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2018年5月 8日 (火)

日本傳統信仰について

 

日本傳統信仰すなはち神道には教祖がゐない。教条が書かれた教典もない。ただ「神々への祭り」を行ひ、「神の道」に随順して生きる事を大切にしてゐる。これが、わが國の傳統的な信仰精神の基本である。

 

日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、わが國の後世や外國に見られるやうな誰かが説いた知識として独立的に存在してゐるのではなかった。神とか罪悪に関する考へ方が、全て「祭祀」といふ實際の信仰行事と不可分的に生まれて来た。抽象的な論理や教義として我が國傳統信仰の精神即ち神道を把捉することはできない。

 

古代日本人の精神をうたひあげた『萬葉集』に、「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」といふ歌がある。「神ながら 言擧せぬ」とは、「神のおまかせし、自己の主張を言葉に出して言ひ立てることをしない國」といふ意である。

 

日本の傳統精神は、「人間が発見したと主張する一つの論理や法則」「人間が作りあげ世界を秩序立てて説明する特定の教義」を打ち立て、それに反するものを排撃しなかった。ここに日本の精神的大らかさと謙虚さとがある。それが日本民族と日本文化の包摂性の基である。

 

「學として説かれざる學」「言葉に表現されない言葉」で継承されてきたのが「日本の道」である。日本傳統信仰は、〈道〉を言葉(抽象的な論理や教義)で表現しなくとも、神々の御事績そして祭祀といふ〈現實〉に厳然として存してゐる。

 

つまり、日本神道の本質は文字通り「神」及び「道」のそのものの中にある。日本人は、その「神」を祭り「神の道」を現實に生きることによって宗教的安穏を得る。

 

日本民族が、ユダヤ教など一神教の律法、ギリシャ哲學のロゴス、佛教の法、儒教の礼といふような、規範・教条を持たなかった事は、日本傳統精神が劣ってゐるといふ事ではない。むしろ、日本傳統精神が柔軟で自由で大らかにして且つ強靭である事を証しする。だから仏教・儒教を受容し日本化したのである。

 

日本は、四季の変化が規則正しいだけでなく、穏やかな自然環境に恵まれてゐる。ゆゑに日本人は、衣食住はもちろん人間関係をはじめあらゆる生活の安定と豊かさは、自然のままに、自然に随順して、自然を規範として生きることによって、實現することができる。自然に随順することが生活規範であり哲學であったと言っていい。まさに「神ながら 言擧せぬ國」なのである。これが日本民族が、現實を肯定し、自然を神として拝む態度で生活し、殊更に論理や教条を構築する必要がなかった原因であらう。

 

日本人は、森羅万象ことごとく神ならざるものはないと考へた。かうした精神からは排他独善の精神は生まれない。あらゆるものから學ぶべきものは學び、摂取すべきものは摂取する。

 

日本人は自然のみならず、歴史からも「道」を學んだ。わが國に傳はる「道」は歴史に現れてゐるのだから、體系としての世界観や人倫思想を人為的に「さかしらなる知識」を以て言挙げし作りあげなくとも、日本の國の歴史の事柄・事實に學べば良かった。

 

わが國傳統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰であるのは、わが國傳統信仰が、國民生活の中から自然に生まれてきた信仰精神であるからである。だからこそ、神道の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。

 

わが國において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全國に國分寺・國分尼寺を建立された。わが國において仏教は、皇室を通して広まった。そして日本傳統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合して来た。

 

神道は他の宗教を排斥することのない包容性・柔軟性を持ってゐるけれども、その根底には強靱性・純粋性がある。だから、外来思想・宗教を受容しても、神道といふ傳統信仰が滅びとしまふといふことはなかった。

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