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2018年7月31日 (火)

「生産」とは「むすびの精神」である

 

「生産」といふ言葉が話題になってゐる。やまと言葉では、「生産」とは、「生(む)す・産(む)す」と言ふ。これは「日本神話」の信仰精神の根本信仰である、「生成・結合・生産」の観念、すなはち「むすび」の精神である。

 

「生(む)す・産(む)す」の霊力を発現することを「むすぶ」と言ひ、和合・合一の精神を日本傳統信仰は、「むすび」と言ふのである。「むすび」は真の意味の平和の精神であり原理である。人と人との「むすび」は平和の基礎である。

 

人の生活は、「むすび」によって成り立ってゐる。稲作生活から生まれた「むすび」の精神が、生産と科学技術による日本の発展の根幹にある。「むすび」といふ神靈は、ものの生成・生産をつかさどる霊性である。すなはち、生(む)す・産(む)すの霊力を発現することを「むすぶ」と言ひ、その霊性そのものを「むすびの神」といふのである。その霊性の至高のご存在が「造化の三神」である。

 

天之御中主神と一体の関係にある、高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。

 

ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

 

「むすび」は、生命の根源である。ゆゑに「結び」を「産靈」とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子」「生す女」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生まれた生命が生まれる。「むすこ」「むすめ」である。

 

繰り返し言ふ。男女が和合することを「むすび」と言ふ。そしてその結果生まれて来た男子を「生()す子」=「息子」と言ひ、女子を「生()すめ」=「娘」と言ふ。男同士・女同士の和合では、子が生まれないのであるから、生産性はないのである。

 

また、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

 

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

 

「庵をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵はいろいろな木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的実在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

 

折口信夫氏は「むすびめしは、古代の人は靈的なものと考え、米そのものを神靈と考えている。神靈である米をにぎって、更に靈魂を入れておくと考えた。…それが人の身体へ入るともっと育つ。…水をむすぶのは、禊、復活の水を与えるとき、靈的水をあの形で人の中に入れたのだろう。靈魂のある水を掌のなかへ入れて、発達させておいて人の中に入れる。そして『むすび』の作用をさせる。」(『神道の靈魂思想』)と論じてをられる。

 

『國歌君が代』の「苔のむすまで」の「むす」、大伴家持の歌の「草むすかばね」の「むす」も、「生産する・生える・生ずる」といふ語と同根である。

 

西角川正慶氏は、「むすびなる語源は結びに外ならず、靈魂を肉体に来触せしめて、生命力を新たにすること、即ち神の持たるる靈威を宿らしめていることで…鎮魂にほかならぬ。…神話に於ても、天子の重大儀また危機に際しては、天神の御教へと共に、常にこの神の発動がある。」(『神道とはなんぞ』)と論じてをられる。

 

天地・國の生成は、“むすびの原理”の展開としてあらはれてくるのであって、日本的思惟においてはすべて“一”をもって“創造の本源”とし、そこから無限の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものが生産され、生成するのである。そこに、多神にして一神、一神にして多神であり、多即一・一即多・中心歸一といふ大らかにして無限の包容性を持つ文字通り「大和(やまと)の精神」たる日本的思惟の根元が見出されるのである。

 

大日本生産党の党祖・内田良平氏は、「大日本生産黨を創立せんとて詠める」と題して、

 

「國を生み 人を産ませし 神業に 神習ひして 世を救はばや」

「生み産みて 萬づの物を 育くまば 足らはぬことの なにあるべしや」

 

といふ歌を詠んでをられる。

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千駄木庵日乗七月三十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。(最終校正)

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2018年7月30日 (月)

わが国の「近隣諸国」は何んともすさまじい国が多い

韓国は前大統領、元大統領の二人が投獄されている。その前の大統領は自殺した。韓国は、初代大統領李承晩がハワイに亡命して以来、歴代大統領の多くが、殺されたり、逮捕されたりして来た。何んとも不幸な国と言うしかない。

 

最高権力者・国家元首だった人がその地位を去ると、逮捕されたり、亡命するというのは一体どういうことなのか。

 

共産支那もかつて、国家主席だった劉少奇が、「文革」という名のすさまじい権力闘争で、毛沢東及びその一派によってなぶり殺しにされた。毛沢東夫人・江青は、旦那が死ぬと逮捕され。獄中で自殺した。そして今日唯今、新皇帝・習近平によって粛清の嵐が吹きすさび、多くの権力者が投獄されている。

 

北朝鮮は、「民主主義人民共和国」と名乗りながら、何んと独裁政治体制であるだけでなく独裁者が世襲制である。そして邪魔者はたとえ親族と雖も残虐なる方法で殺されている。しかも、政府の政策として、テロをやったり、他国民を拉致したり、偽札を作ったり、麻薬を売ったりしている。

 

「近隣諸国」という言葉があるが、わが国の「近隣諸国」は何んともすさまじい国が多い。

 

私は、日本は良い国だとしみじみ思うし、率直に言って、日本に生まれて良かったと思う。

 

しかし、『現行占領憲法』に書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義」などというものは少なくともわが國のいわゆる「近隣国家」には全く存在しないのである。また「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国」などはわが國の「近隣国家」には存在しないのである。

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生前に父母のことを詠みし歌

何事かを訴えんとする父上になすすべなきが悲しかりけり

 

父上が母の名呼びつつ苦しめる姿を見れば胸迫りくる

 

笑顔にてわが来たれるを喜びたまふ父の苦しみ少なきを祈る

 

われがそばに来たりしことをかすかにも感じたまへる父よいとしき

 

胸と背中さすれば父はやすらけき顔となりたることの嬉しさ

 

わが手をば両手で握り胸元に置きてやすらぐ父よ生きませ

 

発熱せし父の胸をばさすりつつ祈り言となへる病院の部屋

 

苦しめる父の枕辺に座してゐる吾は一人で祈るのみなり

 

強き雨降る日に父は発熱す心をこめて神に祈らむ

 

椅子よりぞ立ち上がりなば帰るなと我に言ひたまふ父あはれなり

 

われの手を胸に抱きて離さざる父の心に涙こぼれる

 

とことはの命を願ふは無理なれど父の手をとり生きませと祈る

 

生きることの尊さは信じてゐるなれど苦しむ父を見るにしのびず

 

父の声を振り切りて病室を出でて来ぬこの悲しみは何時まで続く

 

ベッドの上で呻吟したまふわが父を如何ともし難きこの辛さかも

 

母と飲む朝の紅茶はうまけれど父のゐまさぬことのさみしさ

 

反抗せし時期もあれども今はただ父母をいたはり過ごす日々

 

母上の丸くなりたる背(せな)撫ぜて長く生きませとただに祈れり

 

薄目開けて「よく来てくれたね」とのたまへる父の言葉に胸迫り来る

 

うめくごとく「一緒に帰らう」と言ひたまふ父の言葉に胸迫り来る

 

ベッドの上に苦しむ父に為す術のなきわれをこそ神よあはれめ

 

よく来たねと言はれし父の言の葉は心にしみてうれしかりけり

 

衰へし父と母とをなぐさめていたはりて生くるがわがつとめなる

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千駄木庵日乗七月二十九日

午前は、諸事。

 

午後は、今夜行う講演の準備。

 

午後六時より、春日の文京シビックセンターにて『第八十六回日本の心を学ぶ會』開催。林大悟氏が司会。国民儀礼。小生が、「明治維新の精神とは復古即革新であった」と題して講演。この後、「南京戦の真実を追求する会」会長・阿羅健一氏がスピーチ。活発な質疑応答、討論が行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年7月29日 (日)

明治維新と祭政一致の道統の回復

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)て天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具體的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

 

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

この自由な発想の「生みの親」は實に、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ。」

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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2018年7月28日 (土)

千駄木庵日乗七月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆、明日行う講演の準備など。

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高山彦九郎・蒲生君平の尊皇の志

 

高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇討幕運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へた。

 

高山彦九郎は次の歌をのこしてゐる。

 

「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處」

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天萬乗の聖天子」「上御一人」が住まはれるにしては、余りにも質素で小さい京都御所を拝しての實感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと傳はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は非常に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野國新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として名をはせたといふ。

 

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

蒲生君平は次の歌をのこしてゐる。

 

「比叡の山 見おろすかたぞ あはれなる 今日九重の 數し足らねば」

 

「比叡山より見おろす方向を拝すると悲しい。平安時代には九重(支那の王城は門を九重につくったところから、御所、宮中のことを言ふ)と歌はれた数には足らない狭小な御所なので」といふほどの意。

 

蒲生君平は、明和五年(一七六八)下野國宇都宮新石町の生まれ。『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの尊皇精神に感激する。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政七年(一七九五)陸奥への旅に出る。さらに寛政十一年(一七九九)、三十二歳の時、天皇御陵の荒廃を嘆き、皇陵調査の旅に出る。享和元年(一八〇一)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができたといふ。さらに、文化四年(一八〇七)には、朝廷の官職についてまとめた『職官志』を著した。翌五年、北辺防備を唱へた『不恤緯(ふじゅつい)』を著す。そし文化十年(一八一三)江戸で四十六歳の生涯を閉じた。

 

この歌は、年代的に考へて、高山彦九郎の歌の志を継承し倣って詠んだと思はれる。その「志」とは言ふまでもなく、徳川幕府専横の時代にあって、上御一人、一天萬乗の君がをられる京の御所が余りにも狭小であることに慟哭し、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」である。

 

川田順氏はこの蒲生君平の歌について、「勿體なくも宮闕は荒廢して天子の歴史的御座所たる舊観を備へない。九重の數は足らずして、てのひらほどの大宮所と拜せられる。山陵の荒廢を慨して志を立てた君平である。況んや、現に至尊まします所の宮殿が此の御有様なるを見て、涙滂沱たらざるを得んや」(『幕末愛國歌』)と論じてゐる。

 

徳川幕府専横の時代に、尊皇の志を立て、且つ實践した高山彦九郎・蒲生君平の御所の狭小さを嘆く歌は、大きな悲痛と慟哭が巨大な悲しみを以て讀む者の胸に迫って来る。

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千駄木庵日乗七月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、書状執筆、原稿執筆など。

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皇室伝統の隠蔽、無視、改変の原因は、『現行占領憲法』の「国民主権」の原則にある

本年(平成三十年)四月三日に閣議決定された「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式などの挙行に係る基本方針について」の冒頭に、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位が、国民の祝福に中でつつがなく行われるよう…」と書かれている。故に、政府の「基本方針」についてあれこれ意見を申し述べることは、憚られることかもしれない。しかし、國體・皇室の伝統の根幹に関はることなので、敢へて以下のことを書かせていただきたく思ふ。

 

「基本方針」の「第一 各式典の挙行に係る基本的な考え方について」について、「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとすること」と書かれてゐる。

ここにそもそも無理があると言はざるを得ない。「現行憲法」は、日本國體・皇室の伝統と絶対に相容れない「国民主権」を基本理念としてゐる。従って、憲法の趣旨の沿ふことと皇室の伝統を尊重する事とはどうしても矛盾してしまふのである。

 

そもそもこの「天皇の御退位」等としてゐること自体が、國體・皇室の伝統に反してゐる。事実関係から言っても、一昨年八月に、今上天皇がご譲位のご意思を示されたことにより、国民がこぞって、陛下の御意思・大御心に服し奉り、御譲位が行はれることとなったのである。天皇の大御心に国民が従ひ奉ったのである。それは国民主権などと言ふ西洋思想とは全く関係ない。天皇の大御心は絶対であり、日本は天皇国なのである。

 

この一事を以てしても、日本国は天皇国であり、天皇は成文憲法・成文法を超越した御存在であることが事実を以て示されたのである。「譲位」といふ言葉を用いると、天皇が御自らの御意志で御位を譲られることになり、それは、「現行憲法」の「天皇は政治的権能を有しない」といふ規定に反するなどといふ議論は通用しないのである。そもそも「天皇の御譲位」は政治権力作用ではない。また、天皇は「政治的権能を有しない」と『現行憲法』に規定されてゐるのだから、「権力の制限規範」とされる「成文憲法」の規制は受けられない。天皇は、「成文憲法」を超越した御存在である。

天皇陛下は、単に御位を退かれるのではない。日嗣の御子即ち皇太子殿下に御位を譲られるのである。先帝が新帝に御位を譲られるから、血統と道統が継承されるのである。これを萬世一系・歴聖一如・皇統連綿と申し上げる。「退位」といふ言葉ではこの事が正しく示されず、隠蔽されてしまふと考へる。

 

畏れ多いが、皇后陛下におかせられては、一昨年(平成二十八年)十月二十日、八十二歳の「地久節」(お誕生日)における「宮内記者会の質問に対する文書ご回答」で、

「八月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」と記された。

 

さらに、皇后陛下は、昨年(平成二十九年)十月二十日、八十三歳の「地久節」(お誕生日)における、「宮内記者会の質問に対する文書ご回答」で、

「陛下の御譲位については,多くの人々の議論を経て,この六月九日,国会で特例法が成立しました。長い年月,ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が,御高齢となられた今,しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え,これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。」

と記され、「御退位」とは仰せになってをられない。

 

政府は以上の事を知ってゐて敢て『退位』といふ言葉を使ったのであらうか。だとすれば誠に遺憾である。

 

「三種の神器」について、「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(皇室経済法第七条)であって「神器ではない」などという意見がある。「政教分離」といふ『現行憲法』の規定を慮っての意見であらうが、皇祖が、神から授けられた「神器」だから「由緒」があるのだ。そんなことは子供でも分かる議論である。

 

ともかく、皇室伝統の隠蔽、無視、改変の原因は、『現行占領憲法』の「国民主権」の原則にあるのである。それは國體隠蔽、國體破壊につながる重大事である。まさに、「諸悪の因」は『現行占領憲法』にあるのである。

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2018年7月27日 (金)

軍司泰史氏(共同通信社編集委員・論説委員)の「欧州ポピュリズムの底流−難民、テロ、EU」と題する講演の内容

四月二十五日に開催された『新聞通信調査会定例公演会』における軍司泰史氏(共同通信社編集委員・論説委員)の「欧州ポピュリズムの底流−難民、テロ、EU」と題する講演の内容は次の通り。

 

「ヨーロッパは独特のポピュリズムが広がっている。ヨーロッパではポピュリズムは目新しい問題ではない。七十年代から欧州政治の中でポピュリズムは危険視されていた。イギリスのEU脱退をめぐる国民投票で離脱の結論が出て、ポピュリズムに注目が集まった。国政選挙があるとポピュリズム政党が注目を集める。

 

水島治郎千葉大学教授の定義ではポピュリズムとは『大衆に依拠して、特権的なエリートを批判し、大衆層の意思を直接政治に反映させようとする政治運動』。

 

大衆迎合主義とはネガティヴ。ポピュリスト政党が政治の中心舞台に躍り出てきた。ポピュリズム勢力の共通点は、『反既成政治、エリート不信、反グローバリズム、EU懐疑、反移民、反イスラム』。エリート不信に中にはメディアへの反感も含まれる。EUはグローバリズムの進んだ形なので、反EUは必ず出てくる。ポピュリズムの背景は、『既存政党や既存勢力の弱体化、中間層の転落、難民・移民の増大、EUの機能不全』。中間層の転落は、産業の移転が原因。失業・賃下げの不安が日常的。テロが頻発し、ヨーロッパ各国の首都にテロへの不安感が広がっている。

 

フランス大統領選第一回投票では、ルペンが半数以上のコミューンでトップ。村落など小規模コミューンはルペンの圧勝。マクロンは要するに人口の多い大都市つまり『点』で勝利したにすぎない。大衆層・工場労働者は社会とのつながりが切れてしまった。大衆層の四分の三は中小都市にいる。パリからは姿を消した。ルペン支持層の姿は大都市では全く見えない。イスラム教徒がコミュニティに入ると大衆層はそこを出て行く。

 

