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2018年4月 3日 (火)

『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展参観記

本日参観した『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展は、「17世紀初め、江戸幕府が政権を確立すると戦乱の世は終わりを告げ、泰平の時代がおとずれました。時を同じくして文化面でも新たな潮流が生まれます。それが寛永年間(1624~44)を中心に開花した「寛永文化」です。寛永文化は「きれい」という言葉に象徴される瀟洒な造形を特徴とし、当時の古典復興の気運と相まって、江戸の世に「雅」な世界を出現させることとなりました。

寛永文化の中心は京都にあり、なかでも学問・諸芸に造詣の深かった後水尾院(ごみずのおいん)は、長く絶えていた儀礼や古典文芸の復興に心を尽くしたことで知られています。特に和歌は朝廷を象徴する芸能に位置づけられ、その洗練された優美さを追求する姿勢は、和歌のみならず、多くの美術作品にまで影響を及ぼすこととなりました。

一方、幕府はそうした公家衆の動向に注目し、時には意見を異としながらも、公武間の文化的な交流は盛んに行われました。京都のサロンを主な舞台としたその交流は、さまざまな階層の人々を巻き込み、公家、武家、町衆といった垣根を越えて、新しい時代にふさわしい美意識を醸成し、共有されていったのです。

本展ではこのような近世初期の「雅」を担った宮廷文化と、それと軌を一にして生まれた新時代の美意識が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、野々村仁清(ののむらにんせい)、狩野探幽(かのうたんゆう)などの芸術に結実していく様子をご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「白釉円孔透鉢」 野々村仁清、「東福門院入内図屛風」 六曲一双、「冠形大耳付水指」修学院焼、「桐鳳凰図屛風」六曲一双 狩野探幽、「源氏物語絵巻」住吉具慶 五巻のうち第三巻(部分)「色絵紅葉賀図茶碗」 野々村仁清、黒釉色絵金銀菱紋茶碗 野々村仁清、「後水尾天皇宸翰『忍』」、「後水尾天皇宸翰『一貫』」、「御切形茶碗」 修学院焼、「瀟湘八景のうち『山市晴嵐』『煙寺晩鐘』『瀟湘夜雨』『江天暮雪』」などを参観。

 

寛永文化は豪華絢爛たる安土桃山文化と元禄文化との間の文化であり、寛永文化という言葉自体、小生は知らなかった。徳川幕府成立後、世情が安定した時期の文化である。小堀遠州、狩野探幽、金森宋和の三人が活躍した。しかし、寛永文化の中心はやはり朝廷・皇室である。特に後水尾天皇は指導的御役割を果たされた。後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天万乗の大君として君臨あそばされ、修学院離宮の造営、学者文人芸術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。

 

本日拝観した「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に伝わるものである。この宸翰は京都岩倉実相院門跡にも伝えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されてゐると拝する。実に力強い筆致である。徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。

 

会場に入ってすぐの所に「白釉円孔透鉢 野々村仁清」が展示されていたのであるが、とても四百年前の作品とは思えなかった。現代の作品と見紛うばかりと新鮮さであった。小生は、茶道具の良さ、香合、茶入れ、茶碗、茶杓、水差しなどの芸術的価値がよく分からないのである。しかし本日参観した「御切形茶碗」「冠形大耳付水差」など「修学院焼」と言われる作品は美しかった。また野々村仁清の茶碗も光輝いて見えた。

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