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2018年4月 7日 (土)

宮内庁と後藤田正晴・富田朝彦両氏

戦前の宮内大臣は、伊藤博文・田中光顕・牧野伸顕など総理と同格あるいはそれ以上の人物が就任した。これらの人々は、政治家に顎で使はれるなどといふことはなかった。だからこそ、皇室の藩屏の役目を果たすことができた。

 

戦前は、天皇及び皇室を輔弼しお守りする体制が整へられてゐたので、政治権力者によって利用されるなどといふことはまづなかった。

 

戦前の宮内省は「大宝律令」以来の歴史と伝統を有し、宮中・府中の別が確立され、一般行政の枠外に立っていた。即ち、時の政府から独立した存在であった。

 

戦後、占領軍は、皇室制度の弱体化を進めた。その顕著な例が、宮内省の宮内庁への格下げである。「現行占領憲法」のもと、宮内庁は内閣総理大臣の管理下の機関となり、総理府の外局にすぎなくなった。(現在は内閣府に置かれている)。

 

戦後体制からの脱却は、憲法・教育・国防のみならず、皇室制度においてこそ実現されなければならない。宮内庁の省への昇格と、機能と権限の強化が望まれる。宮内大臣には、総理経験者以上の人が就任すべきである。また、元老、重臣、内大臣、宮内大臣、宮中顧問官、枢密院、近衛師団なども復活すべきである。皇室の権威を本来の姿にお戻しすることが何よりも大切である。

 

高橋紘一氏はかつて次のやうに論じた。「(注・天皇は宇佐美毅宮内庁長官を)『律儀者』と評したという。しかし彼の頑迷さは皇室を『政治外』に置くことに効があった。宇佐美が退いて一〇年、最近、皇室が政治に巻き込まれる例が目立つ。皇太子訪米が外務大臣と米大統領の会見で出たり、皇太子訪韓を故意にマスコミにリークし、〝自然承認〟させたりする。『在位六〇年式典』の日取りを、中曽根首相の政治日程に合わせるなど、論外である。…政治家の皇室利用に対して宮内庁幹部は厳然たる態度をとらねばならない」。(「人間天皇演出者の系譜」・「法学セミナー増刊・天皇制の現在」昭和六一年五月発行)

 

中曽根内閣当時の内閣官房長官は後藤田正晴氏であり、宮内庁長官は富田朝彦氏であった。富田氏は、宮内庁長官時代、カミソリとはいれた元の上司・後藤田正晴官房長官に対等にものが言へるといふ立場ではなかったであらう。部下同然に対応されたのではないか。

 

その富田氏は、天皇陛下の靖国神社ご親拝の中断の原因を作った人物と言われている。そして何よりも、富田氏の遺族は、「富田メモ」なるものを「日本経済新聞」に売ったのである。、

 

戦後の官僚の最高位に昇りつめた故後藤田正晴氏は、「国務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の「日本経済新聞」で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変へたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

 

これは、天皇を君主と仰ぐ建国以来のわが国國體を否定し、現行占領憲法体制下においてもわが国は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をするのは許し難い。

 

後藤田正晴氏は、町村金吾氏亡き後、警察官僚のボス的存在であった。宮内庁は、長官・総務課長という中枢が旧内務省系官庁(厚生労働省・警察庁など)からの出向である。宮内庁首脳の人事などへの後藤田氏の影響力は強かった。國體否定とは言はないまでも國體に対する正しい理解を欠いてゐた人物が宮内庁に大きな影響力を持ってゐたのである。かうしたことが、「天皇の祭祀」の軽視、政治家による皇室の政治利用、天皇陛下の靖国神社御親拝の中断などなど、近年の皇室に関はる様々のまことに憂へるべき事象の原因の一つであると考へる。

 

 

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