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2018年4月18日 (水)

国民主権論は日本伝統と無縁

 「現行占領憲法」が第一章に「国民主権」の条項を置くことは、天皇国日本というわが国建国以来の道統を否定することである。

 

 日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が伝統破壊である。

 

 

 「現行占領憲法」制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張した。今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されているという。

 

彼らによれば、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、共産党最高指導者の個人専制恐怖政治が行われてきている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。帝国憲法ではこれを「統治権」という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。

 

いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

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