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2018年2月28日 (水)

この頃詠みし歌

 

興味なき冬季五輪のニュースばかり流れるテレビに辟易したり

 

偏屈と言はるるも良し たかが運動会何故(なにゆゑ)こんなに大騒ぎする

 

どんどんと高きビル立つ皇居前 丸の内マンハッタン計画すでに成就す

 

大皇居(おほみかど)見おろすピルの林立に憤りの思ひとどめ難しも

 

何時の間にか三菱地所のせしことを許し難しと思ふこの頃

 

甥っ子が生きゐる姿に頑張れよと常に励ます子の無き我は

 

鋭き眼(まなこ)の人多ければ寒々し大手町地下街の雑踏を行き

 

急ぎ足で行き交ふ人々の中を行くゆっくりと行く大手町地下街

 

神宮の森に入れば千早振る神の御稜威につつまれる思ひ

 

剣道の稽古してゐる幼児(をさなご)の姿たのもしき神宮の森

 

君を崇め夷(えみし)攘へと詠みたまふ松陰先生のみ歌尊し

 

寒き宵に弓張月がかそけくも浮かびゐるなる千駄木の空

 

月見れば常に心は鎮まりぬ荒々しく時は過ぎて行くとも

 

父母(ちちはは)の深きみ愛をかがふりて長き歳月我は生き来し

 

自らの力は限りあるものを神の護りと恵みを祈る

 

年年歳歳人同じからずといふ言葉悲しく切なく浮かび来るなり

 

米印豪と手を組み支那に対せよといふ論議否定し難し

 

冬の日は高く昇らず西方に傾きてゆくことのさみしさ

 

歳月はとどまることはなけれとも中天の月煌々と照る

 

わが筆はさらさらと鳴る 心込め文(ふみ)書きてゐる夜のしじまに

 

魂の燃え上がる時煌々と天上に照る月のさやけし

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千駄木庵日乗二月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『萬葉集』講義原稿執筆・脱稿・送付。

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2018年2月27日 (火)

宮中祭祀について

祭祀は、原初・始原への回帰であり、天地宇宙開闢への回帰である。それがそのまま新生となり革新となる。決定的な危機に際して、「原初の神話」を繰り返すことによってこれを打開する。宮中祭祀は、現代に生きる神話である。

ミルチャ・エリアーデは「神話とされるものは、〝かのはじめの時〟に起こったある出来事や、その時に生きていた人物について語られただけではなく、原初の出来事、原初の人物と直接、間接に関係を持つすべてもまた神話なのである。…神話はその性格の如何にかかわらず人間の行動に対してだけでなく、人間自身の条件に対しても常に、先例であり、範例である。」(『聖なる時間・空間』)と論じでゐる。

 

個人の生存も共同体の存立も「肇(はじめ)の時」「始原の時間」への回帰が大切である。個人も共同体も年の初めに新たなる希望と決意を燃やす。祭祀とはその「肇の時」「原初への回帰」の行事である。

 

日本の神話は、天皇の祭祀によって生きた現實として太古より今日まで継承されてきてゐる。世界に國家多しといへども、建國以来、國家元首が祭祀を行ひ続けてゐる國は日本のみである。

 

宮中祭祀は、文化・文藝・政治・経済・宗教など人間のあらゆる「いとなみ」を聖化し「いとなみ」の模範となる行事である。

 

新嘗祭をはじめとした宮中祭祀には、日本民族の傳統的世界観・國家観・人間観・神観が示されてをり、日本文化の中核である。宮中祭祀を中核とする日本の祭祀は、自然神と祖靈を祀る行事である。今日、公害・自然破壊・核兵器など物質文明・近代科學技術文明が生んだ様々な「悪」によって人類全体が大きな危機に瀕してゐる。科學技術文明が徹底的に生態系を破壊せんとしてゐる。文明の進歩によってかへって人間の生命が蝕まれ精神が荒廃してゐる。かかる状況を打開するためには、イデオロギーや特定の教義によるのではなく、自然と共に生きるといふ日本傳統信仰を回復し、自然と人間に宿る生命を護る態度を養ふことが大切である。宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ、その原基となるのである。

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千駄木庵日乗二月二十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿校正、原稿執筆など。

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2018年2月26日 (月)

皇后陛下の御歌を拝し奉りて

皇后陛下は、色々な御苦労を重ねられつつ、天神地祇への祈りを深められ、皇后様としてのご使命を果たして来られた。恐懼のほかはない。皇后陛下は、宮中祭祀への伺候をはじめ「皇后」としてのご使命を果たされるべくつとめてこられた。

 

皇后陛下の御歌を拝すれば、皇后陛下が、日本傳統精神そして皇室の傳統を常に重んじられ、回帰されつつ、皇后としての尊き道を歩まれてをられるがか分かる。

 

平成十五年  皇后陛下御歌

出雲大社に詣でて

國譲(ゆづ)り祀(まつ)られましし大神の奇しき御業(みわざ)を偲びて止まず

 

平成十三年

外國(とつくに)の風招(まね)きつつ國柱(くにばしら)太しくあれと守り給ひき

この御歌についての宮内庁ホームページの説明には「明治の開國にあたり,明治天皇が広く世界の叡智に學ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,國の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌。明治神宮御鎮座八十周年にあたり,御製,御歌の願い出があったが,六月に香淳皇后が崩御になり,今年の御献詠となった。」とある。

 

平成十一年

結婚四十年を迎えて

遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日

畏れながら、「遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日」の御歌は、「今即神代」「神代即今」といふ日本傳統信仰の基本精神を、つつましくも清らかに歌はれた御歌と拝する。

 

平成八年

 終戦記念日に

海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたのみ靈(たま)國護(まも)るらむ

 

平成五年

 御遷宮の夜半に

秋草の園生(そのふ)に虫の声満ちてみ遷(うつ)りの刻(とき)次第に近し

 

平成三年

 立太子礼

赤玉の緒(を)さへ光りて日嗣(ひつぎ)なる皇子(みこ)とし立たす春をことほぐ

この御歌は、皇太子殿下は、天照大御神の靈統を継がれる御方であるといふ古来の傳統信仰すなはち現御神信仰を歌はれたのである。

 

平成二年

 明治神宮御鎮座七〇周年

聖(ひじり)なる帝(みかど)にまして越(こ)ゆるべき心の山のありと宣(の)らしき

この御歌についての宮内庁ホームページの説明には「この御歌は,明治天皇の御製『しづかなる心のおくにこえぬべきちとせの山はありとこそきけ』を拝してお詠みになったものです」とある。

 

   御即位を祝して

ながき年目に親しみしみ衣(ころも)の黄丹(に)の色に御代の朝あけ

 

「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」と同じ意義である。天皇及び皇太子は「天照大御神の生みの御子=現御神」であらせられる。

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌には「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この歌は、古代日本人の現御神日本天皇仰慕の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐる。

 

歴代天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。  

 

皇后陛下は、昭和三十五年、「浩宮誕生」と題されて、

 

あづかれる宝にも似てあるときは吾子(わこ)ながらかひな畏れつつ抱(いだ)く

 

と詠ませられてゐる。ご自分のお産みになった御子ではあるけれども、「高光る 日の御子」であらせられるがゆゑに、宝の如く畏れつつ抱かれるといふ、まことに崇高なる御心をお詠みになったと拝する。

 

皇后陛下は、神話時代以来の「現御神信仰」を正しく受け継いでをられるのである。

 

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千駄木庵日乗二月二十五日

午前は諸事。

午後は、本日の講義の準備。

午後六時より、春日の文京シビックホールにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「宮中祭祀の現代的意義を考える」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年2月25日 (日)

第八十一回日本の心を学ぶ会

第八十一回日本の心を学ぶ会

 

 テーマ「『宮中祭祀』の現代的意義」

 

平成三十一年四月の御譲位への準備が進むなか、あらためて、天皇陛下の御公務や国事行為に注目があつまっています。

 

被災地を見舞われるお姿や、様々な式典への御出席などは一般の国民も報道などで目にする機会も多いように思えます。

 

しかし、天皇陛下の最も大切なご使命は、国家の安寧、国民の幸福、五穀の豊穣、世界の平和を祈られる祭祀であります。

 

これは「宮中祭祀」と申し上げ、宮中三殿において、天皇陛下御自ら斎行されます。

 

元旦の「四方拝」から大晦日の「大祓」まで年間約二十件の祭祀が斎行されていると承ります。

 

天皇の祭祀は統治と一体のものであり、時代の変遷の中でも、天皇が祭祀を通じて御神意をうかがい、国民の意志を神に申し上げ、政治を正しくされてきました。これを「祭政一致」と申し上げます。この「祭政一致」の國體は建国以来今日までゆらぐことはありませんでした。

 

終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎氏は自決直前の阿南陸軍大臣に対し「天皇陛下がお祭りをなさっている以上、日本は滅びませんよ」と話したと伝えられます。

 

まさに、天皇陛下の祭祀こそが日本を日本たらしめている核であると言っていいでしょう。

 

このような宮中祭祀は「現行占領憲法」下で、天皇の「私的行為」とされ、あまり国民に知られることもなく、国民はその深い意義を知らずにおります。さらには、天皇の祭祀を簡略化しようとする動きすらあります。

 

御譲位を控えた今こそ、「宮中祭祀」の意義や、天皇の御本質について学ぶ必要があると思われます。

今回の勉強会では宮中祭祀について学んでみたいと思います。

 

【日時】平成三十年二月二十五日 午後六時から


【会場】文京シビックセンター 5階会議室Bhttp://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html


東京都文京区春日11621◎東京メトロ後楽園駅・丸ノ内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分◎都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分◎JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【演題】現御神信仰と天皇の祭祀
【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表


【司会者】林大悟


【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)


【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展・革新を遂げてきた

 祭祀國家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に國民の幸福を祈られるのであるから、國民と相対立する存在ではないし、日本天皇は國民を力によって支配し隷従せしめる存在ではない。國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり君主と民は「和」と「共同」の関係にあるのであり、「対立関係」ではない。こうした天皇中心の日本の國柄を「君民一體の日本國體」というのである。

 

 このような日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきている。ところが他の國では、太古の王家も古代國家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた國家は権力國家であり、その後に現れた信仰は排他的な教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同體が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同體を奪われ祭りを喪失したよるべなき人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力國家・武力支配國家を形成した。

 

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を中心とする共同體國家が、外國からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている唯一の國なのである。皇室祭祀だけでなく、全國各地で一般國民が参加する祭祀が続けられている。まことにありがたき事実である。

 

 これまでの日本は日本天皇の中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。しかし、日本は進歩し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥に不動の核があった。それが日本天皇・皇室であることはいうまでもない。

 

 今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現実の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。こうした事実が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。

 

 わが國が、長い歴史を通して様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本という國は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が敵国の爆弾や原爆で破壊された時期があった。しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家の本質が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

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千駄木庵日乗二月二十四日

午前は、諸事。『政治文化情報』発送作業、発送完了。

午後は、明日行う講演の準備。

午後六時半より、新橋の新橋亭にて、『長谷川光良氏 民族運動五十年・決意表明の宴』開催。長谷川氏が挨拶。大場俊賢・阿形充規・南丘喜八郎・蜷川正大・古賀俊昭東京都議、鈴木信行葛飾区議の各氏などが祝辞。小生が中締めの挨拶及び長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」熱唱。我ながらまだ歌唱力はが衰えないことを喜ぶ。長谷川氏とはまさに五十年来の友人・同志。

