« 千駄木庵日乗九月二十三日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十四日 »

2018年9月24日 (月)

『錦の御旗』と鳥羽伏見の戦ひ

本日(平成三十年九月二十三日)放送されたNHK大河ドラマ『西郷どん』で、鳥羽伏見の戦いで官軍が掲げた錦の御旗について、岩倉具視と大久保利通が独断で、勝手に作り上げたものと描かれていた。しかしこれは史実とは全く異なる。

 

慶應四年正月二日、徳川慶喜は、大軍を率い、大阪から上洛せんとし、その先鋒は三日の午後、伏見京橋に着いた。そこで、これを阻止せんとする薩摩藩との間にこぜりあひが起った。その折りしも、鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮に砲陣をしいていた薩摩藩の大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により、御香宮と大手筋をはさんで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始した。

 

一方、奉行所では會津の大砲隊頭の林権助が表門を固め、傳習隊は南北両門を守り、土方歳三の率ゐる百五十余名の新選組は裏門の防備に当っていた。官軍の撃ち出した砲弾が、新選組の頭上に飛んできたので直ちに砲門をひらいて、これに応戦し、ついに朝幕の間に戦闘の火蓋が切られた。

 

今まで重苦しく静まり返っていたこのあたりは、砲煙弾雨に包まれ、忽ちにして修羅場と化した。そこで新選組の永倉新八は、十余名の決死隊をつくり、二間余の土塀を乗り越えて突撃したが、この時奉行所は砲弾のために火を発し、林権助は砲弾に斃れ幕軍の死傷者数知れず、早くも浮き足立ったが、久保田備前守の率ゐる三百の傳習隊は、官軍の前衛部隊を奇襲して墨染まで撃退した。

 

然し、翌四日征討大将軍に任じられた仁和寺宮嘉彰親王が薩、長、藝、の三藩の兵を率ゐ、錦の御旗を翻して陣頭に立たれ、威風堂々と進軍してきたので、官軍は俄に勇み立ち、幕軍を一気に淀まで撃退した。また、一時は苦戦に陥った鳥羽方面の官軍も錦の御旗に士気を盛り返して、幕軍に淀から更に橋本まで追撃したので、幕軍はついに力尽きて大阪へ敗走した。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」で、幕府軍が敗退した根本原因は、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、幕府軍の士気が萎えてしまったからである。

 

錦の御旗は、朝廷の軍即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして、天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。大河ドラマでは後醍醐天皇が朝廷方の軍に与へられたと描かれてゐたが、これも史実とは異なる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、國學者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以ての外の妄説である。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも實に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

大久保利通はその日記で次のやうに記してゐる。「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(注・天皇の軍)を迎へて、有難々々といへる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されてゐる文章である。

 

『徳川慶喜公傳』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。水戸學の道統を継承したのである。ただしわが國に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本國を統治されるのが本来の姿である。一君萬民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

明治維新における草莽の志士の決起も、徳川慶喜の恭順も、江戸城無血開城も、天皇の御稜威よる。徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それは上御一人日本天皇の神聖権威であり、わが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

|

« 千駄木庵日乗九月二十三日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十四日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/67200654

この記事へのトラックバック一覧です: 『錦の御旗』と鳥羽伏見の戦ひ:

« 千駄木庵日乗九月二十三日 | トップページ | 千駄木庵日乗九月二十四日 »