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2018年8月17日 (金)

ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實であった

第二次欧州大戦の結果、最も利益を獲得したのはソ連である。アジアにおいてもヨーロッパにおいてもソ連は、その勢力範囲を飛躍的に拡大した。ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實である。 

 

ソ連は、わが國と締結してゐた『日ソ不可侵中立条約』を一方的に踏みにじり、日本及び満州に侵攻して来た國である。そして、多くの日本國民を殺戮し、強姦し、数十萬同胞をシベリアに拉致し、強制労働を課して十数萬人を殺した國である。且つ、南樺太全千島といふわが國固有の領土を奪った國である。

 

このやうな悪逆非道の國から、一九六四年に『ソ連邦英雄』の称号を与へられたゾルゲとその手先の尾崎を、われわれ日本國民は永遠に許してはならないのである。

 

尾崎の罪の深さはわが國においてソ連のためにスパイを行なったことだけではない。彼は、わが國を戦争へと追ひ込む謀略活動を行ひ、わが國を未曾有の敗戦に導いた一つの要因を作った民族の裏切り者である。尾崎秀實は、近衛内閣嘱託といふ立場を利用して、わが國の世論や近衛内閣の政策決定に影響を与へ、支那事変・日米開戦を煽動し、わが國を敗戦へと導いた。

 

これは、レーニンの「社會主義の勝利にいたるまでの基本原則は資本主義國家間の矛盾対立を利用して、これら諸國を互ひにかみ合はすことである。」(一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長會議)といふ戦略、そして一九三五年にモスクワで開催された『第七回コミンテルン大會』において決定された「米英と日独といふ資本主義國家同士を戦はせて、双方とも疲弊させ、ソ連への圧迫を排除して上で、米英を打倒してソ連の世界制覇を實現する」といふ戦略に基づくものであった。

 

さらに昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった決議は、米英仏日独といった『帝國主義列強』を互ひに対立させ、戦争に追ひ込め、といふ戦略指令であった。日本について言へば、①日本を米國との戦争へ追ひ込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、といふことが書かれてゐたといふ。

 

ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透を図って米國との対決路線に追ひ込み、また、マスコミにも、反米英を主軸とした排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内でも、ソ連の手先によって排日機運の盛り上げが工作されてゐた。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。その協力者が、第一次近衛内閣の書記官長・風見章であった。

 

わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。張作霖爆殺事件もその真の下手人はソ連であるといふ説がある。

 

かくて、日本の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

尾崎秀實は、近衛内閣の中枢にあって情報収集や謀略活動を行ってゐただけではなく、対支那及び対米英戦争を先導する言論活動も展開した。尾崎は次のやうな論文を発表した。

 

「筆者の意図は和平の成立の可能性を論証せんとするものではない。かへつてその反対なのである。…戦の性質は遂に一方が完全なる屈服に到るまでは終結することなきをもって特質とする。旧世界の転換期における矛盾は極めて深刻である。この際最も重要なることはかゝる基本的認識に基づいて日本が一旦確立した東亜新秩序創建の路をたゆたふことなく進み続けることである。」(『転機を孕む國際情勢と東亜』・「中央公論」昭和十六年七月号)

 

「満州事変以来我國民は『非常時』と言はれ、『危機』に立つと教へられ続けて来た。しかも日本は一路軍事的威力を発揮しつゝ、東亜新秩序建設の道を邁進し続けたのである。…今やその危機は正体を日本國民の前に現はし来つたのである。日支戦争四年の後に、日本國民はアメリカの指導する全面的経済封鎖に直面したのである。今こそ日本國民は一大決心を強ひられてゐるのである。」(『危機迫る東亜』・昭和十六年十月号)

 

尾崎秀實は、「米英の植民地支配からのアジアの解放・大東亜諸民族の独立」といふ崇高な目的達成のためにこの文章を書いたのではない。「敗戦革命」即ち日本とアメリカとを戦はせ、日本が敗戦した後、日本及びアジアを赤化するといふ策略のもとに書いたのである。

 

戦後になって、反日左翼勢力は、尾崎秀實を「反戦平和のために戦ひ、官憲によって処刑された英雄」に仕立て上げた。例へば、尾崎の獄中書簡を収録した『愛情はふる星のごとく』(左翼系出版社たる青木書店発行)といふ本の「編者のことば」(柘植秀臣執筆)には「ファシストの手によってたおれた犠牲者が、ひとしく熱烈な平和愛好者であり、清純な人間愛にみちあふれた人々であったことは、彼らの行動や遺言によって知ることができるのである。…彼らが平和を守るために、人民の解放のために自己の生命をすこしも惜しまなかった…人間愛に燃えた尾崎、平和のためにたたかった尾崎のことを記録にのこしておくことは、時代的にも歴史的にも大きな意義がある…」「尾崎と松本(慎一・尾崎の親友にして日共党員)が生命を賭してたたかってきた道は、日本國民の幸福を念願するためにこそ、戦争に反対することであった」などと書いてゐる。

 

よくもまあこのやうな嘘八百が書けたものである。尾崎は、戦争に反対したことはない。引用した尾崎自身の論文に明らかなように尾崎は支那事変そして日米戦争を煽ったのだ。

 

尾崎秀實はコミンテルンの指令に基づき「社會主義の祖國=ソ連」を守るために、盧溝橋事件後に拡大論を唱へて支那事変を拡大させ、日支を泥沼の戦ひに追ひやり、同時に『日独伊三國同盟』を推進することによって日米対立・分断を實現させ、さらには『南進論』を唱へて日米開戦を誘導したのだ。

 

日本は日米戦争に敗れ、支那大陸、朝鮮半島北部、ベトナムなどの赤化は實現した。コミンテルンの手先となって日本國内で活動した尾崎秀實の目的は半ば達成された。

 

日本共産党は、今でも、「侵略戦争に反対して唯一の政党はわが党である」と誇らしげに宣伝してゐる。しかし、日本を敗戦に導いたのは、ほかならぬ「社會主義の祖國ソ連」及びコミンテルンそしてその手先どもだったのである。

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