帰宅後は、明日行う講演の準備。原稿校正など。

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2018年2月24日 (土)

維新と和歌の復興

 民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新といふ。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。

 

いにしへから傳へられた「五・七・五・七・七」といふ形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝である。

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきである。

 

日本の傳統文芸の復興、日本文學の道統の回復とは、天皇皇室を中心として行れるべきである。とりわけ和歌は、古代より、「宮廷ぶり」を最も大切なものとしてきた。和歌の根底にあり続けたものは、御歴代天皇の御製である。和歌は、宮廷に始まり、その正統なる「しらべ」は宮廷の御歌にある。武家専横の時代にあっても、外来文化思想が隆盛をきはめた時代にあっても、日本民族の中核的な傳統精神・美感覚は宮廷において継承され保持されてきた。

 

阿部正路氏は、「日本の傳統の精神がもっとも荒れはてた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないのだろうか。それが具體化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考えられる。日本の和歌が、世界でもっとも長く傳統に輝き得たのは……勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具體化し得たのであった。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。まことに大切な主張である。

 

今日の日本はまさしく亡國の危機に瀕してゐる。現代の余りに情けない頽廃を是正しなければならない。今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてそれは祖國への愛・至尊への恋闕の思ひを歌ひあげる和歌の復興によって実現するのである。

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千駄木庵日乗二月二十三日

午前は諸事。

 

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

 

午後五時より、笹川平和財団ビルにて、『笹川平和財団主催 インド洋地域の安全保障国際会議』開催。第1セッション:中国とインド洋 議長:田中伸男(笹川平和財団)カンワル・シバル(元駐フランス・インド大使 ヴィヴェカナンダ国際財団)(1)インド洋における中国の能力:マイケル・マクデヴィット(元米海軍大将 CAN上席研究員)(2)インド洋地域における中国の戦略:デイヴィット・ブリュースター(オーストラリア国立大学上席研究員)。第2セッション:地域の安定化に向けて 議長:デニス・ブレア(元米海軍大将 笹川平和財団米国(SPF-USA)会長)ローリー・メドカルフ(オーストラリア国立大学教授)(1)域外大国の役割:下平拓哉(防衛省防衛研究所主任研究官)(2)インド洋地域における域内協力:ビジェイ・サクージャ(グジャラート国立法科大学・南洋理工大学)が行われた。

 

帰宅後は、「政治文化情報」発送準備など。

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2018年2月23日 (金)

一神教の対立を解消せしめ全人類を戰爭の慘禍から救ふ道は日本傳統信仰への回歸と恢弘にある

 

何とか、世界の闘争対立を緩和するために、我が傳統信仰の果たすべき役割はないかを考へねばならない。

 

自然と共に生き多くの神々や思想を融合調和してきた多神教の精神、とりわけ、稲作生活を基本とした神代以来の天皇中心の祭祀國家・信仰共同体を今日まで保持しつつ、西洋文化・文明を受容し、それを発展せしめ、東洋でもっとも発達した工業國なった日本の精神伝統が大きな役目を果たすと考へる。

 

倉前盛通氏は、「二十一世紀以後の世界は情報科學の進歩に見られる通り多様性の社會であり、それは一神教の世界ではなく多神教の世界である。日本的自然祭祀、つまり八百萬の神々という言葉に表現されるように典型的な多神教風土と日本的寛容さと、バイブルのない宗教、教団組織のない宗教、そのようなものが今後の世界に最も大きな精神的影響を与えるようになるであろう」「今まではユダヤ教的な一神教的精神風土が世界に、大きな影響を与えてきたが、二十一世紀以後の世界をリードするものは、日本に代表される寛容な多神教的精神風土である」(『新・悪の論理』)と論じてゐる。

 

日本神話は、山紫水明麗しく緑滴り清らかな水が豊富で四季の変化が規則正しい日本といふ素晴らしい國において生まれた。闘争戦争を絶え間なく繰り返してゐる一神教の世界に対して、自然と祖靈を神と拝ろがむ神道の精神がその闘争性を和らげる原理となり得るといふ希望を私は抱いてゐる。

 

イスラム教徒やユダヤ教徒が伊勢の神宮に来て大感激したといふ話を何回か聞いたことがある。『コーラン』に書かれてゐる「楽園には木々が生い繁る。…流れ出る泉が共にある。…深緑に包まれている」といふイスラム教徒にとっての理想郷とはまさに日本の風土なのである。

 

四季の変化が規則正しく温和な日本の自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。

 

神道は祭祀宗教であるといふ。祭祀は自己の罪穢れを祓ひ清め神と一體となる行事であるから、救済宗教の性格も持ってゐる。自然を神と拝ろがむ日本の傳統的信仰精神が自然を破壊し人の命を軽んずる現代を救済する原理となると考へる。

 

「祭祀」および「直會」は、神と人との一體感を自覚する行事であると共に、それに参加する人々同士の一體感も實感する行事である。〈神と人との合一〉〈罪の意識の浄化〉を最高形態としてゐる信仰は、日本伝統信仰・神ながらの道である。「祭りの精神」が世界に広まれば世界は平和になるのではないか。

 

「祭り」を基礎とした魂的信仰的一體感が、世界人類の交流と共存の基盤となるのではないか。「祭り」が世界で行はれるやうになれば世界は平和になるのではあるまいか。

 

今こそ、わが國傳統信仰を國の内外において恢弘しなければならないと思ふ。一神教の対立を解消せしめ全人類を戰爭の慘禍から救ふ道は、日本傳統信仰への回歸と恢弘にあると信ずる。

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千駄木庵日乗二月二十二日

午前は諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、書状執筆、原稿校正など。

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2018年2月21日 (水)

祭祀の現代的意義

 

宗教には、救済宗教と祭祀宗教の二つがあるといはれる。そしてキリスト教が救済宗教で、神道は祭祀宗教であるとする。しかし、祭祀は自己の罪穢れを祓ひ清め神と一體となる行事である。救済宗教の役目も持ってゐる。

 

「祭祀」および「直會」は、神と人との一體感を自覚する行事であると共に、それに参加する人々同志の一體感も實感する行事である。 

 

倉前盛通氏は、「世界の乾極の代表がユダヤ人であり、湿極の代表が日本人である。しかも民族固有の神を今日に至るまで戴いてゐる民族はユダヤ人と日本人だけである。世界の乾極のアラビアにおいて最も厳しい一神教が成立し、湿極において最も寛容な多神教が成立した。一神教はバイブルやコーランそして神學教學を持ち、神道はバイブルに相当するするものや神學教學を持たない。一神教を敵に回してはならない。むしろ、乾極と湿極に生まれた対象的な性格を持つもの同士が長短相補う道を探るべきであろう」「二十一世紀以後の世界は情報科學の進歩に見られる通り多様性の社會であり、それは一神教の世界ではなく多神教の世界である。日本的自然妻子、つまり八百萬の神々という言葉に表現されるように典型的な多神教風土と日本的寛容さと、バイブルのない宗教、教団組織のない宗教、そのようなものが今後の世界に最も大きな精神的影響を与えるようになるであろう」「今まではユダヤ教的な一神教的精神風土が世界に、大きな影響を与えてきたが、二十一世紀以後の世界をリードするものは、日本に代表される寛容な多神教的精神風土である。」(『新・悪の論理』)と述べてゐる。

 

自然は人間と対立するものではないといふ信仰即ち自然を神と拝ろがむ日本の傳統的信仰精神が自然破壊を防ぐ。祭祀が自然を破壊し人の命を軽んずる現代を救済する原理となる。

 

わが國の麗しい山河、かけがへのない道統を重んじ、日本の傳統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。我が國は神話時代(神代)以来の傳統精神すなはち日本國民の歩むべき道といふものがある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。

 

わが國の傳統精神は、一人の教祖が説いた教義・教条ではない。教条的で固定的な教義を絶対的なものと信じ、これを信じ込ませるといふのではない。日本傳統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきはめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、神とか罪悪に関する考へ方が、全て祭祀といふ實際の信仰行事と不可分的に生まれてきた。抽象的な論理や教義として我が國傳統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國においては生活そのものの中に傳統信仰が生きてゐるのである。

 

わが國の神々とは天地自然の尊い命であり先祖の御靈である。わが國の神は天津神、國津神、八百萬の神と言われるやうに、天地自然の尊い命であり、先祖の御靈である。 

 

今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になってゐる。我が國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』を大切に護って来た。

 

それは『鎮守の森』には、神が天降り、神の靈が宿ってゐると信じて来たからである。『鎮守の森』ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精靈が生きてゐると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の靈が宿ってゐると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至ってゐる。

 

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

 我が國傳統信仰すなはち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の靈を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」といふ。その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

 

わが國の傳統信仰における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の實践である。祭祀が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。日本傳統精神の価値は今日まことに大切なものとなってゐる。

 

天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。『日本書紀』神武天皇即位前紀戌午年九月甲子の段に「丹生川上に陟りて、天神地祇を祭りたまふ。」と記されてゐる。

 

天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。稲作生活から生まれた神話の精神を、祭祀といふ現實に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきておられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

 

その天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。その天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。

 

天皇の祭祀において、わが國の傳統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行はるのである。

 

太古より行なはれてきた祭祀が、外来宗教を摂取し且つ近代科學技術文明が発達した今日唯今の日本においても行はれてゐるといふ事實は、世界の奇跡と言って良い。

 

わが國の國民道徳の基本は、神學・教義といふ<抽象概念>として継承されて来なかった。それは、上は天皇から下萬民に至る日本民族の生活の中の<神祭り><祭祀>といふ行事によって、古代より今日まで傳へられて来た。

 

「神道祭式=祭り」は、信仰共同體國家日本の根幹として悠久の歴史を経てきており、今日なお國民一般に根強くそして盛んに行わはてゐる信仰行事である。

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千駄木庵日乗二月二十一日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、原稿執筆・資料の整理など。

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2018年2月20日 (火)

武士道精神・もののふの心の回復

 戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値とし押し頂いた。「平和と民主主義」は、弱者の思想である。國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・平和・歴史・伝統が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。

 

 弱者であるから徒党を組む。即ち集團で運動をせざるを得ない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の生き方しかできないのである。

 

 弱者は弱者なるがゆえに、常に「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象を常に見つけ出し、あるいは作り出さずにはおれない。これが「いじめ」である。「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。中川官房長官攻撃なども、マスコミ・野党による「いじめ」である。「中川スキャンダルを仕組んだのは加藤紘一周辺だ」という噂さえ流れている。

 

 「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追いかけ回し、盗聴した電話交信記録まで持ち出して特定人物を責め苛む。これまで、こういうやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のいじめは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である。」と(反革命宣言)。

 

 革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがマスコミである。

 