ジャンマリ・ルペンからマリーヌ・ルペンへの代替わりで政策的に大きな変更が行われた。ジャンマリ・ルペンの政策(極右ナショナリズム)は『反共、移民排斥、歴史修正主義(ナチスの擁護)、反ユダヤ、反グローバル資本、EU離脱、通貨フランの復活、死刑復活』だった。マリーヌ・ルペンの政策は、『反グローバル資本、自国産品優先、EU離脱、通貨フランの復活、非宗教性(ライシテ=フランスにおける政教分離の原則)の強調(イスラム共同体が標的)、女性の権利擁護、男女賃金格差の是正、歴史修正主義の否定、減刑の無い終身刑の導入、脱悪魔化と正常化』。マリーヌ・ルペンは年金支給開始年齢引き下げなどリベラルから左派の政策も取り入れた。『国民戦線(極右ナショナリズムだった)が脱悪魔化した』とフランスで報道された。しかし偽装されていると批判されている。今の国民戦線は必ずしもナショナリズム・国粋主義・歴史修正主義ではない。一見リベラルな政策をとっている。

 

オランダは移民受け入れに寛容で、多文化主義の一つのモデルとされてきた。オランダはEUの原加盟国。元々は親EU。ピム・フォルタイン党が躍進。ピム・フォルタインの主張は『政治を市民にともどす、妊娠中絶などの女性の権利・同性愛者の権利擁護、安楽死や麻薬の容認、イスラムは遅れた文化、オランダはもう満員だ』。リベラルなポピュリストとして登場。

 

ヘルト・ウィルダースは、イスラム批判で支持を急伸。『イスラムは民主主義と相容れない、コーランはファシストの書。ヒトラーの「わが闘争」の宗教版』と主張。個人の自由や男女平等、同性愛の擁護という西欧的価値を前面に出してイスラムを批判。『ユダヤ―キリスト教的・人文主義的伝統』を『オランダの支配的文化』と定義。『われわれはイスラム化という津波を防がなければならない』と主張。二〇一七年総選挙では第二党になった。オランダはプロテスタントが多い。ローマ法王庁は同性婚を否定。

 

ポピュリストは、ヨーロッパの伝統とイスラムとの対立に単純化する。同化しつつあるイスラム教徒の居場所がなくなりつつある。そしてイスラム過激派に吸い寄せられてしまう。新たなポピュリスト勢力は、全ヨーロッパ的な文明上のアイデンティティが、異質なイスラム文明と必然的に衝突し、脅かされていると主張する。この新しい主張は、伝統的極右の運動より繊細だが、リベラルな民主主義を深刻に脅かす。

 

ハンガリーの国境には電線(国境フェンス)が張り巡らされている。不法侵入を監視。ハンガリーのオルバン政権の政策は、『排外主義的傾向(国境フェンスの建設)、EUへの反感(難民受け入れ分担の拒否)、強権路線(メディア・NPOの統制)、中露への接近(原発・高速鉄道建設)』。

 

欧州のリスク―今後何が起こるのか。『EU理求心力低下、中露の影響力拡大、強権国家への憧憬、国内の分断』。エリートが現実を見ようとしないのが一番の問題。ポピュリズムは政治的立場を表す言葉ではない。政治的手法を表す言葉。ポピュリストの特徴は敵を設定する。『あんな人たちに負けるわけにいかない』という言葉は危険。

 

プーチンが好きな人が何故か多い。民衆に強権政治への憧れがある。欧州の価値観が揺らいでいる。トランプを押し上げたアメリカ国民はアホではない。テロはイスラムではなく社会的統合から切り離された人々が起こす」。

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千駄木庵日乗七月二十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、原稿執筆・書状執筆など。

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2018年7月26日 (木)

「第八十六回日本の心を学ぶ會」のお知らせ

第八十六回日本の心を学ぶ會

テーマ 維新の精神と現代の変革
今年、平成三十年は明治元年から百五十年となる年であります。

いまから百五十年前に日本は明治維新を断行し、一君萬民の統一國家としての道を歩み始めました。

議會政治や憲法や四民平等など近代國家としての制度は明治維新によって築きあげられたものです。

しかし、明治維新の基本精神はいわゆる「近代化」ではなく「尊皇攘夷」であります。「尊皇攘夷」とは、天皇を中心とする統一國家の建設によって、祖國の独立を守り発展を實現することであります。それが明治維新の最大最高の目的でありました。

「維新」とは「復古即革新」であります。神武創業・建武の中興の精神に回帰することによって現状を革新することが明治維新の精神です。「王政復古の大号令」に「諸事 神武創業之始ニ原キ」と示されていることによってそれは明らかです。

しかし今日、明治維新百五十年を論ずる人の中には、「復古即革新」の精神が無視あるいは軽視する論議があります。それどころか近年では明治維新をブルジョア市民革命であったとか、薩長による権力奪取・クーデターであったとする主張すら出てきております。

これでは、明治維新の歴史とその意義、そして明治維新の戦いに身を捧げた数多くの人々の思いと行動を冒瀆することとなります。

そこで今回の勉強會では、明治維新が何を目指し、何を實現したのかについて学び、現代の変革に何を示唆するかついても考えてみたいと思います。

(今回は文京シビックセンターでの開催となります。文京区民センターではありません。お間違えないようご注意ください)

【日時】平成三十年七月二十九日 午後六時から

【場 所】文京シビックセンター三階會議室A

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html

住所:東京都文京区春日一‐一六‐二一◎東京メトロ後楽園駅・丸ノ内線(四a・五番出口)南北線(五番出口)徒歩一分◎都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩一分◎JR総武線水道橋駅(東口)徒歩九分

 

【講 演】「明治維新の精神とは復古即革新であった」

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所

【司會者】林大悟

【参加費】資料代五〇〇円終了後、近隣で懇親會(二千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

        〇

この告知文は主催者が作成しました。

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後鳥羽上皇御製

 

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

 

 

「人が愛しくも思はれ、また恨めしく思はれる。味気ない世の中だと思ふが故に、悩んでゐるこの私には」

 

『後鳥羽院御集』に収められてゐる。

 

【あぢきなく】形容詞「あぢきなし」の連用形で、「思ふようにならない」「面白くない」「理想通りではない」といふ意。【世を思ふ】世間・天下のことを思ひわずらふといふ意。【もの思ふ】自分の心に沸き上がるさまざまな思ひのこと。

 

後鳥羽上皇は、武家政権たる鎌倉幕府が次第に朝廷から政治の実権を奪ひつつあることを憂へられた。「あぢきなく 世を思ふ」とは、さういふことを表現されたのである。「もの思ひ」が和歌によく歌はれる「恋の悩み」ではなく、政治的対立・緊張に関する悩みであるが故に「あぢきない」といふやや乾燥した言葉を用ゐられたのかもしれない。

 

鎌倉の武家政権が朝廷を蔑ろにしてゐると感じられる情勢下にあって、元来繊細なる御心を持ち、慈悲深く、人を愛する心が深かった後鳥羽上皇は、人を恨む心を持たれる事があった。そのことを率直に歌はれたのであらう。

 

上の句で「人」といふ言葉を重ね、下の句で「思ふ」といふ言葉を重ねることによって切迫感、切実さが表現されてゐる。

 

つまり、世を憂へられるが故に増してくる他者への愛憎の念を制御できないことを見つめられてゐる御歌である。きはめて繊細にして複雑な心理描写・自己反省の御歌であると拝する。

 

この御製は、「承久の変」の結果、後鳥羽上皇が隠岐島に遷幸された後の御心境を詠まれた御歌ではない。「承久の変」よりも九年前の建暦二年(一二一二)、御年三十三歳の時の御作である。武家政権による「道統の隠蔽」「王朝文化破壊」を上御一人としてお嘆きになった御歌である。王朝時代から武家時代に移る過渡期の天皇としての深い悩み・憂ひを歌はれた。

 

藤原定家は、この御製を『百人一首』に収めた。『百人一首』の冒頭の二首は、天智天皇と持統天皇の御製である。掉尾の二首は、この後鳥羽上皇の御製と順徳天皇の御製である。これは何を意味するか。

 

天智天皇は、蘇我氏を討ち滅ぼして大化改新を断行され、皇室中心の国家体制を確立された天皇であらせられ、持統天皇は宗教・政治・法制・文化など全ての面で天皇を君主と仰ぐ国家を盤石のものにされた天皇であらせられる。

 

一方、後鳥羽上皇は、天に二日無き天皇日本国の國體が隠蔽されることを食い止めんとして「承久の変」を戦はれ、敗北された天皇であられる。順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、十四歳で第八十四代の天皇に即位され、父君と共に「承久の変」を戦はれたが、佐渡に潜幸された天皇であられる。

 

『百人一首』に収められた順徳天皇の御製は、

 

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、朝廷が栄えた昔が懐かしく思はれて、いくら偲んでも偲びきれないことだ、といふ意)

 

である。

 

藤原定家は、王朝時代の終焉を悲しみ、さらに恩顧を受けた後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊をお慰めするために『百人一首』を作った。『百人一首』は後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊を鎮魂する歌集であると共に、「王朝文化」の精華を後世にのこす歌集であった。

 

後鳥羽院上皇(治承四年一一八〇~延応元年一二三九)は、高倉天皇の第四皇子で御名は尊成(たかひら)。源平の戦ひが終わり、平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った寿永二年(一一八三)に五歳で践祚。その後、十九歳で位を譲り院政を執られる。承久三年(一一九八)「承久の変」に敗れ、隠岐へ遷られ在島十九年にして、崩御。悲劇の天皇であらせられる。『新古今和歌集』を編纂され、「千五百番歌合」などを催し、ご自身も多くの名歌をのこされた。

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2018年7月25日 (水)

千駄木庵日乗七月二十五日

午前は、諸事。

 

午後は、資料の整理。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、「第10回サイバーセキュリティ月例セミナー・サイバーセキュリティ戦略の改定について」開催。三角育生氏(内閣官房内閣サイバーセキュリティセンター副センター長・内閣審議官)が「サイバーセキュリティ戦略の改定について」と題して講演。質疑応答。モデレーターは山口昇元陸将・元内閣官房参与。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

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2018年7月24日 (火)

船橋洋一アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長による「地政学・ポピュリズム・メディア」と題する講演内容

三月三十日に開催された「新聞通信調査会七〇周年記念特別講演会」における船橋洋一アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長による「地政学・ポピュリズム・メディア」と題する講演の内容は次の通り。

 

「地政学・ポピュリズムにメディアは連関している。石橋湛山が活躍したのは第一次大戦から第二次大戦まで。第二次大戦後は、政治家に転出した。危機の時代の二十年間に、自由主義・国際協調主義で論陣を張ったが、彼の理念はことごとく裏切られた。その時代はなんと今の時代と似ているかと感じた。

 

地政学の視点から非常に厄介だが、それを無視しては世界が見えない。日露戰爭で大陸に足掛かりを持つことによって、ユーラシア大陸に引き込まれてゆく。ユーラシアの地政学をわきまえないままに入ってしまった。兵を出してしまった。満州事変以降の朝日新聞の昭和時代の報道を検証すると、報道が大きく変わったのは満州事変から。

 

今日も、大きな國が『強引に相手に圧力をかけてはいけない』というルールを破っている。中国とロシアがそういうことをし始めている。今の秩序を一方的に変えようとする。別の秩序を作ろうとする。都合が悪くなるとシステムを捨てる。中国の楊潔篪外交部長は、アセアン地域のフォーラムの外相会議において、アセアンの外相に向かって『中国は大国、あなた方は小国。そこから全てが始まる』と言った。尖閣もその辺から変わってきた。中国の公船が一方的に入って来たのは二〇〇八年十一月から。

 

地政学と歴史が重要な概念。今世紀末に日本は五千万人国家になる。何もしなければそうなる。先々週ジャカルタに行った。インドネシアは独立百年で国家ビジョンを描いている。『インド・中国・アメリカ・日本の次がインドネシアでありたい』と言っていた。人口を国のランキングにした大国がものを言う世界になって行く。

 

アメリカ政府は去年十二月『国家戦略報告書』を出した。今までの秩序を一方的に変えようとしているのは中国とロシア。我々は中国が豊かになれば、中国は我々と似たような國になると思っていたが、そうはならなかった。中国は戦略的競争相手という概念を明確にした。アメリカは民主党の中も、共和党の中もバラバラだったが、中国への認識は超党派的合意になっている。

 

トランプはひどい。しかし、トランプの代わりに民主党政権が出て来ても、対外政策は変わらないという気がする。トランプは一時的現象。アメリカは変りつつあると見るべし。

 

金正恩が北京に行った。新華社の報道によると、習近平は金正恩に你(にー・きみ)と言った。金正恩は習近平に您(にん・あなた)と言った。中国の国際秩序觀は、国内の秩序觀の投影である。中国は自国の文化を投影して秩序を作る。中国は力が付けば周辺諸国を従えようとする。朝鮮半島に対して赤裸々な形で出てくる。韓国に対する中国の対応。サード導入の時中国政府がロッテの土地を収用。ロッテの店を全て営業停止にした。現代自動車も売り上げ半減。済州島観光も九〇%減った。産業政策から韓国の電池を使っている自動車を外してしまう。経済を地政学的目的のために使う。ドイツの自動車メーカー・ダイムラー傘下のメルセデス・ベンツが、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマの言葉を引用してインスタグラムに掲載したことが中国共産党の反発を買い、メルセデス・ベンツは中国で公の場での謝罪文を読みあげさせられた。中国は相手を屈辱的な姿にしないと気が済まない。

 

地政学とは軍事による力の政治。ギリシア国王が言った言葉に『強国は自分が欲しいものを手に入れる。小国は自分が蒙らなければいけないものを蒙る』がある。今まさにそういう状況。今、中国がやっていることは凄まじい。ドローンにしてもどんどん先に行っている。個人の信用度を国家が管理している。十三億のデータを持っている。市場の見えざる手より、計画経済の手がある。これはうまくいかないと思う。『上に政策があればしたに対策がある』という言葉がある。皇帝は何時も正しくなければいけない。しかし国民は不満を持っている。永久に不変的な政治体制は存在しないというのが歴史の常。

 

社会主義は未来の何処かにユートピアがあとする。古典的保守は過去に理想を求める。多元的なものを持っているのがリベラリズム。トランプが二期目になるとアブノーマルがノーマルになってしまうという危険がある。

 

メディアは全体の利益を書かないといけない。国民という概念は大事。愛国心は重要。それがないと自分のアイデンティティも守れない。中国が重視しているのは孔子学院。ここに来た人をエージェントにする。中国は宣伝を一つの戦術として過大視する。プロパガンダをやっている。ソフトパワーではなくシャープパワーとなり激流になっている」。

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千駄木庵日乗七月二十四日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後六時より、水道橋で永年の同志二氏と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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「皇室典範」について

『大日本帝国憲法』第七四条には、「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」(皇室典範の改正は、帝国議会の議を経る必要はない)と書かれている。

 

これについて伊藤博文はその著『憲法義解』の「憲法第七四條」の「註」で、「皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相關かるの権義に非ざればなり」と論じている。

 

また明治天皇勅定の『皇室典範』六十二条には、「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ勅定スヘシ」と書かれている。

 

伊藤博文著の形をとる『皇室典範』の逐条解説書『皇室典範義解』(明治二十二年六月一日公刊)の「前文」には、「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の条章を更定することあるも、また帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。また臣民の敢て干渉する所に非らざるなり」と書かれている。

 

さらに『皇室典範義解』の第六二條の「註」において「皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と言っている。

 

さらに明治二十一年五月二十五日から六月十五日にかけて、枢密院で『皇室典範』について審議が行われた。そこにおいて次のような発言があった。

 

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)「皇室典範を以て国会の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」と発言している。

 

山田顕義(司法卿)「皇室典範は特別重大の法典にして尋常の法律命令と混同すべきに非ず。故に別段の勅令を以て之を発布し、普く人民をして之を恪遵(注・忠実に守る意)せしめざるべからず。」

 

河野敏鎌(枢密顧問官)(『皇室典範』を)公布するとも、別に議院の干渉を容るゝの虞毫厘もあることなし。如何となれば、向来皇室典範を改更することあるも、皇族幷(ならび)に枢密院に諮詢する等の明条(注・『皇室典範』第六二条)あるを以て、更に議院の容喙を許さゞればなり。」

 

以上のごとく、『皇室典範』は本来「勅定」であり、議会が干渉することはあってはならない。

 

「天津日嗣の高御座の繼承」という神聖不可侵の事柄を、上御一人の御意志をうかがうこともせず、政争が繰り返される権力機構たる議會で決めるのは間違っている。臣下・政治家が『皇室典範』を改定すること自體、不敬不遜の極みである。

