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2018年8月29日 (水)

萬世一系にして神聖なる天皇の国家統治―神話時代からの伝統

萬世一系にして神聖なる天皇の国家統治―神話時代からの伝統

 

 天皇はどういう御存在であるか、天皇が日本國を統治するということはどういうことであるのか。日本國統治の大権は建國以来、天皇にあるわけですが、天皇統治とは、権力、武力によるものではないと思います。統治とは神聖なる信仰的権威によって國民を統合し、統一することが天皇の統治であると私は思うわけです。

 

 元々、西洋成文憲法というものは、マグナカルタというイギリスの國王と貴族の契約から発祥したものです。君主と貴族の時代から経て、君民の対立の時代になってから、その対立関係をうまく調停させて契約を交わしたのが近代成文憲法の起源であり歴史です。欧米諸國はみな成文法を持つようになり、日本でも、近代化をする過程で成文法を持つ必要が生まれた。それで制定されたのが「大日本帝國憲法」です。

 

 日本という國は三千年の歴史があり、太古、神代の時代からある國の國柄というものを、西洋起源の成文法で規定してしまうこと自体無理がある。ところが明治の先人という方々は大変立派で、伊藤博文、井上毅という方たちが叡智を絞って作り上げた。西欧の法律と日本の伝統というものを良く咀嚼して、それを統合したのが「大日本帝國憲法」でした。「帝國憲法」は完璧とは言えないかもしれないけど、和魂洋才の立派な憲法だと思います。

 

 ですが、成文法で日本の天皇様の国家統治の御事を明記したということでは、「日本書紀」における天照大神が邇邇藝命に下された御神勅というものがあります。

 

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜爾(よろしくいまし)皇孫(すめみま)、就きて知らせ。さきくませ。寳祚(あまつひつぎ)のさかえまさむこと、天壌(あめつち)と窮まりなけむ」

 

 これが日本の成文憲法の起源と言えるでしょう。即ち、「豊葦原の、豊かに草木実る、米実る瑞穂の國は、吾が子孫、即ち天照大神様が御生みになった子孫、邇邇藝命が君主であるべき國である。さあ、汝皇孫よ、日本國に行って統治しなさい、皆を幸福にしなさい、天皇の位が栄えるのは天地と共に永遠であろう」と命じられたわけです。

 

「就きて知らせ」とありますが、大和言葉では他に「しろしめす」、「しらす」、「きこしめす」とも言う。統治する、の意味ですが、元は「知る」という言葉の尊敬語でもある。お知りになるということは、即ち日本の國土、國民、全てのことをお知りになるのが、天皇陛下の御役目であります。

 

知る、というのは単に知識として知るわけではなくて、全てを把握する、意識するという意味で使われる。日常生活でも、「わたしはそんなこと全然知らない」と言うのは、「自分はそういうことには一切関係ない」という意味になりますように、知る、ということには天下一切のことを認識し把握するという非常に深い意味があるわけです。全てをお知りになり、國民をあるべきところにあらしめるのが、天皇統治の本質であるわけです。

 

さらに日本の國の天皇は、自分の力で國民を統治されるのではない。天皇はあくまでも、天の神の御委任によって、地上における神の代理人として天職を奉じる、國家も國民も、神様からの御預かりものであるという大御心によって統治されるわけです。だから、ブルボン王朝やロマノフ王朝のように、人民を征服し、武力と権力でこれを支配し服従せしめるような存在では決してないのです。

 

 もう一つ「きこしめす」には、お聞きになるという意味がある。天照大神は御孫様の邇邇藝命様に天降りを命じられたわけですが、この邇邇藝命の親神、即ち天照大神の御子神は、「天忍穂耳の尊(あめのおしほみみ)」です。「耳の尊」です。また神武天皇の皇子で、第二代綏靖天皇の大和言葉での御名が、神渟名川耳(かむぬながわみみ)の尊、と言われます。このように、日本の國の天皇様は「耳」を非常に大切にされたわけです。國民がどういうことを考えているか、耳を傾けてお聞きになるということを大事にされた。

 

また天皇を「聖(ひじり)の君」とも言いますが、聖(ヒジリ)というのは、日を知る、つまり天体の動きを把握するということです。日本は農耕社会でございますから、時候の推移、季節の移り変わりというものを考察して、農業の指導に当たった。天候を知る、つまり神様の声を聞くことができるのが君主の役目だということです。國民の声、神様の声を知ることを統治の基本にする、これが「しろしめす」「みみのみこと」の意義であると思います。

 

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千駄木庵日乗八月二十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、書籍編集の仕事など。

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台湾独立について

 

台湾が中華人民共和國の一つの省になったら日本はどうなるかという悪夢を仮定して考えると、わが国が台湾に対していかなる姿勢に立つべきかが明確になる。台湾は日本が放棄しただけで、「中華民國」「中人民共和國」に渡したわけではない。『日中共同声明』でわが国政府は、「台湾が中國の領土だということを十分に理解し尊重する」と日本は言っている。しかし、「台湾が中國の一部であると承認する」とは言っていない。

 

 

 

國民党は戦後日本が引き揚げた後、日本人が孜孜営営と築いた財産を接収し、自分たちものにした。二・二八事件及びその後の大粛清によって、日本統治時代生まれの台湾各界の指導者は、殆ど虐殺された。二・二八事件の時、国民党は、鎮圧部隊(第二十一師団)を派遣し、同部隊は台湾上陸後、大虐殺を行った。三万人以上が殺されたという。殆どが知識人と大学生、高校生ばかりだった。『二・二八事件』大虐殺は、基本的には支那人の台湾人に対する『知識人狩り』であり、台湾のエリート階層に対しての殲滅戦争であった。その後ながく続いた白色テロもその延長だ。

 

 

 

日本統治時代は、法治社会はほぼ出来上がり、裁判は公平に行われていた。しかし、外来支那人支配時代は、蒋介石・経国父子の人治政治であり、白色テロによる強権政治であった。

 

台湾人は有史以来、ずっと外来支配者(オランダ・鄭成功一族・清朝・日本・蒋介石政権)に統治されつづけてきた。この運命からの解放、脱出への願望が、戦後、支那人との文化摩擦と『二・二八事件』という共同の歴史記憶を通じて、反中華の民族意識を生み出し、国民党=支那人の統治によって台湾人の民族意識を再確認したのである。

 

 

 

台湾は完全独立を達成できないでいる。国旗は青天白日旗、国歌は三民主義を讃える歌である。何よりも憲法が「中華民国憲法」なのだ。つまりいまだに戦後の占領体制下にあると言っていい。

 

台湾独立は外来者統治を終わらせ、台湾人たちが自分たちの憲法体制と法体系をもって台湾の問題を解決することである。台湾の独立とは台湾における戦後体制である。日本が「講和条約」によって独立したように、台湾も完全独立を果たし、日本などの国々と和平条約を結ばなくてはならない。

 

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2018年8月28日 (火)

潮匡人氏による「風雲急を告げる東アジア情勢―日本はどう対処をすべきか」と題する講演の内容

六月二日に開催された『アジア問題懇話会』における評論家の潮匡人氏による「風雲急を告げる東アジア情勢日本はどう対処をすべきか」と題する講演の内容は次の通り。

 

「トランプ・金正恩会談がシンガポールで行われた。トランプは親しい友人を出迎えるような仕草。本日を以て最大限の圧力は消えたということか。『金正恩とはいい関係になった』とトランプははっきり言った。今後の悪影響を心配せざるを得ない。

 

『非核化の具体化が無ければ圧力は無くさない』と安倍は言ったが、あっさりと梯子を外された。『会談はプロセス』と言うトランプの発言も注目すべし。日本政府・官邸発の不可逆的核放棄の眼に見える成果が期待される可能性は今朝の時点でかなりしぼんでしまった。

 

また『去年のような軍事的緊張にはならない』という見方が広がっているが、そこは慎重に分析する必要がある。昨年末に名前が出ていた鼻字作戦。極めて楽観的な無謀な作戦と思っていたが、現時点で考えて、ブラッテイ作戦(鼻字作戦)が起こる可能性は高まっている。

 

金正恩は就任以後、父を支えてきた側近、叔父さんを殺害処刑した人物。中國・韓国などで見せた満面の笑み、生の表情・発言を我々はテレビなどで見た。気違いではないと多くの人は思ったであろう。合理性を持つ会話の成立する人物と思われるようになった。

 

ブラッテイ作戦は全面戦争になる恐れがあったので危険と言ったが、それとは正反対になってきた。抽象的合意にとどまるか、非核化のプロセスを具体的にどうやって進めと行くのか。抽象的曖昧な合意にとどまる。金正恩が今朝渡した国書で非核化にコミットしたとしても誠実に守るのか。これまで北朝鮮が合意を守ったことが一度でもあるのか。核放棄の合意も守られなかった。翌年核実験を行った。それでもブッシュ政権は甘い姿勢だった。

 

米朝会談がどう成立しても、北朝鮮がその合意を遵守履行する事はない。今後の北の出方によっては二回目の会談かキャンセルされ、より踏み込んだ表現が出る可能性あり。

 

金正恩の発言には一貫性・合理性あり。北はアメリカの出方を読み間違えた。今後もそういうことは起り得る。お互いに相手の出方を読み間違えて大きな戦争になり得る。臨界点ぎりぎりの関係が今日でも続いている。鼻血作戦の可能性が高まっている。

 

核弾頭が三十あるとすれば解体しなければならない。問題は北朝鮮が正直に申告するのか。多くの専門家が悲観的に見ている。全面的に軍事出動すると、何処を叩くかが問題。米軍が金正恩の位置情報を知ることができるようになった。ピンポイント爆撃のカードを取って実行する可能性は昨日までより今日からの方が高まっている。平和になるのか、本当にそうなのかと疑問に私は思っている。

 

イラクの時も、アズィーズはバチカンを訪れローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談したことので戦争は起きないと言われていたが起きた。破局したら外交と言う手段では解決できなくなる。第二次朝鮮戦争が開始する可能性はある。ロナルドレーガンはすでに作戦地域に展開している」。

 

 

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千駄木庵日乗八月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理など。

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2018年8月27日 (月)

「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれていない

「日本國憲法」では、「天皇は日本國の象徴であり、國民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本國民の総意に基づく」というのが第一条であります。日本の伝統的な考え方における天皇は、「日本の統治者、統べ治める方である」と仰がれた方です。天地開闢以来、國家の統治者たる天皇の地位は変わらないものであるのを、「現行憲法」では隠蔽して、単なるシンボルとしての象徴と強調している。即ち非常に限定的な存在として規定された。

 

 天皇陛下は日本國民を一つに統合する中心的存在、空間的に國家と國民を統一、統合するという御役目を持っています。「現行憲法」もそれを否定できず、「天皇は日本國の象徴であり、國民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本國民の総意に基づく」と規定したのです。しかし、なにゆえ天皇が空間的に國家と國民を統合されるのかが、今の「憲法」には書いていない。

 

 國家・人間は空間的存在であると共に時間的存在であります。時間と空間、縦軸と横軸の中心にあるのが人間であり、國家です。「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれていない。

 

 天皇は時間的連続性、歴史的伝統性を保持しておられます。そしてそのことが、まさに日本を統一、統合できる神聖な御方である根拠なのです。

 

 天皇が日本國の歴史と伝統、また日本國民の過去、現在、未来、将来における日本國民の伝統的な意思というものを体現される方ということが、「憲法」に明確に規定される必要があると思います。

 

 「現行占領憲法」はその当時のアメリカ占領軍の中でも、左派、共産主義者に近い人が起草したといわれています。将来的には日本の君主制を廃止すべきであるという企みのもとに作られたのではないでしょうか。

 

ともかく、「國民統合の象徴」という言葉だけでは、天皇の御本質は正しく明示されない。やはり「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という「帝國憲法」の規定が正しいのです。憲法には萬世一系という歴史的伝統性が明示されなければなりません。

 

 「大日本帝國憲法」では第一条から第三条までが國體条項で、第四条以降が政体を定めています。天皇は政体においては、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」お役目である。天皇は元首であり、憲法に則って統治権を総攬しこれを行うということです。

 

 では「元首」とは何か。辞書によると、「國の首長、國家の統治者、君主」と書いている。また、「國際法上、外國に対して一國を代表する資格を持つ國家機関。君主國では君主、共和國では大統領」という定義になっております。日本はどう考えても君主國ですから、元首は天皇であると憲法に明記した方がいいわけですが、解釈改憲ならぬ解釈革命を行おうとする勢力は、「元首は天皇ではなく内閣総理大臣だ」「閣僚全部だ」と訳のわからないことを言っております。

 

ただ、英語の表記だと「ザ ヘッド オブ ステイツ」です。「ステイツ」は権力機構のことを意味し、天皇の地位は権力機構の長、を指してしまいます。どうも天皇を単なる政治的権力者にしてしまうような危険があります。しかし政体の規定として言えば、天皇は「元首」であるということになります。

 

 國家機関も成文憲法も、天皇を中心とする日本國體を基礎として成立するものであります。天皇を祭主として仰ぐ信仰共同体、祭祀國家が日本の本質でありますから、そこにおいて一億二千萬の國民が共同生活を営むための機構、制度、法律などの「政体」は日本の立國の精神、國體精神に立脚していなければならない。そういう前提を確立した成文憲法でなければならないのであります。

 

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千駄木庵日乗八月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。原稿執筆の準備など。

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「昭和天皇退位論」は、昭和天皇に対する日本國民大多数の仰慕・敬慕の念を、全く無視した主張

天皇が退位されなかったことに対して、「天皇のさうした態度が戦後日本の無責任風潮の原因だ」とか「アジア近隣諸國との歴史問題の軋轢の原因だ」とする非難は全く誤ってゐる。

 

小堀桂一郎氏は、「天皇が果たされた戰爭責任は、戰爭の収拾に成功されたといふところまでで本来は竭くされたはずである。驚嘆すべく、畏れ多いことであるが、その責任達成の御努力は、戰後の跡始末の部分にまで及んだ。…戰後度重なる占領軍司令官との御會見、そして六年にわたる全國御巡幸の旅である。戰争の全責任を引受けられ、ついで戰後復興といふ事業にも進んで責任を負擔されたことにより、今上天皇の戰前の二十年の御統治と戰後四十年の國民統合の象徴的御行動とは見事な一貫性・連續性を以て嚴としてつながってゐる。」(『昭和天皇論』)と論じてゐる。

 

昭和天皇が、疲弊し困難に立ち向かふ日果たされた戰争本國民を鼓舞激励され、國のために一身を捧げた英靈に対して常に慰靈の誠を捧げられ、且つ、宮中祭祀を続けられたそのことが、「道義的戦争責任」といふよりも「君主として天皇としての使命と責任」を果たし続けられたといふことなのである。

 

國家國民が最も疲弊し困難に陥っている時にこそ、「皇祖・天照大御神のご神勅により國家・國民を統治する使命を有する」といふ天皇としての崇高なる御自覚、すなはち「日本國の時間的連続性(歴史的傳統性)と空間的統合性の中核として君臨されてゐる天皇としての聖なるご使命」を自覚され、退位されなかったと拝察する。

 

昭和天皇様は終戦直後に次のやうな御製を詠まれて國民を励まされた。(昭和二十一年一月二十二日の歌會始でご発表)御年四十四歳。

 

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

 

