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2018年8月 9日 (木)

昭和天皇と大東亜戦争

 

「終戦記念日」が近づいてきた。偏向メディアや國體破壊勢力は、「昭和天皇の戦争責任」なることについてまた色々と書き立て言い立てるであろう。否、偏向メディア・國體破壊勢力だけではない。保守政治家と言われる人物にも、先帝・昭和天皇陛下に対し奉り、「戦争責任」なるものを責め立てる人物がいる。亀井静香氏であ。亀井氏は、ある雑誌の平成二十八年十月号において、「昭和天皇は戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」と語った。

 

実に以て許し難い発言である。

 

昭和天皇は、大東亜戦争のいはゆる「戦争責任」をご自分一人で果たさうとされた。昭和天皇は、敗戦直後の昭和二十年八月二十九日午後十一時四十分、木戸幸一内大臣を呼んで次のように仰せになった。

 

「戦争責任者を連合國に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人が引き受けて退位でもして納めるわけにいかないだらうか」「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(『木戸日記』・昭和二十年十二月七日)〉

 

すると木戸氏は「御退位を仰出さることは、皇室の基礎に動揺をまねき、その結果民主的國家組織(共和制)論を助成する恐れもある。十分慎重に相手方の出方を見て考究遊ばさるる要あるべし」と奉答した。(児島襄氏著『天皇』第五巻および高橋紘氏『象徴天皇』)

 

この木戸氏の奉答は正しい。もし、昭和天皇が終戦直後に「戦争責任を果たす」といふ理由で退位された場合、大変な混乱に陥ったであらう。

 

東久邇宮内閣は東條大将自決未遂を知ると、九月十二日朝、閣議を開き、戦争犯罪人を日本側で裁くことを決めた。東久邇宮首相が参内してこの「自主裁判」決定を上奏すると、昭和天皇は「敵側の所謂戦争犯罪人、ことに所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て処断するは不忍ところなる故、再考の余地なきや」と仰せになった。(児島襄氏著『天皇』第五巻)

 

昭和二十年九月二十七日に、昭和天皇はマッカーサーをお訪ねになり、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されてゐるが責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうならうと構はない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか國民が生活に困らぬやう、連合國の援助をお願ひしたい」「私は、國民が戦争を成し遂げるにあたって、政治、軍事の両面で行なったすべての決定と行動に対する、全責任を負ふ者として、私自身をあなたの代表する諸國の裁きにゆだねるためにお訪ねした。日本國民は現在、飢餓に瀕してゐる。もうこれ以上日本國民を苦しめないでもらひたい。米國に是非食糧援助をお願ひしたい。皇室財産の有価証券類を持参したので、その費用の一部に当ててもらひたい」と仰せられた。

 

マッカーサーは後年、「私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとした位です。もし國の罪をあがなうことが出来ればすすんで絞首台に上ることを申出るといふ、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」(重光葵氏『天皇陛下を讃えるマ元帥』)「私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなふほどの責任、それも私の知り尽くしてゐる諸事實に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けやうとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。わたしはその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(『マッカーサー回想記』)と語った。

 

マッカーサーはまた、昭和天皇を讃嘆して「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」「天皇陛下こそ新日本の生みの親である」と語ったといふ。

 

昭和天皇の大御心にマッカーサーは「骨のズイまで揺り動かす」ほどの感動を覚へたことは、占領政策に大きな影響を与へた。そして食糧援助が行はれるやうになった。實に戦争直後、國民が飢へから救はれたのは、ご自分を無にして國民を思はれる昭和天皇の御行動によるのである。日本國及び日本民族が今日あるのは、昭和天皇の御陰である。

 

小堀桂一郎氏は、「我々はこの時の陛下が、國民の悲哀と苦痛とを一身に引受け、身代りとなって敵将の絶對的威力の前に身をさらしてゐる一箇の苦しみ惱む神である、といふことを知ってゐた。この苦しむ神がその身を投げ出して我々を救って下さってゐるのだ、といふ尊い事實を直感してゐた」(『昭和天皇論・續』)と論じてゐる。

 

昭和天皇は、マッカーサーとのご會見において捨身無我の神のごとき大御心を発現されたのである。

 

「戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などといふ亀井静香氏の主張は全く根拠がなく事實無根であり、昭和天皇に対するこの上ない冒瀆である。このような人物がかつて、政権政党の中枢にゐたことは實に以て由々しき事實であった。

 

昭和天皇は、昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターから痩せ細ったお体でお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇の戦争責任」なる者を云々する輩はそれこそ「人間ではない」と小生は思ふ。

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

さらに葦津氏は、「占領以来の『天皇責任論者』は『如何に弁護しようとも、天皇が強大な大権を有しながら、大戦を防ぎきれなかった責任は、決して否定しえない』などと未だに放言している。何たる暴言であるか。強大國米國のルーズベルトにせよ、英國のチャーチルにせよ、ソ連のスターリンにせよ、ローマの法王にせよ、大戦を防ぎ得なかったものが、この地上に唯の一人でもあり得たのか。彼らがいかなる『責任』を取ったのか。ただ地上において、その責任を日本の天皇のみに求めるとは、無理非礼も許しがたい。…聖上は皇祖皇宗に対して、戦没の國民に対して、『精神的』責任の深さを痛感して『五大為に裂く』と詔された。その御痛嘆の情は、いささかも変わらず、御老齢にて御健康御不例にもかかわらず、身体御不自由の身をもって追悼式に臨ませられた。この聖上への非礼を全的に絶滅することを得ないで、聖上のお姿を拝するわれらの感慨、切々としてただ涙流るるのみ」(『神社新報昭和六十三年八月二十二日掲載論文。『天皇 昭和から平成へ』所収)と述べてをられる。

 

亀井静香氏は「葦津珍彦先生はもう亡くなられたが、私も学生時代、教えを請いに鎌倉まで通っていた」と語ってゐるが、葦津珍彦氏の「教へ」に全く反する言辞をある雑誌で二回にわたって語ったのである。實に以て許し難いと言はざるを得ない。

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