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2018年8月 7日 (火)

橋本左内について

橋本 左内(はしもと さない、天保五年三月十一日(一八三四年四月十九日)―安政六年十月七日(一八五九年十一月一日))は、越前国福井藩士である。景岳と号し、諱は綱紀。父は橋本長綱、母は小林静境の娘。実弟は明治における陸軍軍医総監・男爵 橋本綱常。著書には十五歳の時に志を認めた『啓発録』がある。明治二十四年、贈正四位。

 

越前国に生まれる。嘉永二年(一八四九年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。

 

安政四年(一八五七年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。第十四代征夷大将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。

 

幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、開国か攘夷で揺れる幕末期に活躍した人物であり、英才である。

 

安政六年(一八五九年)、主君・松平春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、左内自身も安政の将軍継嗣問題に介入した事が問はれ、南紀派で大老となった井伊直弼が発令した安政の大獄で斬首された。享年二六。

 

左内の処刑は藩主松平慶永の身代りといふか井伊直弼の慶永公に対する圧迫策であるといはれてゐる。左内は井伊大老誅殺後、罪を許され、遺骸は福井に移された。

 

墓所は東京都荒川区の小塚原回向院と、福井県福井市の善慶寺とにある。小塚原回向院には『橋本景岳之碑』が建立されてゐる。小塚原回向院のある地は、江戸時代の刑場跡で、回向院は、寛文七年、本所回向院の住職・弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺である。開創から刑場が廃止された明治元年までの二百二十余年間に二十四万の遺体が葬られたといふ。大部分は重罪者で、ここで行はれた刑は獄門・磔・火あぶりといふ極刑であり、処刑者の埋葬は簡単に土をかけるだけといふもので、悪臭が漂ひ、野犬・野鳥が群がったといふ。何とも恐ろしい話である。

 

回向院に入り行くとすぐ左に橋本左内の墓がある。その隣りには、『橋本景岳之碑』が建てられてゐる。明治十七年の建立で、三条実美篆額・重野安繹撰・巌谷修書。

 

左内は次のやうな詩を残してゐる。

 

「二十六年は夢の如くにして過ぐ 顧みて平昔を思へば感ますます多し 天祥の大節は嘗て心折(くじ)きぬ 土室猶吟ず正気の歌」

 

「常山の髪 侍中の血 日月も光をつつみ 山河も色を改む 生きては名臣となり 死しては列星となる」(支那古代の忠臣に倣って自分も生きているうちは謀反人と戦ひ、死んでも忠臣の名をとどめたいといふ意)である。

 

吉田松陰・橋本左内のお二人は同じ運命を辿りお互ひに尊敬してゐたのだが、生前一度も會ったことはなかったといふ。

 

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