敗戦の悲しみ・苦しみを降り積もる雪に喩へられ、松の緑が雪に覆はれても色を変へないで雄雄しくしてゐるやうに、日本國民もどのやうな困難に遭遇しても、くじけることなく雄雄しく生きていくことを望む、といふ大御心を示したまふたのである。國家國民が戦勝國アメリカの占領下に置かれても、日本國民としての誇りを失ってはならないといふ御心を示された拝する。この御製は國民への呼びかけであると共に、御自身の御決意の御表明でもあったと拝する。

 

昭和四十五年、昭和天皇は「七十歳になりて」と題され次のやうなお歌を詠ませられた。

 

ななそぢを迎へたりけるこの朝も祈るはただに國のたひらぎ

 

よろこびもかなしみも民とともにして年はすぎゆきいまはななそぢ

 

この三首の御製を拝すれば、「昭和天皇退位論」がいかに誤った議論であるかが、理屈ではなく了解できる。昭和天皇におかせられては、終戦以来、ただただ國家の平和と國民の幸福を祈り続けられたのである。今日、日本國が存在し、日本民族が生きてゐるのは、実に喜びも悲しみも國民と共にされた昭和天皇の仁慈の大御心によるのである。

 

昭和天皇が御不例になられ、昭和六十三年九月二十二日、皇居坂下門をはじめ全國十二ヶ所の宮内庁施設で、「お見舞記帳」が開始されて以来、一般記帳者の数は、八百萬をはるかに超へた。

 

昭和六十四年一月七日午前六時三十三分、昭和天皇は宝算八十九歳をもって崩御あそばされた。皇居前など全國の記帳所における記帳者は、一月七日から十六日までの間に二百三十三萬二千七百九十一人にのぼった。一月二十二日から二十四日まで、殯宮一般拝礼が許されたが、三日間で三十三萬九千百人が拝礼を行った。

 

平成元年二月二十四日の御大喪の儀では、御轜車がお通りになる沿道には、氷雨の中五十七萬人余の人々がお見送り申し上げた。

 

日本國民の大多数は、昭和天皇が退位されずに日本國の君主としてその責任を果たされ続けられたことに対し奉り、満腔の敬意を表し感謝してゐたことは、この事実を見れば明らかなことである。

 

「昭和天皇退位論」は、昭和天皇に対する日本國民大多数の仰慕・敬慕の念を、全く無視した発言といへやう。

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2018年8月26日 (日)

千駄木庵日乗八月二十六日

午前は、諸事。

午後は、本日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。国民儀礼。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が、「昭和天皇と大東亜戦争」と題して講演。活発な討論が行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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昭和天皇の崇高なる御自覚

 

昨日も書かせていただいたが、昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

 

昭和天皇は、「退位」について東京國際軍事裁判に判決が行われた直後、「個人としてはそう(退位)も考えるが公人としての立場がそれを許さない。國民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法とは思うが、むしろ留位して國民と慰めあい、励ましあって日本再建のために尽すことが先祖に対し、國民に対し、またポツダム宣言の主旨にそう所以だと思う。反省と考慮の末、退位によって責任はつぐないきれない。むしろすすんで留位して平和國家の建設を成就したい」と仰せになった。(昭和二十二年十二月二十四日『朝日新聞』の報道・由利静夫・東邦彦両氏の共著「天皇語録」より引用)

 

昭和二十三年十一月十二日、東京國際軍事裁判の判決があった日に、マッカーサー宛てに送られた書簡では、「今や私は一層の決意をもって萬難を排し、日本の國家再建を速やかならしめるために、國民と力を合わせ最善を尽くす所存であります」と仰せになったと承る。

 

昭和二十七年五月三日、皇居前広場で行はれた「講和条約」発効を受け独立を祝ふ「記念式典」における『お言葉』では、「この時にあたり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論を察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きに耐えんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります」と仰せになった。

 

また、「もし自分が『私』を先にするならば退位の安きにつきたいのは山々であるが、自分の位置として『私』があってはならぬと思へばこそ、このやうにして居るのである」(安倍能成氏『陛下のこと』・由利静夫・東邦彦編『天皇語録』)と仰せられた。

 

昭和天皇は、昭和四十五年四月二十四日、側近の稲田周一侍従長に「明治天皇は、大臣が辞職するのとは違って、天皇は『記紀』に書かれている神勅を履行しなければならないから退位できないと仰せられたとのことである。明治天皇の思召しは尤もであろうと思う。わたしの任務は祖先から受け継いだ此の國を子孫に傳えることである。わたしは明治天皇の思召に鑑み、苦難に堪えて義務を果たす方が國家に忠を尽すことになると思う。熟慮の上、苦難に堪え日本再建に尽す決意である。」と仰せられたと承る。(『徳川義寛終戦日記』による)

 

明治天皇を仰慕し尊敬してをられた昭和天皇は、日露戦争における明治天皇の「天皇に辞職はない」とのお言葉をかみしめてをられたと拝察する。

 

昭和天皇が、「先祖に対し」と仰せになってゐるのはまことに重要である。終戦のご詔勅において「皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ」と仰せになってゐる。天皇の御使命は、皇祖皇宗から受け継がれた日本國を統治されさらに次代に受け継がせ、日本國の永遠を保持することである。

 

皇祖・天照大御神の『天壌無窮の神勅』を奉行するために、そして邇邇藝命・神武天皇以来の道統を護持するために退位を思ひとどまられたのである。

 

君主としてのご責任を回避しご自身の地位と名誉の保全すなはち自己保全のために退位されなかったのでは決してない。天皇として君主としてのご責任を果たされるために、陛下御自ら仰せの通り「あえて自らを励まして、負荷の重きに耐えんことを期し」留位されたのである。

 

それは「戦争の道義的責任」といふよりも、もっと高次の「日本國の君主として天皇としての責任」を果たされたのである。昭和天皇は、退位されず御位にとどまられて「天皇としてのご責任」を果たされることを至上の使命とされてをられたのである。

 

葦津珍彦氏は「側近の臣、木戸日記には、陛下が御退位について洩らされたお言葉が見える。畏れ多いが、もしも陛下が、中世か上代の御帝(みかど)であれば、御退位なりご出家なさったであらう。皇室の古来の歴史事情に詳しく、陛下に最も御親近した近衛公が敗戦直前から、そのやうなことを考へたと云はれる。中世王朝風の近衛公は『失はれし政治』の一文を残して自殺した。畏れ多いが、陛下も『しばしの間』は、近衛にも似た御感慨がなかったとは断言しにくい側近記録もないではない。しかし陛下は、維新を断行して皇位の無限責任の神武の掟(おきて)を明白に復古確立して『朕に辞任は許されない』とさとされた皇祖考、明治天皇の御遺訓に深く思ひを及ばされた。死にも勝る『五内為に裂ける』艱苦の道を選び、皇祖の大道を守るとの悲壮なる御決意を固められた。この超人的な御決意は、今上の御勇気もさることながら、神武復古の大道を示し給へる明治天皇の神靈の御命令によるものであった。陛下は、玉体を裂かれる苦しみを耐へぬいても、皇祖皇宗にたいして、その精神傳統を確保し、荒廃せる祖國の立ち直りの速やかなることを朝夕祈りつづけられた」(『神國の民の心』)と論じておられる。

 

昭和天皇様が退位あそばされず、天皇としての御使命を果たされた意義は、この葦津先生の文章に尽きてゐると思ふ。

 

天皇が退位されなかったことに対して、「天皇のさうした態度が戦後日本の無責任風潮の原因だ」とか「アジア近隣諸國との歴史問題の軋轢の原因だ」とする非難は全く誤ってゐる。

 

小堀桂一郎氏は、「天皇が果たされた戰爭責任は、戰爭の収拾に成功されたといふところまでで本来は竭くされたはずである。驚嘆すべく、畏れ多いことであるが、その責任達成の御努力は、戰後の跡始末の部分にまで及んだ。…戰後度重なる占領軍司令官との御會見、そして六年にわたる全國御巡幸の旅である。戰争の全責任を引受けられ、ついで戰後復興といふ事業にも進んで責任を負擔されたことにより、今上天皇の戰前の二十年の御統治と戰後四十年の國民統合の象徴的御行動とは見事な一貫性・連續性を以て嚴としてつながってゐる。」(『昭和天皇論』)と論じてゐる。

 

昭和天皇が、疲弊し困難に立ち向かふ日果たされた戰争本國民を鼓舞激励され、國のために一身を捧げた英靈に対して常に慰靈の誠を捧げられ、且つ、宮中祭祀を続けられたそのことが、「道義的戦争責任」といふよりも「君主として天皇としての使命と責任」を果たし続けられたといふことなのである。

 

國家國民が最も疲弊し困難に陥っている時にこそ、「皇祖・天照大御神のご神勅により國家・國民を統治する使命を有する」といふ天皇としての崇高なる御自覚、すなはち「日本國の時間的連続性(歴史的傳統性)と空間的統合性の中核として君臨されてゐる天皇としての聖なるご使命」を自覚され、退位されなかったと拝察する。

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千駄木庵日乗八月二十五日

午前は、諸事。『政治文化情報』発送完了。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備、書状執筆など。

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2018年8月24日 (金)

「昭和天皇は戦争責任をとって退位されるべきであった」などといふ議論は、昭和天皇の御聖徳を否定し、戦後日本の復興を否定する妄論である。

「昭和天皇は戦争責任をとって退位されるべきであった」などといふ議論は、昭和天皇の御聖徳を否定し、戦後日本の復興を否定する妄論である。

昭和天皇はいはゆる「戦争責任」を回避されたことなど一度もない。むしろ積極的に責任を果たされるために、天皇の御位にとどまられたのである。そして「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」その責任を果たされたのである。だからこそ、その後、昭和天皇は、國民大多数そして諸外國が仰慕され尊敬され続けたのである。 

そして「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」その責任を果たされたのである。だからこそ、その後、昭和天皇は、國民大多数そして諸外國が仰慕され尊敬され続けたのである。昭和天皇はご生涯をかけて國民の幸福と平和の実現を祈られた

 

 

 

昭和天皇崩御前年の最晩年の昭和六十三年には、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

 

 

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

 

 

 

と詠ませられた。

 

 

 

昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターからお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇は戦争責任をとって退位すべきであった」などと批判する輩は、「人間ではない」と小生は思ふ。

 

 

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である。」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

 

 

昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」といふやうな次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられたのである。根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たそうとされ、また事実果たされたのである。

 

 

 

昭和天皇は、御自身の「退位問題」について、昭和二十年十月、当時の宮内次官・加藤進氏に、「この戦争によって祖先からの領土を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考へ、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全國を隈なく歩いて、國民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。わたくしとしてはなるべく早い時期に行ひたいと思ふ」と仰せになった。(加藤進氏『昭和天皇の御巡幸』・「聖帝 昭和天皇を仰ぐ」所収)

 

 

 

昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられたのである。

 

 

 

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

 

 

 

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

 

 

 

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

 

 

 

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 

 

 

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

 

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である。」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

 

昭和天皇は、御自身の「退位問題」について、昭和二十年十月、当時の宮内次官・加藤進氏に、「この戦争によって祖先からの領土を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考へ、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全國を隈なく歩いて、國民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。わたくしとしてはなるべく早い時期に行ひたいと思ふ」と仰せになった。(加藤進氏『昭和天皇の御巡幸』・「聖帝 昭和天皇を仰ぐ」所収)

 

 

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

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千駄木庵日乗八月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。『政治文化情報』の発送準備。明後日の『日本の心を学ぶ会』における講演の準備など。

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孝明天皇と石清水八幡宮

 

 

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。その宣命には、

 

「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関わりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す。」と示された。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したので慶喜の政略であったといはざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられのたのであった。

 

言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山かみもここにぞあとたれてわが國民をまもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐吹くにつけても花薄あだなるかたになびくまじきぞ」

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千駄木庵日乗八月二十三日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

午後六時、水道橋にて、永年の同志と懇談、意見交換。

帰宅後も、発送準備。

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2018年8月23日 (木)

八幡大神信仰について

 

石清水八幡宮は、宇佐神宮・鶴岡八幡宮と共に日本三大八幡宮のひとつに数へられる官幣大社である。また、「由来書」によると、伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」とされてゐるといふ。

 

神宮の鎮座する京都府八幡市の男山は、京都の南西・裏鬼門にあたり、木津・宇治・桂の三川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要地、政治上の重要な拠点に位置している。

 

石清水八幡宮の御祭神は、御本殿中央に八幡大神(誉田別尊・ほんだわけのみこと・第十五代応神天皇)、西に比咩大神(ひめおおかみさま)、 東に神功皇后(息長帯比賣命・おきながたらしひめのみこと)を祀られてゐる。本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神と申し上げる。

 

応神天皇は、仲哀天皇の第四皇子であらせれる。御母君は神功皇后。母君の胎内にあられて新羅へと往還されたが、ご帰国直後の仲哀天皇九年(三二〇)に筑紫において生誕された。水田開発など農業生産拡大を行はれつつ、文化発展、殖産興業も図られた。応神天皇の御代は、鉄の文化が普及し、日本国が大いに発展した時代で、大陸・朝鮮半島との交流を深められた。同時に軍事力も強化された。かうしたことが、応神天皇が、国難打開・武の神たる八幡神として崇められた大きな理由であらう。

 

比咩大神は、多紀理毘賣命(たぎりつびめのみこと)、市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)、多岐津毘賣命(たきつひめのみこと)の三柱を申し、天照大御神の神勅を受け宇佐島に降られ皇土守護と国威発揚の神と承る。

 

神功皇后は、仲哀天皇の皇后で、天皇崩御後、武内宿禰とはかり懐妊の御身を以て男装して海を渡られて新羅を征してこれを下し給ふた。凱旋後、応神天皇のをお産みになった。皇后であられながら、武の神として崇められてゐる。

 

八幡神が信仰されるやうになったのは奈良時代からであり、神代には登場されない神である。八幡信仰が盛んになったのは、武門とりわけ源氏の隆盛と深く関はりがあると思はれる。また、怨霊の魂鎮めとも関連があるといはれている。中世以来、討死した武将、攻められて自裁した武将及びその一族を、八幡神として祀った例が多くあるといはれる。神代以来の神々いはゆる天神地祇とはそのご性格を少しく異にしてゐるといへる。

 

八幡神がわが国最初の神仏習合神として早くから信仰された。聖武天皇は、東大寺大仏(盧舎那大仏)造立に際して、豊前国の宇佐宮に勅使として橘諸兄(従三位左大臣)を遣はし、「国家鎮護」と「大仏造立」の祈願を行はせられた。天平十九年(七四七)に八幡神の「天神地祇を率いて大仏建立に協力しよう」といふ意の神託が下された。

 

天平二一年(七四九)陸奥の国から大仏像に使ふ黄金が献上され大仏造立が完成した。聖武天皇は大変お喜びになり、この年の七月二日天平勝宝と元号を改められた。

 

黄金の発見といふ瑞祥は八幡神の神徳のよるものとされたのであらう。天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡の神霊が、紫錦の輦輿(れんよ・鳳輦のこと)に乗って入京し、東大寺の地主神として迎へられたといふ。紫錦の輦輿は、天皇のお乗り物であり、八幡神がすでにこの頃、応神天皇の御神霊であると信仰されていたと思はれる。

 