 

権力機構たる議会や政府が、『皇室典範』改定を行うことは、政體が國體を規制し、権力が権威を規制し、「俗」が「聖」を規制し、権力国家が信仰共同体国家を規制することになる。これは文字通り國體破壊である。衆参両院議員の過半数によって、國體の根幹が変更されたり、否定されたり改変されることは絶対にあってはならないことである。

 

天皇國日本においては『憲法』を含め全ての「法」の正統性は、天皇の神聖権威による。現御神日本天皇以上の権威は日本には存在しない。『皇室典範』の改定は、國家の権力機関である立法府・行政府で決められるべきではなく、日本の伝統の体現者てあらせられる天皇陛下の大御心を体して決められるべきである。『皇室典範』は勅定であらねばらない。

 

『皇室典範』を権力機関たる衆参両院において審議し改定することは、わが国の伝統を侵すこととなる。戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇位継承という皇室の重大事が権力機構である国会で決められてしまうようになったのは、重大なる國體隠蔽、激しく厳密・厳格に言えば「革命」「國體破壊」への道を切り開くものである。

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千駄木庵日乗七月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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2018年7月22日 (日)

伊勢皇大神宮について

第一〇三代・後土御門天皇は、明応四年(一四九九)「伊勢」と題されて、

 

「にごりゆく世を思ふにも五十鈴川すまばと神をなほたのむかな」

 

と詠ませられた。

 

後土御門天皇の御代は、応仁文明の乱・疫病の流行・大火大地震・武家の専横などがあり、皇室の衰微が極に達した。崩御になられた後、御大葬は行われず、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十九日に及んだという。この御製は聖天子の篤き祈りの御歌である。

 

今日の日本も「にごりゆく世」である。本来の日本の清き姿に回帰することを日本国民は神に熱祷しなければならない。伊勢の皇大神宮に参拝すると本当に日本人に生まれ来た喜びと有難さを實感する。

 

「ここは心のふるさとか そぞろ詣(まい)れば旅ごころ うたた童(わらべ)にかへるかな」

 

 吉川英治が昭和二十五年十二月、五十八歳の時、『新平家物語』執筆のための取材旅行の途次、伊勢の皇大神宮に参拝して詠じた歌である。実感した心をそのまま素直に歌にしてゐる。伊勢に参拝した日本人誰もが抱く心が歌はれてゐると思ふ。

 

矢野憲一氏はこの歌について、『わたしたちのお伊勢さま』所収の「私達の伊勢神宮」といふ文章で、「内宮神楽殿で、『即興でお恥ずかしいが……』と書かれた歌です。この歌から『心のふるさと』という言葉が有名になりました。玉砂利の参道を歩きながら吉川英治が、子供の心に返る思いがすると詠じたように、なぜ神宮は懐かしい感じを私たちに与えるのでしょうか。それは日本人皆につながる大御祖(おおみおや)神がおまつりされているからです」と書いてゐる。

 

日本人の伊勢の大神への崇敬の心は、教義教条に基づくのではない。日本人としてごく自然な畏敬の心である。だからこそ、伊勢の神宮の神域に入ると大いなるものへの畏敬の心に充たされ、童に返ったやうに素直な清らかな心になるのである。

 

イエスキリストは、「幼兒の如ごとくならずば、天國に入ること能はず」と言ったが、日本人は、伊勢に参宮することによって「うたたわらべにかへる」のである。ここが日本伝統信仰の素晴らしいところである。

 

この歌は、『吉川英治文庫』所収の「川柳・詩歌集」には、「伊勢神宮にて」との題詞がつけられ、「ここは心のふるさとか ひさの思ひに詣づれば 世にさかしらの恥かしく うたたわらべにかへるかな」とある。即興の歌を推敲したのであらう。「ひさの思ひ」とは、久しく参ってゐなかった懐かしい思ひ、といふほどの意であらう。

 

伊勢の神宮は日本伝統信仰の結晶である。日本伝統信仰の最尊最貴の聖地であり、日本伝統信仰が現実のものとして顕現してゐる。日本伝統信仰とはいかなる信仰であるかは、伊勢に参宮して神を拝ろがめば感得できる。理論理屈は要らない。

 

伴林光平は、

 

「度會(わたらひ)の 宮路(みやぢ)に立てる 五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは 神代なりけり」

 

と詠んだ。

 

これも、伊勢参宮の時の実感を詠んだ歌である。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりまします故に伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。

 

「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思はれ、自分自身も神代の人のやうに思はれる」といふ意である。光平は、「今即神代」の信仰を、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴へてゐる。

 

伴林光平は河内の人。真宗の僧であったが、加納諸平・伴信友に国学と歌道を学び、還俗して、天誅組の大和義挙に参加。京都六角の獄で斬罪に処せられる。この歌は宇治橋を渡って歩み行く人々全ての実感ではなかろうか。

 

 保田與重郎氏は、この光平の歌について論じ、「神苑の杉の並木を歩いてゐると、いつの程にか神代の心に我身我心もなりきってしまふといふ意で、神宮参拝の心持を非常によくうつした名作である。…樹そのものが神と思はれるのである。さうしてその感覚の中では、自分と木は一つになる。…大木を大切にすることの必要さなどといふことは、大木を見て神を知った者は必ず切実に感じる。さうしてさう感じる心が、即ち日本の本質である。日本の生々発展の神の創造力に奉行し得る。…大木を見ても、たゞこれを伐って何に利用しようかといふやうに考へるたぐひの心持が、日本人の一部に動いてゐるが、私はこれを無限に悲しみ、憤ってゐる。…この神苑の大杉は物ではなく、神である。この感覚が永久に日本を支へる感覚である」(橿ノ下)と述べておられる。

 

西行は、治承四年(一一八〇)六十三歳の時、三十年ほど過ごした高野山から伊勢に移り住んだ時に、

 

「何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるゝ」

 

と詠んだ。

 

若き日に社会主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において、

 

「おのづから 神にかよへる いにしへの 人の心を まのあたり見む」

 

と詠んでゐる。

 

窪田空穂は、

 

「遠き世に ありける我の 今ここに ありしと思ふ 宮路を行けば」

と詠んだ。

 

伊勢皇大神宮は、「今即神代」「天地初発之時」への回帰を実感する祭りの聖域である。「今即神代」「天地初発之時」といふ時の「今」とは、時間的感覚でとらへられる「過去・現在・未来」の中の「現在」ではない。「久遠の今」である。それは、ミルチャ・エリアーデの言った「かの初めの時」であり、キリスト教の「われはアルファでありオメガである」、佛教の「久遠元初」と近い意義を持つと考へる。まさに伊勢の神宮は「心のふるさと」なのである。

吉川英治は、次のやうな俳句も詠んだ。

 

「昭和十四年霧島にて

霧島に 神の子われも 詣でたり」

 

 宗教の根底にあるものは、天地自然の中に生きたまふ大いなるものへの畏敬の心である。伊勢の神宮をはじめとした日本の神社は、最も純粋に最も簡素にその大いなるものをお祭りしてゐる聖地である。

 

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千駄木庵日乗七月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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「国歌君が代」の信仰精神

 

「君が代は 千代に八千代 に さざれ石の いはほ となりて 苔のむすまで」

 

 

「国歌君が代」の「さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」という歌句をとらえて、小さな石が大きな岩に成長するということはあり得ないから非科學的な歌であるという議論があるが、日本伝統信仰に対する無知をさらけ出した議論である。

 

石が成長して大きくなり巌となるというのは日本人の古来からの信仰的真実である。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩という自然物が生きているという日本の伝統的自然神秘思想から来ている。

 

全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。石や岩などの自然物に魂が宿っているという古代信仰は『萬葉集』の次の歌に表れている。

 

信濃なる 筑摩の川の 細石(さざれいし)も 君しふみてば 玉と拾はむ (萬葉集巻十四・三 四〇〇)

 

 東歌(東國方言で庶民が詠んだ和歌)である。「信濃の千曲川の小石もあなたがお踏みになったのなら玉と思って拾いましょう」というほどの意。恋人が踏んだ石には魂が籠っているという歌である。石に魂が籠るというのは古くからの民俗信仰であった。

 

 さらに、柿本人麻呂が石見の國において亡くなる時、妻・依羅娘子がこれを嘆き悲しんで詠んだ歌では、

 

今日今日と 我が待つ君 は 石川の かひにまじりて ありと言はずやも (萬葉集巻二・二二四)

 

 と詠まれている。山の谷間の貝塚などに遺骸を葬る風習が古代にはあり、川に臨んだ貝塚群の底から、人骨が出土する例が報告されている。「石川のかひ」は、死者を葬った川のそばにあり水に浸された貝塚のことである。石川と名づけられたのも、小さな石(すなわちさざれ石)には霊が籠っていて、霊の憑依物・霊的なものとして考え、「玉」とも呼ばれた長い信仰がこの歌の底にはある。

 

 石と岩の違いは、石が成長した岩には魂が籠っているということである。「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させないして霊力を賦活させ神聖化することである。そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。

 

 家に籠ることを「いはむ」という。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けること。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることをいう。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いわう。いつく。ものいみする、という意)と同じ意である。 

 

 「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含している神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来ている。

 

柿本人麻呂は次の歌を詠んだ。

 

「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」

 

「天皇は神様であらせられるから、天の雲の雷の上に忌み籠られてお祭りをされておられる」という意である。

 

「いほらせる」は、「いほりする」の尊敬語である。「いほる」とは、「斎」(いつき)の意義が込められている。人麻呂は、天皇が神聖なる雷丘に忌み籠られて五穀の豊饒を祈る祭りをせられたことを詠んだのである。

 

 このように、「いへ」「いは」「いむ」「いつく」は語根が同じくし、深い関係がある。ゆえに、魂の籠っている「石」を「岩」と言うといっていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところなのである。

 

 人々は、亡くなった人の遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるという信仰に基づく。石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら、地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考えた。 

 

 日本の「家」(いへ)はそれを構成する人々つまり家族の魂が一処に籠っているということである。

 

したがって、君が代(天皇の御代)は「石」が「岩」になるまで続くということは、天皇國日本は魂の籠っている永遠の國家であるという信仰精神なのである。岩を霊的なものとしてとらえ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういう信仰を歌っている歌が『君が代』なのである。

 

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千駄木庵日乗七月二十一日

午前は、諸事。『政治文化情報』発送完了。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備、原稿執筆、書状執筆。

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2018年7月20日 (金)

今日思ったこと

立憲民主党の枝野幸男は20日の衆院本会議で、安倍内閣不信任決議案の趣旨説明を2時間43分にわたって行った。これを嫌がらせと言う。議会政治を愚弄する行為であり自由民主国家の野党第一党の党首のやることではない。総会屋がやったことである。

 

19日午後参院内閣委員会での「カジノ法案」採決の時、山本太郎は、委員長の持っていた書類を力づくで奪った。これは完全に暴力行為である。懲罰にかけられるべきである。国会審議は『難波金融伝』ではない。

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馬田啓一杏林大学名誉教授による「揺らぐアジア太平洋の経済統合の行方と日本の対応」と題する講演の内容

三月十日に開催された「アジア問題懇話会」における馬田啓一杏林大学名誉教授による「揺らぐアジア太平洋の経済統合の行方と日本の対応」と題する講演の内容は次の通り。

「これからアジア太平洋は経済秩序の大きな節目を迎える。『アメリカ第一』を掲げ、エゴ剥き出しのアメリカの保護主義的な通商政策が、各国の大きな不安と警戒を生む。トランプ政権は『力づくの通商政策』を進めるつもりだ。相手の弱みに付け込み、何でも取引材料にして、強引にアメリカの言いなりにさせる手荒な交渉術を取ろうとしている。その背景には、『アメリカの生産と雇用を守るため二國間の貿易赤字削減が必要だ』とするトランプ政権の誤った認識がある。

トランプは予想できない所がある。流れに任せていいのか。日本が先頭に立って、トランプ政権の暴走を抑えるのか。その延長線上に、対中国戦略がある。中国はアメリカに代って新しい覇権を得ようとしている。その中国に好きなようにさせていいのか。中国の動きにどうやって歯止めをかけるのか。

 

インドを上手にまき込んで『一帯一路』を牽制する動きがある。TPPに中国が入る時に中国を変わらせる。普通の資本主義国にする。今の中国は国家資本主義。中国の周辺国が全てTPPに入ると、中国にとって脅威。日本は中国を変らせるためにこうした状況を作らねばならない。TPPを墓場に埋めるわけにいかない。

 

アメリカの力づくの経済政策の対象は、日本、中国、メキシコ。トランプ政権はアメリカの孤立など平チャラ。日本がどうやってうまくアメリカを相手に言を進めて行くのかが問題。中国を変える長期戦が始まっている。

TPPはアジア太平洋におけるアメリカの影響力を強めるもっとも重要な手段の一つであるはずだ。中国がアジア太平洋の覇権を狙い、アメリカに取って代わろうと動いている時、アメリカのTPP離脱は中国の思う壷。トランプは、いまアジア太平洋で起きているアメリカにとって『不都合な現実』を直視すべきだ。

トランプ旋風は、TPPやNAFTAを悪者にして、グローバル化と自由貿易に懐疑的なプアホワイト(アメリカ南部の貧しい白人をさした言葉)の支持を集めた。アメリカの孤立を厭わず。目先の経済的利益と雇用を優先し、支持者にアピールするトランプ政権の内向き姿勢は、米議会の中間選挙を控え強まりそうだ。

トランプ政権は、TPPの代わりに、アメリカをハブ(中心)とする二国間FTA網の構築を目指す。だがそれはメガFTA時代の潮流に逆行、周回遅れの発想。アジア太平洋における目がFTAの実現を目指す日本にとっては、アメリカの二国間主義、日米FTAは有難迷惑。

アメリカのTPP復帰に向けて、裏ワザと言える妙案を打ち出せるかが成否のカギ。衣替えと厚化粧(整形手術は回避)をした新装TPPの成立に期待。アメリカと日本が喧嘩をしても、中国が喜ぶだけ。アメリカに『TPPに戻っておいでよ』と言うべし」。

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千駄木庵日乗七月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送作業。原稿執筆。

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日本と支那との文化的差異

 

「共産支那政府」は、いはゆる「過去の歴史問題」を持ち出して、常にわが國を非難し内政干渉を繰り返し、自國民に長年にわたって「反日教育」を行って来た。尖閣諸島や東シナ海ガス油田開発問題などでわが國に対して軍事侵略を行ふ危険さへある。今や「共産中國」はわが國にとって最大の脅威となってゐる。

 

これに対し、わが國の姿勢はあまりにも軟弱である。「共産支那」がどんなに理不尽な事をしても正当なる対処も出来ない。その原因はわが國民の多くが「日本は、五千年の歴史と傳統を持つ『中國』から文字・思想・宗教・美術など多くの文化・文明を学んだ。わが國は『中國』に感謝しなければならないのに、近代において『中國』を侵略した」といふ誤った認識を持ってゐることにある。

 

支那から傳はってきた漢字によってわが國は「文字」を持ったといふことは事實である。しかし、支那では、つい最近まで漢字を読み書くことのできる人は一部の知識人に限られてゐた。文学・彫刻・建築・絵画など他の藝術も、支那よりも日本の方が洗練され高度にものになってゐる。つまり、日本は支那から色々な文化・文明を輸入したが、支那をはるかに超えた高度な文化・文明をつくりあげた。日本人は、「日本は『中國』の文化的精神的属國である」といふ誤った認識を払拭すべきである。

 

支那は「禮」を全く忘却し喪失した國となり日本國に「禮」は生きてゐる

支那は「禮文化の國」といはれる。「禮」とは、社会の秩序を保ち、人間相互の交際を全うするための礼儀作法・制度・儀式・文物などのことである。

 

「禮儀」といふ言葉がある通り、「禮」とは抽象観念ではなく、實際の行動・動作である。

 

宇野精一先生は、「(『論語』顔淵篇に「克己復禮を仁となす」とある・註)克己とは己の私欲に打ち克つことであり、複禮とは禮――倫理規範の意味における行為の標準――に立ちかえってこれを實践するという意味である。仁は孔子の根本教義であるから、これを實践する方法たる克己復禮は、正しく孔子の實践道徳の根本方法と考えてよかろう。…要するに孔子において、倫理の原理としては仁、實践としては礼が最高の標準であった。」(『儒教思想』)と論じておられる。

