« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »

2018年9月30日 (日)

日本が核武装することによって、アジアの平和が保たれ、日本は真の自主独立国家・真の平和国家になる

私は基本的に日本国も核武装しなければならないと思っている。トランプが大統領であろうとなかろうと、アメリカが将来にわたってずっと日本を守ってくれるという保障はないからである。また、他人任せの国防であって良いはずがない。アメリカの核の傘の下にいれば安心というわけには行かなくなりつつある。第一、六十年前に日本に二発もの原爆を落した國はアメリカある。反米意識を煽るわけではないが、これは歴史的事実である。

 

冷静に国際情勢を眺めた場合、日本が独自の核抑止力を持つのは当然である。わが国が唯一の被爆国だからこそ、二度と再び核攻撃の惨禍を受けることのないように核武装すべきなのである。広島・長崎が核攻撃を受けたのは、日本に核抑止力がなかったからである。

 

米ソ冷戦期には、米ソがともに核兵器を持っていたから使用されなかったのである。もしも米ソどちらかが相手に核攻撃を行ったら、地球が壊滅する核戦争が勃発した。だから、米ソはお互いに核攻撃ができなかったのである。

 

北朝鮮は核兵器を放棄する意思はない。共産支那はわが国を射程に入れた核兵器を無数に持っている。日本は大戦略を立てなければならい。共産支那と北朝鮮が核兵器を持ち、日本に狙いを定めているのに、日本が無防備でいるという事は許されない。地下化された北朝鮮の核・弾道ミサイル基地をわが國が先制攻撃するのは不可能だという。だとすれば、北の核兵器に対する抑止力は核兵器しかない。

 

共産支那のように侵略国家、北朝鮮のような無法国家が核兵器を持っているのに、その標的となっているわが國が核兵器を持ってはならないなどという事は全く道理に反することである。隣に住む強盗が殺傷能力の極めて高い凶器を持った以上、その強盗に狙われている家が何の防衛策も講じないでいるわけにはいかない。やはりわが国も核武装する以外に恒久的に安全を確保する道はない。

 

「外交とは華麗に礼装した軍事である」という言葉を忘れてはならない。フランスという国を核攻撃する國は存在しないと思われるのに、フランスは早くから核武装している。わが国が核武装してはいけない道理はまったくない。まして、共産支那・北朝鮮という何をするか分からない無法国家が核武装してわが国を狙っているのである。一刻も早く我が国は核武装すべきである。それは独立国家として当然の権利である。このままでは日本は益々北朝鮮と共産支那とロシアに脅かされ続ける国となるであろう。

 

日本が核武装することによって、アジアの平和が保たれ、日本が真の自主独立国家になる。

 

「『恒久平和主義』は憲法三原理の一つであり『非核三原則』は国是であるから絶対に守るべし」と言う人がいる。しかし、このような「国是」だとか「原理」などというものを守ることによって国が滅び、国民の安全と生存が脅かされるのは真っ平御免である。

 

沖縄のアメリカの軍事基地のみならずわが国にあるアメリカの軍事基地全てをなくすことは、自衛隊を国軍とし、核武装し、自主防衛体制を確立することによって実現する。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月三十日

午前は、諸事。

午後は、本日の講演の準備。休息。

午後六時より、春日の文京シビックホールにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「宗教と維新運動」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、休息。『伝統と革新』編集の仕事。書状執筆。

無理をせぬよう精一杯仕事をしております。

| | トラックバック (0)

維新について

 今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

 

明治維新前夜は、アメリカなどの西欧列強が徳川幕府の弱体化に付け入って武力による圧迫を以て屈辱的な開港を日本に迫って来た。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力=徳川幕藩體制を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。かうした状況を打開し、王政復古すなはち天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けやうとしたのが明治維新である。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、またその変革の是非を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。辛亥革命は阿片戦争が影響した。アメリカ独立革命は言ふまでもなくイギリスとの戦ひであった。明治維新もまたしかりである。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を有し高度な統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。

 

國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち攘ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

「尊皇攘夷」の起源は、貝塚茂樹氏によると、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟(きし)である。ただし支那の場合は、「尊皇」ではなく「尊王」である。

 日本國の長い歴史の中で、「攘夷」の精神は静かに表面に出ず脈々と継承され生き続けたのであるが、白村江の戦いの敗北・元寇・幕末・大東亜戦争といふ外患の時期においてこの精神が昂揚した。

 

 大化改新と明治維新は共通する面が多い。それは外圧の排除であり、政治体制・法体制の整備であり、外國文明・文化の受容である。大化改新後の律令國家体制は明治維新後の明治憲法体制と相似である。

 

維新のことを日本的変革といふ。日本の伝統精神に基づいた変革が維新であり、日本の本来あるべき姿即ち天皇中心の國體を開顕する変革が維新である。維新と革命の違ひは変革の原理を天皇とするか否かである。ゆゑに明治維新は革命ではない。

 

また、神武建國の精神に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではない。日本の道統への回帰である。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのである。これを「維新とは復古即革新である」と言ふ。

 

徳川幕藩体制から天皇中心の統一國家への転生は、体制変革のみならず、精神の変革がその根底にあった。日本國家の発展と安定の基礎は、天皇中心の信仰共同体としての日本國體が、現実の國家運営の基盤として正しく開顕してゐることにある。

 

 近代のみならずわが國の歴史が始まって以来、日本國家を統合する<核>が天皇であった。急速な変化と激動の中で、わが國が祖先から受け継いだ伝統を護り、かつ変革を為し遂げた<核>が、天皇のご存在であった。わが國は、どのやうな困難な時期においても、常に伝統を守り、統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その<核>が天皇であった。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。

事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は、外来文化・宗教・文明を受容しても、その中核には、天皇を中心とするわが國體精神があった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。

 

日本人は優秀である。その優秀さは、勤勉性、高い道義心、協力と献身の精神の旺盛さ、謹厳実直さなど色々挙げられるだらう。

 

わが國の祭祀主は、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な御方であり、現御神であらせられる。天皇が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者であらせられる。天皇帰一の國體の開顕が維新である。内憂外患交々来たると言った状況にある今日こそ、維新断行の時である。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十九日

終日在宅して、『政治文化情報』発送作業、完了、送付。明日行われる『日本の心を学ぶ会』における講演準備、『伝統と革新』編集の仕事など。

| | トラックバック (0)

2018年9月29日 (土)

『没後50年 藤田嗣治展』参観記

本日参観した『没後50年 藤田嗣治展』は、「「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、『風景画』『肖像画』『裸婦』『宗教画』などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。藤田の代名詞ともいえる『乳白色の下地』による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《目隠し遊び》1918、《タピスリーの裸婦》1923年、《自画像》1929年、《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》1922年、《狐を売る男》1933、《夏の漁村(房州太海)1937、《争闘()1940年、《アッツ島玉砕》1945、《サイパン島同胞臣節を全うす》1945、《私の夢》1947、《カフェ》1949、《フルール河岸 ノートルダム大聖堂》1950、《礼拝》1962-63などを参観。

 