 三島由紀夫氏は、『瀧ヶ原分とん地は第二の我が家』(昭和四五年九月二五日発表)という文章で、「ここでは…利害關係の何もからまない眞の人情と信頼を以て遇され、娑婆ではつひに味はふことのない男の涙というものを味はった。私にとってはここだけが日本であった。娑婆の日本が失ったものがことごとくここにあった。日本の男の世界の嚴しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を氣づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運營について憂へた。……ぢかに足で踏みしめる富士山麓の日本の大地の足ざはりを以て、日本の危機と困難と悲運について考へることができた。……私は、ここで自己放棄の尊さと嚴しさを教へられ、思想と行爲の一體化を、精神と肉體の綜合の厳しい本道を教へられた。」

 

 これは、自決直前の昭和四十五年九月十日から十二日まで、陸上自衛隊富士學校瀧ヶ原分屯地學生五十名と共に体験入隊した時の文章である。

 

 三島氏は、祖國防衛のために一身を捧げる訓練をする自衛隊の中にのみ、「利害關係の何もからまない眞の人情と信頼」「自己放棄の尊さ」即ち眞の倫理精神、道義精神が生きており、戦後日本が失ったものがことごとくあるとし、自衛隊分屯地の中だけが日本である、と断じている。この三島氏の文章は、現代社會の腐敗・混乱・堕落の根源にあるものを示唆している。そして、軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の日本も、眞の道義精神もなくなっていると三島氏は考えたのである。

 

 三島氏はさらに言う。「文學・藝術の故郷は非合法の行動の暗い深淵に求められていくことになるであらう。…法はあくまでも近代社會の約束であり、人間性は近代社會や法を越えてさらに深く、さらに廣い。かつて太陽を浴びてゐたものが日陰に追ひやられ、かつて英雄の行爲として人々の稱贊を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになった」(行動學入門)と。

 

 長い日本の歴史の中で、須佐之男命・日本武尊という神話時代の英雄、さらに中古中世の鎮西八郎為朝、源義経、楠正成、さらに近世・幕末における赤穂四十七士、井伊直弼を撃った水戸脱藩浪士の行動、さらに大東亜戦争における特攻隊員を始めとした兵士たちの行為などは、「武士」と讃えられた。しかし、戦後日本は、そうした武士の行為を「非合法」「反ヒューマニズム」として裁き日蔭に追いやった。

 

 「國のため敵を撃つ」「大君の御為に身命を捧げる」「仇なすものを討つ」などということは、「平和と民主主義」と絶対相容れない「行為」として、「日蔭」に追いやられ続けている。

 

 「天皇祭祀主と仰ぐの神の國」がわが國體であるが、この萬邦無比の國體を護ることが最高の道義なのである。天皇の統治したまえるわが國は、言葉の眞の意味において「平和國家」である。神武肇國の御精神・聖徳太子の十七条憲法・明治天皇御製を拝すれば、それは明らかである。また、御歴代の天皇は常に國家と國民の平安を祈られてきた。しかし、そうしたわが國の伝統は、「武」「軍」「戦い」を否定しているのではない。

 

 天皇の日本國御統治は「三種の神器」に表象されている。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、御歴代の天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。鏡(八咫鏡・やたのかがみ)は祭祀、剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は軍事、玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)は農業、をそれぞれ表象している。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されている。

 

 剣は武勇、そして克己の精神を象徴している。『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、天皇の軍が筑紫に進軍したのを歓迎して筑紫の県主五十迹手が、「この十握剣(とつかのつるぎ)を堤(ひきさげ)て、天下(あめのした)を平(む)けたまへ」と奏上したと記されている。剣は天下を平らげる武力を表しているのである。

 

 武を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳としされ、「平和と民主主義」を謳歌している今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発している。

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴えられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 

 『檄文』に曰く「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」。

 

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、軍國主義國家であったという戦前の日本にはあり得なかったような、人命軽視という言葉すら空しくなるような、残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた 

 國家を守ることこそ、國民の道義精神の要である。軍と國家、國防と道義は不離一体の関係にある。國を守る使命、言い換えれば、兵役の義務・國防の義務がない國民は、國民とはいえない。國民は運命共同体であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、國民である。

 

 現代日本の青少年の多くは、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」が希薄になってゐるように見える。

 

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない。

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千駄木庵日乗二月二十日

午前は、諸事。

午後三時より、東陽町の民族革新会議事務所にて、犬塚博英議長に取材。『伝統と革新』掲載のためなり。終了後、山口申氏など同志の方々と懇談。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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日本國體と成文憲法

神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本国体=信仰共同体日本は真姿は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の「成文法」を超越している。

 

西洋の国々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本國體を規定すること自体國體隠蔽である。

 

近代日本に於ける「成文憲法」たる「大日本帝国憲法」の制定においてはこのことを考慮し、第一条から第三条において立国の基本、日本國體の基本・天皇中心の信仰共同体日本の本姿を明らかに示した。

 

日本天皇が日本国の君主・統治者・祭祀主であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な國體観念に基づくのであって、憲法に規定されているからではない。

 

「成文法」を超越した「天皇中心の日本國體」を「成文法」で規定する必要はなく、成文憲法には国の政治組織について規定するのみでよいという論議もある。言い換えれば「成文憲法」には國體については規定せず、政体のみについて規定すればよいという意見である。これも一理あると考える。

 

例えば、中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと時代が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ伝統をねじ曲げるものだった。近代国家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として国民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる。」(『憲法を読む』)と論じている。

 

ただ、『大日本帝国憲法』はただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものと言える。

 

葦津珍彦氏は「帝国憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本国民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開国をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『会議』によって国是を固めようとすることになってきた。この会議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた。」(『近代民主主義の終末』)と論じておられる。

 

『大日本帝国憲法』の起草に当たった井上毅は「御国の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御国の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが国の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じている。

 

君主と民とは相対立しており国家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどという西洋法思想・国家観=契約国家論は、日本の國體観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いているのである。

 

ただ、井上毅はここで「君徳」と言っているが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」日本伝統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって国家を統治したもうのである。御稜威とは天皇の有される信仰的権威と言うべきものである。

 

折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(『神々と民俗』)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じておられる。

 

そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお体に入るとされる。

 

歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって国家を統治したまうのである。今上天皇におかせられても、大嘗祭を執行されて現御神となられ御稜威を保持されていることはいうまでもない。昭和天皇もしかりである。つまり昭和二十一年元旦の詔書において、天皇が神格を否定され『人間宣言』をされたなどということは、「みまつり」という厳粛なる事実によって否定されるのである。

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千駄木庵日乗二月十九日

午前は諸事。

午後からは、在宅して溜まった資料の整理。

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2018年2月19日 (月)

天皇の国家統治とはいかなることか

 

 天皇が日本国を統治されるということは、決して権力によって支配されるということではない。三潴信吾氏は「帝国憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、国家・国民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ『統治』は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の伝統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(日本憲法要論)と論じておられる。

 

 それでは「やまとことば」の「しろしめす」(「しらしめす」ともいう)とは一体いかなる意義なのであろうか。「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」という敬意を添える語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められている『文武天皇の宣命』には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代」と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでいる。この場合の「知る」とは単に知識を持っているという意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するというほどの意であろう。

 

 『文武天皇の宣命』には「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されている。また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。

 

 「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)という、きわめて宗教的というか信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 

 天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 

 『大日本帝国憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いた。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

 ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の國體を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。『大日本帝国憲法』は、明治維新の輝かしい歴史と伝統の所産であった。

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千駄木庵日乗二月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、『伝統と革新』の原稿執筆など。

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2018年2月18日 (日)

『日本書紀』『萬葉集』に示された「神ながら」の意義

 

「神道」をやまとことばで、「神ながらの道」といふ。「神ながら」(漢字では『随神・惟神』と書く)といふ言葉が、最も古く用いられてゐる典籍は、『日本書紀』孝徳天皇の三年四月の条に見える。そこには、「惟神(かむながら)も我()が子(みこ)()らさむと故寄(ことよ)させき。是(ここ)を以()て、天地の初めより、君(きみ)(しら)す國なり。」(神ながらも我が子孫に統治させやうと依託された。それゆへ、天地の初めから天皇の統治される國である、といふほどの意)と書かれてゐる。

 

この条の註に「惟神は、神道(かみのみち)に随(したが)ふを謂ふ。亦自(おの)づからに神道有るを謂ふ」とある。

 

この条について平田篤胤は、「真の神道と申すは、…天つ神高皇産靈、神皇産靈神の始めまして、伊邪那岐伊邪那美神の御受継ぎあそばして…其功徳は、天照大神に御傳へあそばし、皇御孫邇々杵尊天降り遊ばさるる時、天つ御祖、靈産の御神、天照大御神より、皇御孫命の御代々々、天の下知し召す、御政のやうを御傳へあそばし、扨、御代御代の天皇其の御依しのまにまに、己命の御さかしらを御加へあそばさず、天地と共に御世しろしめすことぢゃが、此の道を神道と申した」(真の神道とは天つ神・高皇産靈神、神皇産靈神を始めとして、伊邪那岐伊邪那美神が継承された功徳は天照大御神に傳へられ、皇孫・邇々杵尊が天降りあそばされる時、以上の神々より天の下を統治されるまつりごとを傳へられ、それから、ご歴代の天皇は神々のご依託のままに、ご自分のお考へをお加へにならず、天地と共に御代を統治されることだが、この道を神道と申した、といふほどの意)と論じてゐる。

 

『萬葉集』にも「神ながら」といふ言葉は多く登場する。

持統天皇が吉野の離宮に御幸されましし時、供奉した柿本人麻呂の長歌では、

 

「やすみしし わが大君 神ながら 神(かむ)さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高しりまして…」(「やすみしし」は「わが大君」に掛かる枕詞)

わが大君が神であるままに、神様らしく振舞はれるべく、吉野川の激しく流れる川の谷間に、高殿を高々と建てられて…)と歌はれてゐる。

 

 そして、反歌には、

 

「山川も よりて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも」(山も川も信服して仕へ奉る大君は、神であられるままに激しく流れる吉野川に船出をされることだなあ、といほどの意) と歌はれてゐる。

 

さらに、軽皇子(かるのみこ。天武天皇・持統天皇の皇孫。後の文武天皇)が阿騎野といふところで狩りをされ、その夜そこに宿られた時に、お供をした柿本人麻呂が歌った歌では、

 

「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと…」(わが大君、日の神の皇子は、神であるままに、神様らしくふるまはれるべく…)

と歌はれてゐる。

 

この歌には、天皇の御行動が、そのまま神の御行動であるといふ現御神信仰を歌ひあげてゐる。そればかりでなく「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子」といふ対句には、「現御神日本天皇」の御本質と、日本天皇の國家統治の御本質が、高らかに信仰的に歌ひあげられてゐるのである。

 

 大君に掛かる枕詞の「やすみしし」は、持統天皇に捧げられた歌には「安見知之」、軽皇子に捧げた歌では「八隅知之」と、萬葉仮名では表記されてゐる。前者は、「やすらけくこの國をしろしめす」といふ意であり、後者は、「四方八方をしろしめす」(八隅は八紘と同じ意)といふ意である。「やすみしし」といふ枕詞は、日本天皇が平安に四方八方を統治される御方であるといふことを表現してゐる。

 

「高照らす 日の皇子」とは、高く照らす太陽神たる天照大御神の御子といふ意である。

 

「日本天皇は天照大御神の御子としてこの地上の中心に立たれ四方八方を平安に統治されるお方である」といふ現御神信仰がこの対句に示されてゐるのである。

 