 

ところが、今日の支那及び支那人ほど「禮を失する行為」を繰り返し、私欲を最優先させてゐる國及び國民はない。

 

貝塚茂樹氏は、「徳川時代、元禄の頃から『論語読みの論語知らず』という諺が出来た。書物の上で理論を理解しているが、實行が少しもともなわない偽学者をそしって、いかに『論語』の存在が一般町人の世界に身近かったかを示すことばである。」(『世界の名著3』所収・「孔子と孟子」)と論じ、さらに、林泰輔氏(註・漢学者。東京高等師範学校教授)の、「中國及び朝鮮・安南(ベトナム)においては『論語』を挙業(文官選抜)の試験に用いたるがゆえに、盛は則ち盛なりと雖も、名利のためにこれを読みこれを誦し、あるいはその粗を咀()いて、その精を棄つるの憾みあり。わが邦人のこれを読むは、然らず。その外皮を棄ててその神髄を取る、ゆえに國本培養の効を奏することを得たるなり」(『論語年譜』)といふ論説を引用してゐる。

 

和辻哲郎氏は、「儒教を生みまた儒教を奉じているはずのシナの歴史が、儒教の道理に反する事蹟を数限りなく含んでいる…賤しい身分のものが君を殺して、帝王になる。夷狄としていやしめている異國人に征服せられてその夷狄に服従する。そういう事蹟はいくらでもある。即ちシナの歴史は儒教の理が空理にすぎぬことを實証しているのである。」(『尊王思想とその傳統』)と論じてゐる。

 

支那は、『論語』の國・儒教の國であるが、権力者も民衆も、『論語』に書かれた道義精神とはかけ離れた生活を営んできた。

 

日本は、神道といふ傳統信仰を基本に置きながら、外来思想・宗教を自己のものとして来た。本家本元の支那で「儒教倫理」は實行されず、官僚・知識人の教養にすぎなくなり、さらには権力者の体制維持のイデオロギーと化した。わが國においては、國民全体が『論語』に示されてゐるやうな倫理精神を自然に實行してゐる。

 

日本及び日本人は、支那及び支那文化」に対してみっともない劣等感を抱く必要はさらさらないのである。わが國は、支那や朝鮮から多くの文化・文物を輸入した。しかし、その属國となることはなかった。今後の日本もさうであらねばならない。

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千駄木庵日乗七月十九日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理など。

夕刻、団子坂下にて、同志二氏と懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年7月19日 (木)

海洋国家日本は大陸国家・半島国家に深入りすべきではない

東アジアにおいて、大陸国家と半島国家・海洋国家とに分けられる。支那は大陸国家であり、朝鮮は半島国家であり、日本や東南アジア各国は海洋国家である。戦争が起こる確率が高いのは、半島国家である。

 

「東アジア共同体」などということが言われたことがあったが、日本と支那が「共同体」を形成するということは、日本が大陸との関係を今日以上に深めるということである。これまでの歴史で、日本が大陸に進出して成功したためしはない。

 

戦前は、軍事的・政治的に大陸に深入りして、ソ連中共の謀略に引っかかり、泥沼の戦いとなって日米戦争にまで進み敗北した。戦後は、経済的に深入りして、金と技術をまきあげられ、共産支那を軍事大国にしてしまい、かえってわが國の安全と独立が脅かされている。

 

東アジア各国の、経済協力、文化・芸術の交流、そして災害・疫病・環境問題の協力などは必要なのであろうが、わが国がきちんとした国家戦略と自主防衛体制を確立しないままに大陸や半島に深入りして積極的に関与するのは、支那大陸に深く進出して行った戦前のわが國の過ちを繰返すこととなると考える。

 

支那は「中華思想」という差別思想・侵略思想によってこれ迄の長い歴史において周辺諸国を侵略してきた。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝(ようだい)・唐太宗のように内乱の後に大統一帝國が成立した時には、強力な國外侵略を行っている。

 

共産支那は、朝鮮戦争・中印戦争・中越戦争・チベット侵略・中ソ武力衝突など数々の戦争を起こし、チベット・内蒙古・満洲・東トルキスタン(新疆ウイグル)に対して侵略支配を行なっている。そして、対外膨脹策を取り続け、台湾・尖閣諸島・南沙諸島などへの武力侵攻を企て、東シナ海の支配を確立せんとしている。

 

「中華思想」とは、國家的民族的規模での「功利主義」「利己主義」「自己中心主義」である。「中華の繁栄」のためなら他国を侵略しても良いし、他国が滅んでも良いという思想である。今日のアジアにおける最も大きくまた最も危険な軍国主義国家、軍事大国、侵略国家は共産支那=「中華人民共和国」である。

チベット・満州・東トルキスタンなど「中華人民共和国」の面積の三分の二は、支那民族が他の民族の居住地を侵略し収奪し併合したものである。

 

そして今日唯今も、中華人民共和国は、軍事力強化に狂奔している。「海洋強国」を国家戦略に掲げて海洋権益の拡大を進めている。 共産支那はすでに南シナ海の制海権を掌握しており、国産空母が完成すれば東シナ海の制海権も掌握するであろう。「一帯一路」などというのはまさに「中華帝国主義」の別名である。

 

共産支那の李鵬元首相はかつて「日本という国は五十年後にはなくなっている」と言ったという。まさにわが國は「中華帝国」に属国化され、日本国は独立は失われる危険がある。そんな悪夢を現実にしてはならない。

 

アメリカの従属下から脱するということは大切である。しかしそれと引き換えに支那の従属下に入ることだけは避けなければならない。

 

要するに日本に対して核兵器を向けている国と友好などあり得ない。日本の国連への拠出金は全体の一九%なのに、常任理事国になれないのは何故か。日本から経済援助によって「四つの現代化」を成し遂げ、軍事力を飛躍的に強化し、核兵器を持ち、国連の常任理事国になっている共産支那が反対しているからである。

 

アジア各国との友好は大切である。しかし、支那大陸への深入りは絶対に慎むべきである。日本の軍事的自立を前提としない「日中協力」は軍事大国・アジア最大の侵略国家共産支那のアジア支配に協力するだけである。海洋国家日本は海洋国家と深く連帯して行けばいいのである。

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千駄木庵日乗七月十八日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、資料の整理など。

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2018年7月17日 (火)

「現行憲法」は国体破壊もしくは隠蔽の元凶になっている

祭祀国家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に国民の幸福を祈る祭り主なのであらせられるから、国民と相対立する存在ではないし、日本天皇は国民を力によって支配し隷従せしめる存在ではない。国民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を国民に示し、また国民の意志を神に申し上げ、国民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり君主と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。こうした天皇中心の日本の国柄を「君民一体の日本国体」というのである。

 

「現行占領憲法」は、君主と人民とは相対立する存在であり国家とは国民同士が契約して成立するものであると考える西洋法思想・西洋国家観に貫かれており、日本国体の根幹を正しく規定していない。むしろ「現行憲法」は国体破壊もしくは隠蔽の元凶になっている。憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いているのである。この度の「ご譲位」そして「皇室典範改正の議論」においても、「憲法との整合性」「護憲」の名のもとに数々の国体破壊もしくは隠蔽が行われる危険がある。

 

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。

 

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『国

民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇の』の地位を復元すべきものと思ふ。」(葦津珍彦『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

 

日本の伝統的国家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の国柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。「現行占領憲法」は一刻も早く無効とし、日本国の建国以来の国柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

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千駄木庵日乗七月十七日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

午後六時より、日本橋にて、同志と懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆など。

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日本民族の國を愛する心の特質

日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言ってゐる。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

 

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千駄木庵日乗七月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆。

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2018年7月16日 (月)

捨身無我の絶対尊皇精神について

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びず思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じてゐる。

 

天皇は現御神であらせられ絶對的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶對にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違った御命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反對したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐる。

 

ただし、諌め奉る事を一切否定してゐるのではないと思ふ。三度までは諌め奉り、どうしてもご翻意なき場合は、勅命に従ひ奉るのが日本天皇に対する臣下国民の道である。

 

本居宣長が説いている捨身無我の絶対尊皇精神が日本人の道義精神の極地であると思ふ。これを「恋闕心」と言ふ。「恋闕心」とは、宮闕(きゅうけつ・宮殿・宮城・宮門)を恋ひ慕ふ心のことである。ただひたすらなる尊皇の思ひである。

 

日本國の生命・歴史・傳統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつらふひ奉ることが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」といふことである。

 

 

「詔書」は、やまと言葉で「みことのり」と申し上げる。「のり」は「のる」の名詞形であり、「天皇の御命令」をおごそかに宣言されるといふ意である。「詔勅・詔書」は、天皇国日本における最高の公文書である。

 

「渙発」とは、四方に水の散る如く広められるといふ意である。大君が四方に宣言されたお言葉が「みことのり」である。そしてその「のり」は「憲」「則」「矩」「規」「法」である。わが國における「法(のり)」の原義は、「天皇が宣せられた御命令」である。

 

『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹である。「天皇の大御心・みことのりを謹んで承る」が、天皇国日本の臣下国民のあるべき姿であり、道義精神の基本である。

 

「臣(をみ)」の語源は「忌み」である。「忌み」とは、心身を清浄に保ち、けがれを避け慎むことである。斎戒ともいふ。神への祭祀を執行する時、厳重なる「物忌み」をする。「大臣」とは「大忌み」であり、神事に奉仕する大事や役目を担ふ人といふ意である。日本国は「祭政一致」の国柄であり、宮廷の公の仕事は神への「まつりごと」なのである。

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千駄木庵日乗七月十五日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、書状執筆、資料の整理など。

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2018年7月15日 (日)

「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である

「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である

 

満洲建國は断じてわが國の侵略ではない。侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。しかし、満洲は本来的に支那の領土ではない。また、満洲は独立主権國家ではなく諸民族が混在する無主の地であった。

 

『後漢書東夷伝』に、「九夷」ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は朝鮮・日本と同じく「東夷」であり支那人の言う「中華」ではないのである。萬里の長城の内と外とは有史以来敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那ではない。漢民族にとって満洲族は東夷(野蛮人)、満洲は化外の地であり、萬里の長城の北側である満洲は、「絶対に一緒になりたくない世界」ではあっても「絶対不可分の固有の領土」ではなかったのである。

 

明治三十八年(一九○五年)八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人乃ち清朝に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。

 

革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対して孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

孫文はまた、「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る。…況や清虜(満洲人への蔑称)政柄を執る茲に三百年。人民を愚にするを以て治世の第一義となし、その膏血を絞るを以て官人の能事となす。…試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到り見よ。彼等は現に自ら治むるの民たるなり」と論じた。(宮崎滔天の『三十三年之夢』)

 

明治四十四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。

 

孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

以上のように「日本は満洲を中國から奪った」「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である。日本が満洲に進出しても、わが國が支那を侵略したことには全くならないのである。

 

満洲は清朝崩壊後、馬賊(清末から満洲に横行した群盗。馬に財貨を積んだ隊商の宿泊地などを襲い馬ごと略奪した)や軍閥が跳梁跋扈する地となった。軍閥の支配は文字通り苛斂誅求で民衆は苦しめられていた。

 

わが國は、日露戦争勝利後、明治三八年(一九○五)五月、「ポーツマス条約」により合法的に、南満洲鉄道とその付属地(関東州)の権益をロシアより譲り受けて、鉄道を敷設し産業開発と治安維持に努力した。そして毎年百萬人の漢民族が支那大陸の戦乱を逃れて満洲に流入した。辛亥革命当時は千八百萬だった満洲の人口は、満洲事変の頃には三千萬に達した。

 

共産革命後のロシアも、アジア赤化=侵略の前線基地として満州を手に入れようとして「中国共産党」を支援して反日闘争を展開した。満洲は日本防衛すなわち自存自衛のための生命線だったのである。

 

わが國軍民は「ポーツマス条約」に基づいて合法的に満洲に在留していた。そして、日本軍によって満洲の治安が回復した。わが國は、「五族(日・満・蒙・韓・漢)協和」「王道楽土」の理想國家を作ることによって満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらした。

 

満洲國では、各種の改革が実行され、土地の農地化・重工業の発展・治安の向上が実現し、混乱の続く支那大陸をはるかにしのぐ安定した國家建設が行われた。多くの民衆は不安と恐怖と貧困と飢えから解放された。他の地域にいた民衆が年間百萬人前後満洲に移住してきて人口はさらに急増し、満洲事変前の人口は三千萬人であったのに、十年後の一九四一年(昭和一六年)には四千三百萬人になった。これは、満洲という地域が、日本軍によって侵略され、日本によって植民地支配され、搾取され、民衆は虐待され、虐殺され、酷い目に遭ったという説が、全くの嘘出鱈目であることを証明する数字である。

 

満洲國建國以前は農林業しかできなかった満洲が、自動車・戦闘機まで生産する一大工業國になった。日本の國家予算が年間二○億円だった時代に、日本は満洲に対して十数年間で一三○億円前後の資本投下を行ったのである。

 

満洲事変はわが國による侵略では絶対にないし、満洲建國はわが國による搾取が行われた植民地支配では絶対にない。西欧列強がアジア・アフリカ・中南米などで行ってきた植民地支配・収奪・搾取とは全く異なる。近代國家建設の理想と情熱で満洲を開発し、十三年半という短期間に近代國家を作り上げたのはまさに奇跡である。わが民族は、満洲事変は自存・自衛のための止むを得ざる作戦であると認識し、満洲建國を誇りとしなければならない。

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千駄木庵日乗七月十四日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆。

この後、北区にある菩提寺に参詣。四宮家の墓所を掃苔、『般若心経」読誦、ご加護とご冥福を祈る。住職夫人にご挨拶。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆。

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2018年7月14日 (土)

在原業平の歌に詠まれた日本人の他界観

 

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを       在原業平

 

在原業平は平安時代初期の歌人。六歌仙の一人。平城天皇の孫・阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。在原姓を賜って臣籍に降下された。

『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。

 

この歌は、「病してよわくなりにける時、よめる」といふ詞書がある。

 

通釈は、「最後には行かなければならないあの世への道だとは、以前から聞いてはゐたけれど、まさか昨日今日その道を行くことになるとは思はなかったなあ」といふ意。

 

死に直面した時の驚きの心を詠んだ歌であるが、嘆きや悲壮感や無常感を露骨に表現することなく、素直にして平らかな心で歌ってゐる。現代に生きる我々にも違和感なく、時代を超えて訴へるものを持ってゐる。故に古来、辞世歌として最も親しまれてゐる。業平は五十六歳で没した。

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」といふ。そして死んだ人は草葉の蔭から生きてゐる人を見守ったり祟ったりする。といふことは、死後の世界と現世は遮断してゐないで交流し連動してゐるといふことである。伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉国の神話も死後の世界と現世との交流が描かれてゐる。 

 

日本人は基本的に、肉体は滅びても魂はあの世で生き続けるといふ信仰を持ってゐる。死後の世界は、次第に理想化・光明化されてゆき、神々の住み給ふ世界と信じられるやうになった。何故なら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでゐるなどと考へることに耐へられないからである。

 

古代日本人は生活全般が信仰心を基本としてゐた。天地萬物に神や霊が宿ってをり、森羅萬象は神や霊の為せるわざであると信じてゐた。だから「他界」にも神や霊が生きてゐると信じた。しかし、反面、穢れた「他界」も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでゐると信じられた。

 

素晴らしい聖なる世界・清らかな他界は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき他界は夜見の国・根の国と呼ばれた。これが後に仏教の輪廻転生思想と結合し、西方極楽浄土及び地獄の思想が多くの日本人に信じられるやうになったと思はれる。

 

春秋二回のお彼岸は今日仏教行事になってゐるが、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事である。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねて来ると信じてきたのである。「彼岸」とは向かふ岸といふ意味であり、日本人の「他界観念=よその世界・まだ行くことのできぬ世界に憧れる心」とつながる。

 

業平のこの歌は、古代から傳はってゐる日本人の他界観を踏まへて、安穏の境地とは言へないまでも平常心で死を迎へたいといふ心を歌ったのではあるまいか。

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千駄木庵日乗七月十三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『やまと新聞』連載原稿執筆・脱稿・送付。

