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2018年8月 5日 (日)

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことはない

斉明天皇の御代、唐新羅連合軍によるわが国への侵攻の危機に際会した。まさに今日の日本と同じ危機的状況であった。

 

第三十七代・斎明天皇は、敏達天皇の皇曾孫であり、舒明天皇の皇后であらせられる。また、第三十五代・皇極天皇の重祚(一度位を退かれた天皇が再び位につかれること)であらせられる。

 

斉明天皇六年(六六○)三月、我が國と友好関係にある百済に、唐・新羅連合軍が電撃的に侵攻し、七月には、百済は敗北した。そして、百済の義慈王は唐の國へ連行されてしまった。九月、百済から我が國に沙彌覚従(さみかくじゅ)などの使者が来て、百済再興のため日本に救援を要請してきた。

 

斉明天皇は詔して、「百済が困窮してわが國を頼ってきました。どうして見捨てることができませうか。将軍たちはそれぞれに命令を下し、前進しなさい。雲のやうに集ひ、雷のやうに動いて敵を倒し、百済の危機を救ひなさい」と、激しい御口調の命令をお下しになった。(『日本書紀』に拠る)

 

斉明天皇七年(六六一年)正月六日、六十八歳となられたご老齢の女帝・斉明天皇の率いる朝廷の軍船は、中大兄皇子・大海人皇子そして妃や王子・王女など全皇族とご一緒に、寒風の中を難波の港を出発して、瀬戸内海を航行し筑前朝倉宮まで赴かれた。率いられる軍船團は、船千艘、兵士二萬七千人であったと傳へられる。

 

三百年近くにわたり同盟関係にある百済救援は当然のことではあったが、戦ひの相手は唐と新羅である。國家挙げての大きな戦ひであった。天皇御自身が戦ひを決意され、御自ら総指揮者として外征のために軍船に筑紫の向かふことは、神功皇后以来のことであったと傳へられる。

 

軍船團は、一月十四日、伊豫熟田津(今の愛媛県松山の港)に船を泊めた。熟田津には、斉明天皇がかつて夫君・舒明天皇と行幸され、禊を行はれたことのある石湯(今の道後温泉)の行宮があった。軍團が伊豫の石湯行宮に寄ったのは、そこで戦勝を祈念する禊(みそぎ)をされるためであった。斉明天皇は出航予定の二十三日まで、しばらくその行宮に滞在された。

 

二十三日夜、斎明天皇は御座船で、御自ら祭主となられて國家的大事の前の戦勝祈願と出航出陣の祭事を執行された。午前二時、空に満月が昇って来て、満潮になった。そして西向きの風も強まった。いよいよ神意にかなふ船出の時を迎へた。まことにも緊迫し神秘的な情景であったと思はれる。

 

斉明天皇は、祝詞を奏上され、神に祈られた。そして、気迫が漲った次の歌を高らかにお歌ひあそばされた。

 

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船出をしやうと月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今、漕ぎ出さう)

 

「船乗りせむと」は、船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は、船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二十三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 

 古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。かがり火をつけた百千の軍船團は神に護られるがごとく月光に照らされながら潮の流れに乗って次々と出航した。それはまことに勇壮な光景であったと思はれる。

 

 潮が満ちて来て船出が可能となった時の緊張した雰囲氣と月光に浮き立つ場面が一体となって生き生きと迫って来る。差しのぼる月とその光、くっきりと照らし出された数多くの軍船、満ちて来る潮が出発の時を告げるのを「今はこぎ出でな」と歌はれて、船出を祝福し航海の無事を祈られると共に、眼前の風景をも雄渾に歌ひあげた感動を呼ぶ御歌である。

 

「やまとことば」特に和歌には靈力がこもってゐると信じるわが國の「言靈信仰」が脈うってゐる御製である。この御歌にこそ、祭り主・日本天皇の大御心が実によく表白されてゐる。

 

 祭祀主であらせられ全軍の最高指揮者であらせられる斎明天皇ならではの御歌である。『萬葉集』の代表歌の一つとなってゐる。

 

天皇は、神と人との間に立ってまつりごとを執行され神の言葉を宣せられる祭り主であらせられる。斉明天皇も祭り主として、航海の無事を祈るまつりごとを執行された。その時に、神のお告げ・御託宣を受けて出発を命令され、御自らを励まされ全軍を叱咤し鼓舞し、船出を祝福された。女性天皇の御歌ではあるが歌柄の大きい氣迫のこもった男性的な御歌である。一種の神憑り状態で御託宣として歌はれたといふ説もある。さうであらうと拝察する。

 

この御製は、『萬葉集』に収められてゐるのであるが、「題詞」(詩歌の詠まれた事情・趣意・作者などを記したことばで、歌の前に置いたもの。詞書)には「額田王の歌」と記されてゐる。一方、左註(歌の左側に記す注)には、「天皇の御製なり」と記されてゐる。『萬葉集』の研究者の意見も二つに分かれてゐる。

 

この御歌のしらべは、やはり上御一人でなければ歌ひ得ない格調と強さを持ってゐる。また「今は漕ぎ出でな」といふ結句は、全船團に出航を命令してゐるのである。「斎明天皇の御製」と拝すべきと考へる。

 

また、斉明天皇の命を受けて額田王が代作したとする説もある。中西進氏は、「この緊張したしらべは、託宣のひびきにも似ておごそかであろう。そのとおりに、これは斉明女帝の立場で歌われたものであり、かつ出航をうらなった一首だった。古くは『女軍(めいくさ)』というものがあった。兵力として戦う男性軍に対して、つねに神意をうかがいながらこれを指揮する集團のことである。この傳統に立って、額田王は右の歌を口ずさんだのである。初期萬葉には女歌が多い。それは一つにはのこされた歌が公的な儀礼歌にかたよっているからであり、それには、神と人との中に立って〝ことば〟を傳えるのに女性があたるという傳統があったからである。額田王もその流れにいた。」(『萬葉の心』)と論じてゐる。

 

額田王が実際に詠んだとしても、この歌には、斎明天皇の大御心が表白されてゐることには違ひはない。

 

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇の御事績を拝すれば明らかである。

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