 これら人麻呂の歌で用いられてゐる「神ながら」は、「神」の「柄」(その物に本来備わっている性質、性格。本性の意。人柄の柄と同じ)といふ意味だとされてゐる。「な」は助辞で「の」の意。そして「ある行動などが、神としてのものであるさま。神の本性のままに。神でおありになるさまに」「ある状態などが、神の意志のままに存在するさま。神の御心のままに」といふほどの意味になる。

 

以上、『日本書紀』『万葉集』の「神ながら」といふ言葉の意義を踏まへて「神ながらの道」を定義すれば、「自分の私心を加へないで、神の御意志通りに、神のなさることをそのまま踏み行ふ道」として良いかと思ふ。天地自然と祖靈を神として仰ぐところの人為の理論・教条ではない虚心坦懐な信仰が、「神ながらの道」である。

 

我々の生活が神のみ心通りの生活になり、神のご生活と我々の生活が同じになることをことが「神ながら」なのである。一言で申せば『神人合一』の生活である。

 

そしてその神とは抽象的な概念ではなく、天地自然と共に生きたもう神である。熊沢蕃山は、「天地は書なり。萬物は文字なり。春夏秋冬行はれ、日月かはるがはる明らかなり。これ神道なり」(集義外書・巻十六)と述べてゐる。

 

天地の神の祭り主であらせられる天皇は、地上に生きたまふ神として、天上の神々と同じ資格になられ日本國の祭祀主として立たれるといふのが「現御神信仰」である。祭祀主たる天皇のお役目・御使命は、天上の生活を地上に持ちきたすことである。天孫降臨の神話は、そのことを物語ってゐる。

 

そして、天上と地上とを神のみ心のままに合一せしめるお役目を果たされる現御神日本天皇の神聖性をかしこむことが、日本人の道徳生活の基本である。わが國においては、天皇への絶対的な仰慕の心が道義の基本なのである。天皇は神々の道を踏み行はせられ、我々國民は天皇の行ひたまふ道に随順するのがわが國の道徳生活の基本である。

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2018年2月17日 (土)

千駄木庵日乗二月十七日

午前は、諸事。

午後一時半より、明治神宮武道場至誠館にて、「明治維新と國學」と題して講演。終了後、荒谷卓館長などと懇談。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆の準備など。

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この頃詠みし歌

一本の原稿書き終へやすらへる時に一本の煙草吸ひたり

 

母を亡くせし友と二人で酒酌めば語り合ふことの多き夜なり

 

父母(ふぼ)の遺影のやさしき笑みを朝晩に仰げば心やすらぎにけり

 

時は過ぎ世は移ろへどわが道をただ素直にぞ歩みゆくべし

 

知り人とすれ違ひたれどお互ひに知らぬ顔せし地下鉄ホーム

 

老俳優夫妻が仲良く茶房より出で来るを見し昼下がりの銀座(坂田藤十郎・扇千景夫妻)

 

人間國宝と参議院議長が連れ立ちて歩む姿の好ましきかな()

 

戦ひの日々なればなほわが情念燃え立たしめて生きねばならず

 

逝きませる父母(ちちはは)を思ふわが心歳月を経ていよゝ深まる

 

今宵また酒房へと急ぐわが足は文字通り浮き足立ちにけり

 

三輪山の神のことなど書きてゐる夜は静かに静かに更けてゆくなり

 

三輪山の神のことなど學びつつ日の本の國は神の國と信ず

 

一心にもの書き続けし一日に満足をして眠りにつかむ

 

叔父と兄を殺せし男の妹と握手し喜ぶ韓國大統領

 

北も南もどうしようもない國ならば善隣友好などある筈もなし

 

天地の神が護らすわが國は苦難乗り越え永久に栄える

 

日の本の民とし生きる喜びに今日の青空澄みわたりたり

 

「東京行進曲」今も続けり あなた地下鉄私はバスで帰路に着きたり

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千駄木庵日乗二月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、明日行う講演の準備など。

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2018年2月16日 (金)

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

 

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

 

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

 

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の思想的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、國の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神國日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、國が辱めを受けることを世界に示し、日本國始まって以来無かったやうな傷を神國日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

 

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

 

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲濱・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、「大獄」の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「紀事

當年の乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、實物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、實際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般國民にも漸次これを會得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、國の支配者たるの地位も失ふのである。今日の外患の危機も、日本國民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく體得し、強い愛國心を持つことによって打開できると確信する。

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千駄木庵日乗二月十五日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時より、水道橋にて、永年の同志二氏と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・送付。明後日、明治神宮武道場至誠館で行う講演の準備。

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2018年2月15日 (木)

今日思ったこと

河野太郎外務大臣はツイッターで次のように嘆いている。

「やらねばならないことが山のようにあるのに、外交防衛の集中審議だから9時から5時まで答弁が無くとも委員会に座ってろって、外交防衛の集中審議なのに答弁する回数はなぜか厚労相や江崎大臣の方が、私や小野寺大臣より多い。腕組んで目を瞑る暇に仕事させてほしい」。

 

外交・軍事・安保面で大変な危機的状況にあるにもかかわらず、わが国の国会は、国内問題それも揚げ足取りと失言挑発

・追及に明け暮れている。

 

今日もっとも大切な問題は、国家の安全と独立である。そのためには憲法を正し、防衛体制を強化するべきなのである。野党の政府攻撃のための政府攻撃によって、それが出来なくなっている。まさに亡国野党である。

 

亡国野党は、安保・国防・外交・憲法・経済政策・福祉政策・教育政策という国家基本問題でしっかりとした政策もビジョンもなく、まともな対応ができないのである。だから揚げ足取りや失言誘発しかできないのである。

 

メディア特に朝日新聞の報道も、野党と同じである。国際情勢が極めて危険であり、流動的になっているこの時期に、日本の果たす役割を大きい。瑣末な事で大騒ぎをしている時ではない。

 

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天皇に對し奉り絶対的忠誠を捧げるのが日本国民の最高の「道義」である

 

祭祀は「神人合一」の行事であり、無我になって神にまつろひたてまつる行事である。その最高の実践者が天皇であらせられる。即ち、天皇はわが国において最高の無我のご存在であり、清らけく明けきご存在なのである。

 

信仰共同体・祭祀国家の祭祀主たる天皇は、道義精神の中心であり体現者である。そして、道義の忠臣としての天皇に對し奉り、絶対的忠誠を捧げるのは国民としての「道」であり最高の「道義」である。

 

新渡戸稲造氏は、「我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」(『武士道』・矢内原忠雄訳)と論じてゐる。

 

倫理(人のふみ行ふべき道。人間関係や秩序を保持する道徳)は共同体国家において確立される。共同体の中で生きてゐるからこそ、人間に倫理が必要となる。言ひ換へれば人間が獣ではなく、まさに「人」として多くの人々共に生活するには、倫理が必要なのである。倫理を人倫と言ふのも、人にとって倫理が不可欠だからであらう。わが国が素晴らしい特質は、倫理・信仰・文化が天皇皇室を中心として継承されてきたところにある。わが國の国柄・國體が万邦無比といはれる所以である。

 

筧泰彦氏は、「日本人の倫理や道徳の根本は、ワレの心としての『清明心』や『正直』や『誠』にあります。西欧で理性的存在者たる自我を拡張し、或いは自我を実現することを根本に考へるのとは対照的に。『私』を去り『我』を没することを以て根本と考へてゐるのです。…天皇は、今日の日本人が日本語を日常的に用ゐてゐる限り、自覚すると否とに拘らず、かかる清明心の根源、無我の体現者たるヒトとして、日本族が長い歴史的鍛錬を通じて作り上げた生きた文化の最高傑作であり、最重の傳統であり、日本人の『ミチ』の中心点でありましょう」(『日本語と日本人の発想』)と論じてゐる。

 

天皇の神聖権威(御稜威)による統治と、天皇にまつろひたてまつる国民の尊皇精神・忠誠心が、日本国家存立の原基である。日本国は権力・武力による専制支配によって成立してゐる國ではない。日本が人倫国家である所以である。

 

しかもそれは、神話時代から継承されてきた傳統である。神話に語られてゐる倫理思想は、太古の倫理思想であるのみならず、後の時代に顕著な形で展開されて来た倫理思想である。

 

新渡戸稲造氏は、「神道の教義には、わが民族の感情生活の二つの支配的特色と呼ばるべき愛国心および忠義が含まれている。…それは国民的本能・民族的感情を入れた枠であるから、あえて体系的哲学もしくは合理的神学たるを装わないのである。」「孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友間における五倫の道は、経書が中国から輸入される以前からわが民族的本能と認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。」(『武士道』・矢内原忠雄訳)と論じてゐる。

 

日本国民が絶対的忠誠を捧げるのは、「滅私奉公」といふ言葉もある通り、「公」に対してである。「公」とは、権力者のことではない。天皇の御事である。天皇に対し奉り、私心なく清らけく明けくお仕へする心、それが日本人の絶対的忠誠心である。私心なく天皇にお仕へする典型、即ち絶対的忠誠心の最高の実践者が、日本武尊であらせられる。絶対的忠誠精神を体現され生涯をかけて行なはせられたお方が日本武尊であらせられる。

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千駄木庵日乗二月十四日

午前は、諸事。

午後は、本日行う『萬葉集』合議の準備。

午後六時より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、聖武天皇御製などを講義。質疑応答。

終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年2月14日 (水)

「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである

天之御中主神と一体の関係にある、高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

 

「むすび」は、生命の根源である。ゆへに「結び」を産靈とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子」「生す女」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生まれた生命が「むすこ」「むすめ」である。

 

また、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

 

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

 

「庵をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵はいろいろな木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的実在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

 

「むすび」といふことが可能なのは“本来一つ”であるからである。この“むすびの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言ひ換へても良いと思ふ)といふものが天地宇宙生成の根源神=造化の三神の中に内包されてゐるのである。

 

 

 

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千駄木庵日乗二月十三日

午前は、諸事。明日行う『萬葉集』講義の準備。

午後二時より、平河町にて、頭山興助氏にインタビュー。『伝統と革新』に掲載のためなり。

午後六時より、八重洲にて、『日本再生同志の会』役員会開催。中村信一郎氏が司会。加瀬英明氏が挨拶。西村眞悟氏がスピーチ。全員で当面する諸課題について討議。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年2月13日 (火)

第八十一回日本の心を学ぶ会

第八十一回日本の心を学ぶ会

 

 テーマ「『宮中祭祀』の現代的意義」

 

平成三十一年四月の御譲位への準備が進むなか、あらためて、天皇陛下の御公務や国事行為に注目があつまっています。

 

被災地を見舞われるお姿や、様々な式典への御出席などは一般の国民も報道などで目にする機会も多いように思えます。

 

しかし、天皇陛下の最も大切なご使命は、国家の安寧、国民の幸福、五穀の豊穣、世界の平和を祈られる祭祀であります。

 

これは「宮中祭祀」と申し上げ、宮中三殿において、天皇陛下御自ら斎行されます。

 

元旦の「四方拝」から大晦日の「大祓」まで年間約二十件の祭祀が斎行されていると承ります。

 