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2018年7月13日 (金)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 三島由紀夫氏は、『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、三島由紀夫氏の自決以来四十八年を経過した今日、三島氏の言った「新らしい日本」はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっているように思える。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」という言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として「自殺」するのではなく、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここで言う「身分の高貴さ」とは、職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れがその淵源であろう。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島由紀夫氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道」の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって「美」であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの「文」は、言うまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言った。

               

 『萬葉集』に収められた「柿本人麿歌集」の

 

「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)

 

という歌は、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島由紀夫氏の理想とした美を全く否定してきた。今の世の中は、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは『檄文』の冒頭に書かれている通りである。

 

 三島由紀夫氏は、戦後日本の救済・親の革新のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

                                   

 三島氏由紀夫氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が自決を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島由紀夫氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。

 

しかし、自決後四十八年を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。結果がこの混迷である。今日こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

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千駄木庵日乗七月十二日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆、脱稿。送付。

午後五時、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者と打ち合わせ。

帰宅後は、資料の整理など。

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2018年7月12日 (木)

日本傳統文化は現代文明の欠陥を是正し新たなる文化を形成する

 現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となっている。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行うようになった文明のことであるが、それは、産業革命以来機械技術の発達と資本主義そしてそれに反発するものとしての共産主義の発展を促し、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

 

 そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかっている。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重を反省しなければならない。

 

 自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出すために重要な意味を持ってくる。

 

 日本傳統信仰は、大自然を尊ぶ。それは、大自然から、人生を学び、生き方を学び、國の平和と人の幸福の道を学ぶ心である。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ)」であり「日女(ひめ)」なのである。

 

 日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないと考えた。人も國土も神から生まれた、神が生みたもうたと考える日本民族の信仰は、神が人間と自然を造ったと考える西洋一神教の創造説とは異なる。神と人間と自然とは対立し矛盾した存在ではなく、調和し、融和し、一體の存在であると考える。こうした精神は排他独善の精神ではない。あらゆるものから学ぶべきものは学ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

 闘争戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそこの日本伝統精神が大きな役割を果たすと考える。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統精神が、世界を救い、統合し融和して調和するのである。

 

 西洋精神は、キリスト教もイスラム教もマルクスレーニン主義も、一人の教祖の説いた教義・一つの書物に書かれた教義を絶対的なものと信ずる。一神教的ものの考え方が、いかに世界に闘争を持ち来たしたかは、ロシアや支那や朝鮮やカンボジアなどにおける共産主義思想による殺戮、今日世界各地で起こっている宗教対立・闘争・殺し合いを見れば明らかである。

 

 自由自在にして大らかなる日本傳統精神は、教条的で固定的な西洋思想・文化・文明に訂正と活性化を与える。

 

 天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の傳統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。 

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千駄木庵日乗七月十一日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、聖武天皇御製などを講義。

帰途、出席者の方々と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2018年7月11日 (水)

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ 源實朝

 

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ

源實朝

 

建暦元年(一二一一)七月、大洪水が起こり、大きな災害がもたらされた時、鎌倉幕府第三代征夷大将軍・源實朝が、「雨を止めてくれ」と八大龍王に訴へた歌。實朝二十歳の時の歌。『金塊集』所収。

 

「八大龍王」とは、『法華経(序品)』に登場する仏法守護の善神で、龍族の「八王」のことと言ふ。特に、「八王」の中の娑伽羅龍(しゃからりゅう)は雨を司る。實朝が、征夷大将軍として民の難儀を救ひたいといふ、切なる心を龍王に訴へた歌。

 

「訴へる」は「歌(うた)」と同系語で、「歌」の語源は「訴へる」である。「やまと歌」とは、感動をそのまま素直に訴へる文藝であり、その歌を鑑賞する人もその訴への感動を共有する。自己の感動を定型に集約して表現する文藝が「やまと歌」である。「やまと歌」とは、「書く」ものでもないし、「つぶやく」ものでもない。「訴へる」ものであり、「歌ふ」ものである。そして鑑賞する人に感動を与へるものである。

 

實朝は、長雨に困窮する民衆のために、為政者として一心に龍王に祈ったのである。民を救ひたいといふ魂の底からの念願を強い気迫で訴へたこの歌は、まさに「やまと歌」の典型である。

 

通釈は、「雨は人間生活に欠かせない天の恵みですが、時によっては降りすぎると民の嘆きになります。八大龍王よ、どうか雨をおやめ下さい」。

 

龍神は水の神様である。日本人は水の湧く場所を龍神がをられる所と信じて祀り、水辺で稲作を行ってきた。そして龍神が祭られてゐる神祠に、水の恵みに感謝し、雨乞ひの祷りを捧げることは古来行はれてきた。

 

反面、實朝の歌にある通り、雨が降りすぎると洪水になる。それだけでなく、大雨と共に発生する稲妻や雷鳴は恐ろしいものである。落雷によって被害も蒙るので、古代人は経験によって、水神と雷神は一つの神として信じた。

 

雷が龍神として信じられるやうになったのは、稲妻の姿が、龍のやうにのたうちまはりながら光を発するからであらう。

 

さらに、稲妻と落雷炸裂の音のすさまじさは、火焔の立つ刀剣を連想させた。故に、剣の神霊・鍛冶の神ともなった。

 

須佐之男命が退治した八俣大蛇(やまたのおろち)は、斐伊川の氾濫による洪水の象徴であり、奇稲田姫(くしなだひめ)は稲の田の象徴であると言ふ。また、八俣大蛇の体の中から出現した草薙剣は、雷神・水神たる龍神・蛇神の象徴である。日本神話は古代日本人の生活から生まれてゐることがわかる。

 

雷神が、雨や水を支配する神として崇められたのは、雷雨が稲の成熟にきはめて適した良い条件をもたらすものと信じられたことによる。だから、雷電を稲妻・稲光・稲つるびと言った。

 

このことは、雷の空中放電によって、二酸化窒素を生じ、さらに雨に降れば、硝酸と亜硝酸になって、水田に降りそそぎ、窒素肥料になるといふやうに、科學的に証明されてゐるといふ。

 

「稲妻」とは、空中に自然に起こる放電に伴って、空を走る光のことであり、「いなびかり」とも言ふが、これで害虫が死に、稲が豊作になるので、「稲の妻(つま)」に見立てたと言ふ。

 

また、雷の発生しやすい高温多湿の気象状況は、稲の成長にきはめて適してゐる。古代人は、多年の経験によって、雷神を水の神・稲の豊饒をもたらす神として信仰したのである。

 

源實朝は、武人であり、征夷大将軍である。しかし、やさしき心根を持つ人であった。それは彼が、「ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」「いとほしや見るに涙もとどまらず親のなき子の母をたづぬる」といふも歌を詠んだことによっても分かる。

 

その實朝が、鶴岡八幡宮で兄・源頼家の子・公暁に「親の仇」として暗殺されてしまった事は、何とも大きな歴史上の悲劇であった。後鳥羽上皇への忠誠心篤い實朝が殺されなければ、『承久の変』は起らなかったと思はれるからである。

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千駄木庵日乗七月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年7月 9日 (月)

この頃詠みし歌

厳かに運ばれ来たりしおろし蕎麦美味くなければ悲しみ深し

 

貧しくとも家狭くとも多くの子を育てし昔の親たちを思ふ

 

思ひ出す言葉は一つ「貧乏人の子沢山」二階俊博氏の正論を聞き

秋月正夫がステッキを持ち元気さうに楽屋より出で来しを見たる思ひ出

 

歌ひ終へし田谷力三がびっしょりと汗かきてゐるを楽屋にて見し

 

銀座の街で島田正吾と握手して芝居の台詞を言ひし思ひ出

 

変り行く街の姿を眺めつつ変はらざるものを尊ぶ心

 

頑張れよビルの狭間の一軒家 ベランダには白き衣類乾されて

 

 

遠き日に仮名遣ひの事で言ひ争ひし武川忠一氏も今は亡き人

 

炎天下床屋に行きて髪の毛を短く刈れば涼しかりけり

 

一切の苦厄を度すといふみ佛に祈り捧げて眠りにつかん

 

金平糖を食べて潤ふわが心糖分摂取は疲れを癒す

 

煙草のむな煙草のむなのご意見なれど我は一日五本のむなり

 

恐ろしき事件続けるこの頃は一人の部屋に落ち着かずゐる

 

力強き命と思ふこぼたれし家の跡に草萌え出でぬ

 

ひたすらにわが道を行く何事もありても我はわが道を行く

 

厳かに坐りゐるなる占ひ師明日の運命(さだめ)を誰か知るらん

 

大音声発する人の隣にて我は静かに相槌を打つ

 

老いと死のあまりに切なき現実を父母に見しこの十年に

 

父と母は戦中戦後を生き抜きて我と妹を育てたまへり

 

九十幾年生きたまひたる父母の遺影を拝む朝に夕べに

 

包み隠さず心のままを表白すること難きかもわがやまと歌

 

二人の友わが発言にあきれたのか寡黙となりぬ今日の会合

 

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千駄木庵日乗七月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆など。

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第八十六回日本の心を学ぶ会のお知らせ

第八十六回日本の心を学ぶ会

維新の精神と現代の変革

 

今年、平成三十年は明治元年から150年となる年であります。

 

いまから150年前に日本は明治維新を断行し、一君万民の統一国家としての道を歩み始めました。

議会政治や憲法や四民平等など近代国家としての制度は明治維新によって築きあげられたものです。

 

しかし、明治維新の基本精神はいわゆる「近代化」ではなく「尊皇攘夷」であります。「尊皇攘夷」とは、天皇を中心とする統一国家の建設によって、祖国の独立を守り発展を実現することであります。それが明治維新の最大最高の目的でありました。

 

「維新」とは「復古即革新」であります。神武創業・建武の中興の精神に回帰することによって現状を革新することが明治維新の精神です。「王政復古の大号令」に「諸事 神武創業之始ニ原キ」と示されていることによってそれは明らかです。

 

しかし今日、明治維新150年を論ずる人の中には、「復古即革新」の精神が無視あるいは軽視する論議があります。それどころか近年では明治維新をブルジョア市民革命であったとか、薩長による権力奪取・クーデターであったとする主張すら出てきております。

 

これでは、明治維新の歴史とその意義、そして明治維新の戦い身を捧げた数多くの人々の思いと行動を冒瀆することとなります。

 

そこで今回の勉強会では、明治維新が何を目指し、何を実現したのかについて学び、現代の変革に何を示唆するかついても考えてみたいと思います。

 

(今回は文京シビックセンターでの開催となります。文京区民センターではありません。お間違えないようご注意ください)

 

【日時】平成三十年七月二十九日 午後六時から

 

【会場】文京シビックセンター3階会議室A

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html

東京都文京区春日11621◎東京メトロ後楽園駅・丸ノ内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分◎都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分◎JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【講演題目】「明治維新の精神とは復古即革新であった」

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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竹島・尖閣問題について

 竹島はわが国の領土であり、明確に日本の排他的経済水域に入っている。しかるに竹島を韓国領とする理不尽な主張を繰り返し、現に警備隊を常駐させている。また、尖閣諸島は、日本固有の領土でありわが国が実効支配している。

   

 竹島及び尖閣諸島についての日本の領土権の主張は、国際司法裁判所で勝訴できると確信できる正当なもので、韓国・共産支那に対して正々堂々日本の主張を貫くべきである。

 

 国家にとって固有の領土を守ることは、国家主権の大前提である。領土問題という国家の主権に関わる問題においては、我が国は姑息な妥協をせず、毅然として正論を貫かねばならない。

 

 とりわけ竹島は、韓国警備隊が軍事力を以て不当に占領している。このことに対して我が国政府は断固たる対応ができないのはまことに残念である。

 

 竹島の領有権について国際司法裁判所の判断を仰ぐことを韓国側が拒否している。これは韓国の主張に正当性がないからである。

 

 明治三十八年(一九〇五年)のわが国政府による竹島編入の時、韓国は日本に外交権を奪われて抗議できなかったと言うが、その頃韓国は日本の保護領ではなかった。当時の韓国は、竹島に関心が無かったのだ。

 

 また、「サンフランシスコ講和条約」で竹島は日本領土と確定した。同条約で日本が放棄した地域に竹島は入っていない。韓国は日本に竹島を放棄させ韓国領にせよと要請したが米英は否定した。竹島が日本固有の領土であるのは明白である。

 

 しかるに、韓国は昭和二十七年に李ラインをひいて実力を以て竹島を占領する暴挙に出た。そして、漁民の拿捕にわが国国民は切歯扼腕した。日本は海軍を解体されていたし憲法九条の制約があるので十分な措置ができなかった。しかし、昭和二十七、八年に我が国の海上保安庁は四回にわたって巡視船を竹島に派遣し命懸けで標識を立てた。

 

 日本は「日韓基本条約」締結の時、竹島問題の国際司法裁判所への提訴を韓国と合意すべきだった。

 

 韓国は「日本は『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と書かれた憲法があるから、日本に何をしても日本は反撃しない」と甘く見ている。さらに、韓国は反日感情を国内政争の道具にして煽っている。

 

韓国は、戦後反日教育を受けた世代が中心になっていて、反日感情は強まっている。日本時代を知らない人が増え反日運動が愈々強まっている。

 

歴史認識について屈辱外交を繰り返している限り竹島は返って来ない。韓国との歴史問題は、「日韓条約」で決着がついている。しかるに我が国政府は歴史問題についての韓国側の理不尽な脅し対して適切な対応が取れないでいる。それは韓国対してのみならず支那に対しても同じである。

 

福田康夫元総理がいわゆる「南京大虐殺記念館」なるところに花を捧げ、鳩山由紀夫元総理がソウル市内の西大門刑務所の跡地(西大門刑務所歴史館)で土下座をした。このような元総理の行動が、わが国が対朝鮮、対支那外交で屈辱的対応をしなければならなくなっている原因の一つである。

 

 何よりも日本の外交姿勢が問題なのである。日本の軟弱なる外交姿勢が続けば竹島はおろか対馬まで領土要求されるかもしれない。支那・韓国に対して毅然とした発言すべきである。わが国政府は、竹島及び尖閣諸島問題について独立国家としての正当なる姿勢を堂々と貫くべきである。

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千駄木庵日乗七月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年7月 8日 (日)

「現行憲法」によるわが國の建國以来の麗しい國柄の隠蔽が、道義の頽廃を招いている

 

わが國の長い歴史において、天皇中心の國體には基本的には変化はなくても、政体・制度としての天皇のあり方は歴史的に様々な変化があった。古代から平安時代そして中世、さらに江戸時代・明治維新から終戦まで、戦後五十数年の天皇の政体上のあり方には大きな違いがある。しかし、天皇の伝統的な権威は、古代から今日に至るまで、如何なる政体の変化があってもわが國の歴史を貫いて存してきた。

 

 わが國の伝統の根幹は「天皇中心の國體」である。「天皇中心の國體」とは、神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治ということである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)ということである。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。

 

 天皇は日本國の永続性および日本國民統合の中心であり、日本文化の継承と発展の中心であらせられる。日本國はいかなる時代にあても、天皇及び皇室が國家・國民の統合と連帯の基礎であり続けてきた。この歴史的連続性が憲法に正しく規定されていることが大切である。

 

 西洋諸國の外國の國家観・君主観・権力論を基本にした「現行占領憲法」は、祭祀國家・信仰共同体日本の國柄の精神を正しく表現していない。というよりも、「現行憲法」は、天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人の暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「個人の敵」であるという考え方に立って制定された憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」「日本の健全な発展」のためには、天皇の「地位」を低め「権能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想である「國民主権論」が採用されている。

 

日本とは國の成り立ち・歴史伝統が全く異なる欧米の國家論に基づく「國民主權論」「契約國家論」は、日本國體とは絶対に相容れないのであるから、現行憲法の天皇条項は根本的に是正されなければならない。

 

 今や西欧文明のゆきづまりが明らかになり、物質中心の西欧文明から精神に重きを置く東洋文化へと世界史が転換しつつある。今後は自然との共生・人と人との共同意識を基本とする日本の精神文化が重要な役割を果たすと思われる。こういう時代に、西洋の法思想をそのまま日本にあてはめることは基本的に訂正されるべきである。

 