天応元年(七八一)に、八幡神に「八幡大菩薩」の神号が与へられた。延暦二年(七八三)には、「護国霊験威力神通大自在菩薩」といふ号も加へられてゐる。

神仏習合の初期現象たる「八幡神上京」は、教義・教条の理論的裏付けがあって行はれたのではない。現実が先行し、それに後から理屈がつけられたのである。まず神と仏が習合することが先だったのである。ここが日本民族の信仰生活の面白いところであり、幅が広く奥行きが深いといはれる所以である。融通無礙なのである。

 

石清水八幡宮も、創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称してゐた。明治初期の神仏分離までは「男山四八坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねた。

 

神と仏とがごく自然に同居し、同じく人々によって信仰せられて来たのが日本の信仰の特色であり傳統であらう。神と仏とを理論的教学的に識別する以前に、日本民族の信仰においては、感性において神と仏とを同一のものの変身した存在として信仰したのである。一つの家に神棚と仏壇が祀られ安置されている姿は、一神教の世界ではあり得ないと思ふ。

 

日本人が太古から継承してきた自然信仰と祖霊信仰といふ日本民族の中核信仰に外来宗教が融合されていったのである。

 

石田一良氏は「神道の原質と時代時代の宗教・思想の影響との関係は『着せ替え人形』における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。…神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる『衣装』をつけ、または『姿』をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にある」(『カミと日本文化』)と論じてゐる。卓見であると思ふ。

 

いくら外来宗教を受容したからとて、わが国の風土と日本民族の気質から生まれたすべてを神として拝ろがむ伝統信仰の中核は失はれることはなかったのである。

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千駄木庵日乗八月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。

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2018年8月21日 (火)

感謝しなければならないこと

大分以前の『クローズアップ現代』は「三浦雄一郎氏の若さの秘密」というテーマだった。登場した医師が「六十代・七十代、八十代の人でも、買い物、掃除・洗濯、読書、原稿書きをしている人は、大脳前頭葉の委縮が防げる」と言っていた。私は、毎日、買い物、掃除・洗濯、読書、原稿書きのすべて実行してきているし、これからも実行し続けなければならない。そうした境遇であることを感謝しなければならない。合掌。

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千駄木庵日乗八月二十二日

午前は、諸事。

昼は、若き友人と懇談。『壬申の乱』『二二六事件』について意見交換。

午後からは、原稿執筆。来月末の締め切りかと思っていたら、今月末締切とのこと。さあこれから頑張ろう。

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2018年8月20日 (月)

與謝野晶子のロマン精神の歌

 

海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ)となりし父母(ちちはは)の家

與謝野晶子

 

「海が恋しい。潮騒が遠くで鳴り響いているのを聞きながら育ち乙女となった父母の家が恋しい」というほどの意。

 

『恋衣』の中の一首。初出『明星』明治三十七年(一九〇四)八月号。晶子二十七歳の時の作。明治三十四年に上京し、東京での生活が約三年経過した時の歌。

 

與謝野晶子は、大阪堺の出身。本名晶(しょう)。旧姓鳳。寛の妻。新詩社に加わり「明星」に詩歌を発表。大胆な官能の解放を歌い、その奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画し、また、古典の研究にも業績を残した。著書は、「みだれ髪」「小扇」「白桜集」「新訳源氏物語」など。明治十一年(一八七八)~昭和十七年(一九四二)

 

「父母の家」とは、泉州堺の故郷の家のことである。晶子は、「海恋し」の初句切れによって少女時代への懐旧の情をロマン的に強く叙している。晶子にとって望郷の念とはすなわち海への憧れであった。

「父母の家」で聞いていた潮騒の音を東京で思い出し、懐かしく思っているのである。

 

潮騒の音と望郷の思いと一体化させるという文芸感覚は、当時においては新鮮であった。「海」は、『古事記』『萬葉集』によく登場したが、中古・中世では「海」を主題とする文藝は少なくなった。遣唐使派遣が行われなくなり、海外に行く人も減った中古時代以降、日本人は海との接触が少なくなったからであろうか。

 

「海」を歌うというのは、近代日本におけるロマン精神の開花であり、新しい時代の新しい文藝感覚である。それは同時に「古事記・萬葉時代」への回帰でもあった。

 

日本人は太古から自分が今生きている世界とは異なる世界すなわち異郷への憧れの心・「他界」へのロマン精神を持っていた。日本人は、遠くはるかな水平線の彼方に聖なる神々の世界があると信じた。その世界を「常世」「妣(はは)の国」という。そこは不老長寿の世界であり、創造の本源世界と信じられた。龍宮界伝説はその典型である。「海」は「生み」に通じるのである。

 

この歌は、望郷の念を歌うと共に、「父母の家」と歌うことによって、日本人が古来から持っている「常世」「妣の国」=生命の本源への回帰・永遠の世界への憧れの思いが自然に表白されているのである。

 

與謝野晶子の歌風は、自由奔放であった。文字通り「自由なる人永久に海を愛さむ」(ボードレール・近代フランスの詩人)なのである。

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千駄木庵日乗八月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、原稿執筆、書状執筆。

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第87回日本の心を学ぶ会

87回日本の心を学ぶ会

 

大東亜戦争の意義を考える

 

今年、平成30年は大東亜戦争の終戦七十三周年にあたります。

 

終戦から七十三年という長い時間が経過してもなお、一部の反日国家との歴史認識をめぐる争いや、憲法・国防・教育・政教問題など、わが国の国家基本問題で混迷が続いている根本原因は、戦後における戦勝国の日本弱体化政策とそれに伴う左翼革命勢力の国家破壊策謀にあります。

 

大東亜戦争について学ぶことは過去の歴史を学ぶことと同時に、現在の問題を考えることといえるでしょう。

 

しかし現在の日本は大東亜戦争とその意義について正しい理解がなされているとは到底言えません。

 

「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争でありアジア諸国に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識は教育現場や偏向マスコミによって宣伝されております。このような「東京裁判史観」はアメリカの謀略工作によって刷り込まれた「虚構」であり「物語」であります。そしてこの「虚構」「物語」は現在、「河野・村山談話」として我が国の「国是」になっております。これでは我が国は混迷と弱体化を克服するどころか、亡国の道を歩み続けることとなるでしょう。

 

今回の勉強会では「東京裁判史観」を克服するため大東亜戦争とその意義、すなわち我が国がなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてこの戦争は何をもたらしたのかを考えてみたいと思います。

(今回は文京区民センターでの開催になります。ご注意ください。)

 

【日時】平成30826日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-C会議室

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【演題】昭和天皇と大東亜戦争

 

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

             〇

この告知文は主催者が作成しました。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 九月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2018年8月19日 (日)

水本達也時事通信外信部編集委員の「米朝会談の行方」と題する講演の内容

五月三十日に開催された『新聞通信調査会講演会』における水本達也時事通信外信部編集委員の「米朝会談の行方」と題する講演の内容は次の通り。

 

「北朝鮮をどうやって取材するかは、ひたすら体力勝負。ぶら下がるしかない。去年は何時アメリカが北朝鮮を攻撃するかという報道ばかり。今年になって融和ムード。話が進んだ。去年十一月二十九日の最後のミサイル発射から最近までは、金正恩・北朝鮮が主導権を握ってきた。トランプが会談をやると通告。北朝鮮はやりたいと懇談。主導権はトランプに移った。金正恩が態度を変えた原因は制裁の強化。食糧事情は非常に厳しい。韓国に親北と言われる文在寅政権が生まれた。金正恩にとってタイミングが良かった。

 

金正恩が権力基盤を確立したと分析する記者もいる。本当にそうなのか。北は何のために核開発をするのか。すでにアメリカ・日本・韓国から先制攻撃を受けないという抑止力を持っている。金正恩の指導者としての正統性を確立するための核開発。ICBМを持つことができるようになったので後継者としての正統性確立。

 

アメリカは北朝鮮の完全非核化を求める。北朝鮮は体制保障、制裁解除もしくは核保有国として認めさせることを求める。北朝鮮の中にどのような核施設と核兵器があるのか、北が申告しないと分からないところがある。体制保障と非核化は裏表。

 

役人・技術者には権限が持たされていない。トランプと金正恩で象徴的合意をして、その後実務者で決める。

 

トランプに残されている時間は二〇十九年十一月まで。一年半時間が残されている。長いのか短いのか。何も決まらない可能性が十分にある。

 

カダフィは民衆にリンチを受け殺されたので、北朝鮮は『リビア方式』というのに敏感になり反発。ステップ一つ一つに見返りが欲しいというのが北朝鮮の主張。北を完全に非核化するのにどのくらい時間がかかるか。南アフリカの非核化認定に二、三年かかっている。去年まで戦争だのしないだのと言っていた二つの国が信用できるのか出来ないのか。日本は日朝首脳会談への布石が打てるのか」

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田久保忠衛氏による「急展開する北東アジア情勢」と題する講演の内容

四月二十八日午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて開催された『アジア問題懇話会』における杏林大学名誉教授・田久保忠衛氏による「急展開する北東アジア情勢」と題する講演の内容は次の通り。

 

「三月から四月にかけて相次いで色々な事件が起った。ワシントン・ソウル・ピョンヤン・北京の何処に観測地を置いているかによって見方が異なる。非核化は北朝鮮がこれまで言って来たこと。新しいものは何もない。テレビその他のパフォーマンスは安っぽい劇を見せられている。妹にカメラが当たっただけで、金正恩は非情な殺人鬼というイメージが薄れている。どんどん北朝鮮のトリックに巻き込まれる。その背後に中国がいる。

 

ロシア・中国が最近の二つの決議に参加したのはトランプ外交の成果。アメリカの極東における軍事的プレゼンス大きくなっている。国家安全保障問題担当大統領補佐官にジョン・ボルトンがなった。共和党のタカ派中のタカ派。『救う會』の西岡力に六回会っている。『まかしてくれ』と言って胸をたたいた。拉致問題を世界的人権問題としてとり上げようと言う人。マイク・ポンペオ国務長官はボルトンと同じタカ派。アメリカの雰囲気も変わった。トランプ・ボルトン・ポンぺオの三人のトリオで金正恩は大きなプレッシャーを受けた。

 

中国はもう一回北朝鮮と関係を緊密化する。中朝は、本当は仲が悪い。金正恩にくっついて当事者になりすまし、仲介者だとする巧妙な策略。仲介者の役割に入り込んでしまった。中国は金正恩を意のままに動かして四者会談に入り込んだ。

 

昨日(四月二十七日)の南北首脳会談は大きなニュースではなかった。ニクソン訪中以来の対中外交は、中国の民主化を期待している。ニクソンはブレジネフを締め上げるために徹底的に毛沢東を利用した。その後はそうではなくなっている。二〇〇五年以降、危険な兆候。中国は完全な膨張主義になった。アメリカの親中研究者が少なくなっている。アメリカは中国に何ら期待を持っていない。対中警戒論に収斂しつつある。軍事的展開が強くなった。

 

オバマは軸足を中東からアジアに移したが、何もやらなかった。私は、アジアでトランプがやっていることはなかなかなものと思っている。中国は対米軍事的デモンストレーションを行った。米中貿易戦争は深刻になりそう。この二月に『台湾旅行法』がアメリカ合衆国連邦議会を通過し、三月一六日にアメリカ合衆国大統領の署名を受け成立した。アメリカ合衆国および台湾の高級官僚の相互の訪問を促進する法律である。中国伸張の真っただ中でこの法律ができたことは意義がある。

 

米朝会談は事実上、米中の駆け引きになる。最近トランプは在韓米軍はアメリカのふたんになっていると言い出した。今の国際情勢は大きく変化。この際、拉致被害者を救わないとチャンスはなくなる。金正恩は殺人鬼。文在寅は二人の大統領を監獄に入れた」。

この後、活発な討論か行われた。元自衛隊高官は、「北朝鮮の非核化だけで良いのか。中国はどうする。中国も参加させて北東アジアで『INF条約』(中距離核戦力全廃条約)を作れないのか。北朝鮮の核がテロリストに渡ったらどうするのか。日米同盟しかオプション無し。トランプに頑張ってもらって、その間に日本がどんどん強国になる」。

 

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千駄木庵日乗八月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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『近衛上奏文』と赤尾敏氏の予言的中

近衛文麿が大東亜戦争末期において、如何に日本の共産化を憂へ、且つ、自己のかつての政治行動を反省してたかが分かる文章が、昭和二十年二月十四日に近衛文麿が、昭和天皇に奉呈した『近衛上奏文』である。

 

それには次のやうなことが書かれてゐた。

「國體護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。つらつら思うに我國内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。即ち國外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。」

「國内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動、及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之侯。少壮軍人の多数は、我國體と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。…共産分子は國體と共産主義の両立論を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。」

「満洲事変当時、彼等が事変の目的は國内革新にありと公言せるは、有名なる事實に御座侯。支那事変当時も、『事変永引くがよろしく、事変解決せば國内革新はできなくなる』と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。これら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は國體の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存侯。この事は過去五十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。不肖は、この間に二度まで組閣の大命を拝したるが、國内の相剋摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を容れて、挙國一体の實を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。」

 

愛國運動家とりわけ「転向右翼」と言はれる人々が、「南進論」を唱へ、意識するとせざるともかかはらずソ連の手先となって日米戦争を煽ったといふ議論がある。『近衛上奏文』にもそのやうなことが書かれてゐる。しかし、「転向右翼」の代表的存在である赤尾敏氏は、次のやうに論じてゐる。

 

「当時軍部は、戦略的にゾビエトと手を握り、全アジアから英米勢力を追放して大東亜共栄圏をつくるという野望にとりつかれていた。また政府はむろん、議會もマスコミも財界も、日本中がみんな大東亜共栄圏の甘い夢に浮かれていた。そういう時代状況のなかで、ぼくはひとりその構想に反対した。なぜならば、ソビエトはマルクス・レーニン主義で、日本の天皇制國家を認めない。それにソビエトには、まだ日露戦争の苦い記憶も残っている。それにくらべて、アメリカとは戦争したことはないし、同じ資本主義体制である。だから、英米資本主義と妥協して、むしろソビエトと戦わなければならない、と考えていた。つまり、中國の蒋介石も、反共産主義者だし、ドイツのヒットラーも、イタリアのムッソリーニも反共産主義のイデオロギーで戦っている。資本主義英米と手を握れば、世界の大多数の世論を味方にできる。日本はまず北進し朝鮮、満洲、シベリアで勢力圏を確保し、國力を充實してから、英米の列強と戦いアジアを解放すべきだ、それが道理であると。…(しかし)太平洋戦争は僕の予言どおり敗れてしまった」。(『憂國のドン・キホーテ』)

 

さらに猪野健治氏著の『評伝・赤尾敏』によると、昭和十年以降、赤尾敏氏が主宰した愛國運動団体・建國會のソ連攻撃が激しくなり、昭和十二年七月に日華事変が勃発すると、中國で起こっている抗日・排日運動の背後にはソ連の影があるとして、東京市内各所で演説會を開きビラ貼りを行なった。『滅共反ソか反米英か』といふ本に続いて発刊した『日本の外交を何とするか』(昭和十五年八月)といふ本の「序文」で赤尾氏は、「今やわが國家の内部には、軽佻浮薄な独伊追従、容共親ソ、反英米の武力的南進論が跳梁跋扈しているのでありますが、わが皇國の外交は、いかなる外國にも追従せず、毅然として自主独往の姿勢を堅持するのみならず、区々たる目先の利欲に惑わず…軽佻浮薄な独伊追従、容共親ソ、反英米の武力的南進論はわが皇國の運命を極度に誤るものであって、日本の対外國策は必ず滅共反ソを以て基本とすべきことを信じ…」と論じた。

