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2018年6月 5日 (火)

『戊辰戦争 菊と葵の五〇〇日』参観記

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『戊辰所用錦旗及軍旗真図』


昨日参観した『戊辰戦争 菊と葵の五〇〇日』は、「戊辰戦争は、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌明治2年(18695月の五稜郭の戦いが終結するまでの、一連の戦闘をいいます。王政復古によって誕生した新政府軍と、旧幕府軍との間で500日以上にわたり、各地で様々な戦いが展開されました。本展では当館所蔵資料から、日本各地で行われた様々な戦闘の記録や、戦争に参加した人々に関する資料をご紹介し、戊辰戦争の実像に迫ります」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『戊辰所用錦旗及軍旗真図』(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)重要文化財(戊辰戦争の際、新政府軍が用いた錦旗(きんき)及び軍旗(ぐんき)の精密な模写図です。戊辰戦争では各種の錦旗や軍旗が新政府軍に与えられました。 これらの旗は年が経過すれば劣化は免れないため、政府では絵師浮田可成(うきたかせい)に命じ、これらの旗を克明に模写させ、正確な姿を後世に伝えることとしました(明治21年(18885月から約2年をかけて作成)。本資料の含まれる「公文附属の図」は、平成10年(1998)、「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました、との説明が書かれていた)、『函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺』(はこだてごりょうかくかいたくしよりうけとりかたうかがい)重要文化財、『二の丸炎上並薩摩藩貞焼打等消息ニ付書状』、『甲斐鎮撫日誌』、『赤報記』、『長岡戰爭之記』、『白虎隊之図』、『箱館奉行杉浦兵庫頭 明細短冊』『大正十三年皇太子御成婚贈位内申事蹟書』などを参観。

 

鳥羽伏見の戦いについて、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の相違、幕府内部の所謂『裏切り』『内紛』、徳川慶喜の戦意・統率力欠如」の根本原因である。

 

「錦の御旗」とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以前のNHKの大河ドラマでもそのような描き方をしてゐた。

 

しかし、明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

 

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

 

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。また、わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

『大正十三年皇太子御成婚贈位内申事蹟書』について次のような説明が書かれていた。「幕末期の浪士・相良総三は本名を小島四郎左衛門といい、下総の郷士の子として江戸で生まれました。平田國學を学んだのち尊王攘夷運動に参加し、水戸天狗党の筑波山義挙などにかかわり、慶応三年十月の薩摩藩邸焼き打ち事件で浪士隊を結成して、江戸攪乱工作を行います。慶應四年正月、西郷隆盛らの命で赤報隊を組織し、年貢半減令を宣伝して、東山道を進軍しましたが、政府が半減令を取り消したため偽官軍と見なされ、処刑されます。本資料は大正十三年、相良らの名誉回復のため遺族有志が申請した、赤報隊氏への贈位に関する文書です」。

 

相良総三及び赤報隊については、薩摩に利用されたとか、掠奪を行ったとか、純粋に維新を目指したて戦ったとか、様々な評価がある。しかし、昭和3年(1928年)に正五位が贈られ、翌昭和4年(1929年)、靖国神社に合祀されたという。

 

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