《夏の漁村(房州太海)》は、安房國長尾藩の家老をつとめた藤田の祖先のゆかりの地である。小生の子供の頃、近所の方が太海に海の家を借りていたのでよく行った。《アッツ島玉砕》《サイパン島同胞臣節を全うす》は所謂戰爭がであるが、決して戦意を高揚させる絵ではないと思った。厳しくも凄惨なる戦場を描いている。戦時中この作品を見た人は、絵に向かって拝礼したという。

 

前にも書いたが藤田嗣治は、戦時中軍の要請で戦地に赴き、多くの戦争画を描いたところから、戦後になって、占領軍に媚を売り自己保身を図る画壇の人々によって、「戦争協力者」として指弾された。戦争画を描いた人々は他にも数多くいたのに、左翼によって「人身御供」にされたと言っていいだろう。これは、藤田嗣治が戦前はフランスにおいても高く評価され、戦時中帰国した時にも戦争画が高く評価されたことに対する画壇の一部の人々と言うよりも多くの人々の藤田に対する嫉妬があったからと言われる。

 

昭和二十二年の《私の夢》という作品は、全裸で眠る女性の周囲に闇が押し寄せ、古風な衣装をつけた猿、梟、鼠・狐などの動物たちが全裸の乳白色で描かれた全裸の女性を取り囲み今にも女性の体を引き裂こうとしているかのごとき不気味な作品である。

 

近藤史人氏はこの作品について、「藤田が日本を離れる前々年、一九四七年に制作された『私の夢』という作品がある。戦後初めて東京都美術館で開かれた展覧会に出品された絵である。中央には裸の女性が、周囲には人間の衣装をつけた猿や犬、兎など動物たちが描かれている。後にこの絵について藤田は中河与一への手紙の中でこう述べている。〈この二年間、戦争中の疲れを静かに休めて初めてとりかかった最初の作でした。やっと気分も落ち着いた或る頃、私か見ました夢を描いてみたのでした。人が裸で居て、獣が着物を着ていました。人間は頽廃して禽獣にも劣るという世相への皮肉かと言われましたが、ただこんな夢を見たまでと答えました〉こうした日本との複雑な関係は、やがて藤田に『帰化』という重大なる決断を指せる伏線となった」(『藤田嗣治「異邦人」の生涯』)と書いている。

 

中河与一もまた「戰爭協力者」として指弾され、文壇から事実上追放された。藤田と中河とは若い頃からの友人であった。何とも不思議な縁と言わざるを得ない。

 

戦後の糾弾の動きを嫌悪した藤田は、フランスに赴き、二度と帰国することはなかった。そしてアメリカ・ヨーロッパで大活躍し、世界的画家として地位を不動のものとした。日本の西洋画家として藤田嗣治以上の人はいないのではないか。

 

藤田は、日本国籍を捨ててフランスに帰化し、カソリックの洗礼を受けても、亡くなるまで日本を愛していた。味噌汁を飲み、浪曲のテープを聴きくことが多かったと言う。気の毒なことである。

 

晩年の《礼拝》という作品は、聖母マリアの左右に修道士姿の藤田夫妻が描かれているだが、何となく滑稽に見えるのは不謹慎であろうか。

 

私は、これまで藤田嗣治の大きな展覧会を三回見たが、今回は、はじめて見る作品が多くもっとも充実していたと思う。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十八日

午前は、諸事。

 

午後は、上野公園の東京都美術館で開催中の『没後50年 藤田嗣治展』参観。

309

 

帰宅後は、『政治文化情報』発送作業。原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2018年9月28日 (金)

共産支那こそ、今日アジア最大の軍事大國であり、覇権國家であり、侵略國家である

これまでの日本による経済協力によって支那は経済発展したが、恩を仇で返す如く経済力・軍事力を誇示して日本に圧迫を加えてきている。とても「互恵関係」を形成できない。

 

日本に入り込んだ支那人による犯罪が増加している。また、共産支那政府及び国民による理不尽極まりわが國への恫喝・内政干渉・破壊活動が繰り返され益々ひどくなってきている。

 

韓国も北朝鮮も、「小中華」を自称し、支那の属国である。支那・南北朝鮮の日本に対する敵対意識の根本原因は、支那人および支那の政治権力特有の「中華思想」に拠る。支那・韓国の日本に対する侮蔑・差別観念は「中華思想」から来ている。

 

「中華思想」を簡単に定義すれば、「支那は天下の中心・世界の真ん中にあって文化が華のように咲き誇っている國」という思想であると言っていいと思う。支那人は、支那は世界帝國であり、支那の皇帝に朝貢(皇帝に貢物を差し上げること)する属國の形式でしか外國の存在を認めず、支那以外の世界各地域は支那に朝貢しなければならないと考えて来た。世界各地の支配者はシナの皇帝の冊封(天子の命で官・位を授ける書きつけである『冊』により諸侯に封禄・爵位を授けること)によってその地位と権力を認められるとして来た。こうした「中華思想」には対等な外交関係はあり得ない。


それだけではなく、「中華思想」は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と獣や虫けらのように呼んでこれを蔑視し侮った。「東夷」とは弓を射るのがうまい民族・東方の野蛮人のことで、日本・満州・朝鮮などの民族を指した。「西戎」とは槍術のうまい民族・西方の野蛮人のことで、チベットやトルコ系の諸民族を指した。「南蛮」とは蛮は虫扁がつく南方の野蛮人のことで、インドシナなど南海諸地方の民族を指した。「北狄」とは犬扁のつく北方の野蛮人のことで、匈奴(きょうど)・ウイグル・韃靼(だつたん)等の遊牧民族を指した。いずれも野蛮な民族ということである。これほどの他民族差別思想・侵略思想・大國主義はない。支那はこの論理によってこれ迄の長い歴史において周辺諸國を侵略して来た。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝・唐太宗のように内乱の後に大統一帝國が成立した後には、強力な國外侵略を行っている。共産支那帝国もその歴史を繰り返そうとしているのである。

 

「中華人民共和國」という名の支那共産政府は、日本を「侵略國家」と非難攻撃し謝罪を要求し続けているが、支那漢民族こそアジア最大の侵略者であることは古今変わらぬ歴史的事實である。わが國の政治家もメディアも、「わが國はかつて中國を侵略した悪い國である」という先入観を持っている。しかし、共産支那こそ、今日アジア最大の軍事大國であり、覇権國家であり、侵略國家である。

 

共産支那のアジア侵略粉砕!

内モンゴル・東トルキスタン・チベット・台湾独立万歳!