 

昭和十六年四月十三日に『日ソ中立条約』が締結されると、赤尾氏は反対の「声明文」を発表した。それには、「一、日ソ中立条約などは一片の反故紙も同然である。ポーランド、フィンランド等が良い例ではないか。二、日ソ中立条約は日米戦争をけしかけるソ連の謀略である。三、ソ連の大きい謀略の手にだまされて軽挙主力南進をやり米ソ挟撃の危地に陥るな。…四、南進政策に便乗する『赤』の魔手を断滅せよ」などと書かれてあった。

 

これは、のちの歴史を予言してゐる文である。赤尾氏の危惧は現實のものとなった。予言は的中したのである。

 

猪野健治氏は「ソ連のスパイとして昭和十六年十月、ゾルゲと共に逮捕された尾崎秀實は、処刑前の最終陳述で赤尾の論に触れて、『今や日本は一路米英戦争に向いつつあるが、これに反対しているのは朝野に赤尾敏唯一人である』と述べたという」と書いてゐる。

 

今日の吾々は、かうした歴史に学ばねばならない。「反戦平和」を標榜する運動は今も活発である。彼らは、米軍基地反対闘争・核兵器反対運動・反自衛隊運動などを行ってゐるが、共産支那・北朝鮮の核兵器に対しては一切反対運動を展開しない。共産支那・北朝鮮の軍事侵略に対しても何の抗議も行はない。日本の安全と独立を守る運動のやうに見せかけて、實は意識するとせざるとにかかはらず共産支那・北朝鮮の侵略を助けてゐるのだ。

 

左翼の「反戦平和運動」は、共産支那・北朝鮮のわが國及び全アジアに対する侵略支配を實現するための策謀であり、共産支那・北朝鮮の手先となって日本の安全・独立・自由・繁栄を脅かしてゐるのだ。

 

戦後ずっと行はれて来た左翼勢力の「反戦平和運動」の本質は、支那事変・日米戦争を煽りつつ實は「社會主義の祖國・ソ連」を守り、アジア赤化を實現せんとした尾崎秀實と全く同じである。共産支那・北朝鮮の軍事的圧迫にさらされてゐる今日のわが祖國日本は、歴史に學び、侵略國家の謀略に嵌ることなく、祖國の独立と平和と自由を守り抜かねばならない。

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千駄木庵日乗八月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、元寇執筆の準備、原稿執筆。

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2018年8月18日 (土)

最近の警察について

大阪府警富田林署で今月12日夜、署の面会室で弁護士と接見した容疑者が逃走。今日に至るまで逮捕されてゐない。しかも報道によると、この容疑者は、これまで四回も逮捕歴があり、今回の逃走中もひったくりを繰り返していると言うという。早く逮捕しにいと何をしでかすが分からない危険がある。

 

広島県警広島中央署(広島市中区)で昨年(平成二十九年)5月、保管されていた詐欺事件の証拠品の現金8572万円が盗まれた事件もいまだに解決されてゐない。額が余りにも大きすぎるのに一年以上経過しても事件が解決しないと言うのは一体どういうことか。内部犯行なか、外部から侵入されて盗まれたのかさえ発表されていない。

 

以上二つの事件は、今日の警察に何か大きな欠陥があるのではないとか思える事件だ。

 

警察に関わることで、次元が異なるがやはり指摘しておかねばならない事がある。

 

小野次郎氏(高いので有名な寿司屋『数寄屋橋次郎』主人・小野次郎氏とは別人)という警察官僚がいる。東大法學部卒業後、警視庁教養課長、鹿児島県警察本部長、警察庁暴力団対策第一課長、内閣総理大臣秘書官(小泉内閣発足時)を歴任したエリートである。

 

何とこの人、日本共産党機関紙『しんぶん赤旗日曜版』本年(平成三十年)五月二十日号の一面に登場し、「秘書官 首相と一体 利害関係者との面会理解できない」というコメントを寄せている。

 

公安調査庁の「ホームページ」によると、「日本共産党は,第5回全国協議会(昭和26年〈1951年〉)で採択した「51年綱領」と「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」に基づいて武装闘争の戦術を採用し,各地で殺人事件や騒擾(騒乱)事件などを引き起こしました。その後,共産党は,武装闘争を唯一とする戦術を自己批判しましたが,革命の形態が平和的になるか非平和的になるかは敵の出方によるとする『いわゆる敵の出方論』を採用し,暴力革命の可能性を否定することなく,現在に至っています。こうしたことに鑑み,当庁は,共産党を破壊活動防止法に基づく調査対象団体としています」と書かれている。

 

暴力革命を捨てていない政党の機関紙に元警察官僚がコメントを寄せるというのは許される事なのであろうか。

 

ちなみにこの小野次郎氏は、鹿児島県警本部長時代の平成十一年に、「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」「自分を抜擢した恩人である西郷さんを死地に追いやった人物」として、鹿児島県人に長く批判され忌み嫌われてきた初代警視総監・川路利良の銅像を鹿児島県警本部前に建立した人物である。

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千駄木庵日乗八月十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2018年8月17日 (金)

ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實であった

第二次欧州大戦の結果、最も利益を獲得したのはソ連である。アジアにおいてもヨーロッパにおいてもソ連は、その勢力範囲を飛躍的に拡大した。ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實である。 

 

ソ連は、わが國と締結してゐた『日ソ不可侵中立条約』を一方的に踏みにじり、日本及び満州に侵攻して来た國である。そして、多くの日本國民を殺戮し、強姦し、数十萬同胞をシベリアに拉致し、強制労働を課して十数萬人を殺した國である。且つ、南樺太全千島といふわが國固有の領土を奪った國である。

 

このやうな悪逆非道の國から、一九六四年に『ソ連邦英雄』の称号を与へられたゾルゲとその手先の尾崎を、われわれ日本國民は永遠に許してはならないのである。

 

尾崎の罪の深さはわが國においてソ連のためにスパイを行なったことだけではない。彼は、わが國を戦争へと追ひ込む謀略活動を行ひ、わが國を未曾有の敗戦に導いた一つの要因を作った民族の裏切り者である。尾崎秀實は、近衛内閣嘱託といふ立場を利用して、わが國の世論や近衛内閣の政策決定に影響を与へ、支那事変・日米開戦を煽動し、わが國を敗戦へと導いた。

 

これは、レーニンの「社會主義の勝利にいたるまでの基本原則は資本主義國家間の矛盾対立を利用して、これら諸國を互ひにかみ合はすことである。」(一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長會議)といふ戦略、そして一九三五年にモスクワで開催された『第七回コミンテルン大會』において決定された「米英と日独といふ資本主義國家同士を戦はせて、双方とも疲弊させ、ソ連への圧迫を排除して上で、米英を打倒してソ連の世界制覇を實現する」といふ戦略に基づくものであった。

 

さらに昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった決議は、米英仏日独といった『帝國主義列強』を互ひに対立させ、戦争に追ひ込め、といふ戦略指令であった。日本について言へば、①日本を米國との戦争へ追ひ込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、といふことが書かれてゐたといふ。

 

ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透を図って米國との対決路線に追ひ込み、また、マスコミにも、反米英を主軸とした排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内でも、ソ連の手先によって排日機運の盛り上げが工作されてゐた。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。その協力者が、第一次近衛内閣の書記官長・風見章であった。

 

わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。張作霖爆殺事件もその真の下手人はソ連であるといふ説がある。

 

かくて、日本の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

尾崎秀實は、近衛内閣の中枢にあって情報収集や謀略活動を行ってゐただけではなく、対支那及び対米英戦争を先導する言論活動も展開した。尾崎は次のやうな論文を発表した。

 

「筆者の意図は和平の成立の可能性を論証せんとするものではない。かへつてその反対なのである。…戦の性質は遂に一方が完全なる屈服に到るまでは終結することなきをもって特質とする。旧世界の転換期における矛盾は極めて深刻である。この際最も重要なることはかゝる基本的認識に基づいて日本が一旦確立した東亜新秩序創建の路をたゆたふことなく進み続けることである。」(『転機を孕む國際情勢と東亜』・「中央公論」昭和十六年七月号)

 

「満州事変以来我國民は『非常時』と言はれ、『危機』に立つと教へられ続けて来た。しかも日本は一路軍事的威力を発揮しつゝ、東亜新秩序建設の道を邁進し続けたのである。…今やその危機は正体を日本國民の前に現はし来つたのである。日支戦争四年の後に、日本國民はアメリカの指導する全面的経済封鎖に直面したのである。今こそ日本國民は一大決心を強ひられてゐるのである。」(『危機迫る東亜』・昭和十六年十月号)

 

尾崎秀實は、「米英の植民地支配からのアジアの解放・大東亜諸民族の独立」といふ崇高な目的達成のためにこの文章を書いたのではない。「敗戦革命」即ち日本とアメリカとを戦はせ、日本が敗戦した後、日本及びアジアを赤化するといふ策略のもとに書いたのである。

 

戦後になって、反日左翼勢力は、尾崎秀實を「反戦平和のために戦ひ、官憲によって処刑された英雄」に仕立て上げた。例へば、尾崎の獄中書簡を収録した『愛情はふる星のごとく』(左翼系出版社たる青木書店発行)といふ本の「編者のことば」(柘植秀臣執筆)には「ファシストの手によってたおれた犠牲者が、ひとしく熱烈な平和愛好者であり、清純な人間愛にみちあふれた人々であったことは、彼らの行動や遺言によって知ることができるのである。…彼らが平和を守るために、人民の解放のために自己の生命をすこしも惜しまなかった…人間愛に燃えた尾崎、平和のためにたたかった尾崎のことを記録にのこしておくことは、時代的にも歴史的にも大きな意義がある…」「尾崎と松本(慎一・尾崎の親友にして日共党員)が生命を賭してたたかってきた道は、日本國民の幸福を念願するためにこそ、戦争に反対することであった」などと書いてゐる。

 

よくもまあこのやうな嘘八百が書けたものである。尾崎は、戦争に反対したことはない。引用した尾崎自身の論文に明らかなように尾崎は支那事変そして日米戦争を煽ったのだ。

 

尾崎秀實はコミンテルンの指令に基づき「社會主義の祖國=ソ連」を守るために、盧溝橋事件後に拡大論を唱へて支那事変を拡大させ、日支を泥沼の戦ひに追ひやり、同時に『日独伊三國同盟』を推進することによって日米対立・分断を實現させ、さらには『南進論』を唱へて日米開戦を誘導したのだ。

 

日本は日米戦争に敗れ、支那大陸、朝鮮半島北部、ベトナムなどの赤化は實現した。コミンテルンの手先となって日本國内で活動した尾崎秀實の目的は半ば達成された。

 

日本共産党は、今でも、「侵略戦争に反対して唯一の政党はわが党である」と誇らしげに宣伝してゐる。しかし、日本を敗戦に導いたのは、ほかならぬ「社會主義の祖國ソ連」及びコミンテルンそしてその手先どもだったのである。

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千駄木庵日乗八月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。書状執筆など。

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2018年8月16日 (木)

千駄木庵日乗八月十六日

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春日大社 慰霊の萬燈篭

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春日大社

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春日大社奉納演舞

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奈良の大仏殿

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大仏様(毘盧遮那仏)

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高野山 根本大塔

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高野山金剛峰寺御社(御社・高野山間地主の神をお祀りしている)

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高野山金剛峰寺玄関

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2018年8月12日 (日)

ソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だった

本日(平成三十年)八月十二日午後一時五十五分より、テレビ朝日で「真珠湾七七年目の真実」という番組で、日米開戦当時のアメリカ政府の中枢にソ連のスパイが数百人入り込み、日本とアメリカとが戰爭を開始すべく工作を行っておりそれず成功したというドキュメンタリーを放送した。

 

小生は、平成二十三年十二月発行の『政治文化情報』三百十三号で、要旨次のように論じた。

 

「ルーズヴェルト米大統領の周辺が共産主義者で固められてゐたのと同じく、日本でも、総理大臣時代の近衛文麿の周辺に共産主義者がゐた。

 

内閣書記官長(=現在の内閣官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者として死刑となった尾崎秀實(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍したとされる西園寺公一(中國共産党系のマルキスト)などである。

 

昭和十二年(一九三七)に内閣総理大臣となった近衛文麿が風見章を内閣書記官長に抜擢した時は、風見と全く面識がなかったといふ。風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣の嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

戦後になると風見は、昭和三十年(一九五五)一月にマルクス・レーニン主義政党である左派社會党に入党した。また、日ソ協會副會長、日中國交回復國民會議理事長、アジア・アフリカ連帯委員會代表委員、世界平和評議會評議委員として活動した。しかも風見章は尾崎秀實を「マルクス主義の殉教者」と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」 (『改造』昭和二十六年五月号) と書いた。風見が完全なる共産主義者であったことは明白である。

 

西園寺公一(公望の孫)は、イギリスのオックスフォード大學でマルクス主義の洗礼を受けたといはれる。近衛内閣が成立すると外務省嘱託・内閣嘱託を歴任した。尾崎秀實と共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それが「國家機密漏洩」であるとして、「ゾルゲ事件」に連座したとされ、禁錮一年六月、執行猶予二年の判決を受けた。西園寺は昭和三十三年(一九五八)に日本共産党に入党する。日中共産党が対立状態になり、昭和四十二年(一九六七)二月、日共を除名された。西園寺もまた完全なる共産主義者であった。

 

近衛文麿は何故このやうな人物を内閣の中枢である書記官長そして機密を知り得る立場にあった内閣嘱託に任命したのであらうか。有体に言って近衛文麿は脇が甘かったと言はざるを得ない。

 

さらに小生は、平成二十四年二月十日発行の『政治文化情報』第三百十四号で次のように論じた。

 

「風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

『根本瑛』(根本瑛先生追憶の書編纂委員會編)に収録されている愛國維新運動に挺身されてきた方々の根本瑛氏への追悼文に、風見章のことに触れた次のやうな文章があった。

 

塙三郎氏『そのころの先生(注・根本瑛氏)は、一つにも二つにも風見章に尽くしていた。風見に尽くす事は、國に尽くすと同意語であると確信していた。久しくして、風見に裏切られた時に、その倍に増して、風見を恨んだ。…戦後の風見は完全にその本性を現わした。彼は、尾崎秀實やゾルゲと共にして日本を裏切った人物であった。』

 

中村武彦氏『(注・根本瑛氏に)二度目にお目にかかったのは大東亜戦争の敗色すでに決定的となりつつあった十九年の秋であった。本間憲一郎先生の御伴をして帝國ホテルへ行った時…根本先生が居られて暫くお話をされた。…両先生の御話しをうかがっていた中に、風見章氏のことが出て両先生とも異口同音にその変節を嘆いておられたのが、強く記憶に残っている。根本先生は政治家風見章の後援者として知られ、風見氏の今日あるは先生のおかげだと云われていた。私どもも風見氏の行動を苦々しく思っていたのであるが先生にしてやはりその嘆きがあるのかと痛感したことは忘れられない。』

 

