答。モデレーターは杉田弘毅氏(共同通信社 特別編集委員)、コメンテーター佐橋亮氏(神奈川大学 教授、アジア研究センター所長)

 

帰宅後は、休息。

 

『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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2018年10月 1日 (月)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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