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十七日

終日在宅して、原稿執筆、『政治文化情報』発送準備、資料の整理。

| | トラックバック (0)

2018年9月26日 (水)

生長の家教団の変貌・劣化はどうして起こったのか

 

生長の家教団の変貌・劣化はどうして起こったのか。その根本原因は言うまでもなく三代目総裁の谷口雅宣氏にある。雅宣氏は、谷口雅春師が國體論、大東亜戦争論、愛國思想を説いた書籍を事實上絶版にし、雅宣氏以外の雅春師のお孫さんやその配偶者が生長の家の組織から排除されたり教団から離脱している。

生長の家は完全に変質し、谷口雅宣氏は谷口雅春師を完全に踏み躙ったのである。

宗教教団には内紛はつきものであるが、生長の家だけは、雅春師ご存命中には内紛はなかった。雅宣氏が教団の主導憲を掌握すると、雅宣氏の意に反する人々は、たとえ兄弟であろうと、功労者であろうと、教団から追放されるか自ら出て行っている。

 

教団の教祖が亡くなった後、幹部間・親族間で内輪揉めが起るのはよくあることであり、生長の家も例外ではなかったといふことだらう。

 

創始者・谷口雅春師は、信徒から見れば事實上「生き神」であり、雅春先生をはじめとした谷口家の人々は「お山様」といはれ、言はゞ「神聖家族」として崇められてゐた。生長の家本部には「お山様ご専用」といふトイレまであった。

ところが、その所謂「神聖家族」が、生長の家の根本的経典『生命の實相』第一巻の巻頭にある『大調和の神示』の「天地一切のものと和解せよ」「汝の兄弟と和せよ」といふ教えを實行できないでのある。

 

『大調和の神示』の冒頭には、

「汝ら天地一切のものと和解せよ 天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である 天地一切のものが汝の味方となるとき 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ 汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき 先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。」と示されている。

 

谷口雅宣氏の兄弟は、姉二人と弟一人の三人いる。この三人の兄弟が全て、教団から追放されている。姉夫婦とは裁判沙汰にまでなった。宗教団体に内紛はつきものだが、「天地一切のものと和解せよ」「汝の兄弟と和せよ」という根本教義を、その継承者が全くし実践できないのみならず、全く逆のことをしているのではお話にならない。雅宣氏は、『法燈の継承者』と自称しているが、全くその資格はない。

 

谷口家は、今や「生長の家」ではなく「バラバラの家」であり、「和解」「大調和」とは全く正反対の「争い」と「大不調和」の家となっている。一番悲しまれているのは、祖父祖母である谷口雅春・輝子両師であろう。

 

雅宣氏は、「法燈継承者」「三代目総裁」とされる以上、他の誰よりも生長の家の教義を守り、その實践者であるべきである。ところが、自分の實の兄弟・親族と「和解」「調和」「赦し合ひ」「拝み合ひ」が出来ないのだ。

 

生長の家のみならず日本國内の新宗教教団には世襲制の教団が多い。そして世襲制の教団に内紛が起こらないかといふと決してさうではない。親族間・幹部間の争ひが起った教団は多い。

 

宗教といふものは本来、人々に安穏・平和・喜びをもたらすものであるはずである。ところが、宗教が闘争・戦争の原因となるといふことが問題なのである。歴史上の戦争・紛争そして今日唯今起ってゐる戦争・紛争の原因が宗教対立にある。宗教上の対立における憎悪は尋常ではない。しかし、これは人類の歴史で繰り返されてきたことなのである。

 

「灯台もと暗し」といふ言葉がある。灯台のすぐ下は光に照らされないので暗いといふ意味であらう。「坊主の不信心」「医者の不養生」「論語讀みの論語知らず」と同じ意味で用いられる言葉である。

 

生長の家の創始者谷口雅春師は、「七つの灯台の点燈者の神示」といふ神示を神から受けたとされてゐる。その灯台は人類を救ふ光といふ意味が込められてゐる。

 

谷口雅宣氏は、生長の家の教えの根本であり、その『七つの灯台の点燈者の神示』に示されてゐる「天地一切のものと和解せよ」「汝の父母に感謝せよ」「汝の兄弟と和解せよ」が全く実践できないのである。三人の実の兄弟姉妹とその配偶者を教団から追い出し、裁判沙汰にまでなり、最近は、谷口雅宣の実の母親即ち谷口雅春師の一人娘・谷口恵美子さんまでもが、四国高知の次女のもとに行かれた。母親とすら調和ではない人物に「大調和」「親に感謝せよ」などと説く資格は毛筋の横幅ほども無い。

 

生長の家は根本的教義を全く実践できない人が教団の後継者となっている。こうしたことを「灯台もと暗し」と言う。ああ悲しいかな。

| | トラックバック (0)

日本精神・大和魂について

日本の近代化の根底に「和魂」があった。否、あるべきであった。ところが和魂・日本傳統精神が「洋才」によって隠蔽されてしまった。そして、西洋よりも優ってゐるもの、西洋が学ばねばならないものが日本にあることを、日本國民が自覚し、世界に発信することがおろそかになった。

 

「大和魂」「日本精神」が単なる標語となりスローガンとなりイデオロギー(独善的観念大系)となってしまふことは、「日本精神」「大和魂」の本義を否定することとなる。わが國傳統精神は、イデオロギー(独善的観念大系)ではないし、さういふものと同列に論じるべきではない。もっと高次元のものである。

 

日本精神・大和魂とは、外来の文化文明を包容し摂取してきた重層的な日本文化の主體であり中核である。日本精神とは、實際生活の中で、天皇仰慕・天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)・父母兄弟を尊ぶ心である。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などの倫理精神が生まれる。これは日本民族の稲作生活から生まれた。

 

日本精神は、日本として真に日本たらしめてゐるあるもの、これなくば日本及び日本人が、存立できないものであって、概念的に説明できるものでない。冷暖自知する以外にない

 

日本精神はその本来の丹き心、又は正直に徹することによって、人類の創造した一切の価値を摂取し、動かして、新たな文化を建設し、以て自己を實現する。

 

人為的に作られた秩序だった理論大系はもとよりないのである。言挙げせぬ國が日本の傳統だからである。しかしこれは見方を変えれば、柔軟にして強靭である。「柳に雪折れ無し」で、良きものはどんどん採り入れ、合はないものは捨て、自主性を失はない。これが日本精神であり、大和心である。

 

「明治維新」も「大化改新」も、外國から具體的改革策を取り入れつつ大きな変革を行った。しかし根本には尊皇愛國・敬神崇祖・万民和楽の日本精神があった。それを基礎としての具體的改革であった。

 

欧米別けてもアメリカの科学技術による人間生活の進歩と発展を至上命題としてきた戦後日本、もっと言えば近代日本への反省が必要である。具体的にどうしたら良いのか。それには、自然の中に神を見る日本伝統信仰に回帰する以外にないのである。

 

「近代」とは欧米的近代主義である。近代日本は欧米近代主義が猛烈に勢いで輸入した。西洋覇道精神・欧化路線即ち近代日本の負の部分に対する反省が明治第二維新運動であり、大正維新運動であり、昭和維新運動であった。明治・大正・昭和の維新運動とは日本傳統精神の復興による「近代の超克」を目指す運どうであった。「欧米近代」なるものへの痛烈な反省である。それは、明治維新の真精神即ち神武創業の精神・日本の傳統信仰の復興であった。しかしその維新は未完に終わった。

 

神への回帰こそが、近代日本において必要だったのである。近代の超克・西欧模倣からの脱却は、日本に神々への回帰、日本傳統信仰の復興によって行はれなければならなかった

 

近代日本の矛盾の克服は、現代においても喫緊の課題である。近代の超克・西欧模倣からの脱却は今日においてこそ行はれなければならない。わが日本は、西洋覇道精神を清算し日本傳統精神を復興し日本の神々に回帰しなければならない。西洋から発した唯物文明・強いもの勝ちの覇道精神を反省し訂正せしめるものとして農耕生活から発した大自然と人間の共生の精神たる日本伝統精神がある。

 

