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2018年5月25日 (金)

國民主権論は日本國體と相容れない

 

『現行占領憲法』の三原理の一つであり第一条にも明記されてゐる「國民主権主義」は、「君主主権主義」に対する「抗議概念」である。そして、「政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張する」とされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。

 

『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっている。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係ではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體の國體」と言ふ。これが日本肇國以来の國體であり歴史である。

 

従って「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は「天皇中心の信仰共同體國家日本」とは全く相容れない。

 

天皇の祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体として悠久の時間的連続・歴史と傳統を有してきたことが日本國の特質であり尊厳性である。これを「萬邦無比の日本國體」と言う。

 

故に、「國家の意思を最終的に決定する権力」即ち「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などということを「成文憲法」に規定することは、わが國の國體・歴史傳統と相容れない。西洋法思想・國家思想である「國民主權論」を日本國の憲法に規定することは國體を隠蔽し國體破壊につながる。

 

三島由紀夫氏は、「(現行憲法の第一条と二条の矛盾は仼)第一条に於て、天皇といふ、超個人的・傳統的・歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保證者たる機能を、『國民主權』といふ、個人的・非傳統的・非歴史的・空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。これは、『一君万民』といふごとき古い傳承觀念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか後世の制度によって、昔からの制度を正當化しようとした、方法論的誤謬から生まれたものである。それは、…キリスト教に基づいた西洋の自然法理念を以て、日本の傳来の自然法を裁いたものであり、……われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する權利を有する」(『問題提起(日本國憲法)』)と論じておられる。

 

 小生は、現行憲法の最大の欠陥は憲法三原理にあると考える。憲法三原理が、國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっており、「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行われている。戦後日本そして今日の日本の混迷の原因は、この三原理にあるといっても過言ではない。

 

 特に、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口となる危険がある「國民主權論」が、一般國民の常識となって浸透していることは実に以て國家存立の基礎を揺るがす凶事である。西洋思想に基づく「國民主權論」を憲法の原理としたままでは、真の憲法改正・自主憲法制定にならない。

 

 「現行占領憲法」は、西洋法思想に基づき、前文で「主權が國民にあることを宣言し」、第一条で「(天皇の・注)地位は、主權の存する日本國民の総意に基づく」と規定している。これを根拠にして日本は君主國家ではないとする意見が出て来る。こういう議論が起こるところに「現行憲法」の重大欠陥がある。

 

 今日一般的になっている「國民主權」の定義は次のようなものである。「憲法上最も重要な意味は、國家の意思を最終的に決定する權力ことである」「日本國憲法も、明治憲法における天皇主權を廃止して、この普遍の原理を採用した」(伊藤正己著『注釈憲法』)。「日本國の國家意思を最終的に決定する權限を持つ者は日本國を構成している日本國民でなければならないという基本原則を意味する」(『現代憲法學の論点』)。

 

 つまり、「主權とは國政を決定する權利であり、主權が國民にあるか君主にあるかによって、國民主權、または君主主權と呼ばれる」というのが今日の憲法學の定説になっている。

 

 西洋法思想とりわけローマ法においては、權力支配組織たる國家には「主權、人民、國土」の三要素があり、「主權」の憲法上最も重要な意味は、最高絶対排他的な支配權力・國家の意思を最終的に決定する權力とされる。かかる「主權」論から、「主權は國民にある」とか「君主にある」とかという対立的な考え方が発生するのである。

 

 長谷川三千子氏は、十八世紀にできた近代成文憲法における國民主權というのは宗教戦争が繰り広げられたヨーロッパで生まれた闘争的概念であるとされ、次のように論じておられる。

 

 「フランス革命を起こした人間たちは、自分たちの革命をどう正當化したのかーそのときに採用されたのが、國民主權という考え方なんですね。……自分たち國民が國の中枢に座って、自分たちが考えたことは何でも通る、そういう力を我々は持っているんだ、ということを宣言してしまった。これがフランス革命を通じて出来上がってきた國民主權という考え方なんです。…血なまぐさい、國民と國王とが首をはね合うような戦争の歴史の記憶が、憲法の上に投影されてしまいますと、國民主權という言葉は、ものすごく闘争的な概念となってしまう。……日本國憲法第一条にある『主權の存する國民』という言葉を、近代成文憲法の傳統に従った読み方で読みますと、國民主權なんだからどうしてこの國民は、すぐに天皇の首をちょん切らないんだ、という話になってしまうんです。つまり、本當に我が國の、國の體(てい)に基づいて憲法を考えるとしたら、この主權という言葉から徹底的に洗い直していかなければいけない」(『主權をどう考えるか』)。

 

 西洋の國々の君主は、人民を征服し武力と權力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主權が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来たのである。 

 

 わが國は三千年前に建國された天皇を中心とする信仰共同體國家・祭祀國家である。欧米のような契約國家でもなければ權力國家でもない。ゆえに、君主と國民が対立関係にある國家ではない。

 

つまり、「現行憲法」は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものであると考える西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっているのである。

 

 天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人に対する暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「人民」と相対立する存在であるという考え方に立って制定されたのが現行憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」のためには、天皇の「地位」を低め「權能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想であり、対立闘争の概念である「國民主權論」が採用されているのである。

 

 天皇中心の信仰共同體國家・祭祀國家たる日本には全くなじまない「主權」が「君主にあるのか、國民にあるのか」という対立概念に基づく「國民主權」を、成文憲法に書くことは、わが國の國柄とは相容れない。西洋概念で日本國體を規定することはあってはならない。西洋法思想・國家論である「國民主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは國體破壊につながる。 

 

 神話時代からの悠久の歴史を有する日本の天皇中心の國柄を、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋の憲法概念に基づいて成文憲法に規定することは重大な誤りである。「主權」が、「天皇」にあるか「國民」にあるかを、論議すること自體、日本の傳統的な考え方・國體觀とはなじまない。この一点を以てしても、現行占領憲法はまさしく日本の傳統を破壊する憲法である。 

 

 わが國は、信仰的・祭祀的統一によって形成された國家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。祭祀國家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。日本國は、國家の意思を最終的に決定する權力としての主權を持つ國民の意思によって形成された國家、すなわち契約國家・集合國家・權力國家・統治システムとしての國家ではない。 

 

 日本國家の生成は記紀神話に傳えられている。記紀によると、國家成立の三要素たる國土・君主・國民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と國民の関係は、支配・被支配の関係ではないのである。祭祀主たる天皇は、國民を支配し隷従させたのではなく、信仰的權威(これを御稜威という)によって統率し統一したのである。

 

 「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。一日も早くこのような亡國憲法は無効としなければならない。

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