鈴木善一氏「國際共産主義運動の思想から、天皇制の廃止、共和制への移行を唱道したのが日本共産党であり、当時近衛内閣の書記官長としてスパイゾルゲ、尾崎秀實、西園寺公一、野坂参三らと行動を共にしたか、少なくとも便宜を計ったのが風見章である。根本博士は現状打破の点で風見の革新思想と一脈相通ずるかに見えたが、風見は共産主義、社會主義を友とし、長男は共産主義者であるということから、根本博士は風見と絶対に袂を別つことを決意し、晩年色々な人が両者の間を調停したが、頑としてこれだけは操守した。」

 

このやうに、同時代に生きた方々の証言を読めば、近衛文麿の側近だった風見章は、尾崎秀實と同志的関係にあり、尾崎のいはゆる「敗戦革命工作」に協力してゐたことは確實である。

 

尾崎秀實自身、処刑の直前に、自主的に意見を述べ、『自分は長く仮面をかぶった危険な潜行運動をした…自分たちの日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、擾乱は起こり、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である。』と書き、『大東亜新秩序社會』が戦争の後に現れて、『世界共産革命』の一端を形作るという満足感を以て死に赴いたといふ。(保阪正康氏著『昭和史七つの謎』より引用)

 

尾崎秀實自身もその『獄中手記』に「内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり又此等の人達と話をする機會も多かった訳でありまして私はこれ等に依って現實の政治が如何に動きつつあるかを確實に知ることが出来ました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から此の重大な転換期に於ける國の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。」と書いてゐる。

 

近衛内閣の内閣書記官長・秘書官・内閣嘱託といふ内閣中枢に「資本主義國家同士を戦争させ、共産國家が漁夫の利を得て、アジアそして世界を赤化する」といふ世界革命戦略を實行しつつあったソ連のスパイ・工作員・同調者たちが入り込み、対米英戦誘導や情報収集などの工作を行ってゐたのである。そして、日支及び日米関係分断を図ったのである。實に以て戦慄すべき事態であった。近衛文麿氏の『上奏文』における痛切なる反省の弁通りの事態であった。

 

内閣の中枢にソ連・國際共産主義運動組織のスパイ・工作員が入り込んでゐたのだから、参謀本部や陸海軍省などにも工作員が潜入してゐたと推測することができる」。

 

このやうに、わが国もアメリカもソ連の謀略によって戦争に追い込まれたのである。謀略活動を行ったソ連、そして戦争終結後もっとも領土を広げ覇権を広げたソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だったのである。

 

              〇

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千駄木庵日乗八月十二日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆の準備、明日から三日間の出張の準備。

夕刻、谷中にて、親族と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと、石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。

この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければなならない。

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千駄木庵日乗八月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2018年8月11日 (土)

第87回日本の心を学ぶ会

87回日本の心を学ぶ会

 

大東亜戦争の意義を考える

 

今年、平成30年は大東亜戦争の終戦七十三周年にあたります。

 

終戦から七十三年という長い時間が経過してもなお、一部の反日国家との歴史認識をめぐる争いや、憲法・国防・教育・政教問題など、わが国の国家基本問題で混迷が続いている根本原因は、戦後における戦勝国の日本弱体化政策とそれに伴う左翼革命勢力の国家破壊策謀にあります。

 

大東亜戦争について学ぶことは過去の歴史を学ぶことと同時に、現在の問題を考えることといえるでしょう。

 

しかし現在の日本は大東亜戦争とその意義について正しい理解がなされているとは到底言えません。

 

「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争でありアジア諸国に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識は教育現場や偏向マスコミによって宣伝されております。このような「東京裁判史観」はアメリカの謀略工作によって刷り込まれた「虚構」であり「物語」であります。そしてこの「虚構」「物語」は現在、「河野・村山談話」として我が国の「国是」になっております。これでは我が国は混迷と弱体化を克服するどころか、亡国の道を歩み続けることとなるでしょう。

 

今回の勉強会では「東京裁判史観」を克服するため大東亜戦争とその意義、すなわち我が国がなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてこの戦争は何をもたらしたのかを考えてみたいと思います。

(今回は文京区民センターでの開催になります。ご注意ください。)

 

【日時】平成30826日 午後6時から

 

【場 所】文京区民センター 2-C会議室

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2

 

【演題】昭和天皇と大東亜戦争

 

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

             〇

この告知文は主催者が作成しました。

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先帝陛下・今上陛下の靖国神社に対する大御心は春秋の「例大祭」への勅使差遣に示されてゐる

 

靖国神社に対する、先帝陛下・今上陛下の大御心は、昭和殉難者が祀られてゐるとお分かりになった上で、靖国神社の春秋の例大祭に勅使を差遣されてゐたことに示されてゐる。この事実は揺るがない。

 

また毎年終戦記念日に武道館で行はれてゐる「全国戦没者追悼式典」で追悼の対象となる戦没者には昭和殉難者も含まれてゐる。昭和天皇は崩御される前年の昭和六十三年八月十五日の『全国戦没者追悼式』に病をおして御臨席になった。弱られた身体でヘリコプターをお降りになり、式典会場にもたどり着くやうにしてご親臨あそばされた。あのお姿は瞼に焼きついて離れない。「A級戦犯がどうのこうの」と論ずる余地はない。

 

以上の事実を拝すれば、「昭和殉難者が合祀されたから、天皇の靖国神社尊敬の御心がなくなった」とすることはできない。

 

昭和天皇は昭和殉難者の靖国神社合祀を否定されたのではない。まして、靖国神社を否定されたのでないことは明々白々たる事実である。繰り返し言ふ。昭和天皇の大御心は、崩御されるまで靖国神社に勅使を差遣されてゐた事に正しく示されてゐる。

 

靖国会の事務局長をしてをられた藤沢越氏から「靖国神社に祀られてゐる神は、神話の神様でもなければ偉人聖人でもない。普通一般の庶民である。多くは農民であり、市井の一般庶民である。中には前科者もゐただらう。ヤクザもゐただらう。聖人君子ばかりだったわけではない。戦争で斃れた人々即ち国の爲に命を捧げた人々の御霊が祀られてゐるのだ」といふ言葉を聞いて感激したことがある。靖国の英霊とは国の爲に殉じた尊い御霊なのである。

 

戦勝国の復讐によって「処刑」されたり「獄中死」した殉難者が祀られてゐるから「参拝しない」とか「祭神から取り外せ」などといふのは余りにも理不尽である。先帝陛下がそのやうな御心をお持ちになってゐたなどといふ事は絶対にあり得ない。

 

昭和殉難者について昭和天皇はかう仰せになってゐる。

「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)

「戦犯といえども米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉

「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの会見・昭和二十年九月二十七日)

 

このやうな無私にして仁慈の大御心を示された先帝陛下が、「富田メモ」に書かれてゐるやうなご発言をされるとは到底信じられない。富田氏の創作であろう。

 

先帝陛下は東條英機元総理について「東條は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東條に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、ただ真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く。」(『昭和天皇独白録』・文藝春秋刊)と仰せになってゐる。

 

東條由布子さんは「昭和天皇さまからは東條はいろいろなお気遣いを賜っておりました。昭和二三年一二月二三日に七人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜の御品を頂戴し、また“東條の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きました時は、感動で胸が一杯になったことを覚えております。ですから、陛下が“富田メモ”にあるような事を言われる御方とはとても思えないのです」と語ってゐる。

 

先帝陛下が、昭和五十年のご親拝以降靖国神社にご親拝されなくなったのは、昭和殉難者が合祀されたからであるいふことはあり得ない。先帝陛下は、東條英機氏などの昭和殉難者に対して悪感情を持ってをられたなどといふことはあり得ない。

 

今上陛下も同様であると拝し奉る。今上陛下におかせられても、靖国神社に勅使を差遣され、『全国戦没者追悼式』にご親臨あそばされてゐる。また、南部利昭靖国神社第九代宮司が就任する際、今上陛下から特に御依頼がありお受けしたと承ってゐる。今上陛下におかせられも昭和殉難者が祀られてゐるからといって、靖国神社を尊崇してをられないといふことはあり得ない。むしろ靖国神社を尊崇し御心配になってをられると拝察する。

先帝昭和天皇、今上天皇が、戦没者追悼式にご親臨あそばされ、靖国神社に勅使を差遣されていたといふことこそ、先帝そして今上天皇の大御心である。

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千駄木庵日乗八月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料整理など。

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2018年8月10日 (金)

オピニオン誌 伝統と革新

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オピニオン誌 伝統と革新

四宮正貴責任編集

30号 平成三十年  

 目次

[特集]危機打開の方策を問う

内憂外患にどう立ち向かうか

「巻頭言」国家的危機を打開する道は 自主国防体制の確立である            四宮正貴

「インタビュー」

 日本が解決すべき課題と進むべき道を考える                     平沢勝栄

 日本が危機に向かうときに真の保守とは何か、そしてその役割とは何かを考える    城内 

「朝鮮半島」という危機状況を考えるー。                     渡辺利夫

「佐藤優の視点」シンガポール米朝首脳会談後に日本が直面している危機        佐藤 

 「米朝蜜月戦略」は対中牽制                           遠藤 

 我が国の内憂外患は、明治維新前の幕末と同様に、極めて厳しい           西村眞悟

 激動の国際情勢と日本外交の課題                         東郷和彦

 北朝鮮問題にどう向き合うべきか                         武貞秀士

 北朝鮮問題と米中露の“新冷戦時代”                       河添恵子

 この危機をどうする。戦後日本への洗脳教育により、虐殺された大和魂        酒井信彦

最後の御奉公 時代劇の再生は日本の再生                     花房東洋

自衛官暴言を戦前回帰と妄言                           岡村 

グローバリストが国を滅ぼす                           坪内隆彦

「聞き書き」

アジアを代表して西洋列強に抵抗した日本。その誇りを取り戻し、戦後体制から脱却を 山際澄夫

「フェイク」が国を誤らせるー「米朝会談」に垣間見た日本外交とメディア      上杉 

「提言・直言」

内憂外患に立ち向かうためには                          小林興起 

“この国”は健全に機能しているか…。

「政治はみんなのため」その原点に立ち返って“いま”を考証する      佐藤公治

米朝首脳会談から我が国は何を考えるべきか                    長尾 

内憂外患 ピンチをチャンスに。今こそ日本の出番です                伴野 

「連載」

防衛装備の非国産化は亡国の第一歩だ                       木村三浩

『やまと歌の心』                              千駄木庵主人

石垣島便り24 草刈りしながら思った。米朝会談を終えた、金正恩の心のうちは?  中尾秀一

「憂国放談」第二回 野村秋介大人没後二十五年によせて              犬塚博英

「伝統と革新」バックナンバー一覧                            

取り扱い書店様一覧                                   

編集後記  

定価 本體価格1000円+税。 168頁

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 

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大東亜戦争の意義と『終戦記念日』

 毎年八月十五日の『終戦記念日』が近づくと思うことは、『終戦記念日』が「一億総懺悔」の暗く、重苦しく、憂鬱な日になってしまっていることである。これは、偏向マスコミ・左翼文化人たちをはじめとする反日勢力による『大東亜戦争侵略論』『戦没者は侵略戦争の駆り立てられた犠牲者』という宣伝が功を奏しているからである。

 

 しかし『終戦記念日』は断じて一億総懺悔の日ではない。先帝・昭和天皇陛下の『終戦の大詔』に、「道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓って國体の精華を発揚し世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし」と示されているとおり、祖國日本の正しき発展のための出発の日である。

 

 先帝陛下は『終戦の大詔』においてさらに「同胞排擠(はいさい)互に時局を乱(みだ)り為に大道を誤り信義を世界の失ふが如きは朕最も之を戒む」と示されている。

 

このお言葉はまさに今日の日本の現状をそのまま予言されていると拝するべきである。先帝陛下の大御心を疎んじ奉ってきたことが、今日の日本の混迷の原因である。『終戦記念日』において道義國家建設の誓いを新たにするのが、政治家はもちろん全國民の義務であり責任である。

           

 祖國日本が近代において、欧米列強の侵略支配に抗して祖國の独立を維持し続けただけでなく、アジア解放に努力した歴史に対して、日本國民が誇りを持ち、先人たちに感謝し慰霊すべきなのである。

 

しかるに、今日の日本の多くの國民が、國内外の反日勢力の洗脳・宣伝によって、東京裁判史観・大東亜戦争侵略戦争論に汚染され、祖國への誇りと自信を喪失している。そして、日本近代史を「近隣諸國への侵略の歴史であった」として罪の意識のみを持ち先人を冒する風潮が横溢している。こうしたことは一刻も早く是正されねばならない。

 

 我々日本國民が日本近代史をどうとらえるかが、今日の日本人の精神構造やその國家観に大きな影響を与え、現実の政治・外交・教育など全てにわたることを規定する。

 

 近代日本が弱肉強食の世界で生き抜き、西欧列強の侵略に抗して独立を維持していくために、「富國強兵」「殖産興業」の合い言葉のもと近代國家建設を行ったことは、わが日本民族が誇りにすべき事実である。また、明治維新以後の日本の海外進出そしてその到達点としての大東亜戦争が、日本の一方的な侵略であったという歴史観は全く誤りである。

 

 近代日本史および大東亜戦争の正しき意義を認識し、國内外の亡國勢力・反日勢力を一掃することが、國家民族の緊急の課題である。

 

 一五世紀から一七世紀前半にかけて西欧諸國が航海・探検により海外進出を行った大航海時代から白人による世界支配が開始され、特に一九世紀の最後の四半世紀は帝國主義植民地獲得競争の最盛期であり、アフリカ全土が分割され、アジア・太平洋地域のほとんどが欧米の植民地となった。

 

 白色人種の帝國主義植民地獲得競争の波を世界で初めて阻止したのが日露戦争であり、今まで圧迫されてきた有色人種のナショナリズムを覚醒させ、各地に独立運動を発展させる端緒となった。

 

 シンガポールは英國のみならず白色人種のアジア支配の象徴であった。大東亜戦争開始直後における日本軍によるシンガポール陥落は、欧米のアジア支配の終焉を告げる弔鐘であった。チャーチルも「英帝國が終焉した理由は、英軍がアジア人の前で日本軍に惨敗したからである」と述べた。東南アジア諸國が独立したのは大東亜戦争が契機となったのであり、やがて植民地独立の波は全世界に広がり、アフリカに及んだ。

 

 欧米の植民地支配を終末に導いた日本に憎しみをぶつけ、再び日本が欧米の覇権を揺るがせないように弱体化しようとしたのが連合國の日本弱体化政策であり、その第一歩が「東京國際軍事裁判」であり、これに続くものが「占領憲法」であった。

 

 東京裁判では帝國主義植民地獲得競争の時代を除いて満洲事変以降のみを裁判の対象とし、日本に対する米英蘭などの包囲陣の形成と経済圧迫などの挑発や、支那における共産勢力の浸透の脅威に関する反証資料の多くを却下した。日本無罪論を唱えたインドのパール判事などの少数意見を無視し、筋書き通りに大東亜戦争を日本の軍部を中心とする共同謀議による侵略戦争として専ら日本を断罪した。

 

 戦勝國の日本占領政策は、東京裁判・神道指令・憲法の押しつけ・厳格な言論統制などを通じて日本人の精神面の弱体化を徹底した。有史以来未曾有の敗戦と異民族支配に動顛した日本は、東京裁判史観即ち大東亜戦争侵略論に汚染され、それは今日に至るまで続いている。

 

 戦争については國家意思が何処にあったかで判断すべきである。『開戦の詔書』には『自存自衛』『東亜の安定の確保』『世界の平和に寄与』『萬邦共栄の楽を偕にする』と示されている。白色人種の植民地だった東亜の解放が戦争目的だったのである。我ら日本人は、日本が白人優位の世界秩序を変えたことを誇りに思わなければならない。