天皇がその祭祀主であられ体現者であられる日本伝統精神よって西洋唯物文明を克服するべきである。日本伝統精神は、現代の危機を打開し将来の日本及びアジアそして地球の救済の力となり得る。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十六日

午前は、諸事。

 

午後三時半より、銀座の時事通信ホールにて、『新聞通信調査会特別講演会』開催。西沢豊理事長が挨拶。佐伯啓思氏(京都大学心の未来研究センター特任教授)が『日本経済再生への期待と不安』と題して講演。質疑応答。

 

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備。

| | トラックバック (0)

日本傳統文化へと回帰しなければならない

日本は外圧を排除するために変革を行なひ、それが成功し、発展した。大化改新、明治維新はさうした変革であった。大化改新は、白村江の戦ひがあっても、唐の文化や制度を取り入れ改革を行ひ、唐との対等関係を樹立した。明治維新は、攘夷が開国となり、鹿鳴館時代を現出した。それは攘夷のための開国であった。即ち西欧列強の侵略を排除するために、西欧文明を取り入れた。

 

 

欧米別けてもアメリカの科学技術による人間生活の進歩と発展を至上命題としてきた戦後日本、もっと言えば近代日本への反省が必要である。具体的にどうしたら良いのか。それには、自然の中に神を見る日本伝統信仰に回帰する以外にない。

 

ただし、アメリカにも大きな精神文明があった。それはキリスト教である。とくに、ウイリアム・ジェイムズの思想、ニューソートという新宗教がアメリカの発展に寄与した。禁欲を説いたカルヴァン主義への反発として一九世紀に生まれた運動で、新しいキリスト教である。原罪を否定し、人間は神の子であることを強調する。フィニアス・クインビーという心理療法家の治療方法が元になっている。ラルフ・ウォルドー・トライン、ウィリアム・ジェームズ、ラルフ・ワルド・エマーソン、ジョセフ・マーフィー、アーネスト・ホームズなどがいた。このアメリカのニューソート思想を光明思想と名付け日本に取り入れ、日本化した人が、生長の家の谷口雅春師である。今日殷賑を極めているいわゆる「成功哲学」や「自己啓発」のルーツの一つとされている。

 

東日本大震災・津波・原発事故によって、科学技術がいかに人間にとって万能ではなく、また人間を守りきることは出来ず、寧ろ人間に危害を加える危険があることが体験された。これをどうするか。

 

現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となってきた。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行うようになった文明のことであるが、それは、産業革命以来機械技術の発達と資本主義そしてそれに反発するものとしての共産主義の発展を促し、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

 

そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかっている。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本傳統文化へと回帰しなければならない。

 

自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出すであろう。

 

日本傳統信仰は、大自然を尊ぶ。それは、大自然から、人生を学び、生き方を学び、國の平和と人の幸福の道を学ぶ心である。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。

 

日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないと考えた。人も國土も神から生まれた、神が生みたもうたと考える日本民族の信仰は、神が人間と自然を造ったと考える西洋一神教の創造説とは全く異なる。神と人間と自然とは対立し矛盾した存在ではなく、調和し、融和し、一體の存在であると考える。こうした精神は排他独善の精神ではない。あらゆるものから学ぶべきものは学ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

闘争戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそこの日本伝統精神が大きな役割を果たすと考える。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統精神が、世界を救い、統合し融和して調和するのである。

 

自由自在にして大らかなる日本傳統精神は、教条的で固定的な西洋思想・文化・文明に訂正と活性化を与える。

 

日本という國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた立國の精神というものがある。日本國體精神・日本の道統に反する一切の事象を撃滅し、粉砕すべき事は緊急の課題である。真に日本を改革するためには、今こそ、天皇を変革の中核する「維新」即ち日本傳統精神・國體精神を勃興せしめ、それに基づく変革が断行されなければならない。

| | トラックバック (0)

2018年9月25日 (火)

千駄木庵日乗九月二十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、『政治文化情報』の発送準備など。

| | トラックバック (0)

徳川慶喜について

 

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家がいる。新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」とある。

 

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。  

 

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。 

 

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 

さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。

 

水戸藩は明治維新の戦いにおいて多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

 

だが、水戸藩は長州や薩摩のように倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかった。むしろ水戸藩出身の徳川慶喜は朝敵とされた。

 

明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

 

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 

と詠ませられた。

 

『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

 

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの天誅組を始め水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからである。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、諸事。

午後は、北区にある菩提寺参詣。住職夫人にご挨拶。四宮家の墓所を掃苔、拝礼、『般若心経』読誦、ご冥福とご加護を祈る。

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。

| | トラックバック (0)

2018年9月24日 (月)

『錦の御旗』と鳥羽伏見の戦ひ

本日(平成三十年九月二十三日)放送されたNHK大河ドラマ『西郷どん』で、鳥羽伏見の戦いで官軍が掲げた錦の御旗について、岩倉具視と大久保利通が独断で、勝手に作り上げたものと描かれていた。しかしこれは史実とは全く異なる。

 

慶應四年正月二日、徳川慶喜は、大軍を率い、大阪から上洛せんとし、その先鋒は三日の午後、伏見京橋に着いた。そこで、これを阻止せんとする薩摩藩との間にこぜりあひが起った。その折りしも、鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮に砲陣をしいていた薩摩藩の大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により、御香宮と大手筋をはさんで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始した。

 

一方、奉行所では會津の大砲隊頭の林権助が表門を固め、傳習隊は南北両門を守り、土方歳三の率ゐる百五十余名の新選組は裏門の防備に当っていた。官軍の撃ち出した砲弾が、新選組の頭上に飛んできたので直ちに砲門をひらいて、これに応戦し、ついに朝幕の間に戦闘の火蓋が切られた。

 

今まで重苦しく静まり返っていたこのあたりは、砲煙弾雨に包まれ、忽ちにして修羅場と化した。そこで新選組の永倉新八は、十余名の決死隊をつくり、二間余の土塀を乗り越えて突撃したが、この時奉行所は砲弾のために火を発し、林権助は砲弾に斃れ幕軍の死傷者数知れず、早くも浮き足立ったが、久保田備前守の率ゐる三百の傳習隊は、官軍の前衛部隊を奇襲して墨染まで撃退した。

 

然し、翌四日征討大将軍に任じられた仁和寺宮嘉彰親王が薩、長、藝、の三藩の兵を率ゐ、錦の御旗を翻して陣頭に立たれ、威風堂々と進軍してきたので、官軍は俄に勇み立ち、幕軍を一気に淀まで撃退した。また、一時は苦戦に陥った鳥羽方面の官軍も錦の御旗に士気を盛り返して、幕軍に淀から更に橋本まで追撃したので、幕軍はついに力尽きて大阪へ敗走した。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」で、幕府軍が敗退した根本原因は、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、幕府軍の士気が萎えてしまったからである。

 

錦の御旗は、朝廷の軍即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして、天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。大河ドラマでは後醍醐天皇が朝廷方の軍に与へられたと描かれてゐたが、これも史実とは異なる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、國學者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以ての外の妄説である。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも實に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

大久保利通はその日記で次のやうに記してゐる。「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(注・天皇の軍)を迎へて、有難々々といへる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されてゐる文章である。

 

『徳川慶喜公傳』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。水戸學の道統を継承したのである。ただしわが國に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本國を統治されるのが本来の姿である。一君萬民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

