« 千駄木庵日乗一月四日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月五日 »

2018年1月 5日 (金)

「やまとうた」の本質

 

歌人の北久保麻里子さんは、『日本経済新聞』平成二十九年(昨年)十月二日号に掲載された「三十一文字世界の響け」という文章で、「三十一文字(みそひともじ)の韻律は、言語の意味を超えて人の心を揺さぶる。朗読を始めた瞬間、私という存在は消えて、ただ言葉の響きだけになるのが究極の形だろう。そのとき初めて、歌心が聴き手の魂に届くのだと思う。一生かかっても至り得ない境地かもしれないが、努力を続けて行きたい」と書いておられる。

 

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋な最も固有な文藝である。『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。

 

『古今和歌集』の「仮名序」には、

 

「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

『古今和歌集』の「仮名序」は、紀貫之が執筆し、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。紀貫之は、平安前期の歌人、歌學者、三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。醍醐天皇の勅命による『古今和歌集』撰進の中心となった。

 

和歌は人のまごころを表白した歌が抒情詩である。和歌は日本民族のまごころのしらべである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出した。

 

歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを三十一文字にして固め成して鎮める働きをする。

 

明治天皇御製

「鬼神も泣かするものは世の中の人のこころのまことなりけり」

「まごころを歌ひあげたる言の葉はひとたび聞けば忘れざりけり」

 

「鬼神の」の御製は、歌の力の偉大さを論じた『古今和歌集』の「仮名序」を踏まへられてゐると拝する。この御製で大事なのは、「人の心のまことなりけり」と示されてゐることである。単なる文藝作品なら虚構が許されるのかもしれないが、歌はそうではない。「人のこころのまこと」を歌はねばならない。自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころを歌はねばならない。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが國文學の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

 

和歌には、五・七・五・七・七といふ音数律(音節の数によってつくられる詩歌のしらべ。五七調・七五調など五音と七音の組み合せによる場合が多い)以外には、決まりごとは無い。音数にしても許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる。連歌俳諧のやうな季語の制約もない。音数律といふ型をおおよそ踏まへてさへいれば、自由に詠んで良い。

 

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられた。「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるのである。したがって、やまと歌は朗々と歌ひあげることが大切である。

 

 

 

 

 

 

|

« 千駄木庵日乗一月四日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月五日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/66242107

この記事へのトラックバック一覧です: 「やまとうた」の本質:

« 千駄木庵日乗一月四日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月五日 »