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2018年7月 3日 (火)

孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である

 

朝廷は、外國の勢威を恐れた屈辱的な開國に反対した。また開國反対の世論が巻き起った。しかし、井伊直弼の主導する徳川幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷の「攘夷」のご命令を無視して『日米通商条約』を締結した。この事によって尊皇倒幕の声が全国から澎湃として巻き起った。

 

第百二十一代・孝明天皇御製を拝する。

 

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船

 

戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり

 

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新だった。

 

安政五年六月十九日、井伊の主導する幕府は、勅許を得ずして『日米通商条約』を締結した。その前々日の六月十七日、孝明天皇が発せられた『大神宮に外患調伏を祈禳し給ふの宣命』には、

 

「嘉永の年より以往(このかた)、蛮夷屡来れども、殊に墨夷(米夷)は魁主と為て、深くわが國と和親を請ふ所、後年併呑の兆、又邪教の伝染も亦恐る可し。若し要(もとめ)に逆へば、戦争に曁(およ)ぶ可き由を曰(まを)す。實に安危の間、決し難く思ひ煩ふ所、東武(註・幕府)に於いて應接に及び、方今差し拒む可きの慮(こころ)もなく、時勢の變革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輙ち天下國家の汚辱、禍害遠からずと、晝とも無く夜とも無く、寤(さ)めても憂へ寐ても憂ふ。若し兵船来たるべくあらば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没(しづ)ましめ、鎮護の誓を愆(かだ)はずして、天變地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、…國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、萬民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、寶位(あまつひつぎ)動(ゆる)ぎ無く、常磐に堅磐に、夜守日守に幸へ給へと、恐み恐みも申し賜はしく申す」(アメリカを主とした外国がわが国との和親を求めて来たが、後年になってわが国を併呑しやうとしてゐる兆しがある。また邪教の伝染も危険である。わが国が開国を拒否したら武力を行使すると言ってゐる。実に危険である。ところが徳川幕府は時代が変ったのだとして貿易交通を許容しやうとしてゐる。これは国家の汚辱であり害である。わたくしは昼も夜も寝ても覚めても心配してゐる。もし外国が攻めて来たら、天照大御神は明らかに察知されて、神徳の擁護によって蒙古来襲の古事のやうに、神風を吹かせ給ひ、賊船を沈没させ、国家鎮護のお誓ひに違はず、天変地妖を消し除き給ひて、國體を誤らず、禍乱を除き給ひ、世界平和、萬民幸福、永遠に外敵の憂ひ無く、五穀豊饒にして、天皇の御位も揺らぐことなく、永遠に堅固に夜も昼も護り給へと恐れながら申し上げます、といふほどの意)

と示されてゐる。

 

孝明天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇以来の連綿たる皇統の神聖権威を体現され、内憂外患交々来たるといった困難な情勢に先頭に立って立ち向はれたのである。攘夷断行といふ孝明天皇の強いご意志・大御心が國民意識を呼び覚まし、沸騰させ、強靭なナショナリズムとなり、短期間のうちに明治維新といふ大変革をもたらしたのである。

 

勅許を待たずに『日米通商条約』を締結した幕府への孝明天皇のお怒りは激しく、安政五年七月一日に次のやうな御製を詠ませられた。

 

しげりあひ繁り合ひたる萩すすきあるに甲斐なき武蔵野の原

 

「あるに甲斐なき武蔵野の原」とは、「夷」(外國)征伐できず条約を結んでしまった徳川幕府は、信頼するに足らないといふ意味であり、言ひ換へれば、徳川氏は征夷大将軍たるの資格を喪失したといふ意である。

 

さらに、孝明天皇は、幕府の専断を嘆かせ給ひ、六月二十八日には御退位の『密勅』を下し給ふた。それには、「(徳川幕府は)縦令ひ治世続き候とて(外國に)敵し難き旨申し候ては、実に征夷之官職紛失、歎箇敷事に候。所詮条約許容之儀は如何致し候とも、神州之瑕瑾、天下危亡之基、(御名)に於ては何処迄も許容難致候。」と示されてゐる。孝明天皇は、徳川幕府はその使命たる征夷を成し遂げることができない事を歎かれ、条約締結は神國の大きな傷となるとされたのである。

 

「征夷大将軍」とはいかなる役目を持つかについて、平田篤胤は次のやうに述べてゐる。「東西南北のエビスどもの、御國へ対し奉り不届きをせぬやうまた不届き無礼があったならば、相糾し、打平らげよと云ふ大将軍に御任じおかれてさし置かるる、大切なる徳川の御家に坐すによって、征夷大将軍とは申し奉るでござる。」(『伊吹於呂志』)

 

上御一人・孝明天皇が、「徳川氏は征夷大将軍の使命を果たすことができなくなった」と思し召された事の意味は大きい。

 

さらに八月五日には、重ねて攘夷の勅諭を下され、その中で徳川幕府に対して「厳重に申せば違勅、実意に申せば不信の至りに之無きや」と仰せられた。

 

八月七日には、幕府の非を戒め、國論の一致・挙國体制確立を望まれる『御趣意書』を下された。これを『戊午の密勅』と申し上げる。これが契機となり、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、征長の変、薩長同盟・大政奉還、戊辰戦争へと歴史が進み明治維新が成就するのである。

 

宇都宮藩士・大橋訥庵(幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子学を学び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を企てて捕へられ、幽居中病死。)はその著『政権恢復秘策』(文久元年九月)において、「今上ハ英明ニマシマシテ、夷狄猖獗ヲ憂憤シ玉ヒ、日夜宸襟を苦シメ玉フト云フコトハ、草莽マデモ聞エ渡リテ、誰モ彼モ有難キコトヨト涙ヲ流シ、カカル澆季(註・末世)ノ世ニ当リ、神州ノ危キ折カラニ、英明ノ天子出玉フテ、國土ヲ憂憤シ玉フハ、古ヘノ天祖ノ勅ニ、宝祚之隆当与天壌無窮ト宣ヒツルシルシナラント、人ミナ心強キコトニ思ヒ、神州ノ夷狄トナラザル恃ミハ、只天子ノ宸断ニアリ…一声ノ霹靂ノ轟クガ如ク、攘夷ノ詔勅ヲ下シ玉ハゞ、一人モ感動セザル者ナク、海内一時ニ饗応センコト、断々乎トシテ疑ヒナケレバ、是レゾ誠ニ今日第一ノ急務ニ非ズヤ。」と論じた。

 

全國の志士が身命を賭して尊皇倒幕に奮起したのは、孝明天皇の幕府に対する震怒がその根本要因である。そして孝明天皇の震怒が志士を奮起せしめたのは、神代以来のわが國の天皇信仰に基づくのである。つまり、孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である。徳川将軍家の統治能力が弱まったから相対的に朝廷の権威と権力が増したなどといふのは一面的な世俗的解釈である。國家存亡の危機に際して日本民族の三千年来の現御神信仰・尊皇精神が興起したのである。

 

徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない、また当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。すなわち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御陰であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇和歌御會記及び御年譜』の「序」)と喝破しておられる。

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