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2018年9月26日 (水)

日本精神・大和魂について

日本の近代化の根底に「和魂」があった。否、あるべきであった。ところが和魂・日本傳統精神が「洋才」によって隠蔽されてしまった。そして、西洋よりも優ってゐるもの、西洋が学ばねばならないものが日本にあることを、日本國民が自覚し、世界に発信することがおろそかになった。

 

「大和魂」「日本精神」が単なる標語となりスローガンとなりイデオロギー(独善的観念大系)となってしまふことは、「日本精神」「大和魂」の本義を否定することとなる。わが國傳統精神は、イデオロギー(独善的観念大系)ではないし、さういふものと同列に論じるべきではない。もっと高次元のものである。

 

日本精神・大和魂とは、外来の文化文明を包容し摂取してきた重層的な日本文化の主體であり中核である。日本精神とは、實際生活の中で、天皇仰慕・天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)・父母兄弟を尊ぶ心である。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などの倫理精神が生まれる。これは日本民族の稲作生活から生まれた。

 

日本精神は、日本として真に日本たらしめてゐるあるもの、これなくば日本及び日本人が、存立できないものであって、概念的に説明できるものでない。冷暖自知する以外にない

 

日本精神はその本来の丹き心、又は正直に徹することによって、人類の創造した一切の価値を摂取し、動かして、新たな文化を建設し、以て自己を實現する。

 

人為的に作られた秩序だった理論大系はもとよりないのである。言挙げせぬ國が日本の傳統だからである。しかしこれは見方を変えれば、柔軟にして強靭である。「柳に雪折れ無し」で、良きものはどんどん採り入れ、合はないものは捨て、自主性を失はない。これが日本精神であり、大和心である。

 

「明治維新」も「大化改新」も、外國から具體的改革策を取り入れつつ大きな変革を行った。しかし根本には尊皇愛國・敬神崇祖・万民和楽の日本精神があった。それを基礎としての具體的改革であった。

 

欧米別けてもアメリカの科学技術による人間生活の進歩と発展を至上命題としてきた戦後日本、もっと言えば近代日本への反省が必要である。具体的にどうしたら良いのか。それには、自然の中に神を見る日本伝統信仰に回帰する以外にないのである。

 

「近代」とは欧米的近代主義である。近代日本は欧米近代主義が猛烈に勢いで輸入した。西洋覇道精神・欧化路線即ち近代日本の負の部分に対する反省が明治第二維新運動であり、大正維新運動であり、昭和維新運動であった。明治・大正・昭和の維新運動とは日本傳統精神の復興による「近代の超克」を目指す運どうであった。「欧米近代」なるものへの痛烈な反省である。それは、明治維新の真精神即ち神武創業の精神・日本の傳統信仰の復興であった。しかしその維新は未完に終わった。

 

神への回帰こそが、近代日本において必要だったのである。近代の超克・西欧模倣からの脱却は、日本に神々への回帰、日本傳統信仰の復興によって行はれなければならなかった

 

近代日本の矛盾の克服は、現代においても喫緊の課題である。近代の超克・西欧模倣からの脱却は今日においてこそ行はれなければならない。わが日本は、西洋覇道精神を清算し日本傳統精神を復興し日本の神々に回帰しなければならない。西洋から発した唯物文明・強いもの勝ちの覇道精神を反省し訂正せしめるものとして農耕生活から発した大自然と人間の共生の精神たる日本伝統精神がある。

 

天皇がその祭祀主であられ体現者であられる日本伝統精神よって西洋唯物文明を克服するべきである。日本伝統精神は、現代の危機を打開し将来の日本及びアジアそして地球の救済の力となり得る。

 

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