明治維新における草莽の志士の決起も、徳川慶喜の恭順も、江戸城無血開城も、天皇の御稜威よる。徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それは上御一人日本天皇の神聖権威であり、わが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

| | トラックバック (0)

2018年9月23日 (日)

千駄木庵日乗九月二十三日

本日も終日在宅して、原稿執筆。

塩分控えめの食事、即ち塩と醤油を少なくした料理は、文字通り「味気ない」ものであります。入院中ならあきらめもつきますが、自宅におりますと、なかなか大変です。

今晩は、都庁都民広場での「東京大薪能」の公演があったのですか夜間の長時間外出はなるべく避けるようにと医者から言われておりますので、まことに出席できませんでした。

| | トラックバック (0)

日本の傳統精神の核は「祭祀」よって傳へられてきた

 

日本の傳統精神・生活・文化の基本・核は「祭祀」といふ行事によって傳へられてきた。稲作を基本とした共同生活の中核には「祭祀」がある。「祭祀」とは神に仕へ奉り、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。

 

また、「祭祀」は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の實践である。つまり人と自然の本来の姿を回復し、神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。一言で言へば「神人合一の行事」である。

 

「祭祀」は、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。『古事記』冒頭に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

 

お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠、直会などを行ふことによって、罪穢れを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰る行事である。言ひ換へると、一切の罪穢れを祓ひ去って「生成の根源」に回帰する行事である。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。 

 

「祭祀」は日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。日本傳統信仰の根本行事である祭祀を行ふ場がそのまま高天原すなはち天上の世界であり、祭祀を行ふ人がそのまま神と合一する。つまり、日本傳統信仰は、地上と天上、神と人との絶対的な隔てが無い。

 

日本は、太古以来の「祭祀」が今も「皇室祭祀」と「神社祭祀」と「家庭祭祀」として現實に生きてゐる。これは人類の奇跡と言ってよく、わが國の國柄が萬邦無比といはれる所以である。

 

わが日本生成以来今日に至るまで連綿と天神地祇への祭祀を続けて来られたお方が日本天皇であらせられる。日本天皇は、日本傳統信仰の最高の祭祀主であらせられ、日本傳統精神の體現者・自然保護の最高の實践者であらせられ、祭祀共同體日本の最高の祭祀主であらせられる。天皇は、天照大神の御神霊と一體となられた神聖なる存在であらせられ、常に國家と國民の安泰と五穀の豊饒を神に祈られるお方である。

 

日本の神々を祭られる祭祀主・日本天皇は、日本傳統精神を體現されてゐる。つまり「日本の道」は抽象的な教義として継承されてきたのではなく、<天皇の祭祀>といふ現實に生きる行事によって継承されてきてゐるのである。日本天皇は、神話時代からの傳統を継承され、實際に今日唯今も神話時代以来の祭祀を行はれてゐる。<天皇の祭祀>は、今に生きる神話である。

 

天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。わが國存立の基盤は、<天皇の祭祀>にある。天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。

 

稲作生活から生まれた神話の精神を、「祭祀」といふ現實に生きる行事によって、今日唯今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

 

<天皇の祭祀>においてわが國の傳統精神が現代において生きた形で継承され踏み行はれてゐる。天皇の「まつりの御精神」を仰ぎ奉ることが、わが國の道義の中核である。祭祀主・日本天皇を中心とする祭祀共同體・信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十二日

終日在宅して原稿執筆など。

無理をせず静かに過ごす。

| | トラックバック (0)

2018年9月22日 (土)

今日思ったこと

昔は、麻生太郎・石破茂両氏に期待していたのですが、最近は、そうでもなくなりました。あまりにも癖がありすぎると思います。私は他人様の品格を云々する資格はございませんが、あえて言えばお二人とも品格に欠けると思います。

 

谷中霊園に眠っている竹内綱は、土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。

 

明治11年(1878年)4月、前年の西南戦争において、西郷軍に通謀する立志社のために小銃800丁と弾薬を手当てし、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたという嫌疑がかけられる。その結果、士族の身分を剥奪された上、禁獄1年の刑に処せられた。竹内が逮捕されたのは炭鉱経営で出張中の長崎であったが、間もなく東京の獄につながれる。その中には陸奥宗光や林有造らが含まれていた。

 

しかし、5月の大久保利通の暗殺以後、政府は国事犯を東京に置く危険を悟って、彼らを地方に分送した。竹内は911日、新潟の監獄に護送された。明治12年(1879年)8月、満期放免となった竹内は、板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。

 

翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した。私は竹内綱の墓所が谷中霊園にあったとは全く知らなかった。簡素な墓所であった。先日も行ったが、誰かがお参りした形跡はなかった。麻生太郎氏はお参りをしているのだろうか。

| | トラックバック (0)

2018年9月21日 (金)

「生産」とは「むすびの精神」である

 

「生産」といふ言葉が話題になっている。「やまと言葉」では、「生産」とは、「生(む)す・産(む)す」と言ふ。これは「日本傳統信仰」「神話の精神」の根本である「生成・結合・生産」の観念、すなはち「むすび」の精神である。

「生(む)す・産(む)す」の霊力を発現することを「むすぶ」と言ひ、和合・合一の精神を日本傳統信仰では、「むすび」と言ふのである。「むすび」は真の意味の平和の精神であり原理である。人と人との「むすび」は平和の基礎である。

 

人の生活は、「むすび」によって成り立ってゐる。「むすび」といふ神靈は、ものの生成・生産をつかさどる霊性である。その霊性そのものを「むすびの神」といふのである。その霊性の至高のご存在が「造化の三神」である。

 

天之御中主神と一体の関係にある高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「太陽の神靈」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。

 

ともかく「むすびの神」すなはち高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神である。

 

「むすび」は、生命の根源である。ゆゑに「結び」を「産靈」とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子()」「生す女()」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生命が生まれる。それが「むすこ」「むすめ」である。

繰り返し言ふ。男女が和合することを「むすび」と言ふ。そしてその結果生まれて来た男子を「生()す子」=「息子」と言ひ、女子を「生()すめ」=「娘」と言ふ。男同士・女同士の和合では、子が生まれない。であるから、生産性はないのである。

 

前述した如く、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

 

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は、以上述べたやうな信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

 

「庵(いほり)をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵は色々な木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的實在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

 

折口信夫氏は「むすびめしは、古代の人は靈的なものと考え、米そのものを神靈と考えている。神靈である米をにぎって、更に靈魂を入れておくと考えた。…それが人の身体へ入るともっと育つ。…水をむすぶのは、禊、復活の水を与えるとき、靈的水をあの形で人の中に入れたのだろう。靈魂のある水を掌のなかへ入れて、発達させておいて人の中に入れる。そして『むすび』の作用をさせる。」(『神道の靈魂思想』)と論じてをられる。

 

『國歌君が代』の「苔のむすまで」の「むす」、大伴家持の歌の「草むすかばね」の「むす」も、「生産する・生える・生ずる」といふ語と同根である。

 

西角川正慶氏は、「むすびなる語源は結びに外ならず、靈魂を肉体に来触せしめて、生命力を新たにすること、即ち神の持たるる靈威を宿らしめていることで…鎮魂にほかならぬ。…神話に於ても、天子の重大儀また危機に際しては、天神の御教へと共に、常にこの神の発動がある」(『神道とはなんぞ』)と論じてをられる。