 

 日本の國の歴史に誇りを持つとは、歴史の中に生きた先人たちを大切にし、顕彰することにほかならない。大東亜戦争に殉じた英霊を崇敬し慰霊顕彰し、その遺徳を追慕するのは日本國民の心情である。皇軍兵士の勇戦奮闘は、わが國民が子々孫々に語り継ぐべき誇りである。

 

 その國の國民が祖國の歴史を如何に見るかは、その國の将来を決定する要素である。反省と謝罪の意識に責め苛まれる日本は亡國の道を歩むしかない。日本の國を愛し、日本の國の歴史に誇りを持つことが、今後の日本の発展と國民の幸福の基礎である。

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千駄木庵日乗八月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年8月 9日 (木)

昭和天皇と大東亜戦争

 

「終戦記念日」が近づいてきた。偏向メディアや國體破壊勢力は、「昭和天皇の戦争責任」なることについてまた色々と書き立て言い立てるであろう。否、偏向メディア・國體破壊勢力だけではない。保守政治家と言われる人物にも、先帝・昭和天皇陛下に対し奉り、「戦争責任」なるものを責め立てる人物がいる。亀井静香氏であ。亀井氏は、ある雑誌の平成二十八年十月号において、「昭和天皇は戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」と語った。

 

実に以て許し難い発言である。

 

昭和天皇は、大東亜戦争のいはゆる「戦争責任」をご自分一人で果たさうとされた。昭和天皇は、敗戦直後の昭和二十年八月二十九日午後十一時四十分、木戸幸一内大臣を呼んで次のように仰せになった。

 

「戦争責任者を連合國に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人が引き受けて退位でもして納めるわけにいかないだらうか」「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(『木戸日記』・昭和二十年十二月七日)〉

 

すると木戸氏は「御退位を仰出さることは、皇室の基礎に動揺をまねき、その結果民主的國家組織(共和制)論を助成する恐れもある。十分慎重に相手方の出方を見て考究遊ばさるる要あるべし」と奉答した。(児島襄氏著『天皇』第五巻および高橋紘氏『象徴天皇』)

 

この木戸氏の奉答は正しい。もし、昭和天皇が終戦直後に「戦争責任を果たす」といふ理由で退位された場合、大変な混乱に陥ったであらう。

 

東久邇宮内閣は東條大将自決未遂を知ると、九月十二日朝、閣議を開き、戦争犯罪人を日本側で裁くことを決めた。東久邇宮首相が参内してこの「自主裁判」決定を上奏すると、昭和天皇は「敵側の所謂戦争犯罪人、ことに所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て処断するは不忍ところなる故、再考の余地なきや」と仰せになった。(児島襄氏著『天皇』第五巻)

 

昭和二十年九月二十七日に、昭和天皇はマッカーサーをお訪ねになり、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されてゐるが責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうならうと構はない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか國民が生活に困らぬやう、連合國の援助をお願ひしたい」「私は、國民が戦争を成し遂げるにあたって、政治、軍事の両面で行なったすべての決定と行動に対する、全責任を負ふ者として、私自身をあなたの代表する諸國の裁きにゆだねるためにお訪ねした。日本國民は現在、飢餓に瀕してゐる。もうこれ以上日本國民を苦しめないでもらひたい。米國に是非食糧援助をお願ひしたい。皇室財産の有価証券類を持参したので、その費用の一部に当ててもらひたい」と仰せられた。

 

マッカーサーは後年、「私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとした位です。もし國の罪をあがなうことが出来ればすすんで絞首台に上ることを申出るといふ、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」(重光葵氏『天皇陛下を讃えるマ元帥』)「私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなふほどの責任、それも私の知り尽くしてゐる諸事實に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けやうとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。わたしはその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(『マッカーサー回想記』)と語った。

 

マッカーサーはまた、昭和天皇を讃嘆して「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」「天皇陛下こそ新日本の生みの親である」と語ったといふ。

 

昭和天皇の大御心にマッカーサーは「骨のズイまで揺り動かす」ほどの感動を覚へたことは、占領政策に大きな影響を与へた。そして食糧援助が行はれるやうになった。實に戦争直後、國民が飢へから救はれたのは、ご自分を無にして國民を思はれる昭和天皇の御行動によるのである。日本國及び日本民族が今日あるのは、昭和天皇の御陰である。

 

小堀桂一郎氏は、「我々はこの時の陛下が、國民の悲哀と苦痛とを一身に引受け、身代りとなって敵将の絶對的威力の前に身をさらしてゐる一箇の苦しみ惱む神である、といふことを知ってゐた。この苦しむ神がその身を投げ出して我々を救って下さってゐるのだ、といふ尊い事實を直感してゐた」(『昭和天皇論・續』)と論じてゐる。

 

昭和天皇は、マッカーサーとのご會見において捨身無我の神のごとき大御心を発現されたのである。

 

「戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などといふ亀井静香氏の主張は全く根拠がなく事實無根であり、昭和天皇に対するこの上ない冒瀆である。このような人物がかつて、政権政党の中枢にゐたことは實に以て由々しき事實であった。

 

昭和天皇は、昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターから痩せ細ったお体でお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇の戦争責任」なる者を云々する輩はそれこそ「人間ではない」と小生は思ふ。

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

さらに葦津氏は、「占領以来の『天皇責任論者』は『如何に弁護しようとも、天皇が強大な大権を有しながら、大戦を防ぎきれなかった責任は、決して否定しえない』などと未だに放言している。何たる暴言であるか。強大國米國のルーズベルトにせよ、英國のチャーチルにせよ、ソ連のスターリンにせよ、ローマの法王にせよ、大戦を防ぎ得なかったものが、この地上に唯の一人でもあり得たのか。彼らがいかなる『責任』を取ったのか。ただ地上において、その責任を日本の天皇のみに求めるとは、無理非礼も許しがたい。…聖上は皇祖皇宗に対して、戦没の國民に対して、『精神的』責任の深さを痛感して『五大為に裂く』と詔された。その御痛嘆の情は、いささかも変わらず、御老齢にて御健康御不例にもかかわらず、身体御不自由の身をもって追悼式に臨ませられた。この聖上への非礼を全的に絶滅することを得ないで、聖上のお姿を拝するわれらの感慨、切々としてただ涙流るるのみ」(『神社新報昭和六十三年八月二十二日掲載論文。『天皇 昭和から平成へ』所収)と述べてをられる。

 

亀井静香氏は「葦津珍彦先生はもう亡くなられたが、私も学生時代、教えを請いに鎌倉まで通っていた」と語ってゐるが、葦津珍彦氏の「教へ」に全く反する言辞をある雑誌で二回にわたって語ったのである。實に以て許し難いと言はざるを得ない。

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千駄木庵日乗八月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、書状執筆、資料の整理など。

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2018年8月 8日 (水)

『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』を参観して

本日参観した『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』は、「縄文時代が始まったとされる約13000年前。狩猟や漁撈、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では『縄文の美』をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な『美のうねり』をご体感ください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「木製網籠縄文ポシェット」(重文)「土製耳飾り」(重文)「火焔型土器」(国宝)「土偶・縄文のビーナス」(国宝)「遮光器土偶」(重文)「人形装飾付有孔鰐付土器」(重文) 合掌土偶」(国宝) 「ハート形土偶」(重文)「石棒」(重文)などを参観。

 

縄文時代は一万三千年前が一万年続いたと言ふのだから、まさに悠久の太古の美術品である。美術品というよりも、古代日本人の生命力・魂のエネルギーが吹き出した結晶のやうに思へる。古代日本人と日本の大地が生み出した力強さが感じられた。弥生時代は洗練された文化であり縄文時代は素朴な文化といふ先入観があったが、まったくさうではないと思った。縄文時代の土偶も装飾品もきわめて手の込んだ造形であり、技術である。古代日本人の造形力の豊かさを実感した。

 

「土偶」は精霊を表現したものと言ふが、女性像が多いので、農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多いといふ。「遮光器土偶」はアメリカ映画の「グレムリン」を彷彿させるものがあったが神秘的な像であった。合掌土偶」と言ふのを見たが、大いなるものに手を合わせ祈るといふ風習は太古以来のものであるらしい。「動物型土製品」と言ふのもいくつか展示されてゐたが。蛇や猪が多かった。この二つは良い意味でも悪い意味でも畏怖の対象であったのであらう。「ハート形土偶」(重文)は岡本太郎氏の「太陽の塔」に似ていた。「石棒」(重文)は男性性器をかたどっている。生産の豊穣を祈る祭器である。「国生み神話」を思い出した。

 

一万年以上前に造られたものではあるが、時間を超えた感動を与えるのが縄文文化であると実感した。今日このような迫力のある芸術作品はあるであらうか。

 

この『縄文展』では、日本の天地自然には神が生きていたまうということを実感した。そして日本国の生成は、まことに麗しい歴史であることを実感した。神々への祭りと祈りが国家生成の根本になっていることを実感しました。太古の日本人は、豊かなる日本の自然と共に生き、自然に宿る神々を祭り、神々に祈りつつ生きていたと思う。神国日本というのは決して嘘ではない。

 

 

 

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千駄木庵日乗八月七日

午前は、諸事。

 

午後は、上野公園の東京国立博物館平成館で開催中の『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』参観。

 

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帰宅後は、原稿執筆など。

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2018年8月 7日 (火)

橋本左内について

橋本 左内(はしもと さない、天保五年三月十一日(一八三四年四月十九日)―安政六年十月七日(一八五九年十一月一日))は、越前国福井藩士である。景岳と号し、諱は綱紀。父は橋本長綱、母は小林静境の娘。実弟は明治における陸軍軍医総監・男爵 橋本綱常。著書には十五歳の時に志を認めた『啓発録』がある。明治二十四年、贈正四位。

 

越前国に生まれる。嘉永二年(一八四九年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。

 

安政四年(一八五七年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。第十四代征夷大将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。

 

幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、開国か攘夷で揺れる幕末期に活躍した人物であり、英才である。

 

安政六年(一八五九年)、主君・松平春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、左内自身も安政の将軍継嗣問題に介入した事が問はれ、南紀派で大老となった井伊直弼が発令した安政の大獄で斬首された。享年二六。

 

左内の処刑は藩主松平慶永の身代りといふか井伊直弼の慶永公に対する圧迫策であるといはれてゐる。左内は井伊大老誅殺後、罪を許され、遺骸は福井に移された。

 

墓所は東京都荒川区の小塚原回向院と、福井県福井市の善慶寺とにある。小塚原回向院には『橋本景岳之碑』が建立されてゐる。小塚原回向院のある地は、江戸時代の刑場跡で、回向院は、寛文七年、本所回向院の住職・弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺である。開創から刑場が廃止された明治元年までの二百二十余年間に二十四万の遺体が葬られたといふ。大部分は重罪者で、ここで行はれた刑は獄門・磔・火あぶりといふ極刑であり、処刑者の埋葬は簡単に土をかけるだけといふもので、悪臭が漂ひ、野犬・野鳥が群がったといふ。何とも恐ろしい話である。

 

回向院に入り行くとすぐ左に橋本左内の墓がある。その隣りには、『橋本景岳之碑』が建てられてゐる。明治十七年の建立で、三条実美篆額・重野安繹撰・巌谷修書。

 

左内は次のやうな詩を残してゐる。

 

「二十六年は夢の如くにして過ぐ 顧みて平昔を思へば感ますます多し 天祥の大節は嘗て心折(くじ)きぬ 土室猶吟ず正気の歌」

 

「常山の髪 侍中の血 日月も光をつつみ 山河も色を改む 生きては名臣となり 死しては列星となる」(支那古代の忠臣に倣って自分も生きているうちは謀反人と戦ひ、死んでも忠臣の名をとどめたいといふ意)である。

 

吉田松陰・橋本左内のお二人は同じ運命を辿りお互ひに尊敬してゐたのだが、生前一度も會ったことはなかったといふ。

 

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千駄木庵日乗八月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、書状執筆、資料の整理など。

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種子法(主要農作物種子法)廃止に抗議し、同法復活と併せて必要な施策を求める要望書

種子法(主要農作物種子法)廃止に抗議し、同法復活と併せて必要な施策を求める要望書

 

 今年(平成三十年)四月、安倍内閣によって種子法(主要農作物種子法)が廃止された。この種子法は、米麦大豆などの主要農作物の種子の生産と普及を国と県が主体になって行うことを義務付けた法律である。この法律のもとで、これまで国が地方交付税等の予算措置を講じ、県が種子生産ほ場の指定、生産物審査、原種及び原原種の生産、優良品種の指定などを行うことによって、良質な農作物の安価で安定的な供給に寄与してきた。

 

 しかし、安倍首相は、この種子法が、民間企業の公正な競争を妨げているとの理由で、突如廃止を言い出し、国会での十分な審議も経ぬまま、昨年三月可決成立させてしまった。

 

 今後種子法廃止によって、外資を含む種子企業の参入が加速し、種子価格の高騰、品質の低下、遺伝子組み換え種子の流入による食物の安全性への不安、長年我が国が税金による研究開発で蓄積してきた種子技術の海外流出、県を主体にすることで維持されてきた種子の多様性や生態系、生物多様性への影響など、数多くの弊害が危惧されている。

 

 こうした懸念を受けて、「種子法廃止法案」では、付帯決議として「種苗法に基づき、主要農作物の種子の生産等について適切な基準を定め、運用する」「主要農作物種子法の廃止に伴って都道府県の取組が後退することのないよう、・・・引き続き地方交付税措置を確保し、」「主要農作物種子が国外に流出することなく適正な価格で国内で生産されるよう努める」「消費者の多様な嗜好性、生産地の生産環境に対応した多様な種子の生産を確保すること。・・・特定の事業者による種子の独占によって弊害が生じることがないように努める」ことなどが記されているが、どれも努力義務で法的強制力はないばかりか、早くも政府は、この付帯決議の主旨に逆行する政策を推し進めている。

 

 特に、政府が種子法廃止の翌月に成立させた、「農業競争力強化支援法」には、「種子その他の種苗について、民間事業者が行う技術開発及び新品種の育成その他の種苗の生産及び供給を促進するとともに、独立行政法人の試験研究機関及び都道府県が有する種苗の生産に関する知見の民間事業者への提供を促進する」とあり、我が国が長年、税金による研究開発で蓄積してきた「種苗の生産に関する知見」を民間企業に提供することが記されている上に、この「民間事業者」には国籍要件がないため、海外のグローバル種子企業に種子技術が流出し、生物特許による種の支配を通じて我が国の農業がコントロールされかねない。なかでも、世界最大のグローバル種子企業であるモンサントが販売する遺伝子組み換え(GM)種子は、発がん性など、安全性が疑問視されており、国民の健康に及ぼす被害は計り知れない。

 

