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2018年9月14日 (金)

日本人の固有信仰の強靱さが外来宗教文化文明を受け容れた寛容性の基盤

          

 本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としてゐる。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにさうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

 「蕃神」と名付けられた「仏」は、日本人にとっては神々の一つなのだから、固有信仰の神々と矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言ふところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいのではないかといふのが日本人の基本的な態度だったのである。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたといふ感覚であった。

 

 近世国学者・伴信友は次のやうに論じてゐる。「仏と云ふは天竺の神の事を、漢國にて稱(い)へる名なり。かの天竺の國人、なべて暴悪心にて、倫(すぢ)なき事のみ多かるを、釈迦と云ひしが、殊(すぐ)れて賢く、神なる男にて、彼国既くより、神代の古事の端々の傳はれるゝに、神を畏み崇みて、祭りあへる国俗(ならはし)なるを拠として、神を奉仕る事を主と立て、彼神の教也とやうに言挙して、空き理をさへに解きそへて…人の行ひを直からしめんとしたためたる道、すなはち所謂佛道なり」「佛法の広まれるも、本は神の御心にて、これも広けき神の道の中の枝道なり。…されば佛神もあればあるままに、禮なからぬやうにあへしらひ、又由縁ありて、心のむかはん人は、祭りもし祈もすべきなり」(『仏神論』)と論じた。

 

佛法が広まるのもの神の御心なのであり、広大なる神の道の中の枝道なのだから、縁があって心が向いた者は、佛を敬ってもいいと論じてゐるのである。

 

しかし、信友は次のやうにも論じてゐる。「皇国には、太古より正実(たゞき)き伝説ありて、すべて世間の物も事も、悉皆神の御所業(みしわざ)なることを知り、其御功徳(みいさを)を蒙れる事を知るが故に、外蕃の佛神などに全(ひたす)らの心を向きて、尊み忝み可きにはあらず」(『同』)。

 

日本人は、外国からの文化・文明を自由に受容してきた。古代における仏教の受容はその典型といへる。日本人は仏教受容以来今日まで、神と仏を自然な形で融合させ、信仰してきてゐる。神と仏は日本人の生活の中で溶け合ってゐる。それは理論理屈の世界ではなく、生活の中で文字通り自然な形で神仏が融合してゐる。

 

日本の一般的な家庭では、家の中に神棚と仏壇が共存している。毎朝、神棚にお灯明をあげ柏手を打ってお参りする。次の仏壇にお灯明をあげ線香を立てて合掌礼拝する。神棚には国の主神である皇祖神(皇室のご先祖の神)である天照大神そしてその地域の産土神が祭られてゐる。各家庭の仏壇には、その家が檀家になってゐるお寺の宗派の本尊が、安置されてゐる場合もあるが、それは一般的ではない。それよりも仏壇には必ずその家の先祖の位牌が祭られてゐる。各宗派の本尊は安置しなくても先祖の位牌だけ祭られてゐる家が多い。

 

つまり日本の家庭に安置されている仏壇の「仏」とは祖霊のことであり、仏壇とは祖霊の祭壇なのである。「近い先祖は仏様。遠い先祖は神様」といはれる所以である。また、結婚式などの慶事は神式で行ひ、葬式などの祖霊への慰霊は仏式で行ってゐる。

 

日本人が外来宗教・文化・思想をおおらかに包容した態度をいい加減でルーズな態度と批判する立場もある。しかし、日本人は決してルーズではない。むしろ潔癖な民族である。仏教の受容も、日本の固有信仰と適合する部分についてのみ受容され信仰されたのである。仏教の受容によって、日本固有の信仰を捨て去るといふことはなかった。仏教は日本の中に深く根づいたが、仏教受容以来千五百年近くにならうとする今日においても、仏教は外来思想と言はれてゐる。これは日本人の外来宗教への態度がルーズでもいい加減でもない証拠である。

 

古代から現代に至るまでの日本人の精神生活・信仰生活は、仏教の影響を実に多く受けてゐる。それでも日本民族は仏教を「外来宗教」と思ってゐる。欧米人はキリスト教を外来宗教と思ってゐない。このことの意味は大きい。

 

それは、わが国の国民精神がきはめて寛容であるからであると共に、強靭性も保ってゐるからである。

 

樋口清之氏は、「日本の仏教信仰は形こそ仏教であり、経典も仏の教えとして尊重されたが、それを信じる日本人の心は、仏教的な形に飾られた伝統的な日本に信仰によって救済されたのである。日本人は完全に伝統的信仰を放棄して仏教に改宗したのではなかった。これが日本人の仏教摂取における大きな特色である。」(『日本人の可能性』)と論じてゐる。

 

日本人の融合性・包容性とは、主体性・国粋精神が希薄だといふ事ではなく、むしろ主体性・国粋精神が強靭だから外来の仏教を融合し得たのである。

 

日本人の実生活に根ざす固有信仰の精神が、日本民族の同一性の実に強靱な基盤となっているからこそ、かへって日本民族は融通無礙・包容力旺盛な態度を保持したのである。日本人の固有信仰の強靱さが、日本民族が仏教のみならず外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤である。

          

 現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

 

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