天皇の祭祀は統治と一体のものであり、時代の変遷の中でも、天皇が祭祀を通じて御神意をうかがい、国民の意志を神に申し上げ、政治を正しくされてきました。これを「祭政一致」と申し上げます。この「祭政一致」の國體は建国以来今日までゆらぐことはありませんでした。

 

終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎氏は自決直前の阿南陸軍大臣に対し「天皇陛下がお祭りをなさっている以上、日本は滅びませんよ」と話したと伝えられます。

 

まさに、天皇陛下の祭祀こそが日本を日本たらしめている核であると言っていいでしょう。

 

このような宮中祭祀は「現行占領憲法」下で、天皇の「私的行為」とされ、あまり国民に知られることもなく、国民はその深い意義を知らずにおります。さらには、天皇の祭祀を簡略化しようとする動きすらあります。

 

御譲位を控えた今こそ、「宮中祭祀」の意義や、天皇の御本質について学ぶ必要があると思われます。

今回の勉強会では宮中祭祀について学んでみたいと思います。

 

【日時】平成三十年二月二十五日 午後六時から

【会場】文京シビックセンター 5階会議室Bhttp://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html

東京都文京区春日11621◎東京メトロ後楽園駅・丸ノ内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分◎都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分◎JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9

 

【演題】現御神信仰と天皇の祭祀
【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

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権力機関や政治家が「皇室典範」を改定したり、「御譲位」についての特別立法を行う事は國體隠蔽である

歴代の天皇が、國の平安・国民の幸福を神に祈られ、国の平安と国民の幸福のために無私のご精神で君主としてのおつとめを果たされてきたからこそ、日本国および日本国民の今日があるのである。

 

「國體護持」とはあくまでも感謝と報恩の国民の務めとしてそれを果たすということである。

 

そういう意味でも、権力機関や政治家が「皇室典範」を改定したり、「御譲位」についての特別立法を行う事は大いなる誤りであり國體隠蔽である。

 

日本国の君主であり現御神であらせられる日本天皇は、成文憲法によって規制せられる御存在ではない。まして戦勝国によって押し付けられた「占領憲法」下に置かれるご存在ではない。また、内閣、国会という権力機構によって規制される御存在でもない。

 

また、『現行占領憲法』には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれている。つまり、天皇は権力者ではあらせられないとされているのである。

 

故に、『現行占領憲法』下においても、天皇に対し奉り、「国事行為」以外のこと、即ち、祭祀、皇位継承、譲位、そして「公的行為」などへの国権の最高機関とされる国会の介入と規制、内閣という権力機構による「助言や承認」をすることはできないし全く必要ない。

 

我々国民は、この事を明確に認識しなければならない。

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千駄木庵日乗二月

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明後日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備、明日行うインタビューの準備。

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2018年2月12日 (月)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 二月十四日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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今日思ったこと

孫のような小娘に気を使い、下座に坐る名目上の「国家元首」は何とも哀れ。

 

また、叔父を殺し兄貴を殺した男の妹、韓国に何時核を撃ち込むか分からないような男の妹を招待し歓待する韓国大統領というのは、余程の馬鹿か、北朝鮮の手先である。

 

北朝鮮が韓国に核を撃ち込まないという意見があるが全く間違っている。自国民がわずか10年余りの間に500万人も餓死しているのに贅沢三昧をしている独裁者、自分の叔父と兄貴を残忍に殺す独裁者が、「同じ民族だから韓国に核を撃ち込まない」などということがあるはずがない。

 

第一、突然韓国に侵略を開始し、南北合計で五百万人も殺した歴史、アウンサン廟テロ事件、大韓航空機事件などを起こしている歴史を見れば、北朝鮮が韓国に核を撃ちこむはずはないどということは絶対にあり得ない。

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尊皇愛国精神の目覚め

 

私は、山中峯太郎氏著『愛の国父 明治天皇』(昭和三十二年五月第五版発行)といふ本を持ってゐる。昭和三十二年、私が小学校二年生の時に購入した本である。日清・日露の戦いを中心にして、明治天皇の御事績が書かれた本であり、当時私はこの本を読んで非常に感激した。

 

山中氏は次のやうに書いてゐる。「日本は明治時代に、支那の戰爭し、ロシヤと戰爭し、大正時代にドイツと戰爭し、昭和時代にアメリカとイギリスそのほかと戰爭した。しかし、アメリカが勝手にきめた『侵略戰爭』をしたのではない。日本が戰ったのば、外國の勢力に迫られて、日本をまもるための戰爭であったのを、正しい歴史が証明する。」「ある日、天皇は宮内大臣の田中光顯に言われた『おまえたちは、ぐあいかわるいことがあると、辞職という方法がある。しかし、わたしには、そのような方法はない。そうではないか』『はい……』気の強い田中光顯も、恐れ入って何とも言えなかった。」と書かれてゐる。

 

この本を私が讀んだ同じ年の昭和三十二年に、『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男監督、新東宝製作)が公開された。父が連れて行ってくれたのだが、嵐寛寿郎演じるところの映画の中の明治天皇も「天皇には辞職はない」といふ言葉を、語ってゐた。また映画のところどころに、明治天皇御製が朗誦された。まことに素晴らしい映画であった。

 

私が尊皇愛国の精神を自覚し、やまと歌に関心を持ったのは、この本を読みこの映画を見てからかも知れない。この映画と本が私の愛国心の目覚めに大きな影響を与へたことは確かである。

 

また、私がまだ幼少の頃、外から帰って来ると、母が新聞を讀みながら涙をぽろぽろ流しながら泣いてゐた。気丈な母が泣いてゐるのを見たことが無かった私は驚いた。母は、貞明皇后崩御の報道記事を見て泣いてゐたのだった。貞明皇后が崩御されたのは、昭和二十六年五月十七日であるから、私がまだ四歳の時であった。

 

私は、自然に尊皇愛国の心を父母の教育によって身につけることができたのである。父母に心より感謝してゐる。

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千駄木庵日乗二月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2018年2月11日 (日)

明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」であった

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、さらに、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

 そして、明治維新の大事業の一環として紀元節が制定された。

 

 『日本書紀』には、「辛酉年(かのととりのとし)の春正月(はるむつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)、天皇(すめらみこと)橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇の元年(はじめのとし)とす」と記されている。

 

 神武天皇即位の日が正月朔日(むつきついたち)であるのは、むつき(正月)の始めにおいて、神も天地も人も新生するという上古以来の日本人の信仰に基づく。そして、明治六年、この日を太陽暦に換算した二月十一日を『紀元節』とした。

 

 明治維新後に行われた紀元節の制定は、「神武創業への回帰」という根本精神・明治天皇の大御心の実現であると共に、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

 

 今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 

 紀元節の奉祝は、正しき國家観を恢弘し、日本國を道義國家として新生せしめる精神と一体であらねばならない。

                           

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日繼ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」ということである。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるのである。

 

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて繼承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・國文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。つまり、皇位の繼承は肉体的な血統のみによるのではなく、日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 さらに「高御座」について折口信夫氏は、「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神聖な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 

 天皇が高御座に昇られることによって、天皇は天上の神と一体になられ、地上の國がそのまま天上の國となるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。高天原を地上に持ち来たし、日本國を高天原のように清らかにして神聖なる理想國にすることが天皇の御使命である。

 

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を繼承され、御即位の大礼において天津日繼ぎの高御座にお立ちになった。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。「御即位の大礼」は、天照大神が皇孫邇邇藝命を天津日繼の高御座に即け給い、神器を授け給ひ、神勅を下し給ひしことを、新たに繰り返す行事である。

 

 このように、天皇の國家御統治の御精神は、常に、新たなる國家の生命の甦り、言い換えると國家の新生・再生を常に希求されているのである。しかもこの新生・再生は、それまでの伝統を断絶して行われるのではない。無限の過去から無限の未来にわたるまで、天皇による日本國の新生・再生、命の甦りは繰り返されるのである。ここに日本天皇の國家と統治そして日本國體の特質がある。

 

 我が國國民は毎年毎年同じように春から始まって冬に終わる周期的な生活を営んでいる。四季の移り変わりが規則正しく周期的であるので、お祭りも、農漁業などのなりわいも、周期的に繰り返される行事が多い。春夏秋冬の一年の暦の一巡りで、冬が終わり元の春に戻り新たな出発が行われるのである。

 

 そして、我が國民は、暦の移り変わる時、即ち新たなる年を迎えた時に、生活も万物も全て再び新生するという感覚を持つのである。その時が旧暦の睦月一日すなわち紀元節の今日である。

 

 日本民族は物事は周期的に新生を繰り返すという生活感覚を自然に持っていた。御歴代の天皇が、神武創業の精神=物事の初め・國家統治の理想(すなわち)に回帰することによって革新を断行するという維新の精神は、ここから発生してきた。

 

 だからこそ、維新は「復古即革新」といわれて来たのである。「復古」とは決して反動ではないし、回顧主義でもない。古きがゆえに良いというのではない。「復古即革新」とは、いにしえの理想の復興によって現在を新たならしめることである。  

 

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天皇の国家統治と「國見」

 

天皇が行い給う「國見」とはただ単に景色を眺めるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する祭祀行事である。

 

「見る」という言葉にはきわめて信仰的な深い意味があるのである。「目は口ほどにものを言い」という言葉もあるごとく、「見る」は対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。

 

荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」(『現御神考試論』)と論じている。

 

感覚器官の中でもっとも発達し精密で大事なのは視覚だと言われる。人間は視覚を通して外界をとらえ、環境に適応する。視覚以外のことについても「見る」という言葉が使はれる。「味を見る」「触って見る」「匂いを嗅いで見る」「試して見る」という言葉を使う。

 

聴覚を表す言葉に視覚を表す言葉が使われる。たとへば「明るい声」「明るい音」「暗い響き」「黄色い声」である。このように、我々の感覚は常に視覚が優越している。それが言語表現にも及び、視覚の上に立った描写の言葉がよく用いられる。事物をありありと描き出すための手法として視覚の言葉が用いられる。

 

「見る」という言葉を使った歌が『萬葉集』には多い。『萬葉集』における「見る」という言葉も、単に視覚的な意味ではない。柿本人麻呂に、

 

「天ざかる夷(ひな)の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」

 

という歌がある。瀬戸内海を西の方から航行し明石海峡に来たら、故郷の山々が見えたという感激を詠んだ歌。これは単に「見えた」というだけでなく「故郷に近づいた」という感慨を歌った。また、柿本人麻呂が、浪速の港から西の方に向かって航行していく時の歌に,

「ともし火の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」

 

という歌がある。明石海峡を越えていくと自分の故郷である葛城山系が見えなくなるという歌である。このように「見る」ということが非常に大事に歌われている。

 

天智天皇が崩御された時に、倭媛大后は、

 

「天の原ふりさけ見れば大君の御命(みいのち)は長く天(あま)足らしたり」

「青旗の木幡の上を通ふとは目には見れどもただに逢はぬかも」

「人はよし思ひやむとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも」

 

とお詠みになった。三首とも「見」という言葉が用いられている。

 

天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行われる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀であり、天から降臨された聖なる資格を持つ現御神天皇が、天香具山といふ天から降った聖地に立たれて、国土の精霊や国民を祝福し繁栄を祈られる「まつりごと」である。