 

天地・國の生成は、〝むすびの原理〟の展開としてあらはれてくるのであって、日本的思惟においてはすべて〝一〟をもって〝創造の本源〟とし、そこから無限の「生きとし生けるもの・ありとしあらゆるもの」が生産され、生成するのである。そこに、多神にして一神、一神にして多神であり、多即一・一即多といふ大らかにして無限の包容性を持つ文字通り「大和(やまと)の精神」たる日本的思惟の根元が見出されるのである。

 

内田良平氏は、「大日本生産黨を創立せんとて詠める」と題して、

 

「國を生み 人を産ませし 神業に 神習ひして 世を救はばや」

「生み産みて 萬づの物を 育くまば 足らはぬことの なにあるべしや」

 

といふ歌を詠んでをられる。

 

古代日本人の稲作生活から生まれた「むすび」の精神が、生産による日本の発展の根幹にあるのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、専門家来宅。パソコンのメンテナンス。

午後は、資料の整理。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議。

帰宅後は、資料の整理。

| | トラックバック (0)

2018年9月20日 (木)

和歌は、日本の時間と空間を無限に充たす文藝である

 

中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

 

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

 

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

 

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、時間的には今と神代と直結する文藝、そして空間的には身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

 

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

 

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

 

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

 

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく、日本国民全体によって継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月二十日

終日在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備など。

| | トラックバック (0)

石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも石橋だけを責め立てるわけにいかない。自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。

 

また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と書かれている。石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければならない。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十九日

終日在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理など。

| | トラックバック (0)

2018年9月19日 (水)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 十月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

| | トラックバック (0)

2018年9月18日 (火)

第88回日本の心を学ぶ会のお知らせ

88回日本の心を学ぶ会

 

日本社会と宗教を考える


本年7月、オウム真理教教祖の麻原彰晃と幹部12人の死刑が執行されました。

これによりオウム事件の死刑囚の刑はすべて執行され一連の事件は一応の解決となりました。しかしこの事件は我が国の社会と宗教の関係に大きな影響を与えたように思います。

 

この事件のあと宗教や信仰心への不信感は大変につよくなり、自らを無宗教であると考えている国民は7割にもなるようです。

 

しかし一方で、初詣への参拝者は9000万人にも達しております。これはメッカへの巡礼者200万人と比較しても大変に大きな数字であり、世界最大の宗教行事は初詣であるといえるかもしれません。

 

我が国は一面において大変に宗教的な国といえましょう。

 

さらに我が国は古来より一貫して天皇陛下による祭祀大権と政治大権をもって政治を行う祭政一致の国体が続いてきました、占領軍による神道指令や現行占領憲法の政教分離の規定があろうとも宗教と祭祀が我が国の政治や社会の在り方に深いつながりを持っていることは現在でも変わりません。

 

しかしながら宗教の世界も大きな変動が起こりつつあるようです。人口減少から新興宗教、伝統宗教ともに信者の数が激減しており、20年後には4割の神社がなくなるという指摘すらされております。神道思想家の葦津珍彦先生は神道が「日本人の社会国家の精神的基礎」であると述べており、宗教の衰退、特に神道の衰退は日本の社会と日本人の精神に大きな影響を及ぼしそうです。そこで今回の勉強会では日本社会と宗教について考えてみたいと思います。

 

【日時】平成30930日 午後6時から

【会場】文京シビックセンター3階会議室A
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
東京都文京区春日11621東京メトロ後楽園駅・丸ノ内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

【講演題目】宗教と維新

 

【講師】 四宮正貴 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

この告知文は主催者が作成しました。

 

| | トラックバック (0)

この頃詠みし歌

風吹けば諏訪台越えて電車の音わが部屋にまで聞こえ来るなり

 

世の更けに電車の音が聞こえ来て何故かさみしき心となりぬ

 

我よりも年長の人がスタスタと山道登りその後を我は息切らし登る

 

大いなる信の力は今もなほ高野の山に息づきてをり

 

登り行く参道に蝋燭の灯が並ぶ夜見の国へといざなふごとく

 

蝋燭の灯は揺れるなり死者を弔ふ人々の心を燃やしめにつつ

 

死者を弔ふ日本人の信仰心燃ゆるがままに蝋燭の灯燃える

 

難行苦行と言はずして何なるか炎天の日に山道登る

 

高野山の奥の院の参道に這ひつくばりて燈(ともしび)灯す

 

足腰の弱りたることを実感す高野山の霊域を歩み

 

天平の昔を偲ぶ夏の夜 光に浮かぶ大いなる佛

 

外つ国人多く来たれる東大寺毘盧遮那仏の大きみ光

 

春日大社に灯りともりてみ戦さで斃れし人々の御霊慰む

 

萬葉の歌をそらんじ唱へゐる幼児の何と可愛らしきや

 

白妙の衣ほしたりと朗々と御歌唱へる幼児いとし

 

炎暑去りて窓を開ければ涼風が部屋に入り来る朝(あした)なりけり

 

酷暑猛暑去り行きにける静か夜を一人書を読むことのよろしも

 

今宵また般若心経を誦しにつつ先祖の御霊に向かひ座しをり

 

炎天の日に友達と信号を待てば吹き出す肥満体の汗

 

若き友と歴史談議の花を咲かせランチを食す道灌山下

 

真剣に生きる時には真剣な歌生まれくる言霊の光

 

明日よりは命甦へり楽しくも力強くも生きて行かなん

 

心身の疲れ果てたるこの夜は歌も出で来ずノート閉じたり

 

毎朝を太陽の光身に浴びて今日のひと日の力湧き来る

 

人に会へば暑いですねと言ひ交はす炎天の日のつづく下町

 

起き出でて今朝も灼熱の太陽を仰ぎて生きる決意高める

 

筆の動き覚束なくて精神の動揺を鎮める術なかるべし

 

根津権現み祭り日は雨多し今年もまたも雨降りにけり

 

佳き人の電話とメールに励まされ今日も新たなる歩み始める

 

古来稀と言はれし年を一つ過ぎ命尊しと思ふ今宵は

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十八日

終日在宅して、部屋の整理・清掃、原稿執筆など。

|

この頃詠みし歌

息切れし歩むことさへままならぬ疲れし我をあはれみたまへ

 

胸苦しさに耐え難くして医者に行けば直ちに入院と告げられにけり

 

すぐにしも入院せよとの御託宣受けて赴く日本医大病院

 

あと三十年は健やかに生きんと思ひゐしに七十一歳にして入院をせり

 

七十歳を超えて初めて入院す まだまだ先の事と思ひゐしに

 

肥満せしわが体より水が出て六・五キロ痩せにけるかも

 

どんどんと体内の水分を絞り出し身は軽くなり息切れも止む

 

六・五キロ痩せたる顔を鏡に見れば以前とさして変はらざりけり

 

看護師さんは皆美人にぞ見えにけりマスクで半分隠されし顔

 

病室の窓よりの眺めも飽きたれば何とも退屈な入院の日々

 

医師の言ふことに素直に従ひ二週間わが身労はり退院をせり

 

