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2018年6月29日 (金)

わが國の伝統的倫理観念・國家観の回復が緊急の課題

若い世代による凶悪犯罪が次々と起こっている。上司を拳銃で射殺する若き警察官、交番のお巡りさんと小学校の警備員を理由も無く殺害する青年、自分の子供になぶり殺しにする若き夫婦。まことに以て恐ろしい社会になって来た。

家庭・社會・共同体で育てられない人間は「狼少年」になる以外にない。日本という国はまともな家庭がなくなり、まともな社会・共同体ではなくなってきているのだろうか。

 

戦後日本は戦勝國によって西洋の國家観を押し付けられた。西洋の國家観は、契約思想に基づいている。西洋は、神と人間とが契約を結ぶキリスト教という宗教がその基盤にある。ゆえに國家もそれを構成する人々の合意と契約によって成り立っていると考えられている。

 

西洋近代國家論の歴史的淵源はキリスト教の聖書である。『旧訳聖書』とは神と人との古い契約のことであり、『新約聖書』とは新しい契約のことである。近代思想家のロックにしろ、ルソーにしろ、社會契約説を唱える場合、必ず聖書の契約を持ち出している。 

 

しかし、國家社會が人間と人間との契約によって成り立つという考え方は、全く架空の観念でありフィクションである。原始社會において人間が社會や國家を作ろうと合意して契約を結ぶなどという馬鹿げたことはあり得ない。 

 

ところが、この「社會契約説」はアメリカ合衆國という國を作り出すためには大きな役割を果たした。アメリカという國は、建國以前は、全く法律のない「新天新地」であり、言ってみれば無法地帯であった。そこには天から天降った君主もいなければ、総督もいなかった。だから、植民者が、自らが自らを治める以外になかった。こうしたことが、契約國家論がアメリカにおいて受け容れられた原因である。またアメリカが未だに「銃社会」になっている原因でもあると思う。

 

メイフラワー号(一六二0年にイギリスからアメリカに上陸した清教徒の船。清教徒とは、十六世紀後半、イギリス國教會に反抗して起こった新教徒の一派。清浄に生活することを主張した。ピューリタンと言う)で結ばれた『メイフラワー憲章』には、「主権在民」「信託による統治」「法の下における平等」が謳われていた。戦後アメリカによって押し付けられた「現行占領憲法」の原理の淵源がここにある。

 

今日のアメリカは「自由民主主義國家」の見本のように言われているが、かつては、メイフラワー号で渡米して来た清教徒たちの子孫が特権階級となっていた。メイフラワー号の子孫にしても、最初から船に乗っていた純粋な清教徒は四十一名とその家族だけで、途中から乗船した残りの人たちはいわゆる「ならず者」「刑余者」か多かったという。

 

清教徒たちはセインツ(聖者)として尊敬され、残りの者たちはデヴィル(悪魔)として差別された。そして、アメリカで一六四一年に制定された『マサチューセッツ法』では、「第一条 異神(キリスト教以外の神)を信じたものは死刑。第二条 魔女も死刑。第三条 神も死刑」と規定されていた。また「インディアンと一緒に住んだ者は三年の懲役」という規定もあったという。さらに、マサチューセッツでは、知事をはじめとした役人は必ず何処かの教會に属するクリスチャンでなければならなかった。

 

これは一神教の排他独善性、残虐性が如実に現れた法律である。アメリカがキリスト教國家であるイタリアやドイツには原爆は落とさなかったが、非キリスト教國家であるわが國には原爆を二発も落とし、東京に大規模な焼夷弾攻撃を行い、大虐殺を敢行したのも、一神教の排他独善性、残虐性及び有色人種への差別意識にその原因があると思われる。

 

「現行占領憲法」の骨格となっている思想である「自由と民主主義」、そして「契約國家論」の淵源である「アメリカ建國の精神」及びキリスト教というものは、このような恐ろしき性格を有していたことを我々は正しく知っておくべきである。          

 

「自由・平等・博愛」そして「民主主義」というものは白人のキリスト教徒にのみ与えられた特権だったのである。このような残虐にして差別的なアメリカ製民主主義・國家論は絶対にわが國には相容れないのである。

 

人間が生存する時、個々バラバラに独立して生きる状態などというものはあり得ない。個人の生存も人権も平和も繁栄も、多くの人間の協力と多くの人間の共同生活の中から生まれる。

 

西欧の契約國家観では、個人のみが唯一の実在であるとするが、これは容易に利己主義に転落する。現代日本の有様がそれである。

 

わが日本國の伝統信仰は、神と人とが相対立して契約を交わすなどということはなく、人も國土も神から生まれたと信じて来た。したがって、わが國の伝統的國家観は、人と人との結びつき(精神的血縁と言い換えてもよい)と信仰によって國家が成立しているという考え方である。