 アメリカ製の「現行占領憲法」が、諸悪の根源になっている。それは「現行憲法」が、西洋思想即ち個人主義と物質主義そして權力國家論・契約國家論・西洋的君主論に基づいており、日本の傳統精神を破壊しているからである。 

 

 天皇が日本國の君主であらせられるという國體法(不文法)は日本國建國以来不変である。天皇は日本の長い歴史を通じて「君主」「統治者」「祭祀主」として君臨されていたのである。天皇が「統治者」であるとは規定されていない「現行占領憲法」は、日本國體の真の姿を正しく表現していない欠陥憲法である。

 

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない天皇条項があるから、日本は安定を欠いているのである。「現行憲法」によるわが國の建國以来の麗しい國柄の隠蔽が、道義の頽廃を招いているのである。

 

 「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。終戦直後、國際法の禁を破って押し付けられた「現行占領憲法」の個々の条項の内容の是非を問うことよりも、根本的に、わが國の歴史的な日本國民精神・國體精神に立脚した憲法に回帰しなければならない。それが、独立國家としても、憲政のあり方としても、至極当然な道理である。

 

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている「現行憲法」が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。このことは、御譲位・皇位継承に関する様々の事象に表れている。

 

「現行占領憲法」は、日本を永久の弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。今日における日本の変革とは、「現行憲法」の無効を確認し、正しき憲法に回帰することなのである。

 

 わが國日本及び日本國民が神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのであるから、「大日本帝國憲法」の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。憲法において、天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定すべきである。

 

 最近憲法改正案が各方面から出されているが、その多くは甚だ残念なことであるが、最も大切である國體条項は、「現行日本國憲法」の基本であるところの「國民主權論」を踏襲している。憲法改正であろうと自主憲法制定であろうと、現行占領憲法の「國民主權」論を踏襲しているのではまったく意味がないのである。

 

 國家存立の根本である「天皇中心の日本國體」を正しく顕現するために、正統憲法に回帰することが最も大切なのである。

 

 大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた共産主義革命勢力による國家破壊策謀の最大最悪のものが、「天皇の尊厳性の破壊」という策謀である。日本國を滅ぼさんとする勢力はこれまで長い間、「天皇批判」「皇室批判」を行ってきた。しかし、日本の共産化を目指したマルクス・レーニン主義者たちが如何にその「君主制打倒」の理論を振り回しても、日本國民の篤い尊皇精神を破壊することはできなかった。

 

 しかし、天皇を中心とした日本國の國柄を破壊せんとする勢力は今日も根強く存在している。そして、天皇及び皇室への國民の篤い尊崇の心を破壊するために、皇室の尊厳性・神聖性を失わしめるために巧妙にして陰湿な画策を続けている。否、続けているどころか益々活発化している。

 

 そうしたことは、「朝日新聞」や「毎日新聞」などという天皇国日本を破壊するために存在しているとしか思えない亡國新聞が、皇室報道において、「陛下」「殿下」などという「敬称」や、「尊敬語」を使用しなくなっていることに端的に現れている。

 

 言葉の問題について言えば、「皇室」に対して「天皇御一家」とか「天皇家」と申し上げるのは慎むべきである。なぜなら、天照大神の後裔であらせられる「皇室」は「姓氏」を持たれないので、普通一般の「何々家」ではないからである。

 

 日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず真の國家の危機である。

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千駄木庵日乗七月七日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。渡辺剛杏林大学教授が、「中国のシャープパワーに揺れる台湾民意」と題して講演。質疑応答。

帰途、出席していた永年の友人と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2018年7月 7日 (土)

「神への回帰」「自然への畏敬」という精神性を重視した世界観・文明観を確立することが大切である

オウム真理教の元代表松本智津夫死刑囚らの死が執行された。宗教とは人々に安心立命・真の幸福とやすらぎを与えるものであるはずなのだが、宗教の歴史は逆に人類に不幸と殺戮を与えている側面がある。宗教とか宗教家というものは、世の中を平和にし、人々に安心立命を与える存在であるはずである。ところが宗教や宗教家が、世の中に争い事を撒き散らし、人々を不安や不幸に陥れる例が多いようです。松本のように信者に大量殺戮を命ずる宗教家もいる。

 

世界各地で起こっているテロや戦争や暴動の多くは宗教がその原因となっています。宗教同士の対立と抗争がどれだけ多くの人々を殺し、人類を苦しみに落とし込んだか。

 

宗教には、正しい宗教と邪宗教があると言われる。しかし、この宗教は絶対に正しく、この宗教は絶対に邪教だというよりも、宗教全般に良い面と危険な面・天使的側面と悪魔的側面とがある。言い換えると、宗教は人々に平安を与えてきたと共に、争乱を巻き起こしてきたのである。自分たちの宗教が絶対的な正しいと主張する宗教ほど、他人を傷つけ殺してきた。

 

キリスト教が愛を説き、世界文化・文明の発展と人々の平和に貢献したことは間違ひない。しかし、キリスト教が正しいことしかしなかったというとそれは大きな間違いである。十字軍の遠征という侵略戦争をローマ法王の命令で行ったし、西欧列強による世界侵略の尖兵の役割を果たした。

 

慈悲を説き非暴力とされる佛教も、比叡山などの僧兵が戦闘を行ったし、一向一揆もあった。オウム真理教も仏教的色彩が強い宗教であった。

 

宗教は愛や慈悲を説くと共に、罰や祟りも説く。そして呪詛することもある。ここが宗教の怖いところである。これまでの人類が行った宗教戦争・宗教対立でどのくらいの人が命を失ったことであろうか。 

 

今日の人類の危機を打開するためには、科学技術・物質文明に偏した考え方を改めて、人間の精神性の復活・内面から発する情念の正しき統御が大事なのである。ある一人の人の説く教義で全ての世界が説明できるという傲慢な考えを捨てて、壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないという謙虚な姿勢を持つべきである。

 

先進諸国の<近代合理主義>を根底に置いた物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「宗教精神」への回帰が大切である。しかし、「宗教精神」への回帰とは、安易にしていかがわしい神秘主義や狂信的な教団宗教へのよりかかりであってはならない。むしろそうしたものを厳しく否定しなければならない。

 

教団宗教は、往々にして排他独善の姿勢に陥りやすい。世界の宗教史は宗教戦争の歴史といっても過言ではない原因はここにある。そして今日それが日本国内においても世界においてもますます激化してきている。創価学会池田教による日蓮正宗宗門に対する攻撃もその典型である。 

 

日本の古代から継承されてきた「道」即ち日本の伝統的信仰精神はある特定の人物によって説かれた「法」でもなければ「教義」でもない。日本伝統信仰すなわち神道には教祖がいない。教典もない。ただ「神への祭り」を行い、「神の道」に随順して生きる事を大切にしている。これが、わが国の伝統的な信仰精神の基本である。つまり日本神道の本質は、特定の人物によって書かれた教条・教義の中には無いのである。文字通り「神」及び「道」のそのものの中にあるのである。

 

日本人は古来、鎮守の神を敬い、亡くなった祖先の御靈を崇め、その御加護を祈ってきた。これが我々日本民族の生活の土台であった。我々日本人は、その「神」を祭り「神の道」を現実に生きることによって宗教的安穏を得るのである。これは日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹である。

 

今日の日本人には、西洋精神の影響を受けて自然への畏敬の念を失ってしまった人が多いが、古来、日本人は自然を神として拝み尊んでいた。これは一種の神秘思想と言っていい。そうした日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が必要なのである。

 

日本の伝統信仰は自然神秘思想であることは間違いないが、全てを神や仏という絶対者の支配に任せ、科学的思考・合理的思考を拒絶するという考え方ではない。ただ人間の作り出した科学技術や人間が発見した<合理的法則>というものが全てを解決するという傲慢な考え方を否定するのである。

 

「神への回帰」「自然への畏敬」という精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。であるがゆえに、神道(神ながらの道)という精神伝統を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく可能性が非常に高いのである。

 

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千駄木庵日乗七月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆。

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2018年7月 6日 (金)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 七月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

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日本伝統精神の特質

 古代日本精神を今日まで文献的に伝えているものは『古事記』『日本書紀』『萬葉集』である。これらの文献は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のような教義・教条が書き記されている文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められているのみである。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ抽象的な論議や理論を重んじなかった証拠である。

 

 近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べている。

 

篤胤は、儒教や仏教という外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の『道』を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じているのである。

 

 さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり。」と論じている。

 

 つまり日本の伝統精神すなわち日本民族固有の『道』は事実の上に備わっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないというのである。抽象的・概念的な考え方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたいあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

 しかし、それは日本の伝統的な精神を論理化しないということてあって、日本に哲学や思想がなかったということではない。萬葉歌人の柿本人麿にしても近世の俳人松尾芭蕉にしても、彼らの偉大なる思想精神は、詩によって表現されている。このことについて保田與重郎氏は、「芭蕉は…自ら感得した詩人の思想を、思想の言葉で語ることはしていない。これは芭蕉のみでなく、わが國の思想の深さを描いた文章の常である。…最も深いものを、日本の思想として語った人々が、我國では詩人であった。…日本の道は、思想としてかういふ形に現れるものだからである。」(野ざらしの旅)と論じておられる。

 

 こういう教義・教条を排するという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

 現代社会は、思想とか信仰というものが、人間の心性の中に深く根ざしたものとして把握されるのではなく、洗脳という形で個人の中に注入される<イデオロギー>と化している。それは人格破壊を招く機械的な洗脳と言う恐ろしさを持っている。

 

 教義・教条とかイデオロギーが人格から分断され洗脳という形で多くの人々を支配した時の恐ろしさは、共産中国や旧ソ連そして北朝鮮などという社会主義国家のこれまでの歴史を見れば明白である。

 

 日本民族の生活態度の基本的特質、言い換えれば日本人の文化感覚を回復することが、こうした危険な状態を是正する唯一の道である。日本伝統精神が今後の世界においても実に大きな価値を持つのである。

    

 近代科学技術文明は、自然を恐れず、自然を征服し作り替え破壊することによって、人類の進歩と発展を図ってきた。しかしその結果、公害問題が深刻化するとともに核戦争の危機にさらされ、今日人間生活そのものが荒廃し、人類は破滅に向かって歩み始めている。

 

 これを打開するためには、自然に調和し大らかにして柔軟な日本伝統精神に回帰する以外にないのである。

 

 樋口清之氏は「日本人は、一般的傾向として、経験的な知恵や合理的知識をを分析や説明をこえた先験的・信仰的なとらえ方で身につける。このため近代分析科学的な理解方法しか身につけていない人からは、前近代的な迷信だと誤解されることもある。しかし分析に対する総合、対立に対する調和という伝統的な思考の中に、先人の生きざまの英知を各所で発見するのである。」(自然と日本人)と論じている。

 

 今日の世界は、これまでの組織された体系を持つイデオロギーや教義では救い得ない末期的状況にあると言っていい。古い体系は次々に崩壊しつつある。我々の目標は、まともな日本を回復するために、日本の伝統精神の英知を取り戻さねばならないのである。繰り返し言うが、日本の伝統精神とは、イデオロギー・教条ではない。日本の自然と風土と生活の中から生まれた日本民族の自ずからなる歴史の精神である。

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2018年7月 5日 (木)

千駄木庵日乗七月五日

朝は、諸事。

午前十一時より、永田町のキャピタル東急ホテルにて、上杉隆氏にインタビュー。『伝統と革新』誌に掲載のためなり。

午後三時、平河町の先輩事務所訪問。懇談・意見交換。

この後、平河天満宮に参拝。

帰宅後は、書状執筆、原稿校正、原稿執筆。

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共産主義は自由を圧殺する

レーニンは、「プロレタリア独裁とは、直接に暴力に依拠し、どんな法律にも束縛されない権力のことである。プロれタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によって戦いとられ支持されるところのどんな法律にも束縛されない権力でもある」と論じた。

 

これが共産主義革命思想の根幹なのである。共産党は、「リベラル」どころか「自由」とは圧殺する政党であることは明白である。人間が本来的に享受すべき「自由」を圧殺する思想・システムが共産主義なのである。法の支配も三権分立も立憲政治も根底から否定されるのだ。

 

共産主義集団の指導者、共産主義国家の独裁者が、反対者に対して苛酷にして残虐なる弾圧・粛清を行ってきているのは、かかる理論に基づくのである。習近平も金正恩もその典型である。

 

共産主義は「平等」を求めるという。平等の社會を実現するためには、暴力を厭わないし、人間の自由も圧殺する。従って、「自由」と「平等」は相矛盾する。ゲーテは、「平等と自由を共に約束する立法者は、夢みる空想家であるか、それともペテン師である」と言った。共産主義と自由は最初から理念的に無縁なのである。

 

向坂逸郎氏は、「社会主義社会は、むろん計画社会である。しかし、封建社会と違っているのは国民が生産手段を社会の所有にして、意識して計画的に運営するという点である。国民によって選ばれた中央機関によって計画される、組織された社会である」(『資本論入門』)と論じている。

 

旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「国民によって選ばれた中央機関」によって計画され組織された社会ではない。第一まともな選挙制度が無い。共産党幹部が組織し統制する権力機関・官僚によって動かされる社会が社会主義社会である。

 

それは、強力なる官僚国家であり、一党独裁の統制社会である。そして権力の移動は選挙ではなく、暴力・テロ・粛清によって行われる。国民の自由は圧殺される。しかも共産主義が目指すところの「平等」もまったく実現しない。一部の党幹部が肥え太り、富裕階層を形成している。これが共産国家の実態である。

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水戸天狗黨の悲劇

 

水戸市松本町に回天神社が鎮座する。れは、安政の大獄から戊辰戦争に至る勤皇殉難志士千七百八十五名の御霊を祀る神社である。拝殿は昭和四十四年の造営。

 

 幕末期の水戸藩は内部抗争が激しかった。尊皇攘夷派の中でも、水戸藩の中核思想たる『水戸學』に解釈を巡って激派と鎮派が真っ向から対立した。そして、安政五年(一八五八)八月八日、朝廷は幕府が勅許を得ずして『日米修好通商条約』に調印したことを非難し、徳川斉昭などが雄藩と共に幕政一新を断行せよと命ずる「勅諚」を水戸藩に下し、各藩にも伝達せよと命じられた。井伊直弼の主導する幕府はこの勅諚の返納を水戸藩に迫った。この問題についてどう対処するかで激派と鎮派が対立した。

 

 激派の主張は、「水戸家の本領は大義名分を重んずることにある。朝廷より賜りたる勅諚は各藩に伝達せねば違勅なる」というものであり。鎮派の主張は、「幕命に背くことは東照宮(家康)以来の伝統に反する」というものであった。

 

 激派の一部志士は、脱藩して井伊直弼を江戸桜田門外で誅殺した。そして、井伊直弼誅殺を行った水戸の志士たちに対して、天下の尊壤の志士の期待が集まった。

 

文久三年(一八六三)八月、「攘夷祈願・親征軍議の大和行幸」(天皇御自ら大和の神武天皇御陵などに参拝され、攘夷を祈願し、鳳輦を伊勢に進め奉り、東に向かって討幕の大事を行うという計画)が中止され、朝廷は公武一和で(朝廷と幕府が一體となって)國難に当たろうとする政情となった。しかし、これに反発する動きとして「大和天誅組の変」や「但馬の変」が起こった。

 

 藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら尊攘派の水戸藩士は天誅組などの動きに呼応して、挙兵して攘夷の先駆たらんとし、元治元年(一八六四)三月二十七日、ついに「前藩主徳川斉昭の遺志を継承する」と称して、脱藩して筑波山に兵を挙げ、水戸藩佐幕派(諸生黨)及び幕府軍と戦った。当初は七十二名であった。彼らは白木の輿に、烈公の霊位を祀り、「贈従二位大納言源烈公神主」と大書した白布の幟を掲げ、これを軍神と奉戴して進軍した。

 

 これを「筑波山挙兵」或いは「天狗黨の乱」という。「天狗黨」という名称の由来は、水戸藩内の保守派・佐幕派である「門閥派」が家格の低い者たちの集まりである「尊攘派」が「鼻を高くして威張り散らす」として蔑みの念を込めて「尊攘派」を「天狗派」と呼んだことによるという。尊攘派の激派は、「天狗は義勇に通じるもの」だとして自ら「天狗黨」と名乗るようになったという。