 上述の通り、安倍首相は、種子法が民間企業の公正な競争を妨げているとの理由で廃止したが、すでに政府は、平成十九年(二〇〇七年)に行われた規制改革会議・地域活性化ワーキング・グループの民間議員から、同様の指摘がなされたのに対して、「本制度が(民間による)新品種の種子開発の阻害要因になっているとは考えていない。」と答弁している。ところがその後、認識を変えたのは、規制改革推進会議の強い政治的圧力が負荷されたためである。すなわち、平成二十八年(二〇一六年)九月に行われた規制改革推進会議の農業ワーキング・グループで「民間企業も優れた品種を開発してきており、国や都道府県と民間企業が平等に競争できる環境を整備する必要がある」という提言がなされ、さらに翌十月には、「関連産業の合理化を進め、資材価格の引き下げと国際競争力の強化を図るため」、「戦略物資である種子・種苗については、国は国家戦略・知財戦略として、民間活力を最大限に活用した開発・供給体制を構築する。そうした体制整備に資するため、地方公共団体中心のシステムで、民間の品種開発意欲を阻害している主要農作物種子法は廃止する」として突如廃止の決定がなされたのである。

 

 問題なのは、この種子法廃止を決定した規制改革推進会議は、単なる首相の一諮問機関に過ぎないにも関わらず、公共政策の決定に関して不当に過大な影響力を及ぼしている事である。特に同会議を構成するメンバーは、一部の大企業やグローバル資本の利益を代弁した民間議員であり、農業問題に関しては「素人」を自称しており、食糧安保や国土保全といった農業の持つ多面的機能への視点が欠落している。従来、農業問題に関しては、農水省が設置し、農業問題の専門家からなる「農政審議会」が審議したが、安倍内閣が創始した内閣人事局制度のもとで、各省が官邸に従属しているとも言われている。

 

 さらに問題なのは、この規制改革会議による種子法廃止は、農協の解体を始めとする、安倍内閣による一連の新自由主義的な農業改革の一環であり、その背景には、アメリカ政府やグローバル企業による外圧の存在があることである。我が国における農業分野での規制改革は、アメリカがクリントン政権以降の「年次改革要望書」のなかで繰り返し要求して来たが、平成二十四年(二〇一二年)に第二次安倍内閣が発足すると、この動きは加速した。平成二十六年(二〇一四年)一月に安倍首相がスイスのダボス会議で規制改革を国際公約した同年五月、在日米国商工会議所(ACCJ)は、「JAグループは、日本の農業を強化し、かつ日本の経済成長に資する形で組織改革を行うべき」との意見書を提出すると、それに歩調を合わせたかのように、政府は「規制改革実施計画」を閣議決定して農協改革を強行した。ACCJはアメリカ政府と企業の代弁機関であり、彼らの狙いは、農業での規制緩和による米国企業の商機拡大と、農協が有する360兆円もの金融資産の収奪に他ならない。このような米国政府やACCJによる外圧は、我が国に対する内政干渉であり主権侵害である。

 

 前述したように、安倍首相は、種子法の存在が、民間企業による公正な競争を妨げ、我が国農業の国際競争力を損なっているとしたが、現状の政府による農家への過少保護政策(例えば、農業所得に占める政府の直接支払割合(財政負担)は、我が国が15・6%に過ぎないのに対して、アメリカは26・4%であるものの、小麦は62・4%、コメは58・2%にも上る。さらにフランスは90・2%、イギリスは95・2%、スイスは94・5%にも及び、欧米に比して極端に低い)を差し置いてそのような主張をするのは全くの筋違いである。

 

 古来、我が国は、「葦原の瑞穂の国」と称され、農業、とりわけ自国民の主食を生み出す稲作を立国の根幹に据えてきた。そのことは、天照大神が天孫瓊瓊杵尊の降臨に際して、皇位の御徴である三種の神器と共に、「斎庭の稲穂」を授けられ、いまも今上陛下は、毎年の新嘗祭において、新米を天照大神に捧げられ、五穀豊穣を感謝されていることにも象徴的に示されている。特に安倍首相は、平成二十四年(二〇一二年)の政権奪還時に、「ウォール街の強欲資本主義」に対して「瑞穂の国の資本主義」を掲げながら、いまでは新自由主義的な農業改革を推進し、その一環である種子法廃止は、「瑞穂の国」を破壊する売国的所業である。

 

以上の趣旨に基づき、安倍首相に対して以下の通り要望する。

 

一、安倍首相は、速やかに種子法を復活し、優良で安価な農作物の安定供給を確保すること。また、先般野党が共同提出した種子法復活法案を成立させること。

 

一、安倍首相は、アメリカやグローバル企業の利益を代弁した規制改革推進会議を即刻廃止すること。

 

一、安倍首相は、二〇一三年に生物特許を禁止したドイツの例に倣い、遺伝子組換え種子に対する生物特許を禁止すること

 

一、安倍首相は、家畜飼料を含む全ての遺伝子組み換え食品への表示を義務化し、意図しない混入率をEU並の0・9%(我が国は5%)未満へと厳格化すること。

残念ながら我が国では「消費者基本法」において、消費者に必要な情報が提供される権利が保障されているにもかかわらず、調味料など、組み換え遺伝子とそれによって生成したタンパク質が含まれない食品への表示義務はなく、主な原材料(重量の多い順で上位三位以内、かつ全重量の5%以上)にしか表示義務がない。また遺伝子組み換え作物の最大の用途である家畜飼料にも表示義務がない。

 

右、強く要望する。

 

平成三十年七月二十六日

 

安倍首相に種子法復活と併せて必要な施策を求める有志一同

(千葉県浦安市当代島一―三―二九アイエムビル5F)

 

(代表)

折本龍則

坪内隆彦

小野耕資

 

(賛同者)

稲村公望

加藤倫之

四宮正貴

高橋清隆

田母神俊雄

西村眞悟

原嘉陽

福永武

前澤行輝

三浦楓

三浦夏南

南出喜久治

村上利夫

 

 

 

 

 

内閣総理大臣 安倍晋三

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2018年8月 6日 (月)

亀山上皇御製を拝し奉りて

 

亀山天皇御製

 

「春(弘安御百首)

よもの海 浪をさまりて 長閑(のどか)なる 我が日の本に 春は來にけり

 

世のためも 風をさまれと 思ふかな 花のみやこの 春のあけぼの」

 

「石清水の社に御幸ありし時よませ給うける

石清水 たえぬながれは 身にうけて 吾が世の末を 神にまかせむ」

 

「神祇の心を詠ませ給うける

今もなほ 久しく守れ ちはやぶる 神の瑞垣(みづがき) 世々をかさねて」

 

「神祇

ゆくすゑも さぞなさかえむ 誓あれば 神の國なる 我が國ぞかし」

 

 

第九十代亀山天皇は、第八十八代・後嵯峨天皇の第七皇子、御名は恒仁。正元元年十一月二十六日(一二六〇年一月九日)御即位。文永十一年一月二六日(一二七四年三月六日)に皇子・後宇多天皇に譲位し、院政を始められた。『続拾遺集』の選進を命じられるなど和歌・漢詩文の興隆に御心を尽くされた。嘉元三年(一三〇五)に御年五十七歳で崩御された。

 

鎌倉時代には、二回の元寇・蒙古襲来が起こった。第一回の「文永の役」に際して、後深草上皇は、文永八年十月二五日に石清水八幡宮へ行幸されて異國調伏(ちょうぶく・内外の悪を打破すること。特に怨敵・魔物を降伏すること)を祈願された。十一月六日に蒙古軍撤退の知らせがもたらされると、八日に、亀山上皇は石清水八幡宮へ御自ら行幸され徹夜して勝利と國土安穏の感謝の祈りを捧げられた。翌九日には賀茂・北野両社へも行幸された。

 

二度目の「弘安の役」においても、朝廷から全國の二十二社への奉幣と異國調伏の祈祷の命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所において公卿殿上人、北面武士による「般若心経」三十萬巻の転讀などの祈祷が行はれた。亀山上皇はさらに、弘安四年六月石清水八幡宮に参籠され、六月四日には、「不断最勝王経」等を修して敵國調伏を祈祷され、七月一日には「仁王経」等を転讀され、七月四日には「一切経」を転讀され、敵國降伏を祈願あそばされた。

 

さらに、亀山上皇は、弘安四年六月、異國降伏御祈願のために勅使を伊勢大神宮に発遣せられ、宸筆の御願文を奉られた。

 

『増鏡』巻十二「老のなみ」には次のやうに記されてゐる。「伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、眞讀(注・しんどく。経典を省略しないで全部讀むこと)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、『我御代にしもかゝる亂出で來て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』よし、御手づから書かせ給ひける…七月一日(注・閏)おびたゞしき大風吹きて、異國の船六萬艘、つは物のりて筑紫へよりたる、みな吹破()られぬれば、或は水に沈み、をのづから殘れるも、泣く泣く本國へ歸にけり。…さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申をくりける。

 

勅として祈しるしの神かぜによせくる浪はかつくだけつつ 

 

かくて静まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし」

 

当時の日本國民は、亀山上皇の命懸けの御祈願を神仏が嘉され蒙古軍が玄界灘の底の藻屑と消えたと信じた。

 

元寇に際して、日本天皇の御命懸けの御祈祷を拝し奉り、日本國は「現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が護り給ふ神の國」であるといふ「神國思想」が勃興し、まさに挙國一致で戦ひ、蒙古軍を二度にわたって撃退した。元寇は、まさに有史以来未曽有の國難であった。そしてその大國難を打開したのは、上御一人日本天皇の深い祈りと、日本國民の尊皇精神・神國思想であった。

 

國民唱歌『元寇』

「四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十萬余騎の敵 /國難ここに見る /弘安四年夏の頃」「天は怒りて海は /逆巻く大浪に /國に仇をなす /十余萬の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し」

 

内憂外患交々来たるといった状況の今こそ、日本國民はこの唱歌の心意気を発揮しなければならない。

 亀山上皇の御徳をお慕ひして、福岡市の東公園には、亀山上皇の御尊像が建てられてゐる。また福岡の筥崎宮には、亀山上皇御宸筆と云はれる勅額「敵國降伏)の御文字が掲げられてゐる。

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千駄木庵日乗八月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆など。

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2018年8月 5日 (日)

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことはない

斉明天皇の御代、唐新羅連合軍によるわが国への侵攻の危機に際会した。まさに今日の日本と同じ危機的状況であった。

 

第三十七代・斎明天皇は、敏達天皇の皇曾孫であり、舒明天皇の皇后であらせられる。また、第三十五代・皇極天皇の重祚(一度位を退かれた天皇が再び位につかれること)であらせられる。

 

斉明天皇六年(六六○)三月、我が國と友好関係にある百済に、唐・新羅連合軍が電撃的に侵攻し、七月には、百済は敗北した。そして、百済の義慈王は唐の國へ連行されてしまった。九月、百済から我が國に沙彌覚従(さみかくじゅ)などの使者が来て、百済再興のため日本に救援を要請してきた。

 

斉明天皇は詔して、「百済が困窮してわが國を頼ってきました。どうして見捨てることができませうか。将軍たちはそれぞれに命令を下し、前進しなさい。雲のやうに集ひ、雷のやうに動いて敵を倒し、百済の危機を救ひなさい」と、激しい御口調の命令をお下しになった。(『日本書紀』に拠る)

 

斉明天皇七年(六六一年)正月六日、六十八歳となられたご老齢の女帝・斉明天皇の率いる朝廷の軍船は、中大兄皇子・大海人皇子そして妃や王子・王女など全皇族とご一緒に、寒風の中を難波の港を出発して、瀬戸内海を航行し筑前朝倉宮まで赴かれた。率いられる軍船團は、船千艘、兵士二萬七千人であったと傳へられる。

 

三百年近くにわたり同盟関係にある百済救援は当然のことではあったが、戦ひの相手は唐と新羅である。國家挙げての大きな戦ひであった。天皇御自身が戦ひを決意され、御自ら総指揮者として外征のために軍船に筑紫の向かふことは、神功皇后以来のことであったと傳へられる。

 

軍船團は、一月十四日、伊豫熟田津(今の愛媛県松山の港)に船を泊めた。熟田津には、斉明天皇がかつて夫君・舒明天皇と行幸され、禊を行はれたことのある石湯(今の道後温泉)の行宮があった。軍團が伊豫の石湯行宮に寄ったのは、そこで戦勝を祈念する禊(みそぎ)をされるためであった。斉明天皇は出航予定の二十三日まで、しばらくその行宮に滞在された。

 

二十三日夜、斎明天皇は御座船で、御自ら祭主となられて國家的大事の前の戦勝祈願と出航出陣の祭事を執行された。午前二時、空に満月が昇って来て、満潮になった。そして西向きの風も強まった。いよいよ神意にかなふ船出の時を迎へた。まことにも緊迫し神秘的な情景であったと思はれる。

 

斉明天皇は、祝詞を奏上され、神に祈られた。そして、気迫が漲った次の歌を高らかにお歌ひあそばされた。

 

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船出をしやうと月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今、漕ぎ出さう)

 

「船乗りせむと」は、船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は、船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二十三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 

 古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。かがり火をつけた百千の軍船團は神に護られるがごとく月光に照らされながら潮の流れに乗って次々と出航した。それはまことに勇壮な光景であったと思はれる。

 

 潮が満ちて来て船出が可能となった時の緊張した雰囲氣と月光に浮き立つ場面が一体となって生き生きと迫って来る。差しのぼる月とその光、くっきりと照らし出された数多くの軍船、満ちて来る潮が出発の時を告げるのを「今はこぎ出でな」と歌はれて、船出を祝福し航海の無事を祈られると共に、眼前の風景をも雄渾に歌ひあげた感動を呼ぶ御歌である。

 

「やまとことば」特に和歌には靈力がこもってゐると信じるわが國の「言靈信仰」が脈うってゐる御製である。この御歌にこそ、祭り主・日本天皇の大御心が実によく表白されてゐる。

 

 祭祀主であらせられ全軍の最高指揮者であらせられる斎明天皇ならではの御歌である。『萬葉集』の代表歌の一つとなってゐる。

 

天皇は、神と人との間に立ってまつりごとを執行され神の言葉を宣せられる祭り主であらせられる。斉明天皇も祭り主として、航海の無事を祈るまつりごとを執行された。その時に、神のお告げ・御託宣を受けて出発を命令され、御自らを励まされ全軍を叱咤し鼓舞し、船出を祝福された。女性天皇の御歌ではあるが歌柄の大きい氣迫のこもった男性的な御歌である。一種の神憑り状態で御託宣として歌はれたといふ説もある。さうであらうと拝察する。

 

この御製は、『萬葉集』に収められてゐるのであるが、「題詞」(詩歌の詠まれた事情・趣意・作者などを記したことばで、歌の前に置いたもの。詞書)には「額田王の歌」と記されてゐる。一方、左註(歌の左側に記す注)には、「天皇の御製なり」と記されてゐる。『萬葉集』の研究者の意見も二つに分かれてゐる。

 

この御歌のしらべは、やはり上御一人でなければ歌ひ得ない格調と強さを持ってゐる。また「今は漕ぎ出でな」といふ結句は、全船團に出航を命令してゐるのである。「斎明天皇の御製」と拝すべきと考へる。

 

また、斉明天皇の命を受けて額田王が代作したとする説もある。中西進氏は、「この緊張したしらべは、託宣のひびきにも似ておごそかであろう。そのとおりに、これは斉明女帝の立場で歌われたものであり、かつ出航をうらなった一首だった。古くは『女軍(めいくさ)』というものがあった。兵力として戦う男性軍に対して、つねに神意をうかがいながらこれを指揮する集團のことである。この傳統に立って、額田王は右の歌を口ずさんだのである。初期萬葉には女歌が多い。それは一つにはのこされた歌が公的な儀礼歌にかたよっているからであり、それには、神と人との中に立って〝ことば〟を傳えるのに女性があたるという傳統があったからである。額田王もその流れにいた。」(『萬葉の心』)と論じてゐる。

