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2018年9月25日 (火)

徳川慶喜について

 

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家がいる。新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」とある。

 

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。  

 

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。 

 

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 

さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。

 

水戸藩は明治維新の戦いにおいて多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

 

だが、水戸藩は長州や薩摩のように倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかった。むしろ水戸藩出身の徳川慶喜は朝敵とされた。

 

明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

 

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 

と詠ませられた。

 

『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

 

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの天誅組を始め水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからである。

 

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