 

 水戸天狗黨挙兵の檄文には、「東照宮(徳川家康のこと)、大猷公(家光のこと)には別して、深く御心を尽せられ、数百年の太平の基を開き遊ばされ候も、畢竟(つまるところ)尊皇攘夷の大義に本づかれ候儀にて、徳川家の大典、尊皇攘夷より重きは之なき様相成候は、実に勇々しき儀ならずや、……其志誓って東照宮の遺訓を奉じ、姦邪誤國の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝、幕府の鴻恩に酬んとするに在り」と記されている。

 

この文に水戸藩の尊皇攘夷論の大きな矛盾というかジレンマがある。果たして家康が尊皇の至誠を持っていたかどうか疑問である。徳川家康を宗(祖先)と仰ぐ水戸藩の尊皇攘夷運動が、関ヶ原で徳川氏を敵として戦った薩摩や長州の徹底した幕府打倒の姿勢とは違った形になったのはこういうところにその原因があると思われる。

 

 小四郎らの筑波義軍は奮戦したが及ばず、衷情を天聴に達すべく、十月二十三日に幕軍の重圍を突破して軍団を組織し、武田耕雲斎(水戸藩元執政)を総大将として、十一月一日大子(現在の茨城県久慈郡大子町)を出発、同志一千余名を連れて道を下野・上野・信濃・美濃に取り、転じて十二月十一日越前に向かった。大雪道を埋め、糧食給せず、難渋を極めたと伝えられる。

 

 当時、禁裡御守衛総督に任じられていた徳川慶喜は、小四郎や耕雲斎らが熱烈に支持し尊敬していた斉昭の実子である。耕雲斎たちは慶喜なら自分たちの心情と行動を理解して貰えると思い、慶喜のいる京都に向かったのである。

 

しかし慶喜は、「常野浮浪脱走の徒の追討」を奏請し、同年十二月三日、京都を発して近江に宿った。筑波義軍を征討すべく立ち向かってくる軍勢の総督が、義軍が頼みとして来た慶喜だったのである。耕雲斎らは再三にわたって嘆訴状を慶喜に提出したが容れられず、筑波義軍・八百二十三名は加賀藩に降った。

 

 加賀藩は筑波義軍の従容たる態度に同情し、武士を遇する態度で臨んだが、翌慶應元年(一八六五)二月、幕府若年寄・田沼玄番頭意尊(たぬまげんばのかみおきたか)指揮下の幕府軍が到着すると待遇は一変した。幕府は筑波義軍を敦賀船町にあった十六棟の鰊肥料蔵に禁固した。鰊蔵の窓は全て釘で打ち付けられ、日の当たらない寒冷と臭穢の中で、全員が足枷をかけられ、土間に筵を強いて起居の場とし、夜具も与えられず、蔵の中央に樽を据えて用便の場所とし、わずかな穴から一日人の二個の握り飯を供されるという残虐非道処遇にあった。そして武田耕雲斎など三百五十三名が斬首という極刑に処された。斬首を免れた者も、鰊蔵で錮死、水戸に帰った者も獄死した。耕雲斎の家族は三歳の幼児まで殺されたという。

 

 自分を頼って来た水戸藩士を極刑に処した徳川慶喜のやり方は彼の人望を下落せしめ、志士をして徳川幕府打倒の道をいよいよ急がしめる端緒となったといわれる。大久保一蔵(後の利通)は幕府が残酷無比の極刑を行ったことを知り、「是ヲ以テ幕府滅亡ノ表ト察セラレ候」と書いている。もっとも大久保自身も維新後に、政敵・江藤新平を佐賀の乱の首謀者として梟首という残虐な刑に処するのである。歴史はめぐるというべきか。

 

 武田耕雲斎は次のような歌をのこしている。

 

「雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪」

「かたしきて寢ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」

 

この時、耕雲斎は六十一歳の高齢であった。

 

 水戸の回天神社の隣に回天館がある。これは、昭和三十五年、天狗黨の志士たちが拘禁された鰊蔵が解體されることとなり、それを惜しむ水戸市民有志が一棟を敦賀市から譲り受け水戸市常盤神社境内に移築し、さらに平成元年回天神社境内に移築したものである。館内は天狗黨ゆかりの遺品・資料などが展示されている。

     

 扉にはこの蔵で非業の最期を遂げた志士の絶筆がのこっている。また精神的に異常をきたした志士が頭を打ち付けた柱、血糊の付いた壁などがそのまま残されている。

 

故梶山静六氏の「回天 法務大臣梶山静六」と書かれた書が掲げられていた。これは、梶山氏が茨城選出の國會議員だから掲げられているのではない。梶山氏の祖先は天狗黨の志士であったからである。

 

水戸の人に中には、「水戸の人間は天狗黨を死地に追いやった慶喜に恨みを持っているから、あの番組は見ない」と言う人もいる。以前、東京谷中墓地の徳川慶喜の墓に参った時にも、偶然居合わせた老人が、徳川慶喜に対する恨み言を言っていたことを思い出す。

 

 回天神社の隣には、「水戸殉難志士之墓」があり、一定の形の墓石三百七十四基が整然と並んでいる。

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2018年7月 4日 (水)

千駄木庵日乗七月四日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆、原稿校正。

午後六時、半蔵門にて、出版関係者二氏と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年7月 3日 (火)

孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である

 

朝廷は、外國の勢威を恐れた屈辱的な開國に反対した。また開國反対の世論が巻き起った。しかし、井伊直弼の主導する徳川幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷の「攘夷」のご命令を無視して『日米通商条約』を締結した。この事によって尊皇倒幕の声が全国から澎湃として巻き起った。

 

第百二十一代・孝明天皇御製を拝する。

 

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船

 

戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり

 

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新だった。

 

安政五年六月十九日、井伊の主導する幕府は、勅許を得ずして『日米通商条約』を締結した。その前々日の六月十七日、孝明天皇が発せられた『大神宮に外患調伏を祈禳し給ふの宣命』には、

 

「嘉永の年より以往(このかた)、蛮夷屡来れども、殊に墨夷(米夷)は魁主と為て、深くわが國と和親を請ふ所、後年併呑の兆、又邪教の伝染も亦恐る可し。若し要(もとめ)に逆へば、戦争に曁(およ)ぶ可き由を曰(まを)す。實に安危の間、決し難く思ひ煩ふ所、東武(註・幕府)に於いて應接に及び、方今差し拒む可きの慮(こころ)もなく、時勢の變革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輙ち天下國家の汚辱、禍害遠からずと、晝とも無く夜とも無く、寤(さ)めても憂へ寐ても憂ふ。若し兵船来たるべくあらば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没(しづ)ましめ、鎮護の誓を愆(かだ)はずして、天變地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、…國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、萬民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、寶位(あまつひつぎ)動(ゆる)ぎ無く、常磐に堅磐に、夜守日守に幸へ給へと、恐み恐みも申し賜はしく申す」(アメリカを主とした外国がわが国との和親を求めて来たが、後年になってわが国を併呑しやうとしてゐる兆しがある。また邪教の伝染も危険である。わが国が開国を拒否したら武力を行使すると言ってゐる。実に危険である。ところが徳川幕府は時代が変ったのだとして貿易交通を許容しやうとしてゐる。これは国家の汚辱であり害である。わたくしは昼も夜も寝ても覚めても心配してゐる。もし外国が攻めて来たら、天照大御神は明らかに察知されて、神徳の擁護によって蒙古来襲の古事のやうに、神風を吹かせ給ひ、賊船を沈没させ、国家鎮護のお誓ひに違はず、天変地妖を消し除き給ひて、國體を誤らず、禍乱を除き給ひ、世界平和、萬民幸福、永遠に外敵の憂ひ無く、五穀豊饒にして、天皇の御位も揺らぐことなく、永遠に堅固に夜も昼も護り給へと恐れながら申し上げます、といふほどの意)

と示されてゐる。

 

孝明天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇以来の連綿たる皇統の神聖権威を体現され、内憂外患交々来たるといった困難な情勢に先頭に立って立ち向はれたのである。攘夷断行といふ孝明天皇の強いご意志・大御心が國民意識を呼び覚まし、沸騰させ、強靭なナショナリズムとなり、短期間のうちに明治維新といふ大変革をもたらしたのである。

 

勅許を待たずに『日米通商条約』を締結した幕府への孝明天皇のお怒りは激しく、安政五年七月一日に次のやうな御製を詠ませられた。

 

しげりあひ繁り合ひたる萩すすきあるに甲斐なき武蔵野の原

 

「あるに甲斐なき武蔵野の原」とは、「夷」(外國)征伐できず条約を結んでしまった徳川幕府は、信頼するに足らないといふ意味であり、言ひ換へれば、徳川氏は征夷大将軍たるの資格を喪失したといふ意である。

 

さらに、孝明天皇は、幕府の専断を嘆かせ給ひ、六月二十八日には御退位の『密勅』を下し給ふた。それには、「(徳川幕府は)縦令ひ治世続き候とて(外國に)敵し難き旨申し候ては、実に征夷之官職紛失、歎箇敷事に候。所詮条約許容之儀は如何致し候とも、神州之瑕瑾、天下危亡之基、(御名)に於ては何処迄も許容難致候。」と示されてゐる。孝明天皇は、徳川幕府はその使命たる征夷を成し遂げることができない事を歎かれ、条約締結は神國の大きな傷となるとされたのである。

 

「征夷大将軍」とはいかなる役目を持つかについて、平田篤胤は次のやうに述べてゐる。「東西南北のエビスどもの、御國へ対し奉り不届きをせぬやうまた不届き無礼があったならば、相糾し、打平らげよと云ふ大将軍に御任じおかれてさし置かるる、大切なる徳川の御家に坐すによって、征夷大将軍とは申し奉るでござる。」(『伊吹於呂志』)

 

上御一人・孝明天皇が、「徳川氏は征夷大将軍の使命を果たすことができなくなった」と思し召された事の意味は大きい。

 

さらに八月五日には、重ねて攘夷の勅諭を下され、その中で徳川幕府に対して「厳重に申せば違勅、実意に申せば不信の至りに之無きや」と仰せられた。

 

八月七日には、幕府の非を戒め、國論の一致・挙國体制確立を望まれる『御趣意書』を下された。これを『戊午の密勅』と申し上げる。これが契機となり、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、征長の変、薩長同盟・大政奉還、戊辰戦争へと歴史が進み明治維新が成就するのである。

 

宇都宮藩士・大橋訥庵(幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子学を学び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を企てて捕へられ、幽居中病死。)はその著『政権恢復秘策』(文久元年九月)において、「今上ハ英明ニマシマシテ、夷狄猖獗ヲ憂憤シ玉ヒ、日夜宸襟を苦シメ玉フト云フコトハ、草莽マデモ聞エ渡リテ、誰モ彼モ有難キコトヨト涙ヲ流シ、カカル澆季(註・末世)ノ世ニ当リ、神州ノ危キ折カラニ、英明ノ天子出玉フテ、國土ヲ憂憤シ玉フハ、古ヘノ天祖ノ勅ニ、宝祚之隆当与天壌無窮ト宣ヒツルシルシナラント、人ミナ心強キコトニ思ヒ、神州ノ夷狄トナラザル恃ミハ、只天子ノ宸断ニアリ…一声ノ霹靂ノ轟クガ如ク、攘夷ノ詔勅ヲ下シ玉ハゞ、一人モ感動セザル者ナク、海内一時ニ饗応センコト、断々乎トシテ疑ヒナケレバ、是レゾ誠ニ今日第一ノ急務ニ非ズヤ。」と論じた。

 

全國の志士が身命を賭して尊皇倒幕に奮起したのは、孝明天皇の幕府に対する震怒がその根本要因である。そして孝明天皇の震怒が志士を奮起せしめたのは、神代以来のわが國の天皇信仰に基づくのである。つまり、孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である。徳川将軍家の統治能力が弱まったから相対的に朝廷の権威と権力が増したなどといふのは一面的な世俗的解釈である。國家存亡の危機に際して日本民族の三千年来の現御神信仰・尊皇精神が興起したのである。

 

徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない、また当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。すなわち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御陰であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇和歌御會記及び御年譜』の「序」)と喝破しておられる。

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千駄木庵日乗七月三日

午前は、諸事。

昼は、若き友人と懇談。中河与一氏のことなどを語らう。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、春日の文京シビックセンターにて。『國體政治研究会』開催。黒田秀高伏見稲荷大社正禰宜が「明治維新から第二維新へ」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆など。

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山上憶良・大伴家持の「ますらをぶり」の歌

「もののふ」とは、武人・武士のことを「やまとことば」で言った言葉である。「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部」(もののべ)の音韻が変化した語であるという。「もののふ」の「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。

 

物部氏は、古代朝廷の軍事・刑獄のことを司った有力な古代氏族である。饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。用命天皇の崩御直後(西暦五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏と、伝統信仰を重んじた物部氏が戦い、物部氏は敗北し没落した。

 

「物部」の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。古代日本では、超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して力を発揮する霊的力を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧する役目が「もののふ」(物部)であったといわれる。「もののふのみち」(漢語でいうと武士道)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として継承された。

 

山上臣憶良、痾(やまひ)に沈みし時の歌一首

 

(をのこ)やも空(むな)しかるべき萬代に語り續()ぐべき名は立てずして

  

右の一首は、山上憶良臣が痾に沈みし時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人をして、疾める状(さま)を問はしめき。ここに憶良臣、報(こたへ)の語已に畢り、須(しまらく)ありて涕を拭ひ、悲しみ嘆きて、この歌を口吟(うた)ひき。

 

【士】男子のこと。【やも】は反語。【空しかるべき】ムナシは、何もしないこと。【萬代に】後々の世まで。【名は立てずして】名を立てないままで。【名】名声・名誉。

 

通釈は、「男児たる者、何もしないで空しく生涯を終えて良いものか。萬代までも語り継ぐに足りる名を立てないで」という意。

 

「痾に沈みし時」とは、重い病になった時。回復する見込みのない病になった時に、力を振り絞って詠んだ歌。

 

藤原朝臣八束は、霊亀元年(七一五年)―天平神護二年三月十二日(七六六年四月二五日))は、藤原北家の祖・参議藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。後の摂関家になる人は、全てこの人の子孫といふう。聖武天皇の御信頼を得ていた。

 

河邊朝臣東人は、奈良時代の官吏。神護景雲元(七六七)年、正月十八日、従五位下。宝亀(ほうき)元年(七七〇)石見守(いはみのかみ)となる。

【報の語】病状を傳え、見舞いに感謝する言葉。

後書きの通釈は、「右の一首は、山上憶良臣が病気が重くなった時に、藤原朝臣八束が、河邊朝臣東人を遣わして容態を尋ねさせた。そこで憶良臣は返事し終わってしばらくしてから、涙を拭い、悲嘆して、この歌を口ずさんだ」という意。

 

 憶良はこの時、七十四歳。天平五年に薨去した。初句と二句で言いたいことを言い切って、一気呵成に歌っている。死の床にあっても、氣力が充実している。前半と後半が調和していて、緊張感がある。 

天平時代即ち聖武天皇の御代の官人は、何を生き甲斐をしていたかというと、名を立てることであった。男子として名を立てることを誇りとしていた。

 

憶良は、七十歳を過ぎて死期が迫っている時に、「特に名を立てることもしなかったなあ」と、反省し悔やんでいる。これまでの憶良の人生には、男児としての気概があったのか、ということへの反省を歌った。

 

「名と恥の文化」と言われるように、日本人は名誉を守りと恥辱を嫌うことを非常に大切にした。中世の武家社会の家訓には、名誉と恥辱を強調している。名誉を傷つけられ辱めを受けると、命懸けで戦うのが武士のみならず多くの日本人に共通する意識である。

 

「萬代に語り續ぐべき」と歌われているように、縦に永遠に続く生命は家名である。先祖から受け継いできている名誉とは即ち自分自身の名誉である。

 

フランシスコ・ザビエルの書簡に、日本人を誉めて、「私は色々外国を周って来たけれども、異教徒の中で、日本人ほど優れた民族を探すことはできない」「日本人は富よりも名誉を重んじる。これはヨーロッパでは見ることができない。しかも名誉への関心は武士に限ったことではなく、日本人一般に然りである。そして日本人は、侮蔑や軽侮の言葉を決して忍ぶことはできない。名誉への関心が強いから傲岸であるかというと、決してそんなことはなく、一般に善良で礼儀正しく、慇懃で道理にかなったことは何でも受け入れる」と書いている。

