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2018年1月21日 (日)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公・寛政十二<一八〇〇>~萬延元年<一八六〇>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

藩政改革に燃えた徳川斉昭は、天保十二年(一八四一)に弘道館を創立した。弘道館が創設されやうとしてゐた時期は、丁度阿片戦争が勃発し、イギリスの東亜侵略がますます活発化してゐた。支那が侵されれば次はわが國である。水戸における尊皇攘夷の精神の興起はまさにさうした危機的状況における國家防衛精神の勃興であった。

 

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来たるといった情勢にあった幕末のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩、そして後に徳川幕府のために奮闘した會津藩もかうした教育振興策が講じられた。

 

 徳川斉昭が天保三年(一八三八)三月、弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられてゐるといふ。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八〇六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館記述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛へられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されてゐるやうに、『館記』の草案は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいといふ志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなはっている大道)にして、生民の須由も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、蕃夷戎狄、之を以て率服(服従)す。……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へ(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考へ)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の靈も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせやうとしたのである。『館記』には水戸學の精神が端的に表現されてゐる。

 

荒川久壽男氏は「烈公の新政は…尊皇と民政と國防の三大眼目に集中する。これは言葉をかえれば藤田東湖が、日本の政治の最大焦点を、敬神・愛民・尚武の三点に要約したところでもあった。しかしながら、この三事三点を貫き、その根底をなすものは正しい學問と教育でなければならぬ。正しい學問と教育があってはじめて尊皇にも目覚め、愛國の意識も育ち、人間尊重の政治も行われる。ここに烈公は水戸藩の學問教育の振興を目ざし、水府大學ともいうべき弘道館の建設を計画した。」(『維新前夜』)と論じてゐる。

 

「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。『弘道館記』に「神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り」とある通り、神州の道を第一とし、儒教は第二と考へた。しかしながら、外来思想・文化・文明を一切排斥するといふ考へ方ではなかった。

 

藤田東湖はその著『常陸帯』で、「皇朝の風俗萬國にすぐれて貴しと雖も、文字を初め萬事の開けぬるは漢土の勝れぬる所なり。其勝れたる所を取りて皇朝の助とせん事何の耻ることや有るべき、銃砲は西北の夷狄より渡りぬるものなれども、之を取りて用る時は夷狄を防ぐべき良器なり。漢土の教を取りて用る事これに同じと、我君常に宣ふは御卓見と申すべし」と論じた。

 

日本は、古来、外来文化・文明を包摂してきた。そのことが日本文化・文明をより洗練せしめ高度にものにしてきた。しかし、その根底には、日本傳統精神を厳然として固守する根本姿勢があった。

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