わが病ひ早く癒したまへとぞ神にぞ祈る朝に夕べに

 

古きみ社に参り来りてわが病ひ癒やしめたまへと祈りまつれり

 

与へられしわれの命を大切に生きてゆかなむこれからの日々

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十七日

終日、資料の整理・原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2018年9月16日 (日)

皇祖神・天照大御神について

『日本書紀』には、「伊耶那岐命・伊耶那美命、共に議(はか)りて曰(のたま)はく、吾すでに大八洲國及び山川草木を生めり。いかにぞ天の下の主たる者を生まざらむや、と。ここに共に日神(ひのかみ)を生みます。大日孁貴(おほひるめのむち)と號(まを)す。此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

 

古代日本人は日の神の永遠性を信仰してゐた。故に、日の神たる天照大御神は、最尊最貴の神と仰がれる。天照大御神は、高天原の主神であり、日の神である。その日の神を祀る祭祀主を共同體の「おほきみ」と仰いだ。そして日の神を「おほきみ」の祖神と信じた。天照大御神は、日神に五穀の豊饒を祈る祭祀主である「おほきみ=天皇(すめらみこと)」の御祖先神としても仰がれるやうになった。天照大御神は、日の神=自然神と、皇祖神=祖先神との二つの面を持つ女性神であられる。

 

天照大御神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒルメ」は光り輝く意で、「メ」は女神の意である。ヒルメを「日の女」とする説もある。いづれにしても「太陽の女神・母神」といふ意である。

 

天照大御神は、女性神であるから武を尊ばれないといふ事は絶対にない。弟神の須佐之男命が高天原にお上りになって来た時、「善(うるは)しき心ならじ」と思し召され、弓矢で武装され、大地を蹴散らして雄叫びの声をあげられた。

 

天照大御神は、太陽神のもたらす光明温熱によって萬物が生育するという御神徳をも具有される。ゆへに穀靈であらせられる。稲にとって太陽の熱と光が生命の源である。そこで、稲穂の命即ち穀靈は、日の靈と不離一體であり、日靈と穀靈と皇室の祖靈とは一體の関係にあるといふ信仰が生まれたに違ひない。だから天照大御神をお祭りする神殿(神明造)が穂倉の形をしていゐるのである。

 

天照大御神は天津神であらせられるから、生物學上の人間としての女性であるとすることはできない。しかし、わが民族は、日の神・穀靈・皇祖神たる天照大御神を、新嘗祭を行はせられ機織をせられる「母神」=女性神として仰ぐ信仰を保持してきた。

 

天照大御神は「ひとり神」であらせられるとともに「母神」であらせられ、御子神=天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)をお生みになられた。天之忍穂耳命は「女神系の男神」であらせられる。天之忍穂耳命の御子神が邇邇藝命であらせられる。

 

鹿児島県川内市宮内町に、邇邇藝命の可愛山御陵が鎮まります。といふことは、われわれの祖先は、邇邇藝命は肉身を持たれる御存在であると信じたのである。女性神である天照大御神の御孫神・邇邇藝命は地上に降臨された肉身を持たれる御存在である。これは動かし難い否定すべからざる神話的真實である。単なる「御伽話」ではない。

 

葦津珍彦氏は、「後世でも、神話の神々を氏神とし、自分はその子孫であり、氏子とする信仰は生きてゐる。生理的には人間父母の子であるが、信仰的には神話の神を父母とし祖として生まれたとの信である。その信がなくては、日本の神道も神國も成立しえない。皇祖天照大御神は、まさに信仰上の皇室の祖であり、神話の神であってたゞの生理的人間ではない。だから神宮はあっても、生理的人間没後の御陵はない。南九州には神武天皇以前の歴代皇統の御陵がある。生理的に地上に現はられた皇統の祖として祭られたが、天照大御神は古代から高天が原の皇祖神として祭られたのである。天照大御神には御生まれはあるが死はなく、今も生きておられる。」(『神國の民の心』)と論じてをられる。

 

皇祖とは天照大神また皇孫邇邇藝命を始め神代の神々の御事であり、皇宗とは神武天皇以来御歴代の天皇の御事とされてゐる。つまり皇祖・邇邇藝命は肉身を持たれる生理的人間であらせられ「女系の男孫」であらせられるのである。皇統即ち皇室の血統は女系の男孫たる邇邇藝命から始まるのである。

 

葦津先生のいはれる通り、人は、生理的には人間父母の子であるが、信仰的には神話の神を父母とし祖として生まれた。まして、上御一人たる天皇は、天照大御神の生みの御子であらせられる。その絶対の信が、天皇の神聖性の根拠であるし、天皇が日本國をしろしめす「おほきみ」であることの根拠である。

 

日本民族は、男性を日子(ヒコ)といひ、女性を日女(ヒメ)といふ。人は、信仰的には日の神の子であるといふ信仰がある。人は単なる肉体ではない。神の分靈である。まして、現御神日本天皇は人にして神であらせられる。したがって、天皇としての御本質は、肉身が男性であられやうと女性であられやうと全く同じである。

 

「萬世一系」とは、皇祖神への祭祀を行ふのは、天照大御神及び邇邇藝命の御子孫・生みの御子であるといふ思想による。高天原の祭り主は、女性神たる天照大御神であらせられる。皇極天皇・持統天皇など歴代の女性天皇も祭祀を厳修せられた。祭祀國家・信仰共同体=日本國の祭祀主たるスメラミコトに女性がなられることには何の不思議もない。神武天皇以来、原則として男系の男子が皇位を継承してきた傳統は守らねばならない。しかし、「女性天皇は、皇統断絶」などといふことはあり得ない。

 

皇祖天照大御神は、古代における偉大なる女性ではなく、神話の女性神であり、日の神の神靈である。邇邇藝命は、天照大御神の「生みの御子」であられ地上に降臨された天孫であられ肉身を持たれる御存在である。すなはち神にして人であり人にして神であられる。邇邇藝命の御子孫である神武天皇そして御歴代の天皇は、女性神たる天照大御神そしてその生みの御子たる邇邇藝命の血統と靈統を継承されてゐるのである。さらにいへば御歴代の天皇お一方お一方も天照大御神の生みの御子であらせられるのである。

 

「神」とは古代の偉人ではなく靈的實在であり、人間は神の分靈であるといふ信を基本に確立してゐなければ、葦津氏のいはれる通り、「日本の神道も神國思想も成立しない」と思ふ。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十六日

在宅して、原稿執筆など。

夕刻、親族と小生の退院祝い。

帰宅後も、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

『やまと心』について

日本の伝統的精神のことを『大和心』という。その『大和心』を短歌形式で表白した歌が次の歌である。

 

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」

 

 近世の国学者・本居宣長の歌である。「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山桜だと答えよう」というほどの意である。

 

 「朝日ににほふ山桜花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言う。神の生みたまいし美しい国に生まれた日本人は美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」が日本人の心なのである。それは、理智・理屈・理論ではない。純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。大和心即ち日本伝統精神は、誰かによって作られた思想体系や理論体系ではないのである。

 

 しかしながら、日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。もっと深い。日本人の「真心」は一種厳粛な神々しさを伴う。「朝日ににほふ山桜花」の美しさは神々しさの典型である。日の神の神々しさを讃えるている。