 

天照大神と須佐之男命の『誓約(うけひ)』の神話を拝しても、自分が嘘をついたと思われるのを一番嫌った。

 

名誉を重んじ恥を知るということが日本人の倫理観できわめて重要であった。憶良はそういう倫理観を歌っている。

 

憶良は、豊かな学識があったのにもかかわらず、人生においてそれをうまく生かし切れなかったという悔いがあったのかもしれない。しかし憶良は、東宮侍講、伯耆守、筑前守を歴任したのだから、官吏として不遇であったとは言えない。

 

丈夫(ますらを)は名をし立つべし後の代に聞き繼()ぐ人も語り續()ぐがね

 

大伴家持が、歌の道の先輩である山上憶良の「をのこやも…」の歌に和して詠んだ歌。憶良の慷慨悲憤の辞世に熱血児家持が感動して詠んだ。

 

【語り續ぐがね】ガネは意志や命令を表す文の下に現れその理由は目的を表す助詞。語り継ぐためにという意。

 

通釈は、「丈夫は名を立てるべきだ。後の世に伝え聞く人も語り伝えてくれるように」という意。

 

今日のわが國も、道義の頽廃・外圧の危機が顕著になり日本國民の心の中に不安と空虚感が広まっている。歴史と傅統の國日本は、崩壊しつつあると言っても過言ではない。終戦後、わが國に対する精神の奥底に達する破壊行為が、昭和二十年から六年八ヵ月の占領期間に行われた。大東亜戦争後の戦勝國による日本弱體化策謀が愈々その成果があがり花開き實を結んでいると言える。

萬葉時代と同様あるいはそれ以上の激動と危機の時期にある今日においてこそ、『記紀』に語られ『萬葉集』に歌われた日本国民精神に回帰し、それを現代において開顕せしめることが大切である。それこそが、現代の危機打開の最高の方策である。 

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千駄木庵日乗七月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、書状執筆、原稿執筆など。

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2018年7月 2日 (月)

井上毅の「皇祖は天照大御神ではなく、神武天皇である」といふ主張について

 

『大日本帝國憲法』『皇室典範』などの草案起草の中心となった井上毅(肥後の人。号は梧陰。司法省に出仕。フランスへ留學。枢密顧問官。第二次伊藤内閣の文部大臣。弘化元年~明治二十八年)は、いかなる國體観・天皇観の持ち主であったのか。

 

井上毅はその著『梧陰存稿』において、「支那欧羅巴にては、一人の豪傑ありて起り、多くの土地を占領し、一の政府を立てて支配したる、征服の結果といふを國家の釈義となるべきも、御國の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡もて天か下の民草をしろしめすといふ意義より成立したるものなり。かゝれば御國の國家成立の原理は、君民の約束にあらずして一の君徳なり。國家の始は君徳に基づくといふ一句は日本國家學の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「我が國の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」と論じ、天皇國日本が「覇道國家」「契約國家」ではないことを明らかにし、天日嗣日本天皇の國家統治の本質を説いてゐる。全く正しい國體観・憲法観である。

 

ただ、「君徳」は儒教の有徳王君主思想の言葉である。日本天皇は現御神・祭祀主としての神聖権威を保持されてゐるのである。

 

ここで、井上毅のいふ「皇祖」「國家の始」について少しく考へてみたい。新田均氏は、「井上(註・毅)が國家の基本的な枠組みの根拠とその成果とを、神武建國以降の『國史の成跡』に見出している…つまり、井上は、天皇統治の根拠を形而下的なもの(『歴史』的なもの)の上に設定することによって、天皇をめぐって、宗教や哲學といった形而上學的な論争が発生したり、それに天皇や政府が巻き込まれたりすることを避けようとしたのだと考えられる。」(「『現人神』『國家神道』という幻想」)と論じてゐる。

 

新井氏によれば、『教育勅語』発布後、文部省は解説書を井上哲次郎に依頼したが、井上の草案では、『勅語』の「皇祖」は天照大御神、「皇宗」は神武天皇であると説明してゐた。井上はこれに異を唱へて「皇祖は神武天皇、皇宗は歴代天皇」とするよう求めたといふ。新井氏は、「君臣関係の力点を、神話よりも、神武建國以降の『歴史』に置こうとしたのだと言えよう。」と述べてゐる。

 

井上毅の、「皇祖は天照大御神ではなく、神武天皇である」といふ主張は、『記紀萬葉』以来のわが國の傳統信仰を否定とはいはないまでも無視してゐると言へる。皇祖は天照大御神であり、皇宗は邇邇藝命・神武天皇以来御歴代の天皇であることはわが國體の根本である。神話を無視して日本國體及び皇統を論ずることは出来ない。

 

前述した通り、皇位の継承は単に血統の継承ではなく、血統とともに道統・靈統の継承である。天皇は、靈統・道統・血統の継承者であらせられ、この三つの『統』は三位一体である。これを皇統といふ。

 

さらに新井氏によれば、井上毅が『教育勅語』起草に際して総理大臣の山県有朋に出した『意見書』(明治二十三年六月)で「勅語ニハ敬天尊神ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレバ此等ノ忽チ宗旨上ノ争端ヲ引起ス種子トナルベシ」「世ニアラユル宗旨ノ一ヲ喜バシテ他ヲ怒ラシムルノ語気アルベカラズ」と述べたといふ。

 

かかる考へ方により、井上のいふ「敬天尊神」といふ言葉は『大日本帝國憲法』発布の勅語にも『教育勅語』にも用いられなかったといふ。

 

そもそも、わが國の傳統信仰は、天地自然を神と拝み、祖靈を祭る信仰であって、外来の教団宗教と同次元に立って相争ふ信仰ではない。むしろ、日本傳統信仰を保持し根底に置きつつ、外来の思想や宗教を包容摂取して来たのがわが國の精神史・宗教史である。「敬天尊神ノ語」が「憲法」や「勅語」に用いられたら「宗旨上ノ争端ヲ引起ス」などといふことはあり得ない。

 

また日本傳統信仰すなはち神道は、「世ニアラユル宗旨ノ一」ではない。教祖・経典を絶対視し排他独善の布教活動を行ふ教団宗教(宗旨)とは全く別次元の「祭祀宗教」である。

 

井上毅のかかる考へ方は、今日の靖國神社問題を複雑化させてゐる日本の宗教風土とは相容れない偏狭な「政教分離」論につながるのである。

 

明治天皇が、「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」と示されたのは、天地生成・天孫降臨以来の事を示されたのである。日本國體は神話を基礎とする。「天壌無窮の神勅」が天皇・皇室の尊厳性の基本である。

 

昭和十二年三月の『國體の本義』は、冒頭で、「我が肇國は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵の尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の國に降臨せしめ給うたときに存する」として、日本の肇國は神武天皇の御即位ではなく、天孫降臨であることを明記した。

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千駄木庵日乗七月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2018年7月 1日 (日)

防人の心

 

 和歌は、天皇と国民をつなぐ大きな絆である。わが国最古にして最大の和歌集である萬葉集は、上は天皇から下は一般庶民の歌(遊女の歌もある)まで収録さている。萬葉歌の一首一首にわが国の古代人の信仰・思想・生活感情・美感覚があますところなく表現されている。萬葉集は、わが国の伝統精神・日本民族の中核精神を和歌という定型文学で表現した一大アンソロジーであり、わが国の伝統的な民族精神を知る上で、記紀と並んで、まことに大切な文献である。記紀はわが国民族精神が語られている文献であり、萬葉集はわが国民族精神が歌われている文献である。

 

 萬葉集巻二十には、九十三首の防人の歌が収められている。防人とは、唐・新羅のわが国への侵攻に備えるために、筑紫・壱岐・対馬に配置された兵士のことで、わが国が百済に送った救援軍が白村江で敗北した翌年の天智天皇二年(西暦六六三)に配置された。諸国の軍団の正丁(せいてい・二十一歳から六十歳の公用に奉仕した男子)のうちから選ばれて三年間の任務についた。天平二年以降は、特に勇壮を以て聞こえた東国(遠江以東の諸国)の兵士が専ら派遣された。大陸及び朝鮮半島との緊張関係は、約千三百年前から今日まで変わらずに続いているということである。

 

 防人の歌を収集し後世にのこすという偉大な事業を行ったのは大伴家持である。家持が、防人に関する事務を管掌する兵部少輔(ひょうぶのしょうふ・兵武賞の次官)の任にあった天平勝宝七年(七五五)に、筑紫に派遣される諸国の防人たちが難波に集結した。家持は防人たちの歌を収集しようと考え、諸国の部領使(ぶりょうし・防人を引率した役人)たちを煩わして防人たちの出発の日の詠、道中での感想を詠んだ歌を提出してもらった。中には、妻などの家族の歌を記憶していて、それを提出する防人もいたという。 

 

 防人の歌は、防人の率直な心境や東国庶民の生活感情を知り得る貴重な歌である。天皇国日本の永遠を願いながら遠く旅立つもののふの決意を表明した歌であり、生きて故郷へ帰ることができない覚悟した者たちの歌である。当時における辺境の地の素朴な歌ではあるが、日本文化・文学の基本である宮廷文化(みやび)への憧れの心があり、君への忠、親への孝、人への恋心が表白されている。

 

 一人一人がそれぞれの立場で個性的表現をしているが、全体として国のため大君のためにわが身を捧げるという共通の決意が歌われている。天皇への無限の尊崇・仰慕の念と敬神の心、そして愛する父母や妻子への思いが生々しい情感として歌われている。

 

 つまり、日本人の最も基本的にして永遠に変わることなき道義精神・倫理観を切々と歌っているのである。東国の庶民は都に生活する貴族などと比較すれば教養や学識においては劣るものがあるかもしれないが、天皇・国家・家族を思う心は純真で深いものがある。東国の庶民である防人の歌には、古代日本の豊かな精神・純粋な感性がある。

 

 「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」 (防人の任を仰せつかった今日よりは、一切を顧みる事なく、不束ながら大君の尊い御楯として出発致します。私は)

 

 下野の(今日の栃木県)火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)の歌。火長とは十人の兵士を統率する長。

 

 もっとも代表的な防人の歌である。「醜」とは醜いという意ではなく、大君に対し奉り自分を謙遜して言った言葉で、「不束ながら」或いは「数ならぬ」という意。葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ・大己貴神の別名)の「醜」と同じ用法で、「力の籠った、荒々しい強さを持ったものの意」とする説もある。

 

 「御楯」は楯は矢・矛・槍から身を守る武具であるが、大君及び大君が統治あそばされる日本国土を守る兵士のこと。大君にお仕えする兵士であるから「御」という尊称をつけた。

 

 出征する時の勇壮・凜然とした固い決意を格調高く歌っている。この歌の心は一言で言えば上御一人に対する「捨身無我」である。そうしたきわめて清らかにして篤い尊皇の心がふつふつと伝わってくる。しかも、押し付けがましいところがない、さわやかな堂々たる歌いぶりの重厚な歌、と評価されている。                   

 

 このほかにも、防人の歌には感動を呼ぶ歌が多い。そのいくつかを記してみたい。

 

 「わが妻はいたく戀ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」

 (私の妻はとてもわたしを恋い慕っているらしい。飲む水にも妻の面影が見えてとても忘れられない)   

 

 「父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)く在(あ)れていひし言葉ぜ忘れかねつる」(父母が私の頭を掻き撫ぜて無事であれよと言った言葉を忘れることができない)  

 

 「わが母の袖持ちなでてわが故に泣きし心を忘らえぬかも」(わが母が着物の袖を持って涙を拭いながら出発する私のために泣いて下さった心を忘れることができない)

 

 「防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しき物思(もひ)もせず」(防人の妻の歌。防人に召されて行くのは誰の夫ですかと物思いもしないで尋ねている人はうらやましいことです)

 

 これらの歌は自分の父母や妻や夫を切々と思う歌である。素直な感情を何の技巧も用いる事なくそのまま歌っているのでなおさら大きな感動を呼ぶ。

 

 「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に吾は來にしを」  

 (鹿島の社に鎮まります建御雷神に武運長久を祈り続けて天皇の兵士として私は来たのだ)

 

 常陸の國那珂郡の防人・大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の歌。「あられ」は鹿島に掛る枕詞。あられが降る音はかしましいので鹿島に掛けた。「鹿島の神」は鹿島神宮に祭られている武神・建御雷神(たけみかづちのかみ・武甕槌神とも書く)の御事。建御雷神は、天孫降臨に先立って出雲に天降られ、大国主命に国譲りを交渉せられた神であらせられる。鹿島神宮の御創祀は、神武天皇御即位の年と伝えられる。「皇御軍」は天皇の兵士という意味。天皇の兵士・皇軍という意識は、近代になってつくり上げられたのではなく、千三百年の昔よりわが日本の庶民に受け継がれてきているのである。

 

 同じく大舎人部千文の歌に、

            

 「筑波嶺(つくばね)のさ百合の花の夜床(ゆどこ)にも愛(かな)しけ妹ぞ晝もかなしけ」(筑波山の百合の花のように夜の床の中でもいとしい妻は、昼間でも愛しくてたまらない)

 

 まことに素直にして率直に自己の心情を吐露した歌である。そしてそれを萬葉集という公の歌集に、政府高官たる大伴家持の手によって堂々と収められたのである。今日の頽廃的な肉体文学・性欲文学と全く異なった健康的な歌である。

 

 この二首は、敬神愛国の「公の思い」と、妻を愛する「私の思い」とが、一人の作者によって歌われている。ここに萬葉の歌の素晴らしさがある。古代日本決して権力国家ではなかった。天皇を中心とした大らかな信仰共同体がわが日本の本来の姿即ちわが國體なのである。

 

 「天地の神を祈りて幸矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島をさして行く吾は」

 (天神地祇に祈りを捧げ、武具を整えて筑紫を目指して行くのだ。私は。)

 

 下野の國の防人の歌。「幸矢」は、山の幸を獲る矢すなわち狩猟に用いる矢のこと。「貫き」は、矢を靫(ゆぎ・矢を入れて背に負う器具)に入れること。

 この歌は、「あられ降り鹿島の神を祈りつつ」と同じく、敬神愛国の精神を吐露した歌である。防人の歌は、尊皇敬神の志を述べながら、同時に父母を慕い妻子を愛する自然の人間感情を素直に歌っている。ここに古代日本人らしい「まことごころ」の大らかさ・深さがある。

 

 日本武士道の淵源は、記紀に記された須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績にある。この御精神の継承し踏み行ったのが防人たちだったのである。

 

 防人の歌に限らず萬葉歌は、理論・理屈ではなく、日本人の魂に訴える「歌」によって、日本人の中核精神・伝統信仰・倫理観を今日の我々に教えてくれているのである。まことに有難きことと言わねばならない。また、当時は既に聖徳太子の時代の後であるから仏教がわが国に浸透していたはずであるが、萬葉集全体、特に防人の歌には、崇仏の歌が全く無い。    

                                

 尊皇愛国・国のために身を捧げることが日本人の道義の基本である。萬葉集とりわけ防人の歌には、日本民族の道義精神・倫理観の中核たる、「天皇仰慕・忠誠の精神」「神への尊敬の思い」「父母への孝行の心」が素直に純真に高らかに歌われている。現代日本の混迷を打開し、道義の頽廃を清め祓い、祖国を再生せしめる方途は、萬葉の精神への回帰にあると確信する。

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千駄木庵日乗六月三十日

朝は、諸事。

 

午前十一時半より、横浜市中区のナビオス横浜にて、『安岡教学研究会設立二十周年の集い』開催。松田康司氏が司会。国歌斉唱。村山實会長が挨拶。伊藤哲夫日本政策研究センター代表が祝辞を述べた。そして小生が乾杯の音頭を取り、盛宴に移った。

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挨拶する村山實会長

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久しぶりの横浜

一旦帰宅。原稿執筆。

 

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗智之松陰大学教授が司会。村松伸治東京文化大学教授が「皇室経済法について」と題して報告。討論。続いて高乗智之松陰大学准教授が三潴信吾氏著「『日本憲法要論』を読む」と題して報告。討論。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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