 

また「国見」とは、新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が若々しい命を回復し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、現御神たる天皇が天の神から命じられた國土に稲穂を豊かに實らせるという最大の御使命を實現する天皇の統治にとって重大な意味を持つ祭祀なのである。

 

昭和五十四年十二月四日、先帝昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏が「昭和の國見ですね」と申し上げたら、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のような御製を詠ませられた。

 

「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 

昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」という御題で賜った御歌が、

 

「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

 

である。

 

稲作國家日本の國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願い、豊作を感謝し、そして自然災害が起こらないように神に祈る祭祀を行うことが大きな使命であった。故に、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。天皇の政治と祭祀とは一体であった。これを<祭政一致>という。

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千駄木庵日乗二月十日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。矢坂明夫産経新聞外信部次長が「中国習近平『皇帝』の野望にどう対応するか―台湾問題を含めて」と題して講演。とても興味深い内容で活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年2月10日 (土)

昭和十六年十二月八日の一億の感激

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

 

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟の歌

 大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱の歌

 あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿の歌

 撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い、戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果すのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献するのかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されてゐる。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

問題は、日本がいまだに敗戦後遺症から脱却できないことである。これを正す事が今日最も大切であると信ずる。

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千駄木庵日乗二月九日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2018年2月 9日 (金)

『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

 

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。

 

日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。

 

日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。

 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

 

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。

 

深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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千駄木庵日乗二月八日

午前は、諸事。

午後十二時より、永田町にて、上杉隆氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、丸の内の出光美術館にて開催中の『色絵』展参観。鍋島窯・古伊万里・古九谷、そして板谷波山・野々村仁清なとの作品を鑑賞。

夕刻、お茶の水にて、友人と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年2月 7日 (水)

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは

アメリカはわが国に対し真綿で首を絞めるやうなことをして来た

 

昭和天皇は、わが國が戦争に追ひ込まれて行った原因について、「原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分な物である。」「総理になった東條は、九月六日の午前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。…実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ」(『昭和天皇独白録』)と仰せになってゐる。

 

小生は、鈴木貞一氏がテレビで、「資源が無いのに何故アメリカと戦争をしたのですか」との質問に対し「資源が無いから戦争をはじめたのだ」と答へてゐたこと鮮明に記憶している。

 

開戦前のアメリカによるわが国への圧迫は、①対日通商條約の一方的破棄(昭和十四年七月)②航空燃料の輸出禁止(昭和十五年七月)③屑鉄の輸出禁止(同年五月)④在米全日本資産の凍結(昭和十六年七月)⑤石油の全面禁輸(同年八月)といふものであり、まさに真綿で首を絞めるやうなことをして来たのである。

 

さらに、昭和十六年十一月二十六日、わが軍の仏印・支那大陸からの撤退、王精衛の南京国民政府及び満州国の否認、日独伊三国同盟の死文化を求める米国務長官コーデル・ハルの最後通牒=「ハル・ノート」を突き付けてきた。この「ハル・ノート」をについてパル判事は、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」(『パル判決書』)と書いてゐる。

 

わが国は、まさに「開戦の詔勅」に示されてゐる通り「帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ頻セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」といふ状況に立たされたのである。

 

佐藤優氏は、「日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないか」(『日米開戦の真実』)と論じてゐる。

 

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、米上院外交合同委員会で、一九五一年五月三日、「原料の供給を断ち切られたら、一千万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言したことによっても明らかである。

 

東條英機元総理はその「遺言」において、「英米諸国人ニ告グ…諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ。…大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ国家生存、国民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大暑セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追求セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼国人中ニモ亦往々斯ク明言スルモノアリ。」と切言してゐる。

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千駄木庵日乗二月七日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後五時より、元赤坂の明治記念館にて、『躍進日本!春風の会』開催。第一部では、伊吹文明第七十四代衆議院議長が講演。第二部懇親会は、南丘喜八郎氏が司会。山口敏夫・亀井静香・下村博文・平沢勝栄の各氏そして小生が祝辞。村上正邦氏が挨拶した。

この講演記録講演講義に無し。

帰宅後は、原稿執筆・資料の整理。

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わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれた

 

日本を戦争へと追ひ込んだのはソ連(ロシア)である。名目上は世界の共産化、実際には自国の権益の拡大・領土拡張を目指し、さらには日露戦争の仇を討ちたいソ連は、日本を取り潰す策謀を展開した。

 

曽野明氏(元外交官)は、「昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった…決議には…米英仏日独といった『帝國主義列強』を互いに対立させ、戦争に追い込め、という戦略指令であった。日本について言えば、①日本を米國との戦争へ追い込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、ということであった。ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透をはかり(当時の青年将校の思想は、いわば『天皇制共産主義であった』であった)、米國との対決路線に追い込み、また、マスコミにも、國粋主義、排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内では、排日機運の盛り上げが工作されていた。…『中立条約』の締結があったので、日本國民は『北辺の安寧』が保障されたと安心した。かくて、日本軍部の進路は米()との対決以外になくなったし、したがって日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである」と論じてゐる。

 

倉前盛通氏は、「尾崎秀実が対中国強硬論者の一人であったこと、対米開戦を最も叫んだ人間であったことは、戦後、故意にもみ消されて、あたかも平和の使者であったかのごとく、全く逆の宣伝が行われている。…日本が大陸にのめりこんで、国家の大方針を誤ったのは、①陸軍が、一九二〇年頃からドイツ型大陸地政学にかぶれ、大陸政策に深入りしたこと。②日本の目を大陸に向けさせ、海軍力の充実に回す予算を少なくさせようという米国の陰謀が裏にあったこと。この二つに大きな原因を見出すことができよう。…二・二六事件によって、『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々のほとんどが陸軍内部から排除され『シナ大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られた…ここにも日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していた」(『悪の論理』)と論じてゐる。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。

 

尾崎を側近にした近衛文麿元総理は、社会主義に共感を覚えてゐた人であり、マルクス主義経済学者である河上肇を慕って東京帝大哲学科から京都帝大法科に移ったといふ経歴の持ち主である。近衛氏は、「防共反ソ」よりも「英米駆逐」に力を入れ南進論を主導した。わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。

 

かくて、日本軍部の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

つまり、わが国は米英とソ連とによって挟撃される事態となった。わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれたのである。

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千駄木庵日乗二月六日

午前は、諸事。

午後三時より、六本木の国際文化会館にて、田原総一朗氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、資料の整理。原稿執筆。

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2018年2月 6日 (火)

大東亜戦争開戦と高村光太郎の詩

大東亜戦争の意義は、先帝陛下が「開戦の大詔」に明確にお示しになっている。「東亜の安定」と「自存自衛」の為に蹶然起って一切の障礙を破砕するための戦いであったのである。決してアジア諸国を侵略しようという戦いではなかった。東亜諸地域を侵略し支配していた米英との戦いであった。それはインド植民地化・阿片戦争など数百年にわたる欧米列強による東亜侵略への正義の抵抗であった。これを否定する勢力は、まさにわが国の光輝ある歴史を冒瀆し日本人の誇りを喪失せしめる元凶である。

 

詩人・高村光太郎は大東亜戦争開始時に以下の詩を書いている。当時の大多数の日本人の感激を吐露した詩であると思いう。

「   十 二 月 八 日

 

 記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。

 

(昭和161210日執筆、初出「婦人朝日」昭和171月号、詩集『大いなる日に』収録)

 

わが國混迷の根本原因は、「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争だったのであり、これによってアジア諸國・諸民族に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識が横行し、日本國民の多くが祖國の歴史に対する誇りを持てなくしていることにある。

 

祖國の歴史に誇りを持てなくなれば、國を愛し忠誠を誓うといふ最高の道義、國を護るという崇高な意志も喪失する。その結果、内政・外交・防衛・教育・文化等々あらゆる面においてわが國の混迷と弱体化をもたらす。今日の日本は正しくそういう状況にある。

 

「日本は侵略戦争をした悪い國である」という歴史観は、國家の基本法たる『日本國憲法』の「前文」にも麗々しく書かれてをり、且つ、終戦五十年の『内閣総理大臣談話』(閣議決定)にも書かれている。つまり「侵略戦争史観」はわが國の「國是」になっていると言っても過言ではない。

 

これでは、わが國は何年たっても、混迷から脱却してまともな國即ち道義國家・自主独立國家になることはできない。それどころか亡國への道を歩み続ける事となる。

 

わが国はなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてなぜ敗北したのかを正しく考察するべきである。そしてさらに、NHKや朝日新部などの偏向マスコミが喧伝する「東京裁判史観」「自虐史観」を否定し、「侵略者の烙印」を一日も早く徹底的に払拭しなければならない。

 

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この頃詠みし歌

 

 

移り行く季節と共に生きる我 肉体も心も恙なくあれ

 

會者定離人生別離足るといふ言葉この頃頻りにわが胸に浮かぶ

 

杖つきて散歩してゐし老人の姿に会はぬこの頃さみし

 

お互ひに自らの意志を示さざる二人の会話を酒が取り持つ

 

進駐軍磨きといふは見事なりわが履く靴はピカピカとなる

 

無くなりし三信ビルの思ひ出を靴磨き屋さんと語らひてゐる

 

入水してこの世を去りし人のこと偲びつつ人麿のことを思へり(西部邁氏逝去)

 

意志強き人なりしかな多摩川に身を投じたる西部邁氏()

 

雪降りて静かなる街となりにけり人も車も音立てず行く

 

雪止みて朝日照れれば家々の屋根はきらきらと白く輝く

 

肉体と精神を強くあらしめて生きてゆくよりすべなかるべし

 

蝋燭に火をつけ仏壇を拝むこと 今日のひと日のけじめなりけり

 

(もだ)しつつ酒酌みてゐし青年が突如饒舌となりて驚く

 

消え残る雪を避けつつ道歩む滑らぬやうに転ばぬやうに

 

汪兆銘陳公博を忘れるなかれとしきりに思ふ今宵なりけり

 

なべての人の心慰むる如くにも満月は中天に煌々と照る

 

博物館の展示物とは思はずに仁和寺の御仏を拝がみまつる(『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』参観)

 

御仏のあまた並べる博物館今此処このまま極楽浄土か()

 

昨日の夜は月食なりしと聞きし時見ざりしことを悲しみにけり

 

空を仰ぎ欠けてゐなければ今日は中止かと家に籠りしことの口惜しさ

 

父母(ちちはは)の眠るみ墓辺を覆ひたる雪を除きぬうかららと共に

 

父母の眠れる墓所に子も孫も曾孫も来たりて拝ろがみにけり

 

わが父とわが母が眠る墓所(はかどころ)拝みてやすらふわが心かな

 

雪を踏み先祖の眠る墓に向かふ節分の日のやすらけき心

 

己が主張譲らざりければなほさらに喉(のみど)渇きてコーヒーを啜る

 

朝夕に手を合はせ祈ることをしもやすらぎとして日々を過ごせる

 

雲の合間に見え隠れする月影を仰ぎて今日も家路を急ぐ

 

雲間より月影現はれ街を照らすことのよろしも混濁の夜に

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2018年2月 5日 (月)

千駄木庵日乗二月五日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、地元の友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆、資料整理。

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日本人の他界観

 