 さらに「夕日」ではなく「朝日」であるところに日本人が清々しさ・清浄さ・潔さ・明るさを好むことをも表現している。

 

 清らかで明るい心を「清明心」という。この清明心は天智天皇の御製に次のように歌われている。

 

「わたつみの 豐旗雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきらけ)くこそ」

 

 「大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のように棚引く雲に入り日がさしている。今宵の月はきっと清らかで明るいであろう」という意。

 

 何とも大らかで豊かな御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持っている精神、即ち「大和心」なのである。そして、「清明」という漢字をが用いられている。日本人は清らかで明るい心を好むのである。 

 

 さらに言えば、「三日見ぬ間の桜かな」という言葉があるように、美しい桜の花は他の花々よりも咲いている時間が非常に短い。と言うよりも雨や風に当たればすぐに散ってしまう。日本人はそういう桜花の「潔さ」をとりわけ好むのである。これを「散華の美」という。

 

 保田與重郎氏は「しきしまの大和心を人問はばと歌はれたやうに、花の美のいのちは、朝日のさしそめる瞬間に、その永遠に豊かな瞬間に、終わるものといふ。日本の心をそれに例へたのは、さすがに千古の名歌を、永く国民のすべてに吟唱される所以であった」(昭和十四年・『河原操子』)と論じておられる。

 

 しかし、桜の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。また来年の春に甦るのである。滅亡の奥に永遠の命がある。そう日本人は信じた。それが楠正成公の「七生報国」の御精神である。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十五日

終日在宅して、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2018年9月14日 (金)

今日決意したこと

医師から次のようなことを告げられました。

一、 禁酒

二、 塩分控え目

三、 男女の営み控え目

つまり美味い物を食すこと、酒を呑むこと、異性との交わり、という三つを厳しく自制すれば健康に生きていけるというご託宣あります。人間としての快楽を無くして生きる。これは大変つらいことだとは思いますが、実行せねばなりますまい。今日のところは、今後は学問一筋・勉強一筋で生きて行くと決意しております。さて貫徹できますかどうか案じられます。

| | トラックバック (0)

日本人の固有信仰の強靱さが外来宗教文化文明を受け容れた寛容性の基盤

          

 本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としてゐる。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにさうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

 「蕃神」と名付けられた「仏」は、日本人にとっては神々の一つなのだから、固有信仰の神々と矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言ふところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいのではないかといふのが日本人の基本的な態度だったのである。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたといふ感覚であった。

 

 近世国学者・伴信友は次のやうに論じてゐる。「仏と云ふは天竺の神の事を、漢國にて稱(い)へる名なり。かの天竺の國人、なべて暴悪心にて、倫(すぢ)なき事のみ多かるを、釈迦と云ひしが、殊(すぐ)れて賢く、神なる男にて、彼国既くより、神代の古事の端々の傳はれるゝに、神を畏み崇みて、祭りあへる国俗(ならはし)なるを拠として、神を奉仕る事を主と立て、彼神の教也とやうに言挙して、空き理をさへに解きそへて…人の行ひを直からしめんとしたためたる道、すなはち所謂佛道なり」「佛法の広まれるも、本は神の御心にて、これも広けき神の道の中の枝道なり。…されば佛神もあればあるままに、禮なからぬやうにあへしらひ、又由縁ありて、心のむかはん人は、祭りもし祈もすべきなり」(『仏神論』)と論じた。

 

佛法が広まるのもの神の御心なのであり、広大なる神の道の中の枝道なのだから、縁があって心が向いた者は、佛を敬ってもいいと論じてゐるのである。

 

しかし、信友は次のやうにも論じてゐる。「皇国には、太古より正実(たゞき)き伝説ありて、すべて世間の物も事も、悉皆神の御所業(みしわざ)なることを知り、其御功徳(みいさを)を蒙れる事を知るが故に、外蕃の佛神などに全(ひたす)らの心を向きて、尊み忝み可きにはあらず」(『同』)。

 

日本人は、外国からの文化・文明を自由に受容してきた。古代における仏教の受容はその典型といへる。日本人は仏教受容以来今日まで、神と仏を自然な形で融合させ、信仰してきてゐる。神と仏は日本人の生活の中で溶け合ってゐる。それは理論理屈の世界ではなく、生活の中で文字通り自然な形で神仏が融合してゐる。

 

日本の一般的な家庭では、家の中に神棚と仏壇が共存している。毎朝、神棚にお灯明をあげ柏手を打ってお参りする。次の仏壇にお灯明をあげ線香を立てて合掌礼拝する。神棚には国の主神である皇祖神(皇室のご先祖の神)である天照大神そしてその地域の産土神が祭られてゐる。各家庭の仏壇には、その家が檀家になってゐるお寺の宗派の本尊が、安置されてゐる場合もあるが、それは一般的ではない。それよりも仏壇には必ずその家の先祖の位牌が祭られてゐる。各宗派の本尊は安置しなくても先祖の位牌だけ祭られてゐる家が多い。

 

つまり日本の家庭に安置されている仏壇の「仏」とは祖霊のことであり、仏壇とは祖霊の祭壇なのである。「近い先祖は仏様。遠い先祖は神様」といはれる所以である。また、結婚式などの慶事は神式で行ひ、葬式などの祖霊への慰霊は仏式で行ってゐる。

 

日本人が外来宗教・文化・思想をおおらかに包容した態度をいい加減でルーズな態度と批判する立場もある。しかし、日本人は決してルーズではない。むしろ潔癖な民族である。仏教の受容も、日本の固有信仰と適合する部分についてのみ受容され信仰されたのである。仏教の受容によって、日本固有の信仰を捨て去るといふことはなかった。仏教は日本の中に深く根づいたが、仏教受容以来千五百年近くにならうとする今日においても、仏教は外来思想と言はれてゐる。これは日本人の外来宗教への態度がルーズでもいい加減でもない証拠である。

 

古代から現代に至るまでの日本人の精神生活・信仰生活は、仏教の影響を実に多く受けてゐる。それでも日本民族は仏教を「外来宗教」と思ってゐる。欧米人はキリスト教を外来宗教と思ってゐない。このことの意味は大きい。

 

それは、わが国の国民精神がきはめて寛容であるからであると共に、強靭性も保ってゐるからである。

 

樋口清之氏は、「日本の仏教信仰は形こそ仏教であり、経典も仏の教えとして尊重されたが、それを信じる日本人の心は、仏教的な形に飾られた伝統的な日本に信仰によって救済されたのである。日本人は完全に伝統的信仰を放棄して仏教に改宗したのではなかった。これが日本人の仏教摂取における大きな特色である。」(『日本人の可能性』)と論じてゐる。

 

日本人の融合性・包容性とは、主体性・国粋精神が希薄だといふ事ではなく、むしろ主体性・国粋精神が強靭だから外来の仏教を融合し得たのである。

 

日本人の実生活に根ざす固有信仰の精神が、日本民族の同一性の実に強靱な基盤となっているからこそ、かへって日本民族は融通無礙・包容力旺盛な態度を保持したのである。日本人の固有信仰の強靱さが、日本民族が仏教のみならず外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤である。

          

 現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十四日

終日在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備など。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗九月十三日

二週間ほど入院しておりました。

| | トラックバック (0)

« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »