« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 「第八十回日本の心を学ぶ会」のお知らせ »

2018年1月 7日 (日)

徳川慶喜と鳥羽・伏見の戦ひ

徳川慶喜が松平容保などを従へて、大阪城を離れ、船で江戸に帰ったことについて、最近のテレビドラマや歴史番組で虚実取り混ぜて面白おかしく描かれ論じられている。

 

『トンヤレ節』が、「音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば トコトンヤレ、トンヤレナ 城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐるのは、徳川慶喜にとっていささか酷ではないかと私は思ふ。

 

徳富蘇峰はその著『明治三傑』において次のやうに論じてゐる。「彼(注・慶喜)が維新の際に戦い得べき陸海の兵を有しながらあたかも平家軍が富士川の羽音に潰送し去ったごとく、目覚ましき戦闘を交ず、ほとんど無血開城をなし、自ら恭順して官軍に無条件降伏をなしたるは、いかにも幕府軍からいえば歯痒き極みであるが、しかも後年慶喜はその心事を語って曰く、『予は幼き時より、わが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸藩は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤に抽んでねばならぬ。』と。予は常にこの遺訓を服膺したが、いったん誤まって朝敵の汚名を受け、悔恨おのずから禁ぜず、ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである』と。…薩長が容易にその目的を達したるについては、けいきのこの無抵抗主義が、与って大にいるとはいわざるも、また力ありということを認めねばならぬ。」と。

 

また『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は、鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

内憂外患の除去のためには天に二日なき天皇中心帰一国家建設が絶対に必要であった。鳥羽・伏見の戦ひで錦旗を畏んだのは幕府軍だけではない。一般國民も、現御神日本天皇の御稜威を畏んだ。

 

孝明天皇様の賀茂行幸・石清水行幸によって、一般民衆の尊皇精神が興起し、御一人日本天皇を日本国の君主と仰ぐ、一君萬民の國體が明らかに回復された。

 

鳥羽・伏見の戦ひで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のやうに記してゐる。

 

「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 

内憂外患の除去、国際関係の危機打開のためには天に二日なき天皇中心帰一の統一国家建設が絶対に必要であった。東洋制覇の野望に燃える欧米列強に対抗するには、鎖国や世襲的階級制度を墨守してゐては、とても国難を打開することは不可能であった。徳川幕府は、攘夷を断行するにせよ、開国を断行するにせよ、これを断行する主體的能力のある政権ではなくなったといふことである。

変革は武力なくしては達成できない。しかし、わが国伝統精神に基づく変革即ち日本的変革=維新は、神代以来の天皇の神聖権威とそれに畏こむ臣下国民の尊皇精神がその原基なのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、神代以来の國體を体現者・継承者としての権威を保持する御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるやうになったのである。開国も攘夷も、天皇中心の統一国家の建設によってこそ実現するのである。明治維新によってそれは現実のものとなった。

 

|

« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 「第八十回日本の心を学ぶ会」のお知らせ »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 徳川慶喜と鳥羽・伏見の戦ひ:

« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 「第八十回日本の心を学ぶ会」のお知らせ »