まだ見たこともなく、また行ったこともない世界を憧れるのは人間の自然な心である。日本人は古くから、この世とは別の世界即ち「他界」への憧れ・ロマンを強く持っていた。日本人の他界へのロマン精神は、神話の世界からのものであり、外来思想の影響を受けながら発達し、日本人の生活と宗教の根本にあるものなのである。さらに、世の中の変革を求める心もまだ見ぬ世界即ち他界への憧れと言っていい。       

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」というのである。それは平安時代の歌人・在原業平が

 

「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(最後には行かなくてはならない死出の旅路だとは思っていたが、それが昨日今日と差し迫っているとは思わなかった、というほどの意)

 

と詠んでいる通りである。そして死んだ人は草葉の蔭から生きている人を見守ったり祟ったりするのである。ということは、死後の世界と現世は遮断していないで交流し連動しているということである。それは『古事記』に記されている伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉国(よみのくに) の神話を拝すれば明らかである。 

 

日本人は基本的に、人間は肉体は死んでも魂はあの世で生き続けるという信仰を持っている。死後の世界は、次第に理想化・光明化されていき、神々の住みたもう世界と信じられるようになった。なぜなら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでいるなどと考えることに耐えられないからである。

 

古代日本人は生活全般が信仰心を基本としていた。天地万物に神や霊が宿っており、森羅万象は神や霊の為せるわざであると信じていた。だから「他界」にももちろん神や霊が生きていると信じた。しかし、反面、穢れた他界も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでいると信じられた。

 

すばらしい聖なる世界・清らかな他界は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき他界は夜見の国と呼ばれた。これが後に仏教の輪廻転生の倫理観と結合し、西方極楽浄土及び地獄の思想が多くの日本人に信じられるようになったのである。

 

春秋二回のお彼岸は今日仏教行事となっているが、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事なのである。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねてくると信じてきたのである。「彼岸」とは向こう岸という意味であり、日本人の他界(よその世界・まだ行くことのできぬ世界)観念とつながる。

  

「他界」の事を、古代日本人は、「常世」(とこよ)・「妣(はは)の国」・「ひなの国」・「夜見(よみ)の国」などと呼んだ。

 

「常世」とは、明るい永遠の生命を保つことのできる理想世界のことである。「とこ」とは永遠とか絶対とか不変とかいう意味であり、「よ」は世であり齢でもある。不変にして老いず死なない世ということである。逆に暗い世界を「常夜」(とこよ)と言った。これは今で言う地獄ということであろう。

 

「妣の国」とは、母のいる故郷のことである。故郷を遠く離れたものにとって、そこは憧れの対象であり、やがては帰って行きたいところである。望郷の念を持つ人は故郷のことを「母国」という。なぜか「父国」とは言わない。母を慕う気持ちがそうされたのであろうか。母が「産み」の本源であるからであろうか。

 

「ひな国」の「ひな」とは、山や海の彼方の遠い異郷・聖なる世界のことである。「ひなびた」というと都から遠い世界即ち田舎らしい感じがするという意味である。お雛(ひな)様とは、遠い国から訪れた男女一対の高貴な霊というのがそのもともとの意味である。庶民にとって皇室は遠くて高貴な憧れの対象だったのである。

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千駄木庵日乗二月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆・脱稿・送付。

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2018年2月 3日 (土)

「天皇の國家統治」とは

日本天皇の國家統治とは、天皇が権力や武力によって國家國民を屈従させることではないし、天皇が國民の意志を全く無視し蹂躙して恣意的に権力を行使するといふ事でもない。

 

「天皇の國家統治」とは、天皇が精神的・文化的に國家と國民を統合される事を言ふのであり、天皇が日本國の元首であり統治者であるとは、天皇が日本國の傳統・文化そして歴史的永続性を体現され日本國民の統合を体現される御存在であるといふ事である。天皇が日本國及び日本國民を統合され統治される御存在であることは建國以来の道統である。

 

「統治」といふ言葉は漢語である。〈やまとことば〉で言へば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまひ民もまた天皇の御心を知る」といふことが「統治」なのである。

 

祭祀國家・信仰共同体たる日本において、祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の「しろしめす」=國家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本國が成立する。

 

明治天皇の外祖父・中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇國は天照皇大神の御國で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といへども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上したといふ。

 

日本天皇は、『朕は國家なり』と言ふような國家國民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。

 

天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるといふ雄大なる神話的発想に基づくのである。天皇による日本の祭祀的統一といふ歴史を背景として成立した日本神話には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られた時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されてゐる。

 

それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ生みの子よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう、といふほどの意)と示されてゐる。

 

この御神勅は、天照大神の神霊をそのまま受け継がれた生みの子たる天皇が永遠に統治される國が日本であるといふことを端的に表現してゐる。

 

天皇の國家統治とは、人為的に権力・武力によって民と國土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって國民と國土を治めるといふことである。

 

〈やまとことば〉ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言ふ。天皇が民の心を聞かれるといふ意味である。

 

日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひめあめのおしほみみのみこと)と申し上げる。さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)と申し上げる。日本國の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたとされる。

 

天皇の國家統治とは、権力行為ではない。力によって民を屈従せしめるといふものではない。天皇は國民の意思を広くお知りになり統合される御存在であるといふ事である。さらにいへば天皇の國家統治とは、國家と國民の統一と調和すなはち統合が天皇の宗教的権威によって保たれるといふことである。

 

ただし、天皇が日本傳統信仰の祭祀主として君臨されるといふことは、天皇が現実政治に全く関はりを持たれないといふことではない。むしろ無私にして清らかな天皇の御存在が國家の中心にゐまし、常に國家の平安と國民の幸福を神に祈る祭祀を続けられてゐることが、政治のみならず日本國のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の國家統治そのものなのである。

 

 

天皇は近代成文法以前から君臨されてきた日本國の神聖なる君主であらせられる。「現行占領憲法」においても、天皇は日本國の君主であり元首であり統治者であらせられる。

 

しかし、日本國の國體が隠蔽されてゐる状況を是正しさらには國體破壊を防ぐめには、「天皇は、信仰共同体の君主・祭祀國家の祭祀主であらせられ、國家と國民を統治され統合される神聖にして至高の御存在である」といふ古代以来の天皇の御本質を正しく表現する憲法に回帰すべきである。 

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千駄木庵日乗二月三日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。高乗正臣平成国際大学名誉教授が座長。「憲法の権限」について討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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自衛隊について

戦後、いわゆる「再軍備」が行われた時、「警察予備隊」と言われた。これが自衛隊の前身である。その頃から、内局はだいたい警察官僚が牛耳っていたといわれる。「警察予備隊」という名稱からして、そういうことになったのであろう。

 

当時の吉田茂総理の指示で警察予備隊本部長官に就任した増原恵吉氏など立派な人ももちろんおられた。しかし、警察官僚には、反軍思想・反自衛隊思想を持っていた人物もいた。名前は忘れたが、防衛庁官房長まで務めた人は、何と非武装中立論者で、退職後、左翼の集会に出ていた。

 

後藤田正晴もその典型で、彼が中曽根内閣の官房長官だった頃、ある人が「憲法を改正し、自衛隊を国軍にしなければならない」と言ったら、後藤田は色をなして、「五一五、二二六で警察官は軍人に殺されたのだ」と言ったという。

 

また九・一一テロの後、町村信孝氏などの自民党政治家が、「皇居・総理官邸・国会は、自衛隊が警備したらどうか」という意見を出したら、警察官僚が強硬に反対したという。もっとも、町村氏の父上の町村金吾氏は戦時中の警視総監だった。戦後、参院議員・北海道知事を歴任した人で、後藤田と違って風格にある人であった。

 

戦前の「ゴーストップ事件」以来というよりも、明治維新後、薩摩の城下士が軍、郷士が警察を牛耳って以来、軍と警察は仲があまりよろしくなかったようである。

 

さらにもっと根本的には、憲法問題がある。「占領憲法」の「平和主義」「国際協調」とは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。今後は武力・戦力・國軍を持たない。侵略阻止のための武力行使はしないし、国防戦争もしない」という敗北思想である。

 

有り体に言えば「日本は軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という観念が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しない」という虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。

 

 「占領憲法」の『前文』の精神に基づいて、第九条の「國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権はこれを認めない」を読めば、この規定は、「現行憲法」が自衛権・國防軍の存在を否定していると解釈するのが至当である。

 

「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定していない、などという議論は、曲解である。

 

 『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソに対して立ち向かうことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

 しかし、現実にわが國に存在する自衛隊は事実としては、立派な陸海空軍によって構成される國軍であり、武力の行使又は威嚇を行う組織であり、戦力も交戦権の保持している。

 

 そして、この自衛隊という名前の陸海空軍によって、わが國の安全・独立・治安が守られている。この事実は、自衛隊が違憲であるか否かに関わらず、厳然たる事実である。そしてそのことは、国民大多数の合意になっている。「現行占領憲法」が如何に現実を無視しており、空文となっているかは火を見るよりも明らかである。

 

 吉田茂総理(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べている。これが『現行占領憲法』の立法意志であり、まともな解釈である。

 

 したがって、「現行憲法」がある限り、自衛隊は憲法上軍として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」という絶対矛盾の存在であり続けなければならないのである。國防に関してはわが國は法治國家ではない。

 

「現行憲法」を守り続けるということはこの欺瞞的状況を変えないということである。

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し実現するために國防力・軍事力が不可欠である。

 

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『笹川平和財団主催セミナー・独裁主義体制の挑戦:中国、ロシアとリベラルな国際秩序への脅威』におけるアーロン・フリードバーグ氏(プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール教授)の講演内容

昨年十一月一日に開催された『笹川平和財団主催セミナー・独裁主義体制の挑戦:中国、ロシアとリベラルな国際秩序への脅威』におけるアーロン・フリードバーグ氏(プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール教授)の講演内容は次の通り。

 

「リベラルな国際秩序は、とりわけ個人の自由が大事。個人の権利は神聖である。アメリカの『独立宣言』はこれを端的に表現している。理想的な国際秩序はリベラルな民主国家から形成される。二十世紀になってアメリカのビジョンが台頭。リベラルな国際秩序作りをした。概ね西側と言われる自由な国家、軍事、経済の枠組みが出来た。ロシア・中国は条件を満たしていなかった。自由民主主義体制ではなかった。これによって今の危機に至っている。

 

ロシア・中国の国内は自由化していない。中国は自由化など全く考えていない。政治的コントロールの縛りを強くした。ロシアは改革の第一歩から駄目であった。中国とロシアは重要な部分が似ている。独裁体制であり、自由な選挙もない。市民の自由を保護することはない。両国とも勢力圏を確立しようと思っている。ロシア・中国共にグローバルな野心がある。アメリカと同等であると主張し始めている。ロシアは西側同盟を分断しようとしている。

 

『中国は経済発展すれば自由化する』と思われていたが、そうはならなかった。中国は豊かになったが、以前よりも抑圧的になっている。中國ロシア共に今の道を続けることが出来ると思っている。それが我々にとって大変な挑戦になっている。新しい技術ができることが政治の自由化につながらないということである。希望的観測を持ってはいけない。中国が主導してグローバルな秩序が作られるという事は少なくとも近い将来にはない。

 

