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2018年1月10日 (水)

「剣魂歌心」がわが國の武人の伝統

劒太刀(つるぎたち) いよよ研()ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負ひて 來にしその名ぞ   

                          

 『萬葉集』に収められた大伴家持の歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」といふほどの意。

 

「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じやうに大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないやうにすべきだといふ意がある。「族に喩す歌」の結論のやうにことが歌はれてゐる。

 

「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」といふやうに極めて断定的な強い表現になってゐるところに家持の毅然たる態度と意志がある。

 

 須佐之男命・日本武尊以来、日本のもののふ・ますらをは、常に剣・太刀を持ち「やまとうた」を詠む伝統がある。武門の名門の棟梁たる大伴家持もその典型である。

 

 「剣魂歌心」とは日本のもののふのあるべき姿を言った言葉であって、剣を持つ者の魂と歌を詠む者の心は一つであるといふほどの意である。剣を持つ者は歌を詠まねばならないし、歌を詠む者は剣を持たねばならないと言ってもよいであらう。

 

 この「剣魂歌心」の元祖的御存在が、須佐之男命であらせられる。そしてその次が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。

 

 天照大神の御弟君であらせられる須佐之男命は、出雲の國で八俣の大蛇を退治されて、稲田姫をお助けになり、お二人が結ばれて共にお住まひになる宮を造られた時、

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

 

 といふ歌を詠まれた。「おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を造る。ああその八重垣よ」といふほどの意であるが、この歌は和歌の発祥といはれてゐる。

 

須佐之男命は猛々しい武人であらせられると共に、わが國の伝統文芸である和歌の元祖的御存在でもあらせられるのである。

 

日本武尊は、御父君・景行天皇の御命令で東夷の反乱を水火の難を冒して平定し給ひ、その御東征の帰途、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)のもとに、草薙の剣を置いて来る。そして、伊服岐山(いぶきやま)の神を平定されようとするのだが、剣を置いてきたことが命の運命を悲劇にする。そして、能煩野(のぼの・今日の三重県鈴鹿郡)で病となられ薨じられる時、

                      

 孃子(をとめ)の 床の辺()に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

   

 といふ歌を詠まれた。「乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ」といふほどの意。その草薙の剣を美夜受姫は永く祭られる。その神社が熱田神宮である。

 

 日本武尊のこの御歌について、萩原朔太郎氏は、「ホーマー的ヒロイックな叙事詩(英雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな叙情詩(恋愛詩)の詩操と、二つの對蹠的な詩情が、一つに結合融和して現はれてゐる。そしてこの一つの精神こそ、所謂『戰にも強く戀に持つ良い』天孫大和民族の原質的な民族性で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となってゐる。」(朔太郎遺稿)と論じている。

 

保田與重郎氏は、「武人としてのその名顕な日本武尊の辞世にむしろ耐へがたい至情を味ふのである。わが神典期の最後の第一人者、この薄命の武人、光栄の詩人に於ては、完全に神典の自然な神人同一意識と、古典の血統意識とが混沌してゐた。」(戴冠詩人の御一人者)と論じてゐる。   

                   

 須佐之男命も日本武尊もわが國の武人の典型であられると共に、わが國の詩人の典型であらせられた。まさしく「剣魂歌心」がわが國の伝統なのである。そしてその心は皇室によって継承されてきたのである。大伴家持もこのやうなわが國の武人・詩人の伝統を継承してこの長歌と短歌を詠んだのである。

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