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2018年8月 2日 (木)

天之御中主神について

 天之御中主神は<一即多・多即一>の神であり最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。

 

 <神と人との合一><罪の意識の浄化>を最高形態としてゐる信仰は、日本傳統信仰・神ながらの道である。全人類を戰爭の慘禍から救ふ道は、日本傳統信仰への回歸である。日本傳統信仰の世界的に恢弘することが私たち日本民族の使命である。

 

 四季の変化が規則正しく温和な日本の自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。神は到る処に充ち満ちてゐます。自然は神の命の顕現である。

 

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記傳』には次のやうに書かれてゐる。「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

 宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義してゐる。「可畏し」といふ言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であらうが、それらを総合したやうな感情において神を考へるといふことであらう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。そこが一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。さうした神々の根源神として「造化の三神」がましますのである。日本の神は「多即一・一即多」のお姿をあらはされる。

 

 『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示され、「天地の生成の本源神」たる天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されてゐる。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

 

「造化の三神」が「天地初發の時、高天原になりませる神」(天地宇宙の生成と共になりませる神)と仰がれてゐるのは、「造化の三神」が天地宇宙開闢以来天地宇宙と共に存在する神、天地宇宙の中心にまします根源神であるといふことである。ユダヤ神話の神のやうな被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在・被造物と対立する存在たる「天地創造神」ではないのである。

 

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独神(ひとりがみ)すなはち“唯一神”であり、宇宙の根源神である。この「造化の三神」は、宇宙根源神・絶対神の「中心歸一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現してをり一体の御存在である。

 

 また、「宇摩志阿斯与訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」「天常立神(あめのとこたちのかみ)」の二柱の神も「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。「國之常立神(くにのとこたちのかみ)」「豊雲野神(とよくもぬのかみ)」も「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

計七柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのである。だから、「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐるのである。七柱の「独神」がをられるのは、唯一神の多くの働き・性格を「神名」によって表現していると解釈できる。「多即一・一即多」である。

 

 影山正治氏は、「古代の日本人は萬ものを神に於て理解しようとした…神は無數であって八百萬の神である。しかし萬神一に歸すれば天之御中主神であって、決して云ふ所の低い庶物崇拝ではない…萬物を『いのち』に於て把握し『神』に於て理解する日本人の宇宙觀はまことに比類なきものと云はねばならない。日本に哲學なしなどゝ考へるのはとんでもない間違ひで、人類今後の思考の哲学はまさにこの日本神話の根源から發するものである」(『古事記要講』)と論じてをられる。

 

日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。これは、天之御中主神が、天地宇宙の根源神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられるからである。

 

天之御中主神は、天地生成の根源神であられるが、「唯一絶対神」として他の神々をと対立しその存在を許さない神ではない。八百万の神と申し上げる天地の神々を包容される神である。

 

天之御中主神は、<一即多・多即一>の神であり、最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。ゆへに、天之御中主神は祭祀の対象とはならなかったのである。

 

『古事記』冒頭の五柱の「別天神」および國之常立神・豊雲野神は、形体を隠した隠身の神と仰がれた。身を隠したまふとは、隠身(かくりみ)になられることである。「かみ」とは「かくりみ」から「くり」を除いた存在であり、「神」とは「隠身(かくりみ)」のことであるといふ説もある。

 

なほ天之御中主神について、萩野貞樹氏の著書『歪められた日本神話』に詳しく論じられてゐる。萩野氏は、「アメノミナカヌシの神は後代の造作神だ」といふ説に対して、「この予断の甚だしさにはやや呆然とせざるを得ない。」「天の観念また天空神の信仰というものは、世界の最も未開と考えられている諸部族にあっても、ほとんど普遍的に見られるものである。」「天・天神の観念はなかったとする津田(四宮註・左右吉)の断定は、記紀神話の記述から歸納されたものでなく、記紀神話に現れた『アメ』や『アマ』を名に冠する神々を『主要でない』としてわざわざ除外し、『高天の原』という重要な観念も『政治的寓意』のものとして除外して、その残りのものについて見たところ『天神』の観念はなかった、と言っているに過ぎない」と論じてをられる。

 

さらに、天之御中主神が祭祀されてゐないといふ説に対して、「ほとんど全部の日本人学者はアメノミナカヌシノカミについて…『祭祀の痕跡がない』ことを理由にして後世の造作神であるとしている。」「古文献にアメノミナカヌシがないかといえばそんなことはない。…古事記…日本書紀…古語拾遺…続日本紀…日本後紀…新撰姓氏録にも出ている。彼等はその『現に出ているもの』を…除外し、残ったものについて見て『痕跡がない』と言っているのにすぎない。」「宮中八神にはもとより八柱の神しかない。古代に祭祀を受けた神はわずか八柱だというのであろうか。」「古事記は、タカミムスビ・カミムスビの祭祀についても記述していないのである。ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコタチ、クニノトコタチの祭祀も記さない。」「アメノミナカヌシだけが祭祀の記録がないとに言うのは、作為的なトリックと言うしかないものなのである」と論じてをられる。

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