 

『日本人とユダヤ人』という本には、「日本には、『天の時、地の利、人の和』という言葉がある。かつてわが國では人口の八十パーセントがある時期になると同一の行動を起こした。田植えの時期になると全日本人が田植えをしなければならなかった。『ゴーイング・マイ・ウェイ』だなどと言ってそれをしなかったら飢死するしかなかった」という意味のことが書かれている。 

 

四季の変化が規則正しい自然環境にあるわが國は稲作國家であり、そこに生きる我々日本民族は、誰に強制されることもなく自然に共同体生活を営んで来た。そういう生活から日本國という信仰共同体國家が生まれてきた。砂漠の宗教の排他独善性をその淵源とする西洋の国家観・人間観と、わが國との國家観・人間観には決定的な違いがここにある。 

 

ところが日本が戦争に敗れた後、アメリカの押しつけによって、西洋的國家観を最上のものとして受け入れられてしまった。「現行占領憲法」も政治制度も西洋的國家観に基づいている。 

 

わが國の國家観と全く異なる國の憲法の理念が、戦争直後、無理やり押しつけられたのである。「現行憲法」が戦後日本の混迷の元凶であることはこの事実によって明白である。したがって、「現行憲法」擁護を唱えている政党・政治家には現代日本の危機を打開することはできない。と言うより日本国をより劣化させる元凶である。

 

人間が本然的に持っている相互扶助の精神が発達拡大することにより國家が成立する。人間の小さな利己主義へのとらわれを克服して、國家國民全体の幸福・繁栄・平和を生み出すことが大切である。

 

國家とは、人と人とがお互いに協力して生活していく共同体であるという本質を忘却し、國家を搾取機構・権力機構としてのみとらえれば、「國を愛する」とか「國に忠誠を尽くす」などという心は起こらない。まして生命を懸けて國を守ろうなどという気は起こらない。 

 

また、個人の生活が、物質的・経済的条件のみで成り立っているのではなく、精神的信仰的道義的価値が無くしては成り立たないのと同様に、國家もまた決して経済的・物質的・政治権力的機構ではない。精神的・信仰的・道義的共同体である。

 

國民の自由と民主的な政治の根底には、それを支える正しき國家観と共に正しき道義観念・哲學が必要である。しかし、わが國民は、戦後日本のいわゆる民主化が進行する過程において、伝統的権威や慣習に制約されることが少なくなった。それだけに、一層自己を統制することが必要であった。しかし、今日の日本國民の多くとりわけ若者たちは、正しき國家観を喪失しているだけではなく、正しき道義観・倫理観も持ち合わせていない人が以前より多くなっているように思える。 

 

戦前の日本には、『教育勅語』に集約される正しき道義観があったし、「忠君愛國」「敬神崇祖」という正しき信仰精神があった。しかし戦争に敗北したことにより、それらは全て「軍國主義」「封建道徳」の名を着せられて排撃されてしまった。そしてわが國は道義観なき「自由と民主主義」「個人の尊重」が声高に叫ばれて来たのである。そして五十二年を経過し、今日の体たらくとなっているのである。

 

わが國には「恥を知る」という倫理観がある。「日本文化は名と恥の文化である」と言われるほどに、わが國民は恥をかくことを嫌うし、名がすたること忌み嫌ってきた。恥をかかさせることに何よりも怒りを覚える國民であったし、恥ずべきことはしないことを何よりも重んじてきた國民である。

 

ところが、今日の若者は浮浪者でも乞食でもないのに平気で地べたに座り込んで話をしたりものを食べている。こういう若者たちを<恥知らず>というのである。若者だけではない。政界・官界・財界のエリートたちも<恥知らず>が多くなってきている。何とかいう元文部事務次官はその典型だ。だからわが國近年の外交は屈辱外交を繰り返しているのである。

 

わが國のすぐれた伝統精神・倫理観念・國家観を回復することが緊急の課題である。問題はその方法論である。一番大切なのは、家庭と學校における教育なのであるが、これがおかしくなっているのだから事は深刻なのである。

 家庭においては親たちが子供の鏡となるような生活を営むことが大事である。しかしその親がおかしくなっているのだから事態は深刻なのである。學校教育においてはわが國のすぐれた古典を教育すべきである。

 

人間は伝統的な諸価値によって決定される正しい行動の規範に基づいて生活することによって、真の自由と幸福とを得ることができる。

 

混迷の淵にある祖國日本を起死回生せしめるには、戦後民主主義を根本的に反省し、わが國の伝統的な國家観と道義精神を回復せしめなければならない。それが文字通り「専制と隷従、圧迫と偏狭を永遠に除去」し、わが國國民が真の平和と自由を獲得する道である。

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