中国の経済成長がこのまま続くと考えるのは間違い。先進国の経済力を合算した国力は中国の国力に勝っている。地域で中国がどういう行動をとるかを注視すべし。アメリカの役割は非常に大事。ユーラシア大陸に『一帯一路』という大規模投資をしている。これがうまくいくが疑問があるが、深い野望がある。日米がその中に入ってコントロールできると考えるのは誤り。日米は代りのプロジェクトを推進し、透明性を確保し、効率を高めるべし。我々のプロジェクトを進めるべし。

 

優れたバランスオブパワーを維持するために日米同盟は重要。日本が防衛力を高めているのは前進。他の民主国家・インド・オーストラリアを含めて多国間の防衛協力を強化すべし。アメリカがイラクと戦争したのはワーストであった。戦争しない方が良かった。アメリカのビジョンを弱めた」。

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千駄木庵日乗二月二日

午前は、諸事。

午後は、菩提寺にて執行された、『節分会法要』に参列。そして四宮家の墓所に拝礼。

帰宅後は、原稿執筆、校正。原稿執筆の準備など。

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2018年2月 2日 (金)

元宮内庁総務課長・故大野健雄氏の正統なる天皇論

内閣官房副長官といふ官僚の最高位に昇りつめ、政治家としても内閣副総理といふ枢要な地位についた故後藤田正晴氏は、國務大臣などの政治家は天皇の臣下ではないといふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣という名前を変えたらどうか。誰の臣下ですか?行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

 

これは天皇を君主と仰ぐ建國以来のわが國國體を否定し、「現行占領憲法」体制下においても、わが國は立憲君主制であるという自明の理を否定する発言である。

 

後藤田氏はまた、「私が役人になった戦前は天皇制であり、当時は官吏といわれていた。…統治権を構成している一員の立場にあり、一方、國民は被治者の立場にあった。…ところが現在は新しい憲法によって國民主権が確立し、役人は全体の奉仕者つまり國民に対してサービスを提供する立場にある。戦前と比較すれば、主客転倒した関係になった」と述べた。(『政治とは何か』)

 

後藤田正晴氏は、大正三年八月九日生まれ。昭和十四年、東京大學法學部卒。内務官僚であり、軍隊経験もあった。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点に立った後藤田氏がこのやうな発言をしたのである。

 

大正五年生まれで、京都大學法學部卒業、昭和十四年内務省採用、宮内庁総務課長、京都府県警察本部長、近畿管区警察局長を歴任された大野健雄氏の著書『なぜ天皇を尊敬するのか─その哲學と憲法』の「憲法篇・第四章 天皇は君主である」において次のやうに論じてをられる。

 

「天皇は君主である。当然過ぎる位当然で題名にすること自体如何かと思われるのであるが、君主ではないなどという日本人がいるので事がややこしいのである。それも精神病院にでもいるというのなら話は分るが、一応世間的には學者という事になっている人物なのでまこと慨嘆に堪えない訳である」と論じてゐる。

 

「世間的には學者という事になっている人物」のみならず「世間的には政治家それも内閣副総理といわれた人物」にも、天皇は君主ではあらせられないと思ってゐる人物がゐたのである。まことにもって慨嘆に堪へない。

 

憲法学者の宮沢俊義・清宮四郎両氏が「天皇が『君主に共通な標識』を持ってゐないから、天皇は君主ではなく日本國は君主制ではない」と説いてゐることについて大野氏は、「宮沢、清宮両氏の標識と称するものも…ヨーロッパ諸國の君主について、歴史上見られたと思われるものを抽き出したもので別に大した権威のあるものとは思われず…我が日本の國に適用せらるべき標識とは思われない。」と論じてをられる。

 

ちなみに、宮沢俊義氏のいふ『君主に共通な標識』とは「a独任機関であること b統治権の主要な部分、少なくとも、行政権を有すること、c対外的に國家を代表する資格を有すること d一般國民とは違った身分を有し、多くの場合その地位が世襲であること eその地位に傳統的ないしカリスマ的な威厳が伴うこと f國の象徴たる役割を有すること」であるといふ。

 

大野氏は、「天皇は立法権に対しては日本國憲法第七条の國會の召集権、衆議院の解散権をお持ちになり、六条によって行政府の長たる内閣総理大臣を任命し給い、さらに司法に対しては最高裁判所の長たる裁判官を任命し給う。これ等は統治権の最も重要な部分と言わずして何ぞや。…天皇の権威にして初めて有効になし能うのであって、天皇以外何人もなし得ないものである」

(外國大公使の接受)とは外國の代表である大使公使の信任状の奉呈を受け給うことを含む極めて重要な天皇の大権であり、単なる儀礼的なことではない」

「十九世紀のヨーロッパの覆滅常ならざる諸君主に共通すると称する標識の解釈によってはじめて君主であらせられるのではなく、天皇は太古以来『おおぎみ』にましまし、君主でない天皇など日本國民にとって夢想だにできるものではない」

「前述の標識の如きは、本来天皇が勿論君主であらせられることを大前提としてそれに適合するような解釈を施すべきであり、もしそれが困難な標識ならば標識の方が間違っているものとして捨て去るべきである。…天皇はもとより君主にましまし、わが國は日本國憲法のもとにおいても立憲君主國であって、象徴的君主制ということができよう」と論じてゐれる。まさに正論である。

 

今日、グレートブリテン・北アイルランド連合王國(イギリス)、スウェーデン王國、オランダ王國など自由民主政治が行なわれている國の君主は、言ふまでもなく専制君主ではない。また政治的実権を持っていない。しかし、國民から君主と仰がれてゐる。「政治的実権を持たないから君主ではない」などといふことはない。

 

日本天皇の「憲法上の御地位」は、独任機関であり、國事行為といふ統治権を有し、対外的に國家を代表する資格を有し、一般國民とは違った身分を有し、その地位はいはゆる世襲であり、傳統的な威厳が伴ひ、國の象徴たる役割を有してゐる。現行占領憲法上の天皇の御地位も、宮沢俊義・清宮四郎両氏がいふ『君主に共通な標識』を十分に充たしてゐる。

 

「現行憲法」においても、天皇が君主であり日本國は立憲君主國であるといふことはあまりにも明白な事実である。ただし、わが國を弱体化する事を目的として銃剣の圧力で押し付けられた現行占領憲法の『天皇条項』が日本國體の真姿を正しく明確に成文化してゐるとはいへない。

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2018年2月 1日 (木)

千駄木庵日乗二月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆・脱稿・送付。

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『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』参観記

本日参観した『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』は、「御室桜で知られる仁和寺は、光孝(こうこう)天皇が仁和2(886)に建立を発願し、次代の宇多天皇が仁和4(888)に完成させた真言密教の寺院です。歴代天皇の厚い帰依を受けたことから、すぐれた絵画、書跡、彫刻、工芸品が伝わります。創建時の本尊である阿弥陀如来像(国宝)は、当時もっともすぐれた工房の作品です。また、高倉天皇宸翰消息(国宝)は皇室との深いかかわりを物語るものです。本展覧会では、仁和寺の寺宝のほか、仁和寺を総本山とする御室派寺院が所蔵する名宝の数々を一堂に紹介します」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・仁和4年(888)」「宇多法皇像 江戸時代・慶長十九年(一六一四)」「秘仏本尊国宝 薬師如来坐像 円勢・長円作 平安時代・康和五年(一一〇三)」「国宝高倉天皇宸翰消息 平安時代・治承二年(一一七八)「国宝 三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)空海ほか筆 平安時代・九世紀」「国宝 孔雀明王像 支那 北宋時代・十~十一世紀」「重要文化財 金銅火焰宝珠形舎利塔(こんどうかえんほうじゅがたしゃりとう)鎌倉時代・十三世紀」「重要文化財 僧形八幡神影向図(そうぎょうはちまんしんようごうず)鎌倉時代・十三世紀」「秘仏本尊国宝 十一面観音菩薩立像 平安時代・八~九世紀 大阪・道明寺蔵」「秘仏本尊 重要文化財 如意輪観音菩薩坐像 平安時代・十世紀 兵庫・神呪寺蔵」「後嵯峨天皇宸翰消息 鎌倉時代寛元四年(一二四六)」「後宇多天皇宸翰消息 鎌倉時代 徳治二年(一三〇七)」「「後醍醐天皇宸翰消息 鎌倉時代 元徳元年(一三二九)」「伏見天皇宸翰唯識三十頌 鎌倉時代 十四世紀」「後光厳天皇宸翰消息 南北朝時代 応安三年(一三七〇)」「後陽成天皇宸翰一行書 安土桃山時代~江戸時代」「桜町天皇宸翰般若心経 江戸時代 寛保三年(一七四三)」「光格天皇宸翰和歌懐紙 江戸時代 文政六年(一八に三)」「彦火々出見尊絵 狩野種泰筆 江戸時代 十七世紀」などを拝観。

 

仁和寺の仏像をはじめ全国の御室派(おむろは)寺院の普段は公開されてゐない数多くの「秘仏」、そして、歴代天皇の宸翰、弘法大師空海の書などを拝観することが出来た。仏像はやはり観世音菩薩像が多かった。これほど多くの宸翰を拝観し、且つ国宝・重要文化財の仏像を一度に拝観したのは初めてのことで大変有難かった。

 

「宇多法皇像」は、右手に倶利伽羅龍剣(くりからりゅうけん・不動明王を象徴する持物)を持たれている。れは法皇が真言密教の行者であられることを表わしている

 

仁和寺は光孝天皇の発願で建立され、光孝天皇の第七皇子・宇多天皇により完成された真言密教の寺院である。天皇の住まわれる室は御室と呼ばれ、やがて仁和寺の別称となった。「国宝 阿弥陀如来坐像」という創建当時の仏像が今も伝わっている。その後、皇族が門跡(皇族の住職)を務めるなど、皇室と深い関わりがある寺院である。そのため、天皇・皇族の御直筆の書が数多くのこされている。

 

「桜町天皇宸翰般若心経」の末尾には「大日本國天子昭仁敬書」と記されている。桜町天皇は江戸時代中期(徳川吉宗が将軍であった頃)の天皇であらせられ、大日本国の上御一人・天子としての御自覚を強く持ってられた天皇であらせられる。御幼少の頃から厩戸皇子(聖徳太子)の再誕と讃えられるほどの英明な天皇であらせられた。朝廷の儀式再興に力を尽くされ、大嘗祭を復活された。

 

仁和寺は、応仁の乱(1467-1477年)で伽藍は全焼したが本尊の阿弥陀三尊は持ち出され、焼失を免れた。寛永年間、仁和寺第二十一世覚深法親王(後陽成天皇の第一皇子)の申し入れにより、德川幕府三代将軍・徳川家光によって伽藍が整備された。そして、寛永年間の御所建て替えに伴い御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築された。このように、仁和寺は、朝廷の尊崇が極めて篤かった。

             ○

『やまと新聞』に、桃園天皇御製について書かせていただきました。

 

 

 

 

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千駄木庵日乗一月三十一日

朝は、諸事。

午前十一時より、永田町の衆議院第二議員会館にて、竹本直一衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

この後、上野公園の東京国立博物館平成館にで開催中の『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』参観。

帰宅後は、原稿執筆など。

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