 

額田王が実際に詠んだとしても、この歌には、斎明天皇の大御心が表白されてゐることには違ひはない。

 

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇の御事績を拝すれば明らかである。

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千駄木庵日乗八月四日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年8月 4日 (土)

政府が、「天皇の御譲位」ではなく「天皇の御退位」としてゐることは、國體・皇室の伝統に反してゐる

本年(平成三十年)四月三日に閣議決定された「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式などの挙行に係る基本方針について」の冒頭に、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位が、国民の祝福に中でつつがなく行われるよう…」と書かれてゐる。故に、あれこれ意見を申し述べることは、憚られることかもしれない。しかし、國體・皇室の伝統の根幹に関はることなので、敢へて以下のことを書かせていただきたく思ふ。

 

そもそも政府が、「天皇の御譲位」ではなく「天皇の御退位」としてゐること自体が、國體・皇室の伝統に反してゐる。

 

天皇陛下は、単に御位を退かれるのではない。日嗣の御子即ち皇太子殿下に御位を譲られるのである。先帝が新帝に御位を譲られることによって、萬世一系の血統と道統が継承されるのである。これを歴聖一如・皇統連綿と申し上げる。「退位」といふ言葉ではこの事が正しく示されず、隠蔽されてしまふと考へる。

 

「皇位の継承」とはまさに「継承」であり、先帝から新帝に御位を譲られることにより、皇統が「継承」されるのである。天照大神・邇邇藝命・神武天皇・歴代天皇に継承されてきた「御位」即ち「天津日嗣」を継承するのである。

 

「天津日嗣」とは、天照大神の御神霊を継ぐといふ意である。新帝が即位式に於いて「天津日嗣の髙御座」に登られるのは先帝に伝へられてきた天津日嗣を新帝が継承されるといふ事である。歴代天皇の「詔」を拝してもそれは明らかである。

 

政府が「退位」といふ言葉にこだわったのは、「譲位」だと、天皇の御意思によって御位を譲られることとなり、それは「天皇は政治的権能を有しない」と規定した『現行占領憲法』の規定に反するからだといふ。つまりわが国の傳統、國體、皇位継承の本義よりも外國製の『占領憲法』の規定が方が大事だといふ考へ方に基づくのである。『現行占領憲法』はまさに「諸悪の根源」である。

 

事実関係から言っても、一昨年(平成二十八年)八月に、今上天皇が「ご譲位」の御意思を示されたことにより、国民がこぞって、陛下の御意思・大御心に服し奉り、御譲位が行はれることとなったのである。

 

天皇の大御心に国民が従ひ奉ったのである。それは「国民主権」などといふ西洋政治思想とは全く関係ない。天皇の大御心は絶対であり、日本は天皇国なのである。

一昨年八月の、天皇陛下の「お言葉」を国民・政府・議会が拳拳服膺したことは、日本国は天皇国であり、天皇は成文憲法・成文法を超越した御存在であることが事実を以て示したのである。

 

「譲位」といふ言葉を用いると、天皇が御自らの御意志で御位を譲られることになり、それは、「現行憲法」の「天皇は政治的権能を有しない」といふ規定に反するなどといふ議論は通用しないし通用させてはならない。

 

何回も書くが、そもそも『現行占領憲法』が「権力の制限規範」であるのなら、『現行憲法』で「国政に関する権能を有しない」とされてゐる天皇は、『憲法』の制限を受けられないのである。

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千駄木庵日乗八月三日

午前は、諸事。

午後一時、西荻窪にて、『伝統と革新』編集実務担当者、若手評論家の方と、書籍出版についての打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2018年8月 2日 (木)

明治天皇御製に学ぶ―やまと歌の本質

明治天皇御製

 

ことのはのまことのみちを月花のもてあそびとはおもはざらなむ

 

明治四十年、御歳五十六歳の砌、 『述懐』と題された御製である。

 

「ことのはのまことのみち」とは、やまと歌のことである。日本人にとって歌を詠むとは、ただ単に花鳥風月の美を愛で、それを五七五七七の歌にするといふ遊びでは決してない、といふ事を教へられた御製である。

 

徳川幕府が、朝廷に対する規制的意図を持って制定した『禁中並びに公家諸法度』(別名『禁中方御条目十七箇条』)に「和歌は、光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりと雖も、我が國の習俗なり。棄て置くべからず」などと記されてゐる。

 

「綺語」とは、美しく表現した言葉といふ意味であると共に、仏教の「十悪」の一つで真実に反して飾り立てた言葉といふ意味である。徳川幕府は、やまと歌をまさに「月花のもてあそび」と思ってゐたのである。徳川幕府が、和歌といふ日本伝統文学に対する理解がいかに浅かったかを証明してゐる文言である。

 

『禁中並びに公家諸法度』は、徳川家康が黒衣の宰相といはれた悪名高い金地院崇伝(世人から「大欲山気根院僭上寺悪國師」とあだ名されたといふ)に命じて起草させた。わが國和歌の道統について正しい理解がないのは当然といふべきである。明治天皇のこの御製は、『禁中並びに公家諸法度』を厳しく批判された御歌と拝することが可能である。

 

明治天皇は、同じ年、『歌』と題されて、

 

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

 

と詠ませられてゐる。

 

また、明治三十七年には、『歌』と題されて、

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

 

と詠ませられてゐる。

 

これらの御製は、やまと歌の本質について歌はれてゐる。和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

 

『古今和歌集・仮名序』(紀貫之)に「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

歌の語源は「訴へる」である。物事に感動して何事かを訴へた声調・調べ(音律の調子を合わせ整へること)のある言葉を歌といふ。そして、五七五七七といふ一定の形式と調べが自然に生まれた。

 

日本國民の心・思想・精神は、和歌によって表白せられ傳承されて来た。幕末維新期の志士の歌などを見てもそれは明白である。 

 

わが國は元寇・明治維新・大東亜戦争など國家的危機の時に尊皇愛國の精神が燃え上がった。そしてやまと歌が勃興した。それが『萬葉集』であり、幕末維新の志士の歌であり、大東亜戦争で散華した英靈の歌である。

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千駄木庵日乗八月二日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後五時、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者と打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆など。

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天之御中主神について

 天之御中主神は<一即多・多即一>の神であり最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。

 

 <神と人との合一><罪の意識の浄化>を最高形態としてゐる信仰は、日本傳統信仰・神ながらの道である。全人類を戰爭の慘禍から救ふ道は、日本傳統信仰への回歸である。日本傳統信仰の世界的に恢弘することが私たち日本民族の使命である。

 

 四季の変化が規則正しく温和な日本の自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。神は到る処に充ち満ちてゐます。自然は神の命の顕現である。

 

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記傳』には次のやうに書かれてゐる。「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

 宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義してゐる。「可畏し」といふ言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であらうが、それらを総合したやうな感情において神を考へるといふことであらう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。そこが一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。さうした神々の根源神として「造化の三神」がましますのである。日本の神は「多即一・一即多」のお姿をあらはされる。

 

 『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示され、「天地の生成の本源神」たる天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されてゐる。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

 

「造化の三神」が「天地初發の時、高天原になりませる神」(天地宇宙の生成と共になりませる神)と仰がれてゐるのは、「造化の三神」が天地宇宙開闢以来天地宇宙と共に存在する神、天地宇宙の中心にまします根源神であるといふことである。ユダヤ神話の神のやうな被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在・被造物と対立する存在たる「天地創造神」ではないのである。

 

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独神(ひとりがみ)すなはち“唯一神”であり、宇宙の根源神である。この「造化の三神」は、宇宙根源神・絶対神の「中心歸一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現してをり一体の御存在である。

 

 また、「宇摩志阿斯与訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」「天常立神(あめのとこたちのかみ)」の二柱の神も「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。「國之常立神(くにのとこたちのかみ)」「豊雲野神(とよくもぬのかみ)」も「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

計七柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのである。だから、「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐるのである。七柱の「独神」がをられるのは、唯一神の多くの働き・性格を「神名」によって表現していると解釈できる。「多即一・一即多」である。

 

 影山正治氏は、「古代の日本人は萬ものを神に於て理解しようとした…神は無數であって八百萬の神である。しかし萬神一に歸すれば天之御中主神であって、決して云ふ所の低い庶物崇拝ではない…萬物を『いのち』に於て把握し『神』に於て理解する日本人の宇宙觀はまことに比類なきものと云はねばならない。日本に哲學なしなどゝ考へるのはとんでもない間違ひで、人類今後の思考の哲学はまさにこの日本神話の根源から發するものである」(『古事記要講』)と論じてをられる。

 

日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。これは、天之御中主神が、天地宇宙の根源神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられるからである。

 

天之御中主神は、天地生成の根源神であられるが、「唯一絶対神」として他の神々をと対立しその存在を許さない神ではない。八百万の神と申し上げる天地の神々を包容される神である。

 

天之御中主神は、<一即多・多即一>の神であり、最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。ゆへに、天之御中主神は祭祀の対象とはならなかったのである。

 

『古事記』冒頭の五柱の「別天神」および國之常立神・豊雲野神は、形体を隠した隠身の神と仰がれた。身を隠したまふとは、隠身(かくりみ)になられることである。「かみ」とは「かくりみ」から「くり」を除いた存在であり、「神」とは「隠身(かくりみ)」のことであるといふ説もある。

 

なほ天之御中主神について、萩野貞樹氏の著書『歪められた日本神話』に詳しく論じられてゐる。萩野氏は、「アメノミナカヌシの神は後代の造作神だ」といふ説に対して、「この予断の甚だしさにはやや呆然とせざるを得ない。」「天の観念また天空神の信仰というものは、世界の最も未開と考えられている諸部族にあっても、ほとんど普遍的に見られるものである。」「天・天神の観念はなかったとする津田(四宮註・左右吉)の断定は、記紀神話の記述から歸納されたものでなく、記紀神話に現れた『アメ』や『アマ』を名に冠する神々を『主要でない』としてわざわざ除外し、『高天の原』という重要な観念も『政治的寓意』のものとして除外して、その残りのものについて見たところ『天神』の観念はなかった、と言っているに過ぎない」と論じてをられる。

 

さらに、天之御中主神が祭祀されてゐないといふ説に対して、「ほとんど全部の日本人学者はアメノミナカヌシノカミについて…『祭祀の痕跡がない』ことを理由にして後世の造作神であるとしている。」「古文献にアメノミナカヌシがないかといえばそんなことはない。…古事記…日本書紀…古語拾遺…続日本紀…日本後紀…新撰姓氏録にも出ている。彼等はその『現に出ているもの』を…除外し、残ったものについて見て『痕跡がない』と言っているのにすぎない。」「宮中八神にはもとより八柱の神しかない。古代に祭祀を受けた神はわずか八柱だというのであろうか。」「古事記は、タカミムスビ・カミムスビの祭祀についても記述していないのである。ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコタチ、クニノトコタチの祭祀も記さない。」「アメノミナカヌシだけが祭祀の記録がないとに言うのは、作為的なトリックと言うしかないものなのである」と論じてをられる。

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千駄木庵日乗八月一日

午前は、諸事。

 

午後二時半より、初台の新国立劇場(オペラハウス)にて行われた『オペラ夕鶴』公演鑑賞。深見東州氏が解説を行った後、團伊玖磨作曲、木下順二作の「オペラ夕鶴」が演じられた。かなり有名な日本オペラ作品であるが、今回初めて鑑賞した。美しい舞台であった。

 

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2018年8月 1日 (水)

日本の平和・安全・独立を内側から脅かしている勢力を一掃すべきである。

旧社会党・共産党は、根源的には北朝鮮と同根の政治集団である。共産党は、昭和四十年代前半くらいまで、北朝鮮を理想国家のように宣伝していた。共産党の後、当時の社会党が北朝鮮の友好関係となった。そして拉致問題などの防止や捜査を妨害して来た。立憲民主党には旧社会党の残存分子がいる。

 

とりわけ日本共産党は、あろうことか長い間、「朝鮮戦争はアメリカの侵略だった」という嘘八百を並べ立ててゐた。

 

『日本共産党の四十五年』という書物(昭和四五年八月二五日・日本共産党中央委員會出版局発行)には「アメリカ帝國主義は、(一九五○年)六月二十五日、わが國を前進基地として朝鮮への侵略戦争をはじめました」と書いている。

 

日本共産党は、わが國における最初にして最大の北朝鮮軍事独裁政権支援組織だったのである。また、日本共産党は戦後一貫して、朝鮮労働党の日本における窓口であった。そして朝鮮戦争の時は、日本国内で軍事闘争・暴力革命闘争を行って北朝鮮を支援した。

 

また、「在日朝鮮人の祖國帰還運動」にも積極的に協力した。日本共産党と北朝鮮は昭和三十四年、在日朝鮮人の北朝鮮への「集団帰還事業」をわが國政府に働きかけ實現させた。これによって、約九万八千人の在日朝鮮人(約七千人の日本人を含む)が北に永住帰國した。

 

こういう連中が、沖縄基地や、自主防衛強化に反対するのは、決して「平和」を望んでいるからではない。北朝鮮・そして共産支那の日本侵略を支持し期待しているからなのである。日本の平和・安全・独立を内側から脅かしている勢力を一掃すべきである。

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この頃詠みし歌

幼馴染みもすでに老婆となりにけりそしてその人もこの街を去る

 

菩提寺に参り来たれば墓ごとに色彩豊かに花咲き満てり

 

父母(ちちはは)の眠れる墓を水で浄め永久(とは)に安らかに眠りませと祈る

 

菩提寺のわが家の墓所へと歩み行き心静かになりにけるかも

 

暑き日にとんかつを食したくなりたれば御徒町へと向かふ炎天の下

 

つい先日いいねを押しし友一人孤独死せしと聞く悲しさよ

 

若き日にヒルティの幸福論を讀みにけり幸福な人間とならんがために

 

幸福といふ言の葉はわが胸に重くも響く軽くも響く

 

神の護りに生き行くことの有難さ今日も一日の仕事終へたり

 

驟雨来てわが身濡れたるを炎天の続きたる日々の喜びとする

 

サイバーセキュリティといふを学びたり科学の進歩は危険と裏腹

 

『朝日』と日共この二つこそ現代の大國賊と思ひゐるなり

 

英雄の如く振る舞ひ國汚す輩を亡ぼす天の火もがも

 

馬鹿な男の馬鹿な行動をテレビにて見つつ笑へりその愚かさを(山本太郎)

 

処刑命令出したる法相のその顔は女性ながらに凛々しく見ゆる

 

過去の事思ひ出されてならぬなり嫌な事なら尚更の事

 

転居せし幼馴染みと偶然にバスで出会ひて長話する

 

嵐来たり嵐去り行く夏の日はかくて過ぎ行く日の本の國

 

わが身一つこの日の本に生き行きて恙なきことを喜ぶ心

 

天津日嗣すめらみことの慈しみ深きみ顔を拝ろがみまつる

 

まことにも今に生きたまふ神なりとすめらみことを拝ろがみ思ふ

 

あづかれる宝にも似てと詠みたまひし皇后陛下の御歌尊し

 

神は確かに吾を導き給ふなりと信じつつ生くることの嬉しさ

 

神の護りと導きの中に日々(にちにち)を生き行くことの有難さかな

 

 

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千駄木庵日乗七月三十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理など。

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